Right Action

【番外編】絶対的な関係 / You make me.

―  絶対的な関係 ―

 チェスで負けたのは後にも先にも智晴兄とあの男だけだったな。

 影浦はそう言いながらビールの入ったグラスをテーブルに置いた。
「一年前だ。熱中症でぶっ倒れて入院したことがあんだけど、個室の一般病棟に移ってからもその時の主治医とたまにチェスやってたんだ。それがものすごい美形で、なるほど男でもこれならやれるかもなと思った。興奮すれば性別はどっちでもいいのかもな、いまお前ともヤッてるし」
 長年性指向について思い悩み、自分に嘘をついて生きてきたおれからすれば、影浦のいい加減な発言は驚きしかない。
「お前よりもきれいな顔なのか。みてみたいな」
 影浦がぎょっとした様子でこちらを振り返った。
「なんだよ」
「いや……おれの顔が完璧なのは分かってることなんだが……なんでもない」
 ぎこちない動きでウェイターを呼び止め、影浦はウイスキーのロックを注文した。
 高級ホテルの高層階によくある、夜景のきれいなバー。ここまでは普通だ。おれもきたことがある。ただ、男同士で来たのは初めてだが。
「いい音楽を聴きたくはないか」という影浦の言葉についていくと、ジャズの生演奏が聴けるこのラウンジにたどり着いたのだった。大阪の夜景が一望できる、超一流ホテルのバーで、今日の演奏者はなんと生野千早。豪華な夜だった。
「Another day of sun」を演奏している生野千早は、肩の力が抜けた柔らかい声で歌いながら時折こちらを見た。目が合うと微笑まれたような気がして嬉しくなる。
「お前は面食いなのか?弟のツラみたら甘ったるい顔してたもんな。このおれとは比べるだけ失礼ってものだが」
 突然カウンターの下で足を蹴られて、ピアノの方へ奪われていた意識が戻ってきた。蹴り返してから返事をする。
「きれいな顔が嫌いな人間はいないだろう」
 不機嫌な声になってしまった。影浦はまた目を丸くして、長々とため息をついた。
 たまにはカクテルでも飲もうか、と考え、メニューを流し見る。普段ビールやワイン、日本酒などを飲むのだが、カクテルは滅多に口にしない。名前から想像がつかない味に悩んでいると、顔に影が差した。
「やあ、こんばんは。もし良ければ、曲のリクエストをしてくれないかな」
 生野千早、とつぶやいて呆然と見上げる。おれのこと知ってるんだ、と嬉しそうに笑った彼に、不覚ながらドキッとしてしまった。知ってるも何も、今の彼は日本のジャズ界を代表するアーティストになりつつある。
「どうして、おれに?」
「さあどうしてかな。目があった瞬間にいいなと思ったんだ。あなたの目に睨まれたいよ。……好みなのかもね」
 後半の部分は耳元で囁かれて、顔がカッと熱くなった。くちびるが耳に触れそうになったとき、彼は急に後ろへと腕を引かれた。
「生野、相変わらず見境なく遊びまわっているようだな。貸与してるベーゼンドルファー、引き上げてやろうか。ほかの支援もやめて別の演奏家にするかな」
「うわ、影浦さんそれは勘弁してよ」
 話しかけられた謎が解けた。彼らは知り合いなのだ。
「知り合いじゃねえよバカ。おれは、こいつのパトロンだ」
 影浦のうんざりした声に、生野千早が付け足す。
「有望な演奏家を支援する活動、だっけ?影浦さんが法人化してやっている事業のひとつだよね。すごいんだよこの人、現存するストラドの六十三艇しかないチェロのうち一艇を保有してる、唯一の日本人なんだ。ご自身の腕前もなかなかのものさ」
 ほかにもヴァイオリン、ピアノ、ヴィオラ、サックス、トランペット、ギターなんかの高級なものを、有望な演奏家に無償貸与したり、海外遠征費を援助したりするのだ、ときいて、おれはまじまじと影浦を見た。
「なんだその顔は。うちの家はみんな何かしらの慈善事業やってんだ。その辺の意地汚い成金と一緒にするな」
「日本では浸透してない概念、ノブレスオブリージュを体現してらっしゃる貴重な一族さ。あなたは会社の同僚?この人と一緒にいたら、生きる世界が違うからびっくりするでしょ」
