15 ピース オブ ケイク(返してくれ、と彼は言った)

 静まり返った禅寺の中で二人、座禅をくんで瞑想している。外からは川の流れる音と、聖僧が歩くたびにぎっ、ぎっと鳴る木の廊下がしなる音だけが聴こえる。
 座布団にあぐらをかき、片足だけを組む座り方をハンカフザ、というらしい。アキよりも二,三歳目上といったところの聖僧が、まるで湖のような凪いだ目で説明してから、足の組み方や手の組み方を丁寧に教えてくれた。
 丹田に力を入れ、鼻からゆっくりと、すべての息を吐き出すのです。
 柔らかい声が優しく指示をする。目は半目といって閉じるわけではなく、ななめ下四五度に向けたまま静かに息を吸い、吐く。閉じてしまえば眠気を誘うので、というのが野依聖僧の言葉だった。
「素晴らしい集中力ですね。星野さんにも驚かされましたが、三嶋さんも」
 座禅は約四十分ほどで終了する。 お試しで、ということだったので、アキは祥一と一度だけ、一緒に座禅をさせてもらったのだ。
 今日は休日だったので、朝八時に由記駅で集まり、祥一について二十分ほど歩いて、山手にある禅寺に案内してもらった。
「好きな事に対する集中力には、自信があります」
「そうですか。今日は星野さんはやや、落ち着きがなかったですね」
 祥一は警策で二度も打たれていた。どうやら彼の言葉はそれを指しているらしい。
「…三嶋先生が隣にいたので、集中できませんでした」
 アキは驚いて祥一を振り返ったが、野依は驚かなかった。
「いけませんね。煩悩を捨てるために行うのが禅ですよ」
「反省しています」
 かみしめるような真面目な口調で返事をする祥一は、いつも通り面白かった。
 ごちそうになったお茶は、とても美味しかった。寺から見える、日本庭園の美しさがそう感じさせるのかもしれない。

