19 ピース オブ ケイク(三嶋顕の過去Ⅴ)

 この高校の、何に惹かれて入学したの?
 市岡の問いに、アキは「坂道」と答え、摂は「桜並木道」と笑った。
「坂道って、のぼるの面倒くさいとおもわんかった?」
 息がすっかり上がっている。市岡は、額の汗をぬぐいながら溜息をついた。
「おもわんかった。だってここの桜、めっちゃきれいやし、歩いててあきへんもん」
「それにしたってこの坂はアカンわあ。アカンでこれ……ボール転がしたら絶対下まで転がっていくで。だいたい、桜綺麗とか春だけやし。今はほらァ……毛虫だらけやん気持ちわるっ!」
 新緑がまぶしい初夏、高台にある高校へと登っていく道には、ちらほらと一緒に歩く毛虫が見える。やわらかい初夏のソメイヨシノの葉は、恰好の餌になっているのだ。
「明日、クスリをまくって五十嵐先生がゆうてた」
 摂がいつもどおり、落ち着いた声で言う。五十嵐は三人の通う文理科(いわゆる特進コース)の担任教師だ。
「そういやゆうてたかも。あーん早くしてほしい~こないだ頭に落ちてきてんで!いやすぎる!あれ、六人部くん背、伸びた?」
「おう。身体が痛くて夜寝られへんねん、最近」
 高校に入ってすぐに伸び始めた身長は、すでに175センチを超えていて、隣にいる市岡に影を作っているほどだった。
「ええなー、おれももうちょっと身長欲しい」
 アキの言葉に、摂が得意げににやりと笑った。
「あとちょっとで、アキを追い越すなあ」
 顔を背けたアキが後ろを振り返って、市岡に頑張れ、と声をかける。
「先にいくで。日直やからやらなあかんことあるし」
 アキは摂と目を合わせ、二人で坂道を駆け上っていく。
 揺れる黒い髪と、幸せそうな笑顔に、市岡は自然と頬が緩んだ。

 

 

 

 体育の時間は男女別々に着替えることになっていて、着替えを終えたものから集合する。アキと摂の通う高校は文理科でも週に二度体育の授業があり、五月から六月にかけては、柔道の授業をすることになっていた。
「あ、摂ごめん先いってて、忘れもんした」
「そこの渡り廊下で待ってる」
 着替えを終えて一度教室を出たものの、タオルを忘れていることに気付く。アキは慌てて教室に戻り、ドアを勢いよく開いた。
「あっ!!」
「…何してんの」
 クラスメイトの中でも、ひときわ人気のあるバレーボール部の白石が、アキの席の前に立っていた。さっと何かを後ろに隠したのが見えて、眉を寄せる。
「お前なんか隠したやろ」
「タオル…」
「そうそれ。いるねん、返して」
 白石は今膝を痛めていて、体育の授業に出られない。そのため彼はブレザー姿のまま、軽薄に見える短い金髪を揺らして、唐突に頭を九十度下げた。
「ごめんっ、これおれにくれないか」
「はあ?!いや、困る。柔道ってすごい汗かくし」
「タオルならおれのやるからっ」
 教室の壁にかかっている時計をちらりと見やる。休み時間はあと五分で終わってしまい、もしも遅刻するとあの恐ろしく厳しい角刈りの体育教師に、腕ひしぎ十字固めの刑に処されてしまう。
「なんでいるんよ。ふつうのタオルやで?」
「お前のタオルだってことが大切なんだよ。おれ今度膝の手術すんだけど……三嶋のタオルと一緒なら乗り越えられる気がする」
「意味わからん」
「おれのタオルやるから。ほれ。ほれほれ。バレー部でお揃いでかったやつだぞ。おれのファンの女の子がみんな、泣いて喜んで欲しがる代物だぞ」
「いらんわ!ああーでももう遅刻する~、わかったとりあえずお前のタオルと交換な」
「やった!」
 嬉しそうな顔で、白石は指を鳴らした。
 急いでいたアキは、赤に白で書かれた『ONE FOR ALL!』という文字を読んでから首に巻いて、教室を後にした。 

 

 

 

「それ、アキのタオルとちゃうよな」
「そやねん。なんかタオル交換しろって言われて。手術がどうのこうの」
 見事な姿勢の良さと投げ技を披露した摂と対照的に、フラフラになっているアキが教室に戻りながら言う。
「バレー部?」
「あたり。すごいなー」
「隣で練習してるからな、体育館と剣道場近いし」
 摂がやや不機嫌そうに言ってから、白石やろ、と確定的な言い方でアキを見た。
「警察官になれそうやな、摂」
「アキ、あんまりあいつに近寄らんほうがええと思う。あいつフラフラ遊んでばっかりやし、校則は守らへんし茶髪やし……文理科入れたのだって不思議なぐらいや。部活でも浮いてる」
「そうなんや?でも一年でエースなんやろ、うちバレー部強いのに」
 クラスメイトの悪口を言う罪悪感から、庇うような発言をしたアキに、摂は無表情のまま言った。
「あいつ、そこの河川敷でやってるらしいし」
「やってる?何を?」
「タバコ、とか、……女とか」
 通学路には、隣街と高校のある町を分断する大きな川があって、広い河川敷には壊れかけの古い小屋が一つ建っている。所有者のはっきりしないその場所は、高校生の恰好のたまり場となっていて、進学校であるアキの高校も、はぐれ者たちについては例外ではなかった。
「ええー?そうかなあ、そんな悪いやつにはみえへんかったけどな」
「気を付けろ。白石は、絶対お前のこと変な目で見てると思う」
 変な目で見られることは少なくないが、さすがにクラスメイトの男子からあからさまに言い寄られたことは一度もない。アキは笑いながら首を振った。
「まだ同じクラスになって二か月ぐらいしか経ってへんで?」
「おれはもう忠告した」
 ふいっと顔をそむけて、摂は先に歩いていってしまう。後を追い、教室で着替えてからも、アキはしばらくその言葉について考え続けた。
(変な目でみる、ねえ)

