2 ピース オブ ケイク(捨てる準備)

 それは、どういう意味?と尋ねたアキに、聡は言った。
『朝飯前、ってこと』
 全然大したことじゃないよ、大丈夫。
 そういう意味だよ、と。

(忙しくて、目が回るどころかどっか飛んでいきそうだ)
 アキの手も足も一組ずつしかないのに、患者はどんどん運び込まれてきて次から次へと心臓が止まったり足が千切れかかってたり内臓が破裂してたりして閉口する。切って、開いて、繋いで、閉じる。切って、開いて、繋いで閉じるの繰り返し。助かる人間もいれば、助からない人間もいるが、大体においてアキの腕は的確に処置してICUにぶち込むことに成功した。これは誰が何と言おうとアキの才能だった。
「はあー、疲れた。もうアカン。絶対帰る。さすがに二徹できる年やない、帰らせてもらいまっさ~」
「三嶋先生、三嶋、顕(みしま あき)先生、ちょっと待ってください」
 朝九時、当直の医師が退勤していく中、何故かアキだけ白衣の襟をつかんで引き戻される。疲れすぎていて抵抗できない。引っ張られるがままにズルズルと連れて行かれ、処置室の隣の小さな医師の休憩室へと放り込まれた。
「すみませんけど部長。私めっちゃ疲れてるんです、もしなんか説教とかあるんやったら明後日以降にしてもらえません?何せさっきまで右腕切断の緊急手 術やったし、夕べは大動脈瘤破裂やし。もうね、あかん。太陽が黄色い。スケベな意味やなくてですよ、ほんまに黄色いんです」
 目の前の救命センター部長に向かって、口を挟む暇もないほどの早口で言い募り、ほなさいなら、と席を立とうとする。……やはり、襟首を掴んで引き戻された。
 一体何だというのだ。
「三嶋先生、佐々木先生が今日も待ってるよ」
「げっ、断っといてくださいて、なんべんも言いましたやん」
「そういうわけにはいかないよ。君の先輩でしょう、それに彼は、救急医の間でも有名な人だ。話だけでも聴いてあげたらどうだい?」
「あのー…それって内容分かってて言うてはります?佐々木先輩は、私を引き抜きに来てるんですよ。この、人手不足著しい救命救急センターの、真っ赤っかな 赤字の、だーれもけえへん救急医の、はっきりってレギュラーとも言うべき私をですね、引き抜きに来てるわけです。いいんですか?」
 ここ、京都市の救命救急センターにアキが救急医として勤務するようになり早八年が過ぎた。うち二年は研修医だとしても、救急医としてはそろそろベテランのキャリアだ。
 そう胸をはれるのは、それだけこの『第三次選定病院』、救命救急センターの業務がキツいということの裏返しでもある。
「自分で言いますか、それを。まあ、君が言ってることは間違いではないし、負担をかけていることも事実ですが……」
「分かって頂けているようで安心しました」
 大学が京都だったこともあり、そのまま研修医として入った救命救急センターに医師として就職したのだが、そのあまりの激務っぷりに、元々細かった身体はみるみる痩せた。救急医であるが外科学が得意だったこともあって、手術にも参加したし、ICUでの重篤患者全身管理もしていて、つまり、家はほとんど寝に帰るだけといった有様である。
「部長がそこまでおっしゃるなら、佐々木先輩に会いますが。でもなぜです?私はこの病院に不要ですか?もしかして、もっと有能な人材が見つかり、そこそこのお給料を頂いている私は、邪魔になったのでしょうか」
 そこそこ、といえども大した額ではない。結局、大学の附属病院だ。大学法人なんて少子化が叫ばれる今どこも儲かっていないし、特に救急、産科、小児科はどこも火の車な上に訴訟リスクが高く、手放したい科ベストスリーである。
 少し丁寧な口調に戻して聞いてみた。表情は、泣く一歩手前、ぐらいにカスタマイズしている。
 塚本部長は突然神妙になったアキの様子に眉を下げている。この人は、黙っていればはっとするほど美しいアキの容姿に、昔から弱かった。研修医として入ってきた頃からそうだった。その為、このようにしおらしくした方が上手くいくのだ。
「…三嶋先生、そんな顔をしないでください。きれいなお顔が台無しですよ」
「でも」
「そんな理由ではありません。僕は、君の将来にとってより良い方を選んでほしいと思っているだけです」
「より良い方、ですか」
「ええ。佐々木先生が誘ってらっしゃるのは、政令指定都市になって間が無いという神奈川県の由記市の救命救急センターですね?」
「ええ…。確かにこれからという街ですから、救命センターも医療体制も面白そうではありますが…」
「ほら。もう君の中では、答えが出ているではありませんか」
「そうは言いましても」
 塚本部長が立ち上がり、アキの肩に手を置く。そしてにっこりと微笑んで言った。
「三嶋先生は、一度地元を出て、全てのしがらみから離れてみてはどうでしょうか。あなたほどの腕があれば、どこでも生きていけるでしょう」
 半分は確かな思いやりを感じた。だが、もう半分は。
(厄介払い、ちゅうやつか。クソ、あの件のことやな)
「……とりあえず、佐々木先輩と会います。あとは条件次第で」
「そうですね。あなたの、百合のような美しい姿が見れなくなるのは残念ですが、三嶋先生。美しい花はどこに咲いてもきれいなものです」
 鼻で笑ってしまわないよう注意しながら、アキは言った。
「褒め言葉として受け取っておきます」

 病院の駐車場に行くと、愛車の前に佐々木が立っていた。誰が教えたんやバカ野郎、と呟けば、彼が肩を竦めて近づいてくる。
