12 ピース オブ ケイク(千早の秘密と、真夜中のキス)

「胸腔チューブを挿入するぞ。メス」
 緊張感のある落ち着いた声でアキが言い、スタッフ全員が動き始める。
 交通事故により外傷性気胸で運び込まれてきた二十代女性の顔は蒼白で、切り裂かれた衣服の間から覗く身体は血まみれだった。
 アキは局所麻酔された第四肋間胸をディスポーザブルメスで二センチ、迷いなく切開した。佐々木は患部を正確に鉗子で開く。まるで体の中が透けて見えているかのように、するすると見事にチューブを挿入するアキを見て、看護師長の牧田はマスクの下で息を呑む。
 十分に訓練を積まなければ難しいといわれるチューブの挿入や、正確なメスさばき、それに縫合の早さと美しさは、アキが優秀な外科医であり、また救急医であることを周囲にあっという間にしらしめた。井之頭センター部長の信頼も厚く、研修医を指導する立場である佐々木の負担は、アキのお蔭で著しく軽減していた。

 

 

 

 

「三嶋!お前なんか食いたいものあるか?もうな、お前のお蔭で楽させてもらってるからよー、なんでも好きなもん食わしてやるぞ」
「うーん。美味い鰻食べたいですね、こっちの鰻は蒸しだって聞いたんでぜひ食してみたいです」
「あっちは焼きだもんな。どっちも美味いけど、おれはやっぱ蒸しのが好きだね~」
 無事にオペを終えて、汚れた術衣を脱いでランドリーボックスに放り込む。1年に1回買い換えるGショックは午後7時5分前を指していて、このまま終われば無事勤務時間終了、夜勤チームと交代だ。
「でも今日は無理です、先約があって」
「あれだろ、産科の永井と麻酔の広海と飲みに行くんだろ?不人気職場そろいぶみだな、過労医師同士、飲み過ぎて寝たりすんなよ」
「それが驚くべきことに…小児の水谷先生もいるんです。偶然飲みに誘われていくだけなのに、天の采配としか思えない組み合わせでしょ?」
「最強チームじゃねえか!ちなみに広海は結構絡み酒だから、途中から焼酎の水割りのかわりに水のましとけ。どうせわかんねえし」
「広海先生、あんなに紳士然としてるのにそうなんですか。意外だなあ」
「あいつの趣味はSMクラブ通いだよ。いうなれば変態紳士だ。本物の紳士が泣いて怒るってもんだぜ。ちなみにMのほうな。そういやお前に踏まれてみたいとか恍惚としながら語ってたから、酔っぱらった頃に八つ当たりしてやれ、喜ぶぞ」
 ゲラゲラと笑う佐々木に、アキはあからさまに溜息をついた。
「水谷先生は技術もあるし、小児科医だけあって志もたかい、いい先生なんですが。飲むと泣きながら理想を語るという悪癖があって。まあそれも面白いんですけど」
 個性豊かな医師の面々と飲みに行けることが増えて、アキは内心喜んでいた。元々友人が少ない方で、一人好きで積極的な努力もしないため、誘ってくれるのは大変ありがたい。
「いい顔するようになったな。その調子だ」
 まるで出来の悪い弟を見守る兄のような顔で、佐々木が言った。
「なんですか、それ」
「よく笑うようになったって意味だよ。三嶋、お前は別に頑張らなくていい。いつも通り仕事してニコニコしてりゃ、それだけで人は寄ってくる」
 嬉しいが、気恥ずかしさもある。アキは顔を背けながら時計をつけかえた。遊びに行くときだけつけるパテックフィリップの腕時計は、親しかった大学教授から譲り受けた年代物だ。
「お疲れさまです」と言って逃げるように更衣室を後にした。

 

 

