9 Ambulance!(兄の恋、上司の嘘)

「好きな人が出来た」
 久しぶりに会った兄の第一声に、成一は押し黙る。
(まさか、あの兄が。弟に恋愛相談を持ちかけるなんて)

 成一が兄にメールを送ってから、一週間が経過した。
 返事を諦めはじめていると、勤務明けの九時過ぎに電話がかかってきた。八月が終わり、九月に入って2週目の水曜日。『夏祭り酩酊者トラウマ』から復帰して間もない頃だった。
『おれだ。今日の夜は空いてるか』
「あのね…画面見ればわかるけど、名前ぐらい言ってよ」
『祥一だ、お前の兄の。どうなんだ、空いてるのか?』
「はいはい、兄貴ね。大体いつでもあいてるよ、残念なことに。駅前の焼き鳥屋でも行く?」
 朝の光が目に痛い。自転車にまたがり、消防署の前で電話をしていると、目の前を六人部やほかの署員たちが通り過ぎていく。
 気温は、八月のそれよりも随分マシになった。そう考えて自分を慰めながら、受話器の向こうの返答を待つ。
『肉でも食おう。あそこでどうだ、牡丹。おごってやる』
「マジで?やった!!あ、おれ明けだからさ、ちょっと寝てから行くわ。兄貴は?」
『おれは非番だ。時間は合わせる』
「よっし。そしたら20時に店の前で」
『了解。20:00現着』
「…仕事っぽく言うのやめろって…」
 ――そして、冒頭に戻る。

 

 

「……えーっと。好きな人っていうのは、つまり彼女ができたってこと?結婚するとか?」
 驚きと戸惑いで、肉を取る手が止まりがちになる成一と、対照的に落ち着きはらった兄、祥一。いつもは座敷の席なのに、何故か今日は個室を予約していることも気になる。
 上質の肉を手軽に楽しめるこの店は、精肉店が営んでいて、星野家は家族ぐるみで子供の頃から来店している。祥一の大好物の上ハラミをせっせと焼いてやりながら、ほとんど手をつけない兄に、成一は困り果てていた。
(おまけに、わけわかんないこと言いだすし)
 どうしてこんな話になったんだっけ?と首を傾げ、そういえば、元々は先日の『夏祭り酩酊者トラウマ』の話をしていたんだと思い出す。最近どうだ、と水を 向けられたので、酩酊者を三連続で搬送したこと、うち一人には頭から吐しゃ物をひっかけられたこと、おかげで時間外勤務になり、疲れ果ててコンパに行きそこなったことなどを話した。兄はきいているのかいないのか、分からないような様子で、時折相槌を打っていた。
「お前は彼女、いないのか」
 そうだ。この言葉がきっかけだった。成一がいない、と答えると、祥一が上記の発言を落としたのだ。聞いてもいないのに。
「結婚なんてしない。そもそも、付き合ってもいない。名前すら知らない」
「……それ何も始まってなくね?」
「だからお前に相談してるんだろう」
 祥一の真剣なまなざしが成一を射ぬく。昔から、兄のこの目が苦手だった。
(嘘ついても絶対、見抜かれるんだよなあ。ぼーっとしてんのに、妙なところ鋭くて)
「成一は昔から、女子供に好かれたからな」
「いつのことだよ、それ。じいちゃんばあちゃんには好かれるけど、若い女にはそうでもないよ。何の勘違いだよ悲しくなるわ」
「しかし何人か付き合っていただろう」
「まあ、何人かは…ん?ちょっと待ってよ。兄貴だって彼女ぐらいいたろ?今まで何人かは」
 改めて兄を見る。180cmを超えている成一よりも、更に身体が大きい。レスキュー隊に所属しているだけあって、筋肉質で、全身から男性フェロモンがムンムンしている。
(顔だって、おふくろ似のたれ目なおれと違って、親父に似てきりっとしてるし)
「二人だけだ。向こうに言い寄られて付き合ったことはあるが、どちらも結局好きになれなかったし、うまくいかなかった」
 意外だった。昔から何をやっても成一より出来た兄が、まさか。
「そうなの?でも結構長く付き合ってたよね、前の彼女」
「別れる理由もなかったからな」
 よく考えると酷いことを言っている気がする。深く考え込みそうになるのを、成一は頭を振って中断した。
「おれだってそんなに経験ないよ、ひとにアドバイスなんか出来ないって」
「頼む。教えてくれ。最初のデートはどこに行くのがいいんだ?今までは相手に任せきりにしていたが、今度はそういうわけにいかないんだ。絶対に失敗できない。嫌われたくない」
 焦げかけた肉を慌てて拾い上げて、兄と自分の皿に放り込む。言葉が上手く出てこないのは、目の前にいる大きい男が、三十歳にしてようやく『初恋』をしているのだと気づいたからだ。
(もっと早く済ませとけよ…めんどくさいよお…)
 大友のような話し方で、内心頭をかきむしる。
「どんな人?」
「え?」
「名前はわかんなくても。見た目とか、好きなものとか趣味とか!そういう情報があれば、デート場所の検討に役立つでしょ」
「ああ、なるほど。……とにかく、眉目秀麗な人だ。おまけに、知勇兼備。好きなものは…大福をはじめとした甘いもの全般だと言っていた。趣味は株と競馬らしい」
 言いながら自分でも混乱してきたのか、兄は頭をかいている。
「さっぱりわからん!そんな情報だけじゃどうしようもないよ!写真とかないの?」
 半分は、ただの好奇心だ。あの仕事一筋の兄を、ここまで骨抜きにするような美女が、どんな人間なのか興味があった。
 成一の言葉に、祥一は携帯電話を取り出す。そして、ややピンボケした写真を一枚表示して見せた。
 年の頃は24、5歳ぐらいだろうか。
 奔放にはねた、艶のある黒髪。真っ白な肌、完璧なラインを描く美しい横顔、長い睫毛にぬれた黒い眼。白衣のようなものを肩にひっかけて、隣の人と談笑している。後ろに映っているのは、何故か広々とした草原。ゆるやかに微笑んでいる、その人。
 普通の生活をしていたら、まず一生お目にかかることがない、美しい男がそこにいた。
 …そう、男だった。
 百合の花を思わせるような、清廉な美を持ってはいたが、それは、どこからどうみても男だった。
「この人男じゃないの?!」
「そうだな。言われてみれば」
「いやいやいやいや、言われてみればじゃなくてさ。まず、そこだよね。そこから入るよね。出会ったときに」
「失念してた」
「忘れねーだろそれは!」
 必死で言い募る成一をじっと見つめた後、不意に、祥一は笑った。
「何がおかしいんだよ…」
「いや、すまん。お前の口癖、久しぶりに聞いたなと思ってな」
「口癖?」
「照れた時とか、慌てたときによく言うだろう。『いやいやいや!』ってな」
「いやい……本当に?」
「今も言いかけてたじゃないか」
「そんなことどうでもいいからーー!!」
「元気になったんだな。良かった」
 兄のあまりにも嬉しそうな顔に、怒ったり慌てたりといった感情を忘れてしまう。
 いつもこうだ。マイペースで、我慢強くて、自分の事よりも他人のことばかり優先する。
(そういえば、自分から何かを好きだとか、どうしてもやりたいとか兄貴が言ってるのって、仕事のとき以外では初めてかもしれない。それがこんな風に言うんだから、きっと本気なんだ。よっぽど好きなんだな、その人のことが)
 興奮のあまり立ち上がっていた成一は、気が抜けたように椅子に座りこむ。祥一が、その様子を見て心配そうに眉を寄せた。
「ダメだと思うか?」
「ダメっていうか、まあ驚いたよ」
「そうか。やっぱりきれいすぎて、おれには不釣り合いだろうか」
「そこじゃねーよ!男だってところに驚いたって言ってるんだよ」
「なんだそんなことか。大した問題じゃない」
 一人頷きながら言う。成一は椅子からずり落ちそうになった。
「好きになるとき、いちいち性別なんて確認しないだろう。好きなものはすきだし、きれいなものはきれいだ。それでいい」
 むちゃくちゃな事を言っている、と思うのに、成一は何故か目が覚めたような思いがして、兄をじっと見つめた。日に焼けた精悍な顔が、意志の強い眼が成一の視線を真っ直ぐ受け止めて、笑いかける。
「で、なれそめは?あるんだろ、なんかきっかけが」
「よく聞いてくれた。それこそ今日の話につながる大切なところなんだ。他に話せる人間も思いつかなくてな」
 祥一が珍しく前のめりになって話しはじめる。鳶色の眼がうれしそうに輝いていて、まさに恋する男子そのものだ。困惑と混乱で苦い顔になりつつも、成一は二名分、ビールのおかわりを注文してやった。

