14 Ambulance!(出動、DMAT)

 退院してきて、仕事に復帰してからもしばらくは、大友と六人部に助けられる日が続いた。幸い連休を挟んでいたので仕事に穴をあけたのは3日ほどだったが、開腹手術だった上、7日間も入院していたので、少し走るだけで息が上がるのだ。
 その日も、朝から飛び込んでくる出動指令に走るのが遅れてしまい、救急車に乗り込んで腕時計をみると、1分30秒かかってしまった。
「すみません!」
大声で謝罪すると、何故か大友がふふふと笑う。怪訝に思ったものの、迷惑をかけないように必死だった成一は、出場が一段落する昼過ぎまで聞けずにいた。

「あのー、大友さん」
「んっふふふふ、なに、ほしのっち」
 何かメモのようなものを見ていた大友が、慌てて後手に隠す。うしろに回ってそのメモを確認すると、小さなメモ帳に「正」の字と日付が書き込まれている。
「あっ、えへへ、見つかっちゃった、隊長みつかっちゃいましたー」
「仕方ありませんね」
「なんですかそれ」
 自席で書類をまとめていた大友と六人部が、にやりと笑う。
「きょうほしのっちが「すみません」っていった回数数えてたんだよお。ほら、もう朝から22回もいってるねえ、すみませんのバーゲンセールだよお」
 隣で六人部が口をおさえている。ものすごく笑いをこらえていた。
「ちょっ、もおお!なんですかあ!」
「謝りすぎだろって思ったらついつい」
「星野、口癖だよな。すみません、と、いやいやいや!ってやつ」
 六人部がこちらをみながら、眉を寄せて笑っている。その表情をみると、腹がたつどころか嬉しくなってしまって、成一は唇をとがらせて「はあ」と言っただけですませてしまう。
「病気なんか誰でもかかるし、そういうときはちゃんと応援体制が組まれるからね、そんなに気にしなくていいんだよ」
 大友がにこにこしながら、成一の肩をたたく。優しい言葉に、涙ぐみそうになった。
「す…すみません…あっ!ああああ…」
「23回目だな」と六人部。
「それにしても、三嶋先生と知り合っててよかったね。あの日、大きい火事があってさ、二次選定病院はいっっぱいだったんだ。幸い三次選定にあたるような重度熱傷はなかったから、ちょうど救命センターだけはあいていたみたいだよ」
「腹膜炎を起こしかけてたみたいで、腹部外科手術に強い三嶋先生も執刀してくださったそうなんですが。本当に助かりました。今度お礼をしなくちゃいけませんね」
「こないだささっちゃんに聞いたんだけど、三嶋先生医大のときさ、外科学の成績トップだったらしいよ。ちなみに入試もトップで、卒業も主席だったらしい」
 知らなかったのか、六人部が驚いて「へえ」と声をあげている。成一は遠い世界の人を思い浮かべるような顔で、「うわー、すごいですねえ…」と呟く。
「前の病院で、なんかいろいろ政局に巻き込まれちゃって、悪い噂流されて居心地悪そうにしてたところを、声かけたみたいだね。それでも何度も断られて、MSFに行ったりして会えない時期も経て、今があるらしいよお」
 消防隊が署の周りを走るときの、威勢のいい掛け声がきこえてくる。彼らはフル装備のまま、三階建ての署の非常階段を十往復したり、訓練用に設けられたロープを、腕の力だけで登ったり降りたりするのだ。その様子を何度かみたり、消防隊員で同期の新島が泣き言をいうのをきいているうちに、彼らには彼らの辛さが あるのだと成一は思うようになった。
「口説き落としたって、そういう意味だったんですか」
 成一の言葉に、大友が頷く。
「うん。由記市の救急医療にとって、すごく心強いよね。正直ありがたいよ、元々ここの救命センターは崇高な志のある素晴らしい病院だけどさ」
「確かに、現在の井之頭センター部長になってから飛躍的に良くなりましたね。本来救命センターとは、医師とはこうあるべき、という明確なビジョンと、それを叶えるための努力を惜しまない方ですから」
 六人部が続ける。新参者ともいえる成一は、まだ井之頭のことを良くは知らない。
「由記市の救命センターは、まだそんなに古くないですよね」
「ああ。市大病院は昔からあるが、救命センターは歴史にするとまだ八年ほどだな。だが、紆余曲折あったよ。初代救命センター部長は色々と問題のある方だった。彼が更迭されて、副部長だった井之頭センター部長が就任されてから、抜本的改革がなされて今の体制になった。救急科、ICUのメンバーがほとんど入れ替えられたのもその頃だ。救急隊員への訓練にも、部長自らお越しくださり、ご教授頂いたりもした。現在も年に1回、救急救命士を対象として、救命センターで講習会を開催されているよ。今年は星野も行くといい」
 珍しく饒舌な六人部に、成一は笑顔で「はい!」と返事をする。
 六人部は嬉しそうに笑ってから、書類仕事に戻った。
 