「おー、久しぶりだな。相変わらずの別嬪っぷり、年を取っても凄みが増すばかりってか。痩せたんじゃねーの?それに、顔が前にも増して白くなったな」
「佐々木先輩、お願いがあるんですけど。おれほんまに寝てなくて、ちょっと寝させてくれませんか。夜、新地あたりで集合しましょ。でないとこのまま、立ったまま寝ますよ。夜行性の狼が昼間行き倒れたみたいに、ごーごーいびきかいて寝ますからね」
「それは困るな、よし。車はおれが運転してやるよ、鍵よこせ鍵」
 面倒くさくなって、鍵を投げて寄越す。いい車乗ってるね~とからかわれたりしながら、どうにでもなれと助手席に乗り込む。
 ドム、と重い音を立ててドアが閉まる。アウディのSUVは、乗り心地が良くてお気に入りだが他人に運転させるのは初めてだ。
(佐々木先輩なら心配ないやろ、車好きな人やし)
「で、どちらに」
 精一杯嫌味を込めようにも、眠気が勝る。昔から、他人の運転する車は眠くなってどうしようもない。
「京都アリウスに泊まってんだ。ベッドかしてやるから使え」
 アリウスは京都市役所近くの一等地にある、高級ホテルだ。
「ええとこにお泊りで。さすが、次期部長候補さまは違いますねえ」
 静かな車内。オーディオをつけると、柔らかいジャズピアノの音が流れ出す。
「稼いでるからな。部長はともかくとして」
「そしたら好意に甘えますけど、変な事せんといてくださいよ。今なら抵抗できませんからヤラレルがままです、あ、これ誘ってるわけではないです」
「誰がするか!あの時は酔ってたんだよっ」
「まあね、佐々木先輩が生粋の女好きってことは知ってますけど、念のため」
 高速に入ったのを薄目で確認して、本格的に眠るべく眼を閉じた。

 目が覚めたとき、あたりはまだ明るかった。
 一瞬自分がどこにいるのか分からなくなり、ベッドに横になったまま、慌てて記憶を探る。枕元に視線を移すと、医者らしく汚い字で「観光してくる」と書かれたメモがあった。
 そういえば、佐々木の部屋のベッドを借りて、仮眠しているのだった。
 頭を振り、時計を見ると三時半。病院を出たのが十時前だったから、かれこれ五時間ほど熟睡していたらしい。
 のっそりと起き上がって、窓の外を見る。高い部屋なのだろう、夜になると夜景が綺麗だろうなと、寝起きの頭でぼんやりと思った。佐々木は自分の私財をはたいてここまで来たのだ。
 アキを神奈川県由記市へ誘う、そのためだけに。
(何の情熱やねん。…買いかぶりもええとこ、昔からそう)
 佐々木は医大の先輩で、四歳ほど年が離れているが、不思議と気が合い可愛がってもらっていた。医大には金持ちの息子や医者の息子が多いが、彼の両親はふつうのサラリーマンだ。アキも佐々木も成績優秀者のみに許される大学の学費免除を使っていて、そう言った面で感覚が合ったのかもしれない。
 さんざんつるんで、金持ちの息子をだまくらかして金を出させ、彼らは京都の街で豪遊した。京都育ちの社長の息子で三浪してようやく医大生になったトウヘンボクの垣内と、佐々木とアキ。祇園の街に慣れたボンボンを使って、散々楽しい思いをさせてもらったものだ。
 佐々木に電話をかけたが、コール音だけが鳴って一向に出なかった。面倒ではあったが身体を起こし、シャワーを浴びて着替えを済ます。ポケットに財布を、ジャケットに携帯を入れ、部屋を出た。
 人の多い場所は嫌いだ。特に、こんな夏の、うだるような暑い日に人ごみにだけは行きたくない。
 アキは、エレベーターでホテルのロビーラウンジを探し、昼間から酒が飲めるかどうかを確認してからその中に入った。欧米では宗教上、アルコールの摂取に制限が多いが(たとえばアメリカでは日曜の午前中、飲酒ができない州があったりする。キリスト教の安息日であるため)、日本はいつでもどこでもお酒が飲めて素晴らしい。
「ビール下さい」
 バーテンダーが注文をとり、静かに元の位置へと戻っていく。仕事が終わってからまず飲みたいのはビールだ。これは雨の日も風の日も変わらない。コースターの上に置かれた、お上品な細いグラスに注がれたビールを、アキは一息に飲み切った。
「……観光で来られたのですか?」
 ラウンジの、バーカウンターにいるのはアキだけだった。彼は気を使ってくれたのか、それとも退屈していたのか、人好きのする笑みを浮かべて話しかけてきた。大学生ぐらいに見える、中々の好青年だ。
(あいつに似てるな。こう、目元の凛とした感じが)
「職場、京都やから。夜勤明け、起き抜けの胃に、ビール染み込む」
 俳句にして現状を謡いあげてやると、青年がこちらを見た。
「なんだかギャップのある発言ですね」
 熱のこもった視線に、よう言われる、と返す。ご注文はいかがなさいますか、と問われて、今度はジントニックを注文した。スツールに腰掛けたまま、ポケットに入れた携帯電話を眺める。やはり、佐々木からの着信はない。まだアキが寝ていると思っているのだろう。
 音もなく置かれたジントニックを、まるで水のように飲みながら、アキが言った。
「……あのな、飲みにくい。そんな、じいっと見やんといて」
「きれいだなあ、と思って。すみません。私は綺麗な人に目がないんです」
「そうやって、イケそうと思った客を男女の別なくひっかけてるわけ?」
 半分ほどなくなったグラスをコースターの上に置く。剣呑な言葉だが、話し方はやんわり、ゆっくりと。軽蔑するように笑いながら、アキはカウンターの中の彼を見上げた。バーテンダーの青年は、途端に頬を赤くして俯いてしまう。
