Right Action

10.

 人気投票はスターエアライン内と弊社全支店、および顧客である料飲店を中心で開始された。その後鳳凰ビールの公式アカウントに掲載されてから、『投票したい』という声が高まり、SNSを通じてだれでも投票できるシステムになった。
 いまだかつてないビールの擬人化による人気投票は、思いのほか盛り上がりを見せ、和歌山県だけの盛り上がりにとどまらず、ビアフェスタ自体にも注目が高まっている。
 出張から帰社した課長が、浮かれた声を上げながらドアを開けた。そのときは、ちょうどおれと羽田と千歳が、投票の中間発表を内々に公開されているところだった。
「おい、『関西なび』がビアフェスタ和歌山、雑誌に載せたいっていってくれてるぞ」
「え、でも広告費かかりますよね。そんな予算……」
 おれは別に何位でもいいので、ろくに確認せずに課長のほうへと向き直る。
 うわ、僕が暫定とはいえ一位だ、と嫌そうに千歳がつぶやく。おれが二位で、三位の羽田は「成田先輩に負けるのはともかく、なんで千歳にまけてんだー!納得がいかねえー」と叫んでいる。
「本部にかけあったら予算おりたんだよ。まあそのあたりは影浦がやりとりしてくれたんだがな。向こうから声かけられるなんてなかなかないぞ」
 課長はかなりのご機嫌だ。それはそうだろう、直近の支店売上発表では、和歌山支店は最下位を脱するどころか、一八位まで浮上していた。もともと羽田は優秀な営業マンだし、ここのところ千歳も頭角を現してきた。女性受けするルックスと丁寧な対応で、料飲店のオーナーの妻に人気を得て、契約をとれるようになってきたのだ。
「なんかSNSで、『このひとたち本当に全員が空港の名前なのかな』『免許証の画像みせてほしい』とかいわれてましたよ、成田先輩みせてやってくださいよ」
 課長のことばをきれいに無視して、羽田がおれにくだらない言葉を投げる。「まあ確かに偶然にしてはできすぎてるよな。おかげでこんな企画が通ったわけだけど」と返事をしてから、課長の方へと近づいた。関西なびは、関西の情報雑誌で一番売れているもので、宣伝効果は抜群だ。
「やりましたね、課長」
「まあな、お前らも顔出して頑張ってくれてんだしな。おれもやるときはやらんと。で、誰が一位だったんだ?」
「暫定ですが千歳ですね。雑誌取材に連れていきますか?」
「そうだな。三人とも、って言われたんだけどそれはさすがに業務がなあ。とりあえず千歳借りてくわ。あと三人で撮ったあの写真使わせてくれっていわれたけどいいか?投票用のやつ」
「あれならそんなにアップじゃないし大丈夫だと思います」
 万年最下位から脱したことで、支店自体の雰囲気がかなり良くなっている気がする。やはり、数字が取れなくても気にならない営業なんて、ひとりもいないのだ。おれや影浦がとってくると、千歳や羽田も奮起するし、それを見ているほかの営業もやる気を出す。数字が動くようになると、ほかの部署にも活気がわく。
「影浦は?」
 おれの問いかけに、課長はネクタイを緩めながら答えた。
「SALの知り合いと会うとよ。そのあとはうちの社の広報と打ち合わせで直帰だな」
 知り合いの多い奴だ。まあ、あんなやつのことはどうでもいい。影浦がいない間に営業をかけてやる。
 千歳がもの言いたげにこちらを眺めているのが分かったが、どんな顔をして何を話せばいいのかよくわからない。あれからも仕事の話はしているが、飲みに誘われても断るか、羽田も連れていくようにしている。
