20 Ambulance!(三角関係)

 

「星野さん、おはようございます」
「おはよ。ねえ野中さん、敬語使わなくていいって、ほんとに」
「そういうわけにはいきません。今日は、外周ですか?」
「うん。結構ペース早いから、無理しないで辛かったら自分のペースで走ってね」
 12月に入ると、さすがに寒い。
 ストレッチを終えて体を温めてから、成一は野中と共に緑地公園の外周を走り始めた。週に三日、毎日続けているランニングだが、他人がそこに加わるのは初めてだ。
 ジムで再会してから、トレーニングのアドバイスをしているうちに、こうなった。出勤前のランニングは成一にとって既に習慣と化していて、一種の目覚めの儀式でもあったので、そこに他人が加わることはいささか不安だった。

 

 

 

「野中さん、早いねー!トレーニングが不安だって言ってたからさ、どんなものかと思っていたけど。十分だよ、あとは筋トレしてれば絶対大丈夫だって」
 黙々と成一の後ろをついてきた野中が、嬉しそうに笑った。
「本当ですか。良かった、足手まといにならなくて」
「何かスポーツやってたの?」
 汗をぬぐい、お互いに水分補給をしながら、立ったまま話す。朝は忙しいため、ゆっくり話している時間はない。汗を拭ったら一度自宅に戻ってシャワーを浴びて、そのまま出勤だ。
「実は、私もバレエをやっていたんです。星野さんほど上手ではないんですが。何度か、コンクール会場でご一緒したこともあるんですよ」
「そうなの!?」
「はい。初めてお会いしたときは、ごめんなさい、正直分からなかったんです。舞台では化粧をしているし…遠目にしか拝見したことがなかったので。でも、ジムでお会いしたときに気付きました」
「わー…恥ずかしいなあ、なんか」
「星野さんの踊る、ジークフリート王子。すごく好きでした。本当に、王子様っていたらこんな方なんだろうなあ……って、憧れでした。海賊も、すごく素敵で」
「あはは、やめてよ。結構舞台と実物、ギャップがあるって言われるんだよね。おれ、すっごいあがり症でさ、舞台上がる前はもうずっと緊張で顔引きつっててピリピリしてたから、気難しいヤツとかクールな奴と思われてたみたいで」
 照れくささと驚きで、その場をぐるぐると歩き回っている成一を見て、野中が笑った。
「どうして、バレエをやめてしまったんですか?」
 質問の答えには、時間がかかる。一言では言えないし、全部説明するには長くなる。
「そうだなあ、その答えは長くなるから。簡単に言うとさ、才能がないからだよ」
「そんな」
「好きならいいじゃんって、人は言う。確かに趣味ならそれでいいと思う。でもおれはさ、バレエを趣味には出来なかった。趣味にするには本気過ぎたし、仕事にするには才能が足りなかった。だから、すっぱり辞めるのが一番良かったんだ。おれにとっても、おれに期待してくれていた人皆にとっても、それが一番いいと思った。だから辞めた」
 タオルをカバンに仕舞って、「ほら、そろそろ帰らないと」と声をかけた。
「ごめんなさい」
 俯いてしまった野中に、成一は慌てて手を振った。
「いやいやいや、全然!気にしないで、後悔はしてないから」
「私……」
 顔を上げた彼女の、まっすぐな視線を受け止める。
「私、星野さんのピルエット、大好きでした。見ているだけで楽しい気持ちになりました。ひとつひとつのパがすごくきれいで憧れでした」
 ――バレエをしていたころ。
 面と向かって誰かに褒められることはほとんどなかった。
 母親が直接レッスンをつけていたが、彼女はとても厳しかったので、叱ることはあっても褒めることは決してなかった。何かが出来ても、出来ないところを探して叱られた。

(あれが踊れたら、母さんは褒めてくれるだろうか)
(きれいに、ノーミスで踊れたら、笑ってくれるかもしれない)
(お兄ちゃんと仲直りしてほしい)
(ばあちゃんが、おれに母さんのことを『頼む』って言った、おれしかいないんだ)
(今日もダメだった。次こそ完璧に踊らなきゃ)
(どうして、おれはダメなんだろう!本番になると怖くて怖くて、いつもの踊りがまるで出来ない。もっと練習して、努力して、そしたらきっと)
(もっともっともっと、もっと頑張らなきゃ)

「…星野さん?大丈夫ですか」
 思い出したのは、あの頃のせっぱつまった気持ちだ。バレエを楽しむことが出来なくなってからは、踊るのが苦痛でしかなかった。
 嫌いになれたら、と思っていた。いっそ、踊ることが嫌いになれたら、こんなに苦しまなくて済んだのに。思い通りに踊れないこと、心が未熟でプレッシャーに弱いこと、いつも誰かの顔色をうかがう事、全部が嫌だった。それなのにきらいになれず、治すことも出来ない。
 才能が無い、ということを痛感していた。憑りつかれたように練習しても、楽しみながら踊っている天才には絶対に勝てない。自分に才能がないことをまざまざと思い知る毎日は、息をするのも苦しかった。
 だから、誰かが自分の踊りを見ていることなんて、思いつきもしなかったのだ。
「ありがとう、野中さん。今さ、ちょっと…救われた気がした」
「え……?」
「後になってさ、踊っても、意味なんかないって思ってた。くだらないって。あの時間はなんだったんだろうって。でもさ、理由なんかいらないんだよな。下手でもダメでも、おれは好きだったから踊っていたんだ。そして、それを見ていてくれる人は、いつも絶対、いるんだなあ」
 アンデダン、ソデバスク、カプリオールからピルエットを2回、デリエール。ダブルバレル。ドン・キホーテのバジルのヴァリエーションを踊ってみせてから五番のポジションに戻して立つと、野中が拍手した。
「ありがと。もうさ、大分足が上がらなくなってる。毎日ストレッチはやってるんだけどね。踊らなくなるともう、テキメンに出るね」
「いいえ。あのとき憧れていた、バレエダンサーの星野さんでした。私、頑張りますね。頑張って、あなたの背中を追いかけます」
「救急救命士になるなら、おれじゃなくて六人部隊長を追っかけた方がいいよ。あの人は本物だから。一生尊敬できる人というのに、人生で数人出会えるってきいた事あるけどさ、隊長は間違いなくその一人だよ」
 好きな人を売り込んでどうするんだろう、と思いながらも、成一は誇らしい気持ちで微笑む。
「星野さんは、本当に六人部さんのことが好きなんですね」
 自転車に跨った。後姿に投げられた声に、曖昧に頷く。
「うん、そうだね…」
 そうならよかった。

 本当に、ただの「好き」なら良かったのに。

 

 

 

「ねえほしのっち、もしかして彼女できたの?」
 救急車の中で、減ったガーゼを補充していると、大友が真剣な顔で聞いてきた。つい先ほどまで、天城越えをノリノリで歌っていた様子とは打って変わって、嘘や言い逃れなど許さないとばかりに厳しい声をしている。
「あのお…どうしてそう思うんです?」
 お互いに手は止めない。万が一六人部が入ってきたとき、手を動かさずに私語などしていたら、間違いなく叱責されてしまう。決して怒鳴ったりしない、冷静で正しい叱責は、正しい分ずっしりと堪えるのだ。
「んー…今日朝、子供を病院に連れて行くときにさ、見かけた気がするんだよね。野中さんと一緒にいるほしのっちを…」
 眼を細め、どうなんだよお、と詰め寄ってくる大友に、成一は首を振った。
「違いますよ。野中さん、本当に消防士目指してるみたいで、トレーニングの相談にのってたら、一緒に朝走るって言われて。本当に黙って一緒に走ってるだけです、それだって今日初めてだし」
「あのさあ、そんな言い訳通じると思う?いい大人がだよ、それも妙齢の男女が、朝も早くから一緒に走るだけ走ってさようならって、そんなわけないよねえ。絶対、怪しい。怪しいよお~~」
「何がそんな怪しいんスか!本当のことなのに!」
「だって、男が何の見返りも求めずに女の子に優しくするわけないじゃない」
 ある意味真理を突いてくる大友の発言に、一瞬成一は手を止めた。
「うーん、何の目的もないっていうと、確かに嘘ですけど」
 その時成一の頭の中に浮かんだ顔は、野中ではなく、六人部だった。成一が作ったごはんを、美味しそうに食べ微笑んでいたあの日の。
(そうか…無意識に『好きになってほしい』っていう、見返りを求める気持ちがあったのかなあ。そんなの絶対無理なのに)
「ほらあ!」
 大きな声に、思わず救急車の中から外を盗み見る。隊長である六人部は、点検のために車外に下したメインストレッチャーの動作を念入りに確認していて、こちらの様子には気づいていない。
「交換条件なんです」
「なに、どういうこと?」
「野中さんには、デジタル一眼レフの、使い方を教えてもらっています」
「話がぜんっぜん繋がんない!ちょっとほしのっち、分かるように説明してよ」
「大友さん、ラップと三角巾減ってますよね、ハイ」
「ありがとうねえ…じゃなくてさ」
 もう!と手を上げて怒る大友に、成一は笑った。車窓から、良く晴れた冬の日差しが入ってきて、冷たい朝の空気を少し柔らかいものにしてくれる。
「ええと…写真の撮り方を覚えたくて、教えてもらってるんです。カメラも貸してくれてて、だから代わりにトレーニングの方法を教えたり、プログラム組んだりしてます。本当に、それ以上のことは何もないんです」
 救急車のドアが開いて、六人部が顔を覗かせる。
「車両一次点検終了。資機材の点検はどうだ?」
「はいっ、二次点検までOKです」
「うれしいね、ちゃんと出来たの3日ぶりだ。ここのところ、忙しくて大交替どころじゃなかったもんねえ」
 大友の答えに、六人部が頷く。
「大交替が終わったら、申し送りだ。行くぞ」