 まるで業務の報告のように味気なく、装飾のない兄の説明を要約すると、こういうことだった。
 先週末、由記市の海辺で大きい音楽イベントが開催された。野外音楽フェスティバルと呼ばれるもので、入場者の規模は約1万5千人。ジャンルは、Jロックやエレクトロ、パンクなど多岐に渡るもので、祥一は職場の先輩に頼まれ、ボランティアでスタッフとして参加していた。業務は主に警備スタッフのようなこと で、ステージ前で観客に向かって立ち、モッシュやダイブなど危険行為をした人間を、つまみ出す作業の担当だった。
「体調は大丈夫ですかー、ちょっとでもおかしいと思ったら、スタッフの方も遠慮なく言ってくださいね。今日は、めちゃくちゃ暑いですから」
 Tシャツに、動きやすそうなデニム、スニーカー。そして、その上に羽織った白衣。首から下げているIDには、『救護所 医師』と書かれている。視線をさらに上にあげると、小さくてそれはそれは美しい顔が微笑んでいて、眼が合うと軽く会釈された。
「その人が初めておれの前に現れた時、スタッフミーティングの最中だった。だからゆっくりとは見られなかった。今思えば、もっと見ればよかったと後悔している」
 本当に悔しそうに言う兄に、成一が苦笑する。
「お医者さんかあ…」
「ああ。じつは、そのボランティアの最中に倒れてしまったんだ」
 兄の言葉に成一は驚いた。祥一は、由記市のハイパーレスキュー隊に所属している救助隊員だ。そのため、体力も筋力も人一倍ある。熱中症の知識だって十分すぎるほど持っているはずだ。
「水分補給怠ったの?兄貴らしくねえな」
「いや。熱中症になったのは隣のスタッフで――いや、おれもなったんだが。つまり、ステージの前で立って、暴れる客をつまみ出したりおさえたりしてたんだが、隣で同じ業務に当たっていた同僚が倒れたんだ。おれはそいつを背負って、1.5キロほど離れた救護所まで背負っていった」
「はあ!?救護所はタンカひとつねーの?その体制でそんな何万人も集めたのかよ、しんっじらんねー!」
「救護所は救護所で、戦場状態だったからな。おれもそいつを背負っていってわかったんだが、その日は猛暑で。100人近く運び込まれて、医者ふたりと看護師4人、てんてこまいだったんだ」
「ん……まてよ。こないだのフェスっていえば、結構ヤバいラウド系とかパンク系とか出てたよな。客も大暴れしたってことか…あのあたり、おれたちの管轄じゃないからノーマークだったけど」
「ようやく運び終えて、寝かせたときに、おれもその場に倒れ込んでしまって」
 そこで、治療に当たってくれたのが彼だったという。
「実をいうと前日随分酒を飲んでいたんだ。脱水にはならないように、相当水を飲んだんだが…先輩との飲み会だったので、セーブもできなくてな。ふと目をあけると、日蔭の簡易ベッドで、彼が覗き込んでいた」

 

 

 


『おはようさん。頭は痛くない?』
 柔らかい声だった。なにより、その眼の美しさに引き込まれた。
『ここは、救護所か。あの人は』
『大丈夫。君が運んでくれたおかげでね。今救急車を呼んでるから…君も乗る?』
 起き上がろうとして、やめた。まだ頭がクラクラした。身体の必要な部分が、的確にクーリングされている。
『それだけはやめてくれ。困るんだ』
『困る?どうして。医師としていうと、君は搬送するかどうか、ギリギリといったラインなんだけど』
 救急隊員と顔を合わせるのは恥ずかしいし、迷惑をかけることになることを避けたかった祥一は、目の前の、自分より随分若く見える医師に懇願した。
『頼む。訳は言えないが、救急車には乗りたくない』
 医師は、面白がったような表情で、ふうん、と相槌を打つ。
『なんか、わけありっぽくて面白いねえ。じゃあ、おれの課題をクリアできたら君は搬送無しにするよ。これ、なーんだ?』
 見せられたのはお馴染みであり、また評判についても知り尽くしている、経口補水液OS‐1だ。
『経口補水液。熱中症予防に使うあれだろ。評判はすこぶる悪いが』
『ご名答。最近は味も大分改善されてるけど……うーん、なんとなく君が救急車に乗りたくない理由、わかったかもしんない。まいーや。さ、これを自力で、全部飲めたら許してあげよう』
 手渡されたペットボトルは、蓋があけられ、程よく冷やされている。祥一はそれを口にあてて、一気に飲み干した。医師は拍手して、空になったペットボトルを受け取る。
『お見事。これね、味は評判悪いんだけど、内容は実に理にかなってるんだよ。うん、眼もしっかりしてきたね。さっき体温を耳で測らせてもらったけど、熱も高くないし』
 そこまで言った所で、救急隊員が救護所に入ってきた。医師は立ち上がり、祥一が運んだ男を含めた重症患者の詳しい症状を伝えている。
『そちらの男性は大丈夫ですか?』
 救護所の奥に横になっていた祥一のベッドに、救急隊員が確認に行こうとすると、医師が間に立ちふさがった。額に手を当てるように、さりげなく手のひらが顔に置かれる。顎のあたりまで毛布をかぶっていた祥一は、この若い医師が、顔を隠しているのだと気が付いた。
『彼は大丈夫ですよー。意識クリアだし、熱も大丈夫だし。さっき自力で補水液も500ほど飲んでましたから』
 指の隙間から見えた白い顔が、にっこりと彼らにほほ笑みかける。途端に救急隊員たちは困ったように視線を逸らし、曖昧な相槌を打つ。
『先生、随分お若いんですね、研修医、ですか?』
 車内収容を終えた隊長らしき男が医師に話しかけている。入口の当たりで話しているので、内容は途切れ途切れにしか聞こえない。
『よく言われるんですが、私はもう34歳です。救急医としてはベテランに入るんですけどね。そういうわけなので、診断は信頼してください』
 そのとき、隊員たちはどんな顔をしていたのだろうか。みれなかったことがとても悔しい、と祥一は笑いながら言った。