 にこにこ笑いながら髪を指で梳かれた。長くて強そうな指だった。
「You′ve got a friendを弾いてほしい」
 おれのリクエストに、生野千早がニッと笑った。
「キャロル・キングだね。承りました。これ以上いたらヤバそうだから退散するよ」
「とっとと失せろ」
 繰り出された影浦の前蹴りを器用にかわして、彼はピアノの前に座った。有名になった彼がこんなところで(といっても超高級ホテルではあるが)弾いているなんて意外だ。コンサートホールならともかく。
 機嫌を損ねたらしい影浦が、カウンターに肘をついてこちらを睨んでくる。ごきげん斜めの理由が分からないので無視して、ピスタチオの殻をむいて中身を積み重ねた。影浦が隣から手を伸ばして食べていくのに腹が立つ。自分でむけよ。
「成田は楽器、なにか演れるのか」
 影浦が腕を振ると、左腕の時計にどうしても目が行ってしまう。シルバーの文字盤に黒革ベルトという、一見するとシンプルな時計だが……並大抵ではない存在感がある。
「もっぱら聴く専門だな。弾ける楽器はない。お前はチェロを?」
 おれの視線に気づいたらしい影浦が、うっすらとほほ笑んだ。
「ああ。うちは全員何かしら弾けるぞ。姉はピアニストを志したことがあるほどの腕前だ。父と長兄はヴァイオリンを、智晴兄はヴィオラを、おれはチェロを弾ける。パーティで四重奏することもあるが」
 高貴なご趣味すぎてどうコメントしていいものかわからない。おれは「ふうん」と相槌をうって、生野千早の演奏に耳をすませた。やはり、声がいい。彼の演奏には余分なものがない。過剰な表現がひとつもないのだ。それなのに心に響いてくる。
「楽器を弾けるのはいいな。うらやましい」
 ガン、と椅子から衝撃が走って、顔を影浦に戻す。なんなんだこいつは、足癖のわるい金持ちだな。
「なんださっきから。蹴るなよ」
 フン、と鼻息荒く顔を背ける影浦。こどもか。こどもなら可愛いがお前は何歳なんだ。
 左腕でグラスを呷る影浦の腕時計が、照明を反射してきらりと光った。なんとなくそれを眺めていると、「なんだ、このあいだやったヴァシュロンじゃ満足できねえのか?」とからかうような声で影浦が言った。
「いや、きれいな腕時計だなと思ってみていただけだ」
「そりゃそうだろうな。ブレゲはおれも二本しか持ってない」
 ブレゲ。
 おそらくふつうの人間は一生手にすることがない、高級メゾンのうちのひとつだ。
「ミニッツリピーター七六三七ってやつだ。やろうか?ただじゃやれねえけど」
「いらない。おれには重すぎるし似合わない」
「遠慮するなよ。丸二日お前を監禁して好きなようにしてもいいならやるぞ」
 目を細めた影浦は捕食者のような顔でささやいた。顔には出さなかったが、ぞくっとした。
「なんでも金や物でいうとおりになると思うなよ。いらないものはいらないんだ」
 声を低くして言い切る。影浦は鼻を鳴らしてこたえなかった。
 演奏が終わった。拍手をする。生野千早が何かマイクであいさつのようなことを言って、聴衆からひときわ大きい拍手がおくられた。
 演奏を終えた彼が立ち去るとき、こちらと目が合った。生野千早は、右手で銃をつくっておれを撃ち、いたずらっぽく笑った。思わず頬がゆるむ。
「顔が良ければなんでもいいのか、お前は」
 苦り切ったような声に、「そうだな」とこたえた。
「生野千早は顔がいいだけじゃなくて、才能があるじゃないか。少なくともビールを売るしか能がないおれよりは、世の中全体の役に立つ」
 影浦が立ち上がって片目をすくめた。腹を立てているらしい。
「別にお前のことを言ってるんじゃないぞ。自分自身のことだ」
「そうだろうよ。一緒にされちゃたまらない。……ついて来い、ヤらせろ」
 物言いに腹が立ったので無視して帰ろうとすると、腕をつかまれた。
「人前で滅茶苦茶にヤられたいのか?いうことをきかないとそうなるぞ」
 さすがにそこまでバカじゃないだろう。影浦につかまれた利き手を振り払い、先にバーを出た。会計している間にエレベーターに乗って先に出られるだろう、と考えたのだが、どういうわけかそのまま後をついてくる。
