11 Ambulamce!(雨にうたえば)

 見ればみるほど、美しい男だった。
 実物を前にして確信した。兄が一目ぼれしたというのは、この男で間違いない。
(写真より、ずっときれいだ)
 十月に入ってすぐの水曜日だった。佐々木に紹介したい奴がいる、と誘われて集まった飲み会で、遅れてやってきた佐々木は、驚きの人物を連れて満面の笑みを浮かべていた。
「それじゃ乾杯しましょうか…っと、飲み物頼みますね。隊長、ビールでいいんですよね?」
「……ああ」
 普段にも増して無口な上司が、どうやらこの男と知り合いらしいことは、鈍い成一にもすぐに分かった。病院での様子といい、ただならぬ仲らしいが、どのようにそれを確かめればいいのか分からない。
「先生は、ビールでいいですか?」
 成一の問いかけに、俯いていた男が顔を上げる。目が合うと、心臓が跳ねた。
(そういう趣味、全然ないはずなんだけど)
「ありがとう、お願い」
 ほほえむ唇のかたちも、小さくて白い歯も、濡れた葡萄のような目も、男性だということを忘れてしまいそうなぐらいに美しかった。恐ろしかったので、成一は必要最低限以外、彼を見ないようにした。
「納得だよ。ささっちゃんがほれ込むのも無理ないねえ」
 大友が笑いながら、やってきたビールを男と佐々木に手渡す。佐々木は得意そうに笑いながら、そうだろ、と言って男の頭をぐしゃぐしゃ混ぜる。もともとあちこちに跳ねている黒い髪が、よりいっそう滅茶苦茶になった。
「腕もいいんだぜ、こいつ」
「お噂はかねがね。僕は中央署の、大友といいますー。救急隊の、機関員です」
 こういうとき、大友は素晴らしい役割を果たす。どことなく不穏な空気が漂っている室内を、おっとりとした柔らかい声が中和する。
「三嶋顕です。先月から由記市の救命センターで救急医をしています」
 落ち着いた声で、三嶋が言う。
「自己紹介も終わったことだし、ひとまず乾杯しようぜ、乾杯」
 佐々木の声に、全員がジョッキを掲げて唱和したが、六人部の表情は硬いままだった。

「三嶋先生、飲んでますか。ビールだと腹冷えるし、焼酎お湯割りとかにします?」
 席の配置がちょうど正面にあたる成一が、三嶋に声をかける。酒がすすんでくると、各々に酔っぱらって好き勝手話すので、そういう時に話に入れない人を探すのが成一のいつもの役割だった。
「なんか、君って犬みたいだね。賢くて人懐こい……あれだ、ゴールデンレトリバーに似てる」
 佐々木と大友、それに六人部は先日起こった殺人未遂事件の話で盛り上がっていた。その日成一は法事で休んでいたので、話が分からなくて少し退屈していたところだった。
「犬、ですか?」
 全員の飲み物や食べ物の減り具合に心を配りながら、ちょこまかと動いている様子がそう見えたのだろうか。成一は首を傾げて問い返す。
「うん。いい意味で。……お手!」
 手のひらを差し出されて、咄嗟に乗せる。三嶋は眉を下げ、声を上げて笑った。
「ほんとにするか、普通」
「す、すいません」
 三嶋の白い指は柔らかくて細長く、とても男の手には見えない。成一はその手を掴んで、しげしげと眺めた。血管が透けて見えている、白くて薄い皮膚と桜色の爪は、傷だらけでかさついた成一のものと、同じとは思えない。
「先生、手もきれいっすねー…」
「実はさ、毎日ハンドクリームぬって手袋して寝てるんだよね」
「えっ、マジすか」
「うん。毎日アルコール消毒するせいだろうけど、保湿が足りないとすぐ指がボロボロになるんだ。メス握るからさ、指先の感覚がちょっとでも狂うと仕事になんないし。一応気を使ってるよ」
「へえー…あ、顔とかもあれすか、化粧水とか使うんですか?シミとかシワ、全然無いですよね、肌真っ白だし」
 最近は男性用化粧品も出回っていて、なんとあの新島が使っているらしい。それを思い出しながら成一が訪ねると、三嶋は顔の前で手を振った。
「いや、顔は何もしたことない。めんどくさいし」
「じゃあその顔は天然……うわあ…天然ものですかあ…」
「そんな、人をブリか何かみたいに」
「天然のブリ美味いですよね」
「この刺身、天然のブリらしいよ。あげる」
 ピントのズレた話をしながらずっと手を握っていると、不意に強い視線を感じて振り返る。六人部が、射殺すような目でこちらを見ていた。
「うわっびっくりした、なんですか、何怒ってるんですか隊長」
 声をかけられて、六人部は咄嗟に片手で口元を覆う。
「別に怒ってない」
「そうですか?ならいいんですけど」
 手を離す。六人部はすぐに向こうの話に戻ってしまう。
「摂は相変わらずだな。自分のものに他人が触るの、大嫌いなんだよ、あいつ」
 三嶋の呟きは小さかったが、成一は聞き逃さなかった。え?と聞き返すと、彼は机に頬杖をつき、タバコを銜えて上下に揺らしながら笑った。
「きっと君の事気に入ってるんだよ、せいちゃん」
「せ、せいちゃん?」
「あだ名。今考えたんだけど、どう」
「どうといわれても。あの、六人部隊長が気に入ってるって、おれをですか?」
 三嶋がポケットを探ってから、軽く舌打ちをした。マッチが空だ、と呟くのをきいて、そういえば店で貰えたなと成一が腰を浮かせる。
「あいつは、昔からそうなの。自分の気に入った子は独占したい性質なんだ。そのくせ、相手が自分を独占しようとすると拒む。悪い奴だから気をつけなね」
 それだけ言うと、三嶋はマッチを貰ってくると言って席を立った。彼が立ち上がって動いた後には、爽やかな柑橘系の香りが漂っていて、匂いまでイケメンかよ、と成一は一人で唸ってしまう。
 ちらりと隣を見ると、大友と佐々木は熱心に事件の内容や被害者の受傷について話していたが、六人部はどこか上の空に見えた。話に相槌を打ったり、問われると意見を述べたりしたけれど、視線は窓の外や、三嶋がいた空席あたりをふわふわと彷徨っている。
 事件の事は分からないし、今から話に入りにくいので、成一は空いたグラスを下げて店員を呼び、追加のビールやハイボールを頼んだ。
 三嶋の席を見ると、ほとんど食べ物には手を付けておらず、酒だけが減っている。
(そういえば、先生はこの店はじめてなんだよな)
 この店の構造は少しわかりづらくて、給料日によく行く居酒屋とは異なり、レジというものが存在しない。会計はテーブルで行われ、混雑時になると入口にも人がいなかったりする。
「おれ、ちょっと三嶋先生の様子みてきますね」
「あ、そうか。三嶋この店はじめてだったな、頼むわ」
 佐々木がこちらを振り返らず、手をあげる。成一は個室を出て、三嶋の姿を探した。

