13 ピース オブ ケイク (三嶋顕の過去 III)

『八月十一日 天気:晴れ 記入者:松浦 京一郎

 セミの鳴き声も必死さを帯びてきた今日このごろ、宿題の進捗状況はどうだろうか。忘れているなら思い出して、今すぐ取り掛かることをお勧めする。
 さて、先日の日記において三嶋から、『何故教師になったのか?』という問いがあったな。
 実は僕は、元々証券会社に勤めていた。証券会社ってわかるかな?要は資産運用の会社だ。他人の金を運用して利益を得る。分かりやすい説明だろ?
 その時のことを思い出すと未だに吐き気を催すし、身体がガタガタ震えだして奇声を上げたくなるので詳しくは書かないが、とにかく激務だった。辛すぎて、何度か「もう死のう」と思ったこともあった。実際死のうとして、踏切をまたいで線路で突っ立っていたこともある。(その時は、通りすがりの人に助けられた)
 やめるとか逃げるとか、思いつかないところまで追いつめられていた。人間は、本当に追い詰められると正常な思考ができなくなってしまう。
 そんな時に、一通の手紙が届いた。
 差出人は、高校時代の担任教諭だった。現代国語の教師で、僕に読書の楽しさを教えてくれた人だ。既に定年退職していた先生が、なぜ手紙をくれたのかはじめは分からなかった。高校を卒業してからは、何度か同窓会をして数年に一度は会っていたけれど、証券会社に勤めている間は忙しすぎて、ずっと欠席していたので、僕の状況なんて知らなかったはずだ。
 先生からの手紙は、とても短くてシンプルだった。何度か引っ越しをするうちになくしてしまって、今は手元にないのだけれど、確かこんな内容だった。
『松浦くん、お元気ですか。
 君は学生の時分から優秀で、足取り軽やかだったので、おそらく足元に石ころがあることも気付かずに過ごしてきたことと思います。
 ですが、石ころや岩は、確かにそこにあったのです。
 賢い君は小さい石、小ぶりな岩につまづくことはなかったけれど、社会という広くて長い道路には、大きい石、巨大な岩がゴロゴロしています。一人では、とてもその道をすすんでゆくことは出来ません。
 そんなときは、周囲を見渡してみてください。君の側に、君の隣に、一緒になって岩をどけてくれる人がきっといます。
 私もそのうちの一人です。
 いつでも、助けを求めて下さい。もう年寄なので走ることはできませんが、早足ででも、君のところに駆けつけるつもりです。

 追伸:私の言いたい事をとてもきれいな物語にしている本があります。山本周五郎先生の、「さぶ」というお話です。さぶといっても、あっちのさぶではありません。三郎という人物のあだ名がタイトルに使われているのです』

 手紙を読み終わって、僕は号泣した。涙と鼻水で顔全体が大変なことになるぐらい泣いた。それから、すぐに先生に電話をして、話を聞いてもらったんだ。それまで誰にも相談することができなかったのに、先生には何でも話すことができた。
 電話越しに黙って聞いていた先生は、僕の話が一段落するとこう言ったよ。
『逃げましょう、松浦君。その道路は君向きじゃない道路です』って。
 僕は仕事を辞めた。元々教師になるつもりだったから、教員免許は持っていたんだ。でも、教師になる覚悟が大学時代にはつかなかった。大変な仕事だし、何より、どんな教師になりたいかというビジョンが当時、無かったから。
 でも、社会に出て挫折して、先生に救われて、僕には目標が出来た。彼のような教師になろうと決めたら、目の前がさっと開けた。目標ができれば、あとはそこに向かって走るだけだった。勉強して、本を読んで、そして、教師になった。
 三嶋や六人部だけじゃなく、生徒と話しているとき、僕は助けているのではなく、助けられていると感じることが多い。助けたい、力になりたいと思っていたはずが、いつのまにか助けられているんだ。
 随分長くなってしまってごめんな。質問の答えになっているだろうか。
 最後に、いつもどおり一冊の本をすすめて終わりにする。
 今日はなんといってもこの本だろう。山本周五郎 著 「さぶ」
 三嶋は実学的な本以外興味が無いと言っていたけれど、それは人生の九割損をしていると思うよ。』