 11月の終わりなので、もうじき昼になろうかという時間帯だが結構寒い。
 アキは紺とオフホワイトのスタジャンを、祥一は紺色のピーコートを羽織って、禅寺から、由記駅に向かって歩く。
「そういう格好でスニーカーなんてはいていると、まるで大学生みたいですね」
 独り言のような言葉に、アキがそう?と問い返す。祥一は物思いに耽っているような、心ここにあらずといった顔で、地面を眺めながらぽつりと呟いた。
「三嶋先生、キスしたこと、怒っていますか」
「それを今きくの?怒ってたら来ないだろ」
 今日は会ったら叱ろうと思っていたのに、祥一の生真面目な話し方や男らしい声が、ワントーン下がるのを聞くと、どうしても否定してしまう。
「よかった。…じゃあ、またしてもいいですか、今度」
「祥一くん、おれは誰とも付き合わないぞ」
「……わかっています」
 何を考えているのか、手に取るようにわかる。千早のことを聞きたいが、何もきかないという約束と引き換えにキスをした為、聞けないのだろう。
 兄弟そろって忠犬だ。いっそ首にリードをつけて散歩してやりたい。
 想像すると面白くて、アキは笑ってしまう。すると祥一が目を瞠って、ギラギラとこちらを見つめてきた。
「三嶋先生の笑顔はいいですね。すごく、抱きしめたいです」
「ハアー、なんなんだ君は。頭の中お花畑か」
 閑静な住宅街を駅に向かって歩いていると、突然祥一が腕を掴んで路地へ引っ張った。慌てて後を追うと、町屋を改造してつくられている蕎麦屋が、ひっそりと看板を出していた。
「ここの鴨南蛮蕎麦が美味いんです、昼前ですし、どうですか」
「どうですかって…もうドア開けてるし選択肢ないんだろ」
「ごめんください」
「聞いてないしな」
 まだ開店したばかりのためか、店内には数人しか客がいない。無愛想な四十絡みの女性が、祥一の顔を見るなりパッと笑顔になって、奥の座敷へ案内してくれた。
「祖母がよく連れてきてくれた店なんです」
「へえ、長い事やってるんだね」
 さきほどの女性がやってきて、熱いおしぼりと暖かい玄米茶を置いて行く。ご注文は?と問いかけてアキと祥一に視線を投げた後、ぎょっとしたようにアキを二度見した。
「鴨南蛮そばでいいですか?」
「うん」
「酒はどうします?おれは明日非番なので大丈夫ですが」
「やめとくよ。ちょっと昼から見舞いにいかなきゃいけないんだ、二件ほど」
「……そうですか。鴨南蛮二つください」
「はーい、お待ちくださいね」
 入ってきたときの無愛想が嘘のように、笑顔を振りまきながら女が去っていく。暖房の効いた店内は暖かく、木のぬくもりが感じられる素敵なつくりをしている。訪れている客も皆、静かな声で話し、ゆっくりと食べている。
 上品な空間だな、とアキは思う。祥一や成一を見ていると、育ちの良さや品というのはどうしても、後から手に入らないのだと感じた。例えば、身の丈にあった、それでいて品のある店の選び方。きれいに伸びた背筋、相手の眼をみてゆっくりと話す態度。
 品のある人間とごはんを食べると、とても楽しくて充実する。だが同時に、自分のような育ちのものが、一体どう見えているのだろうとアキは不安になる。彼らからしてみれば、見た目こそ整っていても、下品な人間だと思われても仕方がない。
「お待たせしましたー、お茶も入れておきますね」
「ありがとう」
 きれいに盛りつけられた鴨南蛮蕎麦は、かおりがよくてとても美味しかった。出汁がよくきいていて、鴨のうまみとコクがしっかりでていて、それなのにくどくない。
「すごく美味しい」
「良かったです」
 祥一が微笑んでいる。ふと浮かんだ疑問を、思い切って投げてみた。
「もしかして、祥一君ってご両親のことあんまり好きじゃない?」
 立ち入った質問だな、とすぐに後悔したが、祥一は「まあ、そうですね」とすんなり認めた。
「変な事きいてごめんね。おれもそうだから」
「え?」
「両親があまり好きじゃないという話。日本ってさ、家族主義だろう?生きづらいんじゃないかとおもって」
 蕎麦湯はどうされますか、という祥一の質問に首を振って、お茶を飲んでから言った。
「…よく分かりましたね、どうして?」
「君の話には、弟と祖母しか出てこない。家族がいるのに不自然だと思ってさ。まあ、成人した男には珍しいことじゃないけど、ちょっと頑なな意志を感じたからね」
 他人の気配を感じて、そこで話すのをやめる。先ほどの女性がやってきて、サービスだといって、アイスクリームを添えたわらびもちを持ってきてくれた。アキが笑顔で礼を言うと、彼女はそれを待っていましたとばかりに嬉しそうに頷いて、去っていく。
「あと、これこそ怒られそうだけど…君は弟に、せいちゃんに対してコンプレックスを持っているように見える」
 祥一が、珍しく視線をそらす。言わなくてもいいことを言ってしまったという罪悪感が、アキの中にじわじわとシミを作って、ごめん、と小さい声で謝罪した。
「謝らないでください。本当のことです」
「余計なこと言った。聞かれてもないのに、ごめん」
「いいんですよ。うちは昔から、母と子供の関係が上手くいっていないんです。家はどちらかといえば裕福だったと思うのですが……母は良くも悪くも、自分に素直な人でした。自分の生き方に賛同するものしか側に置こうとしなかったし、成一はその犠牲になったんだとおれは思っていたんです。助けないといけないと使命感を持っていました。ですがそれは、おれの勝手な思い込みだったんです。成一は、自分勝手な母を理解しようとしていました。そして愛されようと素直に努力していただけなんです。おれは…そういう成一を助けるという名目で、引き離したかっただけかもしれません。素直に愛されようと、他者から好かれようとする弟の性質が、妬ましかった。いつもおれは弟には勝てないと思っていましたから、コンプレックスだと言われれば納得です。そうか、そうだったんですね」