 

 

 その後、側に戻ってきた医師に、祥一は謝罪した。
『すみません。自分も、先生は研修医か何かだと思っていました』
 さっきはありがとうございました。身体を起こして、頭を下げる祥一に医師は笑って手を振った。
『いいよ別に。慣れてるから。フェスの救護所って、なんだか面白そうだな~って興味あってさ、挑戦してみたんだ。ちょうどこっちに来て、次の仕事までひまだったからね。言葉も敬語じゃなくていいから』
『でも先生は、こちらの方じゃありませんよね』
『あれっ……わかっちゃった?』
『イントネーションが、ところどころ違うので。…関西ですか?』
『君は探偵か何かなの?それとも警察の捜査員?こわいなあ、やましいことが多いからなあ』
『救助隊員です。由記市のハイパーレスキュー隊に所属しています』
『どうりで。良いからだしてるもんな~』
 そちらこそ、いい腕をしている、と祥一は頭の中で返す。
 寝ながら見ていても分かる。彼はとても腕のいい医者だった。判断が早く的確で、もう一人の医師とは明らかにさばいている量が違う。さきほどまで野戦病院と化していた救護所は、夕方になる頃にはすっかり落ち着きを取り戻していた。
『どうしてこちらに来られたのです?』
『面白そうだったからね』
『面白そう?』
『うん。変化しようとしているときに、そこにいたら楽しいだろ』
 謎かけのようにいって、微笑む。祥一はすでに、彼から目が離せなくなっていた。
 そう、冷たい手のひらが、目を覆った瞬間から。
『言葉はね、郷に入っては郷に従え、っていうだろ。こっちにきたら標準語かな~ってね。どう?こっちの人っぽく話せてる?』
『ところどころ、発音が違いますが』
『ええ~?人が頑張ってんねんからちょっとは褒めてえや』
『そっちのほうがしっくりきます』
 医師が声を出して笑う。笑うと目が細められて、長いまつげの影が出来た。
『まあ、大学の頃から、親しい連中は東京の奴とか神奈川の奴、あとは福岡の奴ばっかだったからね。うつるんだよなあ、言葉って。ごちゃまぜだよ、なんかもう』
 救護所から出るとき、持っていた携帯電話でこっそり撮った写真がさきほどの物だ。いけないとは思ったが、我慢できなかった。結局見つかって問い詰められ、自白することにはなったのだが。
『コラ!肖像権ってやつがあるんだぞ。訴えるぞコラー』
『先生』
『そんなに思いつめた顔しなくても。冗談だって』
 救護所の前だった。今でもはっきりと覚えている。夕日の中、祥一は思い切って口にした。
『おれともう一度会ってくれませんか』
『なんで?』
 また、面白がっているような顔。この医師はどうやら、自分の想像を超えたことが起きるのが楽しくて仕方ない、というタチらしい。
 祥一は笑うどころか必死だった。なんとか、彼の連絡先を手に入れたい。
 そして、もう一度会いたい。
『熱中症のことで、聞きたいことがあるから』
 下手な嘘だ。自覚はあった。だが医師は、騙されてあげることに決めたようだった。
『いいよ。返信はめちゃくちゃ遅いけど。携帯はほとんど見ないし、携帯のメールとかLINEって面倒くさくて大嫌いなんだ。ポチポチポチポチ、やってらんないよな。電話とか、キーボードのほうが早いし』
 懐から取り出したメモ帖に走り書きをして、手渡される。
 ものすごく汚い字だったのに、祥一は嬉しくてたまらなかった。
 そうして連絡先を手に入れた。名前を聞こうとしたところで、けが人が運ばれてきたから、未だにそれすらも知らないけれど。

 

 

 そこまでの説明を聞いて、我慢できずに成一が大声を上げる。
「なんで名前ぐらいきかなかったんだよー、治療してもらってるときにいくらでも聞けたろ!?」
 成一の言葉に、祥一が目を伏せた。
「忙しかったんだ」
「え?どういうこと?」
「彼を見るのに忙しすぎて、そんなこと思いつかなかった」
 とうとう成一は黙る。
 …これはもう、重症という他なかった。

 

 

 