 影浦は『お前の足取りを追ったら、最後は千歳と一緒にいたんだぞ。お前にクスリを盛ったのも、ケガさせたのもあいつだろ』と言ってきかなかったが、本当に何も覚えていないのでとくに苦痛もないし、追及してもろくなことにならないだろうと思って忘れることにしていた。万が一あいつがおれにクスリを飲ませたとしても、力で負ける気がしない。あの日だって転んだケガはしていたが、それ以外の……いわゆる性的なケガ、は何も残っていなかった。
「営業先いってきます」
「はいよ。成田も直帰、と」
 課長自らホワイトボードに予定を書き込んでくれて助かった。おれは頭を軽く下げて、千歳の視線を背中に感じながらも振り切り、営業車に乗り込んだ。営業先を周ってから、『いつものエクセルファイル』に入力する。思っていたよりも減っている。もうほとんど達成といっていい。
 複雑な気持ちになりながら、その日は早めに眠った。

 十月に入り、朝晩が冷え込むようになってきた。スーツの上に着込んだステンカラーコートの前を閉じようかどうしようか悩んでいると、馬渡オーナーが前から走り寄ってきた。
「成田さん!今からお仕事ですか?」
「実はお伺いしようとしていたところです」
「よかった。お話ししたいことがあったのでちょうどよかったです」
 ふわりと笑ったオーナーにつられて、おれも少し目を細める。
 店に入ると、見習いの男性が下ごしらえをはじめていた。ちょうど開店前の仕込みの時間帯で、一番忙しいときだったので、おれは立ったまま、手短に説明しようと決める。
「本日は新商品のご案内に参りました。どうぞ開店準備をしながらで結構ですので」
 カウンターに座って聞き入る姿勢を作った彼にそう伝えると、首を振られた。
「お気遣いありがとうございます。でも成田さんのお話きくの、楽しくて好きなんですよ。商品知識が深いから面白いんですよね。きちんときかせてください、さあ」
 ひととおりの説明を終えて商品のチラシから顔を上げると、オーナーは真剣な顔でこちらをじっと見ていた。
「……どこか分かりにくいところがございましたか?」
「違うんです。商品のことはよくわかりました。スタッフと相談してまたお返事しますね」
「ありがとうございます」
 これ以上いては迷惑だ、と考えて立ち上がろうとすると、「あの」と意を決したような口調で呼びかけられた。
「店に来てくださった日のことなんですが……、大丈夫でしたか?何もなかったですか?」
「何も、とは?」
 おれの問いに、彼は迷ったような顔をして目を伏せ、それから、「何もなかったのならいいんです。僕の見間違いかもしれませんから…」と意味深なことを言って笑った。
「あの日の記憶が飛んでいて、よく覚えていないんです。だいぶ飲んでいたんでしょうか。ご迷惑をおかけしていないかどうかだけが気にかかります」
 ずっと気になっていて訊けなかったことを伝えると、オーナーはニコニコ笑って「それはありませんよ」と否定してくれた。
「もう忘れてください。妙な事をきいてすみませんでした」
「こちらこそ、お忙しいのに貴重なお時間をいただきまして、ありがとうございました」
 立ち上がって頭を下げる。彼も同じように頭を下げたあとでもう一度じっとおれの顔を見た。
「気を付けたほうがいいですよ、成田さんは」
 かばんの中に資料を仕舞っている最中だったので、反応が遅れた。
「……、何にでしょうか」
「あなたは男にもてるタイプだと思うから」
「おれも男なんですが…」
 オーナーは困惑しながら言った。
「ええ、どこからみてもそうですね。けれどあなたのような、いかにも異性愛者というような、スポーツマン然とした男性にそそられる男性っていうのは、多いんですよ。…あ、誤解のないように言っておきますが、僕は異性愛者です。ただ店の常連さんで、たまに来てくださる成田さんのことを「いいな」といっている男性が、その、複数いらっしゃるので」