 これはまだまだ、早いというやつだ。アキに挑んでくるのは、十年早い。
「待ち合わせですよね」
「そう。連絡がつかへんからこうして、昼間から酒飲んで時間つぶしてる」
「あなたみたいな人を待たせるなんて、すごいですね。どちらかというと人を待たせてばかりのように見えるのに」
 今のはバーテンダーとしては失言です、失礼いたしました。
 そう言って、彼がこっそりとカクテルを作って寄越す。ドライマティーニ。シェーカーを振っている姿は、中々に様になっていた。
 もしよかったら君も何か飲んで、とアキが促せば、ではビールを頂きます、と素直に飲んだ。飲み終わったジントニックのグラスを渡して、マティーニをちびちびと舐める。さすがにこれは、ぐいぐいと飲めるようなものではない。大体ショートカクテルを飲むこと自体、数年ぶりだ。
「君のように、若くて自信に満ちてた頃が、おれにもあったんかなあ。思い出されへんわ」
 溜息をつく。バーカウンターから少し視線をずらせば、窓の向こうに公園が見えた。
「自信なんてありませんよ。そう見せているだけです」
「そう?おれは結構君の見た目好きやで。見た目しか分からんから他に言いようないけど、姿勢がよくてきりっとしてて、おれの知ってる人によう似てる。若いときには、根拠のない自信もときには必要、容姿がよければ十分自信もってええやろ」
 カウンターの上に置かれたアキの指に、彼の指が触れる。緊張感が伝わってくるほどに、思いつめた強さで手を握られた。
 こういう事は珍しい事ではないので、左手でやんわりと外して目を細める。
「おれと寝たいの?」
 もちろん小声だ。身体を伸ばして、耳元で囁いてやれば、とうとう彼は耳まで真っ赤になった。
「直接的ですね。でも、当たってます」
「光栄やけど、ちょっとタイムオーバーかな。……佐々木先輩、こっちです」
 佐々木に見つかる前に、コースターの裏に連絡先を書いて胸ポケットに入れる。彼は驚いた後で、こちらが罪悪感を抱くほどに、素直な笑顔で頷いてみせてくれた。
「よく、ここが分かりましたねえ。連絡つかへんかったのに」
「お前がいそうなところぐらい、わかるよ。付き合いなげーんだから。…あ、ボウモア、ロックで」
「いきなりウィスキーとは飛ばしますねえ」
「ビールは外でもう飲んできた。観光しようにもアレだな、暑いわ。暑すぎる」
「そんなこと考えなくても分かるでしょうに」
 静かなロビーのバーカウンターで、佐々木とアキが乾杯する。時計を盗み見ると、時間は五時。思っていたよりも、部屋でゆっくりしていたらしい。
「由記市はいいぞお。海も山もあって、自然豊かでな。酒も魚も美味いし」
「こっちにもありますよ、そんなん。医者なんか患者がおればどこでもやっていけるし」
「どこでもやってける、ねえ。お前の今の顔は不満で一杯って感じだけど」
「そら、どこにおっても何かありますよね。人間関係であったり、出世争いであったり」
「少なくとも、うちのセンター部長は出自やら噂やらにこだわったりするような、ケツの穴の小さい男じゃねえぞお?」
 面倒見がよく、見た目も悪くないのに、三回も離婚している理由はこれじゃないかな、とアキは思う。
 佐々木は他人に深く入り込み過ぎるのだ。そしてすぐに共感したり同情したりして、相手に好意を寄せられる。好かれると、捨てられなくなる。それは優しさではなく、佐々木の弱さだ。
「なんで知ってるんですか」
「塚本部長からちょっとな。救急の看護師長とも上手くいってないらしいじゃねえか」
「それは……。でも、それと由記市に行くことと、何の関係があるっていうんですか。おれはね、知ってはると思いますけど、逃げるのは大嫌いなんですよ。環境のせいにしたり親の所為にしたりして、逃げる奴はね、世界で一番嫌いなんです。例え針のむしろでも、周囲を敵に囲まれて槍で刺されても、絶対に逃げたりせえへん。立ったまま死んだ方がましです」
「お前が死んだら、困るのは患者だろうが。おれも可愛い後輩が、無念のままに死ぬのはしのびないぞ。それも、とびきり優秀な奴が、くだらない理由で自殺同然に死ぬなんて、絶対嫌だね。
 逃げるのが嫌いだってお前は言ったな。じゃあ今の状況はどうなんだ。逃げじゃないって言えるのか?助けるべき患者は、由記市にいくらでもいる。救急医が足りてねえのに、政令市になってから人口が増えて搬送数は増える一方だ。三嶋、お前は逃げてんだよ。例え針のむしろでも、今の状況の中で飼い殺されてもいいってんなら、すでに逃げてる。戦ってねえもん」
「どうしろって言うんですか。目をつけられているんです。推薦状なんか、絶対書いてくれませんよ」
 言ってから、確かにこれでは負けている、と自分で苦笑した。佐々木は目を丸くしてから、ふところから何かの紙を取り出して見せた。
「もうもらってきた。上司の推薦状でいいんだ、塚本センター部長で充分だろ?」
 驚きで、アキは椅子からずりおちそうになった。
「惜しんでたぞ。あの人はちょっと肝っ玉小さいけど、悪い人じゃねえからな。で、あと必要な書類だけど、これがうちの願書な。あとは簡単な履歴書と…臨床研修・勤務履歴記入表と…あ、お前救急専門医持ってただろ。あれの証明書とか全部持って来いよ。研修の修了証も全部。相当あるだろ。えー、あとは医師免許写し。これは返せねえからちゃんと持って来い、まさかなくしてねえよな?うん、以上!面接はうちのセンター部長と事務方でやる。聞いて驚け、日付は明後日!」
「あさってェ!?」