 
 
 
 

 昼食を取っている間は、幸い呼び出しがなかったので、3人はたまった公文書の整理をしていた。外は秋晴れで、少し肌寒い。10月の終わりにさしかかると、さすがに少しひんやりとした空気を肌で感じるようになった。
「そうだ、野中さんがこないだ、署にきたよお」
 なんとか書類の整理を終え午後二時過ぎ、車庫で救急車の装備を点検していると、大友が思い出したように言った。
「野中さんって、あの、講習会のときの女の子ですか」
「そうそう。んとね、差し入れ持ってきてくれてね、そういうの、本当は断らないといけないんだっていったんだけども、あまりにも美味しそうなエクレアだったからね。落し物ということにしてね。ありがたくいただいたよお」
 おいしかったなあ、あれは。大友が丸い顔を嬉しそうに綻ばせるのが面白くて、成一は笑った。
「まあ、落し物なら仕方ないですね。で、用事はなんだったんです?」
 救急車に乗せてあるガーゼなどの消耗品を点検し、補充しながら、成一が尋ねる。すると大友は、周囲に六人部がいないことを確認してから、耳打ちしてきた。
「用事というかね、僕のカンなんだけども、あの子は多分隊長にほの字じゃないかな~~~って」
「ほの字っすか、もうなんか使われることすら少ない表現ですね」
 少し動揺しながら、成一が返す。驚いたせいか、手元にもっていた資機材が滑り落ちそうになって、すんでのところでキャッチした。
「でも、どうしてそう思うんです?」
「カンとしか言いようがないなあ。でも僕のカンって、わりとよく外れるんだ」
「ダメじゃないですか」
 笑い混じりに成一が言うと、大友がうーんと腕を組んだ。
「野中さんって、淡々としてるじゃない?年齢のわりに落ち着いていてさ。あのぐらいの年の子って、もっとこう、キャピキャピしてそうなのにさ」
「ほの字の次はキャピキャピですか」
 声が震える。大友はかまわずに続けた。
「隊長と似たところあるなって、思うんだよね。だからあうんじゃないかなーって。まあ、かってに思ってるだけだけど」
「ああー確かに。話し方とか似てますけど」
どうなのだろう。恋愛において、似た者同士というのは、どちらかというとあまり惹かれないのではないのだろうか。
 成一は、自分に似ていない人が好きだ。これまで付き合った女の子も、自分とは正反対のタイプの子ばかりだった。似ている子とは、恋愛関係にはなりにくいし、なったとしても継続しづらい。
「ほしのっちは、好きなタイプとかあるの?ちなみに、僕はエッチな女の人がすきだなあえへへへ」
「わかりやすいですねえ。うーん、タイプ…タイプですかあ。どちらかというと、落ち着いていて自分をきちんと持っているひと、ですかね」
「流行に左右されないぞ!みたいな?」
「んっと、それもありますけど。自分の考えで行動できるひとがすきです。周りがこういうから、とか、こうしろといわれたから、というタイプは苦手ですね。失敗してもいいので、自分できめて、自分で行動して、そこから学びとれるような。尊敬できるひとがすきです」
「ああー、何食べたい?ってきいたら、すぐ「インド料理!」とか出てくるようなひとがいいってこと?」
 大友が手を叩きながらいう。成一が笑いながら同意した。
「そうです。なんでもいいよーとかいうタイプの子は苦手ですね。デートするにしても、一から十までこっちがデートコースきめてお膳立てしないと機嫌悪くなる子とか、めんどうくさいですし。提案はしますけど、いつも全部決めるのは正直勘弁してほしいです」
「年上の女性とかよさそうだね。かわいがられそうだし」
「そうなんですかね?男兄弟しかいないからか、ちょっと女の子苦手なところあるんですよね。なんかこう、何考えてっかわかんないし。意味分かんないことで怒るし、拗ねるし。でも何故か年下の子に 好かれるんですよ。最初は頑張ってエスコートしようとして、疲れちゃって、フェードアウトみたいな感じ多いです。あ、あと仕事をないがしろにするような発言されると一気に冷めますね。一度付き合ってる彼女に、『夜勤夜勤って本当に夜勤なのか!』って問い詰められたあげく、夜中に自家用車でじーーっと署の前で張り込まれたことあって、あの時は本当に萎えました。別れるっていったら死んでやるとか言われて結構大変で…今思えばろくな恋愛してないですね、おれにも何か問題があるのかもしれないっす。反省反省。いや、ほんと、幸せにできないおれも情けないですね」