「おい、食い逃げか。払って来いよ、先に出るけど」
「バーカ、人前で金なんか払うかよ。学生じゃあるまいし」
 そういえば、影浦と何かを食べたり、ものを買ったりしたとき、支払っているところを見たことがない。さすがにコンビニなんかだとふつうに支払っている(カードで)が、飲食店だといつの間にか会計が済んでいた。そういうスマートさが女にもてる秘訣なんだろう。あいにくおれにそういう手練手管は意味がないし、影浦にしても習慣でやっているだけなんだろうが。
 ちょうどいいところでエレベーターがやってきた。五メートルほど後ろから追いかけてくる影浦を引き離して閉まるボタンを連打する。するすると閉まった扉のすきまが一0センチほどになったところで、足が突っ込まれて扉が開いた。
「成田、いい加減学習したらどうだ?」
 悠々と中に入ってきた影浦は、手をのばしておれのネクタイを掴み、外へと引っ張る。犬のリードのようにぐいぐい引かれて首がしまって苦しい。結び目に指を入れてほどいて逃げようとすれば、今度はシャツの襟首をつかまれた。勢いよくつかまれたせいでボタンがちぎれて飛んでいく。影浦が破いて影浦が買ったおれのシャツ。言われた通り素肌に来ているから、首元まで肌が露出して焦った。こんなところを人にみられたらまずい。
 蹴りを入れても肘でかわされ、つかみかかったら肩を抱き込まれて逆効果だった。そのままトイレの個室に連れ込まれ、鍵をかけられる。狭すぎて殴りかかるぐらいしかできない。利き手で左頬を狙ったが避けられ、ドアを殴ってしまって少し陥没した。未だに右はそこそこの威力があるらしい。
「お前の右ストレートはさすがに堪えるからな。じっとしてろよ、どうせすぐ気持ち良くなるくせに」
「やりたくないものはやりたくない。こんなところで……どうかしてるんじゃないのか」
 便座に座らされた挙句、腕をネクタイで縛って固定されてしまった。自由になる足で影浦を蹴ろうとすると、髪を掴んで上を向かされ、噛みつくようにキスをされた。
「……っ、やめ、うっ……」
 舌は巧みで、ときおり唇をかまれたり強く吸われたりして、息苦しくて身をゆだねてしまう。閉じていた目をうすく開くと、影浦はなぜか必死な顔をしていた。こいつに似合わない、苦しそうな顔。心が騒いでしまって、おれはもう一度目を閉じる。余計なことは考えたくないし、知りたくない。
 長い間口の中を好きにされて、離れていくころにはすっかり身体が熱くなっていた。影浦は獣じみた視線でおれを睨んだまま口元をシャツの袖でぬぐい、便座に片足をかけて、硬くなった自身をおれの頬にこすりつけた。
「舐めろ」
 かみついてやろうか、と一瞬浮かんだ考えは、すぐに消えた。血管を浮き上がらせてた先端の濡れた影浦の性器をみると、口のなかでその味を知りたくなってしまった。ここのところ口淫を求められることがなかったので、忘れかけていた。まるみを帯びた先端をおれの頬から唇にすべらせ、髪を乱暴につかまれて、おれはゆっくりと口をひらいた。渋々やっている、というような顔をはりつかせたまま、先端のしずくを舌で舐めとる。影浦が、浅い息を吐いたのがわかって、腹の底がずくりと重くなった。
 腕を縛って便座のうしろへ括り付けられているから、おれに使えるのは口だけだ。だからいきなり咥えるのではなく、先端と竿を何度か往復してゆっくり舐め、吸い、十分に育ってから口に含んだ。舌で先端をこじ開けながらじゅぼじゅぼと吸うと、影浦の顔は悔しそうに紅潮した。その表情は、おれにゆがんだ愉悦をもたらして内心ほくそえむ。弟を好きになったおれをさげすむお前だって、男に咥えさせて欲情しているじゃないか。おれとそんなに変わらないだろう、と侮蔑する。
「美味そうだな、変態。もっと奥までくわえろよ」
 後頭部を掴まれ、喉の奥まで突っ込まれた。影浦の陰毛が顔に当たる。咳込み、吐き出そうとしても、影浦はゆるさなかった。こみあげてくる吐き気で涙がにじむ。苦しくて憎しみがわいた。かみちぎってやりたい。こうやっておれを弄んで、飽きたら、こいつはふさわしい女と結婚して子どもを作り、何事もなかったような人生を歩むのだろう、そう思うと心底憎いと思った。