 1回目の出動は、午前11時過ぎだった。気温は七度、制服の下にヒートテックを着こんでいても、薄い感染防止衣だけでは、外にいるのが中々辛い。
『由記中央署出場、由記南○○丁目、成人女性、腹痛』
 車庫に走り、一番に乗り込んだのは機関員で運転士の大友だ。すぐさまエンジンをかけ、後部座席に成一が、助手席に六人部が乗り込みドアを閉める。
 追加情報で住所や主訴を把握し、成一と六人部は頭の中で大まかなシュミレーションをする。その間に大友は自前の地図とカーナビを確認し、道路状況を再現する。頭の中に広がる管轄区地図に、救急車を走らせ、目的地に到着させるのだ。
「場所確認、OKです!」
「了解、出動する」
 大友がサイレンのスイッチを入れた。

「大丈夫ですよ、もうちょっとで病院に着きますからね!」
「うう…ごめんなさい…生理痛なんかで救急車を呼んでごめんなさい…」
 激しい痛みのせいで、全身びっしょりと汗をかいている。成一の励ましに、女性は申しわけなさそうに涙を浮かべ、車内のストレッチャーで身を丸めた。
「私達が来るまで、苦しかったでしょう。何も謝る必要なんてないですよ。自分では、重症なのか軽症なのかなんて、分からないものです」
 不意に六人部の視線を感じた。重々しいような落ち込んでいるような、複雑な表情を浮かべている。
 傷病者は20代後半の女性だった。
 主訴は強い下腹部痛で、身動きが出来ないほどの激痛、頼れる身内もいないため救急車を呼んだという。
 妙齢の女性で、下腹部痛と言えば真っ先に疑われるのは「月経痛」、つまり生理痛の重いものだ。もちろん主訴によるが、近年の晩婚化や出産年齢の高齢化で、月経困難症や子宮内膜症は増加傾向にある。
「失礼ですが、現在生理中ではありませんか?」
 部屋に着き、女性の様子をみてすぐに、六人部が言った。
「…はい…そうです…」
「普段から、痛みは強い方ですか」
「ええ…でもここまででは…もう痛くて痛くて、死にそうなんです、刺されてるみたいに痛いんです」
 車内収容を終えて、一次選定病院を探し、電話で受け入れ確認をする。朝、ちょうど病院が開院する時間帯だったため、受け入れ先はすぐに見つけることができた。
「受け入れ先、決まりました!船井病院に搬送します」
「船井?!遠くないですか、もうちょっと近所は?!」
 成一は思わず声を上げた。船井病院は、高速道路を使っても30分はかかる、由記市の端に位置する総合病院だ。
 収容されている女性を不安にさせないため、あくまで小声でこっそりとやり取りをしているが、六人部の耳を誤魔化すことは出来ない。後ろから成一の感染防止衣を掴み、ストレッチャーの横へと引き戻すと、こう言った。
「大友さんが船井病院に搬送する、と言っているのなら、そこが一番直近だし間違いない。信じろ」
「!…すみませんでした!」
 発車してください。
 六人部の言葉に、大友が頷いてサイレンを鳴らした。

 搬送を終え、いつもにも増して言葉少ない助手席の上司を不思議に思いながら、成一は大友に「さきほどはすいませんでした」と謝罪する。運転席の大友は丸い頬にいつものおおらかな笑みを浮かべながら、「いやあ、あの指摘はごもっともだからねえ。いいんだよお」と手を振った。
「ガソリンどうかなあ。…うん、まだ大丈夫だね。さて、隊長署に戻りますかあ」
「ええ。…星野、」
「は、はいっ」
「ありがとう」
 六人部は簡潔にそれだけを言い終えると、黙ってAVM端末の『再出場可能』を押す。
「うへっ?!それはどういう」
 唐突にお礼を言われて、面くらう。問い返そうとした瞬間、救急車の中で本部からの無線が響いた。
『中央署救急隊、連続出場。受信体制を取ってください』
「転戦だな。大友さん、」
「了解ですとも。救急車停車させまーす」
「中央署救急隊から本部。ただいま救急車を停車させます」
 体に全く反動がこない滑らかな停車で、大友が路肩に救急車を停める。成一をはじめとした六人部隊は、ピンと張った緊張感の中、本部からの無線を待ち耳をすませた。
『北区野柄町○丁目、由記市北区役所、3階、40代男性、支援運営課職員、カッターナイフで刺された模様。警察は既に出動し、犯人は取り押さえられていますが、出場には十分に注意してください』
「了解しました」
 低い声に、既に心ここにあらずといった六人部の表情。だが成一には分かっていた。今六人部の頭の中には、無数の処置、観察、搬送のシミュレーションが渦巻いているのだ。成一には追いつけないスピードで、歯が立たない精度で、それは六人部の頭の中を駆け巡り、一番正しい選択を常にはじき出す。
「出動!」
「りょーかいでっす。んー、北区役所…山手の方ですね、…いきます!」
 北区役所に到着すると、さすがに普段から訓練を受けている職員だけあって、正確な誘導でスムーズに救急車を停車することが出来た。古い建物だが、バリアフリーの構造になっているため、サイズが最も大きいメインストレッチャーを現場までエレベーターで運ぶこともできる。
「傷病者の方は、どんな様子ですか。出血量は?」
 六人部が冷静な声で問いかける。重症度の判断は、もちろん現場での観察も重要だが、バイスタンダーがいる場合はできるだけ話をきくのがセオリーだ。
 隊長バッグを抱え、バイスタンダーに話をきいている六人部の後ろを、大友と成一はメインストレッチャーを押しながらついていく。開庁してから二時間ほどが過ぎている区役所の一階、メインホールは、後処理や聞き込みをしている制服の警察官や、騒然としている市民でごった返していた。
「刺されたのは、ケースワーカーの職員です。保護費を不正受給していることが分かったケース(受給者)に対して、廃止の説明をしていたら突然、男が胸元から刃物を取り出して突き刺しました。場所は右側腹部、深さ1.5~2.0センチ程度。現在は更衣室で保健師が応急手当をしていますが、出血量が多くて…」
「詳しいですね、助かります」
「私は元看護師で、保健師に転職したんです」
 30半ばの女性が、そう言って安心させるように微笑む。
 エレベーターの中、わずかな時間でも、成一と六人部は傷病者の様子や状況を保健師の職員から聞きだす。さすがに専門知識を有する保健師だけあって、状況説明は分かりやすく、怪我の程度も現場到着までにある程度想定することが出来た。
「救急隊です、傷病者の方は?」
「こっちです、あの、血が、止まらなくて」
 更衣室のベンチに横たえられている男性は、青白い顔でうめき声をあげている。痛い、痛いといううめき声に、周囲を囲んでいる同僚達が、まるで自分の痛みのように狼狽えていた。
「失礼します」
 成一、それに六人部の救命救急士2名が、傷病者の前に跪く。六人部は全身に素早く視線を走らせた後、意識の有無、呼吸、循環を確認し始めた。
 六人部が観察している間に、成一は切創に圧迫止血を行い、滅菌ガーゼで被膜した。「中野さん、きこえますか。これから病院に搬送しますね」
 いつも淡々とした表情の六人部が、珍しく微笑みを浮かべて傷病者に話しかける。大友がおや、という顔をした後、「さあ、車内収容しましょう!すいませーん、とおしてくださーい!」と続けた。
 イチ、ニイ、サン!の合図でメインストレッチャーに傷病者を乗せて、救急車へと収容する。同乗者としてさきほどの保健師が手を上げたので、成一は手を貸して同時に乗り込む。
既に血まみれになっているベンチについた大量の血液が、成一をはじめとした救急隊員たちの制服をみるみる間に汚していくが、そんなことを気にするものはひとりもいない。
「うう…痛い、痛い」
「中野さーん、頑張ってください!もう少しですからね」
 保健師の女性が、男性職員の手を握りながら、穏やかな声で話しかけ続けている。さすがだな、と感嘆の想いを抱きながら、成一も処置をしながら一緒に声を掛けた。
「腹部膨満は無いな。重要な臓器は外れていると思うが…腹部外傷は目に見えている出血量から全ての出血量を推察することは不可能だ」
「二次選定、でしょうか?」
「そうだな。大友さん、二次選定病院を!」
 救急車の後部で、救急救命士二名が機関員の大友に要請するも、返ってきたのは深刻な答えだった。
「それが…今AVMで見る限り、どこも空きがないんですう、どういうことなのか…」
「なんですって?」
 眉をひそめた上司に、成一も首をひねる。
「なんか変だな。二次選定に片っ端から電話しますか?」
「そうだな。三次選定病院も視野にいれて搬送先を探す」
「了解」
 大友、それに六人部が同時に電話をかけ、受け入れ要請を始めた。成一はバイタルサインを注意深く見守りながら、時折声をかける。
「…はい、…そうですか、わかりました」
「男性一名です、状態は」
 連絡を受けてから30分近くが経過しても、受け入れ先は見当たらない。成一も傷病者の様子を見ながらそこに加わったものの、見事に全て断られた。
「どうしてもだめですか…!…え?はい…そうなんですか…」
 焦りの色を浮かべ始めた六人部に、成一が耳打ちする。
「隊長、どうやら東署管内の病院で、大規模火災が発生したみたいなんです。その関係で二次選定病院が軒並み埋まっているのでは、と今病院のコーディネーターの方が教えて下さったんですが」
「そういうことか。隣の鎌倉市もAVM端末ではほとんど埋まっているな」
「横浜ならまだ少し空きがありますね。もしくは三次選定にしますか」
「横浜は高速を使っても相当時間がかかるから、今から選定して搬送となると遅すぎる。やむを得ない、三次選定にも電話しよう」
 そこから地域の基幹病院である三次選定病院にも電話を始める。時間が矢のように過ぎて、太陽が真上へと登ろうとしたころ、痺れを切らした成一は携帯電話を持って車外へ飛び出し、発信マークをタップした。
 プルルルル…という呼び出し音が三回ほど続いて、後ろを追いかけてきた六人部の声に冷静になる。
「おい、星野、何してる?」
「三嶋先生に電話を…やっぱり、ダメですよね」
「すぐに切れ、バカ!公私混同するな!」
 珍しく、六人部が怒鳴る。諦めて通話を切ろうとしたところで、電話越しに三嶋の声がもしもし、と応えた。
『もしもーし、せいちゃん、どうしたの。なんか怒鳴り声聞こえたけど』
「実は今、こういった状況でして…はい、確かに二次選定の内容なんですが、そうなんです。はい…傷病者は…」
『……なるほど、そういう状態なのか。うーん…しかたないね。今回は、せいちゃんの顔と熱意に免じて受けるよ。ただし…いや、まあいいか。おれが言いたいことは摂が言うだろう。多分ね、滅茶苦茶怒られるぞ、あと今後はこういうことが無いようによろしく。ま、患者さんの命最優先だからね。うちのコーディネーターにはおれから言っとく』
「ありがとうございます!」
 電話を切ると、怒りで目を吊り上げた六人部にもう一度、「なんてことをするんだ」と怒鳴られた。だがそれも一瞬で、六人部は成一に背を向けると大友に声をかけ、救命センターへ搬送するよう伝えた。
「了解、救命センターへ搬送します。ほしのっち、乗って!」
 運転席から大友が顔を出し、手招きする。成一は頭を九十度下げてから、後部座席に乗り込んだ。