 付き合った相手のことは悪く言わないようにしていた。それでもその彼女のときだけはものすごく大変な思いをした為、今でも時々こうして話題に出すことがあった。
「ほしのっちって、見た目より男っぽいよね」
「え、今の会話で何かそういう部分ありました!?」
「うん。今の話だって、かなりアレな元カノなのに自分が悪いんだって持っていこうとするところとかさ。男らしくて格好いいじゃんか。服装とか見た目は今時の子って感じで、おしゃれさんだけど、中身は一本筋とおってるし。僕、ほしのっちのそういうところ尊敬してるんだよー、勉強熱心で、実はすごくストイックだよね」
「そんな、大友さんにそんな風にいわれるとめちゃくちゃ嬉しいんスけど!」
大友こそ、見た目よりずっとストイックだ、と成一は思っている。機関士という仕事は、ただ運転すればいいというものではない。由紀市内の道路状況を正確に把握しなければならないし(例えば道路工事の施工箇所や期間、渋滞しやすい道路の把握など)、傷病者や中で活動している星野、六人部のために、揺れない運転を徹底しなければいけない。急ブレーキ、急発進の抑制はもちろん、右左折にいたるまでコントロールされつくした大友の運転があってこそ、救急救命士は処置に集中することができるのだ。
「いやいや、僕は元々やさぐれ消防士だったんだよ。実はさ、六人部隊長に救われたのはほしのっちだけじゃない、僕もなんだ。まあ詳しくは今度飲みに行ったときにでも言うけどね。隊長の役に立ちたいって思ったら、やっぱり仕事しかないでしょ。運転だけは元々人よりできたからさ、それをみがいて役に立とうと思ったんだよねえ」
「実際、大友さんのほうがはるかに役に立ってますよ、おれほんと、迷惑ばっかかけてますもん……」
「おっと、すみませんは禁止だからね!数えちゃうぞお」
「す……す、はい」
「あははは。じゃあ、当分仕事が恋人っていうのは、冗談じゃないんだね?」
 以前佐々木医師に飲み会に誘われたときに自分が言った言葉を、成一は苦笑しながら頷いた。
「まー、そんなモテるほうでもないですしね」
「そお?ほしのっち格好いいじゃん!スタイルがいいし、顔だって今時の塩顔イケメンだし、結構紹介してー!って言ってくる人いるよ、面倒くさいから断ってるけどお」
「ちょ、それちゃんと本人に伝えてくださいよっ、初耳ですよ」
 全く聞いたことが無かった内容に、思わず声が大きくなる。大友は面白そうに自分の腹をポンと叩いてから、タイヤ周りの確認をして成一の追及から逃れようとする。
「仕事が恋人です、って決め顔で言ってたじゃんかあ」
「別に決め顔はしてませんし!元からこういう顔ですし!」
「いやーほしのっちがいてくれると助かるよ、僕と隊長だと突っ込み役がいなくてさあ。さびしいんだよね、ふざけても、誰も突っ込んでくれないのって。フフ、もしかして僕って、関西人なのかなあ~、エヘヘへへ」
 訳の分からないことを言ってから、「点検良し」とつぶやき大友が立ち上がる。
「隊長と大友さんと、応援の人三人のときは、誰も突っ込む人いなかったんですか?」
「うん。ふざけてみても、隊長が『…はい』とか『そうですか』とか言ってさ、しーんてするだけ。さびしかったよーほしのっち、この隊には君が必要だってしみじみとねえ」
「おれ賑やかし担当じゃないっすか!ぜんっぜん嬉しくない!」
 二人の笑い声が車庫にこだまする。あきれ顔でやってきた六人部が声をかけようとしたとき、出場の指令が入った。
『救急、指令。南区…○○町工事現場 鉄骨落下事故 傷病者多数、詳細不明』
 整備したばかりの救急車に、全員が飛び乗る。
 緊張感に身を包んで、成一は前を向いた。