 

 ノートに綴られた癖のある文字を撫でてから、アキは目を細めて笑った。
「なんやこれ。九割損してるとか、余計なお世話や」
 テレビでは高校野球が放送されていて、会社が夏休みに入った聡が、嬉しそうにそれを見ている。炭酸の抜けたコーラを時々口に運びながら、涙ぐんだり大声を上げたりしながら応援している聡は、まるで子供のようで見ていて飽きない。
「お、先生との交換日記か。ちゃんと続いてるねんなあ、エライエライ」
「めっちゃ長いし、いつも本すすめてくるから鬱陶しいねんけどな、読まへん言うてるのに」
「なんとまあ憎たらしい奴や!一人の生徒にここまでしてくれるなんか、普通ないぞ」
 試合が終わって、聡がこちらに話しかけてきた。扇風機しかない室内は窓を開けていても蒸し暑く、アキはTシャツとハーフパンツ姿でだらりと寝ころんだまま受答えした。
「そういやアキはいつもなんか本読んどるけど、あれは違うんか?」
「おれが好きなんは、工学、医学、数学、宇宙物理学なんかの本やで。物語なんか、なんぼ読んでもクソの役にも立たんやろ」
 聡が近づいてきて、冷たいコーラの瓶を頬にあてる。驚いて飛び起きると、指さして笑った。
「役に立つ、たたへんだけで判断してたら、おもろいことなんか何もなくなるわ。だからお前はいつも退屈そうなんや。人生なんかなあ、自分でおもろくしやな、おもんないんやぞ」
「うるさいなあ」
「言うたな?うるさい言うたな?よーしほんまにうるさくしたろ。ドーはドーナツのドー!」
 アキの耳元で聡が大声で歌をうたいはじめる。音痴でおまけに声が大きいので、まさしく騒音そのものだ。
「ごめん、ごめんて!もうやめてえー!」
「ファーはファイトのファー!」
 逃げ回るアキの後ろから、聡が喜色満面で追いかけながら歌い続ける。ドタバタと大の大人が走る物音に、朝風呂に入っていた摂が飛び出してきた。
「一体何のさわぎやねん、もう」
「摂!助けて!怪人ドレミおじさんが襲ってくる!!」
 まだバスタオルを頭にのせている摂の後ろに、アキは回り込んで助けを求めた。
「誰が怪人や!ソーはソープのソー!」
「なんやそれ絶対違うやろ、つーかもう家ン中走んな」
 静かに怒る摂とは対照的に、アキはゲラゲラ笑いながら続きを歌った。
「ラーは乱交のラー!」
「シーはシテあげるーっ」
「さあうった、い、ま、しょー」
 朝も早くから下ネタで盛り上がるアキと父に、摂は大きなため息をついた。

 

 

 

 