 

 

 

 救命センターへ搬送を終え、一度帰署した。すでに正午を二時間ほど過ぎた時計に溜息をつく間もなく、成一は六人部にちょっと来い、と廊下へ呼び出された。
「ああいう事は二度とするな」
 説明がなくても、何のことか、成一には分かっている。でも、と言いそうになる口を引き結んで、申し訳ありませんでした!と叫んで頭を下げる。
 事務所の入り口から、大友が心配そうにこちらを覗いているのが見える。成一は頭を下げたまま、上目使いにちらりと六人部を見上げた。
「気持ちは理解できる。腹部だし、重症の可能性だってある。一刻も早く搬送したい気持ちは、おれも同じだ。
だが守らなければならないルールというものがあるだろう、どんな仕事にも、時間をかけて作り上げられてきたルールには、それなりの理由があるんだ。規律や規範が全てじゃないが、それらを守ることで病院との協力関係は維持されている。おれたちだけの問題では済まないんだぞ。たまたま救命センターの医師に知り合いがいるからといって、今後もずっとああいうことをするのか、受け入れが難しい傷病者全てに同じことが出来るのか?出来ないだろう!ルールを破り、公正さを損ねるようなことを、われわれは絶対にしてはいけないんだ。あんなことがもし世間に知れたら、三嶋先生や、救命センターの救急科全体が責めを負うことだってあるかもしれない。分かっているのか?」
「はい。…いえ、甘く考えていました。すみませんでした!」
 しんと静まり返った廊下で、成一は頭を下げたまま固まる。六人部の叱責はもっともで、反論する要素は何一つない。「助かったのだから、いいじゃないか」などと、口が裂けても言えなかった。法令順守は、基本中の基本だ。
「はあ……」
 五分ほど続いた沈黙のあと、聴こえてきた深い溜息に、成一は内心強いショックを受けた。
(失望された…例え仕事の上でもお世辞でも、好きだって、尊敬してるって言ってくれた上司を、失望させてしまった…)
 成一は常に恐れていた。子供の頃から、顔色を窺ってばかりいたのは、『好きな人に嫌われたくない』『失望されたくない』という強い思いがそうさせていたのだ。
「二度としません。見放さないでください」
 みっともなく声が震えた。その表情に、六人部が驚く。
「大げさだな。分かればもう、いい」
「え!」
「もっと叱ってほしいのか?本当は、今日帰署したら褒めようと思っていたんだがな、アレさえなければ」
 とりあえず、廊下は寒いから席に戻ろう。
 そう言って、六人部はさっさと事務室へ歩いて行ってしまう。隣の席に座った成一に、遅くなった昼食をとりながら、六人部は言った。
「三次選定病院、とりわけ救命センターに搬送されると、ある負担が傷病者の肩に重くのしかかる。何だと思う」
 大友が「ハイ!僕分かったぞお!」と手を上げる。六人部は頬を緩めて、「じゃあのちほど、星野の答えをきいてから教えてやってください」と言い、成一の方へと椅子を回転させ、向かい合う。
「…ええと…うーん、患者さんの負担、ですか。分からないです」
「金銭的な負担だよ」
 視線を受けた大友が、にこりと笑って続きを引き受ける。
「高度な医療機器を備える救命センターはねえ、同時に、すっごーーくお金がかかる医療機関でもあるんだよねえ。ICUで呼吸器をつけてひと月もいてごらんよ、数百万という医療費が飛んでいくよお」
「そのとおりです。つまり、傷病者の重症度を見分け、搬送することは、病院のためだけではなく、傷病者自身の利益のためにも非常に重要なんだ」
「なるほど…そうなんですね。すみません。おれ、浅はかでした」
 大友がくすっと笑ってから、「なんか今日のほしのっちも、すいません率高いぞお」とからかう。
「まあ今日のミスはちょっとしちゃいけない奴だったもんねえ。あれが許されちゃうと、もうね、キン肉マンに例えるとさ、『ルール無用の残虐ファイト』ってやつだよお」
「…大友さん…その例え分かりづらいっす…おれキン肉マン知らないですし」
「わ!ジェネレーションギャップ!隊長、ほしのっちが若いこと忘れてましたあ!」
「おれも深くは知りませんが」
「同年代の隊長にも裏切られた!そっかあ、僕この隊で一番長老だったもんねえ…悲しい…」
 こらえきれなくて、成一が笑いながら突っ込む。
「もーっ、話しの腰が折れちゃったじゃないですかあ!」
「あっごめんごめん。ま、とにかくそういうわけなんだ、ウン」
 六人部がいつもの淡々とした表情で、成一を見る。
「…三嶋先生も佐々木先生も、超がつくほど優秀な医師だ。なるべく早く一般病棟にうつしてくれるだろうし、不要な治療は行わないだろうが。もしあの時、万が一救命センターでなければ助けられないような重篤な傷病者が出たら、搬送できないだろう。そうなったら大問題だからな」
「はい…」
「その件は完全にお前のミスだからしっかり反省してもらうが、一つ礼が言いたいんだ。午前中、生理痛で搬送した女性がいただろう」
「はい。子宮内膜症の疑いがあるんですよね。すごく痛そうで、時間がかかって申し訳なかったですが…ええと、礼って?」
 大友が書類に向き合うフリをしながら、こちらに耳を澄ませている。向かい合っている六人部の表情は、先ほどまでの怒りに満ちた無表情でもなければ、いつもの淡々とした顔でもなく、少し恥ずかしそうに見えた。
「あの時、お前が言った言葉に気付かされたよ。『重症か軽症か、自分では分からない』というやつだ。業務の中で、いつの間にか忘れていた。軽症患者の救急車利用を減らしたいと、そればかりを考えていることが多かったけれど、言われてみればその通りだと思った」
「自分が盲腸になって、はじめて気づいたんです。それまで病院とはほとんど無縁の生活をしていたので、分からなかったんですが…自分が救急車を呼ぼうかどうか、迷うような事態になったときに、「そっか、呼ぶ人はみんな、こういう気持ちなんだな」って。痛くて怖くて、不安で、頼れる人も思いつかない、もしくはいない人だっているのかなって」
 もちろん、重症の方に利用していただくことが、最優先だということは変わりませんけれど。
 言いながら頭をかくと、六人部が歯を見せて笑った。そして手を伸ばして、成一の頭を乱暴に撫でる。
「その通りだ。おれもほとんど病気をしないから、いつしか相手の立場に立つことを忘れていた。救急隊員たるもの、常に傷病者の立場に立って、不安や痛みを少しでも取り除くことを意識しなきゃいけないよな。気づかせてくれて、ありがとう」
(やばい、好きだ)
 上司として、人として、こんなに人を尊敬したことってあっただろうか、と成一は自問自答する。年下の部下を素直に認め、意見を聞いててくれる度量の広さと、感情をコントロールする自制心の強さ。救急救命士の先輩として、だけではなく、人として見習いたいと思うところがあり過ぎて、おいそれと「好きだ」なんて口にもできない。
(こういうところ、本当に好きだ。好きすぎて息が苦しい)
「えへへ」
「デレデレするんじゃない。改めるべきは改めろ。星野には、おれなんか超えていける素質がある。高みを目指せ。誰よりも自分に厳しく、冷静で、技術のある救急救命士になれよ」
「はいっ!」
「よし。じゃあ悪いがコーヒーをいれてくれ、寒くてたまらん」
「ついでに僕にもお願い。いくらエコって言ったって、19度設定なんてあんまりだよね…12月だよ?脂肪があったってさすがに寒いよお」
 隣から大友が口を挟む。成一は手を上げて、元気よく返事をしてから給湯室に走った。

 

 

 

 成一は自転車に跨り、署の方向へと向かった。
 目的地は中央署の前にあるマンションだ。
「ちゃんともってきたっけ…ウン、大丈夫だ」
 ポケットに入れてあるのは、現像した写真一枚とサインペン。沼田の住むマンションはオートロックなので、玄関口にあるポストに入れるしかない。
 写真は、以前成一が六人部を案内した、由記市を見渡せるあの丘から撮ったものだ。マジックアワーといわれる、日没のオレンジと夜の群青が美しい、初心者にしては見事なものだった。
 写真を裏返し、自転車のサドルに置いて、メッセージを考える。

 

『随分日が短くなりましたね。
 ごはん、食べてますか?
 心配しています。中央署救急隊 星野』

 