 

 

 

 

 あの男がいない日常はとても穏やかで平和に過ぎる。
 母のほづみは夜の仕事から、昼の事務員として働き始め、契約社員ではあったが、毎日が充実して楽しそうに見えた。
 進学コースである文理科は、授業の後強制的な補習授業があって、家に帰ると五時を過ぎている。剣道部に所属している摂は、それから部活へと向かい、アキは図書館で時間をつぶして、毎日一緒に登下校していた。

「学校はどう?」
 夜ごはんを二人で食べながら、遠慮がちにほづみが問いかけてくる。こんなふつうの質問をされたことすら記憶にないほど珍しくて、アキは母が夕飯に作った、焦げたコロッケを口に運びながら目をぱちぱちさせた。
「うん。ふつう」
「そう。…聡さんはお元気?」
「おっちゃん?うん、きのう会ったけど元気やったよ」
「今度セツくんと一緒に、うちに呼ぼうか。お礼、何もできていないから」
 驚いた。母にも人並みに『御世話になっている』『申し訳ない』という感情があったのか。
「うん…でも料理下手くそやのにどうすんの?」
「アキは容赦ないんだから。練習するわよ、練習台になってね」
「ええよ」
 十六歳にもなって、今更、母と親子関係を築こうとしているのだと思うと、かなり恥ずかしかったし腹立たしくもあった。だがそれでも、とアキは思う。
(この人も前に進もうとしてるんやな、亀並みに遅々としてるけども)
「アキの笑った顔、久しぶりに見たね」
 ぽつんと母が言う。顔をあげると、ほづみも照れくさそうに笑っていた。
「そっちこそ」
「ごめんね。きっと謝って済むことなんて一つもないと思うけど」
「それは何に対しての「ごめん」なん」
 責めるような声にならないように、純粋な疑問としてアキが問う。ほづみは少し考えてからぽつりと言った。
「アキがいろいろしてくれたのに、わたしは逃げ出してばかりだったから」
 シェルターのことを言っているらしい。
「共依存かなと思ったりしてた。あるらしいよ、暴力ふるわれる人が、振るう人に依存していって逃げられなくなるの。それって被害者が悪いわけじゃないから、そこはいいと思う。保護者としての能力については思うところあるけど……これからちょっとずつじゃない?」
「ちょっとずつ?」
「うん。少なくともこうやって、一緒に夜ご飯食べられるようになったんやから、話しする機会は増えたんやし」
「そっか。…そうだね。謝ってすぐに自分だけ楽になろうとするなんて、ずるいね」
「そうそう。積み重ねやって、何事も」
「厳しいなあ」
 笑い合う。
 キッチンのあけた窓から、隣の人がベランダで育てている、甘いバラの香りがする。
(まだ「母親」だとか「家族」とまではいかへんけど、これまでの「どうでもいい人」ではなくなればいいな)
 繋がった千切りキャベツとしょっぱい味噌汁を口に運びながらながら、アキは思った。

 

 

 

 梅雨の季節に差し掛かったころ、ちょっとした事件が起こった。
 白石が、校内でタバコを吸ったことがバレて、三日間の停学処分になった。そしてそれをきっかけに、週に一回全学年、持ち物検査が行われることになってしまった。
 軽薄だが明るく面白い白石は人気者だったが、それをきっかけにクラスメイトに疎まれるようになった。さすがに皆頭がいいので、あからさまに文句を言ったり、無視したりはしなかったが、真綿で首を絞められるような居心地の悪さに、よく喋るタイプだったはずの白石は、どんどん無口になっていった。
 三か月に一度行われる席替えで、窓際の一番後ろという特等席を手に入れたアキは、そのしょぼくれた姿を毎日眺めていた。六月の席替え以降白石はアキの隣になっていて、彼がクラスで浮いていることが、誰よりもよくみえたのだ。
「白石、おれのタオルは役に立った?」
 話し相手のいないらしい白石は、大体において休み時間は机に突っ伏して寝ているか、肘をついて窓の外をぼんやりと眺めていたが、突然アキに声をかけられ、のけ反って驚いた。
「うわっ三嶋がしゃべった」
「なんやねんそれ」
「だってお前、六人部以外とほとんど口きかないじゃん」
「話しかけてけーへんねんもん、他のやつ」
 千葉県から親の都合で引っ越してきたという白石は、ほとんど大阪弁を話さない。
(ゆうれいみたいに扱われるのって、こいつみたいなタイプはめっちゃツラいやろうな)
 話しかけられたことが余程嬉しいのか、白石は椅子を引いてアキの横にやってきた。頬杖をつき、相変わらず軽薄そうな一重の釣り目を、ますます細めて笑った。
「三嶋と話したい人はいっぱいいるよ。でもなんか、話しかけづらいんだよな~、話しかけてもバカだと思われるかな~とか、無視されたら泣いちゃうな~って皆おもってるよ絶対」
「あー…それは当たってるかも…」
「ひでー!でもさ、実際そうだよな。話してる内容とかさ、ガキすぎてさ。女のこととか大学のこととかテストの点数のこと、親の悪口。バカみてーだなって思うよな、マジで。部活に熱くなるとかも、ほんと、すげーバカみてえ。少年マンガかっての」
「タバコすって停学になるやつも、かなりアホやなーって思ったけど」
 アキの辛辣な言葉に、何故か白石は嬉しそうに肩を竦めた。
「直接言ってくるあたり、三嶋さいこーって感じ。陰口なら昔から死ぬほど言われてるけど」
「で、タオルは?」
 白石がそれな、と言って指を鳴らし、カバンをとってきてごそごそと漁った。ビニール袋にいれられたアキのタオルは丁寧に畳んであって、使われた形跡は全く無い。
「あの日の状態のまま保管してるぜ。おかげで手術は成功、リハビリ中だよ」
「じゃあもうええやろ、返せ」
「やだ。これ、おれのすごい大事なラッキーアイテムなんだからさ」
 面倒くさくなって、椅子にもたれて頭の後ろで指を組む。アキの不機嫌そうな顔を見た白石は、それでも嬉しそうに笑っている。
「元気そうやん。ひとりぼっちで寂しくて死にかけてるかと思ってたら」
「寂しくないっちゃ嘘だけど、学校の友達なんてこんなもんだろうね」
「友達なんかおらんでも生きていけるぞ。安心せえ」
「三嶋に言われると説得力あるわ。でもお前には六人部がいるじゃん?」
「摂は友達っていうより、兄弟、家族やな」
「くっそ、羨ましい」
「そおかあ?」
 チャイムが鳴って、白石が立ち上がり椅子を引き摺って自分の席へと戻っていく。数学の教科書や問題集を机の上に広げていると、白石が小さな声で、耳元で言った。
「おれが羨ましいのは、お前じゃなくて、六人部な」
 意味が分からなかった。アキは首を傾げて、ついでに白石の頭をぽかっと一発殴ってから、黒板に向き直る。理不尽に叩かれた白石は、やはり嬉しそうにへらへらと笑っていた。