 なんと答えていいのかわからず、「はあ」と間抜けな相槌を打ってしまった。
「いい身体してるし、男っぽくて、口数が少ない。セクシーでいいよね、と」
「セクシー」
 この言葉をきいて浮かんできた顔を頭の中で何度も打ち消してからつぶやく。そんなおれの様子をみて、オーナーは笑った。
「言われたことありませんか?」
 あるわけがない、と叫びたくなるのをおさえて、「一度もありません」とこたえると、オーナーは「それはあなたが鈍いだけです」と断言した。
「やたらとあなたに触れようとする、懐いてくる後輩だとか、同級生には気を付けたほうがいいです。これ、年上からのアドバイスということで」
 彼が立ち上がったのを合図に、今度こそこの場を辞そうとドアに向かう。扉を開く直前にふと思い浮かんだ疑問を投げてみたくなって、振り返ってきいてみた。
「馬渡オーナーは、どんな方がタイプですか?」
「僕ですか?僕は、既婚の、エキセントリックな女性が好きです。振り回されるのが楽しいので。結婚願望がありませんので、独身女性はお断りしています」
 多分おれが渋い顔をしていたのだろう、オーナーは「引くならきかないでくださいよ」と楽しそうな声で言った。世の中には実にいろんな好みがある。
「あと、投票!僕は成田さんに一票投じました。ミスター鳳凰になったら、ぜひうちでお祝いパーティをやりましょう」
 気持ちはありがたいが、正直そうなってほしくない。
 苦笑していると、オーナーが言った。
「成田さんに足りないのは笑顔ですね。まあ、いつもへらへらしてる営業なんて信頼できないし、僕はそのままでいてほしいですけど」
 今度こそ店を出て、身体を伸ばして深呼吸をした。今日はよく晴れていたので、星がいくつか目視できた。そういえば和歌山には肉眼で天の川がみられる有名な天文台があると料飲店のオーナーからきいたことがある。
「和歌山にいるうちに行っておきたいな」
 海が身近にある街、という点では故郷とそんなに変わらないのに、気候が温暖だからなのか、人口が少ないからか、由記市よりもこの街のほうが居心地が良くて好きだな、と感じるようになってきた。和歌山市内は比較的都会だが、とにかく自然を感じる場所へのアクセスがいいのだ。おれが受け持っている地域は市街地だけではなく海沿いも含まれているので、車で走るたびに「いいなあ」と思う。時間の流れがゆるやかで、食べ物がおいしくて、水や空気がきれいだ。以前鹿児島支店にいたころに感じた、「このままここに住みたいなあ」という気持ちが湧いてきてしまう。(そんなことは不可能なのだけれど)
「あとはやはり世界遺産には足を運ばないとダメだな。話のネタにもなるし」
 高野山には一度行こうと思っている。真冬になると雪が積もるほど寒いが、今から十一月にかけては紅葉がはじまるいい季節だ。車を会社に置いて家に帰ったら計画を立てよう、と決心して、営業車に乗り込んだ。

 車を駐車場に置いて社屋に戻ろうとすると、裏出口に千歳が立っていた。無表情でポケットに手を突っ込んでぼんやりしている様子は、普段の愛想のいい彼と結びつかない。
「今戻ったのか」
 素通りするのも変なので、ドアの前で立ち止まって声をかけた。彼はあの優しげな目元をすっと細めて、「成田先輩を待ってました」と答えた。
「もう仕事は終わりですか?」
「ああ。今日はこのまま退勤打刻して帰るつもりだ」
 そうですか、と独り言のようにつぶやいて、千歳が無表情のまま一歩近づいてくる。彼はおれよりも十センチぐらい身長が低いので、自然と見下ろすような視線になってしまう。
 彼はにっこり笑ってから、どこからかグローブと硬球を取り出して見せた。
「じゃあ、今日終わってからキャッチボール付き合ってもらえませんか。夜も明るいグラウンドがある公園を知っているので」