 なんてそっけなくて下手くそな文章だ、と思いながら、写真を沼田のポストに入れる。
「これでよし、っと」
 手をパンパンと叩きながら呟いたところで、後ろから六人部の低い声が聞こえた。
「ここで何をしている」
「うわーーーっ!!」
 振り返ると、怒りをみなぎらせた六人部が仁王立ちしていた。
「た、隊長!?なんでここに、時間にはまだ早いですよね!?」
「待ち合わせには早めにくるのがマナーだろ。何をしていた、言え」
「お、お……拝んでました」
 パンパンと手を叩いて、神社でするように目を閉じると、六人部が手のひらで軽く頭をはたいた。
「お前はアホか」
「六人部隊長の大阪弁って超レアじゃないですか。使えるんですね」
「思わず向こうの言葉が出るほど呆れたんだよ。……まあいい。行くぞ」
 追及するのを諦めて、六人部が言った。
「あの、コロッケ買っていっていいすか。駅前の商店街寄って」
「手土産がてら、買ってきた。好きだって言ってたし、いつも作ってもらうのは気が引けるから」
「やった!ありがとうございます」
「料理は手伝えないからな」
 今日のお詫びがてら、ごはんでもどうですか、という下心にまみれた誘いに、六人部は笑顔で乗ってきた。実際お詫びの意味もあって、三嶋にもメールで声を掛けたが返信はそっけなかった。
『まあ、いけたらいくよ』
(あんまり来る気がない女の子の、常套句だよな……)
「ちなみに三嶋先生も呼びました。お詫びなんで。…あれっ、ダメでした?」
「そんなことはない」
「でもちょっと複雑な顔したじゃないですか、今。あ、もしかしてまたケンカしました?ダメですよ、大人なんだから!」
「おれがいたら来ないだろうなと、思っただけだ」
 顔を背けて、先に走り出してしまう。
(気にしちゃいけない、探ったりしちゃいけないって、分かってるけど。もう、抑えきれる自信がない。あなたにとって、三嶋先生ってなんなんですか。いつも冷静なあなたを動揺させたり、意固地にさせたりするのは、どうしてなんですか)
 声に出さないように。腹に力をいれて、ぐっと堪える。笑顔を作って、元気よく後ろから呼びかけた。
「ちょっと、待ってくださいよー、隊長」
 ペダルを踏み込んで、後を追った。
(くだらないことはいくらでも喋れるこの口が、どうか余計なことを言いませんように)
 祈りながら、彼の後姿を必死で追いかけた。無意識に手を伸ばしたが、届くどころかどんどん遠ざかっていく。
 白くなった自分の吐息が、夕闇の街に流れて消えた。

 

 

 

 貸していたクロスバイクを片手に、六人部が家にやってきた。
 フードのついたグレイのピーコートに、ノーウォッシュのブラックデニム、ロールアップした裾には、ハイカットの白のコンバースを履いている。
 服装のせいだろうか。鼻先を赤くして立っている六人部は、実年齢よりもずいぶん若くみえる。
「どうぞ。外、寒かったですもんね」
「自転車だと、風が冷たく感じるな」
 クロスバイクの砂を軽く落として、ベランダに運ぶ。
「ガスストーブ入れたので、すぐ暖かくなると思います。よかったらそこにかけてください」
 築年数が古い代わりに広い成一の部屋の、リビングに六人部を座らせる。
「前来たときに思ったんだが、ソファ処分したんだな」
「ええ、気に入ってかなり使い込んでたんですけど、破れてきてちょっと危なかったので。でも、やっぱり無いと落ち着かないんですよねえ…近いうちに見に行こうかなと思ってます」
「日本人では、椅子の文化は珍しいような気がするが」
「バレエをやっていた影響ですね。足をのばすには、椅子に座る習慣が大切なんだと言われて育ったので」
「そうなのか。おれは、畳の上であぐらかいたり、横になるのが好きだけどな」
「あはは、おれもそれにあこがれてソファ捨てたんですけど」
 コートを預かり、コートハンガーにひっかける。交互に手を洗って、リビングで隣り合わせに座った。
 すでにご飯は用意してあったが、まだ時間は一八時すぎで、何より三嶋が来るのかどうか気になる。ひとまずビールで二人乾杯して、六人部が持ってきてくれた、商店街のコロッケをつまむことにした。
「かんぱーい」
「乾杯」
 昔から、時間があれば体を動かしていたせいか、成一にはテレビをみる習慣があまりない。朝のニュースや夜のニュース、それに新聞には目を通すようにしているが、人が来たとき以外、特にご飯の最中はテレビをつけることがなかった。
 その日も、いつも自分がそうしているように部屋にあるCDを流しながらビールを半分ほど飲んだところで、ふと「あ、すいません、テレビつけたほうがいいですか?」と慌てて声をかける。
「いいよ。家ではほとんどみないから」
「おれもなんです。あれって習慣ですよね」
「そうだな。時間があれば本を読んだり体を鍛えたりしてるから、そもそもみる時間があまりない」
「わかります。無駄のように感じちゃうんですよねえ。兄貴とか友人がきたときはつけるようにしてるんですけど。たぶん、おれ好きなこと以外全然興味ないんですよ。だめだなーとは思っているんですが」
 トランペットの音、続いて控えめなジャズドラム、スウィングするピアノ。流れ出した曲に、ビールを片手に六人部が目を細める。
「これ、聴いたことあるぞ。昔、父が家でよく聴いてた。But not for meだろう?」
 甘く掠れたバリトンが、ガーシュウィン兄弟のスタンダードを柔らかく歌いはじめる。一緒に口ずさみながら、成一が頷いた。
「おれ、この曲大好きで。歌詞の、ちょっと拗ねてるところことか、可愛いくないですか?」
「誰が弾いてるんだ?」
「それが、実は誰だかわかんないんですよ。東京で、ちょっと酔っぱらってて詳細は覚えてないんですが、どこかのバーに入ったんですよね。そこで流れていて、いい曲ですねってバーテンダーに話しかけたら、」
 そこまで言って、冷蔵庫から追加のビールを取ってきた。携帯電話をのぞき込んでも、まだ三嶋からの連絡はない。
「歌ってるのはおれでーす!ってハイテンションで言われて」
「どういうことだ?」
「そのバーテンダーの人、おれと年変わらないぐらい若く見えたんですけど、ジャズピアニストとボーカルもやってる、って言うんです。ほら、リッツカールトンとかちょっといいホテルのラウンジって、弾き語りみたいな人いるじゃないですか。ああいうのやったり、ジャズバンドも組んでて、小さいライブホールでライブしたりもするって」
「すごいじゃないか」
「そうなんですよ。甘くて掠れたこの声も、耳に心地よくて気に入っちゃってほめちぎってたら、デモCDだけどよかったらあげるって」
「星野は得な性格だな」
 六人部が笑う。成一は照れながらへへ、と頭をかく。
「バンド名ぐらいきけばよかったんですが…。CDに書いてるかなーと思ってたら、ケースの中はマジでディスクしか入ってなくて。セットリストすらないから、自分で作りました。ジャズ全然詳しくないんで、詳しい奴にきいて」
 窓の外はすっかり暗い。ビールを飲んでいると食欲が出てきて、ぐうぐうと腹が鳴り、空腹を主張し始める。
 隣で六人部が目を擦っている。眠たげな顔を見ていると、成一は毛布を持ってきて寝かせてあげたくなった。
(ありったけの毛布で包んで、好きなだけ寝かせてあげたい。…おれってこんな奴だっけ?もっと気が短くて、自分のことばっか考えてたよな。この人と出会う前の自分がどんなだったか、思い出せないや)
「眠いなら、ベッド使ってくださいね」
「平気だ」
「寝てないんですか?」
 今日が明けで、明日が非番だ。救急隊は徹夜が多くストレスの強い職場なので、睡眠に異常を来す者も少なくない。したがって、成一も六人部もそのあたりには敏感で、お互いの体調は無意識に意識するようになっている。
「朝帰ってから仮眠を取ろうとしたんだが、考え事をしていたら眠れなくなって。……悪い、15分だけ寝てもいいか。15分経ったら起こしてくれ」
「15分と言わずに、休みたいだけ休んでください」
「せっかくお前の家に来たのに……寝てたらもったいないだろ」
 成一の心臓が跳ねた。のぞきこめば、すでに六人部は壁にもたれたまま寝息をたてている。
 赤い顔で毛布を取ってきて、体の上にそっとかけた。
「ああいうの、天然で言ってるのかなあ」
 だとしたらこわい。
 うれしくて死にそうになるのに、誰にでも言ってたりしたら、泣いてしまう。
 六人部の顔を、じっと眺めた。いくら見ていても飽きなかった。酒の肴にだってできるぞ、と思ってから、まるで変態だなと自重する。
(でも、どうみても男だよな……)
 セーターの上からでも分かる。六人部には、長年バレエを続けてきた成一よりも、実用向けの筋肉がついているし、てのひらも、足も、成一よりも大きい。
(勝ってるのって、身長と若さ、ぐらいか)
 携帯が鳴った。慌てて通話ボタンを押す。
「も、もしもし」
『ごめん、連絡遅くなって。三嶋です。何か買っていくものある?』
「手ぶらで大丈夫ですよー…ほんとに、来てくださるんですか」
『行くっていっただろ~』
「行けたら行く、っておっしゃってましたよ。そういうのって大体来ないじゃないですか、パターン的に」
『女の子じゃないんだから、行けたらいくは行けたらいくなんだよ』
 笑いまじりにそう言われて、成一は「はあ」と間の抜けた返事をする。
「それって、ジェンダーだ!って怒られそうなせりふですね」
『ジェンダーっていうか。ああ、男にもそういう奴はいるよな。いけたらいく=行かない とか、気が向いたら行く=行かない ってのは、性別関係ないかも。訂正する。少なくともおれは、「いけたらいく」ときしかそうは言わない』
「了解です。住所お伝えしたらいいですか?」
『前に一度行ったから大丈夫だよ』
「何時頃着きそうです?」
『酒をのむんだよね。それなら車は使えないから……そうだな、駅から徒歩になるよな。うーん、七時前になると思う』
「分かりました、ご飯用意してまってますね」
『なにそれ新妻みたい』
 返事をしようとしたら、唐突に電話が切れた。こういうせっかちなところが、とても医者らしいなと成一は苦笑する。
 六人部の寝顔をもう一度じっくりと眺めてから、立ち上がる。下拵えしておいた料理を完成させたり、できているものをあたためたりしていると、あっという間に七時をすぎて、ドアフォンが鳴った。