 

 

 

「摂、せーつ」
 下足室で、ドアの前に立ちすくんでいる摂に、アキが後ろから声をかける。
「今日は部活は?」
「休み。一緒に帰ろう」
 振り返った顔が、妙に強張っている。まるで何かに怯えているようだ。
「どうしたん、なんかあった?」
 あー、雨降ってる。置き傘あったかなあ。独り言を言いながら、クラスメイト達は横を通り過ぎ返っていく。彼らにバイバイと声をかけたりかけられたりしながら、アキは摂の顔を覗き込んだ。六月の半ば、すでに彼の身長はアキを抜いていて、もうじき一八〇センチに届きそうだ。
「アキ、今日うちに泊まりに来おへんか」
「?うん、ええけど。一応家かえって母親に了承とれたら」
「父さんがな」
「聡さんが?」
 口を開き、言葉を考えていると、白石が廊下から元気に走ってきた。
「三嶋、六人部ばいばーい!」
 そしてパーンとアキの尻を叩いて逃げていく。
「いって!何すんねんお前!」
 追いかけようにもすでに姿がない。
「ごめん、摂。聡さんがどうかしたんか?」
「いやいい。なんでもない」
 また、今度話す。傘を広げながら、摂が空を見上げる。雨は強くなる一方で、校舎も中庭も全部、灰色の風景に変えてしまった。
「傘忘れたから、いれて」
「またか。天気予報で降るって言うてたやろ」
「ごめんごめん」
 本当は、わざと持ってこなかった。そう言えばどんな顔をするかな。
 一瞬思いうかんだ悪趣味な暴露に、アキはこっそりと、自嘲気味に笑った。

 

 

 

 

 聡は仕事で夜勤らしく、不在だった。
 一度自宅に荷物を置き、母親の帰りを待って、摂の家に泊まりに行くと伝えたところ、「晩御飯は一緒にうちで食べたら?」と言われて珍しく三人で食べた。摂は酷く緊張していて、ほづみが何か質問したり、顔を近づけたりすると、赤くなって固まっていた。
「アキのお母さん、やっぱりすごい美人やな。変わらへん」
「まーもうババアやけどな。殴られへんようになったから、調子は良さそうやで」
「そういう言い方すんなよ、親やろ」
 怒ったように睨みつけられて、アキは俯いてしまう。修羅場の全て伝えるわけにはいかないので、摂は深いところまで知らない。そのため、アキが本来被害者であるはずの母親に対して、冷たすぎると常々思っているようだった。
「…ごめん。言い過ぎた」
「こっちこそ。ええと、ほんまに泊まりにいってええの?」
「来てくれた方が助かる」
 ご飯がちょっとぱさぱさしていたけれど、今日のカレーはまあまあ美味しかったよ。そう伝えたとき、ほづみは本当に嬉しそうに微笑んだ。
(世間一般の母親って、こういう感じなんや)
「アキ、セツくんに迷惑かけちゃダメよ」
「はいはい」
 持っていくのは下着ぐらいだ。礼を言って部屋を出た摂は、そのまま目の前の自分の家のドアをあけてアキを手招きした。向かい合うような配置になっていると全て筒抜けで困ると思っていたけれど、こういうときは悪くないな思う。
(まるで、もうひとつ自分の家があるみたい)
 六人部家はいつ行ってもきれいに片付いていた。聡も摂も、きれいずきで片づけが苦にならないのだという。テレビとローテーブルがある居間に座り込むと、摂がつめたい麦茶を持ってきてアキに手渡してくれた。
「ありがとう」
 二人でしばらくの間、黙ってテレビを見た。風呂入ってくる、といって立ちあがった摂がバスタオルを持って消えて、その間、アキはぼんやりテレビを見ながら考えていた。
(兄弟、家族…どっちも嘘じゃないけど、どっちも違う気がする)
 いつからだろう。
 摂の大きな手が、まっすぐなまなざしが、凛とした顔立ちが自分以外に触れたり向けられたりすることが、嫌でたまらなくなったのは。
「アキが誘拐されへんように、毎日一緒に行き帰りすること」
 そう言いだしたのは聡だった。実際、アキが子供のうちは何度も誘拐未遂やいたずら被害にあった。一度など無人の神社の中に連れ込まれて乱暴されかけ、かけつけてくれた摂も怪我をした。偶然近所の人が通りかかった為助かったものの、どうなっていたか分からない。
 摂が毎日欠かさず一緒に登下校するようになってからは、そのような被害にあうことは無くなった。始めの頃は、情けないと思った。守られるだけなんて恰好悪い。女みたいだと自らを罵った。だが、やがてアキも身体が大きくなって、特技を伸ばしはじめると、お互いに苦手な部分を補い合う良い関係を築くことができた。摂はアキを守る。アキは摂に勉強を教える。お互いが、なくてはならない存在になった。
 そして、そこで世界が完結してしまうようになった。
「なあ、アキちゃんと六人部くんって、なんでいつも箱庭の中におるの?」
 市岡に言われた言葉が痛かった。彼女は、楽な世界に二人で閉じこもっている、と言いたかったに違いない。他人を受け入れず、お互いだけで満足している狭くて小さい世界。箱庭のような世界、まさに言うとおりだった。
 でも、本当はそうじゃないことを、アキは知っている。
(箱庭にいたいのはおれだけ。摂は聡さんに言われて、仕方なくそうしてるだけで)
 出口は常に開かれている。箱庭にはちゃんと、ドアがあるのだ。鍵もかかっていないし、出入りは自由。だからこそ、怖かった。ふとしたときに摂が違う人を見ただけで、震えあがるほど恐ろしかった。
 誰かを、好きになってしまったらどうしよう。ここから出て行ってしまったら。
(おれは絶対にそれを止めることは出来ない、だからこそ怖い)
 摂には幸せになってほしい。これは本当の気持ちだった。そしてそのためには、自分の存在は邪魔でしかない。この自覚も本心だった。
 ただ、自分から手を離すことだけは、どうしても出来そうになかった。
(摂と聡さんの側は、居心地がよすぎる)
「アキ、風呂はいってきたら」
 風呂上りの摂がTシャツに短パン姿でやってきて、隣に座り込み麦茶を呷る。日焼けした首筋に、骨ばった大きな手。
 昔アキの手を握ってくれた小さなてのひらの、面影はすでにどこにもない。

