6 ピース オブ ケイク(再会)

 母の見舞いに訪れた病院からの帰り道で、アキは久しぶりに聡の言葉を思い出した。

 確か中学二年の、夏休みだった。宿題を二人でやっていた時だ。聡はご褒美だと大きなスイカを持ってきた。食べながらウトウトと眠り始めた息子の摂にブランケットをかけてから、唐突にこんな話をし始めた。
『辛いときに効く呪文があるぞ』
『呪文?』
『そうや。A piece of cake。唱えてみ?』
『ァ ピース オブ ケイク…どういう意味?』
『朝飯前。ぜんぜん、たいしたことない!みたいな意味だよっ!』
 教育テレビの英語教室に出てくるキャラクター、フレディの物まねをして聡がおどける。思わず笑ってしまいながら、アキが復唱する。
『そうや。一人で辛いときになあ、頭の中で唱えてみ。その場はそれを唱えて我慢したら、あとでおっちゃんと摂が助けたるからな』
 口を開こうとして、閉じる。それを三度繰り返してから、アキは掠れた声で呟いた。
「ピースオブケイク…ピースオブケイク、ピースオブケイク」
 引っ越しのための段ボールにまみれた自分の部屋で、膝を抱える。夜中、冷たい孤独に押しつぶされてしまいそうだと思った。
「聡さん、早く。摂、お願い…早く助けて」
 母親に言われた言葉が頭にこびりついて離れない。あんなに弱ってベッドから起き上がれないほどなのに、どこにあんな大声を上げる元気が残っていたのだろう。
 病院での出来事を思い出すと、アキの持病である偏頭痛が酷くなった。痛む頭をおさえ、膝頭に自分の鼻先を擦りつける。
 耳をつんざくような、あの大声…。

「人殺し!あんたは、人殺しよ!自分の父親を殺した、人間のクズよ!誰か来て、この人殺しを、私の病室から追い出してー!」

 呼ばれてやってきた看護師と医師は皆、アキに心からの同情を示してくれた。彼らはアキが裕福な医者で、月に何度も母親を見舞いに来る孝行息子で、容姿が 美しいということに対して絶大な信頼を寄せていたのだ。少しお手伝いをしましょうね、そういってロヒプノールを静脈注射してあっという間に落ち着かせてしまう。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「いいえ。構いませんよ。よくある事です、お母様は少し混乱されているのでしょう」
「そう思います」
「お引越しをされるんですって?」
 担当医が、ベッドの横に座っているアキを舐めるように見る。品定めするような目ではなく、好色そのものの目だ。想像の中でアキの衣服を脱がせ、髪を掴んで奉仕させているに違いない目。そういう視線に慣れてはいても、気持ちのいいものではない。
「神奈川県の病院に移ることになりました」
 絡み付いてくるような医師の視線から逃れて、病室の窓の外を眺めながら言った。
「そうですか。後のことは叔母様にお任せになるんですね」
「はい。どうかお金の事は心配なさらないでください。ここを経つ前に、正式にご挨拶にお伺いしますね」
「寂しくなりますね。看護師はあなたが来る日をいつも楽しみにしていたんですが」
 そこまで言ってから、小声で「わたしもね」と付け加えるのを忘れずに、医師がニタリと笑った。それから、芝居がかった動作でアキの髪に触り、「埃がついていましたよ」とのたまった。ちらりと見た指先には、何も掴んでいない。
(気持ちわるい…ぞっとする)
 アキは時々男性と寝るが、誰でもいいわけでは決してない。
「そろそろ失礼します」
 名残惜しそうな医師に頭を下げ、病室を出るまえに一度だけ、母親を振り返る。
 薬が効いているのか、彼女は昏々と眠っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 車のラジオから、ビートルズの歌が流れてくる。
 懐かしさから、息が止まりそうになった。懐かしいメロディと、聞き慣れた歌詞に思わず一緒に口ずさむ。高速道路に点々と落ちているオレンジの照明を超えて、車はどんどん進んでいく。
 リンゴ・スターが歌うこの歌が、アキは一等好きだった。ビートルズのレコードやCDを貸してくれた、当時の担任教師は、今どうしているだろう。
 様々な後処理や挨拶周りを終え、母親の世話のために叔母にまとまった金を手渡し、大阪の街を出た。飛行機や新幹線での移動も考えたが、どのみち車は運ばなければならないし、せっかくなので住んだ街や育った町を見ながら離れようと思った。
 大阪市内の病院で母に最後の別れを告げても、彼女はアキを息子だとは認識できなかった。末期のガンだけではなく、精神も随分前から病んでいるのだ。アキだけではなく、知人のほとんどを認識できなくなっていて、ひどいときは暴れて物を投げたりする。
 車のフロントガラスから見える街は、美しかった。悲しいことも苦しい事も山ほどあったけれど、もう住むことがないのだ、と思うと、それらすべてを含めても美しい街だと思えた。
 途中、何度かSAで休憩をした。渋滞を避けるために夜中の三時出発にしたものの、代わりのドライバーはいないのだ。自分で自分を労わりながら、走りきるしかない。
車を運転していると、何度か涙がこみあげてきて困った。
 二人で歩いたあの公園も、あの桜並木道も、薄汚れた団地の壁も、もう二度と見ることは出来ない。
 だが、泣くわけにはいかなかった。アキのモットーは、「嬉しいときには人一倍泣く。でも悲しいときには絶対泣かない」だ。昔読んだ少年漫画の主人公が、 「嬉しいときしか泣かないことにしている」と言っているのを見て感動したのだった。これは素晴らしい考えだな、と思い、それ以来長く実践している。

