7 Ambulance!(酒は飲んでも飲まれるな)

「そんなこともしらねえのか?救急救命士さんよー」
 嘲るような色を隠すことなく、上司が言う。
「…すいません」
「ったく固定はへたくそだし、判断はおせーし。知識だけあってもてんで使えやしねーなー!免もちのくせによお」
 搬送を終えて帰署すると、さっそく上司である徳田隊長の説教タイムが始まった。口ごたえすればますます酷くなるので、成一は黙ってうなだれる。
 採用されて、はじめに配属されたのは由記市の海手側、「南区」にある由記南消防署だった。観光客が多く訪れるそこは、民宿やホテルなどがある割に住んでいる人間は少なく、出動数もそう多くない。
 政令指定都市になってから、由記市の人口は増える一方だった。都心まで一時間かからないアクセスの良さに加え、山も海もある豊かな自然や、大学誘致の成功による学研都市化。バブルがはじけた後に遊んでいた工場や商店の跡地が、次々と新しい建売住宅となり、人が定住していく。
 それに伴い、救急車の出動回数は、由記市全体で見ればものすごい速度で増えつつあった。
(そう、ここ南署以外は。)
「おい聞いてんのか星野ぉ!」
「はい!すいませんでした!」
 素直に教えを請えば、見て盗み取れ、それでも大卒かと言われる。見た通りにすれば、へたくそだと罵られる。
(つまり、この人はおれの事が気に入らないんだ、一挙手一投足)
 評判のいい人物ではない、と他の隊からは聞いていた。が、いかんせんキャリアが長く声が大きい人物で、表立って徳田に逆らおうとするものはいなかった。誰でも波風は立てたくない。
 飲み会では、散々弄り回された。仕事とは無関係な私生活のことを根ほり葉ほり聞かれ、否定される。パワハラともとられかねないほどに、徳田の成一に対する言動は執拗で、陰湿だった。一度ビール瓶で殴られた時は、気を失いかけた。さすがにその時は他の署員が止めてくれたが、体育会系の飲み会で、こういった事は少なくないので大した問題にはならなかった。
(負けてたまるか。…こんなことで、絶対あきらめないぞ)
 その日も理不尽な説教を三十分ほど聞かされた後、車庫で一人救急車の設備を点検していた。
「なあ、中央署の救急隊にいる、六人部って知ってるか?隊長の」
 聞こえてきたのは、消防隊員らの雑談だ。
「ああ、名前だけなら。優秀らしいなあ、レスキューの隊長も頭上がらねえって聞いたことあるぞ」
「六人部隊長な、今度うちにもできた、ハイパーレスキューに推薦されてるらしいぜ」
 ハイパーレスキューは主に政令指定都市に配置される、『特別高度救助隊』のことだ。レスキューという言葉に、成一は胸の奥が少し痛んだ。
(兄貴、どうしてるかな)
「ええっ?!あれはレスキュー隊から特にデキる奴が選ばれるんじゃなかったのかよ。あの人救急だろ?」
「そうそう、すげえ特例だよな。オレンジ服は基本そうなんだけどな。最近、災害救助が多いだろ。救命士を増やして、ハイパーレスキューん中に救命士だけの特別隊を作るって話があるらしい」
「マジかよ~~また枠が一つ減るじゃねえかー」
「えっお前オレンジ着たいの?訓練相当キツイらしいぜ」
「消防官ならだれだって一度は憧れるだろ!ま、おれじゃ無理だろうけどさ。で、六人部隊長は来年からトッキュー行きか?」
「いやいやそれがさ、断ってるらしいんだよ」
「へえ?なんで!」
「救急の現場が好きなんだと。変わってるよな~」
 変わってんなー、という相槌を打ち合っている声が遠くなる。
 成一は驚いていた。
(救急の現場が好きだなんて、思った事なかった)
「どんな人なんだろう…」  

 

 

 

 

 

