16 ピース オブ ケイク(三嶋 顕の過去 Ⅳ)

 皿が割れる音が聞こえてきて、アキは布団の中で耳を塞いだ。おそらく父親が帰ってきて、また母に金を無心し、暴力を振るっているのだと思った。
 父親が捕まる三日ほど前。アキが十四歳の誕生日を迎える一週間前のことだ。その日、摂の家で父子に暖かい誕生日祝いをしてもらったせいで、家に帰るのが嫌で仕方なかった。だがそんな様子を少しでも態度に出せば、聡も摂も必ず泊まっていけと言うことは分かっていたし、無駄だと分かってはいても、母のことが心配だった。
 両手いっぱいにもらったプレゼントを、ベッドの下に隠したのは正解だったな、と思った。父はアキには暴力を振るわないが、八つ当たりで持ち物をむちゃくちゃにすることがあった。教科書を全部破られたり、洋服を捨てられたりしたことは、一度や二度ではない。
 襖の隙間から聞こえてくる大声は、酒に酔っているせいか、いつもと同じ内容だった。
「お前がおれを裏切らなければこんなことにはならなかった」
 父は母を殴るとき、道具を使うことを好んだ。箒や傘、それに布団叩きが用途を超えて使用されていた。振りかぶって、風を切る音。母の聞くに堪えない悲鳴、許しを請う声。
 殴った後、父は必ず母を犯した。床に引き倒し、下半身の洋服だけを脱がせて乱暴に行為に及ぶ。顔に紙袋をかぶせられ、口にタオルを突っ込まれた母の哀れな姿が、幼いアキの眼には人形のようにみえた。抵抗もせず、揺さぶられる白い足が、父の動きに合わせて揺れる。
「あのガキの眼を見てると胸糞がわるい。契約さえなければ、売り飛ばしてやるのに」
 本当にこれが人間なのだろうかと、アキはぼんやりと考える。どう見ても、あれは人ではなく獣だった。暴力と欲望と自己憐憫に支配された、けだもの。そして母はいつも、自ら望んで生贄になろうとする。嬲られることを楽しんでいるように、紙袋とタオルを外された彼女の口からは、愉悦に満ちた喘ぎ声が漏れるだけだ。
 どっちも同じだ――そうアキには思える。抵抗しない愚か者も、暴力でしか自己実現ができないケダモノも、どちらも人間ではない。
 その光景を覗き見ている黒い透明な瞳から、涙が落ちることはなかった。泣いたとしても、誰も助けてはくれないことを知っていた。止めに入ればますます暴力が酷くなることも。
 彼らは望んでその場所にいる。抜け出す気など、まるでないのだ。
(もうちょっとで、あのケダモノはおれの前から消える)
 松浦が警察に相談してくれることを、アキは確信していた。そして父がやがて、警察に連れて行かれて実刑判決をうけることも、量刑や判例を調べたので分かっていた。
「契約はもうじき終了だ。そうしたら、ガキを変態に切り売りしてやる。客を取らせて金をとって……薬漬けにして地獄をみせてやる。おれは悪くない、そうだろ?お前が悪いんだ。お前がおれを裏切ったからこういうことになった。そうだな?」
「やめて。私には何をしてもいいから、アキには手を出さないで」
 その声には子供への愛情ではなく、自己憐憫と自己愛しか見当たらない。
「バイタの分際でおれに命令するな!」
 父の拳がみぞおちに入ったのか、母が身体を折って床に嘔吐する。
 地獄なんて簡単に作ることができる。戦場までわざわざいかなくても、家族という美しい幻想にとらわれた箱の中には、きっと沢山の地獄がある。
 この嘘と欺瞞に満ちた日本の家族制度の影で泣いている子どもたちは、一体何人ぐらいいるのだろう、と、会った事もない同じ境遇の子供を想像しながら、アキはベッドの中に戻っていく。何も見えないように、聞こえないように、耳を塞いで目を閉じる。聡さんと摂のあたたかい笑顔を思い浮かべると、自分が冷たいケダモノで、彼らとは違う存在なのだとよりはっきりと感じられてアキは震えた。
(いつの日かきっと摂と聡さんも離れてしまうだろう。彼らは本当の親子で、おれはそうではない)
 嫌だ、と強く思った。見知らぬ男に性的な目でみられたり、誘拐されたり売春をしないかと誘われるよりも、彼ら二人に軽蔑されることが、何よりも恐ろしかった。