 千歳と公園、という組み合わせになんとなく嫌な予感がしたが、キャッチボールはしたいので頷いてしまった。和歌山にきてから、どこのチームにも所属できていないので飢えていたのだ。壁にむかって一人で投げても、全くつまらないしストレス発散にもならない。こういうとき、友人を作るのがへたくそな自分が嫌になる。
「分かった」
 おれの答えに、千歳は目に見えてホッとした顔で頭をさげた。
「じゃあ、終業後にここで待ってますね」
 先に階段を登って行った千歳を後ろから追う。事務室のドアを開けて中に入り、影浦の席を確認した。直帰と書いている通り、戻ってきていないようだった。
「成田先輩、おつかれーっす。千歳、課長が明日宣材撮るからいいスーツ着て来いってさ。小さい写真だけど公式アカウントにも載るらしいぞ」
 席についてPCの電源を落としていると、隣で千歳が嫌そうな声を出した。
「ええ……やだなあ。ほんとに僕なんですか。まだ暫定なのに」
 千歳のデスクはおれのものよりもずっと整頓されていてきれいだ。イベント企画担当の部署の子が持ってきた小さいサボテンの寄せ植えが生き生きとしているのも、こいつのマメな性質をあらわしているようで好ましい。(おれはありとあらゆる植物を枯らせてしまうので)
「そりゃ広告塔だぜ?イベント前に使わなきゃ意味ないじゃん」
「でも、成田先輩のほうがかっこいいし、写真映えするのにな。僕じゃなくても」
 唇を尖らせて、千歳が言った。
「そりゃあ成田先輩はかっこいいさ。でもなにせ、ホークアイ成田だからな。目つきが鋭すぎんだよなあ~。もうちょっとニコッ!ってしたら完璧なのに。その点おれは、顔良し愛想よし、仕事良しで、写真映えもする。おれに決めた!って感じだよな」
 こうなったら意地でもミスター鳳凰の座をゲットしてやるぜ、とこちらを指さしてくる羽田は、おれたちの反応に肩を落とした。
「おい、無視かい」
 おれも千歳も無視して先に退勤すると、後ろから羽田の「せめて突っ込んでよ!」という悲痛な声がきこえた。

 すっかり日が落ちて真っ暗になった道路で、千歳の後ろを歩く。途中でタクシーを拾って、降りてから公園の中をまた五分ほどすすんだ。
 大きな緑地公園だ。そういえば六月に、ここで影浦と音楽フェスでビールを売ったことを思い出した。あそこはイベント用の広場だったのだが、ほかにも公式試合をするためのきれいな球場と、練習用のサブのグラウンドがあって、おれたちは今サブのほうに立っている。暗い空を強すぎるほどの照明が扇状にグラウンドを照らしていて、土はよく整備されており、サブだなんて思えないほどの充実ぶりだった。
「ここのところ市内で営業してたら、知らない人に声かけられるようになって、ちょっと恥ずかしいんです」
 芸能人じゃないんだし、顔出ししてもいいことなんかないですよ、と千歳がつぶやく。まあな、と返事したおれは、連れてこられた公園のグランドが、思っていたよりも整備されていることに驚いた。ピッチャーマウンドが作られていて、本格的な野球の試合ができそうなところだ。
「勝手に使っていいのか、ここ」
「ええ。僕の取引先のオーナーさんが管理をされてて、特別に許可をもらいました」
 ちょっと待っててくださいね、と声をかけてから、千歳が大きい袋を持ってきた。
「成田先輩の球受けるのに、丸腰だと死んじゃいますから」
 彼が持ってきたのは、キャッチャーの防具では必需品とされている、マスク、プロテクター、レガース、ヘルメット、スローガードのセットだ。それにキャッチャーミットも持ってきていて、手慣れた様子で防具を身に着け始めた。
 驚いたおれは、ぽかんとその様子をながめていた。
