3 Ambulance!(救急車はタクシーじゃねえんだぞ)

 成一の朝は早い。
 消防士は、警察などと同じで体育会系の世界だ。上下関係が厳しく、未だに若手が早く出勤して署の周りを掃除したり、机を拭いたりする習慣が残っている。
 その日も、業務開始の一時間前には雑務をこなし始めていた。
「おはよう。早いな、いつも」
「おはようございます、隊長。下っ端なんでこんなもんっす」
 コーヒーでも淹れようと腰を浮かせたところで、六人部が断る。
「いい、自分で淹れるよ。お前も飲むか?」
「ありがとうございます!」
 消防隊の面々も次々と出勤してくる。朝だというのに、元気のいい挨拶が交わされるのは、署長の『挨拶、礼儀が全ての始まりだ』の口癖の影響だった。
 朝の体操を円陣を組んで行い、申し送りが終わればいよいよ勤務開始だ。軽い体操をしただけで少し息が上がっている大友を心配そうな目でみながら、成一もストレッチを終える。
「そういえばさ、星野は身体柔らかいよな。前屈でも身体が全部前についてるし、足もすごく開脚するからいつも気になってて。器械体操か何かやってた?」
 隣の席で日誌を決裁しながら、六人部が言う。
「おれずっとバレエやってたんです、それでですかね」
「バレエ?バレエって、あの白鳥の湖とかの?女の人だけだと思ってたけど、そういえば男性でも有名なダンサーいるよね」
 大友が、買ってきたらしいコカコーラを水のように飲みながら問い返す。
「そうですね。男性が主役の演目もあるんですよ。大学に上がるまでは舞台にも立っていました」
 席を立ち、屈伸を軽くしてからY字バランスをしてみせると、隣の消防隊からも「おおー」と声が上がった。続いて足を後ろに高く上げる、バレエでおなじみの「アラベスク」を披露すると、六人部も「すごいな」と笑顔になった。
「あは~ほしのっちって育ちがいい感じするなーと思ってたんだけど、どおりで。姿勢もきれいだもんなあ~」
 まばらに上がった拍手に、成一は照れながら頭を下げる。
「大学在学中は、バイトで教室の生徒に教えたりもしてました。母が教室をやっているので……今はもう、土日に少し踊る程度ですね。公務員はほら、兼業禁止ですから」
「お母さんはバレリーナか何か?」
「元、ですけど」
「すごいな。どおりで星野は食べるのが遅いわけだ」
 六人部いわく、育ちのいい人間は食べるのが遅くて、食べ方がきれいなのだという。その言葉に実感がわかず、そうですかねえ、と首を傾げる成一に、大友が同意した。
「あー隊長の言うことわかりますよお。僕なんか見事な犬食い、まるで飢えたケモノって妻に何回も指摘されてますもん」
「それはまた直接的な言葉ですね」
「でしょお?まあ、僕は五人兄弟の末っ子で、常に兄弟にご飯を取られる危険性があったもんで、あの頃の『ごはんは戦争』な気持ちがぬけないんですねえ」
「なるほど。それなら少し、分かります」
 二人のやりとりに、なんとなく座りが悪くなって、成一は慌てて否定した。
「全然育ち良くないですって。おれの家、正座禁止だったんですよ。だから習字とかそういうの一切習わせてもらえなかったぐらいで」
「それはまたなんで?」
「正座は足に負担がかかるって言われて。関節に負担を掛けたり、手足が伸びるのを阻害するらしいです、まあ母いわく、ですが。」
 男がバレエなんて、とからかわれたことが、成一にも無いわけではなかったので、上司と先輩の反応が気にかかった。が、六人部はおだやかに笑っているし、大友はしきりと感心しているだけで、そんな気配は全くなかった。
「やっぱり星野は、『いいとこの子』だな」
「ですね~、お箸の持ち方もきれいだし」
 居心地が悪い。褒められているけれど、遠ざけられてもいる気がする。