 

 

「おじゃまします、あれー結構きれいにしてるね」
「うちに来た人みんなそれ言うんですけど、おれって部屋が汚いイメージでもあるんですかね?」
「そんなことないけど。植物がいっぱいで、気持ちのいい部屋だね」
 そういってにこりとほほえんでから、三嶋は靴をぬいで部屋に入る。
 高級そうなダークグリーンのダッフルコートを預かって、ハンガーにかける。白いシャツが、シャープな輪郭や柔らかそうな首筋によく似合っていて、まぶしい。
「はい、おみやげ」
「こ、この箱はまさか」
 廊下で手渡された箱は、ドラマでしかみたことのない高級シャンパンの名前が書いてあって、成一はおののいた。
「ちゃんと冷えたやつ買ってきたよー。あ、でも和食系だとあわないかも、と思って日本酒も買ってきた」
 もう一つ手渡された一升瓶は、なぜか裸のままだ。ほほえみながら右手にドンペリニヨン、左手に純米大吟醸の「日高見」を握りしめている三嶋は、うつくしいのにどこかおかしくて、成一は笑ってしまった。
「何がおかしいの?」
 首を傾げる三嶋に、慌てて頭を下げる。
「ごめんなさい、三嶋先生きれいなのに、酒好きのオッサンみたいだなーと思ったらなんか、おもしろくて」
「酒好きのオッサンは間違ってないけどね」
「お気遣いいただいて、ありがとうございます。こんないいもの、すみません。今日はイタリアンっぽい感じにしてみたので、この一生飲めなさそうなシャンパン、あけていいですか?」
「もちろん。そのために持ってきたんだから、飲もうのもう」
 廊下からリビングに三嶋を案内すると、少し表情に緊張を浮かべてから、部屋のすみっこに座った。もっとテーブルの近くに座ってください、と促しても、「ここでいいよ」と言ってきかない。
「隊長に起こしてくれっていわれたんですけど、なんか気持ちよさそうに寝てるから起こしづらくて。先生起こしてもらっていいですか?」
 食事の用意、してくるので。そう言ってキッチンに成一は消える。
 キッチンからリビングは直線上にあるため、こっそりと様子を伺いながら、あたためたり、皿に盛りつけたりした。
「せ……六人部さん、起きてください」
 努めて他人行儀に呼ぼうとしているところがかわいらしくて、成一は忍び笑いがもれた。遠慮がちに手のひらで肩に触れて呼びかけているが、六人部は起きる気配が全くない。
「今日は忙しかったんですか?」
「んーん。そうでもなかったんだけど、納車だったから。業者が来るの遅れてさ」
「車買ったんですか。わー…さすがですね、やっぱベンツとかですか」
「さすがってなんだよ。大きい車から街乗り用に乗り換えたんだ。赤に白のラインの入った、ミニクーパーS。ベンツとかレクサスはコンサバ過ぎて似合わないかなあと思ってさ」
 車に乗らない成一は、車名を聞いてもピンとこない。
「今度乗せてくださいよ」
「いいよ。ちょっと狭いけど、それでもよければ」
 生地から作ったピザと、セロリやラディッシュ、レタスの入ったサラダ、それにアンチョビポテトをテーブルに運ぶ。
「すごいなーせいちゃん。これなに、このケーキみたいなやつ」
 とたんに目を輝かせて指さしているのは、甘いもの好きの三嶋が、どうやらキッシュをスイーツかなにかと勘違いしているせいだ。
「ごめんなさい、ケーキじゃないんですよ。ベーコンとほうれん草のキッシュです。男には人気ないとは思ったんですが、ほうれんそうをやまほどもらったんで。ちょっとだけ、食べるの手伝っていただけたらと」
 へえーキッシュってあの、女子が好きそうな、腹持ちの悪いあれかあ、とこれまた「ジェンダーだ!」といわれそうな発言をしながら、興味深そうにキッシュを眺めている。
「三嶋先生、隊長起きてないですよ、お願いします」
「う、うん……ちょっとやなんだよね、この人寝起き機嫌悪いからさ」
「そうなんですか?」
 初耳だった。だが言われてみれば、異動してきた当初「なんて愛想のない人だ」と思った理由の一つに、よく言えば無表情、悪く言えば不機嫌そうな、午前中の様子が思い当たる。
「昔の話だよ。今みたいに不規則勤務になれてきたら、そんなこと言ってられないとおもうけど。おーい、摂、起きろ~」
 三嶋が六人部の肩をつかみ、揺らすと、うめき声をあげてうっすらと目を開いた。
「アキ……」
 そのとき成一ははじめて、三嶋の名前が「顕」であることを思い出した。
 六人部の声は、大切な宝物のなまえを呼ぶみたいに優しい。のばした右手が、つやつやの、柔らかそうな三嶋の黒髪を撫でる。
 体が、かっと熱くなった。
 手に持っていたシャンパンを、乱暴にテーブルに置く。ゴトンという音にびっくりしたのか、三嶋がこちらを振り返る。
「せ、せつ!寝ぼけてんのか、しっかりしろ」
 取り繕うように、三嶋は慌ててその手を振り払う。動揺しているのか、言葉に方言がにじんでいて、そのことがますます成一を苛立たせた。
(苛立つって。なんでだよ、幼なじみならこれぐらい親密でもおかしくないのに)
 でも、これはふつうじゃない。はっきり分かる。
 三嶋が六人部をみつめる、火のついた導火線のような視線も、六人部が三嶋に注ぐ、切望を含んだ視線も、およそふつうの「幼なじみ」に向けるものではない。
(どうしよう、すごくイヤだ。喧嘩してるなら仲直りしてほしいっておもったけど、やめておけばよかった。余計なことしたかもしれない)
 二人の間に体を割り込ませて、強引に六人部の体を揺すった。
「ほら、おきてください!そろったから食べますよ!」
 とたんに驚いてぱっちりと目を開く。
 六人部のあくびと一緒に、さきほどまでの甘い空気はどこかへ霧散していった。

「このキッシュとかいうシャレたやつ、おいしいな」
 高価なシャンパンで乾杯する。しゅわり、とのどをとおる前にはじけて消えるドン・ペリニヨンの美味さに、成一はさきほどの不機嫌を水に流そうと決意した。
(すくなくとも、今は外に出しちゃだめだ)
「全部美味い。星野はなんでもできるすごい奴だよ」
「でも彼女はいないんですよねえ、これが。…このシャンパンやばいですね、ものすごくおいしいです。香りもそうですけど、とにかくしゅわって口の中でなくなるんですけど!」
「あはは、喜んでくれたならよかったよ」
 みずみずしいトマトのカプレーゼも、三嶋はすっかり気に入ったようだ。野菜が好きな六人部は、さきほどからセロリのサラダを大量に口に運んでいる。
「せいちゃんは、彼女がほしいって心底おもってないだけでしょ」
 いつのまにか終了していたCDの再生ボタンをもう一度押す。三嶋はシャンパングラスの中の気泡を満足げに見つめながら、うたうように続けた。
「人間は、結局。望んだとおりに生きているものだよ」
「そうでしょうか。生まれつき過酷な環境な人だっていますよね?」
 これまで仕事で見てきた、悲しい現場が頭の中を巡る。家庭内暴力、育児放棄、虐待、貧困。彼らがそれを望んでいるなんて、考えられない。
「環境はかえられないけど、生き方は選べるじゃないか」
「大人なら、そうだろうが」
 六人部も控えめに反論する。三嶋が視線を下げ、長いまつげが頬に陰を作った。お酒を飲むなら、と間接照明で暗めにしてある部屋でも、色の白い三嶋の頬と、きらめく黒い瞳はくっきりしていて、まるで水辺の夜景のように人目を惹いた。
「そうだね、すべてに当てはまるというわけではないけど。少なくとも、彼女ができるできないとか、仕事は何をするかとか、そういったことは選べるよね。自分のなかにある勘、ひらめきのとおりに行動すれば、大体そういうのって思い通りになるもの」
「それならなんとなくわかります。決断って迷えば迷うほど当初考えてた希望から遠ざかって、全然違うところにいっちゃうんですよね」
「うん。選択の結果は、自分の中にはじめからあるんだよ。年をとって、とくにそう思うようになった。正しいことも正しくないこともある。しくじったなあって思うことも。でも、後悔はしなくてすむ。自分が最初にひらめいたほうの選択肢を、えらびとることができれば」
 考え込むようにしばらく黙り込んだ後、六人部が静かな声で言った。
「………つまり、星野に連れ合いができないのは、星野自身がそれを欲していないから、ということになるが」
「すっごく丁寧に、もてないのはお前のせいって言われた気がして傷つくんスけど!!」
 酔いもあって、三人とも声を上げて笑った。
「確かに、深い意味ありげにいったけど、そういうことになるよね」
「そういうことになるよね、じゃないですよ!三嶋先生はイケメンだから、おれのきもちなんて絶対わかんないんです」
「イケメンにはイケメンの悩みがあるんだよなあ。きいちゃう?」
「興味ありますね。やっぱりちょっと不幸になってほしいですし。なにしろ、男共の妬みそねみを一身に背負っているわけですから。あ、その前に六人部隊長、グラスが空です。何を飲まれますか」
「ビールでも取ってくるよ」
 あっという間に空になったシャンパンのみならず、ビールの空き缶、用意していた安ワイン三本の空瓶が、部屋の隅にごろごろと転がっている。どことなく緊張感のあった始まり方もどこへやら、すっかりと三人ともくつろいで、寝そべったり、「太りそうな気がする」と叫んで唐突に腹筋をはじめたり、(六人部だ)「ちょっとだけ本を読みたい」と言ってほかの人間ほったらかしで本を読み始めたり(これは三嶋)、かなり自由な空間と化していた。
「イケメンの悩みだっけ。すっかり忘れてた」
 違う話になっていつの間にか立ち消えになっていた話題を、思い出したように三嶋が話しはじめる。
「実はおれ、家事って全般的に好きじゃなくてね」
「ああ…わかる。おれもあんまり好きじゃない」
 三嶋の言葉に、六人部が大きく頷く。だめな大人の男二人の堂々たる様子に、成一は笑いながら続きを促す。
「おれは好きですけどねえ。いい気分転換になるのに。まあ、お医者さんって忙しいですし、やる暇がないってのもありますよね」
「うん。死ぬまで勉強しなきゃだし、論文も書いてるからほんとに時間なくてさ。全部アウトソーシングしてるんだよね」
「外部委託してるってことか」
「ん。ハウスキーパーさんに頼んでる、週に3回」
 もったいない!と叫びそうになったが、三嶋は医者だ。医師としての給料のみならず、株や資産運用で相当な貯金もあるらしいので、確かにそれはアリかもしれないなと考え直す。
「でもさ、最初はなかなか長続きしなかったんだよね。若い女性のハウスキーパーにきてもらってたんだけど、大体一ヶ月もしないうちに事件が勃発してしまって」
 はあ、と三嶋がため息をつく。物憂げな表情はひどく色っぽくて、ここに兄がいなくてよかった、と内心成一は胸をなで下ろした。
「事件?」
「なんか、好かれちゃうんだよね。それもものすごく思い詰めた様子で、気でも狂ったかのように。なかでも一番ひどかったのは、部屋に帰ると電気がついててね。でもどこにもいなくて、疲れてたからとりあえずベッドで休もうと思って、ふとんをめくったらさ…そこに、いたんだよ。……裸で」
「怖い!!」
「だろ。そういう感じのことが何回かあってから、男性の家政婦さんに来てもらうようにお願いしたんだ」
 でもそれもだめで、と再びアンニュイなため息をつく。続きはなんとなく想像できたが、一応問いかけた。
「もしかして、男性でも好かれちゃうんですか」
「そうだね、好かれるっていうか、男性の場合は襲われたね」
「おそわれる……!?」
 六人部が低い声でうなるように言った。
「まあなんとか撃退したんだけど。そこからは、とりあえずお年を召した方で、ってお願いしてるよ。おじいちゃんとかおばあちゃんとか、そういう年代の人ね。今はおばあちゃん世代の人だけど、すこぶるいい感じだよ。老眼が進んでるのか、部屋の掃除が行き渡ってないこともあるけど、そのあたりは掃除ロボットでカバーできるし、ごはんはおいしいしね」
 ほらな、イケメンもいいことばっかじゃないだろ。
 自慢ではなく心底言っているらしく、三嶋は心なしかげっそりとしった表情を浮かべている。
「たいへんなんですね…」
「そうなんだよ。だから十人並とか、せいちゃんみたいにそこそこかっこいいかなー?ぐらいが一番いいんだよ」
「だから丁寧に罵るのやめてください!」
 成一のいきりたった突っ込みに、六人部が腹を抱えて笑った。
「良かったじゃないか。人生、そこそこが一番だ」
「そんな、笑いすぎて涙浮かべた顔で言われても説得力ないッス」
 六人部が成一の背中を遠慮なく叩く。
 憮然としている成一と笑っている六人部を、三嶋が交互にみつめた。
「ちょっと、トイレ借りるぞ」
「はい、そこの廊下向かって左ですー」
 扉の向こうに六人部の姿が消える。ついでに成一も立ち上がって、空き缶をまとめてゴミ袋の中へ放り込んだ。

