1 Ambulance!(鉄仮面と、涙のおにぎり)

『由記中央署 救急隊、救急 指令!現場は中央管内…』


 大音量で流れる自動音声の救急指令に、成一は口にいれかけたパンを、デスクに置いた。
(えーっ、またかよ)
 目の回るような忙しさとはこの事だ。
「あーあ…ラーメンの汁なくなったあとはパンが干からびるのか…」
 人口300万人の政令指定都市、由記市。関東の中核都市でもあるこの街の、中央消防署、第一救急隊が、星野成一の勤務先だ。
「いやいや、帰ってきたら今度こそ絶対食うぞ。これも食いそこなったら倒れちまうわ」
 出動して、思っていたよりも長引いて、食事を取り損ねることは度々ある。今回のように、即席ラーメンに湯を入れて2分たち、さあいよいよ頂きます、と いったときに署内に本部から指令があって出動。帰ってきて食べられないラーメンを捨ててパンを食べようとすれば別の指令、というのも、珍しい事ではない。
「行くぞ」
 成一が椅子から腰を上げた頃にはすでに、隊長である六人部は階段のところまでたどり着いていた。先輩で、機関員でもある大友も同様だ。
「はいはいわーってますよ」
 どうせまた、酔っ払いかなんかじゃねえの。そう呟いた声を、上司の六人部は聞き逃さない。
「気持ちは分かるけど、口にした瞬間から油断になるぞ」
 静かな声。相変わらず、感情のかけらもうかがえない表情だ。
(あーもうほんと、鉄仮面うざい)
「…すみません」
 返事をしたころにはすでに、目の前にふたりはいない。隊長バックを抱えた六人部と、機関員の大友は全速力で車庫に走っている。救急車のある車庫まで、急げば1分。
 最悪でも1分30秒以内に車に乗り込め、と初日に言われた時は、成一は心底辟易した。
(1分!?ろくに寝てない身体で全力ダッシュって、軍隊か!ロボットじゃないんだから、無理だろ!)
 日に平均して9回の出動のうち、半分以上は夜間勤務中に起こる。丸一日続く重労働、仮眠も食事もろくにとれない仕事に、成一は内心嫌気が差していた。
(あーあ。なんでこんな仕事に就いちゃったんだろ)
 ともあれ、現場も傷病者も待ってはくれない。1分と少しで隊全員が救急車に乗り込み、カーナビと地図で手早く現地を確認する。
「現場確認OKです、いつでも出られます」
 機関員の大友だ。運転は通常、彼が行う。
「よし、出動する」
 隊長である六人部が、AVM端末の『出動』ボタンを押下すると、本部に出動したことが伝わる仕組みだ。ヘッドライトと赤灯、それにサイレンを鳴らす。
 成一が咄嗟に確認した腕時計は、午後10時過ぎを指している。
 ――第一救急隊の長い夜が始まった。

 サイレンを鳴らしていても、すべての車が道を開けてくれるわけではない。音楽を聴いているもの、わかっていても退かない馬鹿者、そんなものの為に、救急車には拡声器の機能もついている。
「救急車が通ります、道をあけてください!」
 大友が丸い身体を揺らしながら言うと、携帯電話を片手に運転していたらしいミニバンが、ようやく車を道路の端に寄せた。
 開いた隙間を縫うように、救急車が走り抜ける。迅速に、なおかつ慎重に。救急車が事故を起こすなんて、目も当てられない。
「さっさとどけよ、バカ野郎」
 イライラしながら、成一が窓を叩く。六人部は、本部からの連絡を待っているらしく、ただ静かに助手席に座っている。
「まあまあ、星野っち、そうカリカリすんなってえ」
 クマのぬいぐるみのような見た目に違和感なく、機関員の大友がおっとりとした話し方で成一を宥めた。
『本部より中央署へ。21歳女性、自損。手首、首などを切り出血多量』
 本部からの詳細連絡だ。隊長の六人部はこれを聞いて活動方針を決定し、隊員に伝える。その正確さと判断の速さに、大友は何度も頷く。
(そうなんだよな、仕事はほんと、抜群にできる)
「星野はどう思う?」
「え?」
「そうだねえ、星野っちも隊長と同じ、免もちだもんね。意見聞かせてよ」
 大友の言葉に、成一は内心舌打ちした。
(またこれかよ。そうやって、経験もないのに資格だけもってる、生意気な免持ちに恥かかせようって腹だろ。…最初の配属先で散々やられたから、もう慣れたけど)
 大友が言う「免もち」とは「救急救命士」の資格を持っている者のことだ。通常、一定時間の勤務や特定の条件を満たした者のみが受験資格を得る救急救命士だが、大学などで学習して、就職前に取るものも最近は増えていて、成一はそれにあたった。
「隊長の方針で間違いないと思います、ただ」
「なんだ、言ってみろ」
「薬物の服用、に気を付けた方がいいかもしれません」
 言ってすぐに後悔した。六人部の無表情が、追い打ちをかける。