 祖父母の代から結城市の山の手に住んでいる成一は、就職も地元を希望した。便利さも、自然もある自分の街が好きだったし、住む人の役に立てる仕事に就きたいと思っていた。

「仕事についたら、男は家を出るもの。まずは一人暮らしをしなさい」

 就職が決まったときに、誰よりも喜んでくれた祖母は、笑顔でこう言った。
「自分のことを全部、自分でやれるようになる。それが独り立ちというもの。女の子ならば家から出すのは心配ですし、家事をお手伝いしたりもするでしょうが、あなたは男ですもの。家にいても、図体ばかり大きくて、邪魔になるだけです。
成一君、お仕事のスタートラインはね、独り立ちすることです。自分の事もできない人間は、社会にとって不要です」
 背筋がピンと伸びた、成一にとって母親代わりの祖母の言葉は、いつも正しかった。成一の父は商社マンで世界中を飛び回り、母はバレエの教室を開いている。成一と、兄祥一の子育ては、祖母がほとんど一手に引き受けていた。
「これは、あなたの両親が独り立ちのために貯めたお金です」
 通帳と印鑑を渡される。二世帯住宅の一階に住んでいる祖母は、華道の師範をしており、結い上げた髪も着物も、乱れ一つ見当たらない。畳に向かい合って座っているが、足を崩している成一よりも、正座している祖母のほうがずっと凛として見えた。
「そしてこれが、私から成一君へのお祝いです」
 もう一つ通帳と印鑑を渡されて、あわてて首を振った。
「いいよ!そんな、受け取れないよ」
「こういうものは、ありがとう、と受け取ればいいんです。ただし」
 押し返そうとした成一の手のひらを、祖母が軽く叩いた。
「この、私からのお祝いだけで、新生活の準備をなさい。両親からのお金は、とっておくこと」
「それは、でも…ばあちゃん」
 まだ何か言おうとする成一に、祖母は厳しい顔をして見せた。
「成一君。仕事は、3年、何があっても続けてみなさい。そして3年続けても、どうしても無理だ、心が壊れると思ったときは、このお金を使って転職なさい。 仕事を辞めることなく、天職として続けられるのなら、それに越したことはありません。その時は、愛する人が出来た時、結婚の資金として使うといいでしょう。
…就職おめでとう。あなたと祥一君は私の宝物ですよ」
 涙が出た。祖母の手を両手で握ると、思っていたよりも痩せて、年齢を感じる。
「ありがとう、ありがとうばあちゃん。おれ、頑張るから」
「祥一君のことを、お願いね。あの子は昔から無口で我慢強くて…文句も我儘も言わない子だったから、辛くてもため込むばかりでしょう。時々でいいから、声をかけてあげてくださいね。同じ組織に入るのだから」

 

 

 

 

 

 

 