 

 

 

 

「松浦先生!私も三嶋君と同じ高校受かりました!やったー!」
「まさか自分のクラスから、ふたりもあそこに合格するとは。他の先生に、どんな裏ワザ使ったんだって突っつかれそうだ。ともあれ、おめでとう」
 市岡侑季が職員室に喜び勇んで駆け込んできたのは、2月末の朝、授業が始まる前のことだった。職員室で他の先生と一緒にそわそわした時間を過ごしていたら、彼女は真っ先に合格通知をもって走ってきて、僕だけではなく、隣の根岸先生にも自慢げに広げてみせた。
「市岡は元々優秀やから、松浦センセの力は関係ないわな。しかし嬉しいからってはしゃぎすぎや、静かにしなさい」
「ごめんなさーい」
 根岸にしてはめずらしく、全力で褒めている。
 確かに市岡は優秀だ。数学が苦手だったのに、三嶋と同じ高校の、同じ科に行きたいという一心で克服して、大阪府下で1,2を争う公立進学校に合格したのだから、恋心というのは実に大したものだ。
「三嶋は心配してないけど、六人部はどうだったんだろうな」
 職員室のデスクから立ち上がって、その場をぐるぐる歩き回る。先生まるで犬みたい、という市岡の呟きに「誰が犬だ」と突っ込みながら、結果を聞きに行ってもいいものか迷う。
 どのみち、進路相談は担任の業務なので、全て調査して聞きださなければいけない。だが時期を選ばなければ、もしも落ちていたとすると、今は一番ナーヴァスになっているはずだ。
「ご心配かけてすみません。通りました」
 後ろから、落ち着いた六人部の声がした。
「先生ひどいわあ。三嶋は心配してないけど、ってはっきり言い過ぎやし」
 三嶋もいた。彼は平常通りの減らず口だ。
「満点やったと思う。問題簡単すぎて、時間余って退屈やった」
 三嶋の言葉に、根岸が突っ込む。
「お前、わざと文系科目不得意なフリしとったな」
「そういうわけやないよ。手を抜いてたのをやめただけ」
 市岡が三嶋の得意げな笑顔にうっとりと見入っている。まったく、女の子はこういう男が好きなんだから困るよな、と僕は心の中で嘆く。世の中にはもっと優しくて平凡で、けれども女性を大切にする男がいくらでもいるというのに。
「しかし三嶋よ。残念だったな、成績トップで入学すると、入学式で新入生代表挨拶しなきゃいけないんだぜ。お前のきらいな『人前で話す』だよ。ざまーみろ」
「……うそやろ?」
「え、知らんかったん?まあでも舞台上の三嶋君みれてうれしいけどな、私は」
 市岡がそういうと、六人部が堪えきれない笑いを漏らした。
 わけのわからない僕の悪意だったが、三嶋には効いたようだ。彼はあんなに目立つ容姿をしているのに、とにかく目立つのがきらいなのだと、二年を通じる担任生活で熟知していた。まるで気配を消すように教室ではいつも居心地が悪そうにしていたし、文化祭などで演劇の主役を当てようとされたときは、得意の謀略でいつの間にかクラスの人気者にその役を押し付けていた。告白をされることも面倒なようで、『自分を好きそうな女子』を『人気のありそうな男子』に上手におしつけることもあった。とにかく、彼は今の平和になった学校生活を、無事やり過ごしたいのだと僕にはわかったし、その気持ちも無理はなかった。
 だが不思議なことに市岡に対してだけは、三嶋は邪険にしたり、はかりごとで気をそらそうとしたりしなかった。六人部の次ぐらいには、彼女のことを大事に思っているようにすら見えた。ただ席が近くて、他の大多数の女の子と同じように、自分にあこがれを抱いている女の子の中で、彼女の何が違っていたのかは分からない。それでも、父親が逮捕されるという衝撃的な日から少しずつ、彼は「六人部だけだった世界」を開いていった。そこにたまたま、市岡がはまりこんだだけだったのかもしれない。
「げーっ…やっぱりちょっと手ェ抜いたらよかった。やればやるほど、そいつに仕事が回ってくる。世の中の仕組みは理不尽や」
「ガキが知ったような口をたたきよって」
 剣呑な表情で、根岸先生が言った。僕は思わず笑う。
「三嶋君、私ちゃんと受かってんから、約束守ってよ?」
「何の約束やっけ」
「アキ、忘れたふりをしてもあかん。おれ、証人に選ばれてるから」
「同じ高校受かったら、アキって呼んでもいいって言った!」
「好きに呼べや」
 横柄な物言いに市岡がニヤニヤしながら「じゃあアキちゃんって呼ぶ」と返事をする。六人部が手のひらで口を覆い、笑いをこらえている。
「ださいあだ名つけんな!呼び捨てでええやろっ」
「いやや。かわいく呼びたいもん。アキちゃん、教室かえろ?」
 子供らしい約束に、僕と根岸先生は目を合わせてしまう。失礼します、と六人部が丁寧なお辞儀をしてから職員室から二人を連れ出し、彼らの声は徐々に遠くなっていった。