「―――ッ、ゲホ、んぶっ」
「くっ、……成田」
 小さい声で、影浦がおれを呼んだ。ぎゅっと閉じていた目をひらくと、眉を寄せ、額に汗をにじませた影浦の顔が視界にとびこんできた。途端に全身がしびれるほど熱くなる。呆れたことに、おれは欲情していた。
 引き抜かれた性器が鼻の横にビタンと叩きつけられ、顔全体に勢いよく精液がまき散らされる。青い匂いと一緒に、とろりと顔を伝っていく精液。影浦の荒い息と、自分の、すっかり硬くなってしまった性器。
 頬が赤い影浦の顔が近づいてくる。さきほどまでとは打って変わって、手のひらがやさしくおれの頬を撫でた。その指が精液をかき集めてから、おれの口の中へと突っ込まれた。噛みつくなり、顔を背けるなりすればいいのに、なぜかおれはそれを丁寧に舐めとる。まったく美味い代物ではないにもかかわらず。
 唇が触れ合ってしばらくしてから、影浦はおれの腕の拘束を解いた。殴られても突き飛ばされても構わない、という意味だろうかと思ったおれは、引き離すために伸ばしたはずの腕を、こいつの首へとまわしてしまう。縋り付くみたいに密着したおれの背中を、影浦が抱き寄せて立たせ、両手首を掴んで壁に押し付けてキスをつづけた。意味も、理由も、何もかもどうでもよかった。金のためでも矜持のためでも恋愛感情でもなく、ただ気持ちいいから。男に触られ、触り、舐めたりこすったりすることが気持ちいいから。だからおれはこうしているんだ、と誰かに言い聞かせるみたいに頭のなかで繰り返した。
 溶けそうな顔だな、と影浦がささやく。お前もな、と返してやると、首筋に噛みつかれた。
「おれ以外に笑うな、見るな、話をするな。お前は金で買われてるんだろ。いうとおりにしろ」
 まるで睦言みたいに聞こえるぞ、と言おうとして、やめた。影浦はそれ以上何も言わなかった。素早く身なりを整えると、無言で先にトイレを出た。
 ついていく必要なんてないのに、一緒にエレベーターに乗り込む。小さな金属の箱は、客室のあるフロアへと静かに上昇していった。

― You make me. ―

 アヴィーチーを流しながらハンドルを握る。奇妙な気分だ。いつもと同じ車でいつもと同じ道を走っているだけなのに、イラつくような、浮き足立つような、落ち着かない気分だ。
 そもそもこんな音楽はおれの趣味じゃない。成田の家に置いてあったCDを数枚、退屈しのぎにくすねてきたのを、運転の暇つぶしに聴いている。おれの趣味では全くない。
 成田の黒髪は驚くほど漆黒で、さわると硬い。その下にあるまっすぐな眉は生意気で、切れ上がった一重の眼は、いままでおれをみつめた誰よりも反抗的で思い通りにならない。
成田をみていると苛々した。話すともっとひどい。話なんて合わないからセックスしているほうがマシだ。セックスはいい。誰とやったってそれなりの快楽がある。
 信号が赤に変わったので、男とセックスする意味について考えた。多分、「支配欲」だ。自分と対等な力を持つ同性を組み伏せ、その身体を、精神を蹂躙するときに覚える快楽と、肉体的な快楽は切り離せない。
 外に視線を投げると、嫌になるほど延々と海が続いている。海を好きな人間は多いが、おれは特に、なんの感慨もわかない。
 どうしてこんなところに来たんだろう。ああ、自分が言い出したんだった。ビールを売る仕事についたのも、退屈しすぎて誰かにこの地位を脅かされたいと思ったのも、全部自分だった。興味のないことはすぐに忘れてしまうから、時折ここにいる理由も忘れそうになる。冴えない地方の最下位店舗。過疎化が進み、少子化が進み、ビールを飲む層は年々減り、これから先の展望は暗い。だがそんな店を一番にするからこそ面白い。東京なんて数字が取れて当たり前だ、呼ばなくても勝手に人が入ってくるから。
