18 ピース オブ ケイク(降っても晴れても)

 11月下旬、午前3時45分。
「三嶋先生、起きてください!」
 研修医の乾の声で起き上がろうとして、足だけがソファ、上半身が床に寝そべるというとてつもない寝相で寝ていたことに気付く。
「っはー、相変わらずエクストリーム仮眠っすね~」
「うるさい。で、何」
「救急受入なんですが。医療機関からの直送らしく、ちょっと訳ありみたいで佐々木指導医が起こして来いと」
「やっとウトウトしたところだったのに、全く」
 頬を両手でパン、と叩いて立ち上がると、乾の顔がすぐ側で覗き込んでいて、パーソナルスペースの概念が狂っているのかと疑うほどだった。
「お前はいつも顔が近いんだよ」
「顔に線ついてまぁーす」
 膝で乾の尻に一撃加えてから、白衣も着ずにスクラブのまま処置室(初療室ともいう)にかけていった。

 

 

 

「過去一年以内に急性虫垂炎を患ってる。典型的なSSIDだ。検査結果はどうみてもイレウスだっていうのに、どうして一週間も放置されていたんだ、よりにもよって病院で。もっと早ければ保存的治療も出来たかもしれないのに……カテーテルはもう入れた?なら尿量をチェックして。虚血が見られるな…セフォテタン2g静注!師長、手術室の調整はどうです」
「第六手術室をおさえました」
「さすがです、牧田師長。――佐々木先生、これっていわゆる医療事故のしりぬぐいじゃないんですか。こんな分かりやすい症例を誤診、放置するって、もはや医師やる資格無しですよ。無能どころか有害です。いますぐ医師免許はく奪してやりたいですね」
「後で説明してやるが、簡単に言うとウチの病院長に泣きついてきやがった」
「なるほど。今ので大体理解しましたからもう結構です。乾、緊急オペにはお前も入れ」
「はいはーい」
 医者にあるまじき茶髪で、軽薄な雰囲気そのものの乾だが、手技のセンスは中々のものだ。指導医の佐々木は手を焼いているが、アキは内心(こいつはいい医師になりそうだな)と買っている。
 術衣に着替えて消毒を済ませ、アキと佐々木、それにICUスタッフはそのまま緊急手術に入り、終了した頃には、夜が明けていた。

 

 

 