 

 

「初めまして、本日よりこちらで勤務させていただくことになりました、救急医の三嶋顕と申します。以前は京都の救命センターに勤めていました。慣れないうちはご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします」
 頭を下げる。忙しい救命救急科のメンバーが勢ぞろいして、拍手で出迎えてくれた。
 由記市の救命センターは、噂で聞いていたとおり、とても雰囲気のいい職場だった。資金は潤沢とは言えなかったが、おそらくセンター部長の力であろう、救命に対する意識が総じて高く、それでいて自由に意見が言えるような、風通しの良さがある。
「実は三嶋は、大学の後輩なんだ。こう見えて三十四、救急医としてはそこそこベテランだ。専門は腹部外傷、多発外傷に伴う敗血症。外科専門医も持っている。 もともと救命センターにいたからな、ICU管理はお手の物だし、オペの腕はおれが保証するぜ。みんな、よろしく頼むよ」
 佐々木の言葉に、救急科の看護師長を含めほとんどの人間が驚いた顔をする。
「あら三嶋先生…すごく若く見えるんですねえ」
 おっとりと話すこの人物こそ、有能と名高い看護師長の牧田だ。花形の科を渡り歩いてきた看護のスペシャリスト。丸い頬と、いつも笑っているような表情が印象的な女性だ。看護師達が、そろってぼうっとしているのは、アキの外見によるもので、この反応は久しぶりだったので、少し新鮮な気がした。
(前の病院も入ったときも、こんな感じやったなあ。懐かしい)
 病院内の案内を頼むと、数人がこぞって手をあげてくれた。結局、牧田師長が案内してくれることになり、ロッカーの場所や、各科の場所、特徴などをメモしながら歩く。
 由記市立大学付属救命救急センターは、まだ新しいこともあって、施設が揃っていて快適な病棟だ。開口部をふんだんに設けたロビーは明るく、受付から案内に至るまで、徹底された機械化で効率よく患者をみることができる。
「一階が、私達救急科、つまりICU病棟になります。救急車が入ってくるのが、この出口です」
「牧田師長、一日にどれぐらいの患者が搬送されてくるのですか?」
 アキの質問に、彼女はにっこりと笑ってからよどみなく答える。
「年間1700件程度の受け入れがあります。1日に換算しますと4,5件というところですね。波はあります。外傷だけですと、年に約800件ですから…1日3件あるかないかでしょうか」
 1700件。以前の職場とほとんど変わらない受け入れ数に、アキは度肝を抜かれた。
「すごい数ですね」
「ええ、そう思います。井野頭センター部長の方針なんです。『搬送は断るな』。言うは易し、為すは難しですが。神奈川県だけではなく、周囲の都道府県の重症患者も運ばれてきます。特に高速道路が整備されてからは」
 エレベータで各科を案内してもらった後、アキから申し出てコーヒーを御馳走することにした。病院の一階には広くて清潔な食堂があって、カフェも併設され ている。前衛的な建築家がデザインを担当したらしく、中庭に向かう壁面は、全て強化ガラスと鉄筋コンクリートだ。青々とした木々と、晩夏の強い日差しが目に入ってくる。
「ちょうど昼休みの時間ですし、これぐらいならいいでしょう?」
「三嶋先生とお茶ができるなんて光栄です。とはいえ、普段は食事を交代で、休憩室ですませることが多くなると思います、何せ、時間がないので」
「承知しています。向こうも同じような感じでしたから」
 コーヒーを飲んで十分ほど経った頃だった。かすかに、サイレンの音が聞こえてきた。
