17 Ambulance!(酒とカレーと嫉妬と星野)

 六人部と目標を誓い合った日を境に、成一は公休日のトレーニングをより厳しいものに変更した。当務の日は運動することが出来ないが、明けの日や休みの日は、綿密なストレッチから15キロのランニング、ダンベルのローイングを使った上半身筋肉の強化に励んだ。
「星野さんは、すごく質のいい筋肉を持っているから、トレーナーとしてもアドバイスがしやすいですよ。やっぱりインナーマッスル鍛えている方は違うなあ、と」
 通いはじめたスポーツジムのトレーナーが賞賛する。バレエなどダンスをやっている人間は、腸腰筋などの発達が目覚ましく、怪我をしにくいのだという。
「よく、バレエは、インナーマッスルを使う~とか、言いますけど、おれ、それだけじゃ、絶対ないと、思うんですよね」
 由記市駅前からすぐのホテル、二階にあるフィットネス「ユニバーサルジム」は女性と男性の割合がほぼ半分ずつで、フィットネスのみならずスタジオ、プールと充実した施設を持っている。由記市は平均世帯年収が高く、首都圏を勤務先としている裕福な層が住んでいるため、こうしたスポーツジムやヨガスタジオなどが数多く存在していた。
 専属トレーナーを雇うほどのお金はさすがにないので、ジムの中を回っているトレーナーを時折捕まえて、時々アドバイスを貰いながら身体を鍛える。長年、バレエダンサーとしてトレーニングを行ってきた為、成一自身にもそれなりの知識と経験はあったが、いかんせんバレエで使う筋肉と、レスキュー隊で必要とされる筋肉は違いすぎる。そのため分からないことは、素直に教えを乞うようにしていた。
「っふはー、あー疲れた」
 フィットネスゾーンに置いてある、ラットプルダウンでの広背筋トレーニングを終えて、成一が溜息をつく。発言に興味を持ったらしいトレーナーが、その場を去らずに質問をしてきた。
「それだけじゃない、というのは?」
「えっと、なんか今ってインナーマッスル教みたいなの、流行ってません?トレーナーさんの間でも。柔らかい筋肉を手に入れるにはインナーマッスルさえ鍛えればよいのだ、的な。体幹トレーニングとかも似たもの感じますね、体幹を鍛えれば身体がぐらつかないから~とかそういう宗教みたいなやつ、ありますよね」
「ああー!わかります、わかります。何に影響を受けたのかわかりませんけど、盲信している方はいますね。バレエをなさっている方も、そういう思想に凝り固まっている人は多いです」
 汗をタオルで拭い、トレーニングマシンから離れてから、成一は笑った。
「そうなんですよ。確かに、腸腰筋をはじめとしたインナーマッスルは、柔軟性を必要とするスポーツだけでなく、全てのスポーツにおいて重要だと思うんすけど。でもそれだけじゃないんですよね、例えばプリエひとつとってみても、ハムと内転筋だって使うし、大事な部分です。トゥでアティチュードするときなんかも、足底筋はすごく重要ですしね。個人的には、インとかアウトとかどうでもいいじゃんって感じです。必要な筋肉を必要なだけ鍛えればいいんですよね」
 成一の笑顔に、トレーナーもつられて笑う。
「おっしゃる通りです。私は、星野さんにトレーニングを受けたいぐらいですよ」
「すいません、素人のくせにプロの方に語ってしまって」
「いえ。こういってはなんですが、スポーツジムに通ってらっしゃる方は、痩せたい方か逆に自分の肉体に自信のある方、二分しがちなんです。前者の方は長続きしにくくて、後者の方はこだわりが強いから、「こう!」っていう思い込みが結構激しかったりして……星野さんは、品があるんですよね。アドバイスを素直に聴いて下さったり、逆に教えていただくことも多くて。お若いのに、素敵です」
「いやいやいや!やめてくださいよ、照れるじゃないですか」
 茶色い髪をポニーテールに結わっている彼女の目から、秋波が送られているのを、成一以外の周囲の男性は気づいていた。美人というのとは少し違うが、目鼻立ちがはっきりしていて迫力があり、メンバーからの人気は高い。
 トレーナーをやっているだけあって、スタイルがいいな、と今更ながらに成一は思ったが、それだけだった。昔から、何かに夢中になると他の事が疎かになり、特に性欲関係はいつも一番後回しにされてしまう。名残惜しげな視線が背中に投げられているのにも気付かずに、ランニングマシンへと移動した。
(さて、ちょっと走ったら汗流して、帰って夜ごはん作ろう)
 ランニングマシンは、駅前ロータリーに面した窓際に並べられているので、駅の様子がよく見えた。午後七時という時間帯は、普通のサラリーマンの人々が帰宅する時間らしく、飲みに行く者や遊びに行く者が駅前の広場に立ったり、座ったりして、各々の大切な人を待っている。
「あれ、星野さん?」
 ランニングマシンでいざ走ろうとしたところで、隣から声を掛けられ、振り返る。
「こんばんは。あの、野中です。野中奈緒美です、覚えていらっしゃいますか。もう、身体の調子は大丈夫なんですか?入院されていると聞いたのですが」
 黒髪のショートカット、短い前髪に吊り上った、化粧気のない大きな目。
「おわっ!ご無沙汰しています、今はこのとおりぴんぴんしてます!」
 驚きで転びそうになりながら、なんとか持ちこたえる。マシンを使っている限りは、立ち止まって話し込むわけにはいかないので、走りながら受答えをした。頭を下げそうになって、野中に止められる。
「危ないですよ」
 ナイキのトレーニングウェアに身を包んだ野中が、慌てて言ってから、笑った。
「……す、すみません。元気でしたか」
「はい。来年の九月の消防士採用試験に向けて、トレーニングを始めたんです。星野さん、敬語なんて使わないでくださいね、私のほうが若輩者ですから」
 若輩者という耳慣れない響きに笑いそうになりながら、成一は返事をする。
「そう?じゃあ、遠慮なく。はは、嬉しいなあ、ほんとに目指してくれてるんだ」
「女性消防官の採用は十数人程度のようなので…1年では難しいかもしれませんが、全力で挑むつもりです」
「公務員試験の勉強は、したことないの?」
「ありません。筆記は仕事をしながら独学でも問題ないのですが…体力試験の方が、かなり厳しいそうなので。どのような課題なのか、どうトレーニングすればいいのか、手探り状態なんです」
 前を睨んで、汗をかきながら走る彼女の横顔は真剣そのものだ。
「なんか、肩に力入ってない?リラックスしなきゃ。今から力入ってたらさ、本番の頃にはクタクタだよ」
 隣り合わせで走りながら、成一が言う。マシンの稼働音に負けないように、自然大きい声になってしまうので、周囲をうかがうと皆ヘッドフォンでテレビを見ながら走っていた。気にしなくていいか、と開き直る。
「リラックスですか?」
「そうそう。たとえば、こういうランニングのときもね、走らなきゃって思ってるとつらいじゃん、時間が長く感じてさ。だから『うーんかわいい子いないかな~』みたいな気持ちで、広場を見たりしながら走るんだ。そしたらあっというまに過ぎちゃうから。あ、野中さんの場合は、『イケメンいないかな~』でもいいんだけど」
 言いながら、広場へと目を向ける。野中は、言われるがままに素直に視線をうつしてから、小さく「あ、」と声をあげた。
「いた?イケメン」
「すごくきれいな顔の男の人が」
 全国チェーンのコーヒーショップの前で、見知った顔を見つけて目を細める。一度見たら忘れない顔は、人が多い広場でもしっかり目立っていた。
「三嶋先生だ。あの人どこにいてもわかっちゃうな、みんな首曲げて振り返るんだもんな」
「お知り合いですか?」
「仕事絡みでね。お医者さんだよ」
 息が上がるほどの速さに設定していないので、余裕を持って走ることが出来る。
 距離にすれば、20メートルほど先だろうか。10月の終わり、すっかり涼しさを増した気候に合わせて、厚手のネイビーのパーカーに、チェックのシャツ、ベージュのチノパンに白スニーカーという出で立ちをした彼がポケットに手を突っ込み、俯き加減に店の前に立っている。
 彼はタバコをくわえようとして、何かに気付き、手を止めた。その視線の先を眺めてから、成一は再び転びそうになる。
 そこに走ってやってきたのは、兄の祥一だった。
 ノースフェイスの鮮やかな水色をしたマウンテンパーカーにカーゴパンツという姿で、三嶋先生の前に立ち止まる。
「……野中さん、おれ先に上がるけど、毎週2回はここに来てるから、トレーニングのことなら相談に乗れるかも。よかったら話しかけて、そんじゃ!」
「あっ、星野さん」
 まだ何か話したそうな様子の野中を置いて、成一は慌ててロッカールームに向かい、ボディペーパーで身体を拭いてから外に出た。
(もう、いないかな……)
 駅前の広場、中央あたりまで走ってから、周囲をきょろきょろと見渡す。すると先ほど三嶋が立っていたコーヒーショップのカフェの中、窓際の席に二人が座っているのが見えた。
 成一は持っていたキャップを目深にかぶり、フード付きブルゾンのチャックを一番上までしめた。気づかれないように、そっと店に入りカフェオレを注文して、近くの席に腰掛ける。
「前に連れて行ってくれた映画、面白かった。職場の人にもすすめたけど、評判良かったよ。よくあんなマイナなの知ってたね」
 三嶋の落ち着いた声は、笑いを含んでいて楽しそうだ。向こうを向いているので、表情までは見えないが、どうやら二人で映画を見に行ったらしい。
 兄、祥一はこちらを向いている。そのため彼が、成一がこれまで見たことが無いほどに甘く微笑み、この上なく嬉しそうな声で「よかったです」と返しているのが、はっきり見えたし聞こえた。
「三嶋先生の趣味が分からなかったので、もしかして退屈かと」
「映画をみたのは久しぶりだったけど、やっぱり映画館で見ると楽しいね。家だと長いし寝ちゃうから、あんまり見ないんだけど」
「ひとりのとき、どんな風に過ごされるんですか」
「大体仕事関係の本を読んだり、勉強をしたり、酒を飲んだりタバコを吸ったり……息を吸ったり吐いたりだよ。無趣味で悪かったな、我慢せずに笑えばいいだろ」
 むすっとした声に、祥一の心から楽しそうな笑い声。
「そういう祥一君は、休みの日どう過ごすの」
「おれですか。おれは…走ったり…筋トレしたり…」
「君もおれといい勝負してるじゃないか」
「あ、ひとつありました。座禅ですね、最近はまっています」
「座禅て。またシブいのみつけてきたね~」
「あれはいいですよ。日常の、集中力が増したように思います」
「そうなんだ?おれもやってみようかなあ…」
「今度一緒にいきますか。おすすめの禅寺があるので」
「禅寺のおすすめって。そんな真面目な顔で言われてもね」
「ジョブズさんもしていたそうですが」
「どこのジョブズさんだよ?」
「スティーブです」
「あー、アップルの?友達みたいな呼び方するなよ」
 今度は三嶋の笑い声が聞こえた。彼の声は、気の置けない友人と話しているような、気楽さがあった。
「そうだ。先生って呼ぶのやめようよ、アキでいいからさ」
「先生は先生ですから」
「ほんっと、弟とそっくりだな、そういうところまで!次、先生って言ったら返事しないからな」
「三嶋先生、弟に会ったんですか?」
「………」
「先生」
「………」
 無視されている兄の困惑顔が面白くて、成一は笑いをこらえるのに苦労した。趣味の悪いことをしていると思ったけれど、ただ、心配だったのだ。
(三嶋先生って、ちょっと何考えてるか分からないところあるからなあ)
「アキさん」
 観念したのか、言いにくそうに祥一が呼ぶと、ようやく三嶋が返事をした。
「会ったよ。素直で品があって、いい子だよな」
 どうこたえるのか、気になって耳をすませる。祥一は、眼を細めて優しく笑いながら「自慢の弟です」と言った。
「でも、君ら二人の会話って想像できない。どんな話するの」
「仕事のことが多いですね。同じ仕事なので」
「ご両親も?公務員一家って多いよね」
「いえ。父は商社勤めで、世界中飛び回ってますね。今はドバイにいます」
 成一は驚いていた。こんなにも良く笑って、良く話す兄の姿を、見たことが無かった。常に落ち着いていて、誰と一緒にいても声を荒げたり、大げさにしたりすることは無く、冷めた様子をしている、そういうキャラクターだとばかり思っていた。
(自慢の弟が盗み聞きしてたら、泣いちゃうな。帰ろ)
 カフェオレを一気飲みして、気付かれないように横をすり抜けようとした時だった。
「どこに行くんだ?成一」
 腕を掴まれて、おそるおそる振り返る。祥一が、成一の左手首をしっかりとつかんでこちらを見ていた。
「あ、せいちゃんだ。どうしたの、こんなとこで」
 三嶋がタバコをくわえて、ひらひらと手を振る。
「ぐ、ぐうぜーん!兄貴、こんなとこでなにしてんのー!」
「女子大生みたいな嘘をつくな。入ってきた時から気づいてたぞ、何故声をかけなかったんだ」
「……邪魔しちゃ悪いかなと思って」
 声が小さくなる成一から視線を移して、タバコに火をつけようとした三嶋に声をかける。
「三嶋先生、この店は禁煙です」
「……」
 ぷいっと顔を背けている様子が、花のように美しい顔とそぐわしくなくて、ついつい成一は笑ってしまう。
「アキさん」
「ちっ。最近はどこもかしこも禁煙禁煙、所得税もたばこ税も、人より税金払ってるってのに」
 四人掛けの椅子を一つすすめられて、仕方なく成一は兄のよこに座る。向かいに座っている三嶋が、タバコをしまってから、フラッシュメモリを一つ机に置いた。
「それ、祥一くんが知りたがってた論文、集めといたよ。よかったらどうぞ、返さなくていいから」
「すみません。ありがとうございます」
 三嶋がちらりと腕時計を見る。パーカーの袖口からわずかに見えたその時計は、成一のものと全く同じ、Gショックだった。
「三嶋先生、時計おれのとお揃いっすね!」
「本当だ。仕事中はこれに限るよな、洗えるし頑丈だし」
「そうなんですよ。高い時計なんてつけらんないですよね」
 祥一が穏やかに微笑みながら、肘をつき、ふたりを見ている。
「ごめん、おれもう行かないと。また飲みに行こうな、お先に」
「フラッシュメモリのお礼に、ここはおれが払います」
「そう?じゃ、甘える。ありがと」
 三嶋が立ち上がって、さっと手を上げ、立ち去る。前回と同じく、大股に、颯爽と歩くので、ドラマの中のワンシーンみたいだと成一は思った。
「ごめん、おれのせい?」
「違う。はじめから、次の約束があると言っていた。これを早く渡したいからといって、時間を取ってくれたんだ」
 祥一が、眼を細めてフラッシュメモリを撫でる。傷だらけの、大きな手だった。
「兄貴さあ、ほんとに…そうなの?」
「そうなの、とは?」
「ほんとに好きなの?三嶋先生のこと」
「好きだ、すごく好きだ」
 即答だった。ゼロコンマ一秒も間をおかずに返事をされて、成一は押し黙る。
「だが、フラれた。はっきりと、『そういう気持ちで近づいてこられても何も返せない』『今は誰とも付き合うつもりはない』って言われた」
「告白するの早いよ!いつの間に!?」
「我慢できなかった。映画にいった帰りに言ってしまった」
「わーー……」
 自分の知っていたはずの、「祥一」が分からなくなる。成一は混乱する頭を、文字どおり抱えてしまった。
「なんっでそんな、飛ばすかなあ」
「好きな気持ちがあふれてきてしまって、止められなかった」
「そんな少女マンガに出てくるモノローグみたいなこと言われても」
「すまない」
「や、おれに謝んないで。三嶋先生びっくりしただろうな」
「断ることに慣れている様子だった。よくある事なんだろう、多分」
「たぶん、じゃねーよ、たぶん、じゃ…。で、どうすんの、どうすんのっていうか諦めるしかないよな。よし、兄貴、飲み行こうぜ!今日はおれのオゴリだ!」
「友人ならいいと言われたので、今友人から積み上げようかと思っている」
「………社交辞令って知ってる?」
「あの人は、そういうことは言わない」
「ええーーー~~」
「と思う。引っ越してきたばかりで、友人が皆無だと言っていた。友人でもいいんだ、あの人の側にいられるなら、石ころでも酸素でもいいぐらいだ」
 ―――成一は内心、少し感動していた。
(道で殴られようが女を寝取られようが動じないと思っていた兄貴が。あの、(仕事以外は)天下のトウヘンボク、星野祥一がですよ、せつなそうな顔で恋心を語り、友人でもいい、石ころでも酸素でもいいなんて健気な発言をするなんて!誰が想像しただろうかいや誰も想像し得なかったはずだ)