「お疲れ様でーす」
「和田先生、お疲れ様。前の手術と連チャンでごめんなあ、ゆっくり休んでね」
 救急科の医師よりもハードな麻酔科の医師が、眼の下にクマを作ったまま退勤していく。あまりに気の毒なその様子に、アキは勤務終了後のたのしみにとってあった、とっておきのチョコレートを少し持たせてやった。
「元気だしてー、これあげるから」
「うわーん三嶋先生はマジ天使……結婚しよ?」
「ごめんなさい」
「ひどい。もうダメだ。もう麻酔科医全員で一斉にやめてやる」
「お願いだからそれだけは…!」
 ベリーショートの黒髪に、そばかすのある少年のような顔立ちの麻酔科医、和田かえではアキの飲み仲間のうちの一人で、グループの中では紅一点だ。小柄で、小鹿のような黒目がちな目をしているため、勤務外ではバンビちゃんと呼ばれている。変態紳士広海のミューズであり、彼女の存在によって麻酔科はモチベーションが保たれている、といっても過言ではない。
「まあいいよ、DEMELのチョコレートに免じて今日はおとなしく帰って死ぬほど寝るわ。起きたら鬼のようにチョコレートむさぼってやるの、パンツ一丁で」
「それがいいよ。ついでにこれもあげる」
 関係者用出入り口を出てすぐのところで話をしていたため、通りかかった佐々木が「おれにもくれよ!」とちょっかいを出してきたり、「あら、美味しそう!和田先生ずるいわ」と牧田看護師長がおっとり笑いかけてくれたりした。
「ヒャー!ピエールマルコリーニ!!いいの!?」
「もらい物だけど、二個あるから」
「三嶋先生って美しいだけじゃなくて優しい!泣きながら食べるね、ありがとう」
「余計なお世話かもしれないけど、ぱんつはともかく上にセーターぐらいは着てから食べた方がいいと思うよ」
「家では服着ないの。これはもう、通年そうだし絶対変わらない掟なの。お疲れ様~!」
 バーバリーのトレンチコートにグレイのパンツ、それに黒のハイヒールをバシっときめている和田の後ろ姿を見送っていると、近くでタバコを吸っていたらしい佐々木が、匂いをぷんぷんさせながら近寄ってきた。
「相変わらず、甘いものが好きだなあ、三嶋は。その上大酒飲みの運動嫌い、なのに全然太らねえんだから、胃袋がどっか異次元にでもつながってるとしか思えねえ」
「それは都合がいいですねえ。ふう、おれも一本吸うてかえろ」
 懐からタバコを取出してくわえると、佐々木が世慣れたホステスのように火をつけてくれた。そして自らももう一本タバコをくわえ、手に持っていたすいがらを、手持ちの携帯灰皿に乱暴に仕舞い込んだ。
「プラスヘビースモーカー。それなのに健康診断アスタリスク無し、お前はいったい何者だ」
「昔から、食べても太らない体質でしたからね。気を付けてることと言えば…食べすぎたなって時は、翌日絶食したり、水だけにしたりしてますよ。甘いものは…」
 そこまで言ってからアキは深くタバコの煙を吸い込み、輪を描かせながら吐き出す。幾重にも重なり空にあがっていく輪っかに、通りすがりの医師や看護師達が拍手を送った。
「脳を使うと自然と消費されます。ごはんをはじめとした炭水化物は積極的には摂らないので、甘いもので思考や発想に必要なエネルギーを確保してるんです」
 ふつうの人が言えば大げさにも聞こえる内容だったが、アキの口から出ると説得力があり、佐々木はそーかい、と相槌をうつ。
「運動はしてますよ、時々」
「行きずりの相手と、怪我するほど激しく寝たりすることが運動だって言いたいのか?」
 佐々木の挑発的な物言いに、アキは疲れたような笑みを浮かべる。
「誤解があるようですけど、寝る相手はちゃんと選んでますよ。好みにはうるさいですから」
「よく分からねえな。好きなら好きだって言って、好きなやつとヤレばいいじゃねえか」