 

 

 

 

 親が逮捕されてしまえば、どんなにそれを隠していても、どこからか伝わる。
 子供のネットワークというのは、今のようにインターネットが発達していなかった頃でも、目を瞠るものがある。特に人を傷つけるような誹謗、中傷において、彼らはいかんなくその残酷性と純粋性を発揮した。
「三嶋ってめっちゃ頭いいけど、ろくなとこ就職できへんやろうなー、だって親犯罪者やし。可哀想にな、もうちょっとマトモな家に育ってたらなあ。あーでも、遺伝ってあるし。おまえもどっかそういう、犯罪者気質みたいなんあるんちゃう?」
 スポーツ万能な明るいクラスメイトですら、こういう言葉を平気で投げるのだ。そしてその言葉は、その事実を知らなかった周囲の子供に、瞬く間に伝わってアキをきちんと孤立させた。子供の世界は不思議で、「孤立させるべき者」というのが、絶対に必要なのだ。クラスの中にそういう人間がいることで、バランスが保たれている。
 担任である松浦は気づいていなかった。三年生に進級してすぐ、面白可笑しくアキの父親について吹聴したものがいたことを。そしてそのせいで、アキはクラスにいるのにいないような扱いを受けていたことを。六人部と市岡以外、誰も自分から話しかけようとしなかったことを。気付かないのも無理はなかった。アキはむしろ、孤独のほうがありがたかったので、まるで気にも留めなかったのだ。本人が気にしていないので、松浦が気づきようもなかった。
「じゃあ斉藤のオカンがそこのスーパーで時々万引きしてんの知ってる?お前が本屋で万引きしてんのも遺伝かな、やっぱ親子って似るっていうし」
 こういう時の攻撃には、決して手を緩めてはいけない。周囲に聞こえるように、はっきりとした声で言うのだ。「おれに危害をくわえたら、お前も同じ目にあわせてやる」。子供には上辺の反論なんて通用しない。傷をつけられたら、傷で返すのが最も手っ取り早く、確実だ。
「は!?お前嘘言うなや、おれはそんなんしたことないわ」
「フーン。でも遺伝なんやろ?」
 六人部が追い打ちをかける。獲物を見つけた狼のように、彼らは少しずつもてあそんでから致命傷を与える。弱いものをいじめようと、嬉々としてやってきた子供達は驚き、恐怖する。自分こそ獲物だったのだと思い知らされる。
「週刊少年サタデー、そんなおもろいの。毎週万引きしてるやろ、なんでかわへんの?」
「アキ、やめたれよ。たぶんこいつ貧乏なんやろ」
「そうなんかなあ。おれんちも貧乏やけど。少なくともおれは、盗んででもマンガ読もうと思うほど、心荒んでなくて良かったわ」
 部活に行く前の放課後だったので、斉藤にとって幸いなことに、周囲にいたのは今はなしているアキと、その前に座っている六人部だけだった。だがそれは、実は計算された上でのことだったのだと、後になって知る。
 斉藤の母親が万引きの常習犯であることも、斉藤が同じ悪癖をもっていることも、事実だった。何故その事実をアキが知っているのか、斉藤は戦慄した。
 ただほんの少し、傷つけてやろうと思っただけだった。アキの母親が水商売をしていることも、父親が何かの罪で警察に捕まったことも、自分が言いふらしたわけではなく、クラスのみんなが知っていることだ。ただ、誰もそれを理由に言いがかりをつけることはなくて、あんなに苛めやすそうな標的がいるのに不思議だと斉藤は思っていた。
 おまけに、自分が落ちた高校に、彼は春から通うのだ。