「なんか、せいちゃんといるときの摂は、楽しそう」
 よほど寝不足だったのか、テーブルに突っ伏して眠ってしまった六人部をのぞき込みながら、三嶋が囁いた。
「おれなんか、叱られてばっかりですよ」
 さきほどの毛布をもう一度かけてやりながら、成一が苦笑する。
「それは、期待されてるからだよ。どうでもいい人をしかりつけたりするほど、三十半ばの男は暇じゃないんだ」
「年齢関係あります?あー…でも確かに男は30過ぎから仕事がおもしろくなる、っていいますよね」
「そうだね、部下ができたり、責任のある仕事を任されたり。おれは医者だから、働き出すのが遅いからね、あまりあてにはならないかもしれないけど。やっぱり見込みのある奴には、厳しくしちゃうね、成長してほしいからさ。ま、向いてないなって思ったら容赦なく詰めるけど。人の命に関わる仕事だもの、向いてない奴に臨床来られると、一番迷惑するのは患者さんだから」
「うわ~~怖い!おれも失望されないようにがんばります…」
 時計を見ると、もう夜の10時過ぎだった。顔色が全く変わらない三嶋に、「ビールならまだありますが、飲みますか?」と訪ねると、「せいちゃんがまだ飲むならいただくよ」と返ってくる。
 しばらくの間、黙ってビールを呷った。
 外は雨が降り出していて、雨粒が窓をやさしく叩いている。
 終わってしまったCDを、六人部が来たときにかけていたものに変える。トランペットの前奏から、再び流れ出した「But not for me」を、成一は一緒に口ずさんだ。
「この声」
 不意に三嶋が顔をあげて呟く。
「三嶋先生もいいと思います?おれも気に入ってるんです、誰だかわかんないしバンド名も知らないんですけど」
「どこで手に入れたの?」
「それが……べろべろに酔ってたんではっきりとは覚えてなくて…確か都内のバーで、えーと、浅草あたりだったかなあ」
「きっとそれ、The Autumnってバーだよ。バーテンダーの男で、一人若いのがいなかった?ちょっと摂に似た顔の」
「そうです、そうです!思い出しました、それで盛り上がったんですよ。上司ににてますねー!って話から仲良くなって、店で流れてたこの歌がかっこよかったからほめちぎってたら、くれたんですよ、このCD」
 三嶋が声をあげて笑った。それから、成一の頭をがしがしと撫でる。
「おれとせいちゃんは、不思議な縁があるみたいだ」
「兄貴がきいたらすっげー切れられそうな言葉スね、それ」
 この人、おれの知り合いなんだ。
 そう言って三嶋は目を閉じる。成一も真似をして、目を閉じ耳をすませた。ドラムもベースもすばらしいけれど、やはりピアノとボーカリストの良さが突出しているな、と思う。
「いい声だよね、やっぱり」
「ハイ。なんていうか、…笑わないでほしいんですけど、柔らかくて魅力的で、才能がキラキラしてますよね」
「ふふっ、きらきらねえ」
「あーっ、いま絶対バカにした!どうせ表現センスないですよっ」
「してないよ。千早……あいつが喜ぶだろうなって思っただけ」
「千早くんっていうんですか、あのイケメンは。にてるっつってもあの人のほうが、六人部隊長より若々しいですよね。あ、やばいこれ悪口じゃないっすよ、隊長もかっこいいんですけど!おれ大好きですし!」
「わかるよ、摂ってなんか、しなびた男前だよね」
「しなびたってなんですか、どういうことですか」
「植物にたとえると、盆栽とか苔玉みたいな。顔立ちは悪くないんだけど、眠たそうだしくたびれた雰囲気あるから」
「盆栽!苔玉!!ひっでー!あはは、だめだ笑っちゃいますね、確かに雰囲気にてますけど…苔玉っていいですよね」
「緑にいやされるよね~」
「もふもふした形もいいですよねー」
「摂の髪も短くて、もふもふしてるしねー」
 しばらくの間、成一は息が苦しくなるぐらい笑った。のんびりとした話し方をする三嶋は、相変わらず、ビールを水のように飲んでいる。
「だめだー涙出てきた。そういやおれ、苔玉は育ててないんですよね。すっげーほしくなりました、毎日隊長~おはようございまーすって言いながら水につけようかなあ」
 三嶋が体をくの字に折って笑った。体が動くと、いつも身にまとっている消毒液の匂いが漂ってきて、ああ、この人はやっぱり医者なんだなあと実感する。
「――ありがとうね、せいちゃん。なんか、いい感じで緊張ほぐれたかも」
「緊張?」
「実はさ、明日摂と二人で飲むんだよね。きまずーい雰囲気だったらどうしようとか思ってた。だから今日さ、三人ではなせて良かったよ。話題にもとっかかりができたし」
(幼なじみだというのに、こんなに気を使わなければいけないほどの「何か」とは、いったいなんなんだろう)
「三嶋先生と六人部隊長の間には、一体何があったんですか?」
 以前、戦場のような現場で六人部の言っていた、「故郷を捨てて逃げ出した」という言葉や、「三嶋を深く傷つけてしまった」という言葉の意味を、あれから何度も考えた。いろいろと想像もした。だが成一には、まるで分からなかった。
 したしい友人は何人かいるが、六人部と三嶋のように、幼い頃からずっと家族のように育った、とまでいえるほど親密な他人は、一人もいない。むしろ家族ですら、祖母という柱をなくしてからはバラバラになっていく一方だった。
「摂とおれは、家族みたいなものだった…とか、そのあたりはもう知っているんだよね?」
「ええ、それは少し、隊長から」
「摂はね、彼が生まれたときにお母さんが亡くなって、父親の聡さんが唯一の家族だったんだ。やさしくておもしろくて、摂のことを本当に大事にしていてね。おれは、ずっと羨ましかった。おれも聡さんみたいな父親ならよかったって、何度も思った。聡さんは、おれにもすごく良くしてくれてね。うれしかったし、今でもあの頃の思い出は宝物だ。でも、うれしいと同時に、切なかった。だってさ、やっぱり聡さんは摂のもので、摂は聡さんのものだったから。当たり前のことだけど、聡さんがほんとうの子供のようにやさしくしてくれるたびに、そうじゃないってことが分かって少しつらかった。ほとんどは、幸福だったけど」
 三嶋の声は淡々としていて、まるで医師が、患者に病状を説明しているときのように穏やかだった。
「それなのに、おれのせいで聡さんは死んでしまった」
 冷たい氷を突然首筋に当てられたみたいに、成一は息が止まった。
「だから、嫌われて当然なんだ。おれをみるたびに、摂は聡さんのことを思い出して苦しむ。捨てなきゃいけなかった夢や、あのときの悲しい気持ちを思い出してつらくなる。だから本当は、近寄らないほうがいいのも分かってるんだ。それでも」
 苦しそうに、うつくしい顔がゆがむ。その表情や、感情には、成一も覚えがあった。
「ずっと疑問だったんですが」
「ん?」
「今、ここにいるのに、どうして二人とも過去のことばかりこだわるんですか?昔何があったのか分からないですが、少なくとも今、ものすごい偶然で、ありえないほどの確率の中再会したわけですよね。おれなら、今から新しく積み上げようって思います。昔のことは、やっぱりどんだけ転んだって掘り返したって、変えようがないんですもん。終わってるんですから。それなら今から、作りなおしたらいいじゃないですか。信頼が壊れたなら築き直せばいいし、憎しみが消えないならぶつけあえばいい。だっていま、生身の肉体をもって、ここにいるんですから」
 成一はそう言って、三嶋の手をとり、眠っている六人部の頬へと導いた。
「ね、ちゃんとあたたかいでしょ。いまここにいる人をみないで、過去ばっかみてたって、何もかわんないですよ」
 三嶋が目をまるくする。そして――破顔した。
「せいちゃんって、すごいバカだね、いい意味で」
「バカって言葉に、いい意味なんてないじゃないですかー!やっぱバカにしてますね三嶋せんせい、自分が医者だからって!京大医学部卒だからって!」
「してないよ、感動してるんだよ。若者って、むずかしいことを簡単みたいに言うから、バカだなーって思うけど。でもさ、それが若さだし、すごいところでもあるんだよな」
 そう言ってから、六人部の頬をそっと指でなぞった。
「摂、男っぽくなった。体だって昔よりがっちりしちゃってさ。なんか、知らない人みたい」
「変わりますよ。生きるってことは、毎日少しずつ変化することだってばあちゃんも言ってましたもん」
「うん、そうだね。あはは、そっか」
(不思議だな。つかみきれない関係性に焦りだってあるのに、なんでだろ。この二人が仲良くしてくれたら、おれもうれしいって思う)
 彼等はどうみても、お互いを大切に想っている。
 その意味が「恋愛」なのか「親愛」なのか「情愛」なのかはわからないが、特別な「愛」があることは確かだった。
 二人の間にそれを感じると、悔しいし、苛立つし、嫉妬もする。なのに、きらいにはなれない。おれの大切な人にさわらないで、という身勝手な独占欲はわいてくるが、だから三嶋を傷つけようとか、二人の間を切り裂こうとか不仲のままでいてほしいとは、成一は考えなかった。
「明日、楽しくはなせたらいいですね」
 笑顔で言った成一に、三嶋は不安そうにほほえみながら、言った。
「そうだね。こんなに不安になるのは、20年ぶりぐらいだよ」