「性的な指向っていうのはどうしようもないですからね。仮におれと六人部さんの間に横たわる深い深い溝や諍いが消え去ったとしても、女性と結婚する人と思いを遂げることは難しいでしょう。想いを打ち明けたとしても、気分を害してしまうのが関の山ですね。…つまり、佐々木先生がシラフでおれを抱けるかというと、それは無理な話であって。好きだと言ってお願いすればセックスできると考えるのは、性的マジョリティだけの特権、傲慢で浅薄な発想だ」
 言葉の烈しさとは裏腹に、言い含めるようにゆっくりと、優しい口調でアキはそういって佐々木を横目に見た。
「そうやっておれに噛みついて来ること自体、自分自身を認めてない証拠だと思うがな」
 言われた言葉の意味が上手く飲み込めず、なんですって?と問い返す。タバコの煙で目の前を霞ませながら、佐々木は言った。
「好きに、変もダメねえだろってこった。マイナーメジャーはあったとしてもな。お前が誰かを好きになり、またその想いを伝えるということに、この世界にいる人間は誰一人として、1mmたりとも、変だとか気持ち悪いだとか思う資格はねえって言ってんだよ。例え三嶋自身であってもだ。ましてや、伝えられた本人なんぞなおさらだ」
 その言葉が脳を介して心の中に染み込んでいくまで、数分の時間を要した。その間、アキのくわえているタバコはどんどんと灰になり、言葉を発しようとした瞬間、ぽろりと地面に落ちた。
「あなたってすごい人ですね。医師で自分よりも上だと尊敬している人は、沢山いますが…人としては、あなたのほかにはほとんどいません。そう思うぐらい、今の言葉は胸に沁みました」
 からだが妙にぽかぽかとしていた。歓喜がそのまま、体にまであらわれているらしい。
「なーに涙浮かべてんだよ。ったく、これだからろくすっぽ恋愛してない奴はダメなんだ。いいか、一途ってのと、それしか知らねえってのは、全く違うんだ。おれは確かに浮気っぽい側面はあるが……まあ、それには色々と理由もある。一人ひとり、真剣に向き合ってきたし、愛してきた。失敗もしたし上手くいかないこともあった。だがそれは無駄になることなく、大事な財産としてひとつずつおれの中に蓄えられていった。三嶋はな、年のわりに知らな過ぎる。執着と愛は違うんだぞ。お前は本当に、六人部隊長を愛しているといえるのか…――ああ、やめたやめた。こんなところで立ち話するような内容じゃねえや。っかー、愛だなんて言葉を口に出すと、身体がかゆくなってきやがる」
 佐々木はタバコを口から地面に落とし、まるで敵でもやっつけるかのように、忌々しげに踏みつけて火を消した。それから頭をかきながら拾いあげ、携帯灰皿の中におずおずと仕舞い込む。自分で言った言葉に動揺しているようなそぶりに、思わずアキは微笑んでしまった。
「佐々木先輩ってかわいいところありますよね」
「そういう表情と言葉は、もっと大事なときにとっとけ」
 どういう表情だろうか。想像がつかなかったので、アキは指で自分の頬を撫でて首を傾げた。佐々木は溜息をつき、「帰ろうぜ」と促す。
「あの、もしおれに送ってもらうことを目論んで待ってくださっていたのなら、大変申し訳ないのですが、車はありません」
 申し訳なさそうな顔を装ってアキが言うと、マジかよ!と佐々木が大声を上げる。時間を無駄にしたぜ、全く。そう言ってそっぽを向く後ろ姿にとうとう声を上げて笑った。
「マイカー通勤の自粛を経営サイドから持ちかけられまして。街乗りには大きいですし、ついでなので、潔く売り払ってしまいました」
「なんてこった!お前から車とったら利用価値が半減するじゃねえか!」
「先輩は立派なマイカーどうなさったんですか。レクサスのLS、とってもいい車だったのに」
「てめ、分かってて言ってやがんな?とっくに売り払ったさ、前妻への慰謝料にあてたんだ」
 歩いて帰りましょう。
 佐々木と共に駅に向かって歩く。彼は由記駅から二駅ほどの住宅地に住んでいて、アキの車がなければ、電車に乗らなければならないのだ。