『八月十六日 雨、時々くもり 記入者:三嶋 顕

 今日、聡さんが摂とおれを、海に連れて行ってくれた。
 八月半ばということもあって、海月がいっぱいで、三か所もさされてしまったけど楽しかった。日焼けして、今も全身がヒリヒリする。
 日焼けっていっても、肌が黒くなることはなくて、赤くなってから元通り白くなるだけで、おれはそれがさびしい。摂とどこかへ行っても、証拠として何も残らないのが嫌だ。
 これを書いているのは、夜の十一時過ぎ。あまり居心地の良くない自宅の、自分の部屋で、ぬるくなった麦茶を飲みながら鉛筆で書いてる。こういう何かイベントがあった日は、まだ書くことがあるからいい。何もない日は、大体朝から晩まで摂の家にいる。最初は遠慮してたけど、聡さんも摂も、「みえへんところにおる方が気になるし、迷惑する」って言ってくれて、甘えさせてもらってる。
 二人とも優しいから、そういう風に言ってくれるけど、本当の理由は違う。
 こんなことを書かれても、松浦先生を困らせるだけかもしれない。でも、書かせてほしい。今おれの前にある岩は、大きくて、自分ひとりでは動かせそうにないし、摂や聡さんの手を借りるわけにはいかないから。
 親父は母親から金をせびって酒を飲んだり博打をしたりしてるけど、最近、どうもそれだけではない気がする。狂気じみたことを言うようになったし、金遣いが以前の比ではなく荒い。
 検査をしたわけじゃないから絶対とはいえないけど、多分やばい薬をやっていると思う。
 覚せい剤とか、そういうのを。
 摂と聡さんはそれに気付いてる。だからなるべくおれを遠ざけてくれている。たぶんそのうち警察にも連絡をするだろうと思うけど、おれは、それに彼らを巻き込みたくない。彼らはすごく善良で、通報をして逮捕されることに伴う色々な被害について、心底頭を悩ませ、苦しんでいる。
 例えばあんなろくでなしでも、おれから父親を奪っていいのか、とか、逮捕されたら新聞に載るかもしれない、そしたらおれや母親が後ろ指さされることになるのではないか、とか。
 正直、自分や母が何を言われても、構わないと思っている。仕方のないことだ。おれは他の同年代の子よりも精神的にはタフな方だし、母親にしても、自分の選んだ選択の責任を取るだけのことだ。
 でも、摂と聡さんを巻き込むことだけは、絶対に避けたい。彼らに罪悪感を感じさせたり、ましてや、おれと関わったことで誹謗中傷にあうようなことだけは、あってはならない。
 そこで、松浦先生に、このことの告発を頼めないだろうか。調べてみたら、クスリの初犯だけでは刑務所にいれることは難しいようだったが、あの男には余罪がある。その証拠も、封筒にいれてノートに挟んでおいた。ちょっと気分が悪くなるかもしれない。ごめんなさい。
 自分で告発することも何度も考えたけど、おれは未成年でしかも当事者だから、大人の力を借りた方が実現性が高い。巻き込んでしまって、本当に申し訳ないです。
 でも、おれにはほかに頼れる人がいない。
 先生、ご迷惑をおかけしますが、どうかよろしくお願いします。
PS:「さぶ」を図書館で借りて読んだ。あの本の中で、ものすごく好きな一節を見つけてノートに控えた。教えてくれてありがとう』

 

 

 

 

 六人部から受け取ったノートには、三嶋の汚い字が伝えていたとおり、一つの封筒が挟み込まれていた。
 僕は、内容の衝撃をすぐには受け止められず、自宅の机から立ったり、座ったりした。それからコーヒーをいれて飲んだ。カップを持つ、指が震えた。
(一体どうして、三嶋の父親はここまで堕ちてしまったんだろう)
 会ったことは無い。どれだけコンタクトを取ろうとしても、彼はかたくなに会おうとしなかったし、捕まえることができなかった。なので、どんな人物なのか、はっきりと分からない。
 居間の畳に寝そべる。クーラーのおかげで、室内は適温に保たれているはずだったが、冷たい汗のせいで寒く感じた。
 右手に握った封筒に、じわりと汗がにじむ。まだ開封すらできていないそれを、蛍光灯にかざしてみるが中は見えない。恐ろしく嫌な予感だけはしていて、あけることを躊躇わせる。
 長四の白い二重封筒は、ぴっちりと糊付けされていて、はさみを使わなければうまく開けられそうになかった。僕は重い身体を起こし、畳の居間においたちゃぶ台の上で、丁寧に切って開封し、中身を取り出して並べた。
 それは、写真のネガが四本と、現像された写真が十数枚、それに四つ折りにされたルーズリーフ三枚だった。