「三嶋先生って、想像と違うなあ」
 もう一軒いくぞ、とアキの腕を掴んで高架下の焼き鳥屋に連れ込んだ水谷は、酔いの回った赤い顔で嬉しそうにそういった。
「どういう想像だよ」
「そうだな、もっと拒絶的というか…孤高の人なのかと思ってた。たまにカンファ覗かせてもらうんだけど、指摘の厳しさハンパないし」
 笑いを含んだまるい声で水谷が言って、肩が触れ合うほど狭い店の中で首を竦める。190センチ近くある大きな身体は、元ラガーマンで現在も趣味で続けているというだけあって、小さな店ではひどく窮屈そうに見えた。
「狭量なのかなあ。勉強不足を誤魔化そうとしてるのが透けて見えると、指摘せずにはいられないんだよ。おれたちにとっては複数の患者だけど、患者にとっては命は一つしかない。そこらへんを忘れてんじゃないかって。一人ひとりに死力を尽くしてしかるべきでしょう?特に、知識なんて調べれば手に入るんだから。手技が未熟なのは仕方ないとしてもさ」
「言ってることは分かるけどさー。でもま、みんなが三嶋先生のレベルじゃないからね」
 水谷は、この空間にアキがいることを不思議に思いながら言った。
「ここまでやったぞ、っていうラインはひとそれぞれだから」
 よいどれ横丁と名付けられた、由記市駅の高架下にある狭い店の集まりの中だった。薄汚れた店の中には中年男性のグループばかりで、目元を薄赤くそめて長い睫毛を伏せているアキは、まるで荒野に咲いた一輪の百合のようだ。水谷は大真面目にそう思ったあと、一人で頷いた。
 理知的な黒い双眸が水谷をとらえ、納得ができないというように逸らされる。真っ白な首筋と、カウンターに投げ出された白い手。なるほどこれは、確かに男性医師の間でも「一対一で飲みに行くのはやめたほうがいい、道を踏み外しそうになるぞ」と噂されているだけのことはある。実際、救急搬送されてきて無事ICUから一般病棟に移った患者は、ほとんど全員が三嶋に会えなくなることを残念がるのだという。
「そういや三嶋先生に言ってないことがあるんだけど」
「うん?」
 アキはマッチを取出し、タバコに火をつけたところだった。すでにタバコの煙で真っ白になっている店内に、新たな煙を作り出しながら振り返ると、クマのような外見をした水谷が、いたずらっぽく笑った。
「おれ兵庫出身やねん。三嶋先生も関西やろ?」
 驚いて、タバコを灰皿に置く。一呼吸おいてから、「なんで?」と返すと、「イントネーションが違うから」と水谷が笑った。
「まさか由記市で関西出身者に会うとは。おれは大阪やから兵庫やない。あ、『神戸出身』っていわんってことは、あれか。芦屋とかそのへん?」
「大正解。自分で言うのもなんだけど、深窓の令息だよ」
「深窓のクマの間違いやな」
 アキが笑いながら言う。
「なんで標準語つかってんのさ?」
「うーん、方言があると指示が分かりにくいかなって。そっちはなんでまたこんな遠くに?」
 お互いに郷里の言葉と標準語を混ぜながら会話する。水谷は大きな身体をのそのそと揺らしてから、「家の呪縛ってやつを断ち切ろうかと思って」と言った。
「おれの家は、代々医者でね。儲かって仕方ない整形外科ってやつで、金持ちの年寄り御用達の病院だったんだ。だから正直お金に困ったことがなかった。コート買うっていえば十数万くれるような家だったからね」
 羨ましいな、とアキは言った。半分本音で、半分は嘘だった。
「息子はおれひとりで、姉が二人。父さんも母さんも、おれが病院を継ぐものとばかり思ってたみたいだね。散々甘やかされて育ったよ。大学は神奈川だったんだけど、東京で遊びたいってだけでこっち選んだのに何も反対されなくてね。学費はもちろん、2LDKのマンションに二十万の小遣いつき」
「ええなあ、お金持ちで」
「そうやろ?」