 

 

 

 千早の指がアキの顎を掴んで壁におしつけ、有無を言わさず唇を塞いだ。右手が性急に服を脱がせようと動く。ボーダーのカットソーと、カーディガンをもどかしそうに首から抜いて投げ捨てる。
「また来るなんて驚きだよ」
「そう?」
 熱と憂いを帯びた声と、潤んだ瞳で見上げれば、千早は悔しそうに顔をそらしてアキの首筋に唇を這わせた。バーに立ち寄ったのは、彼の祖父を見舞った帰り道で、クレゾールの匂いがふんわりとまとわりついていた。
 白い首筋から鎖骨へ、肩へと舌と唇を這わせ、時折噛みついたり吸い上げたりする。喉の奥からどうしようもなく抜け出てしまう掠れた声は、清廉然とした美しい容貌から想像もつかないほど淫らなのに、聞くたびに新鮮な驚きと興奮を千早にもたらした。
「話しを……ちょっとぐらいは聞いてくれてもいいだろ、千早」
「おれには話すことなんて何もないよ。何度でも言うけど、アキが来たら犯すことしか考えないことにしたからね。だってそれが、あなたへの恩返しになるんだろう。対価になるんだろう。どうせなら楽しませてもらうよ、この体の…」
 立ったままほとんど裸にされていたアキを、ベッドに押し倒す。若くて強い力で組み伏せられても、アキは睨んだり声を荒げたりはせずに、ただ静かな目で千早を見つめた。
「すみからすみまで、探りつくして、暴いて、滅茶苦茶にして、快感にすすり泣かせて、おれなしじゃ生きられないようにする。それから手ひどく捨てるんだ。安心してよ、お金の分はちゃんと働くからさ」
「じいさんの癌、ステージⅣなのに、あそこまで先進治療をする必要があるのか?彼はそれを望んでいないのに」
 喘ぎ声の入り混じった言葉に、千早は動きを止めた。
「苦痛だけを取り除く、そういう治療だってあるはずだ。抗がん剤だって……ほとんど効いていない。いたずらに苦しめているだけだとは思わないのか」
「うるせーな!!」
 突然張り上げた大声と乱暴な言葉に、アキはびくっと身を竦ませた。その様子が千早の中の嗜虐心に火をつけ、手近にあったタオルをアキの口の中にねじ込む。
「こないだ肩に噛みついたやつ、まだ消えてないね。今度はどうしようかな、首でも絞めてあげようか?アキは痛いのが好きだもんね」
「んん…っ」
 素晴らしい形をした瞳をふちどるように、うっすらと涙がにじみ、激しく首を振る。それを見て千早は満足げに微笑んだ。
「おれね、アキの泣いている顔が、一番好き」
 うつぶせにされ、髪を掴んで顔を引き寄せられる。ギラリと迫力のある顔で睨みつけられても、千早は涼しい顔でアキの後ろ姿にローションをかけた。冷たく、粘ついた感触と、これからされることに対する嫌悪感、それにわずかな興奮で、アキは身を震わせた。
「擦って。分かってるだろうけど、痛くしないでよ?」
 寝そべっているアキに覆いかぶさりながら、千早が耳を噛んで囁く。導かれるままに局部に指を這わせ、すでに硬くなり濡れているそれを、上下にゆっくりと擦った。
「上手。誰がアキに教えたの、こういうの。それとも元々センスがあったのかな」
 口にはタオルを噛まされていて、声を発することが出来ない。それを分かったうえで、千早は言葉でアキを辱めた。
「いつだったか、言ってたよね。環境だとか、生まれだとか、そう言ったものに左右されて落ちていく人生なんてくだらないと。人間は自ら生き方を選ぶことができるんだと。立派だよね。アキはさ、酷い家に生まれ育ったのに、落ちぶれなかったもんね。自分自身を貶めなかった。すごいよね」
 千早の手のひらが、アキの臀部をゆっくりと撫で、開いて、湿らせた指を奥へ奥へと侵入させていく。入ってきた中指が、狭い内壁を強引にかき分けながら、最も敏感な場所にたどり着く。
 ぐりぐりと遠慮なくその場所をえぐりながら、千早は治りかけた肩の傷にもう一度歯を食いこませた。カサブタになった場所は簡単に貫かれ、血が噴き出して、タオルの奥からくぐもった声が漏れる。
「ん、んん…!んう」
「痛い、それとも気持ちがいい?」
 返事できないか、と呟いてから、すでに先走りをにじませているアキのペニスを手にとり、容赦ない強さで背後から擦りあげる。快感と、痛みで、艶のある黒髪を振り乱しながらアキが振り返り、黒曜石のようなきらめく双眸から、堪えきれない涙が零れ落ちた。
「でもそれってさ、愛されたからできたんだよね。家族じゃなかったかもしれないけど、家族同然に愛してくれた人がいたから、アキは強くなれたし、落ちぶれずに済んだ。そうでしょ…?…その顔、すごい、いいね。もっと近くで見せて」
 口からタオルを引き抜いて、うつ伏せにしたアキの首を強引に後ろに向かせ、キスをする。顔を背けようとするのを手のひらで引き寄せながら、千早は太ももの上に座って身動きを取れないようにした。
「すぐ入りそう……あー、相変わらずせっま…」
「い…いや…!う、もうやめて」
 寝バックの姿勢で挿入して、膝とベッドのスプリングを使いながら激しく動く。白くて滑らかな背中が、愉悦をにじませた美貌が、シーツを掴む指が、全てが激しく千早を興奮させ、残酷な気持ちにさせる。
「気持ちいい。…すっごい最高」
「あ、あ、…う、千早…なんで…?」
「アキ、人は貧しさや環境の悪さから、落ちぶれるんじゃないんだよ」
「ち、はや…?」
「ヒトってね、誰からも愛されないと思ったとき、愛されていないのだと知ったときに、落ちぶれるんだ。果てしない底まで堕ちて、そして癒しきれない乾きを一生抱えて生きていくんだ。そういうやつが、ヤクザになったり、犯罪に手を染めたりするんだよ。努力が足りないんだって…はあ、人はいうよね。そうだね、そういう見方もあるよ…でも、彼らには分からないんだ。だってまともに愛されたことがない人間に、どうして、他人を思いやることなんてできるだろう?想像力の欠如だなんて言われたって、その想像力の源たる愛情を知らないのに、どうしようもないじゃない」
「千早は、じいさんに、愛されてる」
「黙れよ。おれのことなんて、何も知らないくせに」
 冷たく鋭い声でそう言って、千早は強引にアキの腰を掴み、けだもののように背後から犯した。コンクリートの部屋に肌がぶつかる音が響く。耳をふさぎたくなるような甲高い声が自分の喉から落ちるのを、アキは絶望的な気持ちで聞いた。
「おれは……」振り絞るように、千早が言った。
 掠れた声だった。揺さぶられ、強引に快感を引きずり出されながら、後ろを振り返る。
 千早は泣いていた。涙を流さずに泣いていた。六人部摂に似ていると感じたその顔は、注視すれば、彼を知っていけば、思っていたほど似ていなかった。もっと若くて、鋭い顔だった。苦痛を、快楽を、哀愁を、そのまま表情に出すような、触ると火傷しそうな若さがそこには確かにあった。
「おれは、生まれてから一度も、誰にも愛されたことなんか無い」
 そのときアキは確かに見た。
 熱い鳶色の瞳が魂の荒廃に抗い、悲鳴を上げるように涙を浮かべたのを。
「だから、誰の事も愛さない。誰にも期待しない。ひとりで生きていけなくなったら、死ぬんだ。それが、生きるってことだろう」
 死ぬかもしれないほどに熱が出ても、咳が止まらなくても困窮しても、ギリギリまで誰にも頼れない千早。生まれて来たからには両親がいるはずなのに、その話題は全く出てこない千早。自分の生命や財産を脅かしてまで、そして相手の意志を無視してまで、祖父を生かそうとする千早。