 三嶋はすぐに見つかった。
 彼は、個室と座敷が複雑に配置されている店内の、いちばん奥にある喫煙所でタバコに火をつけようとしているところだった。声をかけると、指で頬をかきながら笑う。
「いやあ、場所がわかんなくなっちゃって。途方に暮れてたから助かった。この店複雑だね~ラビリンスだ、ラビリンス」
 シュボ、と音をさせてタバコに火をつけ、美味そうに吸い込む。その手にあったのは、マッチではなく百円ライターで、成一の視線に気づいた三嶋は肩をすくめて説明をしてくれた。
「さっき見知らぬお姉さんが、これくれたんだ。マッチどこで貰えますかねって話しかけたらさ、あげるって」
 吸う?と勧められたが断り、成一は側で立ったまま、吸い終わるのを待つ。
「あの、隊長とは…?」
 どうも聞きづらくて言葉を濁してしまう成一に、三嶋が笑った。
「幼なじみだよ。きいたことない?団地で向かいの部屋に住んでいたんだ」
 煙を吐く姿が様になっているな、と思った。
(ただ何気なく立っているだけなのに、そこだけぴかっと光って見えるような)
「そういえば飲んだときに、そんなような話を聞いた気がします。でも普段、六人部隊長はあまり自分の話をしないので」
「そうだろうね。気になる?」
 吸い終わったタバコを吸いがら入れに落として、三嶋が顔を上げる。星でも宿っていそうな、きらきらした黒い眼に見つめられて、成一は落ち着かない気持ちになった。
「…いつか隊長が自ら話してくれたら、聞きたいですが。結局、過去は過去で今じゃないですし…どっちでもいいです」
「その過去がすごく汚れていたとしても?」
「誰だって、ダメだったりかっこわるかったりする過去、ひとつやふたつはあるでしょう?三嶋先生は、ないかもしれませんけど」
 成一がそう言って、戻りましょうと三嶋の肩に手をそえる。少し驚いた顔をした三嶋は、何故か「気に入った」と言って成一の頭をしきりと撫でまわしながら歩いたのだった。
 部屋に戻ると一瞬、六人部がこちらを見た。その視線は怒りとも、寂しさともつかない不思議な色合いをしていて、成一は首を傾げるばかりだった。
(なんか今日の隊長、変だ)
「…中央署はいいけどよ、ひでえのは南署だよ!あそこの救急隊長がな、もうほんとひでえのなんのって。こないだなんぞ、酒の匂いプンプンさせてやがってよお」
「ああー、徳田隊長ねえ。ちょっとクセあるよね、昔はあんな人じゃなかったんだけどなあ。僕、お世話になったことあるんだよね。口は悪いけど、いい人だったんだよ。五年前ぐらいかな、どこだっけか、外国の災害派遣から帰ってきてからだよ。なんか様子がおかしくなっちゃったんだよなあ…」
 かつての成一の上司の名前が聞こえてきて、意識的に顔を逸らす。三嶋は成一の様子に気づいておや、という顔をしたが、何も言わずに酒を呷った。
「あのー、三嶋先生は…」
「せいちゃん、それやめようか、先生ってやつ」
 突然話をさえぎって、三嶋が箸で刺身を口にねじ込んできた。成一は驚きながらも咀嚼し、飲み込んでから続きを話す。
「えっ!じゃあ何とお呼びすれば」
「アキでいいよ、みんなそう呼ぶし」
「無理っす。どこの世界に、年上の、それもお医者さんを『アキ!』とかって呼び捨てにする救命士がいるんすか。勘弁してくださいよ、マジで」
 首が外れそうなぐらいにブンブンと左右に振ると、その様子に三嶋が笑った。
「せいちゃん慎ましいなー、…おかわり!」
 またしても逆の手をうっかり差し出してしまう。文字通り、腹を抱えて笑われた。
「やめてくださいよそれ!」
「ひっかかるほうがどうかしてるだろ」
「そういや、六人部隊長にも言われたことあります。外で隊長って呼ぶのやめてくれって」
 そう、学会にいったときのことだった…そこまで思い出して、不意に気付いた。
「あの、三嶋先生もしかして、九月の真ん中ぐらいに救急医学会、出ませんでした?」
「出たよ、東京のでしょ。なんで?」
 そうだったのか。
 違和感の正体がはっきりして、成一は溜息をついた。
 あの日、六人部が誰かを探していなくなった時。あれは、三嶋を探していたのだ。
「いや。えーっと、なんとなく出たのかなって」
 ヘタなごまかしに、三嶋はあえて何も聞かずにタバコをくわえる。それからちらりと六人部を見て溜息をつき、吸うのをやめた。