 毎日行きたくもない塾に何時間も行かされて、山のような宿題で偏頭痛になり、ストレスで万引きまでするようになった自分が落ちた高校に、アキは涼しい顔をして。
 彼らの座っている席の側で、サッカーボールを持ったまま立っている自分が、ひどく滑稽だなと斉藤は思った。彼らの言うようにいっそ貧しい家庭に育っていれば、開き直れたかもしれなかった。貧乏だから。お金がないから、環境が悪いから。だから高校に落ちた、そんな風に。だが斉藤の家は父が税理士でお金には困ったことが無かったし、十分な小遣いをもらっているからマンガなんていくらでも買えた。つまり、純粋な「スリルを楽しむための気晴らし」で犯罪をしていたのであって、誰のせいにもできなかった。
「ごめんな。斉藤が行きたかった高校、受かってしもて。お前の分まで楽しんでくるわ」
 アキは、側にいた六人部が見惚れるほどきれいな笑み――それは残酷なほどに慈愛に満ちていた――を浮かべて、斉藤を見上げた。
 ああ、それで誰も彼に近寄らなかったのか…。斉藤は自らの行動で思い知った。ミシマアキは美しくて、弱い、誰でも撫でたりいじめたりできる兎などではない。
 彼は鋭い爪と牙を持った、血に飢えた狼だったのだ。うかつに近寄ればその爪で引き裂かれ、返り討ちにあう。賢いクラスメイト達は、それが分かっていたから攻撃をしかけなかった。
「アキちゃん、六人部くん一緒にかえろ」
 廊下から市岡が入ってくる。クラスで一番賢くて可愛い、膝丈スカートの図書委員。斉藤も密かに彼女が好きだった。だがその視線は、一度も彼に向けられることはなかった。いつもこの、きれいな毛皮を被った、化け物に注がれていた。
(市岡、そいつにかまうのはやめたほうがいいのに)
「斉藤くん」
 教室を出て行ったアキと六人部の背中を見ていると、市岡が戻ってきて言った。
「万引き、もうしたらアカンよ。誰にもいわへんから、もうやめて」
 憐みの眼。斉藤は、自分が地獄の底に叩き落されたことを知った。
 わざとだ、と確信する。斉藤の淡い恋心を知っていて、そして市岡が自分の事を好きだということを分かっていて、利用しているのだ。斉藤を徹底的に叩きのめす、ただそれだけのために。
「市岡……三嶋とかかわらへんほうがええ。あいつは悪魔や」
 眉を寄せる。それから、意外なことに市岡は目を伏せた。
「違うよ。アキちゃんは、傷つけられすぎて、過剰に身を守るようになっただけ。斉藤くんが何もせえへんかったら、こんなことにならへんかったのに」
 斉藤は、その場から動けなくなった。彼らは全て分かっている、知っている。
 市岡も六人部も、一般の中学生が口にする薄っぺらで自分勝手な「友情」なんかじゃない。もっと奥、もっと熱くて、もっと鋭利なところで、繋がりあっている。
 誰もいない今、アキが万引きの話を持ち出したのも、「お前らとは違う」と言いたかったのだろう。

 

 

 おれはお前の秘密を知っているが、誰かに言ったりはしない。
 だから二度と関わってくるな。

 

 そういう意味が込められていたのだ。
 泣ければよかったのに、と斉藤は思った。三十人いるクラスメイトのうち、3人に軽蔑されただけなのに、こんなに胸が苦しいなんてバカみたいだ。
 窓の外で、雪が降っている。この汚い街も、雪が降ればそれなりにきれいだった。
 明日になれば踏み荒らされ、ドロドロになってしまうとしても。

 

 

 

 

 

