Right Action

11.

 先にシャワーを浴びる、といって千歳が消えて行ったドアを、じっと眺めた。
 やたらと柔らかくて大きいベッドと、安っぽい照明と、合皮の奇妙な色をしたソファを交互に眺め、買ってきた缶ビールを開ける。
 いつもの音がして、少し気持ちが落ち着いた。いかなるときでもビールは美味い。
 ラブホテルに来た回数は数えるほどで、まさか会社の後輩とくるなんて思いもしなかった。男同士で入れることも知らなかったし、千歳が慣れた様子でチェックインしていくのも意外だった。仕事関係の人間に見られたどうしようか、と考えて様子がおかしいおれに対して、千歳は
「酔って、前後不覚になったから男同士でラブホいったんです~ってネタにすればいいじゃないですか」
 と、まるで塾をさぼりなれている小学生の言い訳のように言い放った。
あまりにも堂々としているので、次第にうろたえている自分が恥ずかしくなってきて、今や、こうしてのんきにビールなど飲んでいる。まあ、ビール程度で酔うことなんてできないし、気休めにもならないが……。
 十分も経たないうちに千歳が出てきて、頭が濡れそぼったままおれの前に立った。眉をひそめて、おれが本当にそこにいるのか確かめるような顔で。
「頭ぐらい拭けよ。床が濡れるぞ」
「……すみません。もしかして、僕が風呂に入ってる間に逃げちゃうんじゃないか、って思って…」
 視線を落とし、おれが握っていた空き缶を奪って、ローテーブルに置く。おれもシャワーを浴びよう、と考え千歳の横を通り過ぎようとすると、手首を掴まれてベッドに押し倒された。腰を痛めそうなぐらい柔らかいマットレスが波打って、両手首を握ったまま圧し掛かってくる、千歳の顔をぼやけさせた。
「冷静ですね。もっといろいろ暴れたり、わめいたりするのかと思ってました」
 近くで見ると、千歳の少年ようなつるりとした頬に、うすい黒子があった。口角の上がった唇と、小ぶりで整った鼻梁、黒目がちなまるい目。女性ウケするのも頷ける。
「逃げも暴れもしないから、風呂を使わせてくれ」
「あなたはダメです。――匂いも知りたいから」
 おれが顔をしかめたのを無視して、千歳はネクタイに指を入れ、引き抜いた。肩を押してやろうかと思ったが、あまりに必死な顔でボタンを外していくので、あきらめて力を抜いた。
「いいシャツですね。ネクタイもフェンディだし。影浦先輩ですか」
「あいつが勝手に破いて、勝手に買ってくる」
 手が止まったのは一瞬だった。憎々しげに両袖のボタンを外し、シャツをはぎとられた。自分で脱ぐ、とベルトに手をかけようとすると止められ、耳元でささやかれた。
「成田先輩は何もしなくていいですよ」
 ベルトを外し、スラックスを脱がされ、下着だけの姿になった自分が、天井の鏡にうつっている。足のあいだに入り込んだ千歳は、ためらいなくおれのものを下着から取り出し、ゆっくりと擦った。みるみるうちに充血してはりつめていくそれを、信じられない気持ちで眺めた。おれは本当に、ゲイなんだ、と自覚する。影浦が特別だというわけではなく、性愛の対象が男なのだ。
 両手をついたまま上半身を起こす。千歳が顔をあげて目が合い、みせつけるように口淫されて目を閉じた。息が乱れ、身体が熱くなってくる。千歳の指は影浦よりもやさしく、やわらかく竿を往復して、舌のうごきもしつこく、いやらしかった。先のまるいところを執拗に吸われ、舐められる。こらえきれない声が漏れて、そのまま後ろに倒れた。開いた足のあいだで千歳が「やっべ、かわいい」とつぶやく。何が可愛いんだ。目が可笑しいんじゃないのか。
「あ、……千歳……っ、ダメだ」
「ダメ?イイの間違いでしょ。声我慢しないで。イイならイイって言って」
 影浦にやられるとき、意地のほうが先だってしまって、声なんて死んでも出してたまるか、と思うのに今は違う。それはたぶん、千歳の視線のせいだった。
「成田先輩、言って。教えて、なんでもしてあげますから」
 こんなに熱っぽく誰かに見つめられたことがない。好きだと言われたときは半信半疑だったけれど、もはや疑う余地はなかった。
「いい……、きもちいい」