「おれも一つ、せいちゃんに聞きたいことがあるんだけど。苗字、星野だよね。お兄さんなんかいたりしない?それもハイパーレスキュー隊所属の、こう、キリっとしたイケメンのさ」
 日頃から似ていないといわれることが多いので、これには成一も驚いた。苗字は同じだが、まさか気づかれることはないだろうと思っていたのだ。
「……います……ちょっと風変わりな兄が、一人」
「やっぱり!雰囲気がよく似てる。君らは両方とも、しつけの行き届いた犬みたいだよ。お兄さんのほうは軍用犬だな、シェパードとかドーベルマンとか。せいちゃんは、家庭犬。育ちの良さって出るよね、話し方であったり、ごはんの食べ方であったりそういうところに」
 何だ、犬の話か?と佐々木が入ってきて、成一は慌てて両手を顔の前で振った。もしもここで三嶋が「いやあ、せいちゃんのお兄さんに言い寄られちゃって」とでも言おうものなら、大変な騒ぎになると思ったのだ。
 ところがそれはいらぬ心配だった。彼はばらすどころか、「佐々木先輩はすぐ交尾しようとしてくるうざい犬に似てますよ」と爆弾を落として、場を大いに盛り上げた上で上手に話をそらしてくれたのだ。その自然な気遣いに、成一は感動すら覚えた。
(きれいなだけじゃなくて、優しくて、頭までいいのか。こんな人いるんだなあ…おれにこんな幼なじみがいたら、隠したりしないで自慢するけど)
「ささっちゃんって、医大生の頃もこうだった?ほら、大学は京都に行っちゃったからさ、高校までと、就職してからしか知らないんだよなあ。三回結婚式には行ったから、女の人が大好きなことは身に染みて知ってるけどねえ」
 大友が、酔いで赤くなった頬を揺らしながら質問すると、三嶋が大げさに頷いてみせる。
「佐々木先輩は、三度の飯より女が好きですからね。京都の街中でも、飲み屋の場所よりラブホテルの場所に詳しかったです」
「ばっ、おま、余計なこと言うな!おいお前ら、耳を塞げ」
「一度なんて、酔っぱらって終電なくなって、鴨川んとこで始発待ってたらホテルで休みたいって言いだして。おれと一緒のときですけど、まあ飲み過ぎたし横になりたいのかなと思って、ビジネスホテルに連れてったら、どうなったと思います?」
「お前そのネタで何年おれのことイジメりゃ気が済むんだー!」
「飽きるまでです」
「そろそろ飽きろ!いや、頼むから飽きてくれ!」
 懇願に変わりつつある佐々木の頼みをまるっと無視して、三嶋が笑いながら言う。
「襲ってきたんですよ、この人。『一回だけでいい、ミシマ、頼む!先っぽだけでも!』とか言って。怖くないですか、いくら酔ってるっていっても、おれ、男ですよ。見境なさすぎるでしょ」
「ささっちゃん、それはないよお、いくら先生が綺麗だっていってもね」
 大友が涙を浮かべて笑っている。成一も、声にならない声で「で、どうしたんですか?」と先を促す。
「ぶっ飛ばしました。ええと、向こうの言葉では、『どつきまわす』って言うんですけど意味、わかります?まあようするにボコボコに殴りましたね」
「……ほんっとうにやりやがったからな、こいつ。翌日から大学でごまかすのに苦労したぜ。加減ってもんがあんだろーが、お前!!」
「しつけって最初が大事だというし」
「おれは犬か!!あんときは滅茶苦茶酔ってたんだよっ」
 大友と成一は、机を叩き、のけ反って笑っていたが、六人部は平然としていた。
「せめて笑ってくれよ。なんでそんな無反応なんだ、隊長殿は」
「アキ…三嶋先生は、昔からそうでしたから。男女問わずモテていらっしゃったので」
 佐々木が問い返そうとする前に、三嶋が答えた。
「実はおれと六人部さんは、同郷で幼なじみなんです。こんな偶然あるんですね。さっき一人知っている人がいるって言ったのは、六人部さんのことです」
さらりと言ってのけてから、三嶋はにっこりと笑った。有無を言わせぬ完璧な笑顔に、成一も大友も圧倒されて言葉を失う。
 佐々木は、何故か驚いた顔をして六人部と三嶋を交互に見ていた。
「幼なじみって…お前、それ」
「佐々木先輩、先に出ましょうか。これ、お金置いとくね。今日は誘ってくださってありがとうございました」
 何かを言おうとした佐々木を引っ張って、三嶋が風のように去っていく。
 その颯爽とした後ろ姿が、成一にはひどく寂しそうにみえた。