 戸籍謄本を、横になりながら眺める。
 役所でとってきた出生情報は、内容の重要性に関係なく、無機質なフォントと偽造を防止するための不思議な模様でおおわれている。
 嫌々ながらも高校の新入生挨拶と入学式を終えて、怪我をしなくなった母親と二人帰路についた。引っ越しを何度もすすめたアキに、彼女はかたくなに首を振ったまま了承しなかったので、結局住まいは元の団地のまま、高校生になった。
 家について、団地に咲いている桜の花びらを、自分の部屋から眺める。薄桃色のそれが風にのって窓から入ってきて、アキのベッドに何枚か落ちた。
 甘い春の香り。誰も殴られず、誰も大声を上げない、ようやく訪れた静かな生活。ずっと望んでいたはずだ。それなのに、アキは蒼白な顔で戸籍謄本を眺め、呼吸すらままならない。
(そうじゃないか、とは思ってたけど。じゃあ、一体何故…?あの男は誰なんや)
 戸籍謄本の内容は、こうあった。

 戸籍に記録されている者
【名】 顕
【生年月日】昭和五×年一二月二五日
【父】
【母】三嶋 ほづみ
【続柄】男

 図書館で借りてきた、民法や戸籍法の本を急いでめくる。動揺でうまくページがめくれず、もどかしい思いをしながら、なんとか目的のページにたどり着く。

第一節 実 子
第七九〇条 嫡出である子は、父母の氏を称する。ただし、子の出生前に父母が離婚したときは、離婚の際における父母の氏を称する。
二 嫡出でない子は、母の氏を称する。

 嫡出でない子は、母の氏を称する。つまりアキは嫡出子ではなく、認知をされていない可能性があるということだ。解説本の他のページに素早く目を走らせると、こうも書いてある。

(嫡出の推定)
第七七二条 妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。
二  婚姻の成立の日から一〇〇日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三〇〇日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する。

 

 委任状を偽造して手に入れた母の戸籍謄本には、婚姻歴はない。つまり、母であるほづみには「婚姻の成立」はあり得ないので、離婚した三〇〇日後に生まれた子供(法律の穴にあてはまる子供)ではないということだ。
 母は誰かの子供を身ごもり出産した。だが、結婚はしておらず、父親は認知していない。(生まれた事を知らない可能性もある)
 そしてあのケダモノは、アキの父親ではない。
 戸籍上いかなる関係もない。全くの他人だ。

 

「やった!あいつは関係ない、赤の他人やった!よかった、あいつの血なんかおれに一滴も流れてない…やっぱりそうやったんや、そうやと思ってた…!」
 嬉しくて涙が出そうだった。あのケダモノの汚れた血が、自分に流れていないということが、アキを歓びと希望でいっぱいにした。
 だが、それも一瞬のことだった。すぐに湧き上がってきたのは、ふたつの疑問だ。
(それならば、あの男、義父はいったい誰なのか)
 ほづみの本籍地は、『東京都台東区千束』となっている。彼女の言葉は標準語なので、関西の人間ではないのだろうということは容易に想像がついた。だが、何故この場所から大阪にうつり住んだのか。本によれば、「本籍地は日本国内であればどこにでも置くことができるが、出生地としていることが多い」とある。母は法律の知識など無さそうであるから、おそらく出生地であろうと推測できる。
 彼女の両親はどちらもアキが生まれる前に亡くなっている。両親の助けが得られないから、移住したというのはあり得るとして、何故何の土地勘も無さそうな大阪の、この街だったのか。
 そして。何よりも頭の中を占めるのは、このことだった。
(おれの本当の父親は、一体誰や)
 その男はおそらく、アキに優秀な頭脳と美しい容姿を与えた。だがそれ以外は、何もせずに母子を地獄に突き落とした。養育も保護観察も、親としての義務など何一つ果たさず、どこかで幸せに暮らしているであろうその男が、アキにとって最も許し難く、心の底から憎むべき相手だった。
(あの男の始末をつけたら、次は父親の番や。絶対に探し出して引き摺り落とし、生まれてきたことを後悔させてやる)

 手中にある戸籍謄本を握りしめて、アキは誓った。その眼は怒りに燃えて赤く血走っている。
 持って生まれた鋭い牙と爪。使うしかない。やり返さなければ、永遠にやられるだけだ。それが一見平和に見えるこの世界の掟で、暴力の仕組みなのだ。
 心に巣食った獣が、猛烈な回転を始めたアキの頭脳の中で、まだかまだかと血に飢えた咆哮を上げた。