 

…しかしながら、恋愛事には相手がある。自分が好きだからそれでいい、というわけにもいかない。迷惑をかけてしまったら、それはただのエゴの押し付けだし、成一も仕事でかかわる人なので、面倒事になるのは避けたかった。
「だからさ、そういうのおれに言わないでほんと。どうしようもないから。溢れる気持ちはおれにぶつけるんじゃなくて、いっそマンガとか小説とか書いてくれる?」
「思いつかなかった。今度やってみよう」
「やんなくていい。冗談だから」
 カフェの中にいる人影はまばらだ。平日の一八時過ぎにしては、空いていた。テーブルに頭を突っ伏し、何故か満足そうに笑っている祥一に、成一はあからさまな溜息をつく。
「すごいよなあ。昔からほんと、突き抜けてるよなあ兄貴は」
「ありがとう」
「褒めてないっつーの」
 小学生低学年の頃、バレエを習っているせいで、クラスメイトに軽くいじめにあったことがある。あの特徴的な衣装はからかいの対象になりやすく、成一自身も嵐が過ぎ去るのをまとう、という消極的な気持ちだった。ところが弟が田んぼに突き落とされ怪我をして帰ったことを知ると、当時中学生だった兄は放課後の成一をつけ回し、いじめっこをすべて特定して呼び出し一列に並ばせ、一人ずつ田んぼに突き落とした。全員に成一と同じ程度の怪我を負わせた後、「みすみすいじめられてるんじゃない。復讐ってのはこうやるんだ」と言って最後に呆然としている成一をもう一度田んぼに突き落とした。
 たぶん、いじめていた人間だけを突き落としても、いじめの解決にはならないという祥一なりの考えがあったのだろうが、成一からすれば謎の行動でしかなく、今は親友の一人になっている当時のいじめっこ、藤巻との間でもこの事は語り草になっている。
「そこまでさ、好きだって思えるのって、すごいよな」
「成一もいるんだろう、好きな人が」
「は!?え、いや、いないし」
「いるな。おれには分かる」
「なにそれ怖いんだけど」
「毎日楽しそうだからな」
「おれはもともと、まいにちがスペシャルってタイプだよ。…なあ、メシまだ?今日カレー作ろうと思って用意してるんだけど、食べ来る?一緒に食べてくれる彼女も友達もいないからさ。家も近いし酒もあるよ」
 祥一はしばらく考え込むような顔をしてから、頷く。
「今日はすぐ家に帰るつもりだったんだが。ごちそうになろう」
 立ち上がって会計を済ませた祥一に礼を言って、二人で店を出た。一人暮らしを始めてから随分経つが、兄を家に呼ぶのは、実に4年ぶりだ。引っ越しの際手伝ってもらってからは、一度も家に来たことが無かったし、そもそも毎日が仕事をこなすのに精いっぱいで、人を招くような気力も体力も残ってはいなかった。
「住所は知ってるのに、行った事なかったよな」
 駅前から徒歩10分ほどの、閑静な住宅街を二人で歩いていると、ぽつりと祥一が言った。
「うん。なんか、まだダメだ、って思ってたからかな」
「なにが」
「兄貴に全然追いついてないし、そもそも仕事できてないのに、馴れ合ったらさ。たぶんおれ、愚痴ばっか言っちゃいそうだし」
「飲みに行ったときは、お互い言ってるけどな」
 笑いを含んだ声で、祥一が言ったので、成一も笑いながら「まーね」と同意する。マンションの鍵を開けて、どうぞと招き入れた。
「きれいに片づけてるな、お前らしいよ」
「異動してきてからだよ、人間らしく暮らしはじめたのは。ま、そのへん座ってて」
 友人のツテで、格安で借りることができた1LDKのソファに兄を座らせ、成一は手を洗ってキッチンに立つ。今日は一日休みだったので、ジムに来る前にある程度用意はしてあった。野菜は全て切って、たまねぎも飴色になるまで炒めてある。あとは、水を入れて25分煮てから、ルーをいれてさらに10分、火にかけるだけだ。
 炊飯器をみると、タイマー通り炊きあがればカレーの完成にぴったりと合う。引っ越し祝いに祖母が買ってくれたルクルーゼの鍋に蓋をして、犬のかたちをしたタイマーを『25分』にセットしてから、ビールを持って兄の前に座る。
「働き始めて、異動するまではさ、なんかもう毎日仕事いくのに必死で。家事なんかする気にもならなかったな、部屋はぐちゃぐちゃだし、洗濯物なんてパンツなくなるまでやらなかったし、掃除もほったらかしでさ。寝に帰るだけになってた」
「今は、違うんだな?」
 プルタブを二人であけると、耳に心地いプシュッという音がする。『缶のまま飲むのは下品』という躾を二人とも受けているため、二人で互いのグラスにビールを注ぎ、軽く当てて乾杯した。
「ン。いまのほうが忙しいけど、毎日ほんと楽しい。仕事って、やっぱり打ち込んだほうが楽しいね。今までも真面目にはやってたつもりだけど…真面目にやるのと、前向きに取り組むのは全然違うなってわかった」
 テレビをつける。プロ野球もシーズンオフなので、成一はニュースチャンネルを探したが、夜八時過ぎという時間では、ニュース番組は見当たらない。しかたなく、世界中を旅してまわるバラエティ番組にチャンネルを合わせて、冷蔵庫からサラダとチーズを取ってきた。
 テレビはBGM代わりなので、二人とも視線はそちらにあるが内容は全く耳に入らなかった。ビールを飲んだり、成一が作ったサラダや、チーズを黙々と食べる。時折、どちらからともなく話かけ、短いやり取りをする。
「あっ!兄貴さ、糠漬け好きだっけ?」
 唐突な成一の発言に、祥一は首を傾げる。すでに二本目のビールを片手に、「好きだが?」と返せば、成一がニヤリと笑った。
「おれ、ばーちゃんから糠床相続したんだぜ。すげーだろ」
「成一は、昔からマメで料理が得意だったからな。何がある?」
「えっとねー、きゃべつと、水茄子と、山芋。どんなに忙しくても面倒くさくても、糠床だけは死守してきたんだよ。毎日かき混ぜるのがどれだけ面倒でかったるいか知らないだろ。おれのいのちがけの糠漬け、心して食えよな!」
 祥一が声をあげて笑う。じゃあ水茄子をもらおう、と嬉しそうに言った。 