 頷いている祥一に、アキは素直に感心した。
「図星をつかれると人は怒るものだけど。祥一君はすごいねえ」
「何故怒るんです?真実を言い当てられて、むしろすっきりしましたが」
 確かにこの兄弟は似ていないな、と思った。そしてどちらも違って、どっちもいい。
「祥一君のそういうところ、すごく好きだよ」
 深い意味なくいった「好き」という言葉の威力は絶大だった。祥一はみるみる間に耳まで真っ赤になって、「からかわないでください」と怒ったような声で言った。
「ごめん、そういう意味じゃなくて…ごめん」
「謝ってばかりですね、先生は」
「そういや摂が、せいちゃんの口癖も「すみません」だって言ってたな」
「もう一つありますよ。あいつ焦ると、『いやいやいや!』って手と首を振るんです。とても器用な動きだなと、いつも感心しています」
「着眼点おかしいだろ。器用とかそういうところじゃないだろ、みるべきところは」
 声をあげて笑う。つられるように、祥一も頬をゆるめた。
「摂というのは、六人部摂司令補のことですか。弟の上司の」
「固いなー言い方が。そうだよ、こないだ少し話したときにね、せいちゃんのことを聞いたから。ちなみにせいちゃんが急性虫垂炎になったときね、部屋にいったのおれと摂だよ」
 慌てて祥一が頭を下げる。
「お礼が遅くなり申し訳ありません。その節は、弟が大変お世話になり、ありがとうございました」
「どういたしまして。年末年始のあいさつみたいだな、なんか」
「六人部隊長とはどういう?」
 話していいのか迷ったものの、いずれ成一から話を聞くかもしれないと思い、アキは簡潔に事実を伝えた。
「同郷の幼なじみ。でも摂は、あまり地元のことを思い出したくないだろうから、会う事があってもその話はやめてあげてね。この年になってくると、いろいろあるんだよ。特に故郷から離れて、こんな遠くに住んでいるような人間はね」
 タバコを吸っても構わない?とアキが視線で伺うと、祥一が灰皿を取ってアキの近くに置いた。アキはタバコを取出し、いつも通りの手順で肺にニコチンを送り込む。できれば死ぬ前の一瞬も、こうしていたいものだと思いながら煙を吐き出す。
「年なんて4つしか変わりませんよ。おれは30ですから」
「それはそうなんだけど」
 話を戻すとね、とアキはタバコの灰を灰皿の中に落とす。
「日本は家族主義だという話をしたよね。それは、『家族というのは家長を中心に支え合い、愛し合わなければいけない、家族というのは円満であるものだ』っていう化石みたいな価値観のことを言っているんだけど……そこに苦しんでいるのは、君だけじゃない。あの千早だってそうだし、おれだってそうだし、きっと日本中にたくさんいる。現実を知っているから、汝家族を愛せなんて、おれはいわないよ。でも血のつながりをなかったことには出来ないんだ、だから、いつか向き合わないといけない。向き合って、決断をするときがくる。おれの言っている事、わかる?」
「わかります、よく」
「そっか。おりこうさん!」
 アキは小児科で入院している子供たちに、時折勉強を教えている。難しい算数の問題で、正解を見つけた子供達にそうするように、祥一の頭をわっしわっし撫でた。
「弟コンプレックスに逃げてる場合じゃないよ。苦手なものには自分から向かっていって、ちゃんと話をしなきゃな。その上でもダメなら、さよならするだけだ」
 さあ、そろそろ行かないと。そういってアキが立ち上がり、お勘定をと店主に声をかける。こないだお茶をごちそうになったから、ここはおれが出すね。そういってさっさと伝票を持って行ってしまって、祥一は財布を手に慌てて追いかける。
「今度さ、由記市で一番おいしいケーキ屋さんに連れてって、好きなやつ買ってよ」
 お金を出そうとする祥一に、アキが笑いながらひらひらと手を振る。
「わかりました。調べておきます。なんでも食べてください」
「やった。やっぱりかかりつけケーキ屋は、いつだってどんな街だって必要だからね」
「それをいうなら行きつけでしょう」
「わざとだよ。おれは医者だから、かかりつけを持たないと」
 店を出て、駅へと戻りながら歩く。
「分かったんですが。キスをしたいとかやりたいというのは、二の次なんですね。いや、やりたいんですけど、とにかくあなたに近づきたいんですよ。近づいて、あなたに直接触りたいし、抱きたい。誰よりも一番側であなたの声がききたい。その気持ちの延長上にそういう、キスとかセックスがあるんだなって」
 吹き抜ける冷たい風に首を竦めながら、アキが振り返る。
 人気のない住宅街から、少しずつ人の気配のする駅近くへ向かっている最中に、言うべき言葉ではなかったが、アキはそれを責めなかった。ただ少し、困ったような顔で笑った。
「ほんま、きみら兄弟は真っ直ぐすぎて、時々羨ましくなるわ」
 秋の終わり、日差しを受けたアキの顔は、どこまでも白い。眩しそうに目を細めているその表情と、正午を過ぎた強い日差しのせいで出来上がった光と影のコントラストに、祥一はしばし目を奪われた。
「あの、三嶋先生!」
 駅の改札をカードで通って行ったアキの後ろ姿に、声をかける。
「あなたは苦手だった家族と、どうなったんですか」
 休日の昼間、由記駅は乗降者が多く、誰も祥一に注意を払わなかった。皆それぞれに目的地があり、たくさんの人々が、電車に乗ったり下りたりして過ぎ去っていく。
 祥一の言葉にしばらくの間目を伏せていたアキは、寂しそうに笑って言った。
「おれは、失敗したよ。失敗して、捨てて、逃げてきたんや。祥一君にはそうはなってほしくない。頑張って」
 人ごみの中に、アキの後姿がまぎれていく。
 ごう、という風の音と共に、東京行きの電車の到着を告げるアナウンスが、駅の中に響き渡った。