 おっとりと微笑んだのは一瞬のことで、水谷はすぐに少し悲しそうな顔をしてみせた。
「いっそずっと、バカなボンボンのままでいればよかったんだけどね。研修医として小児科にいたときは、『こんなキツくて、割に合わなくて、辛いところだけは絶対にいやだー!』って思ってたはずだったのに、僕は気づいたら小児科医になってる。他の科は全く考えなかった。どうしてだと思う?」
 焼き鳥を水谷の取り皿に置いてやりながら、アキは微笑んだ。
「必要とされたかった、つまり、家族以外に?」
「正解。三嶋先生はきれいなだけでなく賢い。女性なら嫁にもらうところだよ」
 ビールのおかわりと枝豆の追加を注文して、くすぶっていたタバコの火を消した。彼が裕福な家の育ちだと気づかなかったのは、水谷の身なりはいつもシンプルで、清貧ともいえるぐらいぜいたく品が一つもなかったからだ。
「研修医として小児科医になったとき、僕は愕然とした。ここには絶対的に人が足りてない、それなのにどうして医師は来ないんだろうって思った。眼科医や歯科医や皮膚科医はたくさんいるのに、どうして小児科医はいないんだって。でもしばらくいればわかった。辛いんだ、すごく。子供達が毎日苦しんで、痛みに耐えて、それなのに泣き言一つ言わず、少しずつ弱って亡くなっていくのを見るのは、本当につらいんだ。保護者の方は他にあたるところがないから、医者や看護師にあたる、嘆く、問い詰める。治せる病気ならいいけど…うちの病院に入院する小児は、大けがだったり難しい病気だったりすることが多いから」
 でもな、と水谷は目を細める。
「この場所では確かに必要とされてるって、僕は思えるんだな。何故だろう…。子供達を見ていると、僕は身体の中からものすごくエネルギーが湧いてくる。病気と戦うエネルギーが。そして思うんだ。僕は誰かを助けているようで、助けられている。生まれてから今まで、こんなに強く誰かにとって必要な人間になったことはなかったし、誰かを助けたいと思ったことは無かった。必要とされるということは、認められるってことだろう?居場所を与えられて、そこで思う存分頑張っていいんだって。それは、本当に幸福なことだと思う」
 この病院はやっぱりいいな、とアキは思った。水谷の言っている内容は、そのままアキが日々感じていることだったのだ。
「よくわかるよ。水谷先生は、やっぱりええ先生やなあ。小児科医はええ先生多いけど」
「まあな。三嶋先生こそ、どうして医者に?」
 もしかしてこれがききたくて、二軒目に連れ出したのかな。そう思いながら、二本目のタバコに火をつける。緩慢な動きで煙を吐き出すアキに、水谷は肘をついて笑いながら、急かすことはしなかった。
「なんでそんなことを?」
「眼だね。三嶋先生の眼は、いつも…なんていうのかな、覚悟があるなと思って」
「覚悟?」
「うん。患者のためならルールを無視してでも死力を尽くす、そのことで咎を受けても構わない。そういう危うい眼をしているなと思って。余程の動機がなければ、そういう覚悟は生まれないだろう?」
「動機か。確かにあるんだけど。――秘密だな」
「はあ?!」
「秘密だよ。口に出したら、そのときの気持ちが薄れてしまう」
「僕ひとりで熱く語ってしもて、ハズカシイやん!」
「本当に心に決めたことは、誰にもいわへんもんやろ」
 妖艶ともとれる笑みを浮かべて、自分のくわえていたタバコを水谷の口に咥えさせる。目を丸くしたあと、彼はにやりと笑ってもらいタバコを頂戴した。
「やれやれ。これ以上しゃべんなって?それに何やこれ、オッサンが吸うたばこやんか」
「洋モクなんか臭くて吸うてられるか。男は黙ってキャスターマイルドやろ」
 ビールを焼酎お湯割りに変えようとすると、「腹が冷えるんか?」とからかわれる。尊敬できる同僚と親密になれたことが嬉しくて、夜の十一時過ぎまで飲み続けた。