(間違った事言っちゃったかな。… … あーくそ、おれのバカ)
 最初の配属先では、生意気だ、エラそうだ、経験もないくせに。そんな言葉ばかりを投げつけられ、仕事もろくに教えてもらえず、隊の中でも署の中でも浮いてしまった。幸い、今年の4月からは中央署に異動となり、犬猿の仲だった隊長とは離れたものの、その経験がすっかり成一を臆病者にしていた。
「うん。一概には言えないけど、いい視点だ」
 六人部の言葉に、成一は弾かれたように顔を上げる。
「大友さんは?」
「僕はもう、隊長の言うとおりですとも。…着きましたよ」
 傷病者のいるマンションの前についてすぐ、六人部が隊長バックを抱えて走っていく。その後ろ姿と、大友のいくぞ星野っち!の声にようやく、成一は返事をした。

 資機材とストレッチャーをエレベーターに乗せ、先に階段を走り抜けていった六人部の後を追う。オートロックではないマンションだったので、通報のあった部屋まではすぐにたどりつけた。
 隊長である六人部は先着して、ドアホンを鳴らしていたが応答がない。直接ドアをノックして、話しかけている。
「鈴本さん、由記中央消防署の救急隊です。入りますよ」
 六人部がドアをそっと開けて、声をかける。続いて救急車を停車した後追いかけてきた大友、それに成一が続く。
 ワンルームのその部屋は、きれいに片付いていた。おそらく通報したであろう本人である女性が、部屋の真ん中にぼんやりと立っている。
 成一は、何気なく足元に視線を落とし、ぞっとした。
 血だまりだった。しかもどんどん量が増え続けている。
 青白い蛍光灯が煌々と照らす部屋の中には、血の匂いが充満してむせそうなほどだ。
 さらに部屋の奥へ入ろうとすると、六人部が手でそれを制する。
「包丁を持ったままだ。そこにいろ」
「でも隊長…!」と大友が意見しようとするも、「大丈夫です。何度か経験していますから。すぐに後退できるようにしておいてください」と説得され、黙った。
「鈴本さん、傷の手当をしたいのですが、危ないので包丁を置いて頂けますか?」
 落ち着いた、優しい声で六人部が言う。軽症の患者にタクシー代わりに使われた時や、いたずら電話だったとき、六人部はいつでも同じ「無表情」で通していた。その表情があまりにも淡々としているので、成一は勝手に『鉄仮面』というあだ名をつけていたほどだ。ぶん殴りたくなるような自分勝手な呼び出しにも、 六人部はいつも冷静に対応していた。
(それが、今は)
 成一が驚いたのは六人部がやさしい笑顔を浮かべていたことだ。包丁を持ったまま、首から血を流した女が部屋の真ん中で立っているという異常事態なのに、 彼は見せたことのないような、穏やかな笑みを浮かべて落ち着きはらっている。すごい、と思った。正直、成一は今すぐにでもこの場から逃げ出したい思いだった。当初の想定どおり、彼女が悪いクスリでもやっていたら。何をされるかわからない。
「ああ……包丁……そうですね」
「そう、そこのテーブルの上に置いて下さい。入ってもいいですか?」
「ええ」
 女が包丁を置いたことを確認すると、六人部が成一ら隊員に振り返り、頷く。相手を驚かせないように、静かに傷病者の前へすすみ、そっと床に座らせる。
「傷口を確認させてくださいね。この傷は、自分で切ってしまったものですか?」
「はい……」
「どうしてそんなことを?ずいぶん血が出ていますよ」
 隊長が状況聴取をしている間に、隊員である成一と大友が処置をする。傷は二か所で、腕は軽症だが問題は首だった。動脈こそ外れているものの、頭に近い分、出血量がすごい。こうしている間にも、みるみるガーゼ が真っ赤に染まっていく。
「嫌な事を……思い出してしまって。楽しい気分になりたくて、でも、なれなかったので、切りました」
 テーブルの上には、パケ(ドラッグを小分けにするためのビニールの小袋)と、アルミホイルが置いてある。成一の読み通り、彼女はドラッグを使用していたのだ。
「星野、大友さん。止血は?」
「処置はしましたが、血が止まりません」
 出血性ショック。この場合一番恐ろしいのはそれだ。ついさっきまで話をできていた人間も、突然血圧が下がり、最悪CPA(心肺停止)になり死に至る。出血量は1000mlを超えていることが想定され、危険な状態だ。
「病院にいって、治療をしましょう。鈴本さん、いいですね?」
「はあ」
 まだクスリの効き目が残っているのが、焦点の定まらない目で女が頷く。
 成一とほとんど年も変わら無さそうに見える彼女の、蒼白な顔にはまるで生気がなかった。この若さで、クスリに手を染めて、あげく自傷行為に及ぶなんて。一体何があったらこうなってしまうんだろう、と辛い気持ちになる。