 信号が青に変わった。アクセルを踏み込む。ここに住んでよかったことがあるとすれば、人が少ないということかもしれない。渋滞はほとんどしない(しても知れている)し、空気も澄んでいる気がする。海沿いに出ると煩わしい潮風の匂いが終始まとわりついてくるが、街中ならそういうこともない。あと、魚介はうまい。これはまあ、漁港のある街はどこでもそうだろうが。
「いい街だな。ここにずっと住みたくなってきた」
 成田が言って、羽田が「住んだ町全部でそれ言ってそう」と返していたが、あり得そうで笑える。あいつは極端にこだわりが少なく、自分自身にすら無頓着だ。
 電話がかかってきた。運転中なので無視した。見なくても誰からなのか分かっていた。つまらない女からのつまらない電話だ。日常がつまらないと感じるのは子どものころからずっとそうで、長い間退屈しのぎのために生きてきた。それなりに楽しく退屈をやり過ごしてきたと思う。人を掌握して思い通りに動かすのは楽しい。物が売れるのも。

「もう、いいだろ……離せ、ここをどこだと思ってんだ」
「会社だな」
「頭おかしいんじゃないのか」
 成田がおれを睨みつける。あの猛禽みたいな眼で、おれに全く関心がない、ただわずらわしいという顔で。こんな顔を他人に向けられたことがないから、はじめは胸の中が煮え返った。お前もほかの奴らみたいに媚びへつらえよ、何も持ってないくせに、と。
 だが今は少し違う。成田の無関心が、刺すような眼差しと反抗的な態度が気持ちいい。自分にばかり時間をかけ金をかけ、磨きぬいてきたような女ばかり抱いてきたからだろうか。利他的でありながら口数が少ない成田の、憎しみを向けられることが心地よく感じる。こいつにほかの奴と同じような薄っぺらい親切や笑顔を向けられるぐらいなら、いっそ憎まれているほうがいい。
 あれから千歳はなりを潜めて嘘チワワの形態を維持している。成田は自分自身に関心がないので、クスリを盛られて犯されかけても、それが自分の可愛がっている後輩だとは夢にも思わないしどうでもいいらしい。こいつの生育環境は一体どんなものだったんだ?
 ここは会社の階段だ。どいつもこいつもエレベーターを使うので、ここを通るのは成田ぐらいのものだ。トレーニングを兼ねて、という理由でこいつはどんな場所でも階段を使うのだが、おれが階段を降りたとき、たまたま成田が登ってきた。薄い唇がぎゅっと引き結ばれて、鷹の眼がおれを下からにらみつける。ぞくぞくした。そして気が付いたらネクタイを掴んで壁に叩きつけていた。
「おれがやったネクタイはどうした?こんな安っぽいものを身に着けるな」
 乱暴に首から抜いて、シャツのボタンを外す。ここが会社だからなのか、成田はいつも以上に暴れた。はじめて成田からキスをしかけてきたとき、あまりにも予想外で、驚きすぎて赤面してしまったのだが、あれからこいつとキスをするのが気に入った。自分の心が揺らされ、退屈から救い上げられるなんて、今までなかったことだ。それもこんな、どうみてもおれより体つきのいい男に。
 シャツのすそをスラックスから引き抜くと、成田は拳でおれの背中を叩いた。窒息させるみたいに舌を深く挿し込む。唇の端から、飲み切れなかった唾液が零れ落ちていく。
 手のひらをスラックスのなかに滑り込ませ、すでに兆している成田のものを掴んだ。上下に擦りながら鎖骨を舐り、何度か噛む。硬い骨と肌から、おれの家のボディソープの香りがした。
「あ、ああ、やめろ……」
 声がかすれてきた。これから先使う機会が少なくなりそうな成田の性器は、ぱつぱつに張り詰めて先走りに濡れている。
 眉を寄せ、苦し気に顔を反らしている表情をみていると愉悦がこみあげてくる。お前は好きでもない男に身体を触られて感じる、達する、変態野郎だ、と声には出さずに罵る。
 ファスナーを下ろす音に、成田がびくんと震えた。何をされるのか想像したのかもしれない。さすがにこんなところで挿入するほどおれもバカじゃない。
「右手を貸せ」
 自分自身を成田のものと擦り合わせながら、お互いの手で慰める。成田の手は大きく、硬くて、誰が見ても男のそれだ。なのに、今までのどんな手淫よりも興奮してしまう。男なんか興味なかったはずなのに。もっと細い、柔らかい手や、巧みな動きをいくらでも経験してきているのに。