「そういうわけなんですよ」
 詳細は伏せたまま、兄の話を『友人の話』として六人部に聞かせ終わり、成一が溜息をつく。
 学会の会場は、東京メトロの大門駅付近にある大学だ。由記市からは電車を乗り継いで約1時間。
「駅に来たのは久しぶりだな。そもそも、この街から出ること自体数か月ぶりだけど」
 聞いているのかいないのか、高架になっている線路を見上げながら、六人部が呟く。朝の早い時間なので、ほどよく涼しい風が吹いている。お互いにこんな時にしか着ないスーツ姿だ。医療系の学会はネクタイまで締めるのが通例だと聞いて、ついでなのでスーツ一式を新調したが、やはり涼しい方がありがたかった。
「便利ですよね、由記市って。都内まで一時間かかんないですから」
「そうなのか。東京はここに就職してから、数回しか行ったことない」
 六人部はシングル、ダークグレーのスーツに、アイボリーのバーバリーチェックのタイ、薄いブルーのシャツを着ている。
 お互いに身体を鍛えているので、スーツ姿がよく映える。
「もしかして、全部仕事がらみだけですか、学会とか?」
「そういえばそうだな」
 六人部が眉を下げて笑う。その顔を見ると、話を聞いていなかったのかと憤ることもわすれて、成一も笑った。
「せっかく近いのに。服とか雑貨買うなら、横浜出るより東京のほうが近いですよ」
「実は、この街のこともそんなに知らないんだ。休みの日は家からあまり出ないから」
「なんですかそれ!枯れ過ぎですよ!」
「遊び場所も分からないしな。盛り場がどこなのかも知らない」
「さ、盛り場って…。おじいさんじゃないんですからね、もうちょっと遊びましょうよ、隊長。美味しい飲み屋もいっぱいあるんですよー、えっちなお店はあんまりありませんけど」
 成一にとってみれば、由記市は生まれ育った町で、地元だ。この街のことなら隅から隅までしっていると自負しているし、少し成長したら東京にもよく遊びに行った。渋谷に行くのに、1時間もかからないのだ。
 快速特急が止まる割にこの街がゴミゴミとしていないのは、昔から住むお金持ちが多い所為だと大友が言っていたが、成一自身はそう感じたことはない。海が近くて、山もあって川もある。昔遊んだ田んぼは、ほとんどマンションに変わってしまったけれど、成一にとっては大好きな地元だった。
 時間の早さもあって、電車の中は空いていた。学会といっても、今回は医師に向けた講演がほとんどなので、一般の参加者として行くのだと、六人部は言った。
 向かい側の車窓から、外を眺める。移っていく景色を、黙って眺めていた。降車予定の駅を知らせるアナウンスが、うとうとし始めていた成一の耳に遠く響く。
「目を離す時間も惜しい、そんな風に人を好きになれるなんて、ものすごく幸せなことだと思うけどな」
 何のことだか分からずに、成一は隣の上司に顔を向ける。真剣な顔でこちらを見る、いつもの端整ですこしくたびれた顔。
「えーと。なんの話ですか?」
「お前がさっき話してたことだよ。友人の。あれからずっと考えてたんだけど、うん、すばらしいなあと思ってた」
 電車の中であるにも関わらず、成一は声を上げて笑ってしまった。まさか、あれからずっと考えていたんですか?と問えば、ああ、とまた真剣に頷き返される。
「す、素晴らしい、ですかね?30過ぎて初恋ですよ、初恋!」
「いいじゃないか。恋は素晴らしいものだぞ。お前も応援してやれよ、友達だろ」
(何この人、天然なの?それとも真面目なの?もう面白くて死にそう)
 目的の場所について、外に出た時には、成一はようやくといった感じで大声で笑い始めた。必死でこらえていたのだ。
「も、隊長、やめてくださいよ。面白すぎて死ぬかと思いましたよ~、あはは、ひー、もーっ」
「何がそんなに面白いんだよ」
 怒りというよりも困惑の表情で、六人部が問いかける。
「恋はすばらしいものだぞ、キリッ!がもうね…キャラじゃないっつーか」
「失礼だな。……ついたぞ」
 ふざけていた成一も、会場につけば真剣そのもので講演を聞いた。三日間にわたるという学会の全てを聞くわけにはいかないので、六人部が選んだ、業務に生かせそうなものを四講演ほど、二人で拝聴する。
「結構若い人もいますね、学会というと、おっさんばっかなのかと思ってました」
「研修医も、救命士もいるからな」
 メモを取り、夢中で聴く。医師に向けられた講演も多く、難解な内容も多分に含んでいたが、その都度分かる範囲で、六人部が筆談で教えてくれた。

 

「ドクターヘリは金がかかり過ぎる。ドクターカーなら、実現の難易度は随分下がるんじゃないか?」
「バカいえ。今回の症例は、経皮的心肺補助装置を運搬してCPAの患者が助かったってやつだけどさ、救急の現場にはいろんな患者がいるんだぞ。全ての傷病者に対応可能な設備を兼ね備えたドクターカー、なんて、いくらかかると思ってんだ」
 講演の空き時間に、フロアで休憩している同業者らの声が聞こえてくる。看護師の参加も多く、若くてきれいな女性もちらほら見受けられた。

 