 成一は笑って誤魔化してから、席を外した。
 用を足して、席に座って事務仕事をこなそうかとペンを握ったところで、本日一回目の指令が入った。
『救急、指令。〇〇町二番、45歳女性、通報は配偶者から。腹痛』
 冷静に迅速に。その言葉を頭の中で唱えながら、成一は車庫へと走る。六人部も大友も、どんなに緩んだ会話をしていても、指令が入ると別人のように引き締まった顔になった。
 救急隊の制服の上に感染防止衣をまとい、救急車に乗り込む。咄嗟に時計を確認すると、指令から58秒、午前9時43分。なかなかいいペースだ。
 サイレンの音が由記市中央署から出発する。少し憂いを帯びている六人部の表情が気になったが、成一は背筋を伸ばして現場に備えた。

 玄関扉を開いた瞬間、隊長である六人部の顔からすっと表情が消える。無だ。もしかしてこれは、という思いが、成一と大友の間に駆け抜ける。
 案の定、着替えを済ませ、薄化粧までしている女が、すみませんねえと歩いてきた。しかも夫の第一声は、「あのお、サイレンを止めてください」。これは大体の軽症患者に共通する溜息ワードである。
 お泊りセットまで完備している夫婦に、顔に出さないようつとめたものの成一は怒り心頭だった。
(なにがすみませえん、だ。おれ達はなあ、タクシーじゃねえんだよ!)
と心の中で叫ぶ。
(あくまで心の中、これが大切だ。落ち着け、落ち着けおれ。隊長の真冬のような涼しい顔を見習うんだ)
 六人部が状況確認を始める。大友は救急車を邪魔にならない場所に停めてから室内に入ってきたが、夫婦の様子を見た瞬間に眉を下げて情けない顔をした。
「コレがね、腹がいたくて動けないって、さっきまで大騒ぎだったもんですから。呼ばせてもらったんですけど、この時間ですんでね。サイレンはちょっと」
「お気持ちは分かりますが、緊急事態ですので。腹痛はいつごろから、どの程度ですか?」
「昨日の夜ごろからです、なあ」
「ええ。もうねえ、だいぶ良くなったんですけど」
「……そうですか」
 とりあえず車内収容。言葉少なく六人部が成一に言う。成一が荷物を持ち、ストレッチャーに乗せて車内に妻を収容したが、救急車の前で六人部と夫が何か言い合っており、また軽症ということもあって、病院がなかなか決まらず搬送ができない。
 おっとりとした大友の普段はない早口の電話を聞き、妻の「遅いわねえ、早くしてよ」という文句を聞き流しながら、その時を待った。
 30分後、受け入れ先が決まった。そしてその時になってようやく、六人部と夫の言い争いの中身が判明した。
 同乗を頼んだ六人部に対して、あろうことか夫は「仕事があるんで」と断っていたのだ。根気強く説得をする六人部に対して、最終的には「いいからさっさと連れて行ってくださいよ!それがあんたらの仕事でしょ!」と怒鳴りつけられ、成一は腰を浮かせた。駆け寄ろうとして、六人部と目が合う。軽く首を振って止められて、急速に頭の中が冷えていく。
(ああ、こんなことでカッとなってしまった。隊長はすごいな、落ち着いてる。あんなに理不尽なことを言われてるのに)
「星野、搬送しよう。病院は江本病院です。入院になることもありますので、お伝えしておきます。あと、この時間でしたら病院は開いているところが多いので、できたら自家用車でご家族が連れて行ってあげてください。動かせないとか、意識がないとかそういう状態でなければ、その方がより早く病院で見てもらうことが出来ます」
 理不尽な相手にも、六人部は淡々と説明をする。が、相手はほとんど聞いておらず、
「いやあ苦しそうだったんで。ま、次からそうします」と嘯いただけだった。
 病院に向かう救急車の中、成一の心は煮えたぎっていたが、六人部は前の座席から、傷病者に声を掛け続けた。
「もうすぐ着きますからね。遅くなってすいません」