 

 

 

 

 摂の家で眠るときはいつも、布団を二つ、居間に並べて眠る。聡がいるときはアキを挟んで川の字のようにして眠っていて、悪夢にうなされたときは、どちらかが布団の中に引き入れ、抱きしめてくれた。その時はまだアキはちいさな子供だったので、恥も遠慮もなく、その暖かさに甘えることができた。
(大きくなるって、つまらんなあ)
 今は違う。さすがに高校生にもなってくると、摂がアキを布団の中に招き入れることも、聡が抱きしめて眠ってくれることもなくなった。そもそも、悪夢にうなされるということ自体が、随分減っていた。
「摂、起きてる?」
「もう寝た」
「起きてるやんか」
 最近では、背中を向けて眠ってしまうことが多くて、アキはさびしかった。その日も摂の随分広くなった背中を横目にみながら声をかけると、珍しいことに彼は起きていた。
 暗闇に目を凝らす。壁にかけられている時計は午前一時を過ぎている。いつもなら、摂は深い眠りの中にいる時間だった。
 蒸し暑い梅雨の時期だが、エアコンが苦手なアキのために、この家ではギリギリまで扇風機しか使われない。ぶうん、という稼働音が、静かな室内に一定の周期で大きくなったり小さくなったりしながら鳴りつづけている。
「もしかして、聡さんがおらんくてさびしかったから、おれ呼んだ?」
「まさか」
「やんなあ」
 お互いの息遣いが聞こえた。衣擦れの音で、摂がこちらを向いたことがわかって、アキも仰向けの状態から寝返りを打ち、向き直る。
 すぐ目の前に、摂の顔があった。
 短く切られた前髪に、切れ長で少し眠そうな目が、夜の中で確かに光を宿して、アキをじっと見つめていた。鼻先が触れそうなほどの距離。こんなに近くで、相手の顔を見たのは久しぶりのことだった。
(やっぱり、摂は他の人と、全然違う)
 無表情の中にある、優しさがすきだった。時折見せる不器用そうな笑顔がたまらなかった。自分にだけ向けられる、あの顔。できたらずっと、独り占めしていたい。
 不意に指が伸びてきて、見つめていたアキの前髪に触れた。奔放に跳ねている、柔らかい黒髪を撫でるようにさわると、両手でかきわけるようにして、顔をあらわにされる。
「…わ、」
「静かに」
「なに、…摂?」
 声が上擦り、震えた。悟られなければいいと思った。
「なんでそんなきれいに生まれてきたんやろうなあ」
 独り言のような声に、心臓がうるさいほど音をたてはじめる。聞こえてしまいそうだ、と思った。嬉しくて、混乱していて、意味がわからなかった。
「アキはずるい」
 腕が延ばされて、抱き寄せられた。
 すっかり背が伸びた摂の、首すじに顔を埋めるような体制で、正面から抱きしめられる。子供の頃から剣道で鍛えられた摂の身体は熱くてかたくて、風呂上りの石鹸のようないい匂いがした。
「…今日だけでええから、こうして眠らせて」
 低い声に、身体が震えた。
 ともすれば下半身が熱くなりそうで、アキは必死になって頭を落ち着かせた。混乱と、歓びと、驚きで、声が出ない。
 抱き寄せられた反動で、アキのタオルケットは外れて、ほとんど何もかぶっていない状態のまま、敷布団と敷布団の間に身体が埋まりそうになっている。摂はその状態に気付いて、より強い力でアキを抱き寄せ、自分の布団の中へ引きいれた。タオルケットから、敷布団から、抱きしめられた身体から。全てから、くらくらするほど摂の匂いがした。
 腕を回し、ぎゅうと抱きしめ返す。摂はアキの髪の中に鼻を埋め、息を吸い込んで笑った。アキの匂いがする、そう言いながら髪を食んだり、手のひらでアキの背中を優しく撫でたりした。そのたびに、アキは官能や性的衝動と戦わなければならず、涙がにじむほど苦しかった。
 苦しかったのに、この上なく幸福だと気づいて、アキはすっかり自分の気持ちを自覚する。
(ずっと、こうしたかったし、されたかった)
 きっと摂にとっては深い意味はないのだろうな、と思った。
 でも、嬉しかったのだ。
 どうしようもなく、触りたかった。触られたかった。匂いを、声を、一番近くで感じたかった。これが許されないことだとしても、偶然の重なりだとしても、叶えられて喜ぶぐらい、神様だって見逃してくれるだろう。
 やがて聞こえてきた摂の寝息を聞きながら、アキは声を出さずに泣いた。
 嬉しくて、でも同じぐらい、悲しかった。