 

 

 

 

「泊まっていけばいいのに」
「いや。明日仕事だからな。それに……いや、それはいいか。カレー美味かったよ、糠漬けも。ごちそう様」
「いつでも食いにきてよ。レパートリー増やしとく」
「今度はあれがいいな。ばあちゃんがよく作ってくれた…蓮根饅頭」
 玄関で、靴を履きながら祥一が言う。
「あれか~、面倒くさいんだよな!まあでも、いいよ。今度ね」
「冬瓜のそぼろあんかけでもいいぞ」
 ここでいい、と言われてドアの前で見送る。ふと、さっき祥一が何かを言いかけたことが気になり、出て行こうとする後ろ姿に声をかけた。
「さっき何か言いかけなかった?」
 成一の問いかけに、祥一が真面目な顔で頷く。
「帰る理由を説明しようとして、やめたんだ」
「なんだよ、水くせーな。なんか用事でもあんの?」
「いや。ぬくもりを忘れないうちに、抜いておく必要があるんだ」
 聞き間違えかと思った成一は、「…んんッ?!」と目を丸くした。
「だから。さっき三嶋先生がフラッシュメモリくれただろ」
「あ、う、うん。そうだね」
「そのときに指が触れたんだ」
「そこまではいいよ、良かったじゃんってことにしとくし」
「だから、一刻も早く家に帰って、抜かなければならない」
 真剣な顔はどうみても冗談やからかいを言っているように見えない。成一は正面から、黙って兄の腹を蹴って、抗議の声もきかずに部屋から追い出し鍵をしめた。

 

 

 

(兄貴が変態になってしまった、あんな人じゃなかったのに!)
「性欲が薄い奴だと思ってたのに、急に人が変わったみたいにスキものになっちゃうことって、あるんですかね?」
 問いかけてから、しまったと思ったが遅かった。成一の奇妙な質問に、大友は目をぱちぱちさせた後、盛大にふきだして周囲に言いふらした。
「ちょっとー、みんなきいてよ、ほしのっちが今性欲大魔神らしいよ!」
「ちが、おれじゃないですって大友さんちがいます!おれの友人が」
「常套手段だよね、ほんとうは自分のことってやつ」
 勤務時間にはまだなっていないので、職務怠慢にはあたらないが、話題が話題なので近くにいる署長がシブい顔をこちらに向けているのが見える。成一は慌てて手を振り、否定して回ったが、すでに周囲は微笑みながら「お前もまだ若いもんな」と肩を叩いたりしてくる。
 午前八時、誰かの時計がそれを知らせるアラームを鳴らす。ちょうど出勤してきたばかりの成一は、更衣室で制服に着替えているところだった。
「違うんです、きいてください」
「おう、じゃあ友達のことな、友達がどうしたって?」
 交代して勤務明けになる救急隊の隊長、斉木が、ニヤつきながらこちらを見る。成一は諦めずに続けた。
「そう、友達なんですけど、いつも女に関心なさそうで、仕事に夢中ですぐ彼女の存在忘れるような奴だったのに、今毎日オナニーするらしいんですよ。付き合えない事情があるとかで」
 身内だとばれないように、少し話を改変して伝える。なんだそんなことか、と斉木が言って、続ける。
「あるある、男ってな、ほんとうに好きになったら本人にはなかなか手が出せないんだよな。だから死ぬほどシコるんだ。経験あるだろ?おれめちゃシコだったぞ、嫁の前に付き合ってた子のときは。あ、これ嫁には内緒な、バレたら殺されるから」
「おれはないですね。全然しないわけではないですけど、ほとんどしないです。むなしくないですか、一人でするのって」
「カーッ!モテるやつのセリフだな!おい聞いたか、星野ぼっちゃんのご高説!まだ二十六のくせに股間が仏様だぜ、成仏してやがる」
「やめてくださいよお。性欲はありますよ、やりたくなってできないときは、走ったり踊ったりしてました」
「なんだそりゃ!」
 男ばかりの職場なので、若手の下ネタは恰好の餌食だ。女性の目でもあれば変わるのだろうが、いかんせん中央署には女性署員がいないため、言いたい放題になっている。
「おはようございます」
 そこへ六人部が出勤してきて、ヒートアップしていたその場が少しおさまった。成一ははありがたい気持ちと、不思議な気持ちを感じながら挨拶を返す。
「隊長おはようございます」
「早く着替えろよ、性欲大魔神」
「聞こえてたんですか!?」
 淡々とした顔で投げられた言葉に、成一が叫ぶ。ナイロンパーカーを脱ぎ、Tシャツ一枚になった六人部が、こちらを見た。
 その時、携帯電話が『ライン!』という音を発して、驚いて自分の携帯を落としてしまう。バイブにするのを忘れていたらしい。六人部が拾って、手渡してくれた。
「野中さんからメールがきてるぞ」
 兄にごはんをごちそうした週の金曜日、再びジムで再会したので、連絡先を交換したのだ。分からないことがあればいつでもどうぞ、と自分からラインIDを伝えたが、メールがきたのは初めてだった。
「おおっ、その子がもしかして星野がめちゃシコの女の子か!?」
「だーかーらー!!違うっていってるじゃないですかー!」
 斉木が嬉しそうに携帯を取り上げ、勝手に返信しようとするのを慌てて奪い返す。そんなやり取りをしている間に、六人部は着替えを終えて更衣室を出て行ってしまった。
「なんか、隊長怒ってたよ。もーっほしのっち、横恋慕はダメだよお」
 大友がおもしろいことになってきたぞ、と顔にかいてあるような表情で、成一をつっつく。
「横恋慕ってなんですか、別に二人はおつきあいしてるわけでもないでしょうに。大体野中さんもおれも、お互いそういうつもりはありませんよ!」
 事務室に上がり、自席についても、六人部は全く話しかけてこない。確かに大友の言うとおり、少し機嫌が悪いように見える。
「隊長……その、怒ってます?」
「何故怒らなければいけないんだ」
 声はいつもどおり、静かだった。だがこちらを見ようとはしない。
「もしかして…野中さんのこと、好きとか?」
 言いながら胸が痛くて死にそうになる。どうかそんなことになりませんように!と強く願いすぎて、成一は気が付かないうちに唇をかみしめていた。
「ふはっ、なんだその顔。面白い顔だな」
「茶化さないでくださいよっ」
「すきもなにも、おれは彼女のことを何も知らない。下の名前すら知らないのに好きになりようがない」
「じゃあなんで怒ってるんですか」
「だから、怒ってないと言っているだろう。お前こそ、好きなんじゃないのか」
「え?」
「そのナントカさんを」
 名前すら憶えられていないことが気の毒だった。成一は「野中さんです、野中奈緒美さん」と説明してから「いいえ」と首を振った。
「彼女には好きな人がいるらしいです」
「それは、本人が言っていたのか」
「いえ。大友さんの勘、らしいですけど」
 成一の言葉に、後ろからやってきた大友が「よく外れますけどねえ」と言って丸い腹を突きだす。六人部は少し笑って、「確かに」と同意した。
「私生活には口を出さないが、市民に恥じるようなことはするなよ」
 それだけ言うと、六人部がようやくこちらを見た。その眼には、すでに先ほどまでの不機嫌はどこにもない。

 

 

 

 

 