 目を開ける。
 窓を開け、扇風機をつけていても蒸し暑く、眠りが浅い日が続いていた。仕方なく起き上がり、時計を確認すれば、まだ朝の五時を過ぎたところだった。顔を洗い、歯を磨いて、テレビをつける。ニュースを流しながら、ストレッチをした。
「夢、というよりは記憶って感じだったな。兄貴、どうしてるんだろ。そろそろメール、してみるか」
 充電器からアイフォンを抜いて、メッセージアプリを立ち上げた後、ふと手が止まる。
(異動して落ち着いたらメールしろって言われてたんだった。たぶん、前の署でのゴタゴタ知られてるよなあ…。どう送ればいいんだ、ハズカシイ)
 いろいろ考えた結果、「兄貴元気?おれは、元気。毎日充実してるよ」とだけ送った。
 カレンダーを見て、夢の内容に納得した。一週間後が、祖母の四回忌にあたる日だった。
(休暇貰わなきゃ、六人部隊長に言おう)
 結城中央署から自転車で15分ほどのワンルームマンションだが、駅から遠いので格安だ。いつもよりも少し早くロードに跨り、朝の風の匂いを吸い込む。八月になり、暑さは増す一方だったが、動きやすい夏の方が冬よりも好きなので、苦にならない。
「おはようございます」
「おはよう、早いな星野」
 由記中央署の署長、里村が笑顔で手を上げる。掃除や机拭きなどの雑務を終えて席に着くと、まだ出勤していない六人部の席に座り、話しかけてきた。
「どうだ、慣れたか」
「はい。大友先輩も、六人部隊長も本当に優秀で、隊に恵まれてありがたいです」
 緊張で声が大きくなる。立ち上がろうとするのを手で制しながら、里村が言った。
「それは何よりだ。実はな、お前がここに来たのは、六人部の推薦があったからなんだ。何度か、大掛かりな出動で一緒になっただろう?その時のお前を見て、育てたいと自分から言ってきた」
 混乱した。ろくな仕事は出来ていなかったはずなのに。何故、という疑問で頭の中がいっぱいになる。
「良い眼を持ってる、って言ってたぞ。観察力に優れていると。それなのに、手技や判断基準を教えてやる隊長に恵まれていないってな」
 顔が熱くなった。恥ずかしくてたまらなかった。
(…知られてたのか。うまくいっていなかったこと)
「六人部はもう救急隊が長い。そろそろ異動の年数なんだ。おれはな、あいつにオレンジ服着させてやりたい。能力の高い連中の中で切磋琢磨しながら、思う存分救命をさせてやりたい。そのためには、後継者がいる。星野、お前は偶然ここに来たんじゃない。六人部に選ばれて来たんだ」
 期待してるぞ。そう言って、成一の肩をぽんと叩いてから、里村が立ち去る。
「おはよう。あれ、どうしたんだ、突っ立って」
 上司が出勤してきて、成一の肩に手を置く。そこで初めて自分が、自席の前で立ち尽くしていたことに気付いた。
「おわっ、すいません。おはようございます、六人部隊長」
 お互いにすでに制服を着ている。自席に座った六人部は、『救急救命医学会』と書かれたパンフレットのようなものを持ち、真剣に読んでいる。
「今度学会があるんだが、星野も来るか」
「学会、ですか?」
「救急救命士だけじゃなくて、医師、看護師。救命医療に関わる医療者がたくさん来るよ。ためになると思うから、都合が合えば」
「行きます」
 都合が合えばどうだ、と言う言葉を最後まで聴くことなく即答する。
「そうか、分かった。大友さん、おはようございます」
「おっはよお~~~ほしのっち。これ、ありがとねーー」
 手渡されたのは何も印刷されていないDVDだ。内容は、男性特有のアレである。
「ちょ、こんなとこで渡さないでくださいよっ」
 声を潜めながら大友を肘で小突く。
「そんな気にしなくても。どうせ男しかいないんだからさ」
 鷹揚に笑って隣に座る。成一はヒヤヒヤする思いで、隣の上司を盗み見たが、彼はすでに別のことを考えている様子だった。
「おーい星野、おれにもかしてくれ~」