 

 

 

 

 一日に数度しか見ない携帯電話を取り出すと、千早から着信があった。
 駅の前で同僚と別れてから、アキは以前一度行った事がある駅前のコーヒーショップでホットコーヒーを購入し、ロータリーの前のベンチに座って飲む。それから、発信ボタンを押して耳にあてた。
『ゴホッゴホッ、もしもし』
 ツーコールほどで電話に出た千早は、掠れた声をしていた。風邪でもひいたのかな、と思ったアキが、「今大丈夫か、どうしたん?」と問いかけると、『…ちょっとまってね』とかえってきて、ガサガサとどこかへ移動しているような物音が聞こえた。
『はい、ごめんね。大丈夫だよ。ゴホッ、いや実はさ、しばらく店に立てないんだよね。その連絡をしようかと思って。ほら、おれに会いにきたのにいなかったらガックリきちゃうだろ?』
「風邪か?ちゃんと病院には行ったんか」
『いちいち病院なんかいかないよ。きらいだし。風邪ひいてさ、熱は大体下がったんだけど、せきだけずっと止まらないんだよね。客商売だからマスクしてても咳しながらカウンターに立てないし、参ってるよ』
 そう言ってから、いっそうはげしく咳き込む。
「何かいるものは?家で寝てるんやんな?体温は、熱が出てたのはどれぐらいの期間?」
『問診するのやめてくれる?ゴホッ…あー、でもポカリとのど飴持ってきてくれたらうれしい。あと咳がひどくて眠れないから、睡眠薬とか』
「ポカリとのど飴はいいけど、睡眠薬はな…。市販の物しかもっていけないぞ」
『ええーっ、そこは医者の力でロヒプノールあたり無理なの?』
「無理。診てもないやつのために処方箋かけるわけないだろ、医師法に反する」
『そっか。まあそうだよな』
「他のヤツもっていくのは構わないけど、近くにいるひとには頼めなかったの?ちょっと待ってもらうことになるけど」
『おれが休んでるせいですごく負担かけてるから、そこまではね。身内は入院してるし…ともだちに頼むってのも気を使うだろ』
「こういう時こそおれを利用しなきゃ」
『そう、だから頼むのさ。ごめん。アキ。よろしく』
 電話を切ってからすぐ、電車の運行状況を確かめる。ダメならタクシーで行こうとおもったが、幸いまだ運行していたので、駅の高架下にあるコンビニエンスストアに入り、頼まれたものとマスクを複数購入した。それから、携帯のインターネット検索でこの時間に空いている薬局はないか探したが、一つも見当たらなかったので、苛立ちながらも急いで自宅に帰、。
(確か、市販の睡眠薬は家にあったはず…あと予備の聴診器も)
 自宅は駅からほぼ直結といっていいほどに近いマンションなので、走って往復すれば電車に間に合った。ついでに冷蔵庫にいれてあったOS‐1(経口補水液)、ペンライト、医療用体温計もバッグに詰め込んで、発車寸前の電車に飛び乗った。

 浅草にある彼の店舗兼住居に到着する頃には、日付が変わっていた。
 店の入り口横にある階段を上り、ドアベルを鳴らす。駅からも走ってきたので、息が上がっていた。
「ごめん、ゴホッ、ありがと」
「悪いけどマスクさせてもらってる。患者さんにうつされへんから。お邪魔します」
 開かれたドアから顔をのぞかせた千早は、ほんのりと赤い顔をしていた。
(熱が下がった、っていうのは嘘やな)
 部屋の中に上り込み、ベッドに横にならせてからOS‐1を飲ませる。長めの黒髪からみえる切れ長の眼が、アキを見て安心したのかゆるく笑んでいた。
「さて。まずはいくつか質問させてもらう。熱はいつから?」
 部屋をざっと見回すと、脱いだ服や溜まった洗濯物などで相当散らかっていた。寝室の中も同じで、何度か着替えたのか、脱いだままの形でジャージやトレーナーが落ちている。
(これは、一週間以上は病床やな…)
「んーと…3日ぐらいまえ、かな」
「嘘はいらん。包み隠さず正直に話せ」
 眉を寄せ、睨み付ける。居丈高な物言いとアキの怒った顔は、美しい分迫力があった。
「うわあ、大岡越前かよ…。熱がではじめたのは、二週間ぐらいまえ。三日ぐらいで下がったんだけど…今は咳だけ残ってる」
「周囲に、同じような症状が出てる人はいなかったか」
「いや…特には。ただ都内の電車はどれも人がいっぱいだし、一週間に何度か乗ってるからそこでうつされたかもしれないけど」
「咳が出始めてから、入院してるっていうじいさんには会いに行ってないよな?」
「行ってない。うつしたりしたら大変だから」
「よし」
 持ってきたバッグの中から、聴診器とペンライト、それに使い捨ての舌圧子を取出す。布団の中で横になっていた千早に、上半身だけ起こすように指示して、自分の着てきたカシミアのカーディガンを肩にかけてやった。
「おれは内科医とか、呼吸気科医やないから、できたら明日病院には行ってな」
「大丈夫だいじょうぶ。そんな、大げさだって」
「口あけて」
 ペンライトで照らしながら、口腔内を眺める。確かに喉ははれていたが、咽頭炎や扁桃腺が腫れているというわけではないように見えた。
「音を聞くから、上着をあげてくれる?」
「あーい」
 息を吸って…止めて、吐いて。指示しながら、アキは丁寧にその音に耳を傾ける。聴診器での診察は意味のないことをしているように思われがちだが、肺炎などでは重要な判断基準になる。例えば肺炎にかかっている場合、特徴的な「プツプツ」という音が聞こえることが多い。
 症状的には肺炎や気管支炎が疑わしい。そう踏んでいたが、わずかに異音がするものの、肺炎と判断するにはやや弱い。
(胸部X線取れば一発で分かるんやけど…アレかな)
 服を元に戻させ、顎の下や首のリンパ節を触診し終わってから、アキが立ち上がり、言った。
「ちょっと電話がかけたい。横になってて」
「わかった。…ごめんね、タダでみてもらって」
「うまいこと利用してくれたほうが、こっちは助かる」
 部屋から出て、リビングのソファに腰掛け、さっき別れたばかりの水谷に電話をかける。三コールほどで彼は電話口に出てきた。
『おっ、三嶋先生、どうしたん』
「悪いな、もう寝てた?」
『いんや。ちょっと読まなきゃいけない論文があったんで、英語に四苦八苦してたところさ』
「あはは。英語とドイツ語、フランス語やったら協力できるから、いつでもきいて。あのさ、実はこういう症状が出てて…」
 千早の症状や所見を、手短に伝える。ふんふん、と聞いていた水谷が、『あくまで聞いた所見の範囲だけど』と前置きしてから病名を述べた。
「やっぱり、そうやんな?」
『できたら、近所の救急外来にいったほうがいいよ。その様子じゃ食事を取れない、眠れないわけだろ。大分弱ってるみたいだし。X線とれば一発で分かるしね』
「わかった。ありがとう。確かクスリはマクロライド系がきいたよな」
『その通り。人手がいるならそっちに行くけど?』
「ええよ、そんな。ありがとう、切るわ」
『なんかあったらいつでも言うてな』
 想像していた通りの診断名に、アキは胸をなでおろす。小児科でもナンバー2の水谷が言うのならば、間違いない。