 明けになる当直勤務の救急隊員達と引き継ぎ、申し送りを行い、終了するのが大体毎日、午前八時二十分過ぎだ。そこから資機材の補充などを行って、勤務が本格的に開始されるまえに準備を終える。
「ちなみにおれは、仕事が恋人です」
「前に聞いたけど、そういうこと言うやつに限って出来ちゃった結婚とかするんだよ」
 六人部の言葉に、うっと詰まる。どうにも彼の口から「できちゃった」とか「結婚」とかそういう言葉が出ることに違和感がある。元々していたはずなのに、彼の夫婦生活は、全く思い描くことができなかった。
「六人部、ちょっといいか」
 上司に呼ばれて、六人部が席を外す。業務時間がはじまって、消防吏員たち(救急、消防含めて、正式名称は『消防吏員』となる)は、席で事務仕事をしながら出場に備えている。自分のデスクに向かってさて、と腕まくりをしたところで、フロア中に響き渡るドスのきいた大声が、2階事務所の入り口付近から聞こえてきた。
「おいこらァァァ!救急車の担当者出て来いやああ!」
 突然の大声に驚いて立ち上がる。入口付近では、事務室内に侵入しようとしているヤクザ崩れのような、頑固おやじのような初老の男性を、屈強な消防隊員が数人がかりで止めていた。
「朝から晩まで、ピーポーピーポー大音量出しやがって!うるせえんだよテメエらァ!住人の気持ちになったことあんのかクソがー!!」
 大友さんと目を見合わせた後、声のするほうにふたりで向かう。六人部がこちらに向かいたそうにしているが、いかんせん署長につかまっているのですぐにこちらには来れない。署長はものすごく度胸のある人なので、凄まじい大声にも、眉ひとつ動かさずに話を続けている。彼は、部下を信頼しているし最終的には絶対に自分が出ておさめる自信があるからこういう態度が取れるのだ。
「救急隊員の星野です。あの」
「テメエかこのやろうー!表でろ!!騒音で訴えんぞクソガキがー!」
 話を聞く前に激昂され、胸倉をつかまれて持ち上げられる。制服の首がしまるのをふせぐために、その腕を掴んで止めると今度は「市民に暴力か!!わしは市長も議員も知り合いなんだよ、テメエひとりの首なんざすぐ飛ばしてやる!」と言って突き飛ばしてきた。
「おおっと、暴力はダメですよお、落ち着いてください。逃げませんから、ね?」
 鍛えているはずの成一が簡単に吹き飛ばされるほどの腕力に、周囲を取り囲むようにして見ている消防士達の顔に戦慄が走った。大友が優しい声で宥めているが、男は「殺すぞ」と「騒音だ」と「夜と朝はサイレンならすな」を繰り返し怒鳴り続けている。
 後ろにあるカウンター机に激突する衝撃を想像した成一に、それは訪れなかった。六人部が、カウンターと成一の間に入って受け止めたからだ。
「部下に乱暴をするのはやめてください。私が救急隊長の六人部です。お話は全て私がお伺いします」
「なんだ貴様!最初から出てこい、こんなバイトみたいなジャリとデブ出しやがって。大体役人てのはなあ、人数で市民を誤魔化せばいいと思ってやがるな?ぞろぞろぞろぞろ出てきて周り取り囲んで、やれこっちじゃねえあっちの係だってたらい回しにして曖昧にしやがる。卑怯じゃねえか!どこいっても役所はそうだ、さっさと追い払うことしか考えちゃいねえんだ!」
 『バイトみたいなジャリとデブ』呼ばわりされた成一と大友は悲しい顔を見合わせてから、周囲の消防隊に大丈夫ですから、と視線で合図をする。六人部が来れば、何も怖くないという安心感は成一だけではなく、消防隊員たちにも浸透していて、彼らはちらちらとこちらを気にしながらも自席に帰っていく。
(ジャリ&デブっていう漫才ユニット組んだら、年末の忘年会でうけそうだ…)
 くだらない思いつきに首を振り、どうか今出動要請が入りませんように、と祈った。放って出れば出たで大炎上しそうだったし、なによりも出動しないという選択肢はないから、妨害されると傷病者の重大な不利益につながる。
 座ると話が長引く、ということを知った上で、六人部が事務室にある簡易なベンチをすすめた。隣に座り、激昂する彼からなんとか申し出の趣旨を聞きだそうとしている。成一は「沼田」と名乗った男の、六人部とは逆側に座り、覗き込むようにして話を聞き、大友は片膝をついて、沼田の前で耳を傾けている。
 住所を聴いてみるとなるほど、消防署の正面にある、分譲マンションに彼は住んでいた。
「わしの家にはなあ、孫娘がいるんだよ!ちょっと神経が過敏で、寝かしつけるのに毎晩苦労して、やっとうとうとしたとおもったらな、てめえらの気でも狂ったかのようなピーポーピーポーで泣いて目覚めちまう。母親が、まあこれが出戻りで不肖の娘なんだが、シングルマザーで必死で育ててんだよ。朝から晩まで働いて、乳飲み子育ててるってのに、真夜中にウーウーピーポー、うるさくて仕方ねえんだよッ。目の前幹線道路だろうが、交差点まで出てから鳴らしゃあいいだろうが!孫は泣きわめく、娘は眠れなくてヒステリックになる、お前らはサイレンならしまくる、わしの平穏を返せー!!」
 個人的な事情という側面も多大に含んではいたが、確かに内容を聴いていると申し訳ない部分も相当ある。成一が「なるほど、それはご迷惑をおかけして、申し訳ありません」と頭を下げる前に、六人部が「それは、ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。我々も、救急車のサイレンは住宅用、道路用など使い分けてはいるのですが、いかんせん、傷病者の方のところへ早く駆けつけるのに、サイレンは不可欠なんです」と申し訳なさそうな顔で、丁寧に説明をした。
「だったら、わしらは眠れず、ノイローゼになり、死んじまってもいいと言うんだな!?傷病者だかなんだかは助けなきゃいけねえけど、近くに住んでる住人がどうなっても、おめえらには関係ねえって、そういう理屈だな?」
「ご立腹の内容はごもっともです。我々の業務は近隣住民の方の、多大なご協力のもとに成り立っています。決して、沼田さんご一家を苦しめようという意図はございません。ただ、サイレンを一切鳴らさないというわけにはいかず、また朝晩は鳴らすのをやめるということもできません。サイレンや赤色灯は、今まさに苦しみ、助けを必要としている方のもとへいくための、いわばパスポートなんです。それがなければ、たどり着くことができなかったり、ものすごく時間がかかって、助けられる命も助けられなくなってしまいます」
「だから!てめえはさっきから、『助けるために犠牲になれ』って、そういってるわけだろう?消防署は確かに昔からここにあったさ、わしらはあとからやってきた住人だよ。でもな、街ってのは、人ってのは、寄り集まって、寄り添って生きてるんじゃねえのか?死にかけの老人も、神経過敏の子供も、みんな同じように街の住人だろう。おまえらはそういう市民だって、守る義務があるんじゃねえのかよ」
 怒りで顔が赤黒くなっている沼田の意見に、思わず同意しそうになって、成一は困惑した。彼を説得し、納得してもらうことが、とても難しいことなのだと感じてしまって、六人部がはたしてなんと言うのか、息を呑みながら待った。
 彼は意外にも、「耳の痛いお言葉です。が、その通りです」と認めた。
「そうです。我々は、命に関わる人々を優先させてください、どうか我慢をお願いしますと言っているんです。ものすごく酷い、傲慢な話だと分かっています。が、遠回しにお伝えしても、沼田さんはきっとそういう詭弁や嘘を見抜いてしまわれるでしょうから率直にお伝えします。『痛みや、苦しみや、不安にあえいでいる人を一刻も早く救い出すために、どうか沼田さんの力を貸してください。いつかあなたや、あなたの家族がそういった危機を迎えたとき、助けられる組織でいるために、どうか犠牲になってください』言い方は悪いですが、そういうことなんです」
 怒るだろうか。それとも、呆れるだろうか。いろいろな反応を想像していた成一だったが、沼田は唸るような低い声で「よく言いやがるぜ、正直にいやあいってもんでもないだろ」といって憮然としている。
「なるべく配慮はします。ですが、鳴らさないという約束は出来かねます。適正に赤色灯やサイレンを使用しているのかどうか、再度確認して適正利用につとめます。役人の口ぶりだと、ご立腹されるかもしれませんが、私からお伝えできるのは、どうしてもこういう内容になります」
「孫が……孫が、かわいそうなんだよ。言葉も遅いし…ひょっとして、眠ってねえのが関係あるんじゃねえかって、娘が思い悩んで」
「そのお孫さんがもし怪我をされたとき、救急車にサイレンと赤色灯がなかったら、どうなると思いますか?現場に着くのがおくれ、病院に運ぶのが遅れ、きっと沼田さんはお怒りになるでしょう。傷病者の方の家族のことを、少しだけ想像していただけませんか。これも、犠牲だっていわれてしまえばそのとおりなんですけれど」
「あの、沼田さん。由記市役所の、地域保健福祉課ってところ、ご存じですか」
 成一が口を挟むと、すっかりしおれて力をなくしていた沼田が、再度顔を赤くして怒りを瞬間沸騰させた。
「テメエ!うちは福祉の世話にはなってねえんだよ!どういうつもりだ!」
「そうではなくて。地域保健福祉課には、保健師さんといって、お子さんの成長に関する相談や、育児の相談をすることができる、専門の資格をもつ職員さんがいるんですよ。一度娘さんとお孫さんで、訪れられてはいかがかなって、思っただけです」
 成一の言葉に、六人部が微笑む。よく知っていたな、えらいぞ、と目でほめられて、成一は頬が熱くなった。
「由記市中央区役所の連絡先一覧です。相談する前に電話して、予約したほうがいいと思います。外勤されてることもあるので」
 成一が渡したA4の紙に沼田はちらりと目を走らせ、ひったくるように取り上げる。目の前にいた大友を突き飛ばし、引き留めようとする六人部を睨みつけてから、掠れた声で捨て台詞を吐いた。
「どけ、迷惑施設職員ども」
 消防署は確かに、迷惑施設だと言われてしまえばそうなのかもしれない。その言葉はぐっさりと成一の胸に突き刺さり、がっくりと頭を垂れる。そんな様子を見て溜飲を下げたのか、沼田は少し嬉しそうな顔で、悠々と事務所から出て行った。
 騒動が終わって、時計を見ると十時を過ぎていた。
「随分長い間、怒っていたねえ」
「しかし、申し訳ない面が多すぎて言葉に詰まりました。おれは理詰めで相手を言い負かせてしまうようなところがあると自覚しているので、どういえば伝わるかと」
 珍しく六人部が弱気な発言をしたことに、成一は少し嬉しくなった。
「隊長のことば、おれの胸にすごく響きましたよ。ほら、サイレンと赤色灯は傷病者へのパスポートなんだってこととか。ああ、そっかそうだよなって」
「お前の胸に響いても仕方ない。おれは、まだまだ未熟だ。もっと精進しなければ」
 感動を伝えたつもりが相手にされず、成一はしょんぼりする。大友がそんなやり取りをみて、笑っていた。
「ただ、区役所のくだりは見事だった。よく知っていたな」
「いやーへへ。由記市役所に親友が勤めてるもんで。話をきいてまして、はい」
 消防署が迷惑施設だと思っている市民は少なくない。事実、消防車も救急車も生涯一度も利用しないという市民は多いし、出入りや騒音で周辺住民に迷惑をかけているという思いは、消防士全体が持っているべきものだと、成一は表情を引き締めた。
『救急、指令。子供が風呂で溺れ、意識不明。通報者は母親』
 車庫へと走る。救急車に乗り込み、住所を確認して声を失った。
「…さっきの人の家じゃないですか?」
 それはさきほどまで、ここで怒鳴っていた沼田の住所だった。