 目ざとく見ていたらしく走ってきたのは、消防隊の新島だ。そばかすといつも笑っているようなたれ目がトレードマークの同期で、甲子園まで行ったことのあるエースピッチャー。上背があり、消防隊勤務ということもあって、身長は変わらないのに一回りほど大きく見える。
「これって誰が出てるやつ?」
 さすがに階級が上の人間が近いことが気になるのか、六人部の顔をちらちら見ながら小声で問いかける。
「みすみだよ。お前の好きな」
 みすみは今をときめく超人気AV女優だ。成一の趣味というわけではなく、所帯持ちである別隊の先輩が購入し、保管と管理を命じられている。
「まーじで!いやった~ありがとなー。あ、お前明日のコンパくる?人数一人足りてないんだわ。ほんとはさ~先輩誘わないといけないんだけど、やっぱ気使うっつうか。同期のが、楽だし。どうよ」
「いきなりすぎるだろ。もうちょい前に誘えよお前、わざとだろ」
「もちろんわざとだよ。だってお前連れてったらつまんねえもん。もうちょいガツガツしてくんねえと盛り上がんねえんだよな~頼むよ?ちゃんと脱ぐシーンでは脱いでくんねえと」
「新島がガツガツしすぎなんだろ。だからもてねえんだよ。大体居酒屋で酔っぱらって脱ぐな、迷惑だろ」
「うるっせ。女性のみなさんはおれら消防隊の筋肉に期待してんだよ。脱いで、魅了する。そして、メロメロになったところでおいしく頂く。男はみんな狼なのだ~」 
 古い歌を歌いながら立ち去っていく。六人部を見やるが、彼はやはり全くこちらに関心を払っておらず、手元の論文のようなものに集中している。
「新ちゃんは、コンパばっかりしてるねえ」
「そうなんですよあいつ。今月入ってからもう、3回はやってますよ。このクソあついのに、やれバーベキューコンパだー、海水浴コンパだーって。あのバイタリティは尊敬しますけど」
「そんなにいつも脱ぐの?」
「脱ぎますね。でも女の子も嫌がってる感じあんまりないんですよ。キャーとかいいつつ指の間から見てるみたいな。やだーへんたーい!っていいながら触るみたいな!おれは、脱ぎませんけどね。そういうテンション嫌なんですよホント。大体ねえ、好きな子以外に裸なんか見せたくないでしょ!」
 店の迷惑考えろよな、と真面目につぶやいている成一に、六人部が今日初めて笑った。わずかに右頬が上がった程度だったが、大笑いしている大友は見逃さない。
「あはは、もうやめてよほしのっち。面白すぎて隊長まで笑っちゃったよ。どこのお嬢様なんだよお。結婚するまでエッチしませ~んってこと?あはははは、もうダメだ~僕おなかいたいよ~」
 笑いをこらえているのか、六人部も震えながら言う。
「自信がないだけじゃないのか、身体に」
「なっ!言うに事欠いて…こう見えておれは元バレエダンサーですよ、ガチムチじゃないけどちゃんと筋肉はありますー!インナーマッスルがね!そういう隊長こそどうなんですか、脱げって言われたら脱げる身体なんですか」
 自分でも何言ってるんだろう、と思わないでもなかったが、話の行きがかり上後には引けない。
 指さされ、意味不明の挑発を受けている当の六人部は、涼しい顔で言い放った。
「いつでも脱いでやるぞ。お前と違って鍛えているからな」
 売り言葉に買い言葉。普段の成一なら、そう思って笑って受け流したはずだった。それが。
(…いつでも脱いでやるぞ…ってなんかエロいんですけど…言いますかふつう。しかもそんなしれっと。本当に頼んだら脱いでくれそうな感じで)
「なんですかそれ。誰が頼んでも脱ぐんですか?」
「お前がきいたんだろ」
「いえ、そうですけど」
「……」
「あれっ。もしも~し。ほしのっち、どしたの~?なんか眉間に皺よってるけど…あ、ヤバい。朝礼の時間だ、いきましょ」
 成一が顔を上げると、すでに二人の姿はそこにない。
 彼らの足の速さに救われたな、と胸をなでおろした。