 

(ああ、そうか。摂に重ねて見ようとしても、できるわけない。千早は、摂に似ていない。似ているのは、昔のおれだ)

 

 誰も愛さないなんて嘘だった。千早は唯一の肉親といってもいい祖父に、言葉のとおり自分の全てを捧げて、愛しぬいている。自分を蔑ろにしてでも、生きてほしいと思うほどに。
 彼はただ、「そんなことは無い、愛している」と言ってほしいのだ。だがその言葉を口にしてほしいのはアキではない。今まさに命を落とそうとしている、彼の祖父に他ならない。
 それをアキにぶつけてもどうしようもないことを分かっていて、言わずにはいられない。アキや、他の沢山の人間がそうであるように、千早もまた、地獄に落ちまいと戦い続けていた。生きることは闘争なのだという言葉が頭をよぎり、それにしてもあんまりじゃないかとアキは思った。

 持っている人は、もういらないと拒否するほど満たされているのに。
 求めているものは決して多くもなければ特別でもないのに。
 どうしてだろう。どうして、人は。
 それを手に入れることが、時折酷く困難なのだろうか。

「千早」
 達する寸前、顔の横に置かれた千早の手のひらに、アキはそっと自分の手を重ねた。そして何度も何度も名前を呼んだ。千早は舌打ちをして、それでも、その手を振り払おうとはしなかった。乱暴に腰を打ち付け、アキの中に全て放ってから、崩れ落ちるように隣にうつ伏せに転がり落ち、そのまま一言も話さずに眠りつづけた。

 

 

 

 

 一睡もできずに朝を迎えた耳に、掠れた、囁くような声が、ピアノの音に乗ってきこえる。

 危ないところで、売り飛ばされるという危機から脱したスタインウェイが、千早の指から紡がれる音を、朝焼けの空を背景に悠々と奏でている。楽譜も何も見ず、眼を閉じたまま弾き続ける千早の横顔は、これまでに見たどんな表情よりも真摯で、切実だった。
 部屋の中が朝焼けの赤で一杯になる。アキは、その音と声を子守唄に、冴えていた頭がほどけ、眠気がやってきたのを感じた。
 その曲は、ジャズのスタンダードナンバー、『Come rain or come shine』だった。
(誰も愛したことが無いほど…)
 意識が遠のいていく中、影が差したのをうっすらと感じた。
「どうしておれに構うんだ」
 千早が覗き込んでいるのだ、と解ったものの、顔を上げるのも億劫なほどに、強い眠気が体中を支配している。
「もう、おれのことは放っておいてよ。関わっていったのはおれからだけど……元々、赤の他人だろ?おれと、アキはさ」
 泣きそうな声に、何か言いたかった。それなのに。
「こんなはずじゃなかったのに。こんなこと、依頼にもなかった」
(…いま、何ていったんだろう、千早)
 適切な言葉が何一つ思い浮かばない。
 やがて、突き落とされるように身体が、睡眠の中に落ちていった。

 

 

 

 

 