 アキも牧田も、考える前に身体が動いている。アキは伝票を取ってさっさと会計を済ませ、走ると歩くの真ん中の速度で、二人は救急科の病棟へと向かった。
 病院についてから、すぐにスクラブに着替えていて良かった。
 銀色の扉の前に到着した患者を、救急スタッフが一斉に受け止める。救急隊の隊員が、流れるようにバイタルを告げる。牧田を含めた看護師が声掛けをしなが ら処置室へ動く。アキの頭は、バイタルと対面した患者を診た瞬間からすでに猛烈な勢いで働き始めていた。処置室に移された患者は四十代の男性で、車両二台の正面衝突事故。高エネルギー外傷だ。
 佐々木は別件対応中で、救急の医師でかかれるのはアキと、さきほど紹介されたばかりの救急医、冨野だけだ。キャリアとしてはアキのほうが上なので、自然と指示するような流れになる。
 アキが咽頭展開し、牧田が左腕に点滴を取る。その間に牧田お気に入りだという気鋭の看護師、海野が衣服を切り裂き、心電図形端子を男の胸に取り付ける。心電図がゆるい波形を描きだし、そして、唐突にフラットになった。
「海野、心マ!冨野先生はアンビュー頼みます、牧田師長、」
「カウンターショックですね。準備完了しています」
 心臓マッサージを繰り返した後、アキが電気ショックを与える。男の身体が衝撃で跳ね、全員が心電図を睨みつける。
――わずかな沈黙の後、波形は復活した。
「よし、CT。おそらく臓器損傷だと思う。念のため頭もとっといて」
 アキの言葉は当たっていた。患者は肝臓破裂と肋骨二本骨折、左大腿骨にヒビが入っていた。緊急手術を行うことになり、そのままアキも執刀した。その後も CPAの患者と広範囲熱傷の患者、二名が搬送されてきて、結局その日の仕事を終えて帰宅したのは、日付が変わる直前だった。

 

「お疲れちゃーん、さっそく大活躍だったんだって?」
 蒸し暑さの残る夜の駐車場で、佐々木が後ろから声をかけてくる。
 彼も別件で執刀していたのだ。胸部外科を得意とする佐々木は、腹部外科、消化器外科に強いアキと補完し合える関係にある。
「今さっき終わりましたよ。早く帰って寝ないと明日がつらいです用があるなら三秒でどうぞ時は金なり」
 佐々木が笑う。アキは憮然とした表情を崩さない。疲れているのだ。
「車か?」
「ええ。乗せていきましょうか?」
「助かった~もうヘトヘトだわ」
 それが目的で声をかけたんだろう、と思いつつも、アキは肩を竦めて駐車場へと歩く。
「空調効いてるとこに一日いるからよ、暑さが堪えるぜ」
 佐々木の言葉に、アキが溜息をつく。
「暑いんか涼しいんか、分からなくなりますね。一日中病院ですから」
「おいおい。休み時間ぐらいちょっと中庭歩くとか、しろよ。息が詰まっちまうだろ」
「もうちょっと慣れたらそうします」
「珍しく気疲れしてんのか」
「そりゃあ。知らない人ばかりですもん。こう見えて繊細なんで」
 何が可笑しいのか、佐々木は肩を揺らしている。
「さっそく、院内ではお前のファンクラブ設立が呼びかけられてたぞ。牧田師長は無類のイケメン好きだからな。救命の王子様ーとか言ってキャアキャア言ってたわ。お前、甘いもの好きだろ?甘いもの食べましょうって誘えば断らないって、教えといてやったからな」
「あーそうですか。このさい、スイーツ会でも月一で開催してやりますよ。みんなと親しくなれるし流行りの甘いモン食えるし一石二鳥ですね!」
 やけくそで言った言葉に返事がなくて、助手席を振り返る。佐々木はいびきをかいて寝ていた。
「寝たいのはこっちやし」
 久々の大阪弁で突っ込む。車は静かに由記市の国道を滑って行った。