「言ってませんでしたっけ?僕も結構本気でやってたんですよ、野球。ポジションはキャッチャーでした。でも全然、成田兄弟ほど有名じゃないですけどね」
 慣らし、二十球でいきましょう。
 千歳はそう言ってボールを投げて寄越し、キャッチャーズボックスの中でミットを構えた。
「サイン使いますか?」
 いつもの甘えた声ではなく、堂々とした言い方だった。おれは首を振って、「変化球は投げない」と宣言した。
 呼吸を整える。投球動作はいつもここから始まる。
 集中すると、キャッチャーしか見えなくなる。周囲の景色がぼやけ、まばゆいほどの照明すらぼんやりと遠ざかり、自分の呼吸音だけが一定のリズムで聴こえてくる。
 ワインドアップしてからは、身体が自然と動く。左足を持ち上げ、コッキングを終えて右腕を振りぬくと間もなく、重みのある、ミットの芯に当たった気持ちのいい音がした。
 この身体を突き抜けるような音がたまらなく気持ちいい。
 ピッチャーをやっていたころから、この音がききたくて投げていたようなものだった。
「成田先輩、ナイスボール」
「千歳も、うまいな。ナイスキャッチ」
 放物線を描いて返されたボールを何度か手元で低く投げてはキャッチして、足元を整え、また集中する。今の一球で分かった。千歳のキャッチングは、野球で有名な私立高校でもベンチ入りできるぐらいの技術がある。
 振りかぶる。左足を上げ、踏み出して体重を移動しながら上半身をひねる。足を支点に、腕を思いきり振りぬく。ズバン、と気持ちのいい音が鳴る。確かにまっすぐを投げる、とは伝えたが、ほとんどミットを動かしていないのは高い技術と自信のあらわれだ。
 そのまま徐々に球速を上げて、五十球投げた。さすがにストレートばかり投げるのは飽きてきたので、途中でチェンジアップとカーブも取り入れた。
「チェンジアップ」
「はい!」
「ストレート」
「了解です」
 ピッチャーがボールを投げるとき、そこには自由がある。自分で投げるタイミングを選択し、球種を選択できる自由だ。野球というスポーツにおいて、このピッチャーというポジションはもっとも面白くて孤独だ。だからこそ最高だった。
「百三十は出てましたね」
「それぐらいならまだ出せるな」
 満足するまで投げ終えてから時計をみると、夜の九時を過ぎていた。
 おれたちは並んで歩き、夜の冷たくなった風で身体を冷やした。途中に銭湯があることを思い出し、汗を流してから帰ろうかなと考える。心地よい疲労感と久しぶりの高揚感のせいだろうか。普段ならきかないことを、ついきいてしまった。
「千歳はなぜ野球をやめたんだ?」
 はじめた理由なら、誰にでもきいていい。けれどやめた理由は、いつもならきかない。そこには必ず何か事情があって、おれには干渉することができない、と思うからだった。
「あなたのせいですよ」
 さきほどまでの真剣な様子から一転、頬をふくらませたかわいらしい顔で、千歳がこちらを睨んだ。
「おれのせい?」
「僕は、あなたがクラブチームで投げているのを見て、感動して野球をはじめましたから。いつかバッテリー組んでみたいなあと思って頑張っていたのに、すんなりやめちゃうんですもん。なんだかやりがいをなくしてしまって……」
 まさかそこまであこがれてくれていたとは思わなかった。申し訳ない気持ちになる。
「当時、僕ら後輩のあいだで成田先輩は、我儘で自分勝手だって噂があったんですよ。サインに首振りまくるし、全然声出さないし、仲間を球拾いだと思ってるって。でも許されてましたよね。……それだけすごいピッチャーだったから」
 高校の頃のうわさ。
 その言葉を聞いた瞬間、息を吸い込んでしまった。けれど千歳の口からあのことが出てくることはなく、おれは気づかれないよう、そっと溜息をついた。