 

 

 

 

 

 子供の息はすでに無かった。
「早く、早く病院へ連れてってくれよ」
 到着した現場では、水に濡れた女児が浴室から連れ出され、廊下で横たわっていた。その側をいったりきたりしていた沼田が、入ってきた六人部に飛びかかる。
「さっきは悪かった、あとで土下座でもなんでもするから、孫を助けてくれ!!」
 沼田が血走った眼で、六人部を揺さぶる。六人部の目は、青ざめた表情のまま真っ直ぐに母親をみつめていた。浴室の隅で壁に向かってへたりこんだまま、微動だにしない彼女を。
 ずぶぬれになった女児をストレッチャーに乗せ、大友と共に運び出す。周囲の風景が、音が、モノクロになったように静かだと成一は思った。大友の病院選定の声も、モニター音も六人部の指示も、全て遠い。
 耳がおかしくなったのだろうか。
「…の、星野!しっかりしろ!」
 車内収容後、マンションの前で心肺蘇生法(CPR)しながら選定を待っていた。ロードアンドゴーの声が聞こえたが、病院の選定に時間がかかっている。呼吸無し、脈拍微弱。DOA(搬送中死亡)、の文字が頭をよぎって、震えた。
「隊長」
「動揺する理由は分かるが、後にしろ。かわれ。おれがやる」
 モニターが鳴って、心拍の停止を告げる。くそ、と六人部が呟くのと、成一がAEDを用意するのはほぼ同時だった。大友の声が、「搬送先決まりました、由記救命センターです」といつもよりも硬いまま告げる。
 揺れない、迅速な搬送には安定したドライビングテクニックが不可欠で、大友はポンプ車から異動してきたにも関わらず、その点において由記市消防局でも三本の指に入る、と六人部に言わしめている人物だ。それなのに、今回の搬送では一度、マンホールを踏んでしまって大きく揺れた。すみません!という大声に「問題ありません」と六人部が返す。
 病院が遠かった。懸命なCPRにも、女児の心拍は停まったまま戻らない。六人部と成一が交替で行った心肺蘇生法に、小さな体が力無く揺れる。
(……DOA……(搬送中死亡)嫌だ、死なないでくれ)
「決めつけるな。おれたちは医師じゃないんだ、死亡診断は出来ない」
 六人部の目からは希望が消えていない。そう感じた成一は、強く頷き「はい!」と声をあげる。
「特定行為をやるよりも搬送を優先したが、星野はどう思う」
「正しい判断だと思います」
 珍しい質問に、成一は六人部の動揺を感じとった。子供の重篤、それも「おそらく病気や事故でない」原因を前に、彼も戸惑っているのだ。
 救命センターに到着すると、佐々木と三嶋、それにスタッフがストレッチャーを取り囲んで激しい声が飛び交った。
「DOAか?おい、この痣は」
「佐々木先生、後にしましょう。診断次第では警察に連絡することになるけど、それでいいね?」
 瞬時に状況を理解した三嶋が、平坦な声で問いかけてくる。六人部が重々しく頷き、返事を返す。
「はい。我々の情報が必要であれば、いつでもご連絡下さい」
「いこう。ほらどいたどいたー!師長、水谷先生を呼んでいただけますか」
「了解いたしました」
 三嶋や佐々木の背中に祈りを込めて一礼する。
 どうか、あの罪のない子供が、助かりますようにと成一は強く祈った。

 

 

 

 

 

 その日の出動は、一件目を除いて軽傷病者ばかりだった。
「心肺停止、死亡。……母親によるものと思われる虐待痕あり。病院から警察に連絡したそうだ」
 重症患者や祭りでの騒動よりも、ずっと深く重く、身体が疲れていた。それはおそらく精神の疲れ、ショックによるものだと成一自身も自覚していた。
(虐待)
「子供の頭を押さえつけた後があったらしい。頭皮にひっかき傷が…水をはった浴槽に、頭を押し付けたのだろうということだった」
「なんてことを!」
 大友が怒りに満ちた低い声で叫んだ。更衣室では、六人部隊以外はすでに交替を終えていて誰もいない。朝の光の眩しさすら、今の成一には苦しかった。
「なんてことするんだよお」
 更衣室に置いてあるベンチに腰かけて、力無く頭を垂れた大友の声は、全員の心の声でもあった。
「帰りましょうか」
 六人部の呼びかけに、黙って頷く。言葉少なく着替えを終えて、更衣室を出た。
「明日休みだけど、今日は僕、帰るね」
「お疲れ様でした」
 元気のない大友の後姿を署の前で見送ってから、溜息をつき、愛車に触れる。救急救命士になった限りは、救急隊員であり続けることが前提だ。人の死はつきものなのだと分かってはいたが、分かっているからといって辛くないわけではなかった。
 サドルにさわったまま動かない成一の肩に、六人部の手のひらが置かれる。
「星野、大丈夫か?」
「隊長。すみません。なんか、このまま帰ったら帰ったで辛いけど、酒を飲むのも違うなと思って」
「そうだな。同じことを思っていたよ」
「ですよね。あ」
「なんだ?」
 朝の空気はやはり冷たい。たったまま話していると、あっという間に身体が冷えていく。
(思い切って、誘ってみようかな)
「あの……」
(でも断られるよなあ。こんな日だし)
「早く言え、寒いだろう」
 六人部がやさしく問い返す。少し首を傾げて覗き込む、眠たげな目。短い前髪が風になびいて、普段彼が使っているシャンプーの香りがふわりと漂ってくる。
「やっぱりいいです」
「なんだそれは。言えよ」
「もしよかったら、うちでご飯食べませんか。といっても大したものは無いんですけど。和食、好きですか?イカと里芋の煮物とか、小松菜の煮びたしとか味噌汁にご飯とか、そういうのになっちゃうんですけど、朝ごはんでもどうかなって」
 言いながら、(これじゃまるで彼女だな)と苦笑する。仕事明けの朝に、朝ごはん食べに来ませんか、なんて引かれてしまうだろうか。   
 そんな成一の心配をよそに、六人部は目を丸くしてから、破顔した。
「いいな。美味そうだ、行っていいのか」
「はい…、はい!もしよかったらそのまま、うちで休んで帰って下さって構いませんので」
「じゃあ、このまま一緒に帰ろう」
 一緒に帰ろう。
 その言葉に、成一は胸の奥がじんとした。嬉しくて、微笑み返す。
「納豆もありますよ」
「……それはいらない」
「苦手な方多いですよね、とくに関西の方は」
 眉間に皺をよせる六人部に、声をあげて笑った。

 自転車を押しながら二人で歩いて成一の家に向かった。言葉は少なく、それでも気まずさは全く無い。異動してきてから半年を過ぎ、まさに『寝食を共にしている』ため、お互いの呼吸のリズムやクセすら把握しつつあった。
「金木犀の季節は終わってしまったな」
「そうですね」
 惜しそうな声に、自転車を駐輪場に停めながら同意する。エントランスをくぐって部屋の鍵を開けると、六人部が後ろで少し笑った気配がして振り返った。
「悪い。お前の家って、想像のとおりだなと思って」
「どんな想像です?」
 どうぞ、散らかってますけど。成一の声にお邪魔します、と言って六人部が部屋に入る。交替に手を洗って、ひとまず風呂のボタンをオンにする。
「緑があって、カラフルで、片付いてそうなイメージだった。前に入ったときは、部屋の中なんて見てる余裕なかったけど。お前腹痛でもがき苦しんでたしな。――お前の世代でもレッチリ聴くのか」
「あー、あの時はそうですよね。あはは。レッチリだけじゃないですけどね。昔っから好きなんですよ、洋楽のロック」
 アメフトの衣装に身を包んだ、ロックスターのポスターを見ながら成一が言った。
「本当はフジロックとか行きたいんですけど、この仕事やってると無理ですしね」
「クラシックを聴くんだと思ってた」
「たぶんバレエでクラシックばかり聴いてたから、その反動で」
 ティファールで沸かしたお湯を使って、玄米茶を淹れた。ローテーブルの前に座った六人部がありがとう、と言って受け取り、成一は机を挟んで前に座った。
 しばらくの間、黙ってお茶を飲んだ。六人部の伏目がちな表情はやはり疲れの色があって、仕事終わりの男が色っぽいという女性の言葉を思い出してしまい、成一は困った。