 

 

 

「おれ実は、三嶋のタオルでオナニーしてるんだけど、これって恋だと思う?」
 部活のユニフォームを着た白石が、図書室で本を読んでいるアキの前に座って、唐突にこんなことを言った。
「匂いをこう…かいでさ。ああー三嶋の匂い超興奮するー、とか思って、なんかそのうちチンコ擦るようになっちゃってさ。いや、最初はやべーなって思ったし、いかんイカンって自重もしたし自己嫌悪もしたよ。でも最近だと…もう毎日。我慢できねーの。これってどう思う、本人的に?」
 そのときアキはちょうど量子力学の権威と呼ばれた男のインタビュー記事を読んでいるところで、内容に没頭して知的好奇心に胸を躍らせていたのに冷水を頭からかけられたような気分になって、そのまま顔に出した。
「お前、頭大丈夫か」
「三嶋って何でオナニーとかすんの、やっぱAVとか見るの?それともエロ本派?あっ…もしかしてムトベのこと考えながら抜いたりすんの?あれっ…どうしよう想像したら興奮してきた。悔しい…でも興奮しちゃう」
「ちょっと静かにしろ、ここ図書室やぞ」
「おれら以外だれもいないよ、この近くには」
「あっちには人がおるやろっ」
 声を潜めながら注意して、アキは白石の耳を掴み、図書室の裏に引っ張り出す。あてててて、と痛がりながらも嬉しそうにヘラヘラしながらついてきて、仁王立ちしているアキに困ったような顔で頭をかいた。
 梅雨の中日とでもいうのか、その日はよく晴れていた。雨ばかりでぬかるんだグラウンドの上を、嫌そうに上履きであるきながら、アキは白石を指さした。
「タオルを返せ、変態」
「やだよ。おれのオナ道具がなくなるだろ。あっ!かわりにその白シャツ脱いでおれにくれるならタオル返す!」
「ふざけんな」
「だよねー」
 赤に白のライン、黒の幾何学模様。白石のユニフォーム姿はなかなか恰好良くて、話している内容さえまともならなるほど、女にもてそうだなとアキは思う。
「お前がおれのこと好きかどうかなんか、知るか。勝手にしたらええ。でも摂のこと、あることないこと言うたらぶっ殺す」
「こわっ!あはは、ほんと三嶋は六人部が大好きだよね」
「……」
「言わないって。誰にも」
「なんでそう思うん。おれが摂のことすきとか…」
 この質問をすること自体が、認めているのと同じだということはアキも分かっていた。だが白石の眼には若者特有の性欲と、意外な誠実さの二つしか見当たらず、話してもいいかなと思わせる雰囲気があった。
「だっておれ、三嶋のことずっと見てるから。好きな人が誰を見てるかなんて、すぐ分かるよね、だってみてんだもん。お前自身よりおれのほうが見てるんだから」
 おれは昔っからバイセクシャルってやつなの。
 白石はそうカミングアウトして、あっけらかんと笑った。
「でもどっちかっていうとヘテロ寄りだったし、今まで男は好かれて付き合ってもてあそんで捨てたことしかなかったんだよね。部活やってるとさ、ほら、おれ背が高いし、アタッカーとしてもすごいから。ポジションだってスーパーエースつってね、一番かっこいいから。モテるわけよ。自分から言いよったり告白したりしなくても、あっちから押し寄せてくれたし。でも三嶋は違ったな。もうさ、一目ぼれよこれ。入学式で新入生代表挨拶してたろ、あのときに檀上でみたときからさ、もうおれ三嶋のことしか見えなくなっちゃったし、タオルゲットする前から想像で毎日犯してたし、正直となりで窓の外みてる三嶋をみてるだけでおれは勃起する」
 よくもまあ、ここまで爽やかに、いやらしいことが言えるものだと、アキは感心した。
「図書室でうつむいて本読んでる横顔とかヤバい。睫毛超長い、鼻の形きれいすぎ、とにかく色気半端ない。今声かける前も超勃起した」
「学校でぼっきぼっき言うな!はあ…何なんお前…」
 しゃがみこむ。どうしていいのか分からない。
「おれと付き合ってよ、三嶋」
「付き合うわけないやろ、ドアホ。三回死んでからもう一回しねっ」
「合計四回も!?酷いなあ、もうちょい優しい断り方ってないの?!」
 言いながら、白石は嬉しそうに笑った。
「じゃあさ、今度試合見に来てよ。そんぐらいならいいでしょ」
「めんどくさい。いかへん」
「そう言わずにさ。どうせ、六人部とは付き合えないよ」
 言葉に詰まる。そんなことは言われなくても分かっていたが、言葉にされるとぐさっと来た。アキのそんな様子を、白石は目を細めて楽しそうに見ている。
「おれのいいところ、一個ぐらいみつけてくれてもいいじゃん。好きだって言われるのって、気持ちいいだろ?誰かに好かれるって、安心だろ?ならさ、いいところ探して、好きになるように努力しようぜ」
「なんで努力してまで、お前のこと好きにならなあかんの」
「命短し恋せよ乙女、っていうだろ」
「本気で殴んぞ」
「一個ぐらいイイでしょ。ほらほら、例えば?」
 無視して立ち去ってもよかったはずだ。それでもそうしなかったのは、白石と話しているのが楽しくなりつつあったからで、気づいてはいたが認めたくなかったアキは、わざと憮然とした表情を崩さずに腕をくむ。
「それ言えば、お前体育館に行って二度と図書室にけえへんって約束するんやったら考える」
「約束しよう」
 一メートルほど離れていた距離を詰めて、白石の顔を見上げる。バレーボールに全く詳しくないアキは、彼の言う「スーパーエース」というポジションの凄さも格好よさも分からなかったが、近くで見ると確かに人を惹きつけるオーラがある。切れ長の一重の眼は緑がかっていて大きく、やや上を向いた高い鼻に散らばるそばかすも、大きい口も、まるで外国の子供のようで愛嬌があった。
「金髪がよく似合ってる。普通、日本人は似合わへんのに」
「だろー!?おれ別に調子乗って金髪にしてるわけじゃないんだよ。似合うからしてんの。元々明るい栗色なんだよね。それなのにヤンキーみたいに言われるのほんと腑に落ちないわあ!日本人のそういうところ、どうかと思うよ。似合うなら何色にしたっていいじゃんね、誰にも迷惑かけてないし成績だってこの高校入れる程度には良いんだからさ」
 一言褒めただけなのに、白石は本当に嬉しそうに飛び跳ねている。リアクションの大きさと、陽気で大げさな話し方が面白くて、思わずアキはつられて笑った。
「はあ…今三嶋が近づいてきたときヤバかった。マジでぼ…」
「今度勃起って言ったら二度と口きかへんからな」
「マジか。そしたら次から、勃起のことBKって言うわ。いや~今やばかったねBKするかと思った、使い方こんな感じで。二人だけの暗号だぞ!」
「変な暗号を勝手に作んなっつーの」
 もう我慢できなくて、大声で笑う。白石の肩を叩きながら身体を折って笑っていると、バレー部の部員が走ってきて「そろそろ走り込み始めるぞ」と声をかけてきた。
「おっと、スーパーエースも行く時間が来たらしい。行ってくる。そうだ、おれクオーターなんだよ。だから目が緑色だし金髪似合うの。不良じゃないよ!」
「わかったわかった」
 背の低い、地味な青年がアキをちらりと眺めてから白石を連れて走っていく。
 久しぶりに大きい声をあげて笑った。アキは笑い過ぎて浮かんだ涙を拭って、図書室へ戻る。
 部活を終えた摂が道着や竹刀を片手に迎えに来る頃には、長くなりはじめた日が、すっかり沈んで空に星が出始めていた。