「揺れて申し訳ありません。痛くありませんか」
(声は静かで、表情も笑顔からはほど遠い。それでも、隊長は傷病者を安心させる、魔法みたいなものを持っている気がする)
 この人から全てを学んで、吸収して、一人前になりたい。そう思わせるものが、確かに六人部にはあった。
 派手さはないし、愛想もいいわけではない。ただ、 仕事に対する誠実さ、判断の的確さ、状況を見抜く視野の広さが、これまでに出会ったどんな先輩、上司よりも優れている。
(この人みたいになりたい。だから、短気な自分は捨てるんだ)
 搬送を終えて署に戻る。車庫で感染防止衣を脱いでいると、六人部がぽんと肩を叩いてきた。
「さっきはありがとな。止めに来ようとしてくれたんだろ」
「すいません。おれ、ついカッとなっちゃって。あんな言い分ねえだろって」
「仕方がないよ。ほとんどの市民は、どういう場合に救急車を呼べばいいのか、救急車はそもそもどれぐらい出動しているのか、知らないんだ」
「それは…確かにそうですね。おれもこの仕事を始めるまでは、こんなに朝から晩まで出動してるなんて、知りませんでした。軽症の患者がほとんどだってことも」
 そうだろ。そう言ってわずかに微笑んで、六人部が続ける。
「家族が怪我をしたり病気になったりして苦しんでいたら、パニックになることも少なくない。心情的には理解できる。だから、責めるだけじゃなくて、行政も啓発に力を入れて行かないといけないと思う。相手を変えようとするんじゃなくて、自分たちの意識を変える方が早いだろう?」
「……はい」
「まあ、今のは正直参ったけどな。あの人病院につくなり大丈夫だって自分で歩きだして、サインもらうとき当直の先生に睨まれてしまった」
 六人部が俊敏な動きで、事務所へ上がっていく。隊長バックを下げ、まっすぐに前を向いたまま歩いていく。
「遠いな。でも、目標ができましたよ、大友さん」
 隣でふうふう言いながら感染防止衣を脱いでいる大友が、え?と笑顔で振り返る。
「おれ、絶対六人部隊長みたいな救急救命士になります」
「うん、わかるよお。僕だってなりたいもん。でもさ、道は険しいよ。まずは短気を直さなきゃねえ」
 意外と人のことを見ている大友に、成一は驚く。
「やっぱり、わかりますか」
「そりゃあね。この仕事、短気は一番まずいよ」
「ですよね」
「一緒に頑張ろう。僕もそんなに気が長いほうじゃないからさ」
 今度は大きな大友の手が、成一の背中を強く叩く。痛い、痛いです!と叫ぶ声に、大友がイヒヒ、と嬉しそうに笑った。

 署長と話しこんでいる上司を確認して、成一が大友に耳打ちする。
「六人部隊長って、無口ですよね」
「うーん?無口ってわけでもないよ。特定の話題が苦手なだけじゃないかなあ」
「特定の話題ですか」
「そ。他人の話には、相槌もうつし、疑問があればきいてくるけど、自分の話はあんまりしないねえ。とくに、生まれ故郷の話とか、NGって感じだよお」
 二回目の指令も軽症で、搬送に手間取り、帰署する頃には正午を回っていた。
 昼食は、近所のコンビニで買うぐらいしかない。店は何もないし、あったとしても制服のまま食べに行くのは憚られる。
「そういえば、聞いたことないですね。こないだ幼なじみの話が出てきたときも、掘り下げようとしたら何気なく話変えられちゃったし。あ、隊長って血液型はAB型らしいっすよ、大友さん知ってました?」
「へえ~、ちなみにねえ、僕はおとめ座のA型だよ~ほしのっちは?」
「なんか意外……おれはBです」
「そうなんだあ。まあ何型がどうなのか、全然知らないけどさ。食べよ食べよ。妻が作ったクソ不味いお弁当食べよ~っと」
「ひどいな、作ってもらっといて。さておれも、いただきますっと」