 

 

 

 その病院は、東京都中央区にあった。
 ナースステーションで病室を上手くききだして、アキは目的の人物の前に立つ。四人部屋だったが、他のベッドはすべてカーテンをされていて、密やかな息遣いと機械の作動音以外、何も聞こえない。
「…生野倉之助さんですね?生野千早の祖父でいらっしゃる」
 たくさんのチューブに繋がれたその姿は痛々しいが、アキは決して目を逸らしたり表情を変えたりしない。仕事柄慣れているというのもあったし、そういう生半可な同情が患者をどういう気持ちにさせるか、よくよく分かっているからだった。
「なんだ、おめえは」
 酸素マスクはされていない。声はしわがれているが、治療内容から想像していたよりも、ずっとしっかりしていた。
「千早さんの友人です」
「へっ、あいつに友人なんぞいるとはな」
「不思議はないでしょう?まだ若いんですから。それにとても多才で、人に愛される部分がたくさんある。おれと違ってね」
「よく言うぜ、悪魔みてえなキレイな顔して……ゲホッゲホッ」
 ベッドの側に置いてあったパイプ椅子に腰掛ける。千早の祖父は疲れで血走った眼で厳しくアキを睨みつけた。
「千早さんが入院しました。肺炎です。それを知らせにお伺いした次第です」
「おーおー、死にかけの病人にわざわざありがとよ」
「私があなたなら知りたいと思うからお伝えに来ましたが、違いましたか?週に三度も見舞いにくる彼が来ないことを、何とも思っていないなんてことは無いですよね」
「あんなバカ孫、知るかってんだ」
「心配しないでください。今日退院の予定ですから。今からそれを手伝いにいくんです」
「してねえよ心配なんざ。バーカ」
 やせほそった腕に、細い首。だが目は力を失ってはおらず、アキの言葉に先ほどまでの敵意は身をひそめ、代わりに哀しみのような色合いが見え隠れする。
「用事はそれだけか」
「はい」
「なら帰れ。口を開くのも億劫なんだよ、この抗がん剤とかいう毒のせいでな!」
「また来ます」
 倉之助は唯一動かせる顔を背け、窓のほうをじっと眺めた。そこに染みでも探すように、頑なに見つめ続ける。
 来たときと同じように、アキは静かに立ち去った。
 足音が廊下から遠ざかるのを確認してから、倉之助は、重い後悔を吐き出すようにゆっくりと溜息をつく。そして、唸るように、掠れた声で言った。
「……あのバカたれが」

 

 

 

 