 

 

 

 

「おー、アキ!久しぶりやな」
「聡さん。ほんまや、しばらく会ってないような気がするー、あれ、日焼けした?」
「そうなんや。仕事で現場出たり泊り込んだりしててな。大きい公共事業の仕事入札したもんやから、そっちにかかりきりやったわ。なんせちっこい会社やからな~、おれとあとオッサンばっかり雁首そろえて四人しかおらへんからな。……摂が迷惑かけへんかったか?」
 梅雨があけて夏が来た。晴れた日が続き、湿気が多くて気温の高い大阪の夏に、アキは夏バテ気味になり毎日素麺ばかり食べている。
 部活が終わった摂と言葉少なく帰宅すると、偶然にも仕事終わりの聡とドアの前で遭遇した。ここのところずっと忙しかったらしく、あれから二回ほど摂の家に入ったが、留守だった。
「迷惑なんか、こっちばっかりかけてるよ。オカンの不味いメシ一緒に食わせたり」
「おー、ほづみさん転職しはったんやってな。一緒におる時間増えて、よかったなあ」
 鍵を開けてこちらを振り返りながら聡が言う。そして、開け終わってたくさんの荷物(おそらく着替えなど)をドアの中に放り込んだ後、ようやく自分の息子の様子がおかしい事に気付き、声をかけた。
「なんや摂、おまえさっきから仏頂面して。お帰りもなしか」
 摂にそっくりな目をほそめて、聡が手を伸ばし、頭をわしわしと撫でる。摂はそのまま、不機嫌そうな顔を崩さずにお帰り、とだけいって、勝手に家の中へと入って行ってしまった。
「…ケンカでもしたんか?」
「んーん。なんかしらんけど最近ずっと機嫌悪い。部活も前より帰り遅いし」
 告げ口になってしまうといけないので、「知らんうちにおれが怒らせてしまったかも」と付け足す。
「そんなこと絶対ないって。しょげんなよおー、アキは笑ってる方が可愛いんやから」
「男が可愛いとか全然嬉しくないし」
「しゃあないやろ、お前はおれにとって次男みたいなもんやからな。末っ子っていうのはなあ、何歳になっても可愛いもんなんやで」
 無精髭の日焼けした顔をくしゃりと崩して、聡が笑った。顔立ちは摂とそっくりなのに、表情や感情表現は摂よりもずっと豊かだ。
「今週末は久しぶりに休み取れそうやし、三人で釣りでもいくか?」
 嬉しい提案だった。夜だということも忘れて、アキは「行きたい!」と大きな声を出してしまう。
「シイッ、野崎のおばちゃんにまたうるさいて怒られる!」
「あっ…ごめん。でもたぶん、摂が無理やと思う」
「なんでや?」
「最近土日、いつもどっか行ってる。なんでかは知らん、摂に聞いて」
 言いながら心がささくれ立つのが自分でもわかった。聞けばよかったのに、何もきけないまま時間が過ぎて、抱きしめあって眠った夜から、すでにひと月もの時間が過ぎている。
 聡はうーん、と顎に手をあてて考えたあと、突然ニヤけた顔になり手を叩く。
「彼女でもできたんかあ!?よっしゃ、今からちょっときいてくるわ」
 たぶんそうなのだろうな、という予感めいたものはあったものの、言葉できくと威力が違う。アキはとりあえず笑いを浮かべながら、自分の家のドアを開く。
「それやったらゆってくれたええのに。あいつ、みずくさいわ」
「恥ずかしいんやろー、アキは弟分みたいなもんやし」
 後ろからかけられた声に、曖昧に返事をする。自分の後ろでドアが閉まって、母親が家の奥から出てきた。
「どうしたの、アキ。暗い顔して」
「別に」
 ぐちゃぐちゃに崩れたオムライスを黙って食べながら、何度も聡の言葉を反芻した。
『彼女でもできた』
『弟分だから恥ずかしい』
 どちらも、あとからずっしり効いてきた。
 さながらボディブローのように。