「搬送先を探すぞ。選定は第二次選定以上になると思うけど、おれが念のためMCで医師に確認する。あと、星野は搬送先が決まったら警察に連絡。まずは傷病者を車内収容」
「了解!」
 車内に収容し終え、ストレッチャーに横になっている女は、終始うつろな目で車内を見上げていた。
「鈴本さん、ごめんね。今受け入れ先の病院を探しています。少しだけ待ってくださいね」
 成一が声をかけても、彼女は瞬きをするだけで返事はなかった。
 今のところ意識ははっきりしているが、危険な状態であることに変わりはない。六人部はMC(メディカルコール)で医師に助言要請をはじめた。
「はい、薬物を使用しているようですが、種類は分かりません。出血量は約一1000~1500mlで第二次選定でいこうかと思っています」
 救急隊員は、病院の選定や現場での処置に迷った時、MCによって医師に助言を求めることが出来る。主に、経験豊富な隊長がその業務を担っていて、今も六人部がその役割を果たしている。
『うーん…なるほどね。その出血量が今後も続けば、容体が急変することも考えられるよね。JCSは?』
「100です。が…体温低下が認められます。三次選定と迷うところなのですが…」
『そう。いまのところ意識鮮明だもんな。うん、六人部隊長の言うとおり、第二次選定でいいと思います』
「了解しました、ありがとうございます」
 由記市民病院へと搬送が決定し、発車する。
 聞き慣れたサイレンの音が、夜の街にこだました。

「おまわりさん、顔色変わってたねー」
 大友の言葉に、成一が頷く。
「薬絡みは、徹底的にやるらしいですからね」
 署に戻り、感染防止衣を脱いでから、デスクに座る。隣のシマでは出動のあまりない消防隊が、和気あいあいと話しこんでいた。
(あーあ、パッサパサになっちまった)
 一口も食べていないサンドイッチの前で肩を落としていると、隣で大友が大きな身体を揺らして笑った。
「あー星野っちかわいそうだねえ、僕のから揚げ二つあげるよ」
「えっいいんですか!」
「だってそんな捨てられた犬みたいな顔してたらねえ、可哀想じゃん」
 なんていい人だ!と叫びながら、ありがたくから揚げを頂戴する。時刻はすでに日付が変わっていたが、ようやくありつけた夕食だった。
 不意に、デスクに何かが置かれる。隊長の手だ、と気づいたのは、短く切りそろえられた爪と指の長さのせいだ。置かれたものがコンビニのおにぎりだと気づいて、成一は思わず立ち上がってしまった。
「それ、やるよ。食べてないんだろ」
「わ、わ、おれお金払います!」
 慌てふためいて叫んだ成一に、六人部がふっと笑った。
「部下から金もらうほど落ちぶれちゃいない。でもな、星野はもうちょっと早く食べられるようにならないといけないぞ。早飯はこの仕事の基本だからな」
 ゆっくりと話すその声よりも、はじめて間近で見た上司の笑顔に、思わず成一は見惚れてしまった。額にかかる短い髪の下で、黒い眼が優しげに細められている。端整な顔だと思った。今までどうして気づかなかったんだろう、と考え、そうだ、この人はまるでそういうことを感じさせないような無表情だったから、と思い至る。感情なんてないかのような、人形のような顔ばかりを、転属になって2か月間見てきた。そしてその表面だけをとらえて、冷たい、優しさのない人間だと決めつけていた。
 成一は、自分を恥じた。いくら前の所属で色々あったとはいえ、人を見る目がここまで曇っているなんて。いますぐに土下座して謝りたいほどだった。
「すみません隊長……なんかおれホント…今までの全部すみませんでした。いますぐ死にたいぐらいっす。すみません」
「大げさだなあ」
 そういって六人部はまた笑った。紙パックのお茶も取出し、喉につまらせたりすんなよ、と言って大友とは逆側の、隣に座る。
「ええーっ隊長ぉ、僕にはないんですかあ?」
「大友さんは愛妻弁当があるでしょう。さびしい独身者限定サービスです」
「そんなあ」
「それにしてもから揚げうまそうですね」
「あっ隊長も食べます?妻のねー、唯一の得意料理なんですよお!エへへへへ」
 大友が、弁当箱いっぱいに詰められたから揚げを六人部に差し出す。
「ありがとうございます、頂きます……うまいですね、確かに」
 すでに夕飯は手短に取った、と言う六人部が、から揚げを口に入れて頷く。
(そんなに人にあげちゃって大丈夫なのかな)
 心配になり、大友の机の上、弁当箱を覗き込んだ成一は目を剥いた。そこには大きな弁当箱三個が並んでおり、一つ目にはぎっしりとから揚げが詰まっていたのだ。
(そ、そんだけ食べたら太りますよ大友さん、当たり前ですよ!)