 

 

 

 

 

 

 今日の業務が終われば明日は非番だ。
 コンパに誘ってきた新島消防隊員も同じで、住んでいる場所も近いため一緒に帰る予定だった。ところが、そんな日に限って出動が多いということを、成一は経験上知っていた。知ってはいた、が。
「どうなってんだ今日は~~~~~!」
 8月の由記市の平均気温は34度を超える。予想はしていたが、それをはるかに上回る出動回数が六人部隊を襲った。
「ふえーっ、熱中症だけで四件だよおーっ!まだ昼の二時だってのに」
 太っている大友にとって、制服の上に着る感染防止衣はサウナスーツのようなものだ。汗まみれになり、息も絶え絶えになってデスクに突っ伏している。
 成一は、大友の顔や首を冷感ボディペーパーで拭いてやりながら、助けを求めるような目で上司を見た。
「弱音を吐くのは早いですよ。今日は夏祭りの日ですから」
 帰ってきたのはいつもの無表情だったが、その返しを受けた大友は顔色を変えて起き上がる。
「忘れてた。熱中症だけじゃすまないや……」
「え?夏祭りって…」
 頭を抱えた大友に、今度は自分の身体を拭きながら、成一が問いかける。勤務終わりまでシャワーなど浴びる時間は無いため、こうして空いた時間を見ては、ボディペーパーなどで汗をぬぐうしかない。
「この近くで毎年、地元の町会と企業が夏祭りをやってるんだ。そこの河川敷で花火も打ち上げるぞ。数は少ないが、みなとみらいとかに比べると穴場だからな。出店もあるし、毎年結構な数の人が来る」
「そ。そんで、飲酒だよ飲酒~~~~はあーーーーこれが一番やっかいなんだよなああああ…さあてほしのっち。ここでわれわれの業務にどんな影響が出てくるでしょうか?」
 鈍い成一もさすがに察した。顔が引きつる。
「未成年飲酒やハメ外した大人の急性アルコール中毒、あと下手したらケンカによる外傷……」
「せいかーい。賞品はありませーん。はあーー…ショックだよ…定時までに帰れないかもしんない」
「え!?どうしてですか!?」
 大友と六人部が顔を見合わせる。それから、深い溜息をついた。
「そうか。星野は今年が初めてだったな。今日が終われば分かる。超過勤務も覚悟しとけ」
「あと、わるいんだけど労災、えーっと僕らの場合公務災害っていうんだけど、手続きが超大変で、ものすご~く総務に嫌がられるの。お金出るまで半年とかザラだし、欠勤しちゃうと査定にも響いちゃうし、ボーナスは減っちゃうしいいことなし。なるべく怪我しないように自衛してね。僕らももちろん気を付けるけど、人間って理性失うとすごい力だからさ」

 そこから、夏祭りがはじまる午後七時までは、比較的平和だった。軽症が二件と、不搬送一件。ちなみに、搬送不要であると通報者に言われた場合でも、全身観察や聞き取りは行い、書類で同意を得る必要がある。
「今回の件は不搬送だが、基本的に不搬送はしない方がいい、というか、出来ないと思っておけよ」
 夕日のせいで、眩しそうな顔のまま六人部が振り返る。助手席から延ばされた、さすがに疲労の隠せない横顔に、成一は曖昧な相槌をうった。
「え…はい」
 救急車が署に戻る途中だった。小児の熱性けいれんで呼び出されかけつけたものの、到着したころにはおさまっており、また近所の病院が受け付けてくれることになったため、保護者が搬送不要を申し出、不搬送となったケースだった。
「判例があるんだ。不搬送で処理した後、容体が急変して傷病者が亡くなったケースで…まあこれは色々な要因があるんだが、地裁では救急隊に有責で判決が出てる。例えどれほど軽症に見えて、本人から同意を貰っていたとしても、受け入れ先が決まりづらい状況だったとしても、我々には搬送を受けてもらうよう最大限努力する義務がある。救急隊は、救急救命士であって、医師じゃない。戻ったら資料を見せてやるから読んでおけ」
「はい!」
「責任を逃れたいってんじゃないけどねえ。やっぱり、救急隊員だって人間だから。家族もいるし、仕事を失いたくない。何より人命が第一だってことは、大前提だけどね」
 運転席から大友が補足する。
「あと30分ほどで19時だ。これからの時間帯、酩酊や泥酔の傷病者が出てくることになる。今伝えた事がすぐに役に立つぞ」
「了解です」