 

 

 

 

 

 平和だった午前中との落差に、数秒ほど打ちのめされる。
 それほどに、そこはひどい現場だった。
 由記市南部にあたる南区の、高層マンション建設現場で起きた事故は、想像を絶する惨事となっていた。散らばる鉄骨、巻き起こっている砂埃、あちこちから聞こえてくる悲鳴、怒号。仮囲いで仕切られた工事現場の中は、まさに阿鼻叫喚の地獄と化していた。
「なんだこれは…」
 現場慣れしている六人部ですら、隊長バッグを持って走りながらそう零したほどだ。
「どうしてこうなっちゃったの」
 かけつけた複数の救急車、それに先着していた警察、救助隊。サイレンの音と赤色灯の光の中を三人で走りながら、そんな言葉が漏れる。広大な工事敷地の中、複数の箇所で救助作業が行われようとしていたが、事故の規模があまりにも大きい。
「指揮隊は何やってんだ!」
「さっき何か警察ともめてたぜ、なんでも最初の落下事故発生から実は三時間経ってるとかで、工事の現場責任者が隠ぺいしようとしてるうちに規模がでかくなっちまったらしい」
 走っていく救助隊員から、そんな声がきこえてくる。不安になる前に成一は、六人部を見た。彼は現場をぐるりと眺め、眼を閉じて15秒ほど考え込み、それから、一か所に向かって走り出した。成一も大友も、その背中を追う。疑う気持ちなど、微塵もない。
(いま、隊長はどこにいくべきなのか、判断したんだ)
 六人部が走っていったのは、しばしば現場で遭遇するハイパーレスキュー隊隊長、天城のところだった。大声で指示を飛ばしている、人呼んで「閃光の天城」に、物怖じすることなく六人部が声をかける。
「傷病者で、クラッシュ症候群が疑われる者をのぞいて、緊急度の高いものはいるか!」
「なんだと」
「お前も知っているだろう、クラッシュ症候群が疑われる傷病者には、現場での処置が一番大切だ。この現場は事が起こってから時間が経っているな?長時間挟まれていたものがいるはずだ。その人たちは、現場で輸液しながら救助すべきだ。治療せずに救助してしまうと搬送しても死亡率が高くなる」
「輸液なんざ出来ねえだろうが!お前らは心停止した相手にしか、特定行為をできやしねえボンクラ救命士だろうっ」
 大きい現場で気が立っているらしい天城がかみつく。六人部は全く動じない。
「できるさ。DMAT(災害派遣医療チーム)なら」
「あ?テメー、寝ぼけてんのか!うちにはそんなもん…!」
 あるわけないだろう、と叫ぼうとしたらしいその声は、轟音と暴風にかき消された。 空から降りてきた銀色のソレは、由記市にあるはずのない「ドクターヘリ」という文字を誇らしげに機体に走らせ、すぐ近くの平地に、悠々と着陸した。
 そこから走ってきた医師は、天城と六人部の前にやってきて二人の肩をぽんと叩く。
「DMAT隊員は由記市にもいるよ。ヘリは借り物だけどね」
 三嶋だった。肩に大きなバッグをかけ、聴診器やPHSを首から下げたうつくしい顔が、安心させるように微笑む。
「来てくれると思っていた」
 六人部の言葉に、三嶋が大きく頷く。
「来るよ。昔、約束したろ?」
  彼は続いてやってきた看護師二名と共に、クラッシュ症候群と思われる患者の治療を、即座に開始した。
 