 ネガに映っている画像は、小さすぎて、光に透かして見てもよく見えなかった。
 紙にくるまれた現像写真に視線を移す。一枚目は、まだ小学生低学年ぐらいだと思われる三嶋が、ビニールプールに入って母親と遊んでいる写真だ。
 今は、触れれば切れるような美貌の三嶋だが、この写真だと無邪気で、天使のように愛くるしい。あまりにも可愛いその写真に、自分の子供もこんなに可愛ければいいな、と微笑みそうになったが、『余罪の証拠』は容赦なく現実を突き付けてきた。
 写真は徐々に三嶋だけの画像になっていき、そして、服を着ているものから着ていないものばかりになってくる。それは枚数を重ねるにつれて、家族写真、子供の写真といったものから、盗撮写真へと変化していた。着替えている小学生高学年の三嶋、眠っている中学生の三嶋、脱衣所で一糸まとわぬ姿になっている、三嶋。
 最後の一枚は、つい最近のものだった。ベッドの上で仰向けに眠っているらしい三嶋が、服を脱がされ、不自然に足を開いたポーズで写真を撮られている。
 …吐き気がした。
 これは、児童ポルノと言われるもので間違いなかった。
 僕は手のひらで口元を覆いながら吐き気をこらえ、一緒に入っていたルーズリーフを開いた。手が震え、全身の毛穴から汗が吹き出し、総毛立っていたが、もう引き返すことは出来ない。
 僕は、知ってしまったのだから。
 ルーズリーフ二枚には、名前と電話番号がびっしりと書かれていた。残りの一枚は三嶋からの手紙だった。
『小さい頃から時々、夜になると強烈な眠気で起きてられなくなることがあった。たぶん、ハルジオンを盛られていた。薬袋を見つけたから間違いない。あとの二枚は顧客リストで、親父は多分そいつらにおれの写真を売りつけているのだと思う。母親は毎日夜仕事に出ていて家にいないし、おれはクスリを盛られているから、ずっと気付かなかった。
 この世界には、子供の、それも男の裸でしか興奮できない種類の人間がいるらしい。写真を撮られているだけなら、その分家計の金も浮くし我慢しようかと思っていたが、とうとう先日、クスリ買う金欲しさに顧客の一人に売春させようとしてきたので、告発したほうがいいと判断した。このままでは摂や聡さんに迷惑がかかってしまうので、児童ポルノの余罪も合わせて四年ぐらい、檻の中に入ってもらいたいと思う。
 松浦先生、気分の悪いものを見せてごめんなさい。どうか、力を貸してください』

 

 

 

 