 

 成一が本当の意味で言葉の意味を痛感したのは、それからほんの一時間後のことだった。
 いつもの呼び出し音の後、指令が流れる。その時六人部はトイレに行っていて、大友と成一は自席で書類を書いていた。
『救急、指令。○町目 夏祭り会場にて男性一名外傷。現在警察官2名対応中。付加情報あり』
「きたきた…きたぞ~案の定付加情報ありじゃんかー、っと」
 見た目にそぐわず早い動きで大友が車庫に向かって走り出す。成一も後に続く。
「隊長探さないといけませんかね?」
「だいじょうぶ、聞こえてるよ。ほら」
 制服の上に大急ぎで感染防止衣をまとい、靴を履きかえ救急車に乗り込む。六人部はすでに助手席で指令室とやり取りをしていた。
「こちら中央署。出場する救急隊長です」
『指令室です。付加情報がありますのでお伝えします。本件は男性二名の喧嘩が原因のようです。2名とも酒気帯びとのことですが詳細不明。会場は混雑著しく、活動には十分注意してください』
「了解。出場します」
 後ろの席から見る六人部の顔は、成一がつけたあだ名「鉄仮面」にそぐわしく、厳しいものに変化する。どんなに緩んだ会話をしていても例えトイレにいっていても、ひとたび出場すればスイッチが切り替わるのだ。
 その顔から、冷たい人間だと思っていた。ところが彼を知れば知るほど、その仮面の下に隠された、触れると火傷しそうなぐらいの、熱に気付く。
 そう、熱だ。無駄に放射しないようにしているだけで、六人部は成一の知る中で最も業務に対して情熱的で、禁欲的な人間だった。
(きっと今だって、頭の中ではものすごい数の現場シュミレーションがあるんだ)
 サイレンが鳴る。大友が流れるような動きで、交通量の多い国道に侵入し、隙間を通り抜けていく。長い長い夜の始まりだった。

 