「水仙か」
「きれいだったので、つい。あと、もしよかったらこれもどうぞ」
 アキはパイプ椅子に腰かけて、花瓶に水仙とカスミソウを活け、見舞い品として持ってきた推理小説をベッドサイドのチェストの上に置いた。
「アンタも懲りねえなあ、千早の友人だなんて、嘘だろ」
 咳き込んでから充血した目をアキに向けた倉之助は、前回見舞いに訪れた時よりも、穏やかな顔をしている。
「じゃあ、何だと思います?」
 いたずらっぽく笑う。倉之助は面倒くさそうに視線を逸らしながら、
「あいつのイロかなんかじゃねえの」と言い捨てた。
「すごい。さすが、長年客商売をされてきた方は違いますね。怒りますか」
「へっ。好きにしやがれってんだ。大人の色恋なんざ、周りが何いっても無駄だろうがよ」
 短い白髪は、切れ長の眼や薄い唇によく似合っている。
「倉之助さんって、今もシブいですけど若い頃はすごくかっこよかったでしょうね」
 アキの言葉に、倉之助はフン、と皮肉っぽく唇の端を持ち上げ、それ以上何も言わない。
 しばらくの間、沈黙が続いた。アキは持ってきた本を開いて、足を組んで読み始める。完全防音の新しい病室の中はしんと静まり返っていて、倉之助の抗がん剤が滴りおちる音も、風の音も聞こえはしない。
「洋書を原書で読むヤツァ、おれは信用しねえことにしてんだよ。外国かぶれめ」
 アキの開いていた本は珍しく専門書ではなく、文芸書だった。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』という本で、日本語訳も読んだものの微妙なニュアンスが異なるのでは、という疑問に取りつかれ、原書を読み始めた珍しい本だ。
「仕事柄、語学力を磨き続けなきゃいけないんですよ」
「なんだそりゃ。英会話の教師でもやってんのか?」
 言いながら、全く信じていないようだった。
「まあそんな感じです。ちなみにこれ、スペイン語ですけどね」
「嘘だな。アンタはちょっとふつうじゃねえよ。人の生き死にに関わるような仕事をしてそうだ……まあ、いいか。おれの知ったことじゃねえ…ゲホッゲホッ」
 本をベッドの端に置いて、水差しを手に問いかける。
「水を飲みますか?」
「いらねえよ。そんなもんで飲んだら、美味いもんも不味くなっちまわあ。それより、頼みがある」
「なんでしょう」
 天井よりも遠くを見据えているような倉之助を覗き込みながら応える。彼は、腕につながっているチューブと抗がん剤を指さし、「これを窓の外に放り投げてくれねえか」と言った。
「ダメですよ。これ一つ、いくらすると思ってるんですか。千早が必死で稼いでるお金なんですよ、治そうという気持ちぐらいは持ってもいいじゃないですか」
「頼んでねーんだよ!この薬も、放射線だかなんだかの治療も!頼んでねえのに、あのバカがなんでもかんでもやりやがる。医者に騙されてんだ、もしかしたらコレなら効くかもしんねえ、今度はこっちをやってみよう、数値に変化があったってな」
 患者に対しては珍しく、アキの心のうちには怒りが芽生えてきた。
「それだけあなたに生きていてほしい、治ってほしいと思っているんでしょう。生活をきりつめて、バイトを沢山して、自分の病気もほったらかしてでも生きてほしいって、千早は思っているのに。なんでそれが分からへんのですか、アンタは!」
 押し殺してはいたが、普段の穏やかな医師の声からはほど遠い、強くて厳しい声を上げてしまう。はっとしてすぐに口をおさえたが、倉之助はニヤリと笑った。
「作りもんみてえで、気にくわねえと思ってたら。アンタもちゃんと熱いもん持ってんじゃねえか」
 いいように感情をコントロールされたのだと気づいて、アキは押し黙る。
「そんな怒るな。これも、技術ってやつさ。人の感情を操るには、優しい言葉だけでも、厳しい言葉だけでもいけねえ。挑発したり、脅したり、なだめすかしたり。そういうもんを全部使って、相手から思い通りの反応を引き出す。そうやってな、やくざもんってのは生きてんのさ」
 アキの眼に警戒心と侮蔑の色がよぎるのを、倉之助は見逃さなかった。
「千早から聞いてねえのか。おれァよ、元々浅草から吉原のあたりをシマにしてたやくざもんだったのさ。息子が生まれた時に、足洗ったけどな。飲む打つ買う、全部やったからよ、今こうして病気になっちまってんのも、ある意味なるべくしてなったってことだ」