 拙い成田の手の動きに焦れて、おれは腰を動かしながら手の動きを速めた。ああ、入りたい。目の前で苦し気に喘いで、声を出すまいと左手の甲を噛んでいる、おれに無関心な男を、思うさま犯したい。
「あ、いく……離せ、出るっ」
 身体を震わせている成田の言葉に耳を貸さずに、達している最中も擦り続けた。今さわるな、やめろ、という上ずった声。最高だ。お前みたいな凡人が、おれに抱かれるだけありがたいと思え。
 達した成田が壁を伝ってずるずるとしゃがみこんだ。おれはハンカチを取り出して自分の始末を終えてから、そのまま、成田の開いた足のあいだへその布を落とす。成田の後始末はしないし、このハンカチはもう使えない。
「なんとかしてから戻って来いよ」
 服装を整え、フロアに戻って営業に出た。その日成田がどう過ごしていたのかは知らない

****

 電話がしつこい。
 相手はかつての許嫁、御手洗日和だ。
「――日和……もういい加減にしろ」
『お父様は、子どもができなくてもいいとおっしゃってる。わたしは家を継ぐわけではないし、仁くんがいいならそれでいいと。だからお願い、考え直して』
「もう一度だけ抱いてくれたらあきらめる、じゃなかったのか」
『あなたに抱かれたら分かったの。わたしにはあなたしかいない。何を失ってもいいから側にいたい』
 頭痛がしてくる。こんなに物分かりの悪い女だとは思わなかった。
「ダメだ。これ以上しつこくするなら弁護士を入れるぞ」
 まだ何か話したそうな様子の通話を一方的に断ち切って、ベッドに寝ころんだ。
 別れるのには慎重に慎重を期したつもりだ。時期も見計らったし、事情も話した。抱いてほしいといわれれば抱いてやった。だがあきらめる気配がない。そんなにおれのことが好きなら愛人にでもしてやろうかと考えたし昔ならそうしたかもしれないが、今はそんな気分になれない。面倒だと思ってしまう。この女と一緒にいてもつまらないのだ。抱いているときだけお嬢様なんて言葉がびっくりするほど淫乱になって絡みついてくるが、それなら付き合い長い歌舞伎町の女王を調教しているほうが楽しいし、性的に満たされる。
……最近はあの女も感情を向けてきている気配があったから、距離を置いているが。
「面倒くせえ」
 たかがセックスで、いちいち感情を向けてくるな、依存するな。身体は身体、心は心だ。女はすぐに混同して、性的快楽を感情と結びつける。
――その点、成田は楽だった。楽なのに、思い通りにならないことにいら立つ。
 目を閉じると、今日のことが頭に浮かんでくる。まっすぐな太い眉の下で、鷹のような眼が次第に欲情に濡れ、抗うようにおれを睨みつける。憎しみのこもった眼だ。それなのにあいつの身体はすぐ溶けて反応して濡れてしまう。
「……冗談きついぜ」
 自分の下半身が熱くなってきたことに気づいて、天井を仰いだ。まさか、成田のことを思い出して勃起するなんて。とうとう狂ったか。いや、これは生理現象だ。あのときは挿入できなかったから、おそらく足りなかったのだろう。
 そろそろと右手を下着の中に差し込む。驚くほど簡単に硬さを持ったそれを、眼を閉じてゆっくり扱いた。瞼の奥に浮かんできたのは、何度か抱いた成田の――汗ばんだ筋肉質な身体と――おれではなく、千歳に、羽田に、見知らぬ誰かに笑いかけている、あの薄っぺらい笑顔だった。
『影浦』
 低い声。達する瞬間だけ、掠れた鋭い声を吐き出す。
『もっと……』
 短い前髪のせいで、あいつの顔はどの角度からでもよく見える。
 派手さはないが、整った顔立ち。本人は無自覚だが、男をひきつける無頓着な色気と、残酷なまでの無関心。
 ああ、犯したい、犯したい、犯したい。今すぐあいつを裸にむいて、逆らったら殴りつけて、全身を撫でて舐めてドロドロにして、泣き叫ぶまで突っ込みたい。
「く、……」
 目の前が真っ白になった。荒い自分の息が整ってから、吐き気がするほど腹が立った。
「なんで、このおれが、あいつでズらなきゃいけねえんだ、ふざけんな」
 ティッシュを取るのも面倒くさい。