「ドクターカーに、ドクターヘリか。うちの自治体には関係無さそうな話ですよね」
「お世辞にも経済状況がいいとは言えないからな、由記市は」
「一応政令指定都市、なんですけどねえ……。横浜市なんかに比べると、まさに金持ち父さんと貧乏父さんですよね。東京なんかもっと金持ちですけど」
「東京に来る度、素直に感心する。豊富な財源がなければ、ここまでインフラ整備はできない。少し田舎に行けば、公共交通機関なんてバスしかない、ってのが当たり前だからな」
「でも東京の救急医療体制、相当ヤバいみたいですよ。なにせ、人口が集中してますからね。道路の混雑も並みじゃありませんから。東京も、金があるならそのあたりにもうちょっとカネ突っ込めばいいのになあ~…羨ましいですよね、豊富な財源」
「どうだろう。救急は儲からないからな。小児、産科、救急。この三つは病院からすれば、金がかかって訴訟リスクが高い上、儲からない。医師は忙しすぎててんてこ舞い。常に人材不足だ」
「医師になるまでに相当金かかりますもんね…。わざわざ、そんなキツイ職場に医師として行きたい奴なんて、少ないですよね」
 学会を終えて、大学の構内からふたりで出た直後だった。雑談を交わしながら、今日は飲んで帰ろうか、という六人部の誘いに成一は喜んで頷き、携帯電話で飲み屋を探した。
「隊長、この店とかどうです、新橋なんで乗り換えちょうどいいし……あれっ?」
 目の前にいたはずの上司の姿が、どこにもない。慌てて前後左右を探すが、影もない。
(ええっ迷子?いやいや、まさか。いくらなんでも大人だろ!?大体この一瞬で消えるって。忍者じゃあるまいし!)
 とはいえ、放っておくわけにもいかない。成一は、迷惑にならない程度に走りながら、姿を消した上司を探した。九月という季節柄、まだ日が落ちるまでは時間があり、周囲はよく見える。ビルの隙間からは、東京タワーが時折姿を見せた。
 六人部はすぐに見つかった。キャンパスから、そう離れていない道路の歩道で、何かを探すようにきょろきょろしたまま突っ立っていた。
「隊長!探しましたよ!」
「…あ、ああ。悪い。知り合いに似た人を見つけて…」
「知り合い?」
「さっきの会場から出てきたんだ。ななめ後ろからしか見えなかったが、確かに似ていた。もしかしたらと思って、追いかけてしまった」
 何故か、成一の胸には言葉で表現できない不安が去来していた。もやもやとした、雨が降る前の雲のような不安だった。
「子どもじゃないんですから、頼みますよ」
 六人部の腕を掴み、駅へと誘導する。ちゃんと見つけられたのに、何故か心は落ち着かない。
(なんだろう。胸がざわざわする)
「行くか。新橋だな、一応予約しとくか?」
「あ、そうですね。えーっと魚の美味そうな店でね、ここどうですか、隊長!飲み放題付けられますよ~…」
 すでに六人部の表情は、通常のポーカーフェイスに戻っていて、成一は自分でも訳が分からないほど楽しい気持ちで、飲み屋へと上司を案内した。
「この日本酒が、刺身によく合うらしいですよ、隊長」
「外で隊長はやめてくれ。六人部でいいから」
「む、むとべさん」
「なんでどもるんだ。すいません、この酒、冷で下さい。猪口二つで」
 美味いな、よくこんな店見つけたな、とネクタイを緩めた六人部が成一の頭を撫でる。嬉しくて、成一はどんどん飲んだ。
(隊長がさ、笑ってくれると。なんかこう、むねのあたりがほっこりするんだよなあ~。あんまり笑わない人だから?よく分かんないけど。…今日はちょっと びっくりしたな、あんなふうに思いつきで動くようなところがあるなんて。ああ、あの時のことを思い出すと、変に胸がざわついてくる。…なんだろう、これは)
「むとべさん、はどうして消防士になったんですか?」
 呼びづらくて、どうしてもつっかえてしまう。成一の問いに、六人部は顎に指をあてて考え込んだ。
 混み合った店の中では、みんなが程よく酔っ払い、楽しげに何かを話している。新鮮な魚介を安価で提供している店なので、小汚く狭いが満席だ。
「早く働きたかったから、かな」
「自立したかったってことですか?」
「まあ、そういうことになるのか。由記市は消防だと寮があると聞いたから、ちょうどよかった。あとは……まあ色々だ」
 いつもは少し眠そうな目が、暗く沈む。言いたくないんだな、と察したものの、傾けた日本酒のアルコールが、成一をいつもよりも少し大胆にしていた。
「色々って?」
 テーブルに置かれた七輪でエイヒレを炙りながら、問い返す。ついでに六人部に日本酒を注ぐことも忘れない。
「お前は、由記市が好きか?だから消防士なったのか」
「好きです。だから守りたくて、消防士になりました、というとかっこいいんですが、実は兄貴の影響ですね。高校卒業する前に、進路を考えていたら兄に言われたんです。『なりたいものが分からないなら、誰かを助ける仕事にしろ。人は本質的に、誰かの役に立ちたい生き物だ』って。それで、救急救命士の資格が取れる大学へ」
 あの言葉がなければ、自分はなんとなく大学に行き、なんとなく就職していたかもしれない。口数が少ない兄だが、時折くれるアドバイスはいつも的確で、尊敬できるものだった。
「そうか…。さすが星野祥一副隊長だ。彼はいいよ、優秀だ。救助隊長の天城がいつも誉めてる。良い兄を持ったな、星野」
 六人部が黙って酒を飲むので、成一もそうした。
(あれ、そういえばこの人となら、沈黙が辛くないや)
 合わない上司と長く過ごしたせいか、常に顔色をうかがうクセがついてしまい、沈黙が怖かった。それが、六人部ならば怖くない。
(むしろ、心地いい、っていうか…)
 なぜだろう、と考えていると、六人部が頭を振ってから、言いにくそうに話しはじめる。
「おれは、自分の街が好きじゃなかった。貧しい人が多い地域で、治安も悪くて、夜になると真っ暗なぐらい、木が生い茂った団地だったな。壁には落書きが あって、紙屑とかエロ本の切れ端が転がってて、人がみんな息潜めたみたいに住んでる所だった。生活保護を受けている世帯が多くて、子供たちは万引きの腕ばかり磨いてそのまま大人になり、ろくな仕事に就かずにブラブラする。父と幼馴染がいなければ、おれもそうなっていたかもしれない」
 想像したこともなかった内容に、成一は相槌も忘れて六人部を見つめる。彼は、手のひらで頭の後ろをかきながら少し笑った。
「全部捨てていいって言われたんだ。全部捨てて、自由になって構わないと。街を捨て、親戚を捨て、自分自身すら捨てていいから、新しい場所で幸せになれと幼馴染に言われた」
「それが由記市、だったんですか」
「ああ。中学の教師…、随分世話になった先生がいたんだが、彼の出身地が由記市だった。いいところだったと聞いていたから、印象に残っていたんだろうな」
「いい友達を持ったんですね。『アキ』さんでしたっけ」
「おれの誇りだった。でも、おれは彼を捨てた。彼のおかれている状況も決して芳しくはなかったのに、自分だけが就職して、あの町から逃げ出した。一方的に、行先も告げずに。だからきっと、彼はおれを恨んでいると思う」
 言い終わってから、六人部は右腕で左耳の下あたりを掻いた。
 違う、と直感する。
(六人部隊長は、嘘をついている)
 成一の鋭い観察眼は、傷病者にだけ向けられるわけではなかった。嘘をついたとき、人はかならず身体のどこかでサインを出す。視線が落ち着かなくなったり、服の袖を掴んだり色々あるが、六人部は必ず、耳の下を掻くのだ。
(ほとんど嘘をつかない人だから、すぐに分かる。でも、嘘をついてはいけないなんて、誰が決めたんだ?おれは構わない。その嘘が六人部隊長の心を穏やかにさせてくれるものなら、騙されたっていい)
 そう思うのに、胸の当たりが苦しくて痛かった。嘘をつかれることよりも、本当のことを話してもらえない寂しさのほうが辛い。尊敬して、近づきたいと心から願っていても、六人部にはいつも目に見えない壁がある。
「言いたくないこと、聞いてしまってごめんなさい」
 だからといって、人の心の中へ土足で踏み込んでいいわけではない。
 成一が頭を下げると、六人部がやめろって、と慌てた。その顔には、嘘をついた罪悪感がうっすらと浮かんでいる。
「そんなことないぞ。話すと、少し楽になった。別れた妻にも言えなかったことなんだ。どうしてもっと自分というものをさらけ出してくれないんだと、妻はよくおれを責めた。あなたはいつも遠くを見てるとか、あなたは私を愛してないとか色々言われたんだけど、どうしてもその話は出来なかった。何故なのか……自分でも分からないけど星野には聞いてほしくなった。暗い話ですまなかったな」
 さあ、飲もう。
 六人部と成一は、ペースを上げて飲んだ。成一はお詫びにと新島のコンパでの失敗談を話し、六人部は大いに笑った。
(今は、これでいいんだ。いつか隊長がおれのことを信じて、話してくれたら)
 結局終電ギリギリまで、ふたりはその店にいた。