 寝室に戻ると、人が来て安心したのか、千早は寝息を立てていた。身体でも拭いてやろうと思い、バスルームにいってタオルを取ってきたところで、室内に一切空調がきいていないことに思い至る。
「温めた方がいいな…」
 11月半ばにもなると、夜はそれなりに冷え込んでいた。カーディガンを千早に貸していたので、アキは実質長袖のシャツ一枚しか着ていない。
 エアコンのリモコンは見つけることが出来なかったので、リビングに見つけたガスストーブに電源を入れて、その間にキッチンでタオルを濡らし、電子レンジを使って温タオルにする。そのまま寝室にとって返し、出来る範囲で身体を拭いていると、千早が咳き込み、目を覚ます。
「こんな感じなんだよ。ちょっと寝れたと思ったら咳でね。一週間、まともに眠れてない」
「可哀想に。咳は結構つらいからな……あ、勝手にガスストーブ入れさせてもらったよ」
「あー……ごめん、多分それ、点かない」
「え?」
「一昨日からガス止められてる。払うの忘れてたんだ。でも、特に困らないよ」
 千早がつとめて明るく笑う。アキは低い声で「なんで払わへんの」と問いかける。
「払いたくても払えない。電気はさすがに困るからなんとか払ってるけど」
「だから、その理由をきいてるんやろ」
「秘密」
 だが頭のいいアキにはピンときた。入院しているという祖父。行こうとしない病院。払う事の出来ない公共料金…。
「請求書はどこや。代わりに払うから場所を教えろ」
「悪いけど、立て替えてもらっても返す算段がつかないから教えない」
「役所からも来てるな?一番、払わなあかんもん払ってないんとちがうか、お前」
「ぎくっ。あーあ、アキの頭の良さには毎度驚かされるよ」
「もういい。お前には聴かん、勝手に探させてもらうぞ」
 呼び止める声を無視して、適当にあたりをつけ、請求書の類を探しはじめる。千早は几帳面な性質をしているので、届いた郵便物を見ないで捨てたり、適当に扱うということは無いと確信していた。どこかに、きちんとファイリングされているはずだ。払えない事を申し訳なく思いながら、捨てることも出来ずに。
「あった。…ガス料金最終督促状…あーあ、二か月も滞納したら止められるわな…。あ、台東区からの通知、これや」
 国民健康保険は未納が続くと、行政処分へとうつっていくことになる。未納期間に応じた行政処分があって、千早の場合は『資格証明書』が見つかった為、少なくとも一年以上国民健康保険を納めていないことになる。
 保険証が取り上げられ(もしくは無効化され)、資格証明書に変更された場合、医療機関で患者は十割の負担を強いられる。十割負担となると、ただ診察を受けて風邪薬の処方箋をもらうだけで、5千円を超えてくる。ここに検査(X線や血液検査など)が入ってくると、簡単に10万近くの高額になる。
 現在の日本において、一部を除きほとんどが三割負担であるから、国民は簡単に病院にいき、クスリを受け取ることができるのだ。
 アキは苛立ちと悲しみで震える腕で、請求書の山を掴んで財布を握りしめ、一番近所のコンビニへ走っていった。一枚の請求が一定金額を超えるものはコンビニで納付できないが、それ以外のものは現在ほとんどがコンビニ収納可能なのだ。
 真夜中に殺伐とした雰囲気で、大金を納めていくアキを、コンビニ店員は不審そうな目で見たが何もいわなかった。途中で金が足りなくなると、ATMで下して全て納付した。国民健康保険の未納分も、ガスの未納分も、これでキレイになった。
 千早の家に戻ってくると、玄関に入っただけで咳をしている音が聞こえてきて、アキは胸が痛む。咳が止まらないというのは、周囲から見たよりもずっと、患者自身は辛く、負担が大きい。