「ありがちな話ですけど両親が離婚しちゃって。それだけならいいんですけど、転勤族の親だったので、引っ越さなきゃいけなくなっちゃって。荒れて、いろいろ悪さもしました。けどそんな中でも、マウンドの上に立ってる成田先輩は、いつもまっすぐキャッチャーミットだけ見てて、僕はその姿をみていつも励まされていたんです。先輩の投げる球が誰にも打たれずにミットの中に吸い込まれるたびに、頬をひっぱたかれてるみたいに目が覚めるんです。先輩はいつもあの場所にいて、脇目もふらずにボールを投げてました。僕にとって、道しるべみたいなものでした」
 試合は全部観にいきましたよ、と千歳が言った。
「中学のジャイアンツカップ決勝の七回裏で、あなたが弟にマウンドを譲ったときも見ていました。なんとなく、これが成田先輩を公式試合でみる最後になるかもしれないなって思ってました。外れてほしかったけど、僕の予感ってよく当たるから」
 スポーツって不思議ですよね。と千歳はつぶやいた。誰に言うでもない、自分に問うような声だった。
「先輩が投げて、勝っても負けても…あ、滅多に負けることなかったですけど、一喜一憂しました。あの頃の唯一の救いでしたよ。戦ってたのは僕じゃなくて成田先輩で、僕は先輩と話したこともなかったし、生まれ育った環境も全然違っていたのに……。先輩が投げている姿を夢中で追いかけました。うん、追っかけっていってもよかったですね。練習試合も欠かさず観戦しましたから」
 あなたは高校でも野球を続けて甲子園に行って、プロになるのだと思っていました。――弟の成田周平が出てくるまでは、本気でそう思ってました。
 答えを考えているうちに、公園を抜けた。幹線道路沿いの歩道を歩く。千歳はおれよりも小柄だが、こうして後ろからみると決して細くはない。
 どこでタクシーを拾おうか、それとも飲みに誘うべきか、と考えていると、千歳がくるりと振り返ってこちらを見た。真剣な顔だった。
「成田先輩、僕、ひどいことをしました。あなたのお酒にクスリをいれて……、いろいろ聞き出したり、押し倒してキスしたりしました。ごめんなさい!」
 いくら夜で、人通りが少ないとはいえ、幹線通り沿いだ。身体を直角に折って頭を下げた千歳の腕を掴んで、路地の中に引っ張った。
「分かったから、こんなところで大声出すな。顧客が見てたらどうするんだ」
 抑えた声で言って、腕を組んで壁にもたれる。千歳はなおも言い募った。
「分かったってなんですか?許してくれるってことですか?ダメですよそんな簡単に許したら!そんなだから僕に押し倒されたり影浦先輩に脅されたりするんですよっ!」
「お前がいうな」
 睨みつけてドスをきかせると、千歳はしゅんとした。
「やっぱり筋通してなかったな、って反省したんです。いくら焦ってたって言っても……」
 ため息が出る。もたれていた姿勢を正して、正面から千歳と向き合った。
「一体何がそんなにききたかったんだ。ふつうにきけばいいだろ」
 キッと睨み返してきた千歳の顔に、少し驚く。こいつ、ときどき堅気じゃないみたいな、気性の激しさを露わにすることがある。普段のふわふわニコニコした千歳よりも、こっちの顔のほうが人間らしくておれは好きだ。本人に言ったことはないけど。
「聞けば話してくれました?弟が風俗店から金持って飛んだ話とか、それを影浦先輩が肩代わりしてくれた話とか、お金の代わりにセックスしてる話なんて、してくれましたか?!」
 絶句した。そこまで話したのか。一体どんなクスリを使ったんだ。
「しなかったかもしれない」
「でしょ?心配だったんです。影浦先輩に成田先輩をとられちゃうと思って」
 話の方向性が見えない。とられるとは?