 倉之助の病院を出てから、タクシーで、今度は千早が入院している病院へと向かった。重病人が多い倉之助の病院とは違って、そこか明るく開放感のある病室で、千早以外の入院患者はすでに退院した後だった。
「手伝いに来たー」
「アキ」
 荷物をまとめている千早が、硬い表情のまま顔を上げる。アキは構わずに片づけたり、ゴミを捨てたり、こまごまとした雑用を率先して行った。
「菓子折り。これをナースステーションにもっていくことの大切さを、君は知らないだろ」
 アキはとっておきの焼き菓子を、いそいそとナースステーションへと持っていく。はじめは固辞した彼女たちも、「忘れ物ですから」といってアキが置いて行くと、頬を緩めて「それじゃあ」と受け取ってくれた。
 ボストンバック二つ分、いっぱいの荷物を一つずつ持って、病院の前でタクシーを拾う。支払は既に済ませてあることを告げると、千早の表情はますます強張ってしまった。
「千早、怒ってる?」
「怒ってるし、情けなくも思ってるよ。こんな……金のことで赤の他人に助けられるなんてさ」
 吐き捨てるようにそう言って、アキの手からボストンバックをひったくり、自宅への階段を駆け上っていく。アキはタクシー代を払って、その後を追う。
 部屋の中に入ると、千早がどこかに電話をしていた。
「ええ、そうです。ピアノを売りたいんです。スタインウェイの、年代物ですよ。もちろん本物の……はい、査定にはいつ来てもらえますか……あっ!」
 アキが携帯電話を取り上げて電源を切る。
「何するんだよ!こうでもしないとお金を返す算段がつかないんだ!」
「そこまで急いで返してくれなくていいし、そもそも貸した覚えはないよ」
「恵んでもらうぐらいなら死んだ方がましだ」
「売ってどうするんだよ。ピアノが弾けなくなって、それで?」
「知るかよ。身体でも売るさ、こう見えても女性にはモテるんでね」
 頬を打つ音で、言い争いの声はとまる。千早は信じられない、という顔で、アキを見下ろした。
「じゃあどうしたらいいんだよ?本当に分からないんだ。アキに……アキに迷惑をかけたくない。借りだって作りたくない。他の誰かならともかく…あなたにだけは嫌なんだ」
「なぜ?おれが好きでやったことなのに。見返りなんて何も求めてない、おれを利用すればいいじゃないか。おれだって、くすぶってる古傷を舐めるためにお前を利用してる。前に千早が言ったとおりだよ。情けなくて汚い大人だよ。千早は、おれを利用して、踏み台にすればいい。おれが望んでいるんだから」
 いつの間にか傾いたらしい夕暮れの色が、部屋の中をいっぱいにする。千早が手放そうとしていたグランドピアノも、壁いっぱいの譜面も、コンクリートの壁も同じ色になっている。
「もし、何かで返したいとおもっているなら。金じゃないもので返して」
 アキの両手が千早の首の後ろに回る。誰しも理性を失ってしまう、ふしだらでこの上なく美しいまなざしを、長いまつげの隙間から注がれた千早は、声もなくその顔に見惚れた。
 ケダモノが獲物を前にしたときの、唸り声に似たものが、千早の喉の奥から漏れた。黒くて柔らかいアキの髪を強引に右手で掴んで引き寄せ、魂ごと奪い取るみたいに、激しく口づけた。舌を追いかけ、甘く噛み、歯列の裏をなぞる。閉じられたアキの瞼が震えて、官能で目尻が赤く染まっていくのを、千早は下半身の高ぶりと同時に認識する。
「じゃあ、望み通りにしてやるよ。この期に及んで優しさなんて期待すんなよ」
 唇から離れる。上がった息と、顎を伝うイヤラシイ唾液と、苦しげな表情。全てにこの上なく欲情した。滅茶苦茶にしてやりたい、この取り澄ました美しい顔を、唾液と精液と涙でドロドロにしてやりたい、泣いて許しを請うまで抱きつぶして、社会的地位の高さと真逆の、性的モラルの低さをあざ笑ってやりたい。
 想像しているだけで、千早の局部は硬さを増した。汚す楽しさがこんなにも性的興奮を煽ることを、知らなかった。
 アキは何も言わずに下半身を密着させて、自分の高ぶりを知らせてニヤリと笑う。
「好きにしていいよ、千早。気の済むように、していい」
 腕を掴んで寝室に連れ込み、ベッドの上に突き飛ばす。まだ明るい室内で、一瞬、アキの顔が悲しそうにゆがむのが見えたけれど、千早は知らないふりを決め込んで上衣を床に脱ぎ捨てた。

 

 

 

 