 三嶋の父親が覚せい剤取締法違反の罪で逮捕された。だが表向きの理由はそれでも、裏にあった別の罪状が罪状であったため、ドラマのようにパトカーが大量に押し寄せたり、近隣住民に知られることなく、朝六時という早朝、極めて迅速に行われた。
 所轄警察の薬物犯罪を取り締まる刑事課と、刑法によらない犯罪を広く取扱い、中でも少年を被害者とする犯罪を取り締まる生活安全課が連携して、裁判所から出された令状を手に捜査員が自宅に訪れた時、三嶋は六人部とともに僕の家にいた。彼は、どうしてもその親友にだけは、自分の父親が逮捕されることを見られたくなかったし、その場に立ち会いたくもなかったのだろう。どうやって自分の父親の逮捕日を知ったのかは分からないが、控えめな提案があったとき、僕は二つ返事で了承した。
「なんかモテなさそうなやつが住んでそうな部屋」
 他人の家に上り込んでおいて、三嶋が開口一番に言った言葉はそれだった。そして、許可をとることなくちゃぶ台の前に座り、六人部に前の席を促し、「先生、勉強してもええかな」と発言した後勝手に問題集をぞろぞろとちゃぶ台の上に並べた。
 彼らは黙々と問題集を解いていた。現代国語の問題のときだけ、アドバイスを求められることがあったが、それはほんの数十分程度のことで、何も言わずに手を、頭を動かし続けた。僕は彼らに暖かいほうじ茶と、あまり形のよくない、うめぼしと昆布の入ったオニギリを振舞った。それからは邪魔にならないように隣の部屋にうつり、デスクに座って仕事に関連する本を読み続けた。どうしても、あまり頭には入ってこなかったけれど。
「あの、松浦先生。おれは今の状況が全然理解できへんのですけど」
 六人部が困惑の表情を浮かべて僕に問いかけるのも無理はなかった。十二月、二週目の日曜日。朝の五時に叩き起こされ、「先生の家に遊びに行くで」と無理やり電車に乗せられて、一駅先にある担任教諭の家に連れてこられた六人部の心情を想像し、僕は少し笑った。
 時計を見る。正午だ。彼らは六時間近く、勉強し続けていた。
 ちょっと休憩する、と宣言してから、三嶋は僕のアパートから出ていった。おそらく近所のコンビニにいったのだろう。彼なりに気を使っているのか、何か欲しいものはないか、と尋ねられた。僕はないよ、とこたえてから財布を渡そうとして、三嶋にきっぱりと断られた。
 二人きりになった僕らは、どちらともなく話をした。
「六人部は三嶋との付き合いが長いんだろう?」
「それは、はい」
 濁された言葉が意外だった。僕は重ねて質問した。
「じゃあ、あいつが意味のないことをすると思うか?」
「いいえ」
 今度は、明確な答えが返ってくる。この短いやり取りに、六人部という中学二年生の少年の中にある、三嶋に対する確固たる信頼と忠誠心が伝わってきて、僕は頷いた。
「アキは暗記が苦手やから、その勉強をせなあかんって、常々言ってたんですけど。おれはそれ、もしかしてフェイクじゃないかなって思うんです。ほんまは、おれの勉強に付き合ってくれてるだけなんやないかって」
 ふつうなら否定する内容だが、僕も六人部と同意見だった。彼の知能の高さを持ってすれば、中学レベルの暗記など造作もないことだ。だが何か理由があって、理系が得意で文系が苦手な中学生を装っているのだろう。
「六人部を勉強させて、同じ高校にいきたいんだろうな、多分」
 勝手に彼の意図を伝えて良いものか一瞬迷ったが、僕は伝えることにした。すると、驚いた後で六人部は少し複雑な表情をみせた。
「足手まといですね、おれ」
「何を言うんだよ」
 僕は笑って、おにぎりはどうだったかと尋ねた。すると彼は言いにくそうに、「塩辛かったです」と率直な感想を述べた。僕は素直に謝罪してから、お茶をもう一杯、湯呑みの中に入れてやった。それから、少し前から悩んでいる内容を六人部に打ち明けた。
「あのさ、突拍子もない話かもしれないけど、きいてくれるか」
「はい」
 崩していた足を正座にしてから、六人部がこちらに向き直る。そのまっすぐな強いまなざしを受け止めて、僕は正面に座った。
「もしかすると、本当にくだらない思い込みかもしれないし、杞憂に終わるかもしれないけど」
「アキが言ってたとおりですね、松浦先生は」
「え?」
「勇敢なところと、臆病で慎重なところが、不思議な割合で調合されてる、って」
「失礼なやつだな、あいつは」
 しかし正確だった。僕は腹が立つよりも笑ってしまった。
「三嶋はきっと、すごい人物になるだろう。――例えば基礎研究をする様な学者になれば、国を揺るがす大発見をするかもしれない。医者になれば、たくさんの人を救うだろう。でもな、あいつの賢さはとても危うい。父親のこともあるけれど、きっと困難がたくさん、あいつの前に立ちはだかる。理不尽で、あまりにも残酷な壁がたくさん。そんなときに、あいつがいつか人の道から外れてしまうんじゃないか、目的のために手段を択ばない人間になってしまうんじゃないかって、僕はすごく心配してる。どんなに頭脳明晰でも、人間は一人じゃ生きられない」
 六人部の黒い、すんだ目がきらりと光った気がした。僕は、ゆっくりと続けた。
「そんなときは、お前が止めるんだ、六人部摂。お前は、あるときは三嶋を支える大樹になり、あるときは三嶋を抑える枷になれ。僕も君ら生徒を助けたい、成長してほしいと願っているし出来る限りの手を貸すから」
 意外にも、彼は俯いてしまった。驚きとほんの少しの失望を感じそうになったとき、彼は右手で自分の頬を拭った。泣いていたのだ。
「すみません。……うれしくて」
「うれしい?」
「はい。アキのことを、こんなにも心配してくれる人がいることが、嬉しくて仕方ないんです」
 逆に僕のほうこそ、ありがとう、と心の中で叫んだ。
 大人の世界で汚い金と欲望にまみれた仕事をしてきた。間接的に、沢山の人を不幸に陥れ、またそれに耐え切れずドロップアウトしてしまった。三嶋が言うように、臆病で慎重で、勉強だけは出来た僕に、彼らはみせてくれたのだ。
 人は、心の底から他人のことを憂い、歓び、支え合うことができるという証拠を。
――涙が滲みそうになり、慌てて上を向く。三嶋にからわれる事だけは避けたかった。
「ただいまー、たいしたものなかったけど、昼ごはん買ってきたで――ん?なんで二人とも上向いてんの?」
 その結実のようなきれいな涙を、僕は一生忘れないだろうと思った。