 寝室には真っ直ぐ向かわず、アキは先ほどの請求書がファイリングしてあった棚の前にいき、ふたたび目的物を探しはじめる。そこにはやはり想像していた通りのものがあって、封筒に書かれている『都立がんセンター』の連絡先と住所を念のためメモする。中には請求書と明細が入っていたが、こちらはきちんと納められ、領収書が同封されていた。
 その金額の大きさに、やはりそういうことか、とアキは納得する。全ての符牒がこれで一致した。
(明日の朝一で、役所に電話して…納付したことを伝えて、保険証の再発行依頼しよう。多分直接行くことになるだろうから、明日の午前中は休みをもらうしかない。
 その前に今日、今から救急外来に連れて行った方がいいのか…。救急外来…都内のことはあまり分からない…ネットで調べよう。救急外来の案内をしてくれる電話番号が、どこの自治体にもあるはず)
 ゴミ箱の中をみたとき、血交じりのティッシュがあるのに気付いていた。血痰が出ている。それにまともに食事を取れていない。確かに、病院に連れて行った方がいいが、彼は資格保険証しかなく、おそらくアキが立て替えるといっても言うことを聞かないだろう。大の男を、一人で無理やりタクシーに乗せるのは難しい。この家は二階にあって、エレベーターなんてものはないのだ。
 その時頭に浮かんできた人物二人に、アキは必死で頭を振った。
 ダメだ。彼らは頼れない。
 だが同時に、(他に誰がいるのか)という思いも浮かんできて、逡巡する。
 どちらも、二日に一日は勤務で電話に出れない。だが二分の一の確率で非番だから、ふつうの人よりも捕まえられる確率は高い。腕時計を見る。夜中の二時を過ぎていた。
 記憶の中で、頭を下げて礼をいう摂の姿がよみがえってくる。急病になった部下を助けたい、と連絡があったとき、詳しい事情も聴かずに、アキは協力を申し出た。同時に、他人に助けを求めることがほとんどなかった摂が、変わったものだなあと年月の経過に思いをはせたりもした。
『部下を助けてくれてどうもありがとう。アキとまた話せてうれしい。』
(相変わらず、人の眼をまっすぐに見るヤツやった。そこは変わってなくて)
 突然電話がかかってきたとき、その慌てように驚いたものだが、相手が星野成一だと分かると納得した。六人部が自分の部下を本当に大切に思っていることが、アキにはすぐにわかったのだ。
『こんなことを言うのは、差し出がましいかもしれないが…。もし困ったことがあったら、何でも言ってくれ』
 成一を病院に運び終え、立ち去ろうとしたときに、摂はそう言って頭を下げた。まっすぐに、あの頃と変わらない目でアキをまっすぐに見つめながら。
(不思議とショックはなかなったな。せいちゃんは、ほんまにいい子やから。可愛くて仕方ないんやろう)
 電話帖に表示された「六人部摂」の名前をしばらく眺めてから、発信ボタンを押す。
――留守番電話サービスにつながった。勤務中だ。
(くそ。おれとアイツはいつでも、徹底的にタイミングが悪い!)
 もう一つの番号を表示させて、発信ボタンをタップする。もはや、迷っている時間はなかった。
「ごめん、こんな時間に起こして。今から言う場所にすぐ、タクシー拾って来てほしいねん。高速使ったらそんなに時間かからへんと思うから。住所は―――で、タクシー代はこっちが持つから、お願い!」
 電話越しの相手は眠っていたらしく、やや寝ぼけた声をしていた。だがアキの声がせっぱつまっていることに気付いて、「わかりました、すぐに行きます、待っていて下さい」と頼りになる返事をしてくれた。
「千早、病院に行こう。たぶん、異形肺炎…マイコプラズマにかかってると思う。症状が軽ければ急ぐことはないけど、食事もとれてないし、血痰は出てるし咳も酷い。救急外来に受診しよう」
「…見たんだろ、請求書のヤマ。健康保険払ってないから無理だよ。全額自費負担なんて払えない、救急外来はそれでなくても高いのに」
「よく知ってるな。…長い事じいさんの病気、みてきただけある」