 

 

 

 

 

 

 それから少しだけ三人で飲んで、店を出た。大友は一人で駅に向かい、成一と六人部は共に歩く。
商店街は、飲食店以外全てしまっている。アーケードを抜けて、二人公園の中を通り抜ける道を歩く。重い雲の隙間から見える、細い月の灯りは頼りなくて、広くて暗い公園を照らすには不十分だ。
「…雨が降りそうだな」
 言った側から、雨粒が成一の鼻に落ちてきた。ぽつ、ぽつと降り始めた雨は、あっという間に土砂降りになって、成一と六人部をびしょ濡れにする。
「あそこ!あの自販機のとこ、屋根ありますよ」
 二人で走って、大慌てで屋根の下へ避難する。公園を抜ける道は成一にとっても六人部にとっても近道になるが、時間をつぶせるような場所がないため、雨宿りをしてマシになるのを待つしかなかった。
「あっちゃー…すっげー雨ですね」
 飲食代のお返しに、缶コーヒーを買って六人部に手渡す。
 彼は、自販機近くのベンチに座って雨を眺めていた。
「隊長、あのとき言っていた、捨ててきた故郷と幼なじみって…三嶋先生のことですか」
 苦い。一口飲んで思った。
(缶コーヒーのブラック苦手なのに、間違った)
「…交換するか」
 返事をする前に、手元の缶が入れ替えられる。六人部の手元にあったカフェオレが成一の手元へやってきて、思わずため息をついた。
「くはー…なんかおれ、ダメダメですね。決まんないなあ…」
「何いってんだ」
 六人部がようやく笑ってくれた。成一もほっとして、笑顔を浮かべる。
「そうだよ。団地で向い合せの部屋に住んでた。思い出したのか、あの日いってたこと」
「全部じゃないんですけど。酔いが醒めて、時間が経ったら少しずつ」
相変わらず、六人部は雨から視線を外さない。
「雨は嫌いだ。…いやなことばかり思い出す」
 もったいないな、と思った。
(雨にだって、すばらしいところは沢山あるのに)
 雨音をききながら、かかとでアスファルトの硬い路面をタタンと叩く。フロントブラッシュからバックブラッシュを繰り返して、タタン、タタンと繰り返し音を鳴らす。
「これね、シャッフルっていう技なんです、タップの」
 つま先で床を叩き、踵で床を叩く。タン、タンと音が鳴る。
「トウ・ディッグとヒール・ディッグ、」
 成一はにやっと笑ってから、片足で跳んで着地し、音を鳴らす。
「ホップ、シャッフル、ディッグ」
 タップサウンドが四音鳴る。六人部が、目を丸くした。
「傘あります?」
「あれば使ってる」
「ですよね」
 左足ステップ、右足シャッフル、左足ホップ。タップシューズではないので、きれいな音はならないが、成一がくるくる回ったり飛び跳ねたりしながらタップを踏むと、雨音に負けないぐらいのタップ音が鳴った。
「雨に唄えば、ってミュージカルみたいだな」
「それです!今おれ、それ踊ってたんですよ。みた事あります?」
「いや…あの雨の中で踊ってるシーンぐらいしか知らない」
「明日貸します。絶対見るべきです、あれは。雨が嫌いじゃなくなりますよ」
 踊っていると、どんどん身体が熱くなってきて、雨に対する憂鬱な気持ちもどこかへ飛んでいく。成一が母親に従ってバレエを踊ったのは、タップダンスを習いたいが為だった。ジーン・ケリーが躍る『雨に唄えば』を初めて見たとき、身体に電撃が走ったのだ。
『おれは、これを踊りたい!』
 雨がざあざあと音をたてて降り注いでくる。映画で見たジーンのダンスに自分のアレンジを加えたタップダンスを、成一は雨の下で目いっぱい踊った。クランプロール、シャッフル、フラップ。
 拍手がきこえる。踊りきった成一に、六人部が立ち上がって手を叩いている。その顔には、先ほどまで無かった、すっきりしたような笑顔があった。
「ありがとうございます!傘があれば、もっと完全にコピーして踊ったんですけど!」
「すごかったよ。ダンサーだったって、本当なんだな。星野は…きっと踊るのが、すごく好きだったんだな」
 少し上がった息を整えながら、六人部の隣に座った。
「そりゃあもう。タップダンスが好きで、習いたいって親に言ったら、『じゃあバレエも習え!』っていわれて。そこからはバレエにもはまって、毎日毎日何時間も踊っていました。走って、食べて、踊って。生活の一部がダンスでしたね」
 ガス灯にてらされた雨粒が、暗闇からジャブジャブ落ちてきて、屋根や足元を濡らし、土に還っていく。
「コンクールにも出たんですよ。プロになろうと思ったこともありました。でも…」
「でも?」
 問い返す、六人部の声が優しい。その響きと微笑みに胸がドキリとして、慌てて成一は目を逸らしながら言った。
「ダメでした。もう隊長はご存じかもしれませんが、おれすっごいあがり症で。コンクールになるともう、てんでダメなんです。カーッと舞い上がっちゃって、上手く踊ろうと思えば思うほどどんどんドツボにはまって。…結局、三位入賞止まりでした」
「充分すごいじゃないか。日本は、バレエ大国なんだと聞いたことがある。その中で三位ってすごいことだぞ」
 男性のバレエダンサーは数が少ないから、女性ほどの競争率ではない。それでも、成一のコンクール入賞歴はなかなかのものだ。
 …アマチュアの中では。
「一度ね、プロの有名なバレエダンサーの方に見て頂いたことがあるんですよ。イギリスのロイヤルで活躍してる、本物の天才です。その人に言われました、『上手く踊ろうとしている段階で、君は言うほどバレエを愛していないし、愛されてない』って」
もっと原始的なフィーリングなんだ、と彼は言った。身体から電気が出るとか、踊らずにはいられないとか楽しくて楽しくてたまらない、止められなければ何時間でも踊っていられる、とか、そういうものがなければプロにはなれない、と。
 その通りだな、と成一は思った。