「なんか、学会いってからますます熱心だねえ、ほしのっち」
 大友の言葉に、成一が手を上げてハイ!と返事をする。出動と事務の合間に、救急に関する書籍で勉強をするようになったのだ。
 もちろん職場にある専門書、である。公務員である限り、『職務専念義務』があるので業務に関係のない勉強や読書はできない。
 六人部とともに学会に参加してから10日ほどが過ぎた。あの日あんなに色々な話をしたのに、飲み過ぎたせいでほとんど覚えていない。成一は、そのことをものすごく悔やんだ。
(ああーっおれのばかばか。せっかくいろいろ話をしたのに、ぜんっぜん覚えてねえーー!)
 卓上カレンダーは、業務の予定と赤のスラッシュで埋められている。過ぎた日を、赤ペンでスラッシュするのが成一の癖だった。今日は9月の17日、大好きな給料日だ。何故大好きなのかというと、給料日は必ず当務明けに飲みに行くから。六人部と大友と、それに時々救命センターの医師佐々木がそこに加わる。佐々木の部下や、同じ病院の看護師が加わることもあった。そこでは仕事にまつわる意見交換もできるし、何より六人部と二人で店まで行けることが、楽しかった。
(大友さんって、いつも現地集合なんだよな。お子さんのことがあるからかなあ。そのあたりは、聞けないから分からないけど)
「あのー、六人部隊長」
 隣の席に座っている上司に声をかける。彼は書類から目を離さずに答えた。
「なんだ」
「あの日、どんな話しましたっけ?ほら、学会の帰り」
「お、ほしのっち隊長と飲んだんだ。いいなあ、僕も行けばよかったなあ。飲み会目当てだけどね、えへへへ」
 大友の言葉に苦笑しながら、六人部が顔をあげる。
「憶えてないのか?」
「はい…すっかり…さっぱり」
 六人部が、言おうか言うまいか、といった微妙な表情を浮かべる。その様子が珍しくて、大友が楽しげに追及する。
「あれえ、もしかしてほしのっち、やらかしちゃったんじゃないの~?吐いちゃったとか、くだまいちゃったとか」
 途端に心配になって、座っていた成一が立ち上がる。
「そうなんですか?!えっ、おれ滅茶苦茶たのしかった記憶しかないんですが……どんな感じでした?」
 含みのある表情から一転、片頬を上げて、六人部が笑った。
「隊長ってどんな子供だったんですか、から始まり、おれの生まれ育ちなどを詳細に聞きたがってた。その後はいかに自分が由記市が好きか、どうして救急隊員を目指したのかを語ってたな。最後の方は、尊敬してますとか好きですとかあなたみたいになりたいとかひたすら言われて、困惑した」
 大友が冗談ではなく「あちゃあー…それは大トラですね」と呟き、成一を見上げる。
(そういえば…地元のこととか聞いちゃいけないんだっけ。どうしよう根ほり葉ほりきいてしまった、しかも勿体ない事にぜんっぜん覚えてない!)
「で、隊長はどうしたんですかあ?答えたんですか?」
 大友が好奇心満面の笑みで問いかける。六人部は答えましたよ、全部。と何でもない事のように言った。
「…すみません!」
 赤面を通り越して青くなる。成一は身体を直角に折って謝罪したが、六人部は憶えてないんだろう、気にするな、と平然としていた。
「おれも飲ませ過ぎたなと反省した。それに、あんなふうにほめられたら誰だって悪い気分はしないよ。星野は嘘やお世辞を言わないから、余計に」
「た、隊長~~~~一生ついて行きますーーー!!!」
「それは困る。さっさと独り立ちしてくれ」
 抱きついていくと、当たり前のようにかわされる。大友は別の事が気になったらしく、少し考え込むようなそぶりをしていた。
 めずらしく、静かな一日だった。平常から午前中は出動が少ないが、それでも、一件もないことは稀だ。
 だからといって何もしないわけにはいかない。いつ呼び出しがあってもいいように、六人部隊は車庫で、バックボードへの固定や手技の確認をしていた。
「星野はいまいち、固定センスがないな。よし、ちょっとお前傷病者になってみろ。大友さんとおれで固定するから」
 度々あるわけではないが、やはり大きい事故は発生する。そしてそういったケースでは、脊椎の損傷を少しでも抑えるため、バックボードといわれる板に傷病者を固定することになる。
「交通事故発生、高エネルギー外傷のケースを想定する。被害者は二十代男性、単車で単独事故。路面に投げ出されているところを通報される。現場にかけつけた我々がまずすべきことは、星野」
「ええと。周囲安全確認後、ヘルメット離脱、です」
「じゃあお前はこのフルフェイスをかぶって、そこに倒れてみろ。仰臥位だ」
「了解です」
 練習用においてある、フルヘルメットを被ってから、成一は仰向けに寝転がる。
 かけつけた大友と六人部が、意識確認を行う。はっきりとした声が聴こえた。そこから、六人部はものすごい速度でヘルメットのレバーを回し、ロックを解除して、シールドを開く。大友は脊椎にダメージを与えない絶妙の固定をし、一分もかからずにヘルメットが取り去られた。
「次、すべきことは。星野」
「時間があれば、ログロールで背面の外傷確認。素早くバックボードに固定します」
「よし。見本に一度やってやろう。重いけどな。大友さん」
「はいはーい!」
 ログロールとは、傷病者の身体を一本の丸太に見立て、脊柱軸にひねりや屈曲をくわえずに回す動作だ。本来は、1名が頭部を保持し、2名で回転させてバックボードにのせるが、今回は人数が足りないので、大友が頭部固定、六人部が一名で回転させている。
「ちょっとわかりにくいかもしれないが、本来体幹部分の回転は二名で行う。ひねりが加わらないように、工夫はしているが一名では無理がある。このとき大切なことは、顎、鼻先、臍が一直線になるように頭部を保持すること」
 背面観察良し。成一にわかりやすいように、あえて六人部が声に出す。
「分かっていると思うが、確認だ。背面観察をした手でバックボードを引き寄せ、先ほどと同じ要領で身体を回転させてバックボードに固定する。いいか、丸太だ。身体を一本の丸太だと思え。ここから、固定に入る」
 バックボードに仰臥位になっている成一を、六人部がベルトで固定する。痛くもなく、ゆるくもないちょうどいい強さだ。
「まずは体幹固定。これは分かっているな。最後に頭部を固定するが、大概はそのまえに頸椎カラーがつけてある。現場では、外傷事故の場合車に挟まれている状態からの救助がありえるが、そう言った場合でもわずかな隙間から頸椎カラーだけでもつける。
 おれたちの仕事は、運べばいいってもんじゃない。傷病者は、退院してからも生活がある。その生活の質を少しでも良くするためには、こういった基本的な手技が大切なんだ」
 六人部の淡々とした言葉。そう、この中に『熱』がある。
(隊長の仕事に対する熱は、傷病者に向かう真摯な姿勢。上っ面の言葉や見た目じゃない。だからこそ、おれはこの人みたいになりたいんだ)
大友が頭部を固定し終える。
「どうだ?」
「あの…不思議と苦しくはないのに、身体が動きません」
「そうだ。普段のお前の固定は、若干きつい。こんな風に」
 六人部が、成一が普段しているという強さでベルトを固定する。確かに身動きはできないが、きつくて少し辛かった。
「ほんとだ…すみませんでした、教えて頂いてありがとうございます」
 成一が依然配属されていたのは、交通事故すらほとんどない署だった。大学で救急救命士を取るにあたって、様々な訓練をしたけれど、やはり真に技術が磨かれるのは、現場だ。応援で大きい事故現場にかけつけることはあったが、やはり現場をこなしている隊員の手技には見劣りしてしまう。
 固定されたまま、几帳面に頭をさげようとして、「いてて、やべ、頭動かせねえ」と呟いた成一に、大友と六人部が笑い声をあげる。笑わないでくださいよお、と文句をいいながら、成一は幸せを感じていた。
(永遠にこの隊でいたいよ、おれ。あー、でもこれって…)
 甘えかもしれない、そう自分を戒めて、頭の中で教えてもらった手技のポイントを復唱する。もう一度やってみろ、と言われて、今度は六人部が傷病者の役を買って出る。九月半ば、それも正午近くとあって、三人とも汗まみれになっている中、本日1件目となる指令が入った。
『救急、指令。現場は由記南インターチェンジ付近。乗用車二台、トラック一台の交通事故。脱出不能者あり』
 固定を解いて、救急車に走り込む。途端にピリピリとした空気が、救急車の中に充満した。消防隊のメンバーが少し遅れて走ってきて、消防車に乗り込む。そこには新島の姿もあった。
「PA連携だな。由記署救急隊長より本部。これより救急一隊、消防一隊出場する」
『本部より由記署。了解しました。なお由記北署、由記南署のほか、救助隊も出場します』
 PA連携というのは、ポンプ車(Pumper)と救急車(Ambulance)が同時に出場することだ。これにより現場での人員を確保し、連携して救急活動が行えるもので、都内で始まったことをきっかけに今や全国的に行われている。
真っ赤なポンプ車が先導し、サイレンを鳴らしながら出場した。
「よし、続くよ!」
 大友の声を合図に、救急車が国道へと走り出す。高速道路内での事故。大きい事故であることは、成一にも分かる。
(レスキューも出るのか。兄貴と会うかもしれないな)
緊張で浮かんだ汗が、成一の顎を伝って車内へ落ちて行った。