「あらら。そのことまで知られちゃったか。みた?あの金額。すっごいよなあ…高額療養費使ってもさ、月に入院費、放射線治療だけで十数万かかるんだぜ。そこに抗がん剤が月に三~五万。店がまーまー儲かっててもさ、それだけじゃ払いきれないよ。都内のホテルでピアノ弾いて回ってるけど限界あるし。結果、生活費を切り詰めるハメになっちゃってね」
 疲れた笑みを浮かべる千早の表情を見て、アキは後悔した。何故もっと早く気づいてやれなかったのだろう、と苦い後悔が湧いてくる。
「千早、全然休んでなかったんやろ…」
 否定も肯定もしないのが、彼の答えだった。
「金はおれが出す。別に返してくれなくてもいい、どうせ使うひまもないし」
「断る。おれはね、お金の事だけは絶対に、他人に助けられたくないんだ。ご飯をおごってもらうのとはわけが違う。アキにそこまでしてもらう義理はないはずだよ」
 眠そうに目を擦りながら、それでも、アキを睨みつけながら千早が言った。彼のこんな厳しい声を聴いたのは、はじめてだった。
「そうか。でもおれはお前を病院に連れて行くし、治療を受けさせるぞ。お前の意志なんか関係ない、おれがそうしたいからするだけ」
「ねえ、アキ。そういうのってさ、偽善だと思わない?本人は望んでいないし、他にたくさんおれよりも困窮してる人はいるよね。そういう人を全員、助けられるの。無理でしょう。結局、自己満足なんじゃないの。アキがやっていることは、自分の過去だとか自分の罪に許しを乞うているだけにみえるよ」
 厳しい言葉に、息を呑む。それでも、呻くようにアキは言った。
「そう思ってもらっても構わんよ」
 瞬間、千早の眼に強い怒りが宿って、ベッドから手を伸ばされ引き倒される。横になっていたはずの千早が起き上がり、咳をしながらアキを組み伏せた。
「今すぐ帰れ。でないと、酷い目にあうよ」
 怒りに満ちた千早の顔とは対照的に、アキは落ち着いていた。いつもの淡々としたポーカーフェイスで、「ひどいめって?」ととぼけてみせる。
 千早の手がマスクを剥ぎ取り、アキのシャツにかかる。ボタンが引きちぎれそうな強さで荒々しく外していく。
 ――ドンッ!と大きな音が、寝室のドアからきこえてきて千早の手が止まった。
 アキが緩慢な動作でドアを振り返ると、「あ」と声を発する間もなく千早が投げ飛ばされ、大きいベッドの隅に転がされた。
 投げ飛ばしたのは、星野祥一だった。
「大丈夫ですか。今警察呼びますね」
「いや、ちょっとまって祥一君。千早、大丈夫?」
「…ってえ…」
 ベッドの端で、「犬神家の人々」にでてくるような無様な格好で転がっている千早に、アキが慌てて声をかける。咳き込みながら、「なんなんだよ、あんた…」とベッドに倒れ込んだ。
 その場にかけつけたのは星野祥一だった。アキが手短に事情を説明すると、眉を寄せ、二、三反論をしたものの、「手伝います」と納得をしてくれた。
「…先生、そのまえに服を着てもらえますか」
「あ、ほんまやごめん。千早、カーディガン返してもらうぞ」
「何、もしかしてあなたもアキのセフレか何か?」
 千早の言葉に、祥一の顔がさっと青くなる。元々迫力のある、鋭利な顔立ちをしているので、怒るとアキですら背筋が寒くなるような鬼気迫るものがあった。
「三嶋先生を侮辱するな。…殺すぞ」
 そう言うとおもむろに千早の襟首をつかみ、――なんと、みぞおちに強烈なパンチを叩きこんだ。
 声もなく、千早は倒れ込む。何すんだ!と大声を出したアキに、「暴れられると背負えませんので」と冷静な声がかえってきた。
「だからって、病人なんだぞ」
「本当の重病人は、人を押し倒したりできないと思いますが」
「それはそうだけど」
 入院になっても大丈夫なように、泊まりのセットをカバンに詰め込む。祥一に千早を大通りまで背負ってもらってタクシーを拾い、あらかじめ調べた救急外来へと急いだ。