「あの男とはどこまでしたの?」
 手首をネクタイで縛られ、裸で仰向けに転がされたアキが、苦しげに首を振る。
「誰の事いってんの」
 ローションで濡らされた局部を、千早の指がもてあそぶようにゆるゆると扱く。たまらず漏れた吐息と悩ましい声を、逃すまいと千早の唇で塞がれ、奪われる。
「ん…っ…はや、千早…」
 乳首にあてられたローターが低い音をたてている。テープで固定されたそれは、ずっともどかしい刺激をその場所に与え続けていて、達するほどの強さをくれない千早の指に、アキの頭の中は「いきたい」という言葉で一杯になっていた。
「お願い…もっと、強く…!」
「質問に答えたらね。ほら、おれが肺炎になったとき、アキが呼びつけたガタイのいい色男だよ。正しさを絵に描いたような、気にくわない目をしてるあいつさ。どこまでやった?ここはもう触らせたの?」
 千早の指が、尻の間へとのびていく。ローションと先走りで濡れそぼったその入口を、撫でるように指が往復した。ピアノを弾く、繊細な千早の指のいやらしい動きに、アキは羞恥心と興奮で真っ赤になる。
「や…嫌や…」
「嫌じゃないでしょ、こたえになってないよ。ねえ、どうなの」
 指がアキの中に侵入して、ぬぷ、ぬぷといやらしい音をたてて中へと割って入る。
「さわってるわけ、ない…!あっ、や、やめて、千早…」
「ふうん。じゃあキスぐらいはしたのかな?」
 大きく開かれた足の間で、千早に薄く笑いながら問いかけられ、アキは普段真っ白な体を薄桃色に色づかせながら、屈辱と興奮に身を震わせた。
 問いかけながらも答えなど待たずに、千早は指を動かしながら、アキの性器を口に含む。根本から舐め上げ、裏筋を丁寧に愛撫して、舌先を細めてカリの部分を刺激する。泣きそうな声をあげて、アキが涙を流す。
「ああ千早、お願い……!」
「いい顔。あとでいっぱいぶっかけてあげるね。…キスはしたの?ねえ」
「し、した……キスだけ…」
 付き合っているわけではない。アキを愛しているわけでもない。
 それなのに千早の頭の中は、怒りで真っ赤になった。
(アキの唇に、あいつが、キスしただって)
 指を折り曲げて、前立腺の部分をグリグリと押すと、あられもない声をあげてアキが懇願した。
「お願い、いかせて、千早ァ…!!お願いやからあ」
 性器の根本を握られているせいで達することができないのだ。千早はその痴態に、背筋がぞくぞくするほど興奮した。すでに達する寸前までに興奮し怒張したものを、アキの濡れそぼった穴にあてがう。
「良かった?あいつとしたキスは、どうだったの」
 両手でアキの足を大きく開いて、一息にねじ込む。
「ああああ!あっ…や、いく……千早、いっちゃう」
 せき止められていたものを開放されて、アキは身体を痙攣させて激しく達した。我慢させられていた精液が激しく飛び散って、自分の顎にまで飛んでしまう。
 その様子をみながら、千早は腰を動かしはじめる。あまりにもいやらしい表情に、挿入と同時に射精感が襲ってきて、眉を寄せて堪える。
「よかったのかってきいてんだよ。どうだったの、あの育ちのよさそうな、苦労知らずな男にキスされて、愛をささやかれて。嬉しかったの?優越感に浸れた?」
 正常位で足を大きく開かれ、パンパンと音を立てて突き入れられながら、たちまちアキの興奮は再燃する。達したばかりの身体はすぐに熱を持ち、残酷な微笑を浮かべた千早の言葉に、背徳感と性的興奮が抑えられない。硬い、血管が浮き上がった千早のものが、アキの狭い入口を何度も往復しては、泡だったローションが尻をつたってシーツの上に落ちていく。
「あ、あ、ああっ、ちはや、きもちいい…ちはや」
「アキ…アキ…ッ」
 激しいピストン運動にベッドが軋む。ベッドのスプリングが苦しそうな悲鳴をあげて、コンクリートの部屋に響く。
「く…!」
 達する寸前で引き抜き、身体を起こしてアキの前髪を掴む。涙と涎で汚れた顔に擦りつけるように、千早は精液を吐き出して白く汚した。
 恍惚とした表情を浮かべてそれを受け止めるアキに、千早が興奮のにじんだ声で言う。
「後ろを向けよ」
 強引に身体を裏返され、腰を掴まれ引き寄せられる。たった今射精したばかりなのに、千早の局部はもう半分たち上がっていた。
「アキの中で大きくしてもらおうかな」
 後ろから、肩に噛みつかれて悲鳴をあげる。血がにじむほど強くかまれて、驚いて振り返ると千早は相変わらず笑っていた。
「気を失うまでやるとして、何回できるかな。今夕方だから…、五回は軽いよね」
 縛られた両腕を後ろに引っ張られ、うめき声をあげる。すっかりほぐされた場所に、千早がゆっくりと侵入してきて、耳たぶを舐め、甘噛みする。
 興奮と恐怖がないまぜになった、千早とのセックスに、アキは没頭しようと目を閉じた。