 

 

 

 

「もうすぐ夏休みやなあ。アキちゃん、バイトとかすんの?」
 市岡が、机に頬杖を突きながら見上げてきた。白いシャツにチェックのスカートが爽やかでよく似合っている。きちんと膝丈で履かれているスカートこそ、一番可愛く見える制服だよなとアキは思いながら相槌をうつ。
「そうやなあ、何かやりたいと思ってるねんけど」
「じゃあ私と一緒に、駅前の喫茶店受けようやあ」
「飲食店はちょっと。知らん人と話すの面倒くさいし、出来たらレンタルビデオ店とかがいいなあ」
「もーっ我儘。でもそれは一理あるかもね、アキちゃん気だるそうにのろのろDVD返却するの、似合いそう」
「悪口か。ちゃんと真面目にコツコツ働くわ」
 前席の生徒は今日休みだ。それをいいことに市岡は、休み時間のたびにアキのところへやってきて他愛もない雑談をしては自席に戻っていく。黒いストレートの髪は耳の下で切りそろえられていて、彼女が頷いたり動いたりするたびに、サラサラと音を立てて耳から落ちる。
 成績優秀だが地味な女生徒が多い高校生活の中、市岡はかなり可愛い部類に入るのだろうな、とぼんやりと思った。彼女は賢くて、可愛い。それに一途に自分を慕ってくれる。
(なのに、まったく性欲は発生しない。摂に抱きしめられた後は、一週間ぐらいそれで抜いたぐらい興奮したのに。嫌やなあ…自己嫌悪で死にそう)
「白石はバイトとかすんの?」
 隣で携帯電話をいじっていた白石は、ん?と目を細めてアキを振り返った。授業もHRも終わって、教室の中にいる人影はまばらだ。帰る用意を済ませた市岡と、まだ何も片づけていない白石、それにアキ以外は、日直に当たっている男子生徒一名がいるだけだった。
「そうだね、携帯は買ってくれたけど料金はおれもちって言われてるからねえ、しなきゃ無理だろね。でも部活も毎日あるし…ねえ侑季ちゃん、おれも一緒にバイト受けに行っていー?」
 人懐っこい白石が、横に大きく広がる口でニッと笑って問いかける。この顔をされると、大概の女子は微笑みながら了承してしまう、そういう魅力のある笑顔だ。
「ケント君も~?どうしよっかなー、アキちゃんがいいんやったら許してあげる」
「三嶋ー、いいだろ、おれも混ぜてっ」
「混ぜても何も。まだ面接すら受けてないのになんでお前ら受かるつもり満々なんよ」
 吹き出してしまったアキの横顔に、白石健斗が愛おしそうに目を細める。そしてそれを見た市岡が、楽しそうに笑ってから遠慮がちに、教室の中を見渡す。
「摂やったら、さっき剣道部の新田先輩に呼ばれて出て行ったよ」
 問われる前に先手を打って、アキが答える。
「…そうなんや。新田先輩かー…凛としたきれいな人やんね。付き合ってるんかなあ」
 言葉と裏腹にどこか沈んだ様子で、市岡が言った。
「さあ。知らん」
「知らんて。何かきいてないの?」
「ここ一か月ほど、ほとんど口きいてない」
「なんでよ?」
「機嫌悪かったり、先帰ってっていわれたり」
 二人のやり取りを興味深そうに見ていた白石が、「直接聞いてみようぜ!」と立ち上がってスタスタと廊下に向かって歩いていく。そうやんな!と乗っかった市岡がアキの腕を引いて、「別にききたくない」と主張してみるもむなしく、ずるずると引っ張られて剣道場へと引っ立てられる。

 

 

 

 