 精液で濡れた手のひらをぐっと握りしめてから、思いきりマットに叩きつけた。

 翌日、寝室から出るとリビングにはつがいた。
 乳母というよりも母親といっていいような存在なので、合鍵を渡していていつでも好きな時に入ってこられるのだが、遠慮がちなはつはほとんどその鍵を使わない。だからこれは、とても珍しいことだった。
「おはようございます。許可なく立ち入りましたこと、お許しください。ご依頼を受けておりました成田さまに関する調査の件、こちらにまとめておりますのでご覧ください」
 立ち上がって深々と頭を下げるはつに手を振り、「いい。コーヒーを頼めるか」と洗面所へと急いだ。身支度を整えずに食卓につくのは苦手だ。夜よりも朝のほうが大切な時間なのだとじい様から躾けられてきたし、その通りだと思っている。
 シャワーを浴び、歯を磨いてから、前日脱衣所に用意しておいた服一式に腕を通す。今日はノーウォッシュのブラックデニムに白ペンキをぶちまけたようなボトムスと、光沢のある濃いグレーのセーター、どちらもフィリップリムのものだ。スーツやシャツはオーダーに限る、と思っているが、既製品も着ないわけではない。
 寝室や浴室からのアクセスがいい場所にウォークインクローゼットがあって、十五日先まで靴下から下着、靴に至るまですべての服装を決めてセットにしてある。平日はスーツがメインになるが、休日は私服だ。
 髪を乾かしてダイニングのテーブルにつくと、抜群のタイミングでコーヒーが出てきた。はつがいま和歌山にいるのは個人的におれに会いに来ているだけで業務ではないので、朝食などの家事は断っている。
「いつみても、仁さまはご自分に似合う服を完璧にご存知で……お美しくていらっしゃいますね」
 正面の席に座るよう促すと、ようやくはつは席についた。おれはコーヒーカップを持ちあげて「当然だ」という意味で眉をあげてみせる。人は外見がすべてだ。内面はだれからも見えないが、外見は違う。とくに初対面の人間は、外見だけで相手を判断する。
「成田には、おれの爪先ほどでもいいから外見に気を払ってほしいものだがな」
 テーブルに置かれた調査書をみながら言うと、はつはわずかに微笑んだ。
「仁さまが誰かを名指しで批判されるなど、珍しいことですね。それだけ成田さまに興味ご関心を持たれているということでしょうか」
 どうもここのところ、はつが妙な勘違いをしているような気がしてならない。だが弁解したり説明したりするとますます調子に乗るので、あえて無視した。
「そちらのファイルですが、ご覧になるにあたってひとつ、お願いがございます。大変恐縮ですが……、そちら業務外でのご報告となりますので、なにとぞお聞きいただけますでしょうか」
 封筒から調査書一式を取り出したおれは、はつに視線を移してから目を細めた。珍しいにもほどがある。
「分かった。言ってみろ」
「そちらの内容について、成田さまに、直接聞かれることは難しいのでしょうか」
 気が進まないといった顔で、はつが俯く。調査書を手に取って一枚めくりながら、「聞いた。だが言わなかった。あいつは自分の話をほとんどしない」と返事をする。
「仁さま。成田さまのことをお知りになりたいのでしたら、やはり根気強く、ご本人から聞くべきだと考えます。おっしゃらないということは、知られたくない、ということでしょう」
 眉をしかめる。普段ならこれだけの仕草ではつは引くのだが、今回はしつこかった。
「成田さまが生まれ育ったご実家に寄り付かれないのも、無理はありません。このようなことがあったのですから……。けれど仁さま、こういったことをご本人の許可なく、勝手に調べるというのは、本来ルールに反します。ですからせめて、この内容について成田さまには、何もおっしゃらないようにしていただきたいのです」
 いよいよ妙だった。はつがここまでおれに口答えをしてくるなんて、初めてと言っていい。
「――わかった。成田にそんな大層な過去があるとは思えないが……。ずいぶん、あいつのことを気に入っているんだな、はつ」
 おれの言葉に、はつはホッとした様子で小さく溜息をついた。