 千歳が唇を舐めて伸びあがってきて、そのままおれにキスをした。やさしく髪をなでられ、舌を吸われて噛まれる。中途半端なまま放り出されたところが熱く疼いた。もっと触ってほしい。手で、口で、いけるところまで。
「エロい顔。こんな身体してるのに、よく今まで無事だったなって思いますよ。あ、無事じゃねえか。よりにもよって影浦先輩に食われちゃったけど」
 息苦しいほど腔内をむさぼられ、やっと解放されたと思ったら、鎖骨のくぼみを舐められる。てのひらがせわしなく身体を探り、ひとつひとつの筋肉をたしかめるみたいに撫でられた。見たことがない真剣な顔は研究者のようだ。かわいく思えてきて、頭をそっと撫でた。黒い、くせのある髪。影浦のものと違う――
 目が合うと、無垢な視線がかえってきて怯んだ。その眼は、純粋に「なぜ」と問いかけてきていた。
「悪い……かわいいな、と思って」
 顔を背け、眼をそらす。おれは今残酷なことをしているんだろうか。好きだと思いを伝えてきた後輩と、その気もないのに寝るなんて、優しくするなんて。だからクズだと罵られるのだろうか。
「ごめん、……っあ!」
 胸の先を舌で転がされて、身体が跳ねた。下着も脱がされ、裸になった身体に千歳が覆いかぶさってくる。さっき放置された、中途半端に硬いままのものに右手がのびてきて、乳首を甘噛みしながらゆるく扱かれる。
 千歳の唇は全身をくまなく渡り歩き、そこかしこに痕を残して離れていく。すっかり熱くなって、もっと強い刺激がほしくて身もだえしているおれに気づいているくせに、裏返したり、四つん這いにさせたりしながら、しつこく舐められ、キスされ、噛まれた。男は影浦しか知らなかったから、当たり前のことだけれども「それぞれやり方が違うんだな」と思った。影浦とのそれが嵐のような殺し合いなら、千歳のは凪いだ、風のない日の湖みたいだと思った。
 後ろに指が入ってきたとき、思わず息をつめて力が入った。指はその緊張を感じ取ったのか、少しずつ中を開いた。
「成田先輩……本当は後ろからしたほうが、楽だと思うんですけど。ちょっともう我慢できなくて、前からしていいですか」
 ローションで溶かされた入口に硬くなった先を何度もこすりつけられ、思わず腰が揺れる。
「顔、見ながらしたい」
 上ずった声で千歳が言った。
 もう息も絶え絶えだったから、声もなく頷く。さすがに余裕がないのか、千歳は苦しげな表情でゴムを手に取り、手早くつけた。それも影浦との違いだな、と思った。あいつはおれと寝るとき、避妊なんかしたことがない。まさに、『いつでも好きにできる穴』の扱いだった。
 足首をつかんで抱え上げられ、正面から千歳が入ってきた。のけぞって無意識に身体が逃げようとするのを、腰を掴んで引き寄せ、ぐっと奥に突き入れられる。
「あっ、ああ……、千歳」
「うわ……成田先輩とセックスしてる。信じらんねえ……」
 足を広げられ、腰の下に枕をさしこまれて、上から叩きつけるように犯された。水音と肌がぶつかる音が耳からも犯してきて興奮した。気持ちよかった。影浦じゃなくても、気持ちいい。もしかしたらおれは、誰でもいいんだろうか?いや、そうじゃない。多分、「愛されていると分かるセックス」だからこんなにも安心で、気持ちがいいのだ。
 それならどうして、と頭の片隅で疑問が点滅する。
 ――どうして、弟のことでも千歳のことでもなく――影浦のことばかり考えるんだろう。
「成田先輩、好き。好きです。すっげえ好き、成田先輩」
 千歳の頬に赤みがさし、そこに汗が流れて、ぽつりとおれの顔に落ちた。揺さぶられながら手をのばして、鼻の先の汗を拭う。髪に指を入れ、はりついた前髪を横に分けると、正常位で突いていた千歳は身体を倒して覆いかぶさり、キスをしながら激しく腰を動かした。
「ん、んんっ、あ、いく、……いくっ」
「いいよ、僕のでイって。成田先輩」
 先におれが達して、それから、好き放題に動いた千歳が、気持ちよさそうに目を閉じて震えた。
「っは……はあ、だめだ、一回じゃぜんぜん足りない。ねえ、いいでしょ、もう一回…」