「踊るのは好きです。身体を動かすのも。でも、バレエで生きていきたい、それしかない、というほどの情熱や才能が、おれにはなかった。だからスッパリやめました。今は趣味で踊る程度ですが、昔よりもずっと、たのしく踊れています」
 ジーン・ケリーのタップダンスも、バレエでよく踊ったドン・キホーテのバジルも、白鳥の王子も、全部大好きだ。
「雨に唄えば、の歌詞はね、『雨に濡れて歌を歌えば 心の中はすっきりするんだ』って言ってて。六人部隊長が嫌いだと思っている雨も、おれにとってはあの歌と、ダンスを思い出す大好きなものなんです。そりゃあ、おろしたての革靴がびっちゃびちゃになったりすると、神様ぶん殴ってやりたくなりますけど…」
 六人部が黙って、成一を見つめる。照れくささをおさえて、成一は笑った。
「雨は、雨なんですよ。他の何でもない。ある人にとっては嫌な事を思い出すきっかけかもしれないし、ある人にとっては楽しいことを考えるアイテムかもしれない。でも、やっぱ雨はただ降ってくるだけなんです。見ている人間が勝手にいろいろ思うだけでね、いつだって雨は降るし、風だって吹く。いいことがあれば雨が好きになるし、嫌な事があれば…六人部隊長みたいに嫌いになるかもしれない」
「アキのことを、言っているのか」
 察しが良い六人部の低い、少し怒った声に、くじけそうになりながらも成一は続けた。
「隊長は、恨んでいると思うって言いましたね。おれには、そうは見えなかった。三嶋先生はさびしそうでした。一方的に思い込んで、距離を置いているのは隊長じゃないんですか?ちゃんと話をするべきです」
「嫌われていると分かっているのに、声なんてかけられない」
 吐き出すような声に、反発する。らしくない、と思った。
「どうしてですか。相手がどう思っているかなんて、関係ないじゃないですか。おれが先生と親しくしているのが、すごく嫌そうだったくせに、どうして素直にならないんですか?本当は、話したいんでしょう、仲直りしたいんじゃないんですか」
「知ったようなことを言うな、お前に何がわかる」
「分かりませんよ、そんなよわっちい、臆病な隊長なんか知りませんもん!見た事ないですもん、仕事のことには勇敢で、自分がどう思われたっていいくせに、どうしてあの人のことになると途端に臆病になるんですか。話したくてたまらないくせに、好きなくせに、どうしてそう言わないんですか。三嶋先生なんて呼んで突き放して、あの人傷ついていましたよ」
 そうだ。
三嶋先生、と六人部が言ったときの、彼の顔を思い出す。
普通の人なら気づかないほどの一瞬だったが、彼の眼は傷付き、暗く翳った。人の変化に敏感な成一には、それがはっきりとみえたのだ。
「タバコ吸おうとしてやめたの、気づかなかったんですか…」
 成一の声に、六人部がすぐさま反論する。
「子供の頃、おれは喘息を患っていた。それを気にしたんだろ、三嶋先生は医者だ。そんなことを根拠に、好きだのなんだの…子供みたいなことを言うなよ」
 これ以上はダメだ。本格的に怒らせてしまう。
 分かっているのに、自分が止められない。不思議なぐらいに腹が立って、ぶつけずにはいられなかった。声がどんどん大きくなっていく。
「…好かれないと、愛されないと、すきになっちゃいけないんですか」
背を向けて、その場を後にしようとしていた六人部が振り返る。
「なんだと?」
「どんなに好きでも、相手が同じだけ好きになってくれるとは限らない。それはダンスだって、恋愛だって、下手すりゃ家族だってそうじゃないんですか。でも、例え向こうがどう思っていたとしても、自分は相手を大事にしたいと思う、それが愛じゃないんですか」
ハッ!と六人部が渇いた笑い声を上げる。みた事がない、冷たい顔だった。
「星野、確かに正しさで言えば、お前の言うとおりかもしれない。でも、おれの思う愛と、お前の思う愛は全然違う。お前が言っている愛は、きれいな愛だ。恵まれたものだけが口にできる、汚れていない、うすっぺらな愛だよ。おれが知ってるソレは、もっと薄汚れていて、ドロドロしていて、ものすごく熱い。触ったら溶けてなくなってしまうぐらいに」
反論しようとすると、手のひらをこちらに向けられ、止められた。
「そして、そこに救いなんか、ないんだ」
先に帰る。そう呟いて雨の中に消えた背中に、成一は後悔していた。
(好かれないと、好きになっちゃいけないのか、なんて。自分に言ってるだけじゃないか…)
 思い切り、自分の頬を叩く。思い切りすぎて、口の中が切れて血の味がした。
腹が立ったのは、自分に向かって言われているような気がしたからだ。嫌われているのに、無関心なのに、相手を思う事に意味などない、迷惑なだけだと六人部は言った。それを認めてしまえば、成一の生き方や気持ちはすべて、無駄で間違ったものになってしまう。
 愛は、そんなものではない。愛は見返りを求めず、押し付けない。もっとも尊いものだといつも祖母は言った。成一はその言葉を信じ、励みにして生きてきた。
 自らの、根幹として。
『成一君。愛というものはね、広くて、深くて、形の定まらないものなんです。世間一般的な愛や、愛だといわれているものに、とらわれてはいけませんよ。それらはほとんどが偽物です。友人に、家族に、そしていつか恋人に。あなたは愛を与えるでしょうが、決して与えられることを当たり前だと思ってはいけません。望み過ぎることは、破滅につながります。与えられることなど考える必要はないのです。あなたはただ、ひたすらに愛すればいい。周りの人を、大切な人を、愛でいっぱいにしてあげてください』
 宗教じみた祖母の言葉を盲目的に信じてきたのには、理由がある。だが、そんなことは六人部は知らないし、関係がないのだ。
『きれいごとで、薄っぺらい』
それはそのまま、成一のことを指しているようで、頭をかきむしりたくなる。大声をあげたくなる。
土砂降りの雨が止む気配もない中を、成一は濡れながら歩く。頭を冷やす、という言葉のとおり、夜中の雨は冷たくて、重かった。