 午後8時20分現着。
 現場は、想像はしていたがものすごい混雑だった。サイレンとマイクで人並みをかき分け、なるべく現場近くまで入り込んだ。
「隊長、これ以上は無理ですよお。帰れなくなっちゃうかもです、このひとだかりだと」
「そうですね。先に行きます。星野はメインストレッチャー押して走ってこい。おれは先に行く。くれぐれも気をつけろよ」
 河川敷の、車が入り込めるいちばん奥まで救急車で乗り付ける。途中、交通整理をしていた所轄の警察官の助けを得ながら、なんとか傷病者に接触することが出来た。
 現場は、河川敷を下りた広場になっているところで、ビニールシートを敷いた客がまだ半分ほど残っていた。花火が終わったことにより一斉に帰宅を始めた人々が、波のように、細い河川敷の道に集中している。
『押さないでくださーい、はい、おさないかけないしゃべらなーい。はいそこ、救急隊の方を通してくださーい。ご協力感謝します!』
 聞こえてくる警察官の交通整理を、(あれがDJポリスか…)などと思いながら聞き流し、必死で六人部の背中を追う。まるで忍者のように、上手に人並みを かきわけて、重い隊長バックをもろともせず駆け抜けていく様子に、ここ最近は焦りすら感じるようになった。
(追いつきたい、けど、おれが走って追いかけても、隊長はもっと早いスピードで向こうへ行ってしまう)
「どいてくださーい!救急隊です!」
 救急車を停車し終えた大友が後ろから走ってきて、共にストレッチャーを押し、声をかけながら走る。
 傷病者はすぐに分かった。制服の警察官が集まっている場所で、二名に両脇から押さえつけられている。大声で何事かを喚き散らし、顔は真っ赤で、耳の下やこめかみのあたりから血を流している。
 どう見ても、酩酊以上の状態だ。
「中央署救急隊長六人部です。傷病者は?」
 声をかけられた警察官が、まだ暴れようとしている傷病者に「落ち着いてください!」と大声をあげる。
「こちらの方です。酔っているところを狙われて財布をすられそうになり、喧嘩になったようです。相手は緊急逮捕しましたが、この方は怪我をしていて、自立できないほどの酩酊状態でしたので…」
(…いや、まあ怪我は確かにしてるけども全然大したことなさそうだし、警察で保護してくれたらいいのになあ……被害届とかいろいろあるだろうに)
 成一の心を見透かしたように、取り押さえていた中年の警察官が眉をひそめる。
「もちろん、治療した後にこちらの仕事はさせてもらいますよ」
「警察の方も一名同乗願います。宇都宮さんですね、怪我を見せてくださいね」
 ひとまずビニールシートの上に座らせて、膝立ちになった六人部が接近する。おさえていた警察官は腕を離し、すぐそばで立って様子を見ている。
「うるっせえよ、なんだてめえは、頼んでねえだろうが!」
 四十代後半ぐらいだろうか。まだまだ力が有り余っている様子の傷病者が、ツバと共に大声で怒鳴り散らす。聞き取りをしている間に成一はガーゼを取出し、傷口に当てようとした。
「てめえこのやろう、さわんじゃねえ!○□×…!」
 ものすごい速度のエルボーが飛んできた。間一髪のところで避けたが、酔った人間の動きとは思えない。
「ちょっと、危ないですよ!動かないでくださいね、傷の手当をしますから」
 慌てて警察官が後ろから肩を掴み、おさえる。ますます男は興奮し、両腕をばたつかせて暴れはじめた。
「お前ら、全員でおれをハメようとしてやがるな!!」
「お父さん、救急隊の人たちだよ。病院に連れて行ってくれようとしてるんだ、おとなしくして。ね?」と若い警察官が宥めるも、もはやろれつの回っていない言葉と、ぶっころすという悪態を男は繰り返している。
「ひとまず車内収容しよう。宇都宮さん、頭と、耳が切れていますよ。手当をするためには、病院に行った方がいいです。ほら、Tシャツが血まみれですから。救急車に乗って病院に行きましょう」
「なんだとお?お前、ふざけんな人の話きいてんのかこのやろう!病院なんかいかねーよ!おれァな、病院がこの世で、いっちばん、だいっきらいなんだよ!! 死んだっていかねえ、聞いてんのかコラァ!!あんなやつらはなあ、金のことしか考えてねえんだよ!!」
「そう言わないで。…すいません警察官の方も手伝っていただけますか。星野、ストレッチャー」
「はい!うわっ、暴れないでください、僕らは治療したいだけです」
「うるせええええええ!!」
 血をぽたぽたと地面に落としながら、傷病者が立ち上がって掴みかかってくる。成一は目を剥き、すんでのところで避けた。
「よいしょおお!」
 大友が、腰の当たりを抱きかかえて強引にストレッチャーに乗せる。暴れようとするのを警官二名と一緒におさえて、六人部と成一で固定した。
「なんだお前ら、○×△~~~」
「車内収容」
「了解です!とおしてくださーい!すいません、けが人です、どいてくださーい!」
 ほぼ無理やり車内収容までこぎつけたが、傷病者は大声を上げてストレッチャーを揺らしている。
「ちょっとじっとしてくださいね、モニターできませんから」
 モニターしようにも、暴れているためままならない。大友は早口で受け入れ依頼をはじめたが、いまのところ三件、全て断られている。
(それにしてもすごい力だ)
 固定されていて、おまけにけがをしているにも関わらず、ストレッチャーどころか救急車が揺れるほどに暴れる傷病者を、呆れとも驚きともつかない目で見ながら成一は声を掛け続ける。六人部は冷静に観察を続け、暴れ出しそうになると警察官が止めに入った。
「宇都宮さん、酔っている時は痛覚がマヒしているから、自覚症状のない大けがをしていることがあるんです」
 淡々と説得する六人部を見ながら、すごいなあと感心する。てめえに関係ねえだろう!と怒鳴られ、顔中にツバを浴びて振り回される腕を避けながら、彼の表情は落ち着いたままだ。
「そうですよ。転倒して頭を打っていますから、きちんと病院で見てもらった方がいいですよ」
 援護射撃をした成一に、何故か六人部は少し驚いた顔をして、何かを言おうとする。だがその声は、傷病者のろれつの回らない大声でかき消されてしまった。
 20分ほど押し問答が続き、その間に医療機関も決まらず、ようやく傷病者が落ち着いてきた。さすがにずっと怒鳴り続けることは出来ないのか、舌打ちをしながらブツブツと文句を言いながらも、病院に連れて行かれることは諦めたようだ。
「はい…はい、ええ、満床ですか。わかりました」
 すでに7件の医療機関に断られ、機関員である大友の声はどんどん早口になっていく。
「大友さん、ダメでしたか」
「次はあいさわ病院にかけてみます」
 なんとかガーゼで手当てを終えて、モニター測定もできたので、成一も手持ちの携帯電話で病院に電話をし始めた。腕時計を見れば21時30分、出動から約一時間も経過していた。
「…結城中央署の救急隊員 星野です。傷病者一名受け入れ願います…」
 どれぐらい電話を掛け続けただろうか。5分、10分と時間は飛ぶように過ぎていく。おいおいこれがたらい回しかあ!?などと、傷病者が再び大声を上げ始め、警察官が宥めている。
「てめえら税金で食ってんだろうが!!さっさと運ぶなら運べってんだよ、この税金泥棒どもが!タクシーがわりにもなりゃしねえ!」
「大声を出すと傷に触ります」
 六人部の静かな声が対照的だ。成一は青筋を立てながらも、電話を続ける。
(泥酔の傷病者が、こんなに受け入れてもらえないものだなんて!)