 後ろから横抱きにされてぐったりしていると、千歳が額をこすりつけながら顎をとり、振り向かせた。長い睫毛の先に、汗がたまっている。それを手の甲でこすってやってから、「ああ」と返事をした。千歳は全く遠慮をしなかった。おれはそのあと二回、千歳の欲望を受け入れた。

 枕もとに置いていた、電話が鳴っている。
 着信音を人によって変えるとか、そういう面倒な工夫は一切していないので、誰からなのか分からない。
 しつこい呼び出し音の後、うるさくなって電源ごと落とすと、隣から手を握られた。
「明日休みですよね。今日は、帰らないで。泊って行ってください」
 うつ伏せのまま、声がした方へ顔を向ける。千歳はシャワーを浴びてきたのか、さっぱりとした顔に少しだけ疲れをにじませて微笑んでいた。
「今、何時だろう」
「夜中の二時です。あ、ホテル出るときは僕が出てしばらくしてから、裏口から出たらいいですよ」 
 布団をかけられ、くるむようにしてから抱きしめられた。
 やさしく、丁寧に、愛情を持って触られた。それが分かるからこそ、何を言えばいいのか分からなかった。
 胸の奥に重い後悔が押し寄せてきて、枕に顔を押し付けた。
「おれと寝たら、何か分かったのか」
 問われる前に問いかける。千歳は寝返りをうって仰向けになってから、そうですね、少し、と低い声で言ったきり、黙ってしまった。
 体は疲れていて眠いはずなのに、意識は覚醒していて眠気がやってこない。おれは何度か寝返りをうち、水を飲んでから、「千歳」と小さい声で呼びかけた。
「はい、起きてますよ。もし眠れないなら……成田先輩の話をきかせてください」
 千歳の声は切実な響きがあって、こたえたいと思ってしまった。
「たとえば、どんな?」
「そうですね。家族の話、とか」
 おれは逡巡してから、窓の外を見た。ラブホテルの外側に見えるのはわずかな街のネオンだけで、さっきまでギシギシうるさかったベッドもすっかり静かになっている。

 ――はじめは嫌いだったんだ。
 弟のことも、新しい父のことも。
 いきなりおれの生活範囲にはいってきたくせに、家族面して、うっとうしくて仕方がなかった。おまけにおれの趣味にまで勝手に立ち入ってきて……


「こんな話、興味ないよな。悪い」
「そんなことない。ききたいです」
 話しながら、おれは影浦のことを何も知らないということに気づいた。神戸に行ったとき、車の中で少し兄姉の話を聞いたぐらいで、どんな家族と、どんなふうに過ごしてきたのか、おれは何も知らない。からだのかたちや肌の温度は、もう嫌って程知っているのに。
「ジャイアンツカップの決勝、観てたんだろう。あの日よりもずっと前から、おれはチームメイトに嫌われていて、ほとんど口をきいてもらえない状態だった」
 正直に言って、それを「辛い」とか「苦しい」と思ったことはなかった。純粋に不思議だった。こいつらは、おれが投げて誰にも打たれないから勝てているのに、一体何が不満なんだ、と思っていた。
 おれの言葉に千歳が絶句して、それから、少し笑った。
「本当だったんですね、仲間を球拾いだとおもってた、って」
「そこまでひどくない。でも、無能のくせに口だけは立つやつ、打てもしない飾りみたいなバッターのことは、チームメイトでも名前もおぼえられなかった。今思えば、本当に傲慢で、ひどいやつだったと思うよ」
 ただ投げるのが好きだった。誰のバットにも当たらずに、ミットに吸い込まれていくあの音が好きだった。誰にもあの場所を譲りたくなかったし、誰の言葉にも耳を貸さなかった。あのころ唯一仲が良かった四番バッターの二ツ町だけは、おれに何度か苦言を呈した。
『おまえ、野球って仲間とやるスポーツなの分かってる?投げりゃあいいってもんじゃねえんだよ』
『成田は集団スポーツ向いてねえな』
 二ツ町と親しくしていたので、嫌がらせを受けたり、チームを追い出されたりすることはなかったが、誰も話しかけてこないし、おれからも話しかけなかった。
「そんなとき、周平がチームに入ってきたんだ。試しに投げてみたい、っていってマウンドに上がって、あいつが最初の一球を投げたとき……監督の眼の色が変わった。おれもすぐに分かった。周平には特別な才能があるって」