 買ってきた焼きそばパンとコーヒー牛乳を並べて、手を合わせた瞬間だった。
『救急、指令。〇×町三番、由記南小学校、高熱痙攣、意識混濁。通報者は教師』
 即刻パンをデスクに置いて立ち上がる。考える前に、身体は走り出している。その程度には、成一もプロだ。
「その場所…由記南署の管轄だねえ」
「出動中ですかね…」靴を履きかえながら、言う。口には出さなかったが分かる。きっと軽症患者の搬送中に違いない、そんな風に大友も成一も想像した。救急車の台数は限られている中、軽症であろうがなんであろうが、呼び出されればそこへ行くしかない。だがその間に、重篤な症状の傷病者が発生することもある。そういった場合には、近隣の署から応援に行くことになっている。
 大友が湿度と温度を携帯電話で確認する。六月だが、湿度が高く、気温が一番高い時間。熱中症が発生しやすい条件がそろっているのだ。
「熱中症でしょうか」
「可能性は高いけど、おれたちは医者じゃない」
 すかさず六人部が釘を刺す。  
 成一は気を引きしめるべく、奥歯をぐっとかみしめた。
 発車する。緊張のせいで、空腹はほとんど感じなかった。

 現場には緊迫した空気が漂っていた。
 校門の前で教師らしき人物が二名、立って手を振っている。その顔は青白く、汗ばんでいる。
「早く!こっち、こっちです」
 六人部が一番早く走って現着する。少し遅れてストレッチャーを押した成一が、最後に停車し終えた大友が後に続く。
 小学校の保健室の周りには人だかりができていた。通してください!と声を上げ、人の河を割りながら進んでいく。
 傷病者は保健室のベッドの上に横たわっていた。十歳の男児で、真っ赤な顔をしているのにほとんど発汗している様子がない。
 保健師は熱中症を疑ったのか、首の後ろは保冷され、枕元には水差しが置いてある。
「どうしてこんなに遅いんですか、通報したの10分以上前ですよ!」
「申し訳ありません、最寄の署が出動中だったんです」
 成一の答えに、取り乱した女教師が眉を寄せる。
「そんなこといいですから早く見てください」
「落ち着いてください。状況を聞かせてください」
 成一の声に、さらに何かを言おうとした彼女だったが、保健師の女性にそっと背中を撫でられ、ようやく少し声を落とした。
「先生、驚かれるのも当然のことです。ですが、この状態ですと一刻を争いますので、救急車に収容後、搬送先を探しながら聞き取りを行います」
 吐しゃ物の有無、JCSを確認していた六人部が、静かに言う。腕を軽く抓っても反応がなく、危険な状態であることは成一にもすぐに分かった。JCSは300、つまり痛み刺激にも反応しない状態だ。
「星野、呼吸は」
「32回、浅いです。体温もかなり高いですね。発汗が止まっているのも危険な兆候です。少なくとも二次選定以上になると思います」
「了解。車内収容しよう、先生は同乗してください」
「大丈夫なんですか、助かるんですか!」
 まだ二十代半ばぐらいだろうか。再び不安定な状態になり始めた女教師を、六人部が見つめる。その眼は静かで、揺らぎも迷いも見当たらない。
 時間にすれば数秒もなかった。が、彼女はすぐに自分を恥じ、静かに頷いた。
「すみません。……信じます、行きましょう」
「星野、大友さん、搬送!」
 六人部の声に、即座に反応して運び出す。救急車の中で搬送先を探す大友の声は、いつもにも増して早口だった。車内では成一が足の下に毛布を敷いて頭を低 くし、首回りや額をアイシングする処置を行う。幸い嘔吐が無かったため、気道は確保されていた。
 時間が、飛ぶように通り過ぎていく。早く、早くと気持ちばかりが焦るが、病院が決まらない。倒れた状況などの聞き取りは六人部が行っていた。傷病者は、体育の授業中に急に倒れたのだという。