「なんや、おれの大嫌いなやくざもんか。優しくして損した」
 先ほどまでの丁寧な態度が嘘のように、アキは腕を組んで鼻を鳴らす。
「おれのきらいなものベストスリーは、やくざ、アル中、ヒモ野郎。害でしかないクソやとおもてるし、引退したとか足洗ったとか、全然信用できへんわ」
「おーおー、別人のようになりやがったな、でもそっちが本性だろ、中々いい根性してんじゃねえか。見た目から想像できねえほど口が悪ィな、どうせアンタもろくな生まれ育ちじゃねえんだろう?」
 普通の人間が言われば怒り心頭になるような言葉だったが、アキは逆に倉之助に少し親近感が湧いてしまった。
「親に謝れと言いたいところやけど、確かにろくな親おらんからな。まあ、許したる」
「何様だ!……くくっ、お前がしらねえだけで、大体の親ってのはろくでもねえし、偏ってんだよ。どいつもこいつもはじめから『親』として生まれてきたわけじゃねえからな。てめえら『子』が、親に求めすぎてんだって。メシ喰わせてもらって、学校いかせてもらえりゃ御の字だろうに。おまえら子供だって大したことねえくせして、親にばっか完璧求めやがってよ。孫の千早はそうでもねえが、息子に至っては絶縁状態、見舞いにすらきやがらねえ」
 張り詰めていた病室の空気が、緩む。倉之助が浮かべた笑みは、相変わらず皮肉っぽい、ひとを小馬鹿にしたような笑みではあったが、どこかコミカルで憎めないところがあった。
「ああいえばこういうジジイやな、やくざなんかやってるから子供に嫌われるんや。自業自得、反省せえ」
「やかましい。足洗ったって言ってんだろうが。そのむかつくすかした顔、ボコボコにすんぞてめえ」
「やれるもんなら、やってみろ」
 倉之助は横になったまま腕を持ち上げ、それから、苦しそうにシーツの上に落とす。
「この、抗がん剤ってやつな。くせものなんだよ。アンタはしらねえだろうが、がん細胞だけじゃなくてよ、正常な細胞まで見境なく攻撃してな。これをやった日は、調子が悪けりゃ一日中ゲーゲー吐いて、免疫は下がるし死にてえ気持ちになんのさ。まあ、それだけならいい。一番まずいのは、あまりにも辛いからよ、健康なやつが憎くて憎くて仕方なくなる。
ーーそうだ、身内でも、あのばかたれの千早でもよ、顔を見ると腹が立って腹が立って…当り散らしたくなっちまうのさ。死ね、お前がなればよかったんだ、どうして死なせてくれない、もう解放しろ!!ってな、近くにあるもんぜんぶ投げつけちまったりするんだぜ」
 アキは黙ってきいていた。名前も職業も言うつもりはなかったし、倉之助も全く興味を示さなかった。
「あいつがな、おれの為にやってくれてんのは重々わかってる。済まねえとも思う。でもよ……おれは、残り少ない人生を、毒でじわじわ苦しみながらベッドで死ぬなんて、まっぴらなんだよ。どうせ死ぬなら、最後の最後まで店に立ちてえじゃねえか。客に美味い酒作って、ああ美味いって言ってもらった言葉を子守唄に、店の中で死にてえんだ。検査結果見たって、もうな、ダメなんだろうなってのは、分かってんだ。千早以外はな」
 どうせ見てもわかんねえだろうけど、と検査結果や主治医の話をまとめたノートを投げ、倉之助が力無く笑う。アキはそれを手にとり、パラパラとめくりながら目を通した。
 そこには意外にも几帳面な字で、主治医の説明やケモのエビデンス、検査結果や今後の治療方針などが日付ごとにメモされていて、『専門外の医師』の眼からみても、確かに治療の効果は疑わしいものだった。
(でも、本人の意志を無視して治療が行われることはないはず……同意はとっているはずなのに、どういうことやろう?)
 あたまの中の疑問を見透かしたように、老人は掠れた声で補足した。
「今まで何度も治療はやめてくれって言ったぜ、もちろん。だがな、千早のやつは全く効く耳持ちやがらねえのさ。治療しないなら死んでやるとまでほざきやがるから、最後にはいつもこっちが折れるハメになってな。おい、アンタ…名前は知らねえし、興味もねえけど、アンタはどう思う?死に方ぐらいは自分で選びてえって、それがそんなに間違ってんのか、なあ…?」