 周平はすぐにチームメイトと馴染み、次第におれの居場所はなくなっていった。これまでの行いのせいだと言われればその通りだった。だからこそおれは何も言わずに、あの日マウンドを降りた。七回裏、ノーアウトで――一、三塁に走者がいる、あの状態で――。
「悠くんのピンチは、おれが助ける」
「じゃあ、絶対勝ってこい」
「任せて」
 無邪気にそういって笑ってから、ピッチャーマウンドに立った周平は、指で空を指し、明るく抜ける声で「ワンアウト」と叫んだ。その途端、それまではまるで覇気がなかった仲間たちが、眼に力を取り戻し、大きい声で「ワンアウトー!」と返して、闘志に火が点いたような顔をした。
 おれの後を追って野球を始めてからも、数年は控えだった周平。だが仲間からの信頼やカリスマ性は比にならなかった。思えば小学生のころ、はじめて話した頃からそうだった。周平は人の気持ちに敏感で、やさしくて、ユーモアにあふれていた。まるで相手にしなかったおれの心を開いてしまったのと同じやり方で、誰にでも根気強く、笑顔で話しかけ続けた。
 あの絶望的な状況の中、チーム一丸となって周平を勝たせるために必死で戦った。これがエースなんだ、と身をもって感じた。周平が笑うとみんな嬉しそうに笑ったし、焦ると、チームみんなが焦っているような雰囲気になる。
 チームは無事優勝して、周平は走っておれに抱き着いてきた。
「悠くん、約束守ったよ!」
「……ああ、お前はすごいよ」
 おれには、あんな才能はない。嫉妬する気にもならなかった。ただまぶしくて、羨ましくて、あこがれた。ムチのようにしなる腕から繰り出される、誰もがなぎ倒されていく剛速球のストレート。内野も外野も、みんながあいつを信頼した。
「おれは、ただ投げるのが好きだっただけなんだ。誰かのために投げたことなんか一度もない。自分のためにだけボールを投げてた。それが……」
 千歳が起き上がり、おれをのぞき込んだ。顔は優しげだが、意志の強い眼だと思う。自分で決めたことは簡単に曲げない、そんな頑固さが見え隠れする顔で、千歳は言った。
「……スポーツっていつもそうですよね。誰か……例えばチームだとか家族のためだとか、絆だとか、そういうものを強要される。競技以外のものを背負わされる。この空気感、すごく窮屈で嫌いです。どうして自分のために投げちゃダメなんですか。どうして自分が楽しくて気持ちいいから投げてた、じゃ、ダメなんでしょうか」
 おれが考えていたことを見抜いたみたいに、千歳は目を細めてニッと笑った。
「もっとも、成田先輩はそんな風潮、くそくらえだって思ってたんでしょ」
 僕知ってますから、と千歳は言った。
「成田先輩はだれよりも努力してました。人よりも走って、投げて、筋トレして、研究してました。そしてそれを誰にも言わなかった。最高にかっこいいじゃないですか。自分のためだけに投げて、自分がここまでだと決めたからやめる。あなたのそういう…、言葉は悪いですけど、意志が強くて傲慢なところ。僕は、とても好きです」
 キスをされて、黙って受け入れる。反応を返さないおれに、千歳はすぐに離れていった。
「ごめん。千歳の気持ちには応えられない」
「謝らないでください。……不思議ですね、寝る前わからなかったことが、寝るとすんなり分かった気がします。あなたが誰を好きなのかとか、自分の気持ちとか……いろいろ」
 立ち上がった千歳は服を着替えて、ここに来る前と同じ格好になってから、横になったままのおれをみつめた。
「聞かせてくれませんか。もし、はじめに寝たのが影浦先輩じゃなくて僕だったとしたら、僕を……好きになってくれましたか?」
 落ち着いた声とは裏腹に千歳の眼は潤んでいた。おれは言葉を探し、視線をうろつかせてから決心して、首を振った。
「多分、もっと前から火はついていたんだ。あのライターをもらったときから、たぶん。でも気づきたくなかった。違うと思いたかった」
 千歳はくすっと笑った。
「苦労しますよ。あの人、他人をまともに愛したり、大切にしたりできないから。世界に自分ひとりしかいないんです。他人が深入りしたら傷つくだけだし、やめておいたほうがいい」