 

 

 

 

「まもなく現着だ。おれと星野が現場確認、大友さんは傷病者の確認をお願いします」
「了解!」
 大友と成一が同時に応える。
 現地にはすでに救助隊が先着していた。赤い車体に白いラインの入った、救助工作車のすぐ側に救急車を止めると、六人部が真っ先に現場へと走る。続いて成一がストレッチャーを押しながら後を追い、大友が続いた。
 現場は、乗用車一台がトラックに追突され、その乗用車が前の軽自動車に追突した為、結局五台を巻き込む玉突き事故になっており、追突された乗用車は大破。中に運転手一名が閉じ込められた状態になっていた。トラックの運転手は軽傷で、現場で警察の質問に答えながら手当を受けている。
 六人部は真っ直ぐに大破した乗用車の元へと向かった。オレンジ色の制服が成一の目に入って、レスキュー隊が傷病者を救出している最中だということを把握する。
「おい、お前……星野じゃないのか」
 後ろからかけられた声に、成一は固まる。振り返ると、そこにはかつての上司、徳田が立っていた。
「やっぱりお前か。なんだ、応援っつってもお前らかよ、使えねえ奴ら寄越しやがって。形ばかりの免もちなんざ、この状況に何人いても無駄だろうが」
 相変わらずむき出しの悪意に、声が出てこない。
 こんなところで言い合っている状況ではない、と頭では理解しているのに、悔しくて苦しくて、その場から足が動かなかった。
 ――南署の救急隊も出場していることは、本部からの連絡で分かっていた。だがまさか、徳田が出ているとは考えてもみなかったのだ。
 だが狼狽えていたのは、ほんの数秒だった。
「星野!」
 六人部の大声で、成一は我に返る。軽く会釈してから、六人部の元へと走った。
「はい、すみません!」
「誰だ、あいつは」
「以前の署の上司です。徳田司令補」
 階級こそ六人部と同じだが、人間としても上司としても、天と地ほどの差がある。そう思いながら成一は淡々と返答する。メインストレッチャーに乗せてきたバックボードを地面に置き、バッグマスクの準備を済ませる。
 素早く周囲を観察する。大きく破損した車両とハンドルの間に挟まれた男性は、ぐったりしていて意識が無さそうだ。
 現着した時間はそんなに変わらないはずなのに、救助隊はすでに救助資材を準備し終えている。誇り高いオレンジ隊員達は、迅速で無駄のない動きですでに車両切断準備に入っていた。
「救助隊長、要救助者は一名で間違いないか?」
 六人部が、車両に張り付き指示をしている救助隊長に声をかける。
「要救助者は一名だ、間違いない。いまから救助するから、そこをどけ!」
「観察はできないのか。少しでも隙間があれば、要救助者の観察が可能なはずだろ」
「救助後にしろよ、脱出不能なんだぜ!」
 救助隊長の天城が叫ぶ。だが六人部も決して引かない。
「自発呼吸の有無で、酸素投与できるかどうか判断できる。傷病者のQOLを考えろ。できる処置をしながら並行して救助すべきじゃないのか!」
 どちらの言っていることも間違いではないが、傷病者の救命を第一に考えれば、六人部の発言に軍配が上がったようだ。救助隊長である天城も、頭をかいてから観察スペースを探し始める。
「よし…六人部、こちら側の扉が外れている。ここから観察は可能か?」
「十分だ。ありがとう」
 事故の衝撃で外れかけている助手席側のドアの隙間に、六人部が走り寄る。慌てて成一も後を追い、準備してあったバッグマスクを手渡す。
「隊長、マスク準備できています」
「よし、バックボードの準備も頼む。救助完了後、即座に全身固定する。大友さんを呼んでくれ」
「はいはーい、ここにいますよお!他の傷病者は軽自動車に乗っていた女性一名で軽症、すでに搬送済。交通整理は、他署とうちの消防隊にお願い済です。ほしのっち、特訓の成果を見せる時がきたね」
 呼ぶまでもなく、大友が駆けつけて後ろから声をかけてくる。六人部が無言で成一の背中を叩いた。
(あ、震えが止まった)
「大丈夫だよ、ほしのっち」
 大友の優しい声に、成一は言った。
「一人じゃ、ないですもんね」
「そういうこと!」
 救助隊が車両を切断し終え、傷病者を救出する。兄と一瞬目が合って、強く頷かれた。
(あとは、まかせたってことか)
「全身固定、車内収容!」
「了解、大友さん」
「オケー、頭部は僕が、体幹部を隊長とほしのっち」
 固定し、メインストレッチャーで救急車内に収容する。汗をかいているのに、暑いという感覚がまるでない。まさに燃え尽きようとしている命とその危機感が、いつも成一の他の感覚を麻痺させてしまう。
 そして、その分全ての集中、感覚、思考が、目の前の傷病者へと収束する。見えている全身の皮膚、肺の動き、呼吸音、出血量…そういったものがまるでスローモーションのように、成一の頭の中に次から次へと入ってくる。この症状は、これか。いや、これがあるならば違う…ものすごい速度で、思考が広がり、流れて、うっすらとした出口へと向かっていく。暗闇の中にわずかに光っている、出口へと。
「高濃度酸素投与!星野はモニター、大友さん、選定は?」
「三次選定ですよね!救命センター、受け入れ可能です」
「よし、ロードアンドゴー!」
「了解、あーもう、すいません開け閉めしないでもらえますか!」
 消防隊員や警察官が、入れ代わり立ち代わり救急車の中に入って来ようとするのを止めながら、成一は酸素投与を始める。外傷患者には保温が必要になるため、ありったけの毛布で保温していて、救急車のドアを開け閉めされるのは困るのだ。
「消防指揮隊には病着後連絡する。警察さんは一名同乗しますか、残念ながら身元確認している時間はありません」
 冷静な六人部の問いかけに、警察官が頷く。
「わかりました!一名同乗します」
 大友がサイレンを鳴らして発車する。耳慣れたサイレンの音を聞きながら、成一は六人部に声をかけた。
「隊長、頸静脈に、わずかですが怒張が認められます」
 成一の言葉に、六人部が深く頷く。
「よく気づいたな。血圧は?」
「低下傾向です。心音はありますが…、これは…」
「触診する、星野はモニター観察を続けろ」
「はい」
 六人部が傷病者の胸部を指で確認し始める。
「胸壁振動は……ないな。フレイルチェストは無さそうだ。静脈圧は?」
「上昇です。Beckの三徴でしょうか。心音ははっきりしています」
「断定はできないが、可能性は考慮しなければいけない。いつCPAになるか分からない、CPRの準備を」
「完了しています、心タンポナーデの可能性を感じていましたので」
 六人部が少し言葉に詰まってから、よし、と呟く。
 心タンポナーデとは、心筋を覆っている心嚢に外傷によって血液が溜まり、心臓の動きが抑制されることによって発生する障害のことを指す。交通外傷などでハンドルによって胸部を強打した際に発生することがあり、実際には心破裂を起こしていることが多い。つまり、突然心臓が動きを止める(心停止、アレストとも言う)ことがあるのだ。
「長くは持たないかもしれない。大友さん、到着は」
 成一と処置にあたりながら、六人部が運転席に声をかける。
「渋滞している道を避けてるから、えーっと、あと十分!」
 珍しく焦りをにじませた六人部の気持ちが、成一には痛いほど良く分かる。呼吸も脈拍もある場合、救急救命士に許されているはずの『特定医療行為』は何も出来ない。気道挿管や薬剤投与をすれば、救命率が上がることは成一も六人部も分かっている。分かっているが、「心停止」や「呼吸停止」でなければ、挿管も薬剤投与も出来ない法律になっているのだ。(※サイト連載当時。現在は投与可能)
 目の前で一つの命が失われようとしていても、そしてそれを救う手段や技術を持っていても、使うことが許されていない。そのことが、息苦しくなるほどに悔しかった。
(こういうとき、ドラマやアニメの世界じゃないんだって思い知らされる)
 成一も六人部も大友も、救急隊員であり、つまり公務員だ。公務員は業務の全てを法に縛られていて、法のもとにしか動けない。法を破れば懲戒処分を受け、最悪の場合仕事を失う。ルールなんかクソくらえ、というカッコイイ科白は、作り物の世界でしか許されていない。
「頑張ってください、もう少しで病院につきますから!」
 大友の凄まじいドライビングテクニックで、細かく開いた隙間を救急車が疾走する。サイレンの音と自分の心臓の音がうるさい中、成一は声を掛け続けた。特定行為が出来ない以上、救急救命士でもできることはほとんど何もない。酸素を投与して、モニターを見ながらCPAにならないことを祈り、声を掛け続ける。観察を怠らず、急変にすぐに対応できるように心構えをする。