「決まりました!隊長、救急救命センターへ搬送します」
 赤色灯がともり、同時にサイレンの音がこだまする。
「頑張れ、病院決まったからね。もうちょっとだぞ」
 成一は生徒の手のひらをさすりながら、到着まで声を掛け続けた。
 病院の外には救命医と小児科医、それにスタッフの看護師がすでに待機していた。教師はスタッフと一緒に救急処置室の前へと走っていく。ストレッチャーを押しながら引き継ぎをする六人部に、顔見知りの救急医が小さく頷いた。
「なるほど。JCS300に発汗無しの三次選定か。熱中症、重度だ。実はいま、救急医が一名足りてなくて正直ちょっと受け入れがきついんだが、その判断は正しい。さすが六人部隊長だぜ」
「受け入れて頂いてありがとうございます、佐々木先生。よろしくお願いします」
「仕事だからな。ま、近いうち超がつくぐらい有能な医師を招き入れるつもりなんだ。その時は君にも紹介してやるよ」
 優秀なことで有名な救命センターの救急科の指導医が、片手をあげる。それを見送ってから、三人は車内に戻った。
 救急車に戻り、大友がふう、と溜息をつく。 
「助かるといいなあ…障害が残らなければいいんだけどね。どうしてあそこまで重くなってしまったのかなあ」
「水分をこまめに取るように、指導はしていたみたいなんです。家の遠い児童のようなので、通学途中から熱中症の症状が出ていたのかもしれません。気づいたときには、すでに水分を自力で取れなくなっていたみたいです」
 落ち込んだ様子の大友。成一の視線に気づいて、情けなく笑って頭をかいた。
「僕にも、同い年ぐらいの子供がいてさ。だから他人事じゃなくって。だめだねえ、こういうのって。プロ失格だ」
「そんな」
 成一が言う前に、六人部が頭を振ってはっきりとした声で言う。
「そんなことありませんよ。おれも、同じ気持ちですから」
「…うん」
 帰署する車中は三人とも、言葉少なだった。サイレンを消しているせいで、大友が鳴らした、カチカチというウィンカーの音が車内にこだましている。

 その後、4回。計7回の指令で、一日の勤務が終わった。救急指令は夜に集中することが多く、今日も六人部の隊は成一を含めてほとんど仮眠を取れなかった。
「お疲れ様でした」
「お先に失礼します」
 引き継ぎを終えるとようやく一日の勤務終了だ。大きい声で挨拶をして、眠い目を擦りながら消防署を出る。結城市の山の手に住んでいる成一は、自転車通勤だ。愛車の白いキャノンデールに跨り、帰路につこうとしたところで、後ろから声を掛けられた。
「星野は自転車通勤なのか」
「許可おりたんで、今日からです。へへ、ロードバイク買っちゃいました」
「いいなあ、早いんだろ」
「結構スピード出ますよ。隊長は電車ですよね」
「そうだけど、今日は飲んで帰ろうかなと思って。お前も行くか?大友さんも来るよ。ちょっと寝てから直接店に来るって言ってたから、駅前の本屋でも行って時間をつぶすつもりなんだ」
 いつ飲みに誘おうか、ずっと悩んでいた。自分から言い出せなかったのは、以前の上司との関係悪化が頭をよぎり、(近づきすぎて嫌われるよりは、ほどよい距離の方がいいのだろうか)という臆病な気持ちがあったからだった。
「い、いきます!!」
 自分でも思わぬほどの声量が出て、六人部が目を丸くする。
「耳元で大声出すなよ」
 変に思われるかと心配したが、上司は眉を下げて笑った。
「じゃあ自転車は置いていけよ。飲酒運転になるからな。外に置いていたら危ないから、署の中に入れさせてもらえばいい」
「そっか。そうですね」
 向かい合って立っていると、六人部の視線は少し下の位置にあった。仕事中の顔とは違う、緊張感を脱ぎ払った表情は、彼を年齢よりもやや若く見せる気がした。
(なんか、無防備な感じ。こういう顔もするんだな)