「いやー妻がねー、最近言うんですよ。前に取った集合写真見てねえ、隊長さんかっこいいわあ、あなたもあんな人なら良かったのにー結婚した途端にまるまる太って結婚詐欺だわあ!って。でもねえ僕思うんですけど、太らしたのって妻じゃないですかあ。こんなに毎日沢山、ねえ。美味そう?いやいや美味いのはから 揚げだけであとはほんと全部、何作っても不味いんです。食べます?あ、いらない?エへへへそう言わずに」
 まるで相撲取りのようにまるまるとしている大友は、普段はおっとりとしているが仕事の時、特に病院探しのときはものすごく早口で話す。成一も、はじめはそのギャップに驚いたものだった。二か月経った今は、慣れてきたが。
「それにしても、隊長と二言以上話したのって、初めてですね」
 もらったおにぎりを頬張りながら言う。美味かった。こんなにおいしい握り飯食った事ない、とかみしめるほどに美味かったのは、きっと空腹だけのせいではない。
「ああ……ごめんな、感じ悪かったよな。最近軽症患者があまりにも多かったから、おれ黙ってると怖く見えるみたいで。……昔、幼なじみにもよく『怒ってるの?』って聞かれてた」
「そうそう、隊長機嫌悪かったよねえ。あ、星野っちあれだよ。隊長ねえ、機嫌悪いと無表情で、そんでうんと丁寧な話し方になるの。あとね、人見知りすごいの。星野っち来る前なんて、すごく若い奴がくる、話合うかな、うまくやっていけるかなあってオロオロしてさ、おっかしかったよお」
「ちょっと大友さん、やめてくださいよ」
 声をあげて笑った。嬉しかった。
(なんだ、お互いに距離を測っていたのか。野良猫みたいに、壁の影から「そっちが近づいてこい」「そっちこそ」ってやってたのか。おれほんとバカだった)
「隊長にも、幼なじみなんていたんですか」
 六人部はその反応が可笑しかったらしく、クスリと笑った。
「ああ、意外か?もうずっと会ってないけど」
 ほとんどプライベートを明かすことのない(というよりむしろ、仕事中に雑談することがなかった)上司の、思わぬ話に成一は食いつく。
「どんな人だったんです?」
 隣で大友が、好奇心と心配をないまぜにしたような表情でこちらをみている。六人部は少し迷ってから視線を落とし、言った。
「アキ……、幼なじみは、そうだな。美しくて、聡明で、高潔な人だったよ」
 胸の奥が、ズキンと痛んだ気がしながら、成一はかろうじて微笑む。
(なんだよ、今の顔)
 さらに掘り下げようとすると、六人部が「話を戻すが」といって咳払いした。やむを得ず、成一はそれに従う。
「ここ2か月のことだけど、お前は免持ちだって聞いてたからちょっと様子をうかがってたのもあったんだ。前の所属でどの程度できたのかも、わからないし」
「すいません。失望しましたよね、全然できなくて」
 教えてもらえなかったんだ、と言いたかった。免持ちは生意気で、気に入らないと言われてろくに口もきいてもらえなかったんだ、と。でも成一はぐっと口を閉ざした。いい訳 だ。社会人になれば、学生の頃みたいに一から十まで教えてもらえるところなんて、なくて当たり前だ。与えられた環境の中で、どれだけ出来るようになるか、努力したか。それがすべてで、他は言い訳に過ぎない。
「これから、死ぬ気で頑張ります。隊長の技術、全部盗むつもりで」
 顔を上げると、六人部がニッと笑った。
「星野、気づいてたか。お前ここにきて初めて、ちゃんとおれの眼を見たぞ」
「えっ……そうでしたか?!」
 うん、と六人部が言う。
「お前うちの署に来てから、ずっとおどおどして、自信なさそうで。正直どう接していいのかわからなかった。免持ちだっていうからあんまり一から十まで教えるのも、と迷ったりもした。
 でも、もう大丈夫だな。そうやって眼を見て、思った事はなんでも言ってくれたらいい。星野も大友さんもおれの部下だけど、その前に仲間だ。助けるし、おれがダメなときは助けてほしい」
 よろしくな。そう言って、成一の髪を乱暴にかき混ぜる。
「ハイ!」
 成一は中央署に配属されてからはじめて、心から笑った。