「そうだよ。善は急げっていうだろ。明日の朝一の新幹線で由記市入りして、そのまま病院行って書類渡して、書類審査してもらう。まあお前なら書類は余裕でパスだろうから、明後日面接だな。うちのセンター部長だけど、ものすげえやり手で人を見る目のある人なんだけど、ちょっとクセがあってな。人の好き嫌いがはっきりしてるから、心配なのはそこだけだな」
 勝手に話を進めて、いやあ良かった!と笑いながらアキの肩を叩く佐々木。
 降参するしかなかった。
「はあーー…相変わらず強引ですねえ。わかりました。採用されるかどうかはともかくとして、行きますよ。ただこちらも引き継ぎだのあいさつ回りだのあるので、少し時間をください」
 この期に及んでまだ踏ん切りがつかないアキに、佐々木が手を伸ばし、頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。黒い艶のある髪はもともと奔放に跳ねていて、そうされたことでますます収拾がつかなくなった。
「今時、待つ女とか全然流行んねえぜ」
「なんのことやら」
「例の幼なじみ。帰ってくると思ってんだろ?来ねえぞ、絶対」
 佐々木はアキの不毛で長い片思いのことを知っているのだ。肩を竦めて、空のグラスをカウンターに置く。バーテンダーがやってきて、注文を取る。
「ギムレットを。久しぶりに佐々木先輩もどうです?」
「じゃあ同じものを貰おうか。……しかし相変わらず、顔色一つ変わんねえな、三嶋」
「おれが酒に弱かったら、もっと人生が変わっていたかもしれませんね」
 先ほどまで話していた、すらりと背の高いバーテンダーがシェーカーを振る。もしかすると彼は、有名なバーテンダーなのかもしれない、とアキは思った。あらゆる動作が洗練されていて、無駄がない。
「おれが由記市の救命センターに勤務するって言ったとき、お前がなんていったか覚えてるか」
「覚えてますよ。…『佐々木先輩の腕はどこに行っても大丈夫です。ただし下半身にだけは気を付けたほうがいいですよ。中の人間にだけは、手ェ出さへんように気を付けてくださいね』でしょ?」
「アホ!そっちじゃねえよ!つうかもう手を出しちまった…へへ。今の嫁にばれたら四回目の離婚になっちまうわ」
「へへ、じゃないですって。ほんま、女にだらしない人やな…勿体ない。それさえなかったら非の付け所が…ああ、でも背がちょっと低いかな、とか、酔っぱらって後輩押し倒したこともあるぐらい酒癖悪いな、とか…いろいろありますねえ」
からかってばかりのアキを無視して、佐々木が言い放つ。
「あのな、お前はおれにこういったんだぞ。『おれは、あなたのことを世界で二番目に尊敬しています。だから、先輩が困ったときは、絶対に助けに行きますか ら。そのことを覚えておいてください』どうだよ。お前、ほんとは覚えてるだろ。今こそその約束を果たせ」
 得意げな顔に溜息をつくと、ニヤニヤしながら「助けてくれよ~、困ってんだよ、おれ」と顔を近づけてくる。酒臭い。
「明後日面接に行くのは了解しました。ただ、引っ越しはすぐには無理です。申し訳ないけどそこは今月末まで待ってください。九月の…そうですね、二週目頃にはそちらに行けると思います、それでも採用してもらえますか?」
「はは、お前採用される気満々だな。そうこねえと。いいぜ、そのあたりはおれから話通しといてやるよ。ほんと今、やばいからなうちの救急。ただ、それまでにお前よりも腕のいい医者が雇ってくれ~って来たら、悪いけどそん時は諦めろよ」
「はは、それはないですね。さ、乾杯しましょう先輩」
「何にだよ?」
 ギムレットを前に、少し考えた。このカクテルを見ると、『長いさよなら』のことを思い出してしまう。フィリップ・マーロウだ。何度読んでも痺れるほどかっこよくて、アキの大好きな小説の一つだった。
「故郷と、勤務地への長いさようならに」
「なるほどな。乾杯」
 もう、関西には帰ってこないかもしれないな、と思う。あっけない。
(あんなに執着してたのに。もしかしたら、あいつが戻ってくるかもって)
 時折墓参りには来るだろう。友人の少ないアキにも、かけがえのない人は数人いる。そしてそのほとんどはすでに鬼籍に入っていて、彼らの墓参りをすることは大切な習慣の一つだった。
 しかし、大阪にも京都にも、もう住むことはないだろう。
 まるで未来が見える占い師のように、それだけははっきりと分かる。大学に入るまで生まれ育った大阪も、大学から現在に至るまで住み続けた京都も、愛してはいた。だが、同じぐらい憎んでいた。理不尽な憎しみを抱くぐらいに、疲れていた。
 本当はずっと、新しい場所に憧れていた。
 アキが昔、「全部捨てて、新しい自分になれ」と背中を押した幼馴染。本当は、そうしてほしかったのは自分だったのだと、今になって分かる。誰かにそう言ってほしかった。全部捨てていい。家族も友人も何もかも捨てて、新しい自分になっていいと、本当は誰よりも、アキが言われたいと願っていた。
 だからこそ、彼にそう伝えたのだ。
 そして、彼はいなくなった。自分が言った言葉なのに、本当に居なくなってしまった彼を、アキは心から憎み、羨んだ。
 それでも、嫌いにはなれなかった――家族のように。
「摂は、おれを憎んでるんかな、やっぱり」
「あ?何かいったか?」
「ねえ先輩。家族って不思議だと思いません?」
「どういう意味だ」