 女剣士然とした新田は二年生で、剣道部の副部長を勤めている。
 一重で化粧気のない黒い眼、ポニーテールに結った黒い髪、細くて尖った鼻。市岡が花で言うところの牡丹ならば、彼女は水仙だった。
 剣道場には、部長である三年生の指導の声が響いている。面のみをつけずに道着を着た部員たちが、一糸乱れぬ動きで竹刀を振っていた。
「うっわー…剣道部って初めて見たけど、かっこいいな~」
 白石が感嘆の声を上げる。板の間にあぐらをかいて、部員たちの動きをじっと眺めている。
 市岡は、アキの腕を掴んで立ったまま、きょろきょろと摂の姿を探した。
「あ、ほらアキちゃん、六人部くんおったで。呼び出してきいてみようや!」
「あかん。部活中に邪魔すんなって。帰ろ」
「ええーっ、ここまで来てんから聞いてみようやあ」
 白石が顔を上げ、「じゃあ休憩時間まで見学して、そんとき呼び出して聞いてみようぜ」と提案する。市岡の手を振り払い、逃げ出すことも考えたが、アキの思考を読んだかのように白石が逆側の腕を掴んで強引に自分の隣に座らせたので、溜息をついて二人に従った。
「…バレーボールしかやったことないけど、剣道もいいよな。ほんとはおれ、個人スポーツの方が好きなんだよねえ。誰にも足引っ張られないし、引っ張らないですむし」
 白石がぽつりと言った。その声は珍しく重い。アキは「そういや白石は、もう足大丈夫なん?」と問いかけながら、摂の姿を目で追いかけた。五歳の頃から剣道を続けている彼は、すでに三段の腕前で、部員たちの中でも動きの良さや下半身の安定感が群を抜いている。
「膝ね。水たまんだよね。抜いても抜いてもダメだねえ。右ひじも痛めかけてるし、多分おれ二年でやめると思うわ、バレー」
 市岡がちょっとトイレ、と言って立ち上がり、剣道場を出る。アキちゃん逃げたら承知せえへんから!と釘をさし、出て行った彼女の背中を見送る。
「好きなものを見つめているときの、人って本当きれいだよな。ひたむきで、健気で、色気があってさ。おれもそういう顔してんのかな、三嶋を見てるとき」
 しみじみとした口調で、白石が言った。
「なんの話」
「六人部をみつめている三嶋がきれいだよって話。ふわー、自分で言っててクサさに引くわ。やばいなおれ…ジェームズ・ボンドもびっくりのプレイボーイじゃん」
「くくっ」
 アキが笑うと、白石は更におどけてみせた。
「マティーニを。ステアじゃなくて、シェイクでね」
 有名なジェイムズ・ボンドのセリフを言ってから、ニヤリと笑う。
「実はさ…謝らなきゃいけなくて。手術したっての嘘なんだ。ゴメンね。ほんとはさ、注射ブッ刺して水抜くだけ。まあそれだって結構痛いんだけど…ただ単に三嶋のタオルが欲しかったの。いや、タオルじゃなくても良かった、なんでもいいからお前の持ち物が欲しかったんだ」
「おかずにするために?」
 笑い混じりの小さい声でアキが問いかける。白石が真面目くさった顔で頷いた。
「そのとおり。おかげさまで毎日おかわりしてる」
「ド変態やな」
「思春期なんだよ。青春でもあるし」
「大変やな、付き合いきれへんわ」
 市岡が戻ってきて、アキの隣に座る。休憩を告げる新田の声に、部員たちが三々五々飲み物を取りに行ったりトイレにいったりする。
「見学なんてめずらしいですね。入部希望ですか」
 新田がこちらにやってきて声をかけた。驚いて固まってしまったアキと、好奇心でニヤニヤしている白石を置いて、市岡が「先輩に聞きたいことがあってきました」と挙手をし、立ち上がる。
「なんですか…ええと…」
「一年の市岡です。六人部君のクラスメイトで、このおっきいのが白石、むこうの白くてキレイなのが三嶋といいます」
「三嶋…ああ、摂くんの幼馴染の。よく話はきいてます」
 アキをみすえる新田の表情は淡々としていた。
「し、しろくてきれいなのって」
 ツボに入ったのか、白石が震えながら笑いをこらえている。アキは立ち上がって、こんにちは、と礼をした。
「新田先輩は六人部君と付き合っているんですか?」
 ストレート直球一四〇キロオーバー、ストライク!と白石が叫びながら立ち上がる。アキに無言で太ももに蹴りを入れられ、イテ!と嬉しそうに笑った。
 他の部員が、無関心を装いながら耳をそばだてているのが分かる。摂が何事かと近づいてきて、「何やってんだ、お前ら」と怪訝な顔をする。
「どうなんです?」
 市岡は微笑みを浮かべた顔で重ねて問いかける。彼女のこういう押しの強さにかなう人物はなかなかいないだろうな、とアキは内心冷や汗をかいた。
(敵じゃなくてよかった、ほんまに)
「摂くん。クラスメイトの女の子が、あなたと私が付き合ってるのかと聞きにきてますよ」
 しんと静まり返る道場。集まる視線、はりつめた空気に、アキと白石は目を白黒させた。
 さながら、「六人部を好きな市岡が、新田に宣戦布告をしにきた」ようなシチュエーションで、おそらく彼女自身もそういう演出を狙ってしているのだろう。
「おい一年、部活の真っ最中になんやねん。終わってからにせえよ」
 部長らしき男が、四角い顔をゆがめて傲岸に言い放つ。新田がそれを片手で制し、後ろに立つ六人部をまっすぐに見た。
「付き合ってるけど。それがお前らに関係あんのか」
 迷惑そうに、面倒くさそうに摂が言った。部員達のざわめきなどどこ吹く風で、新田が「そういうことです」と頷く。
「……そ、そうなんや」
 市岡がアキと白石をちらちらと見る。
「関係ないよ。何の関係もない。帰るわ、お邪魔しました」
 自分で聞いておいて動揺している市岡と、カーブで来たか~とつぶやいている白石の腕を引いて、部室を出る。
 驚きと悲しみと混乱で、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
(付き合ってる…付き合うってなんやろ。何すんの。なにってあれか。デートしたり手をつないだり…抱き合ったり。摂が。おれじゃない誰かと)
 気が付いたとき、アキは自宅にいた。
(じゃあなんであの時、あんな事…。どういう意味やったんやろう、あのハグは。意味?…意味なんか、なかったんや。一人で意味があると期待して喜んでただけで。やばい。恥ずかしいし、哀しくて悲しくて死にそう)
 悲しすぎて涙も出ない。いっそ泣ければ楽なのに、涙を流す余裕すらない。
 気が付くと自宅のベッドで横になっていた。見慣れた天井とボロボロの壁を見ながら、帰宅を知る。だがどうやって二人と別れ家に帰ったのか、何を話したのか、いくら考えてもその日は思い出すことができなかった。