 一緒に部屋を片づけようとする三嶋の申し出を固辞して、マンションのエントランスまで送った。先ほどまで降っていた雨は止んでいて、濡れたアスファルトが、街路灯の灯りを反射していた。
「今日はありがとう。摂、起こせなかったけど、大丈夫かな?」
「家近いし、いざとなったら泊まってもらうので安心してください。何よりおれたちは明日休みなので。先生は明日も仕事でしょう?」
「うん。楽しかったから、明日も頑張れそうだよ」
「おれも楽しかったです。ぜひ、また来てください」
 本心だった。
 三嶋の姿が見えなくなるまで、成一はずっと、手を振って見送った。

 

 

 

 部屋に戻ると、六人部が目を覚まして、ゴミ袋を片手に部屋を片づけていた。
「あ、そんなのいいですよ、おれやりますから」
「いや…これぐらいはさせてくれ」
「そうですか?じゃあおれ食器洗ってくるので、お願いしてもいいですか」
「了解した。早急に作業を終わらせる」
「仕事感出すのやめてくださいよ」
 笑いながらキッチンに向かい、たまったグラスや洗い物にとりかかる。心配になって時折後ろを確認すると、やはりまだ眠いのか、六人部の手元はいつになくおぼつかない様子だった。
「無理しないで、眠かったら寝ていいですよ。なんだったら泊まってもらっても…布団がないから、また一緒に寝ることになりますけど」
 笑いながら否定されるだろう、と思い返事を待ったが、六人部は何も言わなかった。
(やっべ、変な意味にきこえたかな)
 冗談めかして言うつもりが、欲望と願望が混ざり合ってしまったか。そろりと振り返ると、六人部は真剣な顔で考え込んで、こう言った。
「それも悪くないな」
 意識されていないから、こういう返答が返せるのだ、と気付いて、にわかに成一は落ち込んだ。当然のことなのに、かなしい。
「悪くないな、じゃないですよ。明日も飲むんでしょう、今日はちゃんと家に帰らないと」
「明日、うまくはなせるだろうか。心配だ」
「え?」
 会話が聞こえにくいので、シンクの水を止めた。ゴミ袋を片手に、六人部が成一を見つめてくる。
 物静かで、寂しそうな目だった。
(なにか言いたいことがあるのに、言うのを我慢しているときの、あの顔だ)
「怖いんだ」
 頼りになる、冷静沈着で男前な上司は、ときおり途方にくれた子供のような表情を浮かべる。
 その表情をみると、成一はいつも胸がせつなくなった。こんなに強いひとを作ったのは、そしてそんな人にこんな顔をさせるのは、一体どれほどの悲しみだったのだろう、と辛くなる。
「じゃあ、明日終わったころにおれ、迎えにいきますよ」
 相手は三十路を過ぎた男だ。飲み会帰りに迎えにいく、なんて言葉は、まるで似合わないし不必要。そんなことは成一にもわかっている。わかっているが、ただ、駆けつけたかった。
(不安なら、寂しいなら、いつでもおれがそばにいく。走っていく。どこにだって、いつだって行くよ、だってそれしかできないから)
「そんな、いいのか?」
「いいっていうか、おれが勝手にやりたくてやることなので。気にしないでください」
「――自分でもどうかしてると思うけど、怖いんだ。人に傷つけられることよりも、傷つけてしまうことのほうがずっと怖い。そのことを思い出すのがおそろしい。言ってしまった言葉は、いつも、元には戻せない」
「終わる前に連絡をください。どこでも、自転車でいきますから」
 遠慮なんていらない、ただあなたに会いたいだけですから、と心の中で付け足す。
 声には、いつも出せない。

 

 

 夜中、最終電車に間に合うように、六人部を駅まで送った。
 互いの吐く息が白い。他愛もない話をしながら、成一は六人部の吐いた息がふわりと空気の中にほどけるのをながめた。ピンと張りつめた冬の夜は、寒いけれども嫌いじゃないな、と内心呟く。冬はさむいからこそ、近くにいる人の体温に敏感になる。直接さわらなくても、そこにあたたかい体があることを感じることができる。