「愛されていないとか、思い通りに愛してくれない、苦労させられた。そんな話はこの日本だけでも掃いて捨てるほどあるでしょうけど。それでも、なかなか嫌いになれない。捨てられない。愛しているのかと問われたら、おれ自身だって、「たぶん愛していない」と答えられると思うんですよ。あの母親には散々な目に合わされましたし。それなのに、ずっと捨てられなかった」
「…おふくろさんの具合、悪いのか?」
「良くなることはありませんから。持って、今年いっぱいだと思います」
「そうか。病院は?」
「完全看護体制のところに入院していますし、問題ありません。こまごまとした世話は、叔母に頼んでいます。お金があればね、人ってどうとでもなるんです。いいことなのか悪いことなのか、分かりませんけど」
「もったいねえなあ。美人はすぐに死ぬ」
「あの人は最後まで、母親でいることよりも女でいることを選んだ人ですからね。満足してるんと違いますかね、美しいまま死ねて」
 佐々木は咎めるような目でアキを見たものの、何も言わずにグラスを傾ける。口の中で、ライムのかおりが広がった。
「親子関係なんて、千差万別だからな。お前の両親と、おれの両親は違うんだろうし、しつこくは言わねえ。ただ、死んじまってからでは遅いからな。やれることはやっておいた方がいい。人が死んだときのさようならは、ちょっと引っ越しとか移住とか、そういうさようならと違うからな。人生で一回だけの、永遠のさようならだ」
「そうですね」
 店内のライトが薄暗いものに変わり、キャンドルが灯される。バータイムになったようだ。
 ピアニストがやってきて、お辞儀をしてから歌い始める。ナット・キング・コールのルート66。ノリのいい曲で、こういう場所で聴くことはほとんどない。それだけに、物珍しくて楽しい気持ちになった。
「もしかしてアレ、さっきまでそこでシェーカー振ってた兄ちゃんじゃねえか?」
 演奏に聴き入って顔は確認していなかったが、確かにそうだった。前を見れば、いつの間にかバーテンダーが入れ替わっている。いたずらっぽく笑ったバーテンダーは、ショートカットの女性だった。
「実は、彼はジャズピアニストでもあるんです」
「へえー、いい声してるねえ」
 アキの返しに、佐々木が眉をひそめる。
「なんだ、その気持ちの悪い喋り方は」
「練習してるんですよ、郷に入っては郷に従えって言うでしょ。おれも、生まれ変わろうかなっと思って。そちらのイントネーションにね」
「慣れねえなあ。お前らしくねえし」
「おれらしいって、なんでしょう。そんなもの、初めからないのかもしれませんよ」
「はは、それはそうかもしれん」
 佐々木が笑う。眼を閉じ、掠れた甘い声に耳をすませる。
 酒が美味かった。
(ああ、全部捨てよう、そう思うだけで、こんなにも楽になるのか)
 その日は、遅くまで二人で飲み続けた。由記市の現状や、課題、これから何ができるか。そういう話をしていれば、時間はいくらあっても足りなかった。佐々木はアキを口説き落とせたことがよほどうれしいらしく、「これで部長に良い顔できる」「もううちのセンターは安心だ」としきりとアキの肩を叩いて喜んでい た。
 曲が、アデルの「Rolling in the deep」に変わる。掠れた甘い男の声が、曲にぴったりだ。バーカウンターのみならず、ロビー全体が盛り上がってきて、手拍子もちらほら上がっている。

 同じホテルに部屋を取って、ベッドに横たわったところで、携帯電話が震えた。見覚えのない番号だったが、誰なのかは分かっている。
「…いい声だったね、仕事終わった?」
 アキの問いかけに、息を呑んだ気配がする。
『…どうしておれだとわかったんですか、すごいな』
「絶対かけてくると思った。今から部屋にくる?」
 さきほどのバーテンダー、そしてジャズピアニストの若い男だ。シーツの冷たさが気持ちい、と思いながらアキは寝返りを打つ。
「早く来ないと、寝てしまうかもよ」
『なんか、さっきと感じが違いますね』
「うん、おれ今日から生まれ変わるの。つまりニューおれなんだ、よろしく」
『酔ってますね』
「そうだね。やめとく?」
 アキの声に、男は即座に『いいえ。部屋は何号室ですか?』と尋ねてくる。客とこういう関係になってもいいのかな、と一瞬疑問に思ったものの、そんなものはダメに決まっているし、だからどうした、と投げやりに笑った。人生は、ダメなことをするから楽しいのだ。
「803」
『すぐ行きます。あ、』
「ん?あ、そうそう、さっきの歌。すっごい良かったよ。特にアデル。おれはSomeone like youのほうが好きだけど」
『そっちに着いたら、歌ってあげますよ。耳元で』
「贅沢だな~。で、何?」
『何かいりますか?酒はやめておいたほうがよさそうだし、水でも?』
「気が利くね。ガスの入ったやつがいいや、お願い」
 電話が切れる。空いている部屋ならどこでもいい、と言ってとったので、随分いい部屋になってしまった。風呂は、総大理石で夜景が見えるガラス張り。湯をはりながら、備え付けのミニバーで作った薄いウィスキーの水割を舐める。この夜景も見納めかもしれない、と思うと、少し惜しい。
 バスタブに腰掛けてグラスを傾けていると、チャイムが鳴った。ドアを開けば、少し息が上がった様子でさきほどの青年が立っていた。
「早いなあ、どうぞ」
 玄関で出迎えたアキの後ろを、青年がついて入る。勝手知ったる様子で、制服らしき物のベストを脱ぎ、クローゼットにかけている。恋人ではないので、自分でしてくれとばかりに、アキはその近くで立ったまま水割を飲む。
 こげ茶色の髪に、精悍な顔立ちは、やはりよく似ている。アキが、背中を押して街から出て行った幼馴染に。上背があって、すこし疲れたような雰囲気。