 そう言ってから、千歳はため息をついて肩をすくめた。
「もっとも、『やめておいたほうがいい』からやめられるなら、苦労しないんですけどね。ったく。なんでこんな人好きになっちまったんだろう」
 そう言って、片手で顔を覆った。
「本当にごめん。自分でもどうかしてると思う」
 もとより、この気持ちを影浦に伝えるつもりはない。伝えてどうなる?今よりもっとひどい状況になるだけだ。それならフタをして、きれいさっぱり忘れてなかったことにするほうがずっといい。
「あなたのこと、珍しい玩具としかおもってないんですよ。いままで自分が執着して得られなかったことがないから。思い通りにならないあなたを欲しがっているだけです。手に入ったらすぐ飽きて捨てられます。こどものわがままと同じなんです、分かっていますか」
「分かってる。だから何もするつもりはない。返済が終わったらさようなら、だ」
 身体を起こしてベッドに腰かける。顔を上げて千歳をみると、泣き笑いのような表情が返ってきた。
「また、キャッチボールしてくれますか」
 さきほど感じた後悔よりもずっと鋭くて苦しい痛みに目を伏せる。
「ああ。いつでも」
 声は低くて小さいものになってしまった。千歳は振り返らずに部屋を出ていき、おれは頭を抱えたまま、仰向けに寝転んだ。

 『君はラッキー、僕に会えてすごくラッキーだ』
 そんなパーティソングを聴いてなんとか自分の気分を底上げしようとしたが、無理だった。無理に決まってる。自分に想いを寄せてくれた人を不用意に傷つけたときの気持ちは、自分が傷つけられたときよりもずっと最悪だった。
 シャワーを浴びて、重金属のように固く重くなってしまった身体をなんとか叱咤激励しながらスーツ一式身に着けて、ホテルの裏口から出る。繁華街の朝のわりに、空気はマシだ。円山町あたりの朝はひどい。匂いも空気も最悪だ。アレに比べたら山の中の住宅地のように空気は清浄だった。
 ホテルを出てすぐの道路に、見覚えのある車がとまっていた。一度みたら忘れない高級車、黒のBMWのX5だ。この車の所有者があいつひとりということもないだろうが、そうそう持てる車でもない。車の前で立ち止まっていると、ドアが開いて影浦が飛び出してきた。
「ここで何してた」
 耳に突っ込んでいたイヤホンを引っこ抜かれ、胸倉を掴まれる。普通に話しかけるということができないのか、この男は。胸倉を掴むとか壁に押し付けるとか押さえつけて見下ろすとか、お前は特殊部隊員か何かなのか。
「関係ないだろ。影浦こそ何してるんだ、こんなところで。もしかして、自分のオナホが人に使われてるんじゃないかって、心配だったのか?」
 小馬鹿にしたように吐き捨てると、影浦の薄い色をした目が、ぞっとするほど冷たく細められた。
「質問に答えろ」
「答えたくない。GPSでもつけてんのか。おれにそんなものつけてる暇があるなら、女につけて見張ってるほうが有意義だぞ」
 影浦の腕を振り払っていこうとすると、ものすごい力で腕をつかまれ、車のボンネットに押さえつけられた。
「車に傷がつく」
「どうでもいい。ここで、誰と、何をしていた?」
 影浦の顔越しに、夜明けの光と飛んでいくカラスがみえた。どこにいくんだろう、と関係のないことを考えて現実逃避しようとしたら、影浦がかすれた声で言った。
「寝たのか?」
 だからお前に関係ないだろ、と言おうとして、言葉はのどの奥に引っ込んだ。
 ――どうしてお前が、傷ついたみたいな顔をするんだ。意味が分からない。
「ああ、男と寝るって最高だな。これまで女が好きなフリをしてきた時間がもったいなく感じる」
 影浦が言いそうな悪態を先回りしてやった。 
 言葉とは真逆に暗い声になってしまったのは、先ほどまでの行為がどれほど千歳を傷つけたか分かっていたからだった。
「たぶんおれはクズで淫乱なんだろうな。以上説明終わり」
 自分を傷つけるような言葉ばかり選んでいるのに、傷ついた顔をしたのは目の前の影浦で、そのことが、ひどく気持ちよく感じられた。
 人を平気で傷つけ、見下し、踏みつけるのに、お前は傷つくのか。この程度のことで。自分のおもちゃで人が遊んだ、それだけで、心ないことばをぶつけられた無垢なこどものような顔をしてみせ、おれの罪悪感や劣等感を刺激する。それが憎たらしくてたまらず、あえて露悪的に言いたくなった。