「星野は背が高いなあ。影になるから隣を歩け」
「あはは、すいません」
「最近の奴は手足長いよな。…そう言えば眠くないのか」
「眠いですけど、隊長と酒飲みたいので全然大丈夫っす」
「変わってるな、デートでもしろよ。明日公休日だろ、予定ないのか」
「ないです。まったくないですから。安心してください」
「胸張るところじゃないからな」
 隣を歩く。梅雨晴れの、新鮮な空気を胸いっぱい吸い込む。
 夜勤明けの疲れなのか、普段からそうなのか、六人部はゆっくり歩く。成一もその隣を、歩調を合わせて歩いた。消防署の前を通る銀杏並木は、青々とした葉を茂らせている。朝の、まだ使い古されていない空気は、湿度がなく肌に心地がいい。

 月に一、二回訪れるという居酒屋に着いたのは、正午前だった。
 昼間だというのに満席に近い居酒屋の、窓沿いの席に座ると、大友ではない誰かがすでにそこに居た。
「よう、さっきぶりだな」にやりと笑った無精髭の男は、さきほどやり取りをした救命センターの医師だ。
「先生!?」
「佐々木医師だよ。これからお世話になることもあるだろうから、挨拶しとけ」
 六人部がこともなげに言い、佐々木の前に座る。
「噂は隊長殿から聞いてるよ。星野君だろ?ま、座れ。ビールでいいのか」
「わわわ、自分が頼みます!六人部隊長ビールでいいですか」
「うん、あとから揚げ食べたい」
「了解です」
 佐々木のグラスはまだビールが半分ほど入っている。手を上げて注文してから、改めて挨拶をした。
「四月から中央署に配属されました、星野成一です。よろしくお願いします」
 座ったまま頭を下げる。固い挨拶はなしだ、と佐々木が手を振って、ひとまず乾杯しようと促される。
「ともちんがまた来てねえけどな。ひとまず練習だ、乾杯」
「乾杯!」
 グラスを合わせて一息に半分ほど飲む。たまらなく美味い。
「……あの、ともちんってひょっとして、大友さんのことですか」
「そうだよ。あいつおれの飲み友達で、実家が隣なんだ、年はおれの方が一つ上」
「大友さんは37歳でおれの3歳上だな。採用はふたつ後輩だけど」
 六人部の言葉に、成一は頭の中で全員の年齢を整理する。佐々木医師が38で、大友が37、六人部が34歳、と納得してひとり頷く。二十代は、成一ひとりだけだった。
「ともちん、トラック運転してたからな、運転上手いだろ?」
 言われてみれば確かに、走行技術が群を抜いていると署長も褒めていた。
「大友さんって、民間からの転職組ですか」
「そうだよ。大学在学中に子供ができちまってな。トラック運転してたはいいけど、その子供が難病で、嫁さんだけでは看病できなかったんだよな。民間だと休みなんてあってないようなもんだし、それで転職だよ。あんときは随分勉強見てやったもんだ…おい、これ食ってみろ。ここは魚が美味いんだ」
 佐々木の言葉に、成一は美しい盛り合わせの中から、きびなごの刺身をつまんで口に入れた。生臭さがまったくなく、口の中であっという間に溶けてなくなる。
「おいしいですねえ。いやー幸せってこういうことかと思いますねえ」
「今の話し方大友さんみたいだったな」
 六人部が笑う。勤務外では、思わぬほどに表情豊かだ。眉を下げて笑う表情は、成一の、上司の好きなところの一つになりつつあった。
「ごめーん、遅れてすいませーん!」
 着替えてきた大友が、なぜか自分でビールジョッキを持って席に走ってきた。その様子に、すかさず成一が突っ込む。
「なんでそんなもの持ってるんですか!」
「いやーエヘヘ。厨房に寄って自分でいれてきた。実はねえ、大学まで僕ここでバイトしてたんだよねえ」
 走ると揺れる丸い頬を赤くしながら、グラスを掲げる。大友は佐々木の隣に座り、ようやく全員で、正式に「乾杯」した。