 先に風呂どうぞ。そういってバスタオルを手渡す。勤務中はシャワーを浴びられず、仮眠も少ししか取れないことが多いので、夜勤明けの消防士や警察官は、帰宅すると真っ先に風呂に入るのだ。
「バスソルトとか使います?」
「そんなのあるのか。星野はマメだなあ」
「風呂でストレッチしたり、マッサージしたりするんすよ、おれ」
 ありがとう、と受け取って六人部は浴室に消えた。
 重い身体を持ち上げて、食事の用意をする。成一が料理を好むのは、細かい下ごしらえや準備で手やあたまを使っていると、心が整頓されるからだった。部屋に据え付けたJBLのステレオでラジオを流す。窓から差し込む朝の光と、流れてくるナット・キング・コールの「L-O-V-E」に、自然と鼻歌が流れた。
 落ち込んでいても、歌が流れれば口ずさんでしまうし味噌汁の匂いをかげば腹が鳴った。何があっても、身体は自然と動き出す。そのことに気付いて成一は、自分を単純で冷たい人間のように感じて落ち込む。
「おれってバカだよなあ」
「どうしてそう思う」
「わっ!びっくりした、早いですね」
「そうでもないぞ。これ、持っていこうか」
「すみません、お願いします」
 温かいご飯、きゃべつの味噌汁、小松菜の煮びたしとイカと里芋の煮物。すべて祖母が教えてくれたレシピだ。模様替えしたときにソファを処分してしまったので、ラグの上に二人、座り込んで手を合わせた。
「いただきます」
 姿勢がきれいなのは六人部も同じだ。
 ラジオのDJが何かを楽しげに話して、曲が変わる。子供のマイケルの幼い声が、『ABC』を元気いっぱいに歌っている。
「美味しい」
「良かったー、口に合わなかったどうしようかと」
 目が合うと微笑まれる。何故か突然恥ずかしくなって、成一は慌てて目を逸らした。
「さっきの曲…」
「え?ああ、LOVEですか」
「うん。結婚式で流れていたような気がする」
「誰のです?」
 聞いてからしまった、と思った。だが六人部は、美味そうにイカを咀嚼してからさらりと言った。
「おれのだよ」
「あああ……ごめんなさい」
 机に突っ伏さんばかりに低頭した成一に、六人部が笑った。
「なんでお前が謝るんだ。あの時のことは、結婚式という奇妙で重たい儀式のことで頭が一杯だったからほとんど覚えてないんだが。歌だけは、頭に残ってるんだ。妻が…元妻だが、LOVEをどうしても式で使いたいと主張していたから」
 なるほど、と頷く。成一も、ジャズは詳しくはないが、メジャーな曲はそこそこ知っていた。
「確かにLOVEはいい曲ですよ。和訳を知ってます?あれって、言葉遊びになってるんです。LOVEのLはlook at meのL~って」
「へえ…そうだったのか」
「なんなら歌いましょうか?」
「英語の先生か。……どうぞ」
 促されるままに、成一はノリノリで歌った。歌い終わった後で、(しまった、別れた妻との思い出の曲を解説したあげく、歌いきってしまった!!)と気づいて慌てた。
「わわ…すみませんすみません、なんかおれものすごく空気読めない奴でした?」
「いや、あの頃まったく分からなかった元妻の心情が、少し理解できたよ。それに、元気が出た。正直今日は少し、一人でいたくなかったから」
 いつも強くて真っ直ぐな目だと思っている、黒い瞳が翳る。男らしいのに影のあるその顔を、成一は正面から見つめた。そして思った。
(強い人が強くなるのは、きっと人からは想像もできないような苦労や、辛さがあったはずだ。そうならなければいけなかった理由が)
「わかります。今日は隊長が来てくれて嬉しかったし、助かりました」
「星野の歌も聴けたしな。上手いよな。ダンスもできるし、すごいなお前って」
「歌って踊れる公務員ですから。まー全然モテませんけどね!」
 笑い合う。マグカップに入れたあたたかいお茶を飲みながら、六人部が言った。
「お前が気づいてないだけで、沢山の人に愛されてると思うよ」
「ええー?どうしてそう思うんですか」
「たとえばこういう話になってもお前は何も聴いてこないし、詮索しない。普通はどうして離婚したのか、とか、今も会うのか、とか色々きくのにな。品があるってこういうことなのかと思う。品位のある人間は、一緒にいる人を不快にさせず、居心地よく感じさせるだろう。尊敬するし、おれもそうありたい」
 詮索したくないわけではないんだけど、と成一は内心思った。知りたい。六人部のことなら本当は、何でもききたいと思う。
「知りたくないわけではないんですよ。でも、過去ってやっぱり過去ですから。今じゃないですから。ってこれこないだ三嶋先生にも言ったんですけど、おれみたいなぺーぺーが言うと生意気なだけですよね。さしたる過去もないのに……」
 三嶋の名前に、上司の表情が驚きに変わる。
「いつの間に話したんだ。三嶋先生は、好き嫌いが激しいのに」
「え、そうなんですか?全然そんなことなかったけどなあ…。まあ確かにこう、物思いに耽るようなところはありますよね。ふと遠くを見て何か考え込んでたり…学者みたいな。でも、話しかけると結構色々と話してくれるし、笑ってもくれますよ。お顔がキレイ過ぎて、男のおれでも「ドキーン!」ってなりますけどね。話しかけずら~い鋭利な雰囲気と、いざ話してみたときの無防備な笑顔にギャップがあって、あーこの人はすごくモテるだろうなって…ちょっと失礼します」
 風呂に入って寝てしまう前にやらなければ忘れてしまうので、六人部に一言断ってから立ち上がって、観葉植物をベランダに出し、水をやった。

「グッモーニーン、今日は天気いいね~、いっぱい光合成しろよ」
「いい色してんなー、しっかり育て!」
 成一が声をかけながら水をやる姿を見て、六人部が笑い混じりに問いかける。
「いつもそうやってんのか」
「ハイ、なんか声かけてやるとよく育つってきいて。…変ですかね」
「いや、お前らしいよ」
 日課を終えて、二人で食器を洗い終える。風呂に入るので、もしよければベッドを使って休んではどうかと提案すると、六人部が眠そうにあくびをした。
「ありがとう。じゃあ歯を磨いたら、ちょっと横にならせてもらうよ」
「おれはシャワー浴びてくるんで、先寝ててください」
「でもお前はどこで寝るんだ?」
 じゃあ隣で、と言いたいところだがそうもいかない。予備の布団が一組、クローゼットの中にあったことを思い出して、「床にふとんしきますから」と返事をし、浴室に入った。

「星野」
「はい、なんですか」
「ベッド使えよ。おれが床で寝るから」
「いいですって。お客様ですから」
「でもそれ、掛布団しかないじゃないか。身体が痛くなるぞ」
「平気です、仕事中なんて椅子で座ったまま仮眠してるし、それを思えば全然」
「一応仮眠室はあるけど、ほとんど使えないよな。やっぱりおれが床で寝る」
「じゃあ二人でベッドで寝ます?」
 冗談のつもりだった。一蹴されるつもりで言ったのに、六人部から「そうしよう」と帰ってきて成一は焦った。
 羽毛布団をめくって、「ほら」と促されて混乱する。真面目な顔。どうみてもふざけているようには見えない。
「……狭くないです?」
「大丈夫だろ、言い始めたのお前だぞ」
「ほんとに行きますよ」
「来いってさっきからいってるだろ」
 下心がまったく無かったと言えば嘘になる。ベッドの端に寄った六人部が促すままに、成一は遠慮がちに隅に横になった。暖かい空気と、自分の家のボディソープの香りがする六人部が、すぐそこにいた。手を伸ばせばすぐに抱き寄せられるような位置に。
「おやすみ」
「ハイ、おやすみなさい」
 六人部はこちらを向いたまま、すぐに目を閉じてしまった。目を閉じると、張り詰めた表情は消えて、端整な男の顔になる。美しいとも可愛いとも違う顔。清潔感があって、凛とした、成一の好きな顔。
 もしも好きな女の子と、こんなシチュエーションになったらどうだろう、と成一は動揺する心で考えてみた。こんなふうに朝一緒にご飯を食べて、運よく一緒に休もうということになったら。自分はどうするだろうか。
 きっと、遠慮なく抱き寄せるだろう。手を伸ばし、耳元で好きだよとささやき、答えをもとめるかわりに見つめ合い、拒絶のサインがなければそのまま優しく服を脱がせて抱くだろう。つまり、そうなってもおかしくないような状態が今なのだ。
 そう、上司でなければ、とっくにそうしている。
(男であるかどうかは、案外大した問題じゃない)
 嫌われたくなかった。尊敬している上司に嫌われて、居心地のいい職場が台無しになるんて耐えられない。こうして一緒に眠る事ができるだけで、奇跡のようなものだ。普通なら絶対、こんなことにはならないはずだ。
(誰にでも、この距離感なのかなあ。他の人ともこんな風に……)
 だとしたら、すごく、嫌だ。
 その想像は、成一の心を黒く焼いた。じりじりと、昏い気持ちが視界を覆っていくような気がした。そして思った。ああ、これが恋だったんだなあ、と。
(久しぶりすぎて忘れてたけど、恋ってダサくて醜いんだった)
 心臓が鳴って、息が苦しい。好きな人の匂いと息遣いは、こんなにも自分をざわめかせるのか。
 目の前に置かれた手に、衝動的に触りたくなった。多くの人を救った手。そして多くの人を救えなかった手。時折成一の肩に優しく乗せられる大きな手だった。
 眠っているだろうか。もし起きていたら、どうしよう。
 その時は言い訳が大変だ。下手するとまさに大事故の大損害だ。
 それなのに自分の手が六人部の手に重なるのを止められない。
 ベッドの上で向かい合っている成一の指がまさに触れようとしたとき、六人部の手が動いた。その手は、驚きで固まった成一のあたまに触れて、やさしく梳くように撫でてきた。
「昔、結婚してた時な、犬を飼ってたんだ。茶色い柴犬……」
「は、はい」
 半分眠っているような声だった。おそらく、本当に半分は夢見心地だったのだろう。
「お前の今の顔、そいつが撫でてほしいときの顔と、おんなじだった」
 そういって、本当に無防備に、笑った。
「お前と一緒にいると安心する。……一太郎に似てるからかなあ…毛色とか」
「一太郎…?」
「飼ってた犬。離婚したとき、元妻に引き取られていったんだけど、正直言うと離婚したことよりも一太郎と散歩できなくなったことの方が、辛かったんだ」
 秘密だぞ。
 それだけ言うと、しばらくして寝息が聞こえてきた。本当に深く眠りに落ちた上司のあどけない寝顔に、成一は顔を両手でおさえて呻く。
「くっそ……今の可愛さは反則だ」
 六人部の頭が成一の首元にくるように、近づいて目を閉じた。硬くて真っ直ぐなかみがつんつんと当たって、くすぐったい。
「ほんと、好きだ。あなたのことが、すっげーだいすき」
 抱きしめたい気持ちを我慢したまま、手のひらを握りしめる。
 この興奮状態で眠れるかな、と心配した五分後には、成一もすっかり夢の住人だった。夢の中では六人部と二人で草原にいて、バスケットをもってレジャーシートの上に座っていた。
 妙な夢だった。
 ふわふわとして、手ごたえがないのに、起きた瞬間は幸福感に溢れていた。

 

 

 

 