 

 

 


 さすがにレスキュー隊所属なだけあって、大の男を背負っていても、祥一は息ひとつ上がることなく平静な顔をしていた。病院に着くまでの間も、千早との関係のことや何故こんな時間にここにいるのか、といったことも、一切聞いてこない。
(まさに軍用犬やなあ…仕事も優秀なんやろう、こういう男は)
「三嶋先生」
「ん?」
「電話してくれて、ありがとうございました」
 千早を病院に連れて行くと、やはり入院した方がいい、という判断になり、そのまま入院させることになった。たまたま救急外来で連れて行った病院のベッドに空きがあったのだ。入院して、詳しい検査は翌日以降ということになる。
 夜中の病院から二人でタクシーを拾い、由記市へ向かっていると、祥一がお礼を述べてきて、アキは苦笑した。
「礼を言わなきゃいけないのはこっちだよ。祥一君、ありがとう。この埋め合わせは、必ずするから…何もきかないでほしい」
 隣に座っている祥一は、ドアに肘をついて窓の外をみているアキの横顔を、じっと見つめた。
「わかりました、聞きません」
「ごめんな。ごはんでもなんでも、奢るからさ」
「別にごはんは…」
「いや、さすがに迷惑かけた自覚はあるから。明日も仕事だろ、本当にごめん」
 慌てているときは出てしまう方言を、意識的に標準語にしながら、アキが言う。駅について料金を払い、二人真っ暗な駅前ロータリーを歩いた。
「じゃあ、一つだけお願いを聞いてくれませんか」
「ん?なんでもいいよ」
 立ち止まり、後ろにいる祥一に振り返る。彼は俯いていた顔を上げて、大股にこちらへと近づいてきた。
「キスさせてください」
「へっ!?」
「お願いします」
 月明かりしかないくらい真夜中、真剣そのものの顔で、祥一が言う。
 アキは困惑を隠せなかったが、さすがに断りにくく、沈黙する。
「…それで、祥一君が満足するんやったら…」
 答え終わる前に、アキよりもずっと背の高い祥一が、大きい手のひらで頬を包んだ。視線が絡んだのは一瞬で、言葉を発する前にその唇は塞がれる。左手で強く抱き寄せられて身体が密着して、祥一の身体がとても熱いということをアキは知った。
「先生……好きです、あなたのことが好きで好きで、頭がおかしくなりそうだ」
 耳元で囁かれる言葉に、顔が熱くなる。こんないかにも男っぽい男が、甘い言葉をいうことが意外で、またそれが向けられるのが自分だということが、恥ずかしくて現実感がない。
 長くて丁寧なキスが終わると、たくましい両腕で強く抱きしめられる。息ができないぐらいに強い、拘束にも近い抱擁。手のやり場にこまって、アキも彼の背中をそっと抱きしめた。どこもかしこも熱くて硬い、男らしさのかたまりのような奴だな、と思った。
「おやすみなさい」
 何かを振り切るように、くるりと振り返って祥一が走っていく。
 アキはその後ろ姿を、立ち尽くしたまま、見えなくなるまで呆然と眺めていた。