 ようやく搬送先が決まったころには、出動から一時間半が経過していた。搬送先の病院でも暴れる可能性があるため、警察官がひとり、病院に残ることになる。
 搬送を終え、帰署して時計を見て思わず声を上げる。
「マジかよ~……」
実に二時間もの間、ひとりの傷病者にかかりきりになっていたのだ。車庫から戻る足取りも、自然と重いものになる。夜の業務はまだまだ始まったばかりで、先が思いやられた。
「星野、悪い。ボディペーパー1枚くれ」
「はいっ」
 さすがと言うべきか、六人部は全く疲れた様子もなく平然と自席に座っている。渡したボディペーパーで顔を拭き、肩を回して書類仕事を始めた。
「…たいちょーはやっぱすごいですねえ。僕、この出動で結構削られましたよお…。イテテ」
「大友さん、おれも実は…」
 大友は抱き上げたときに肩を殴られ、成一は肘が当たって背中にけがをしていた。
「ものすごい力でしたね」
「言ったろ。理性を失った人間はけだものなんだよ。なんだ、怪我してるのか?」
「いえいえ。怪我ってほどじゃないです、ほんと」
「ええ~~っ、ほしのっちは強いなあ。まあ僕も脂肪という名の鎧のお蔭で、致命傷は免れたけどもさあ」
 六人部が立ち上がり、眉を寄せて言い放つ。
「上衣を脱げ。処置してやる」
「いやいやいや、大丈夫ですから。ほら、ぴんぴんしてます!ね!?」
 わざと屈伸のような動きをしたり、腕を振り回して見せる成一に、六人部は首を振った。
「ダメだ。お前の為じゃない。怪我が原因で今日の業務に支障をきたしたら、困るのは傷病者だからな」
 六人部の言い分に分がある。成一は、逡巡した後、諦めて頷いた。
「すみません。お願いします」
 自分の為ではなく、これから助ける傷病者の為。もっともな言葉なのに、成一はどこかがっかりしていた。
(何を期待してんだか)
 制服の上衣を脱いで、Tシャツ一枚になり、椅子に座る。六人部の顔が近づいてきて、思わず目を逸らす。端整で、凛とした無表情。肩を掴まれ、椅子を回転させられて、背中に指が触れた。
 冷たい指だった。背中が、冷たさだけではない理由で粟立つ。傷を確認するように、六人部の手のひらがまくり上げた成一の素肌を撫でる。
「…これは腫れるかもな。一応、打ち身用の湿布はっとくけど、市販品だから気休め程度かもしれないぞ」
「ありがとうございます。ご迷惑おかけしてすみません」
 自分が情けなくて、俯いている成一に、六人部が笑った気配がした。
「何しょぼくれてんだ。いい勉強になっただろ。次から気をつけろよ」
 顔を上げると、すでに六人部は目の前にいない。隊長なら書庫に行ったよ、とだらしなく机に突っ伏している大友が言う。
「あのー、大友さん」
「んー?」
「あれって、やっぱり酔っ払いだから、ですよね?」
「ああ、受け入れ拒否?そだね。まあ、仕方ないんだけどねえ」
「仕方ないって…傷病者を受け入れるのが、救急指定病院の仕事じゃないんですか?それで固定資産税の減免だって受けてるはずでしょ」
 思わず語気が荒くなる。成一の勢いに、大友がまあまあと手を振る。
「ほしのっち、コーヒーでも飲む?僕いれるからついでにさ」
「先輩にそんなことさせられませんよ、おれ淹れてきます」
 勢いよく立ち上がった成一の後ろ姿に、大友の「元気だな~」という呟きが聞こえてくる。
「うん、ほしのっちのいれたコーヒーは美味しいね。……前の署では、あんまり酔っ払いっていなかったの?」
 窓の外は真っ暗だ。成一は苦笑しながら頭をかく。
「隠してもばれちゃうと思うので白状します。前の署、結構ひまなところだったんですよね。おまけに上司とウマが合わなくて、異動前とかほとんど干されてる感じでした。だから救急救命士の免許もってるんですけど、経験も技術もなくて」
 恥ずかしくて大友の目を見れず、窓の外へと視線をずらす。大友が何かを言う前に、頭に衝撃が走る。
「自覚してるなら、努力しろ」
 頭をはたかれたのだ。痛くて痛くて、涙目になる。見上げた先には六人部が立っていた。怒ったような顔で、成一を見下ろしている。
「おれも、大友さんも、お前を絶対に見捨てたりしない。何があっても。分からないことや気になったことは、なんでも聞けって言ったろ?これは」
「おれの為じゃなくて、傷病者のためだ、でしょ?」
 笑いながら先手を取られて、六人部は憮然とした。
「……そうだ」
「あはは、隊長素直じゃないなあ。ほしのっちのこと、すごく買ってるくせに」
「何を言ってるんですか、大友さん。やめてください。星野はまだ、ひよこどころか卵からかえってすらいないですよ」
「ひどいですよ!さすがにひよこぐらいは…!」
 言い募ろうとする成一に、六人部は耳を貸さずに自席に座ってパソコンに向かい始める。
「ほしのっち、さっきの続きだけどね。夜勤の時間帯は、どこの病院も手薄なんだよ。それは、救急指定されてる病院でも、やっぱりそうなの」
 コーヒーを一口飲んで、成一は相槌を打つ。
「それは、分かります」
「でもさ、よっぱらいの傷病者って、すごく手がかかるだろ。さっき経験したから分かると思うけど、暴れたり暴言吐いたり、スタッフの数も時間もかかっちゃうんだよね。そうしたらさ、受け入れた病院はその患者にかかりきりにならないといけないわけだよ。スタッフが怪我をしたりする可能性もある」
「おまけに、酔っ払いはある程度自己責任ですよね」
「そういうこと。どうしても、同情は得にくいよ」
「でも、さっきの傷病者は後頭部を打っていました。相当出血していましたし、急変の可能性だってありますよね」
 大友は目をぱちぱちさせて、成一を見た。
「後頭部打撲、本当に?…気づかなかった」
「おそらく。後頭部のほうは、出血こそしていませんでしたがときおり目を擦ったり、前が見えにくそうにしていました。もしかすると脳挫傷の可能性もあるかと思ったんです」
 六人部と目を合わせた後、大友が破顔した。
「なるほどね。ほしのっちの『武器』、僕にもわかったぞ」
「あの、何の話ですか」
「こっちの話。確かにね、酩酊の軽い外傷程度なら、断ればどっか別の病院探すだろ~みたいな医療機関には、正直腹が立つよ。でも、医療機関、とっくに救急医療っていうのは、本当にどこの病院も赤字でね。大変な中で、ギリギリでやってるんだってことは、分かっててほしいんだ」
「はい。…病院も、おれたちと同じなんですね。少ない人数で、救急搬送は増える一方だから」
「そういうこと」
 頷いている大友の口癖を見つけて、成一は少し嬉しくなる。
「教えてくださって、ありがとうございました」
「なんだよお、改まって」
 深々と頭を下げた成一に、大友が笑う。
 当たり前のことのように、大友も六人部も教えてくれるし、手本を示してくれる。だがそれが当たり前ではないことを、成一は知っている。どれだけありがたいことか、自分が恵まれているのか、分かっている。
(それが分かるようになっただけでも、前の署にいてよかった)
「お礼は、次なるえっちなDVDでいいんだよ、エヘヘへへ」
 大友が鼻の下を伸ばした瞬間に、指令が入る。
『救急、指令。○町目、夏まつり会場付近。 男性二名外傷、付加情報あり』
 ガタンと音を立てて、3人が立ち上がる。署内を走りぬける際、消防隊の新島が心配そうにこちらを見ていることに気付く。
(確かにこの調子だと、時間通りには帰れないかもしれないもんな。あいつ、コンパの人員心配してやがるぞ。前までのおれなら、仕事でコンパに行けないことを嘆いてたかもしれないけど、今は)
 成一は前を向いて、誇らしげに先輩の後を追った。