 

 

 

 続いて到着したドクターカー三台、合わせて医師四名に看護師一六名が、混乱した現場に集結した。医師はスクラブの上に白衣、それに「DMAT隊員証」を首から下げており、あっという間に現場に散開して、救助に並行しながら治療を始めた。
「生食輸液開始、切らすな!1リットル/時だ」
「三嶋先生、こちらの患者さんは」
「その患者さんはもうダメだ、亡くなってる」
 戦場と化した現場に、三嶋の声が響く。現場に転がり落ちている複数の巨大な鉄骨の下には、数十人規模で人が巻き込まれており、不幸にも既に息のない人間もいた。
「よし、輸液されて医師の了承が得られた傷病者から救助しろ!」
「了解」
 天城の声にこたえる、兄の祥一が見えた。多段式ジャッキを使って、鉄骨を持ち上げる作業をしている。
 六人部隊のメンバーは、現場で外傷を受け倒れている四十代の男性の前にいた。仰向けに倒れている彼は、鉄骨が崩れた際、そこに足場として立っていたのだという。高所から投げ出され、後頭部から血を流していた。
「隊長、耳の裏に…見えますか、まだ、ほんのうっすらとですが」
 全身観察を星野と共に行っていた六人部が目で頷く。
「お前には見えるんだな。おれにも、わずかにだが観察できる」
「バトル徴候だと思われます」
 男性が、うめき声を上げた。意識はあるらしく、苦しそうに四肢を動かしている。その耳の後ろが、ほんのわずかに、薄く黒く染まっていた。
「耳から出血があるな…ガーゼをあてる。ロードアンドゴーであることは間違いないが、一点確認したいんだ」
 成一が後頭部の止血を行い、六人部が耳からの出血にガーゼをあてる。そして、その赤い色の広がり方を観察した。
「…やはり、外耳孔から髄液漏がある…」
 ガーゼが、中心部の真っ赤な円とそれを取り囲むような薄い赤の円、二重に染まっている。
「ダブルリングサイン。頭蓋底骨折、ほぼ間違いありません」
 成一の声に、六人部が顔を上げる。
「搬送する。選定は三次選定、由記市立大学付属病院、救命センター!」
 ストレッチャーに乗せ、救急車内に収容する。大友と成一の了解、という声とともに、サイレンが鳴り響き、長い長い一日のスタートを告げた。

 

 

 

 