 自分で思っていたよりも疲れていたのか、送り終えて部屋に帰ると、成一は糸が切れたように眠ってしまった。目が覚めると翌日の昼前で、すっかり明るくなった日差しが部屋中をまぶしいほどに照らしている。
 起き抜けにストレッチをして、部屋をざっとかたずけてから風呂に入り、観葉植物たちに遅めの水やりをする。
「グッモーニン、エブリワン!今日もきれいだねー、あ、そういや今日あれだ、苔玉買いにいこっと」
 一通りの日課を終えて、スーパーに行く。夜勤があるため、自炊といっても作り置きができるものがメインになるが、料理がすきな成一はこまめに食材を買い込み、腐らせたりせずに調理していた。
「わっ」
「ごめんなさい」
 グレープフルーツを買い物カゴに入れようとして、誰かと手がぶつかりかけ、慌ててあやまる。
「うそ、星野さん?」
「野中さん!おはよ、え、なになに家ちかいの、このへん?」
「いえ、普段はこのスーパーには来ないのですが、祖母の家にくるついでに寄ったんです」
「そうなんだ」
「星野さんは、非番ですか?」
「うん。昨日が明けで、今日非番だよ。あ、ごめんねおれ今日酒臭いかも…きのう結構飲んじゃってさ」
「大丈夫ですよ。家で飲んだんですか?」
「そ、おれんちで」
「……六人部隊長とですか?」
「あと三嶋っていう救命センターのお医者さんとね」
(しまった。野中さんって隊長のことすきなんだっけ。誘えばよかったかな…)
「もしよかったら、次は野中さんも…ダメか。男ばっかりの、しかも男の部屋に女の子呼べないな。あぶねえったらありゃしない」
 男は狼だからね、と真面目な顔で言う成一に、野中がふきだす。
「星野さんはそんな人じゃありませんよ、きっと、六人部隊長も」
「男を簡単に信用しないほうがいいって。たぶん、三人の中で一番安全なのは、三嶋先生だな。あの人、女性を襲うとか欲情するとか、そういうの無縁っぽいから」
 三嶋の姿を思い浮かべた。長い睫毛、うつくしい顔立ち、すらりとした立ち姿、なによりも印象に残るのは、聡明なのに刺激的でセクシーな、鋭い眼差し。
 人を魅了するために生まれてきたような人なのに、成一は不思議と、三嶋に性欲は感じない。
「六人部隊長もあまり、女性には興味がなさそうですね」
「いやいや、あの人はむかし結……」
 結婚してたし、と言いかけて、すんでのところで思いとどまる。危うく、許可もとらずに上司のプライバシーを暴露してしまうところだった。
「け?け、なんですか?」
「け…け…ケロ…ケロケロ…ケロケロ…」
「全然ごまかせてないです!なんでカエルなんですか」
 それでも笑わせることができたので、成一の勝ちだった。野中はあえてそれ以上きいてこようとはせず、「それじゃあまた、ランニングのときに」と言って去っていく。
 駅前のデパートに寄って、観葉植物の専門店で苔玉を一つ買った。小さな皿に乗せられているそれを、自宅のキッチンの出窓に飾る。
「すくすく育ってくださいよー、六人部隊長」
 他の多肉植物や観葉植物と同様、名前を付けて笑った。
 苔玉は一日に一回程度、気泡が出て来なくなるまで水につけなければいけない。これを怠るとすぐに枯れてしまうよ、と店員にいわれたので、冷蔵庫に救急車のマグネットで、育て方をメモした紙を貼った。
 たまった洗濯をすませてからトレーニングウェアに着替える。時間は午後三時を過ぎていた。自転車でジムに行き二時間ほど汗を流し、久しぶりに実家に帰ろうか、と迷いながら携帯電話を見つめる。
 兄に連絡をして一緒に帰ろうか。祥一は、成一よりも母親と折り合いが悪く、年間を通じてほとんど実家に寄りつかない。たまに実家に帰ってくるのは父がドバイから帰国したときだけで、母とは眼を合わせようともしなかった。
 ジムから自宅への帰り道、思い切って通話ボタンを押す。つめたい、夕暮れにさしかかった冬の風が、あたたまった体から少しずつ体温を奪っていく。
「もしもし、おれだけど、成一」
『ああ。どうした?』
「いまから実家に帰ろっかなーって考えてるんだけど、兄貴も一緒に帰る?」
 つとめて軽い調子で呼びかけた。なんでもないことのように言ったものの、重い沈黙が流れて、やはり無茶だったか、と眉を寄せた。
『……断る』
「でもいま、親父帰ってきてるよ、ドバイから」
『話すことがとくにない』
「そういわずにさ」
 自分の家についた成一は、鍵を回しながらも説得を試みた。がちゃがちゃ、という音に、祥一がなにをしているんだ?と問いかけてくる。
「あ、ジム帰りなんだ。きのう、六人部隊長と三嶋先生と家で飲んで、食べすぎたからハード目に運動してきた」
『三嶋先生って、あの三嶋先生か』
「うん。呼ばなくてごめんね。きのうは当務って知ってたからさ、声かけなかった。へへへ、妬ける?心配する?」
『三嶋先生は酔わないし、お前も六人部隊長も信頼している』
「たしかに。あの人ザルっていうか、網すらないね、ワクだよあれは。アルコール全部素通り。すっげーわ」
『酔わないが…眼が変わるんだ。あの眼にみつめられると、痺れたみたいに動けなくなる。いやらしいことしか考えられなくなる。密室に二人にされたら、おれは、あの人に何もせずにいられる自信がない』
「ちょっとまって、なんでおれに言ったの?びっくりするわ」
『誰かに聞いてほしかったんだ』
「今後はおれじゃないことを祈るよ」
『まあそう言うな』
「なんか行くの面倒になってきた。もう家でぼーっとしてようかなあ」
 そういえば、とリビングのローテーブルを見やる。
 「救急システムにおけるスマートデバイスの活用について」という資料が、手つかずのまま放置されていた。実家にいくのはやめて、資料を読んで勉強をしようかな、と悩む。
「メシでも食いにくる?って言いたいところだけど、おれ夜遅くから約束あるんだよな」
『デートか?』
「そんなんじゃねーし。そういやさ、救助業務で知りたいことがあんだけど、今度ちょっときいてもいい?」
『ああ。おれもお前に関係のある噂を聞いたから、確認したいと思っていたんだ。近々家にいくよ』
「ウワサ?なんだよ、それ。気になるじゃん…え、もしもし!?」
 祥一の電話は、言いたいことを言い終えるとさっさと切れてしまった。こんな人ばっかりだな、と文句を言いながら、成一は電話をカバンの中に投げる。そして、溜息をついてから勉強をするべく、テーブルに向かった。

 

 

 

 神奈川県の由記市は、まだ新しい政令指定都市のわりに、救急活動において先進的なとりくみをすすめている市町村だ。
 救急車における搬送先の選定や、医療機関との連携はふつう、救急車にとりつけられている「AVM」という端末をつうじて行う。だがこれには問題があって、他の隊との連携がリアルタイムでできなかったり(本部や通信指令室をとおせば可能だがどうしても時差ができる)、救急活動のステータスが病院に伝えづらかったりした。
 そこで現在、救世主として検討されているのが、スマートフォンやタブレットのアプリを利用した救急搬送支援システム『シリウス』だ。大阪府や佐賀県などでも同様のシステムが利用されており、近年の大幅な人口増、搬送増に対応するため、由記市でも運用が決定され、来年の四月から先行運用開始となった。その試行隊として選ばれたのが、成一の所属している中央署の救急隊だ。
(道路の渋滞状況なんかも共有できるし、三回連続で受け入れ断られたら、一斉打診機能がついててメールが自動で送れるとか。もう超ありがたいしすぐにでも使いたいけど…)
 成一は渋い顔で、『シリウス』の簡単な使用方法に目をとおす。
 手放しで喜べない理由は、救急隊長らの年齢だった。スマートデバイスを普段から使っている成一らの世代ならともかく、そこそこ年齢を重ねている隊長クラスでは、使い方に不安を覚える者も多い。
(六人部隊長が異常に若すぎるんだよな。司令補つったら、ノンキャリは大体そのまま退職するレベルの階級だし、壮年の人が多いのもしかたないよ。命に関わるような現場で、ミスなく素早く使えって言われてもなかなか難しいかも)
 シリウスの良さは、それだけではない。情報収集や分析システムを兼ねているため、搬送受け入れ回数、拒否回数、搬送にかかった時間などを集約して、検証に生かすこともできる。またインターネットを通じて薬剤名称や効果を確認できる、など、いいことづくめだ。
 夢中で資料を読み、ときおり専門書を開きながら考えていると、いつの間にか日付が変わる二時間前を過ぎていた。携帯電話を見ても、まだ六人部からの着信はない。
 もしかすると、二人で楽しくて盛り上がっているのかもしれない。「不安だ」と言っていたことが、実際にやってみれば楽しく終わる、なんてことはよくある話だ。いいことじゃないか、と自分を励ましながらも、成一の心は小さく尖った。六人部と三嶋の間にある、ある種の強い絆、そしてそれに不似合な、互いに対する遠慮。奇妙でとらえがたいからこそ、気になった。
(これってジェラシーかなあ、やだな。おれ、そういうドロドロしたのってヤなんだよね)
 もう呼び出しはないだろう、と判断して、風呂に入ることにした。寝支度を終え、ストレッチをしてベッドに入る。うつらうつらし始めたところで、ドンドンドン!という乱暴にドアを叩く音に飛び起きた。
「え、誰だよ怖いな」
 ドアスコープからおそるおそる、外の様子をうかがう。
「星野、いれてくれ」
 仰天した。それは頬や拳に怪我をしている六人部だった。慌ててドアを開いて中に入れる。目元や、頬に残る痣、きれた唇はどうみても――
「ケンカでもしたんですか!?」
「ああ。三嶋先生とじゃないぞ」
 安心した。六人部のように力の強い男が、あんな細面の人を殴ってしまえば大変な怪我をさせてしまうと危惧したのだ。
 だが次の瞬間には、じゃあ一体誰と、何故、という疑問で頭がいっぱいになった。
 部屋の中に入れた途端、のけぞるほどのアルコール臭が六人部から漂ってきて、成一は呆然とした。
「もしかして、酔ってそのへんの親父とケンカした、とかじゃないですよね…?」
「バカにするな。酔ってはいるが、それが原因で絡んだり、ケンカをしたわけじゃない」
「ですよね。あ、とりあえず上がって下さい」
「明日仕事だってのに、悪いな」
 よろけて膝をつきそうになった六人部に肩を貸して、リビングへと運ぶ。
(事情は治療してから聞こう)
 クッションを枕に六人部を横たえると、成一は寝室へ走り、救急セットを取ってきた。怪我をすることがなくても、三角巾や包帯の巻き方を練習するため、常に自宅にはフルセット用意してある。
「まず生食で洗浄しますね」
 寝ころんでいる六人部の拳の下に、洗面器を置いて、生理食塩水で念入りに洗浄する。拳の傷跡は、人を殴ったときに相手の歯でつく傷になり、『拳頭』という部位につきやすい。
「結構血が出てるし、口の中は雑菌が多くて危ないので、消毒しますよ」
「ああ……」
 救急車には消毒液を置いていない。病院に運ぶまでに、命に関わる場合を除き、薬剤を投与することは望ましくないとされるからだ。手持ちの救急セットに入れてある、希釈ポピドンヨードをガーゼにつけて殺菌し、滅菌ガーゼをはり付けて止血した。
「終わりました」
「迷惑をかけてすまない」
「そんなの全然…でも一体何があったんですか?隊長だって、仕事柄ケンカとか絶対ご法度だって、分かってらっしゃるはずですよね」
 仕事中の六人部は、忍耐強くて冷静で、この上なく「救急隊長に向いている」人物だ。感情を荒げたり、激したりすることはなく、ケンカなどとは無縁のようにみえていた。
「一応、その場で示談にしてきたぞ。だから事が表沙汰になることはないし、懲戒処分も無いから安心してくれ」
「示談て。いやいやいやそういう問題じゃなくてですね……」
「相手も、自分に非がある事を認めていたし、まあいわゆる私闘だ。気にするな」
「気になりますって!日本はね、私闘は認められていないんですよっ」
「それでも、戦わなきゃいけないときだってあるだろう」
 大概の女性はくらっときてしまうような男前な表情だ。断固たる意志を込めて六人部が言うので、成一はへなへなと力が抜けてしまった。
「はあ…事情は説明してもらえないんですね?」
「今日のところは勘弁してくれ。次の休みにでも説明するから」
 そう言うと、そのままスイッチが切れたように眠ってしまう。
(マジかよ!気になってこっちは眠れねーよ!!)
「ちょっと、こんなところで寝たら風邪ひきますよ!隊長!起きて!」
 成一がどれだけ呼びかけても揺さぶっても、眠りに落ちた六人部は、翌日の朝まで起きることはなかった。