 

 

 

 

 強い冬の木枯らしが窓をバタバタと鳴らしている。ヤカンの中で沸騰して外に飛び出した湯気を見て、ガスコンロの火を止め、インスタントコーヒーを入れた。

『十二月 二十三日  天気:くもり  記入者 :松浦 京一郎

 寒い日が続くが、明日はクリスマスイブだ。
 悲しい宣言から入るとしよう。僕には共に祝うべき人間は一人もいない。だが考えてみてほしい、神様だかなんだか知らないが、会ったことも無い人の誕生日を祝う相手がいないからといって、僕がさびしい奴だとか、孤独を極めているとか、そんな風に思うこと自体どうかしているんじゃないか?
 今窓の外を眺めたら、うっすらと雪が積もっている。今日は土曜で仕事が休みだから、部屋の中をうんと暖めて、コーヒーを飲みながら本でも読むことにする。大阪で雪が積もることは少ないらしい(一部の地域を除いて)ので、ちょっと貴重な体験だ。ちなみに、僕の生まれ故郷である神奈川県由記市においても、名前の割に雪が積もることは少ない。海と山に囲まれたその街を思い浮かべると、正直なところ、少しホームシックになる。僕はあの街が大好きだ。かもめが飛ぶ海は美しく、山から流れる川には小魚がたくさんいて、自然のあふれた素晴らしい街だと思っている。いつか三嶋や六人部が大きくなったら、一度遊びに行くといい。
 そういえば、外部模擬試験を受けに行ったのだと聞いた。三嶋は全国三位だったときいて、驚愕した。上には上がいるな。だがそれはとてもいい事だと思う。
 志望校の合格率は文句無しのA判定か。あの高校の文理科は、数学にとても強い先生がいらっしゃるので、きっとお前の道は拓けるだろう。六人部も、三年になってからも継続して今の勉強量を維持できれば、普通科は確実、文理科は七十パーセントの確立で合格できる。
 来年も、おそらく僕が担任を持つことになると思う。
 今年は三嶋にとって本当に大変な一年だったな。時々途切れたりもしながら、日記を続けてくれてどうもありがとう。正直に言うと、三嶋と交換日記をするのはとても楽しかった。普段読むことのない専門書――たとえば宇宙について、分子生物学について、人類の歴史と進化について、の本を紹介してもらうのは、知的好奇心が大いに満たされ、本当に楽しい体験だった。そういう本はほとんど手に取ったことが無かったので、目の前に『ある』と思っていた世界の形やなりたちが変わり、『新しく作り変えられてそこにある』ように感じている。
 もうすぐ冬休みだ。宿題はきちんとやってこいよ、あとこれはお願いだ。読書感想文にはなるべく文芸書を選んでください、専門書を選ばれ論じられましても、点数のつけようがありません。よろしくお願いします。

今日おまえにおススメする本は、今すごく売れている短歌の本だ。さわやかで、まるで匂いや味を感じるようなみずみずしさがあって、先生は大好きだぞ。気持ち悪いといわれそうだが、胸がキュンとするとはまさにこのことだ。
 俵 万智 「チョコレート記念日」』