(そうそう、この滲みでるような色気も、よく似てる)
「風呂を使う?おれは入りたいんだけど」
 服をしまい終わると、今度は持ってきたペリエをグラスに入れて渡してくれた。立ったままというのは何なので、二人でテーブルにつく。セミスイートを取った甲斐があったな、とアキはグラスを傾けながら思った。
(いい部屋をとっても、セックスして寝るだけじゃ意味ないし)
「まだあなたの名前も知らないんだけど」
 緊張している様子はない。慣れているのならそれに越したことはないが、爽やかな笑顔と対照的なことだなと思う。
「三嶋 顕。アキでいいよ」
「アキ。おれはね、千早。もう少し飲む?」
「うん、ちょうだい」
 さすがというべきか、注ぎ方がとてもきれいだ。ソーダ水を何杯も飲んでいるうちに、アキの、アルコールでくすんだ頭の中も幾分しっかりしてくる。何をやってるんだろう、と考える。こんなところで、若い男とソーダ水なんか飲んで。バカみたいだ。
「一緒に入りたいなら、入るよ」
「うーん、魅力的なお誘いなんだけど、もうちょっと見てていい?」
「何を?」
「あなたを」
 好きにしろ、という意味を込めて、アキは肘をついて見つめ返す。千早と名乗った青年は、逆側の肘をつき、眼を細めてアキを眺めた。
「男をじろじろみて、何が楽しいんだか」
「楽しいよ。だってアキは、今まで見たどんな人間よりきれいだから」
「はあ。そうですか」
「髪に触ってもいい?」
「どうぞお好きに」
 眼を閉じる。一瞬、間があいてから、指がアキの髪に触れた。長くて、熱い指だった。くすぐるように髪の間を通り抜けてから、その指が頬に触れる。アキの真っ白で透き通りそうな頬には、長い睫毛が影を作っている。指はそのまま上へあがり、黒く濡れた双眸の側を掠めた。
「あのさ、品のない話なんだけど聞いてくれる?」
「どうぞ」
「中学の時かな。美術室に置いてあったアリアスの石膏像に恋しちゃったことがあってさ。いや、今思えば思春期の過ちだったんだけど、放課後こっそり美術室行って抜いてたんだよね」
「……」
「アキが俯いた横顔、ちょっと似てる。きれいなんだけど、憂いがあって…あ、ごめんね、変な事いって。引いた?」
 苦笑したアキに、千早が笑う。
「良かった。引かれるかと思ったけど、どうしても伝えたくて。本当にきれいなんだよ、アリアスの石膏像って。見る?」
 返事をする前に、見せられる。携帯電話の画面に映し出された画像は、確かに俯き加減の石膏像だったが、それが美しいのかどうかは、アキには分からなかった。
「今日だって、あなたがカウンターに座った瞬間からもう、心臓がバクバクいってさ。いつもの三割増しぐらいでかっこつけて、ピアノだっていつもよりずっと丁寧に弾いて。かっこ悪いよなー」
 見た目よりもずっと人懐こく、千早は笑った。
「おまけに、奇跡が起こるだろ。今のことだけど。正直、今だって大声あげて走り回りたいぐらい動揺してるんだ。顔には出てないかもしれないけど」
「顔には全然出てない。誘いなれてるのかな、と思った」
 感心して頷くと、まさか!と千早は首を振る。
「お客さんに手を出そうなんて思ったこともないよ。そりゃ、ナンパされることはあるけどさ。どんなにきれいな女性でも、断っていたんだ。でもあなたは違ったなあ……アキが、その濡れた黒い瞳でさ、おれをじっと見ると、もうダメだった」
 アキがふきだす。
「じっと見てたのは、注文したかったからだよ」
「わーってるよお、そんなの。でも、嬉しかった。からかわれてるのかと思ったけど」
「おれだってこんな風に誘ったの初めてだよ。好きな人に似てたからかな」
 怒るだろうか、と思いチラリと千早を見る。彼は怒るどころか、そうなんだラッキー!と手を叩いて喜んでいる。
(なんかこの子、面白い)
 洗練されているように見えるし、事実そうなんだろうに、口を開けば色気がない。あっけらかんとしていて、あけすけで、バーテンダーをやっている時に感じたほの暗い色気はどこへやら、人懐こい犬のようだ。
「千早って、見た目とギャップあるね」
「アキだって。言葉、さっきのほうがよかったのに、どうして変えたの?」
「引っ越すから。標準語圏にいくから、練習してんの」
 ショックを受けるかな、と考えたが、違った。千早はにやりと笑ってから、「それはますますラッキー。おれ、実家は浅草なんだよね。じいちゃんがやってるバーで働いてて、今月一杯こっちに修行しにきてんの」と答える。
「マジで。そんな偶然あんのかー…さすがにびっくりした」
「これはもう、運命だね。デスティニーだよ。おまけにアキの好きだった人におれ、似てるんだろ。スリーセブンだ。もう恋に落ちるっきゃないよ。あなたは安心しておれの胸に飛び込んでくるべき」
「バカじゃないの」
 言いながら、既に笑っている。千早の指がアキの唇に触れた。
(本気になられたら、面倒くさい。ここで、大人の火遊びって事を教えてあげないと)
 アキはその指を、挑みかけるような目で千早を見つめながら、ゆっくりと舐めた。途端に、その場の空気が熱を帯びてくる。犬の目つきは狼のそれになったように、色が変わった。
「脱がせたいの、それとも脱ぐところが見たいの」
 アキの問いかけに、千早は掠れた声で答える。
「脱がせたい」
 立ち上がった千早がアキの前に立つ。顔を上げると、唇がアキの額に押し付けられた。身体を持ち上げるように立たされ、壁に押し付けられる。熱い指が、ネイビーのサマーニットをたくし上げて、直接肌に触れる。