『お前らの仕事はただの運び屋だ。誰でもできる』
 つい最近消防隊に言われた言葉を思い出した。暑い中、出動が多くてイライラしていた成一は、このからかい半分の悪口に掴みかかりそうになった。隣にいた上司のあの言葉がなければ、殴ってしまったかもしれない。
 隣を一瞬、盗み見る。眉を寄せて、汗を流しているその表情は、初めて見る種類のものだった。そこにあるのは、ひりつくような焦燥だ。
(助かれと叫んで助かるのなら、声が嗄れるまで叫ぶのに。法に縛られていなければ、輸液も静脈注射も気道挿管も全部やるのに。おれは無力だ、やっぱりただの運び屋なのか。結局、病院と現場を行ったり来たりするだけなのか)
『本当に、誰にでもできたらいいのにな』
 六人部は、その時そう言った。怒るでもなく悲しむでもなく、頷きながら心底そう思うといった表情で、そう言ったのだ。
『誰にでもできて、全員が助かればいいのに、それが出来ないから足掻いてる。おれも、星野も、大友さんも』
 六人部の真意を全て汲み取れたか、と問われると成一も自信がない。だがその時の消防士の恥じ入るような表情や、即座に吐き出された謝罪の言葉をきいて、純粋にすごいなと思った。
(六人部隊長はきっと、自尊心なんてどうでもいいと思っているんだ。仕事に対するプライドなんて、どうでもいいって。助かればいいし、助けられるならなんでもいいって。他人にどう思われるとか、どう評価されるかなんて気にも留めていない)
 何があれば、そこまで貫けるのだろう。助かるならばいいじゃないか、と何でもない事のように言えるまで、どれだけいろんな死を、自分の無力を、見て感じてきたのだろう。
「あと五分です、もうちょっとですよ!」
 意識が無くても、声は脳に届いているのだと聞いたことがある。だからいつも成一は、処置をしながら呼びかけ続ける。
 還ってこい、こちらに戻ってこい。
まだやりたいこともできることも沢山あるはずだ。
「着いたよ!」
 六人部が車から飛び出す。ストレッチャーを押して、来慣れた救命センターの搬送入口へと駆け込んだ。サイレンの音で、銀色のドアから一斉に救急スタッフが飛び出してくる。病院の廊下で、六人部がはっきりとした声でバイタルを告げる。
「脈拍140、血圧78‐40、JCS300!23パーミニットです」
ストレッチャーの車輪が転がる音が廊下にこだまする。牧田看護師長が、処置室に向かいながら声を掛けていて、成一もそれに続いた。

「…セツ?」

 張り詰めた声が聞こえて、顔を上げた。
 そこには、仕事を忘れそうになるぐらいに美しい男が立っていて、ひどく驚いた顔で誰かを凝視していた。どこかで見たような顔だな、と思ったが、無意識に視線の先を追いかける。
 その先にいたのは、六人部だった。
 成一の上司は、まるで幽霊をみたような顔で、眼を見開いている。
「え、六人部隊長、知り合いなんですか?」
 何が起きたのか分からず、成一は六人部と美しい医師を交互に見た。彼らは、驚きのあまり固まっている。
「何やってんだ三嶋!処置室行くぞ!」
 三嶋という医師は、一瞬身体をビクンとさせてから、処置室へと走っていく。成一は『手術中』と赤く灯ったランプの前で、今起こったことを反芻する。翻る白衣がすっかり見えなくなっても、六人部は長い間、そこに立ち尽くしていた。
「…隊長。帰りましょう。次の出場がいつ入るか、分かりませんから」
「………」
 動こうとしない上司の腕を引いて、救急車へと戻る。
 成一の胸は、これまでにないほどに激しくざわめいていた。