 救命センターは地獄絵図と化していた。それでも搬送を断らないのは、井之頭センター部長の強い意志、それに救急スタッフ全員の、救命に対する高い理想があったからだ。成一ら由記市の救急隊は、総力を上げて現場に急行し、受け入れ拒否の合間をかいくぐって各地に搬送を行った。
 現場と病院を何度も往復し、時間が飛ぶように過ぎていく。二次選定以上の病院が対応能力を超えて次々と満床になり、神奈川県域から、東京都内の三次選定病院まで、成一達は救急車を走らせた。
「都立急性期センターが受け入れ可能だそうです!」
 大友の声に六人部が頷く。すでに、六人部隊だけで5人目の搬送だ。時間は16時を過ぎていた。
 クラッシュ症候群をはじめとした、輸液や現場治療を必要とする患者は、そのままヘリコプターを使って災害拠点病院へと運ばれ、治療が行われた。それ以外の患者は救急隊による搬送を行い、現在六人部らが搬送している患者が最後の一人だ。
「がんばってくださいね!病院が決まりましたから、もう少しですよ!」
 成一の掛け声、モニターがバイタルを映し出す電子音、サイレンの音。大友が運転する救急車が、高速道路を疾走して東京都へと抜けていく。
 全ての傷病者の搬送を終えた帰り道、六人部の提案で現場に立ち寄った。
「大友さん、少しだけ車内待機、いいですか。星野、ちょっと来てくれ」
「りょーうかい。ほしのっち、行っておいで」
 成一が返事をする前に、六人部は助手席から降りて現場へと歩いていく。5千平方メートルはあるだろう広大な敷地の中は、救助や搬送が終了してもそこかしこに血だまりや、鉄骨やコンクリート片が散らかっていた。
「隊長、署に戻らなくていいんですか」
 遠慮がちに申し出た成一に、六人部が振り返る。
「少しだけ、お前に話しておきたいことがある」
 そしてそのまま、現場の中央へと歩きだした。意味のない事、時間の無駄は六人部にとって天敵だ。それが分かっているから、成一も後ろをついて歩く。傾いてきた太陽が、徐々に橙色を帯びてあたりを照らしていて、全ての風景が等しくその色に染まっている。後ろから見える、感染防止衣を着ている六人部も、血によごれた成一の救急隊員制服のスラックスも、まるでハイパーレスキュー隊が身にまとっている制服のように、オレンジ色がうつっている。
「おれが、大阪に生まれ育ったという話は、したな」
「三嶋先生が幼なじみ、だったんですよね」
「ああ。彼が医師になると決意したとき、おれは、その場にいたんだ。人が、死んで……すごく大切な人が、目の前で死んで、三嶋先生はその責任をものすごく強く、感じていたんだと思う。医師になると言ったとき、約束をしてくれた。もしもなれたら、おれが一番助けたい人を、必ず助けに来ると。何があっても駆けつけて、その人を助けるから。そう言って、泣いていた。おれは何も言えなかった。何も言えなかったんだ。亡くしたことがあまりにも辛くて、ショックで。ありがとうとも、気にしないでくれとも、何も」
 六人部の隣に立っていた成一は、その苦渋に満ちた横顔に思わず叫んだ。
「そんなの、当たり前ですよ。大切な人を亡くしたんでしょう?周りを思いやるなんて、無理です。隊長こそ自分を責める必要なんてありませんよ」
 言いながら、きっとこの言葉で六人部を救うことは出来ないだろうな、と成一は無力感を覚える。
(どんなにあなたは悪くないと言ったって、おれは、彼の苦しみに触れることはできない。だから、言葉に意味も重みも生まれない、聴いてほしいのに。どうか、少しでいいから、届いてほしいのに)
 六人部は自嘲気味に笑ってから、続けた。
「彼は、何一つ悪くなかったのに。おれは彼を心の中で激しく責めて……そして、一番苦しむやり方で、目の前から消えた。それなのに、三嶋先生は約束を守ってくれたんだ。おれにとって一番大切な人は、この街の傷病者の人、一人ひとりだ。逃げてきたおれを受け入れて、居場所をくれたこの街の人全員が、おれにとっては大切な人だから」
 家からあまり出ないから、遊び場所も知らないと六人部は言った。