 我慢できなくて、アキから千早にキスをした。柔らかい唇から舌が伸びてきて、次第に深くなっていく。口を開けば色気のない青年も、色事には長けているん だな、と可笑しくなる。柔らかい舌はアキの弱いところをくすぐって、鼻からくぐもった甘い声が漏れた。
 壁に押し付けられたアキの足の間に、千早の足が入り込む。首に回した腕で抱き寄せると、千早は唇を離して欲情した顔で笑った。
「さっきの話訂正。アキのほうが、石膏像よりずっときれいで、いやらしいや」
 いつの間にか脱がされた薄いニットが、部屋のカーペットの上に落ちる。お互いに抱き合ったまま浴室へなだれ込むと、千早の手がアキを裸にしていく。アキはそれを手伝ってから、千早を同じように裸にした。
(ほどよく筋肉ついてて、いいからだしてる)
「アキ、口でして」
 促されるままに、千早の性器を銜える。根本からゆっくり舐めてから、喉の奥までくわえこんでゆっくりと頭を振った。舌を使い、指でこすりながら吸い上げると、うめき声が上から落ちてくる。
「うあ……こっち、見て」
 させることに慣れているな、と思う。そのほうがずっとやりやすい。
 言われるがままに見上げる。目が合うと、千早は真っ赤な頬で情けない顔をしていた。
「なんだろ、すごい、いけないことをしてる気がする。きれいなものを、よごしてるみたいな感じの…っ」
 歯があたらないように、夢中で舐めた。あっという間に硬く凶暴になったそれが、アキの呼吸を苦しくする。今日は奇妙な日だな、と頭の奥で思った。引っ越しを決めて、違う誰かみたいに違う言葉を使い、跪いて出会ったばかりの男の性器を舐めているなんて。
 ものすごくダメで、どうしようもなく楽しい。
「アキ…も、いいから」
 口から勢いよく引き抜かれ、少しむせる。その表情すらそそるのか、千早がアキを立ち上がらせて首筋に噛みついた。舌で舐められ、指で局部を撫でられる。じらされるような動きに、腰が動きそうになってしまう。
 全身に指が、舌が這い回っていく。アキの弱い背中や内腿を、千早の舌が辿っていく。それなのに、性器には触れてくれなくて、苦しくて苦しくて仕方がな い。洗面台を握っていた腕に力が入らなくなり床に座り込みそうになると、千早が抱き上げてベッドの上に放り投げた。
「風呂は、また後でね」
 触られてもいないのに、しとどに濡れたアキのものに口づけしながら千早が言う。返事をする余裕もなくて、アキは両腕で自分の顔を隠した。
「あ…っ、やめて」
「やめないよ」
 ローションで濡らした指が、アキの秘部に触れる。撫でてから、ゆっくりと入ってきた。探るように動きながら、うごめく。二本目がはいったとき、その指がアキのいい場所に掠めて、高い声を上げてしまう。
「ああっ、…や、いや。千早、そこは」
 頬が赤くなり、濡れた黒い瞳にはうっすらと涙の膜がはっている。その壮絶な美しさに、千早は生唾を飲み込んだ。喘ぎ声が掠れ、泣き声混じりになってきたころを見計らい、指をひきぬく。千早は、硬くなった自分の性器にコンドームをかぶせて、そこにもローションを塗り込んでから、アキの中にゆっくりと差し込んだ。
「んあ、おっきい……無理、入らない」
「もう、アキの顔見てるだけでいっちゃいそう。なんでそんなにいやらしくて、可愛くて、きれいなの」
 きついな、と眉をしかめてから、千早がゆっくりと動きはじめる。足を開かされ、太ももを掴まれて正常位で犯され、声を出さないようにアキは自分の手を噛んだ。
「だめ。きかせてよ、アキのやらしい声、全部」
 両腕をひとまとめにして掴み、腰を動かす。たまらずのけ反って震えながら、掠れた喘ぎ声をあげた。久しぶりのセックスなのに、どうしてこんなに気持ちがいいのか、アキには分からない。
(顔が、似てるからか。疑似セックスなのか、あいつとの)
 ギリギリまで抜いてから、強く奥まで差し込まれる。パン!と恥ずかしい音がなって、耳を塞ぎたくなった。
「いや、いやあ…千早、もっと」
「たまらない顔してる…イヤなんて、嘘つくなよ」
 千早がアキの首に吸い付き、痕をつける。白い首筋に赤い跡が点々とついていく。ゆっくりとしたグラインドは次第に早く、激しくなっていき、肌のぶつかる音がへやに響く。
「ごめん、いく」
 突然宣言したあと、く、と軽く呻いて千早が達した。まだ達していないアキは、快感でぼんやりとした頭で千早のイキ顔を眺める。眉を寄せ、こらえるような表情。男らしくていやらしいと思った。
(摂も、こんな顔していくのかな)
 身体を反転させられ、驚いて振り向いた。ベッドに手足をついて腰を突きだすような姿勢に、顔がかっと熱くなる。
「一回いったら落ち着いたから、もう一回させて」
 今度はバックから犯された。アキの右腕を引っ張り、腰だけを突きだすような姿勢で、激しく抜き差しされる。もう声を我慢なんてできずに、アキの掠れた声が次第に大きくなっていく。
「ひあっ、ああ、あ、や、気持ちいい…」
「アキ、アキ…ごめん、止まらない。優しくできなくて、ごめん」
「そんなん、ええから…あっ、…いく…!いっちゃう」
 アキの快感のポイントに、凶悪な性器がゴリゴリとと押し当てられる。身体を震わせ、声を上げながら達する瞬間、てのひらが促すように頬に触れる。意図を探ろうと振り返れば、待ちかねた様子でキスをされた。

 それから、二回ほどした。最後には「もう無理、許して」とアキがすすり泣くハメになり、軽く弄ぶつもりが大変なことになったと後悔した。