 多分おれの顔に疑問が浮かんでいたんだろう、千歳が「まさか分からないなんて言いませんよね」と叫んだ。
「鈍いにもほどがあんだろ。好きだからに決まってんじゃん、クソ鈍いな!まあそういうところが可愛いんですけど!?」
 口調が変わった上に大声だったので、おれはあっけにとられて千歳を見た。千歳は開き直ったようにフンと鼻を鳴らした。
「失礼しました。――ええと、五百万でしたっけ?僕がなんとかしますよ、それ」
 冗談じゃない。おれは物じゃないし、金であっちこっちにやり取りされてたまるか。
「いい。もう完済するし、ここまできたら一回やるのも十回やるのも同じことだからな。男を抱いて何が楽しいのか知らないが、セックスで済むなら安いもんだろ」
 擦れた娼婦のような発言をしている自分に少し引くが、事実だから仕方がない。千歳は目を丸くしたあと、「どんなビッチだよあんた!」と怒鳴った。
「そういうのはあきらめるとこじゃねえだろ、悟り開きすぎ!つうかふつうやります?!お金肩代わりされたからって……」
 言いながらハッとしたような顔で、千歳が眉を寄せた。
「やっぱり好きなの?影浦先輩のこと」
 いや、誰があんな、傲慢で我儘で自己中心的で、セックスが過激でなんでも金で解決できるとおもっていて、人の心が理解できないモンスターを……と言おうとしたのに、うまくまとまらなかった。
「好きじゃない。あんなやつ」
 おれは影浦にとってせいぜい体のいい玩具で、暇つぶしだ。確かに、男が好きだと確信を持たされたのは影浦と寝たのがきっかけだが、おれが好きなのは周平で、影浦じゃない。あんなやつ好きになってたまるか。弟を好きでいるよりも最悪だ。
「じゃあ好きでもないのに寝てるんだ、お金のために」
 千歳が距離をつめてきた。後ろは建物の壁で、目の前数センチのところに千歳の顔がある。甘やかで優しい顔は今売れている可愛い系俳優のように整っていて、どんな人間でも頭を撫でたくなりそうな愛くるしさがある。
「僕がキスしようとしたとき、成田先輩、殴って逃げましたよ。それってつまり、影浦先輩とキスしたりセックスしたりするのは、好きだから、特別ってことじゃないんですか」
 違う、と否定すると、千歳がすぐそばで笑った。
「じゃあ僕もしていいですか?あなたとセックスしたいんですけど」
 話の展開が謎過ぎて声がひっくり返った。
「なんでそうなる」
「だって僕、あなたのことが好きだから。いつもそういう眼でみてましたよ。成田先輩は無防備に男ひきつけますよね。いかにもストレートですって顔してさ」
 千歳はあくまで落ち着いていた。いつもかぶっていた、可愛い猫は脱ぎ捨てて、獲物をおいつめる肉食獣のような笑みを浮かべて、おれの肩を掴んだ。
「好きじゃなくてもできるんでしょ?それともやっぱり、好きだからしてるの?」
 断ろうとした瞬間、影浦と一緒にいた女の声が頭をよぎった。「お前は黙って言う通りに足を開いていればいい」という影浦の声と、その時自覚した自分のあまりにも愚かな感情にフタをしたくて、口を開く。
「分かった。それで気が済むなら好きにしろ」
 こいつと寝たら、何かわかるかもしれない。
「――もう取り消しはききませんよ」
 自分から言っておいて、千歳は傷ついたような顔をして目をそらす。
 千歳が本当におれのことを「好き」なら、相手の気持ちを利用して自分の気持ちを探ろうとしている最低のクズ、ということになる。最低のクズ。周平と関係が悪化したとき、言われた言葉だった。
「お前なんか家族じゃない。最低のクズだ、おれの前から消えてくれ」と周平は言った。だからおれは内部進学を蹴り、家を出て、別の大学に進学した。
「好きでもない男と金のために寝たり、やらせてって頼まれたから寝たりするんだ。成田先輩がそんなクズだとは思わなかった」
 少し笑いが漏れた。おれを何だと思っていたんだろう。
 路地は下水の匂いがした。近隣のスナックから漏れてくるあかりだけが頼りの、うすぐらい細い道で、千歳は犬の群れを率いるリーダーのように凛々しい顔でおれを睨みつけていた。
 その顔は、あの日おれをクズだと断罪した周平に、よく似ていた。
『弟の女を寝取るなんて、お前なんか家族じゃない。最低のクズだ、おれの前から消えてくれ』――確か、全文はこうだった。一言一句覚えている。
 そのときとっさに義父を見た。彼はうつむいて何も言わなかったし、奈乃香は義父に口止めされていてただ泣いているだけだった。当然おれも何も言えず、黙っていた。そうして嘘は真実になった。

「知らなかったのか。おれはクズだ。そんなの今にはじまったことじゃない」
 千歳が顔を歪めておれのネクタイを掴んで引き寄せた。
 強引で自分勝手な影浦とちがって、千歳のキスはおどろくほど繊細で、やさしかった。