「お前もやるか?」
 勢いよく襟首をつかんで持ち上げられる。拳を握りしめた影浦が、真上で振りかぶった。
 ――これで楽になれる。
 もう、影浦と金で寝ることなんかできない。そう分かってしまった。だから、嫌われて殴られて捨てられたほうが、ずっとマシだ。飽きられるまで縋り付くなんて、想像しただけでぞっとして死にたくなる。
 おれは目を閉じなかった。だから影浦の眼が怒りの沸点を超えた瞬間も、ちゃんと見ていたし、間違いなく殴られるはずだった。
 けれどその右腕は、振り下ろされるのではなく、力なく下ろされておれの顔の横、車のボンネットを強く叩いただけだった。
「成田。自分を貶めるような発言はやめろ」
「誰のせいだ」
「……」
 苦渋に満ちた顔すら美しいなんて、美形は得だな。そんなことを考えながら、視線を外さずに影浦の言葉を待った。
「おれ以外と寝るな」
 抱きしめられていることに気づくまで、数秒かかってしまった。――それぐらい、信じられない出来事だった。
「……何故?」
「うるせえ。このおれが頼んでるんだ。黙って言う通りにしろ」
 これが普通の関係だったなら、この言葉にある種の期待をしたかもしれない。でもおれたちは違う。おれたちを繋いでいるのは周平の借金で、それ以外はもう、住む世界から違うのだ。
 車のボンネットは大人の男(それも大柄な)二人の体重に耐えうるのだろうか、と少し心配になったけれど、すぐに消え飛んだ。影浦の耳に自分の鼻が当たって、その冷たさにびっくりする。車の中にいたのだから、冷えることなんてないと思いながらも。
 おずおずと背中に手を回し、ゆっくり撫でた。影浦の匂いが、秋の匂いに混じって鼻腔をくすぐる。この匂いを嗅ぐと、反射的に性的なことを連想してしまうほど、おれの身体はこいつに慣らされてしまった。そのことに絶望感を覚えながら、自分の欲望を抑え込んだ。
 影浦の胸倉を掴み返してキスをすると、薄くてかたちの整った影浦の唇はすぐに開いて応じてきた。千歳とは違う、乱暴で自分勝手で、それなのに巧みな舌があっという間におれを夢中にさせ、頭の芯がぼんやりした。
 自分のポケットを探って携帯を取り出し、送りかけていたメールを送信する。誰が来るか分からないのに影浦の手はおれのシャツの下に潜り込もうとしていて、早く止めるために耳元でささやいた。
「携帯をみてみろ」
 影浦は眉をよせ、おれの上から退いた。油断なくおれを睨みつけながら携帯端末に視線を走らせ、データファイルを開くと、裏返った声で叫んだ。
「お前、計算してやがったのか?!」
「そりゃあそうだろ。おれが何も考えずに好きにされていると思ったのか?」
 にやりと笑う。影浦は悔しそうに、憎々しげに舌打ちをして自分の髪を右手でかきむしった。
 送信したのは影浦との行為を金銭に変えてデータ集計したエクセルファイルだ。はじめて寝たときに影浦が提示してきた金額で積算しているので、十回も寝ないうちに目標金額の五百万は達成できた。
「借りは返したぞ。もう二度と、お前とは寝ない」
 もっとも、こんな行為が返済になると本気で考えているわけじゃない。金は時間がかかっても貯めて、一括で必ず返すつもりだった。
「もらったスーツや時計はお前のマンションに送っておいた。あっちは売るなり捨てるなり、好きにしてくれ」
 何も言わない影浦に腹をたてながら、おれは言った。
「じゃあな」
 影浦の胸に手のひらをあてて、ボンネットの上に突き飛ばす。これはさっきの仕返しだ。
 いつもなら必ず報復してくる影浦は、あの美しい双眸を見開いたまま、ぼんやりとした顔でおれをみつめている。
「明日からはただの同僚だ」
 唖然とした顔は青ざめていた。想像もしていなかった、というような顔だった。

 ――ざまあみろ。
 どんな気分だ?
 お前が劣った存在だと見下し、好きに踏みつけた男が、自分の思い通りにならないのは

 そう留飲を下げるはずだった。
 それなのに、おれは全く満たされた気持ちになれなかった。