 眩しい光りに気が付いて、目が覚めた。
 寝起きのぼやけた視界に壁掛け時計の時間がうつって、一気に頭が冴えた。夕方の4時。眠ったのは朝、10時前のことだったから、6時間以上も眠りつづけたことになる。成一の顔に当たっていたのは、窓から差し込む強い西日だったのだ。
「う…」
 あたまが冴えた理由は時間だけではなかった。上司の両腕が背中に回っている。
 ……抱きしめられるように。
 そして、成一の両腕も同じだった。
「星野…今、なんじ…」
 掠れた声はまだ目覚めかけたばかりのようで、この隙にと慌てて両腕を引き抜く。それでも六人部の腕は変わらず成一を抱きしめていて、目が覚めたはずなのに外す様子はない。
「まさかの夕方4時です」
「4時!?」
 驚いた六人部が、がばりと起き上がる。
「腹、減りましたね」
 ぐう、と正直な音を立てる成一の腹に、六人部が情けない顔をした。
「いくら夜勤明けでも、こんなに寝たのは初めてだ」
「おれもです。ジムに行き損ねました。何か作りましょうか、簡単なものでも」
 身体を伸ばしてから、ベッドを下りた。六人部は少し考えてから、いや、と首を振った。
「食べに行こう。朝のお礼に何でも食わしてやるぞ」
「いいんですか!やったー、何にしようかなあ。隊長、うちの街のこと全然知らないって言ってたから、地元の人が通ってる美味い店とかいっぱい紹介したいんですよね」
 知ろうとすることは難しい。どんなに好きでも興味があっても、入り込まれることが嫌な人はいくらでもいるし、そこに無理に足を踏みこむことは、成一もしたくない。
 だが知ってもらうことはできる。自分が好きなもの、好きな街、好きな場所。そういうものを知ってもらうことは、自らを開示しているのと同じだと成一は思う。
「ご迷惑でなければ、ご飯ついでにちょっとこの街を案内したいんですけど、どうですか?」
 床に座り込み、足を開いてストレッチをしながら問いかける。起き抜けと風呂上りは必ずやるようにしているこの運動は、すでに成一にとってクセのようなものだった。
 六人部は生真面目な顔で頷く。
「そうか、星野は由記市が地元だったな。ありがたいよ。ぜひ頼む」
「じゃあ、前乗ってたクロスバイク貸しますね。自転車あったほうが回りやすいですから。夜なんでそんなにあちこちは行けませんが」
 貸していた寝間着のジャージやスウェットを回収して、自分の分と一緒に洗濯機に放り込む。エレベーターに自転車二台と乗り込み、またがる前に腕につけたGショックを確認した。
 16時25分。六人部はダウンベストにパーカー、成一はマウンテンパーカーというお互いにスポーティな服装で、街中へ出発した。
「道は、隊長もよくご存じですよね」
「ああ。そのあたりは抜かりなく勉強してある」
「じゃあ、このまま真っ直ぐに行って大通りを真っ直ぐ南下します。駅を通り過ぎて、山手の、高台の方へ向かいますよ」
「了解」
 油断するとすぐにスピードが出過ぎるので、気を付けながら車道を走る。六人部もクロスバイクで難なく後ろをついてきて、駅の横を通り過ぎると、少しずつ坂道になってきた。
「遅くなってきたぞ、星野ー」
 成一の実家とは向かいにある高台の住宅地を、立ちこぎしながら上へ、上へと向かっていく。鍛えているだけあって、息一つ上げずに六人部は後ろから迫ってきて、ロードバイクで走っている成一を追い越していく。
「まだまだ、ここからですよ!」
 成一も本気を出して漕いだ。平日なので、一六時過ぎとあって道路に人影はまばらだ。新興住宅地であるこのあたりは、通勤通学時間以外はしんと静まり返っている。
 追い越したり、追い抜かれたりしながら、高台の上にあるひらけた広場に辿りついた。小さな公園になっていて、遊具はないが双眼鏡やベンチが置いてある。
「六人部隊長、見てください。もうすぐ日が暮れますよ」
 由記市を一望できる高台から見る風景は、晴れた晩秋の乾いた空気の中でも、息を呑むほど美しい。
 住宅と住宅の間に見えている緑地公園や川が、六人部の横顔が、成一の白いロードバイクが全て橙色になっていく。
「あの駅のあたりにある商店街に、結構美味い焼き鳥屋があるんですよ。兄貴とたまに行ったり、由記市役所に勤めてる親友と行ったりするんです」
 線路を通る電車が見える。成一はそのあたりを指さしながら、笑顔で説明を続けた。
「焼肉屋も。そっちは兄貴と一緒に行って奢ってもらいますけど。あと、商店街のはずれにあるコロッケ屋さんの、メンチカツがすっげー美味いです。コロッケじゃなくてメンチカツだけ売ればいいのにって思うぐらい。何故かそこでメンチカツ5個以上買うと、自家栽培のトマトを1個つけてくれるんすよ」
 話の内容がというよりも、成一の身振り手振りが面白いのか、六人部が頬を緩めた。
「そういう店あるよな。洋食屋なのに魚定食が一番うまいとか。あれは?」
「あれは最近出来たタワーマンションですね。景観損ねるって、地元の人が反対運動してたみたいですけど結局出来ちゃいました。駅まで五分かからないから、一番上の階は億超えるって噂も」
「景気のいい話だ」
「まったくです。おれの給料では逆立ちしたって無理ですね。…あそこの、駅から離れたブロッコリーみたいなところあるじゃないですか。あれ緑地公園です。週3回ぐらい、あそこの外周走ってます」
「ブロッコリーって。似てるけど」
「で、この高台なんですけど、見ての通り高級住宅地なんですよ。だから、洋菓子屋さんがぽつぽつあります。そこの煉瓦造りの…青い屋根のアレです、窯焼きパンのヨエはすっげー美味いです。中学の頃から、日曜の朝そこのチーズバケット買いに行くのがおれの役割でした」
「チーズバケットか。美味そうだな」
「今度買っていきますね。あとね、この街って図書館に力入れてて、あそこの…あれです。あの建物、お洒落でそうは見えないんですけど、図書館です。市民会館と市役所の出張所も入ってるんですけど。カフェ併設になってて、コーヒーを飲みながら本を読んだり、CDも借りたり聴いたりできますよ」
「それはいいことを聞いた」
「本、読むんですか?」
 意外だった。六人部の口から、そんな話を聞いたことがなかったのだ。
「ああ。古い作家ばかり読むが、好きだよ。休日は大概家で本を読んでる。大体ネット通販で買ってたけど」
「そしたら別に何もせず家に引きこもってるわけじゃないんですね?」
「当然だろ。暇すぎるだろ、それは」
「なんだ、よかったあー。家から出ないっておっしゃってたんで、てっきり」
 嬉しかった。成一は本を読まないが、六人部がただ家で無為に時間を過ごしているわけではないということが分かって、ほっとした。
「おれ、本って全然読まなくて……なんか眠くなっちゃうんですよね」
 行きましょうか。そう言って自転車にまたがりながら、成一が言うと、六人部がわかるよ、と頷く。
「元々はおれも、全然読まなかった。中学の時教師にすすめられて、少しずつ読むようになったのがきっかけだったな」
 登ってきた坂道を、ゆっくり降りていく。
「はじめは、山本周五郎を読んだ。そのあと三島由紀夫を読んで、日本語の美しさを知った。夏目漱石、谷崎潤一郎も好きだよ」
「名前は聞いたことあるんですけどね、へへ」
「無理しなくていい。お前はそのままでいろ」
 言い終わると、六人部は自転車を漕いで成一の前に出てしまう。
(なんか、すごいことを言われた気がする)
 六人部が行きたいという図書館へ、自転車をとばす。
 夕暮れ時が終わる。恥ずかしそうに顔を背けてしまった六人部の後ろに、紫と紺のグラデーションが流れていく。

 

 

 