 

 

 

 

 母が厳しい声で、ダメ出しする。
 成一は必死に応えようと努力した。それでも、彼女の求める理想は果てしなく高く、追いついたと思うとまた新しい目標が打ち立てられ、永遠に褒められることがない。
「あなたのパには、魅力がないわ!ああ、どうして二重関節じゃないのかしら。ねえ、もっと左足は開かない?」
 バレエは好きだ。好きだった。踊っている間は、雑音が消えた。指先まで神経を走らせ、音楽にのって世界を表現する。鋭い針で刺されるようなあの声を、聴かずに済む。
 莫大な費用を使って自宅を改築し、開いたバレエ教室は、彼女の全てだった。バレエダンサーとして活躍した後、後進を育てることにすべての情熱をささげていた母を、成一は尊敬していた。現役時代の彼女が踊るオディールも、キトリも、ダンサーにしては低い身長をものともしない素晴らしいものだった。
(でも、母親としてはどうだ?あの女が、おれたちに何をしてくれた。バレエをしろ、バレエをしろと押し付けて、家庭のことは省みず、親父が仕事でいないのをいいことに生徒と不倫して。どこを尊敬しろって言うんだ。おれは、あんな女大嫌いだ。ばあちゃんがいなければ、とっくに絶縁してる)
 生まれて初めて見た兄の激昂した大声に、成一は心底震えあがった。
(成一、お前はお前の人生を生きていい。あんな女に気を使って、顔色を伺い続ける必要なんかないんだ。家を出ろ。ばあちゃんだって、それを望んでる)
祖母の顔が、ゆらりと浮かぶ。涙を流しながら、(成一君、ごめんなさいね、ごめんなさいね)と謝る顔。高校時代、バレエをやめようとしたときに縋りつかれ、(お願い、娘を愛してあげて。あの子を嫌いにならないであげて)と必死で言い募られた顔。
『見返りを求めずに愛したら、いつか』
 そう思っていることがすでに、見返りを求めている事を成一は気づいていた。それでも求めずにいられない。愛さずにいられないように、愛されることを望まずにはいられない。
 兄が叫ぶ。肩をつかみ、揺さぶる。
(成一、嫌なものは、嫌だと言っていいんだ)
 …嫌なんだ。苦しい。嫌われるのは、愛されないのは。
 だから、誰も嫌いになりたくない。嫌われたくない。
 嫌われるぐらいなら、無関心でいい。おれが一方的に好きでいれば、それで…。