 

 

 

 

 千早の家から帰る道すがら、アキは倉之助のことを思い出していた。
 あの時。質問に対して答えが思い浮かばずに黙ってしまったアキに、倉之助の表情は徐々に失望にかわり、最後には、「出て行け、二度とくんな」と吐き捨てられてしまった。
(医師として、沢山の死に立ち会ってきた。それやのに、答えられへんかった。正解なんかあるんやろうか?生きること、死ぬこと。本人の希望と、家族の希望)
 見舞いを終えた後は、ネットカフェで少し仮眠して、電車で神保町に出た。適当な店で昼食を済ませ、古書店街で本を探して夜まで時間をつぶした。そして日が落ちてから千早のバー「The Autumn」に立ち寄り――今に至る。
(…腰と肩めっちゃ痛いわー…いくらなんでも、あいつやりすぎやろ…)
 タクシーで自宅に戻り、午前中は丸々、睡眠に費やした。今日一日を寝て過ごしてもよかったが、読みたい本や送りたいメールが溜まっていたので、時計のアラームを午後12時に設定して、風呂にも入らず泥のように眠った。 

 

 

 

 シーツを伝わる振動で、目を覚ます。枕元に置いていた携帯電話が、着信を振動で知らせている。うつ伏せで、まだ半分夢の中にいるまま、電話に手を伸ばして画面を確認する。
『六人部 摂』
 寝ぼけていた頭は、一瞬で覚醒した。何故、一体何の用で。そんなことをぐるぐると考えていると、4コール弱で呼び出し音が途切れる。
 体を起こして、発信ボタンを押した。心臓の音が、うるさいほどに大きい。深呼吸をして、ゆっくりと息を吐いた。動揺が声に出ないように、ゆっくり話さなければ…そんなことを考えているうちに、電話越しに摂の声が聞こえた。
『もしもし』
「あ……おれやけど…、三嶋です」
 電話越しに、笑った気配がした。
『うん。知ってる』
 緊張を紛らわせるために、寝室を出てリビングのオーディオをつける。リモコンの再生ボタンを押せば、入ったままになっていたコルトレーンの『My favorite things』が流れ始める。
 ソファに座り、続きを促した。
「どうした、珍しいな。今度はせいちゃんがインフルエンザでもかかったのか」
『いや…。この曲、聞き覚えがあるな、なんだったか思い出せないが』
「ジョン・コルトレーンが演奏する『My favorite things』だよ。ほら、聡さんが大好きやったSound of musicの」
 言いかけて、口を閉ざす。連絡先を交換する程度には打ち解けた今でも、アキと摂の間では聡の話題は禁句だった。
『ああ、そうだったな。何度も見せられた。アキと一緒に』
 怒るか、不機嫌になるかの想像を裏切って、摂は懐かしげに応じた。
「うん。あれで英語覚えたようなものだよ」
『ごめん。用は特にないんだ。今、忙しかったか』
「いや……寝てた。暇だよ」
『じゃあ、飲みに行かないか』
 二人で。
 咄嗟にうまい返事が思いつかない。思わず黙ってしまったアキに、意味を勘違いした摂が慌てて『嫌なら、誰か呼ぶけど』と付け加えた。
 つけっぱなしのGショックに目を走らせる。正午を過ぎたところだった。カーテンの向こうはよく晴れていて、隙間から日の光が差し込んでいる。
「……今から?」
『それでもいい、と言いたいところだが、明日出勤だから…来週の夜は?』
「十二月五日?仕事の後だから遅れるかもしれないけど…駅で待ち合わせよう。午後七時半以降ならたぶん行ける」
『由記駅か?分かった』
「来たばかりで、店なんて全然知らないけどね。まあ駅の近くには何かあるだろ」
『駅のどこにする?』
 一度祥一と待ち合わせたことのあるコーヒーショップを指定して、電話を切る。ソファに身を投げ、頭の中で何度も時間を反芻した。忘れないように、手帳に早速書き込んだ。

 

 7時半。駅前のコーヒーショップ。
 摂と、二人で会う。

 

(もう今更、自分の想いを伝えようとか、叶えようとは思わない)
 以前のように友人に戻れたら。触れることは出来なくても、話をきいて、眼を合わせて、笑い合うことができるだけで良い。
 だがアキには分かっていた。例えどれだけ時間が経とうとも、摂は聡のことだけは忘れることはないだろう。つまりあの事で、アキを許す日も決して来ないのだ。
(期待してはいけない。時間とともに、お互いに大人になった。むき出しの感情をぶつけ合うことが、億劫になっているだけだ。許してもらえた訳じゃない)
 分かってはいても、摂と話せることが、二人で会えることが、アキは嬉しくて仕方が無かった。