 引っ越してから、あわただしい日が続いた。慣れるまでは気疲れもあり、帰ってきてからは死んだように眠った。夢も見ない、重い泥のような睡眠だ。そして朝になると仕事に向かう。
(ろくでもない夢みんですむから、仕事は好きや)
「どうです、三嶋先生。慣れましたか?」
 食堂で遅い昼食をとっていると、牧田師長に話しかけられた。ICUの管理は一日中に渡るので、こんな風に休憩時間が誰かとかぶることは珍しい。
 丸い牧田の顔を見ていると、自然とアキも笑顔になった。人を笑顔にさせるというだけでも、看護師としての才能に満ち溢れている、といつも思う。
「ええ。なんというか…この街の救急は、いいですね」
「そうですか?私はここ以外で勤めたことがないので、いまいち分かりませんが…」
「どう言えばいいのか…たとえば、この地域の救急隊。優秀ですね。病院の選定、処置、情報伝達が的確です。優秀な救急救命士が多いのかな…」
 話しながら、先日の由記北署からのホットラインを思い浮かべる。冷静で、分かりやすいファーストコールだった。要点をおさえている。声が通って分かりやすい。三次選定病院であるこの病院の役割と分担を、きちんと把握している。搬送も早い。
「ああ、それはそうかもしれません。由記市の消防局は、救急隊に通常二名の救急救命士が配置されているそうです。三人隊で、これは全国的にも珍しい取り組みですね。一人はベテランの救命士で、隊長を勤めながら、新人救命士の指導をするそうです」
「なるほど、そういうことですか」
「何人か有名な救急救命士の方がいらっしゃいますよ。中でも中央署の… … 」
 牧田がピタリと話すのを止める。直後に、サイレンの音が聞こえてくる。
 どこで何をしていても、その音はアキ達を一斉に銀色の、自動扉の前へと走らせるのだ。
 そこにはすでに多数のICUスタッフが待ち構えていた。アキが到着すると、佐々木が小声で「遅いぞ」と小言を言う。
 扉が開いた。ストレッチャーと共に救急隊員が三人入ってくる。隊長らしき男がバイタルを告げる。


「脈拍140、血圧78‐40、JCS300、23パーミニットです」

――その声に、アキはそこが職場だということも忘れて立ちすくんだ。
「……セツ?お前、六人部摂か」
 かろうじて漏れた声が震え、掠れる。
 ヘルメットを被って俯き、傷病者に声を掛けていた男が、顔を上げる。
 アキの顔を認識すると、短い黒髪の下で両目が、驚きに見開かれた。
 その顔は、昔とまるで変わっていなかった。そう、いつも一緒に過ごした学生の頃の「六人部摂」と、ほとんど変わっていなかったのだ。
「……!」
 驚きすぎると声も出ないのか、六人部摂はその場で固まった。
「え、六人部隊長、知り合いなんですか?」
 若い隊員が、アキと摂を交互に見て声を上げる。二人は、見つめ合ったまま呼吸すら忘れた。
「何やってんだ三嶋、処置室行くぞ!」
 怒鳴り声に、はっとする。感傷に浸っている暇はない。アキは、ともすればまた忘れてしまいそうな呼吸を慌てて整え、処置室へと向かう。自分の身体でないような気がした。腕が震え、心臓の音がうるさい。頭を振り、仕事中だとなんとか自分を諌める。
 その後ろ姿を、摂は立ち尽くして眺めた。
 処置室にアキの白衣が消えてすっかり見えなくなっても、摂は同僚に腕を引かれて促されるまで、そこから動けなかった。