 

「…ちゃん、…せいちゃん!」

 

――まぶたを開く。
仰向けに寝転がっている成一を、三嶋と六人部が覗き込んでいる。視線をさまよわせると、そこは見慣れた自分の部屋の天井だ。
「あれ…どうしたんですか…うッ!!」
「動かないほうがいいよ。息をゆっくり吸って…吐いて」
 ダークグレーの薄いニットを着た三嶋が、柔らかい声で言う。ああ、この人は本当に医者なんだな、と考えた後、こうなった原因を考えた。
 記憶を探る。飲み会から帰ってきてから風呂に入り、眠った。それから…
(そうだ、たしか夜中に猛烈に胃の当たりが痛くなって、転がりまわるぐらい。そんで、胃薬飲んで…)
 おさまることのなかった胃痛が、やがて吐き気に変わり飛び起き、トイレで食べたものを全て吐いた。真夜中、まだ明るくなる前のことだ。そこから、痛みが徐々にズキン、ズキンと鈍いものにかわっていき、しばらくの間寝たり、起きたりした。
 そうだった。胃痛が次第に横腹の痛みに変わっていったのだ。眠れないほどの激痛ではなくなった代わりに、少し動いただけでその振動が響いて、ベッドから起き上がることができなかった。
(あれから、また眠って…時計…うわっ!!)
 時計は十月一五日午前十時を指している。もちろん、当務日だった。
「し、しごと!すいません、おれ… 隊長まで、…ィデデデデ!」
起き上がろうとして、痛みで再度ベッドに横たわる。六人部が動くな、と静かな声で言った。
「勤務時間になっても来ないし、携帯は通じないし…昨日、おれが酷い事を言ったせいかと気になって、様子を見に来たんだ。ちょうど三嶋先生がお休みだというので、頼んでついてきてもらったよ」
「せいちゃん、きのう顔色が少し悪かったから気になってたんだよ。それにしても、鍵が開いてて助かった」
 三嶋が聴診器を耳につけながら言う。Tシャツをまくり上げて、「ちょっと音、きかせてな」と微笑まれた。
「息を吸ってー、はい、止めて。ゆっくりはいてー」
「うう…あの、多分食あたりかなんかだと…すいません隊長、用意してすぐ行きますんで」
「星野、お前救急救命士だろ。本当に今の自分が、ただの食あたりだと思うのか?」
 冷たいタオルを額にあてながら、六人部が眉を寄せる。いいえ、と成一は素直に首を振った。
「発熱してますよね…部位が、一時的な食あたりではないですし」
 聴診器を外して、三嶋が頷く。
「触診させて。痛かったら、手を上げてね。ちょっとお腹押すよー」
 横たわっている成一の腹部に、冷たい三嶋の指がゆっくりと食い込む。胃の右下当たりをぐっとおさえて、どう、おさえてるとき痛い?と尋ねられる。
「いたいですけど、そんなには…」
「そっか。これは?」
 おさえた指を、さっと離された。押された腹が解放されると同時に、鋭い痛みが走る。
「うぐあ!い、痛いです」
「ふむ」
 今度は腰骨の上あたりを、何度か押され、手を離される。そしてそのたびに成一は悲鳴を上げ、頭の中に答えがぼんやりと示される。
(ブルンベルグ…これはもしかして…。そういやおれ、まだかかってない)
「非常に分かりやすい、ブルンベルグ徴候が出てるね」
「ああ。発熱もしてるし、痛みの移動の仕方も典型的だ」
 六人部が頷き、水を飲むか?と尋ねてくる。成一は助けを求めるように三嶋を見た。
「でも確定は出来ない。ここにはエコーもCTもないからね。血液検査をすればマーカーで分かるけど、腹膜炎を起こしてるかも。救急車を呼ぼうか」
 賢さを宿した、きらきらとした眼で三嶋が返す。
「そ、それだけは勘弁してくださいー!あの、おれ自分で行けますから」
 大声を出すと、響いて痛んだ。おとなしくしてろ、と六人部が呆れ顔で言う。
 三嶋は笑いながら、「兄弟って似るんだなあ」と呟き、「車を出すよ。とってくるからちょっと待ってて。ついでに病院も当たってみる」と部屋を出て行った
 静かになった部屋で、成一は気まずさに沈黙する。飲んだ次の日に、まさか病気になって、あげく上司に自宅まで来させてしまうとは。
(多分応援入ってくれてると思うけど、大友さんごめんなさい!ご迷惑おかけしてごめんなさい!!)
「星野、」
「はい!ごめんなさい!!本当に申し訳ありません!…イテテ」
「謝るのはこっちのほうだ。昨日は、すまなかった。あれから家で考えていた。お前の言ってることは、正しかったよ。図星を指されて腹を立てるなんて、狭量もいいところだ。あの日三嶋先生に連絡して、少し話をしたんだ。だから今、こうして来てくれた」
「おれも出過ぎた事を言いました。でも、仲直りできたのなら、良かったです」