 木のぬくもりを感じる贅沢なつくりの図書館に寄って、貸出カードを作った。お互いに腹が減っていたので、ゆっくり見るのは今度にして、最近成一がはまっているアジア料理の店へ連れて行った。
「いらっしゃいませー、お、星野クンひさしぶりだね」
「どもっす。あ、会社の上司です」
 六人部が頭を下げる。店主の女性が「大きい人二人きたねえ、跳んだりはねたりしないでね、天井に穴があいちゃうから」と冗談を言ったが、笑ったのは成一だけだった。六人部は目を逸らしたままぎこちなくカウンターに座り、黙ってメニューを見ている。仕事を離れると人見知りが激しいというのは、本当なんだなと成一は内心苦笑した。
 ベトナムとカンボジアが大好きな店主は、毎年ひと月ほど店を休んで旅して回り、現地の食材や味を勉強して帰ってくる。カウンター五席とテーブル二席の小さな店だが、安くて美味い上に一つ一つの量が多いため、一九時を過ぎると毎日満員だ。
「早く来てよかった。最近いつも一杯でフラれっぱなしだったんすよ」
「あーーごめんねえ、裏にさ、区役所が移転してきてから、おっさん山盛り来るんだよー。あ、この店、飲み物はセルフなんですよ。そこの冷蔵庫から勝手に取っちゃってください。あとメニューは壁一面にはってある汚い字を読み解いてネ、よろしく」
 ニット帽をかぶった三十路後半の店主が、にっこりと笑った。
 赤い壁紙に隙間なく貼られているメニューは全て手書きで、日替わりだ。あまりにも種類があり過ぎて選べず、いつも成一は同じものばかり頼んでしまう。
「飲み物取りますよ、ビール…あ、やっぱ種類一杯あるんで自分で見てください」
 テーブルとカウンターの間のわずかな隙間をすり抜けて、冷蔵ショーケースの前でしゃがみこむ。スライド扉をあけて、成一は自分の分の「333」ビールを取出し、栓抜きで蓋を開けた。
「見たことないビールばかりで、どれがいいのか分からないな」
「飲みやすいのはこの333とか、タイガーとかシンハ―ビールとかですね。辛いの食べるから、さらっと飲めるヤツが合いますよ」
「じゃあそれ取ってくれ」
 席について乾杯する。グリーンカレー焼きそばと、揚げ春巻き、空芯菜炒めが順番に運ばれてきた。口に運ぶたびに六人部が「辛い」「……すっぱい」「うまい」と様々な表情を見せるので、成一はそのたびに笑った。
 一九時を過ぎる頃になると、店の中は人でいっぱいになった。一人で店を切り盛りしている店主は、人間はこんなに早く動けるのか、と驚くほどに手際よく料理をし、カウンター越しに会話をして注文を取っていく。
「楽しいな、この店」
「でしょ?ミルノさんきりきり舞いですけど、それ見てるといつもすっげーなーって。たまに手伝ってますよ、おれ。食べ物運んだりして」
「助けたくなる気持ちは分かるよ」
 おそらくカンボジアの音楽なのだろう、言葉がまったくわからない、不思議な音楽が店内にずっと流れている。中年男性から、若い女性まで、様々な年齢層の客がそれぞれ自分で選んだビールを飲み、楽しげに話していた。
 飲み始めて二時間ほど経った頃、程よく酒の回った六人部が、肘をついたまま成一を見つめて言った。
「沼田さんの、家さ」
「はい」
「あれから、電気消えたままなんだ」
 消防署の正面にあるマンションなので、確かに部屋を把握していれば分かることだ。だが毎日沢山の人を搬送している中で、部屋の号数や位置まで覚えていることに、成一は驚いた。
「そうなんですか……いつ確認したんです?」
「さっき消防署の前を通ったときに、見た」
 瓶や缶の数を数えて会計するので、カウンターには飲み終わった瓶や缶がゴロゴロしていた。途中から缶ビールに切り替えて縦に積んでいった為、塔のように高々としている。
 ドイツビールのDUVELを二本、人の隙間をすり抜けて取ってきて、成一は再び六人部に向き直った。酒のせいで、いつも怜悧なまなざしはトロリと緩み、引き締まった表情は悲しげにゆがんでいた。
「よく、仕事の上では、代わりはいくらでもいるなんて言うだろ。お前のかわりなんて、いくらでもいる、とか。それは確かに半分正解だけど、半分は間違いだと思う。人間をもし、機械の歯車だと考えればそれは正しい。でもそうじゃない、それだけじゃないとおれは思う。世界の一部だって考えたら、やっぱり、死んでしまうとそれは永遠に損なわれるし、帰ってこないんだ。その欠損に代えはないし、二度と、元には戻らない」
 考えながら、かみしめるように六人部はそう言い、溜息をついた。
「沼田さんは、今どんな気持ちでいるんだろうか。孫を虐待で亡くして、娘は逮捕されて広い部屋に一人で、電気も点けず。どこか別のところに行ったんだろうか、それとも暗い部屋で、昏々と眠っているのか。気になって、しかたないんだ」
「隊長…」
「星野は知らないと思うが、突然一人になるっていうのは、本当につらいんだ。どこか遠くでも生きていてくれたら、一人ぼっちじゃない。でも死んでしまったら。前日までケンカをして、話をして、一緒に飯を食っていた相手がいなくなったら、どうしようもなく苦しい。身体がねじ切られるみたいに、寂しくて、切なくて、つらいんだ」
 返す言葉がなくて、成一は黙って六人部の横顔を見つめた。一口、手元の酒を呷ると、ビールの苦い泡が、喉を通り抜けて胃の中でしゅわりと分散していく。
「沼田さんに、会いにいっちゃダメですか?」
 成一のかすれた声に、六人部は首を振って強い口調で言った。
「ダメだ。刑事事件にもなっているんだぞ。関係者に関わってはいけない」
「…です、よね」
 組んだ指を額に当て、考え込む。何か方法はないだろうか。直接かかわるわけではなく、沼田の様子を知る方法。
(生存確認だけでも、せめて毎日できれば……あ!)
――ひらめいたその内容は、昔から使われてきたありがちな方法だったが、成一は意を固めた。やってみよう。
「お前、何かたくらんでるんじゃないだろうな?」
「まさか、そんな。たくらむだなんて」
「辛くても苦しくても、哀しみと戦ったり忘れたりするのは、本人しか出来ないんだ。余計なことをするんじゃないぞ」
「はい」
「分かったら良し」
 手が伸びてきて、成一の頭を撫でた。目を細めて笑うその顔に、胸の奥がぎゅうとしめつけられるように痛む。
(ほんと、いっそ犬にうまれかわりたい。隊長の犬になって、毎日おはようからおやすみまで一緒にいたいよ)
 でも、と思う。犬じゃないから、人間だから、こんな風に話を聞いたり、触れたりできるのだ。ご飯を作って喜んでもらったり、ベッドでぬくもりを分け合ったり、寝顔を見てたまらなく愛おしいと思ったりするのは、人間に生まれたからだ。
「なんだよ、変な顔して」
「人間っていいなあと思いまして」
 笑い声が上がる。成一もつられて笑うと、六人部が言った。
「星野はほんとうに、犬みたいでかわいいよな」
「えっ全然嬉しくないっす」
「三嶋先生が星野にお手って言ってたの、分かる気がする。おれにもしろよ、お手」
「しませんよっ!三嶋先生は……あのときちょっとさみしそうだったから、ふざけただけです」
「さみしそう?」
「あるじゃないですか、人がたくさんいても、家族といたって寂しいときも」
 祖母でかろうじてつながっていた自分の家族を思い出しながら、成一が言った。
「わかるよ。結婚してるときそうだった」
「そもそも、なんで結婚したんですか。話を聞いてる限りでは、愛していたって感じ、全然しないんですが」
 酔いに任せて、ぐいと立ち入ってみた。かわされるかな、と思った質問に、六人部は意外にも少し逡巡してから、真面目に答えた。
「憎むのも、愛するのも疲れたから。おれは、なかなか人を好きにならないんだが、好きになるとものすごく重いんだ。全部欲しくなる。他の誰も見てほしくない、口をきいてほしくない、自分だけの世界に閉じ込めたくなる。でもそんなものは当然うまくいかない。思い通りにいかないと、憎み始めて勝手に苦しむ。それなら、好きじゃない女と結婚すればいいのかなと思った。高校からずっと付き合っていて長かったしな」
「随分身勝手で、ひどい話のように聞こえるんですが」
「その通りだよ。最後に報いは受けたけどな。ある日帰ると、妻は別の男と寝ていた。リビングのソファに手をついて、立ったまま。見知らぬ男の尻を見ながら、『ああ、罪には罰がつきものなんだな』と思った。男を帰してから理由を問い詰めたら、『誰でも良かった、あなたに復讐したかった』と。離婚して……それから、一切女性は抱いてない」
 どんな言葉を返せばいいのか分からず、黙ってしまった成一に、六人部が続ける。
「最低だろ。お前が尊敬していると言ってくれる上司は、そういう男なんだ。どうしようもない落伍者だよ」
「そんなことありません。二度とそういう風に言わないでください。おれが隊長を尊敬している気持ちは、全部本物です。だいたいなんですか、ら……らくごしゃ?って。いや、いいです。ググります。でもちょっとそこ分かんなかったんで時間を下さい」
 眼を丸くした六人部が、盛大にふきだした。会話を聴いていたらしい店主のミルノも、両手で顔を抑えて笑っている。
「仕方ないでしょ、知らないものはしらないんだから!落伍者…ええっと…『大勢の人が歩むような人生に遅れを取ったり、悪い方向に行って落ちぶれてしまったりしている人のこと』って全然あってないし!全然違うじゃん、もーっ調べて損した」
「真剣な顔してきいてた割に、意味わかってなかったのか」
「そういう子なんですよ、せいちゃんて。かーわいいでしょ」
 ミルノがフォローのつもりかそう言ってケラケラと笑った。
「分かんない事は恥ずかしいことじゃないんです!分かんない事を知った顔したり、調べようともしないことが恥ずかしいことなんだってばあちゃんが言ってました」
「そうだな、そのとおりだ」
「はいはい。せいちゃん何か食べる?お皿が空っぽだけど」
「もーっむかつくなあ!何もいりませんよっ、もう帰るし」
 六人部の腕を掴んで立たせ、財布を出すと「もう払った」と言われて慌てて頭を下げた。外の冷たい風が、熱く火照った頬をするりと撫でていく。
「ごちそう様でした」
「こっちこそ、美味い店に連れてきてくれてありがとう」
 酒を飲んだので、自転車を押して二人、歩いて帰路につく。珍しく六人部が鼻歌を歌っている。月は半分だけ姿を見せていて、黒いアスファルトを照らしている。
「なんて歌ですか?珍しいですね、隊長が鼻歌」
「なんだっけ……真心ブラザーズの、そうだ、『東京ひとり』だ」
「聞いたことないなあ…今度ツタヤで借りてみよ」
「かしてやるよ。でもかなり前のアルバムだぞ。ほとんど音楽聴かないんだけど、YO-KINGの声が好きで」
 好きなひとの、すきなものをきけるのは、たまらなくうれしい。六人部の顔を覗き込んで、「他には?他には、何がすきです?」と問いかける。
「犬が好きだな。特に日本の犬。柴犬とか、紀州犬とか」
「おれも!犬可愛いですよね。あのひたむきな目がもうね…」
 自転車の車輪が回る音と、石鹸のようなにおいがする道を歩きながら、成一が言った。
「九時かあ、確かにもうお風呂タイムですね。あ、風呂もだいすきです。温泉とか。毎日入りたいぐらい」
「真夏の風呂上りに飲むビールが好きだ」
「サイッコーっすね!他には?」
「日本海側の温泉に行って海辺を朝、散歩するのが好きだな。最近行ってないけど」
「いいですね!あと、旅館のあさごはんが好きです。ごはんと味噌汁と、焼き立ての魚と…ふわー想像したら涎でてきた…」
 話していると時間はあっという間で、六人部のアパートの前に着いてしまった。
「あーあ。もっと話したかったな」
 うっかり漏れた本音に口をおさえる。
「自転車、返さないといけないからな。近いうちに行くよ。今度は手土産持って」
「は、はい!来てください、その、いつでも。次はカレーでも作りますから」
「お前カレー好きだよなー、職場でもよく食ってるだろ、カレーまんとか、カップヌードルカレー味とか」
「そうでしたっけ……」
「そうなんだよ。めん類は出動入ったら伸びるって、何度いっても星野は買ってくる」
「バカですみません」
 頭をかきながら、苦笑した。
 アパートは二階建てで、六人部は成一のクロスバイクを持ったまま階段を上っていく。
(せめて部屋に入るまでみつめていたい)
 そう思って見上げていると、不意に六人部が振り返って柵のところまでやってきた。
「星野のそういうところ、好きだよ」
「えっ?」
「おやすみ」考える間もなく、くるりと踵を返して、部屋の中に入ってしまう。
(なにあれ。おれがバカすぎてフォローしてくれたのかな)
 だが成一には見えていた。暗闇の中でも、街路灯のお蔭ではっきりと。

――背を向けた六人部の耳が、おどろくほど真っ赤に染まっていた。