「成田さまは、仁さまに物怖じなさいませんし、ご機嫌をとることもされません。幼稚舎からずっと親しくされていたご友人の方々でさえ、仁さまには一定の距離を置かれているご様子でしたのに。心根がまっすぐで強い。清々しいお方です」
 そう、それが楽でもあるし、腹立たしくもあるのだ。おれは眉間に皺を寄せて、はつを見た。はつは首を振り、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「仁さまも、こんなことをされるのははじめてでしょう。特定の誰かを、仕事以外のことで調べろだなんて。お気づきではないようですが、仁さまにとって成田さまは、特別なのですよ。ほかの方とは違うのです」
「な、なにを……バカなことを言うな。報告書を置いて出ていけ」
「恐れてはいけません、仁さま」
 はつがダイニングの椅子からおりて、おれの足元に跪いた。
「変化を恐れてはいけません。あの方はきっと、仁さまのことを変えてくださいます――それも、いい方に。あなた様は知ることになります。いいえ、すでにご存じのはずです。相手が思い通りに動かないときの苛立ちや、触れたときの心のざわめきを。成田さまがつらそうにされていたら、自分のことのように苦しくなる気持ちを」
 黙らせたいのに、おれは立ち上がってはつの声を啓示のように受け止めていた。バカげている。まったく勘違い甚だしい。それなのに、その言葉を止めることができずにいる。
「今はまだ認めることができないかもしれません。けれど、はっきり申し上げます。あの方は仁さまにとって都合のいい道具や玩具ではありません。あなた様とは何もかも異なりますが、成田さまには成田さまの考えがあり、生き方があり、惹かれる部分があるはずです。そういったとき、相互理解を深めるために必要なのは、一方的に相手のことを調べ上げて作成した調査書などではなく、時間の共有と会話です」
 感情として受け止められないことと、言葉を理解することは別だ。はつの言葉やその主旨は分かった。誠に腹立たしく差し出がましいことこの上なかったが。
「……日和との復縁を望んでいたんじゃなかったのか」
 地を這うような低い声が出てしまったが、はつはまったく頓着せず、にっこりと笑った。
「仁さまが愛していない方と一緒になられることに、何の意味がございましょう?そこにお二方の幸福はございませんし、わたくしは仁さまの幸福のためならどのようなこともいたします。もうお分かりかと思っておりました」
「待て。おい待て。あたかもおれが成田を愛、オエッ、あークソ、愛なんて言葉口にしただけで全身に悪寒が走る……吐き気がする!絶対に違うからな!」
 はつは両手を振って「まあまあ」と諫めた。何がまあまあだ。
「慌てるのはよしましょう。知らない感情に無理やり手あかのついた名前をつける必要はございません。ゆっくりでいいのです。自覚されるまでわたくしはじっくり待ちます。気づかれたとき、もしもわたくしにできることがございましたら、何なりとお申し付けください。喜んでご協力いたします」
「帰れ!!」
 はつの背中を押して無理やり部屋から追い出し、鍵をかける。電気を消し、ベッドにうつ伏せになって何度も何度も唱えた。
「成田はおれのオナホ……成田はおれのオナホ……」
 性具を売り歩いていたあの頃、客には何度も見せたし、女とのプレイで使ったこともある。手軽な値段で気持ち良くなれるオナホ。まさに成田。あいつが感情だの自我だの持っていることが煩わしい。反抗してくる分には物珍しくて面白いが、おれの心に入ってくるな、道具の分際で。
 携帯端末を手に取り、誰か呼び出してめちゃくちゃにセックスしたいと思ったが、やめた。今成田を呼び出すなんて最もあり得ない選択だったし、ここのところほかの人間への性欲が目に見えて減退していた。もちろんそれは感情などのせいではなく、はじめて味わったアナルセックスにハマっているだけだ。
 気を紛らわせるために再生した音楽は、成田からくすねてきたアヴィーチーだった。とことんついていない。どうなってるんだ。