 六人部がタオルを交換しながら、首を振った。
「仲直り、とはちょっと違う。ケンカをしていたわけじゃないから。でも気まずさは、大分と薄れたよ。星野のおかげだ、ありがとう」
 ベッドサイドで膝をついている六人部の顔が、いまだかつてないぐらいすぐ側で微笑んだ。その表情を見ると、成一は腹ではなく、胸の奥がズキンと痛んだ気がした。
「三嶋先生にまでご迷惑をかけてしまいました」
「迷惑だなんて、思ってないだろうな。星野の事を気に入っているみたいだから。ただ、三嶋先生の病院にそのまま紹介してもらう、というわけにはいかないだろうから」
「分かっています。救命センターは三次選定病院ですから…いてて。急性虫垂炎の手術なんか、してませんもんね。二次選定となると、三友会病院とかですかね」
「こんなときに、選定のことを考えなくていいから。目を閉じて休んでろ」
「ああーでも病気休暇とかになるんでしょうか…やだなあ」
「年休全然使ってないだろう。そっちを使えば、査定にも響かないよ。総務にもそう言っとく」
 手のひらが、成一の目を覆う。背中の手当をしてくれたときのことを思い出しながら、成一は目を閉じた。
(あのときよりも、指が熱い)
 よく見れば、六人部がパーカーの下に着ているTシャツは、後ろ前逆になっていた。余程慌ててきてくれたのか、ズボンに至っては救急隊の制服のままだ。グレーのパーカーにグレーのパンツという、ダサい恰好に吹き出しそうになる。
 指の隙間から見える六人部の心配そうな顔と、頭についた寝癖が愛しかった。
(なんか変な気持ちだ。なんていうのかな。すごく、抱きしめたい)
 病気にかかって心細いからだろうか、と成一は考える。寝癖をなおして、抱きしめて、そして三嶋先生との間に何があったのか聞きたかった。大丈夫だと励まして、なんなら力になりたい。できることがあるのなら、何でもするのに。
「佐々木のおっさ…っと、佐々木先生に頼んで、特別にうちの病院で受け入れてくれることになったよ!ただし執刀は外科の研修医だけど。アッペ(急性虫垂炎)は代々そういうものだからね、せいちゃん、どうか日本の医学生のためにその腹をささげてくれ」
 外から飛び込んできた三嶋は、あざやかな緑色をした、マッキントッシュのコートを羽織っている。うつくしい顔、まぶしい笑顔と輝くセンス。これは、誰しも好きにならずにはいられないだろうと成一は苦笑して、頷いた。
「あーあ。三嶋先生、服までお洒落とかどんだけ無双なんすか」
 車の後部座席で横になりながら、成一が言う。すると三嶋は意外にも、
「おれ、私服めっちゃダサかったよ。家が貧乏で洋服なんか全然興味無かったし、毎日家ではジャージ着てた。今、見れたものなってるのは、特に頼んだわけでもないのに買って出てくれてる専属スタイリストのおかげ。その名を市岡侑李という」
と返してきた。
「市岡って、中高と同じクラスだった市岡?」
「そ。専属スタイリストであり、唯一の女友達でもある」
 傷が痛まないように、三嶋は丁寧に運転しながら病院へと急ぐ。助手席に乗った六人部の問いかけに、人を食ったような言い方で三嶋が返す。
「ファッション誌で編集者やってるって聞いたけど、こっち出てきたのか」
「うん。東京で死ぬほど働いてるよ。奴の口癖は、『アキちゃんはほっといたらすぐダサくなる!』『わたしがおらな、アキちゃんダサいねんから!』やぞ。失礼な話やろー?東京に行ってからも、月一大阪帰ってきてたで。おれの服一緒に買うために。当然金を出すのはおれやし、お礼にってメシは奢らされるし、時々一緒にあいつの服まで買わされるけど、確かに服を選ぶ目とセンスと情熱は、すごいと思うわ。人を着せ替え人形にして楽しんだはる」
「ブレないな。市岡のファン熱は相変わらずか」
「ファンっていうか…。あのエネルギーはどっからくるんやろう…もうええ年やのに」
 初めて聞いた三嶋の大阪弁に、成一は少し笑った。笑うとその振動で腹が痛くて、泣き笑いのような顔になる。
「三嶋先生、そっちの言葉のほうがなんか、いいですよ。似合ってます」
「そう?でもねえ、どこいっても関西弁でとおす奴、って思われたくないし。だから仕事中は標準語使うんだよね。郷に入っては郷に従え、これどこいっても重要でしょ?」
 言葉を標準語に戻して、三嶋が言った。
「おれは標準語しか話さないな。もう、十五年以上こっちだから」
「…早くそうなりたい。言葉って、なかなか変えらんなくてさ」
 車窓から、由記救命センターの白い建物が少しずつ迫ってくる。
 二人のやり取りを聞きながら、成一は、ゆっくりと目を閉じた。