 千早との体の相性は抜群だった。彼は緩急のあるセックスをする。しつこいところはしつこく繊細に責めるし、大胆なところは大胆に暴く。
(身体を開く、という言葉があるけど、まさにそんな感じ。久しぶりのセックスで、ものすごく開かれた感じがする。恥ずかしいところも、いやらしいところも全部、つまびらかに)
 夜中の二時を過ぎた頃、対面座位で犯されながらアキは思った。
(開かれるって、気持ちいいんだな)
 千早は何度も名前を読んだ。そのたびに、アキが「千早」と呼び返し、呼び返すとまた欲情して、硬く大きくなっていく。身体の隙間をぴっち りと埋めるソレに、アキは身もだえし、涙を流し、声をあげた。肌の温度と性の快感、どちらも本当に久しぶりのことだった。
 もうコンドームもつけずに中に出されるがままになっている。最初こそつけていたが、二度目から面倒になってアキが「いらない」と言ったのだ。千早は本当にいいのかと問いかけたが、これ以上は野暮だとばかりに足を開いて「早くきて」と言ったのは自分だ。
 足の間から精液が落ちて流れていく。何にもなれずに死んでいく遺伝子情報達に、毎度のことながらアキは、少し申し訳ない気持ちになった。
 結局千早は朝まで一緒にいた。
 散々セックスして足腰が立たなくなったアキを、千早は風呂に入れて服を着させ、同じベッドで眠ったのだ。アキを抱きしめ、耳元で「今なら死んでもいい」とささやきながらあっという間に眠りに落ちた。元々寝つきの悪いアキは、千早の満たされた健康的な寝顔を眺めながら、痛む腰をさすった。
(やっぱり、変な奴)
 そのままいつの間にか眠り込んでいたアキを、起こしたのは携帯電話のアラームだった。朝の新幹線に乗るはずだったが間に合わない、と思い焦って佐々木に電話をすれば、「書類はおれがもってくから、お前は明後日くればいいよ。あとでどこかで合流して、書類だけ渡してくれ」と言われ、拍子抜けした。
 電話の声で起き上がってきた千早にコーヒーを淹れてやると、彼は朝ごはんを食べに行こうと言い出した。確かに京都には、美味しい朝ごはんを食べさせてくれるところが沢山あるが、アキはセックスした後慣れ合うのが嫌いだ。つかれているとか、行くところがあるからと断ると、またしてもベッドに押し付けられる。
「じゃあ、連絡先教えて。携帯電話番号だけじゃなくて、住所と名前、メールアドレスも」
「名前は教えたよ。住所は近々変わるから、はっきりしたら連絡する。メールは、しないから教えても無駄だけど、いいの」
「うん。教えてくんなきゃ、今度は昼まで犯すぞ」
 さわやかな笑みでぞっとするようなことを、千早が言った。
「これ。名刺の裏に書いてるから」
 名刺には、『K大学付属病院 高度救命救急センター 救急科 救急専門医 三嶋 顕』 と書かれており、ややぼやけた顔写真と、病院の住所や電話番号が書いてある。裏には汚い字で確かに何かが描きつけられてあった。
「痛いからもう離せって」
「あ、ごめん。うっひゃーきたねー字!…お医者さんなんだ、ほんとに。救急科って、あのドラマによく出てくる奴?ICUとかそういうの?」
「最近はよくドラマやってるね。警察か病院か、ってぐらいワンパターンだもんな。まあ、それだよ、現実はあんないいもんじゃないけど」
「かっこいいなあ。というか。ごめん、アキって何歳なの?同い年ぐらいかなーって思ってたけど、お医者さんって確かなるまですごい年数かかるよね?医大って六年行くんだろ、レジデントか何かなの?」
 いまだに研修医のように見えるのか、と思うと少し辟易しながら、アキが言う。
「おれもう三十四になるぞ」
「えっ」
「そんなにガキっぽいかなあ。医師としては中堅ぐらいなんだけど。千早は?」
 突然目を泳がせはじめた千早に、「早く言えよ、女じゃあるまいし」と追い打ちをかけると、がっくりとうなだれて白状した。
「…二十二。もうすぐ、三になるけど」
 アキも声を上げて驚いた。肌がきれいだな、とか、眼が若いな、とは思っていたが、まさか大学を出てすぐの若者だったとは思わなかった。酒を作る態度も抱くときのテクニックも、大人の男そのものだったのに。
「一回り年下!うっわ、どうしよ。おれが小学校を卒業するころ、千早はまだ無……この世に存在してないじゃん」
 何故か笑いがこみあげてきて、ニヤニヤしてしまう。千早は不機嫌そうに頬を膨らませた。
「アキも同い年ぐらいだと思ってた。そんなに離れてたなんて」
「まあ、これで目が覚めただろ?綺麗なんて言われるような年じゃないんだよ」
 自分の上にのしかかっている男を押しのけて立ち上がり、アキはマッチでタバコに火をつける。煙を深く吸い込んで、窓を開けてから外に吐いた。
「チェックアウトする前に、風呂に入っていろいろ準備しなきゃいけないんだ。さ、やることやったんだし帰った帰った」
 咥えたばこのまま、しっしっ、と追い払うような手で、アキが言う。千早は怒るでもなく、ちぇ、と残念そうにしながらベッドから降り、ドアに向かった。
「アキ、また会えるよね?」
「気が向いたらな」
 想像していた通りの返答だったのだろう。彼は満足そうに笑い、「きっとまた会うよ、だってデスティニーだからね」と言ってアキを抱き寄せ、額にキスをして去って行った。
「……運命なんかあってたまるか。全部おれが選択していく必然だよ」
 千早が消えた空間に向かって、アキが呟く。タバコの細い煙が、部屋の天井にぶつかって漂っている。
 壁にもたれてそれをしばらく見つめた後、アキは部屋を出る準備を始めた。