 その言葉を思い出し、成一はこういうことだったのか、と納得と悲しみを覚える。自分を責めているのは、三嶋だけではない。六人部も、ずっと自分を責め、苦しみ続けていたのだ。街の人のために働きながらも、自分はそこで遊ぶことも、はめをはずすこともせずにひたすらに業務に取り組むことで、自分を責めて、罰している。
 おそらく、無意識に。
 泣きそうだ、と成一は思った。自分の甘さに今日ほど腹が立った日はない。彼の業務に対する真摯な姿勢、情熱は、そのまま彼の存在意義に結びついていたのだ。兄に言われてなんとなく将来の道を決めた成一とは、そもそも、根っこからして違っている。根の太さも、強さも、まるでくらべものにならない。
「早く働きたかったと、以前、隊長は言いましたね。高卒の公務員でも、他にいろいろあったはずです。裁判所の事務官とか、地方公務員の行政職とか。でも、隊長は消防士を選んだ。救急隊員を志願して隊長にまでなった。
 この街に生まれ育った由記市民として、一言お礼を言わせてください。本当に、いつも守って下さって、ありがとうございます」
 頭を下げる。九十度に身体を折った丁寧なお辞儀に、六人部は掠れた声で「ありがとう」と言った。そして少し柔らかい声で、話しはじめる。
「三嶋先生がヘリコプターから降りてきたとき――おれは、ひとつの理想形を見た。今日のように、『災害規模』だと認識されれば、迅速なDMATの派遣が可能になって、クラッシュ症候群のような難しい傷病者の命も救うことができる。そう、ずっとこんな医療体制を夢見ていた。ドクターヘリが単独で持てないのならば、共有すればいい。DMAT隊員は、各地にいる。ヘリの維持管理が困難でも、人さえいれば。搬送は、おれたち救急隊員も協力できる。大規模な災害現場では、…残念ながら、医師にしかできないことが沢山あるから」
 成一は、六人部の横顔に魅入られていた。真剣で、それでいて熱を帯びた上司の声は、いつになく強く、やわらかく成一の胸に届いてくる。
「星野、何が見えた?」
 突然振り返った六人部が、問いかけてくる。
「あの現場で、ですか?」
「ああ。戦場のような搬送中、それに、搬送を終えた誰もいなくなった今、この現場で、星野、お前には何が見えた?」
「見えたもの……」
「おれは、レスキュー隊に救急救命士を持った専門部隊を作りたいと、強く思った。救急救命士でありながら、レスキュー隊員としての体力、知力、技術力を兼ね備え、現場ですべての知識を生かしながら傷病者を救出できる、そういう部隊が作りたい。優秀な救急救命士を由記市中から選抜してレスキューの中に専門チームを作り、そこにDMAT隊との連携を掛け合わせれば、理想的な地域医療、災害医療が実現できるんじゃないか……」
 質問しておきながら、答えを求めていたわけではないらしく、六人部が言った。成一の鳶色の目を覗き込み、まっすぐに見据えながら、黒い瞳が輝く。
「それが、おれの目標だ」
 夢だ、と言わないところに成一は痺れた。そして、同時に自覚した。
(この人の隣にいたい)
 追いつきたい。ふさわしい人間になりたい。
 そして、唯一無二の人間として、隣に立ちたい。
 これまでも何度か考え、そのむずかしさに挫折しそうになった気持ちの正体が、成一の胸を震わせた。
(これは、恋だったのか)
 守りたいとか支えたいとか、そういうものとは全く違う。何しろ六人部は男で、成一よりもずっと強くて賢い。守りたいだなんておこがましいとすら思う。
 尊敬する人に追いつき、必要とされたい、その上で、抱きしめたいと思う。今まで誰にも抱いたことのない、新しい感情だった。
「…その隊で、隊長の隣にいたい」
 六人部の目が揺れる。
 その眼は、(お前にそれができるのか)と問いかけているように見えた。
「おれの目標です。いま決めました」
 燃えるような夕焼けの中、二人の真剣なまなざしが交錯する。強い風が二人の髪をむちゃくちゃにしながら通り過ぎていく。それでも、眼は、逸らされない。
「約束だ。それまで、お前は必死でおれについてこい」
 ビルの隙間から眩しい夕日が差し込んだ刹那、お互いの決意がぶつかって火花が散ったように、成一には見えた。