 

 

 

 

「……お前、その肩」
 その日の勤務を終えて、着替えている時だった。スクラブをランドリーボックスに入れてから、佐々木の食い入るような視線に気づき、しまった、と思ったときにはもう遅い。
 肩に残った傷跡は、情事から一週間が過ぎてもまだカサブタのままだった。ずっと用心していたが、疲れから油断して、佐々木に見られてしまったのだ。
「おい。それはいったい何なんだ。犬にかまれたなんて言うんじゃねえぞ」
「あはは、佐々木先輩さすがですねー言い訳も先手取っちゃうなんて」
 それ以上見られないように、素早くインナーを着てセーターを羽織る。セルリアンブルーのカシミアセーターは、肌触りがよくてお気に入りだ。
「おい三嶋」
「ちょっと激しいセックスをひとつ」
 一部真実を交えた嘘の方が、人をだましやすい。頭をかきながら向き直ると、佐々木はあからさまに眉をひそめた。
「お前、最近仕事中も様子が変だぞ。まあ支障はきたしてねえし、そのあたりはさすがだと思うけどよ。でもな、なんつうか……言えよ?」
「何をです?」
 色あせたブラックデニムに、ワインレッドのダッフルコートに袖を通す。佐々木は腕を掴んで、ちゃんとこっちを見ろ、と促してきた。
「なんか悩んでるなら、言えっていってんだよ。おれはお前の保護者みてえなもんだろ」
「あはは、保護者。言い得て妙ですね」
「ふざけてんじゃねえ!」
「ごめんなさい。本当に、なんでもないんです」
 佐々木はまじまじとアキの眼をみつめ、黙り込む。
「申し訳なさそうな顔、してんじゃねえよ」
「え?」
「お前気付いてないだろ。嘘つくときな、すげー顔に出てるんだぜ。申し訳ねえけど、許してくれってな。三嶋は根本的に、正直な人間なんだ。人よりちょっと小綺麗で、賢く生まれちまっただけで」
 心がずきりと痛んだ。そんなこと、今まで知らなかった。
 言われたこともなかったからだ。
「佐々木先輩…」
「いいんだよ、おれは別にな。お前がいいたくねえなら。でも、味方はいるんだぜってことだよ」
 ため息をつき、頭を掻きむしってから、佐々木は言った。 
「お前が好きだった幼なじみって、六人部隊長だろ?救急隊の」
 とうとう聞かれてしまった。気づかれているし、いつか聞かれるだろうとは思っていたが、アキは息を呑む。
「違います」
「へ、嘘が下手だっていってんだろうが。あのなあ、セックスなんて男は誰とだってできるし、へるもんじゃねえけどよ。好きな相手とするのは、全然別もんなんだぜ。性欲だけでするのとは、もう全くべつもんだ。だからよ、なるべくそういう風に使うべきなんだ。くせえ話だが、愛があるからセックスをする、そういう風にしとかねえと、本当にやりてえ奴とは一生できなくなるぞ」
 佐々木の声をききながら、更衣室のドアを開けていたアキが、勢いよく振り返る。
「そんなの、どうせ一生できない。おれは、あいつに嫌われているんですから」
 呼び止める声をとおく聞きながら、アキは走った。走って、その場を後にする。
(……父さんを、返してくれ)
 あの時の摂の声が、アキの頭の中でこだまする。胸が引き裂かれるような、静かで悲痛な声だった。大声じゃない分、余計に深く責められているのだと感じた。
(父さんを返してくれよ、アキ)
 頭を振る。
 夜の病院から抜け出し、車を走らせても記憶は追いかけてくる。消えない。忘れさせてくれない。

 

(返せよ!!)

 

 あの日、後悔に咽び泣いた自分の声が、聞こえた気がした。