オトナノハナシ (前編)

 はじめに気がついたのはアキちゃんだった。

「なあ、なんか市岡、顔色悪いんと違う?」
 由記駅のロータリー前にあるカフェは、わたしたちの定番の待ち合わせ場所だった。
 理由は、ここに来るたびに何か物足りないものを感じるから。たしかここには、心躍らせるようなちょっとしたものがあったのにな、とこの店に入るたびに少し落胆し、その正体を突き止めたくなって、何度でも使ってしまう。
「そう?なんでやろ、確かにちょっと食欲ないけど」
 道路に面したガラス製の内壁部分に頭をもたれかけながら、わたしはちらりとカウンターの中を見た。そう、あの中にちょっとした癒しがあったような気がするのだ。たとえるなら、結構かっこいい男の子がいたとか、そういうワクワク感がこの店にはあったはずだ。でもそれが何なのか、どうしてそんなふうに思い込んでいるのか、自分でもよく分からない。
 アキちゃんの手が延びてきて、人差し指と中指でそっとわたしの右手首を探った。脈をはかっているかのような手つきに、ドキっとして損した。彼の眼と指は、どうみても医師のそれだった。
 眼を伏せたアキちゃんの真剣な顔が、朝の光の中で映えてとても美しいなと思いながら、わたしはされるがままで黙っていた。彼は脈をはかったあとで少し眉を寄せ、「体温が高いな。微熱があるんやないか?」とひとりごとのように言った。
「あー、いわれてみれば、しばらく熱っぽいかな」
 それに眠いし、鼻水がでる。風邪をひいているのかもしれない、とわたしが言うと、アキちゃんは顔を上げて、完全に医師の顔で問いかけてきた。
「最終生理日はいつやった」
「ちょっと、いくら友達でもセクハラやでそれ」
 おどけてごまかそうとしたけれど、アキちゃんはそれを許さない。
「大事なことや。早く答えろ」
 わたしは緩慢な動きでプラダのバックをひらき、手帳を取り出して目当ての日を探した。就職してから生理周期は不安定で、仕事が激務な時期は2、3ヶ月こないこともザラにある。
「横暴なお医者さんやわあ。ええと、先月の…9月2日から5日間」
 今は10月15日。言われてみれば今月は2週間ほど遅れている。
「ちょっと、変なこと言うのやめてよ。元々不安定で何ヶ月かこおへんことなんかしょっちゅうやねんから」
 考え込むような顔で、顎に指をあてて視線を下げているアキちゃんをみていると、にわかに不安になってきた。わたしは現在35歳で、初彼氏にときめく女子高生ではない。「できちゃったかも」とか言っても誰もキャーキャー騒いでくれないのだ。ただ自分が青ざめるしかない。
「……ちょっと出てくるから待ってて。すぐ戻ってくる」
 動揺しているわたしを落ち着かせるためか、てのひらで肩をそっと撫でてから、アキちゃんが店を出て行く。ガラス張りになっているせいで、アキちゃんの目的地は店の中からでもはっきり分かった。彼は迷いなく、駅の構内にあるドラッグストアに入っていって、5分もしないうちに小走りで帰ってきた。
 くせのある、つやつやの黒髪を乱暴に書き上げてから、アキちゃんは目の前のイスに座った。数ヶ月ぶりに会ったけれど、彼は肌も髪もほんとうにきれいだ。化粧をしていないのに、年齢が現れやすい首すじやてのひらまで、真っ白でしっとりとしていてシワひとつない。それどころか、走ったせいで薄赤くなっている頬にかかる黒髪が、いっそなまめかしいほどだった。
「検査してこい、いま」
「ちょっと待って……」
「早いに越したことないから」
 目の前に置かれているのは、よくある生理予定日一週間後から検査できるタイプの、妊娠検査薬だ。いったいどんな顔でこれを買ったんだろうか。店員はきっと、アキちゃんの美しい顔をみて「あらまあ」と思ったに違いない。女の人を妊娠させてしまったと誤解された可能性が高いけれどいいのだろうか。
 隣に座っていた女子大生が、アキちゃんと妊娠検査薬を交互にみたあとで、私に同情的な視線を向けた。こちらは完全に誤解されている。
「お願いやから今調べて。このままやったら今日気になって寝られへん」
 わたしは昔から、アキちゃんに必死な顔をされると弱い。それに、自分でも気になってきた。結果が怖くて水を持つ手が震える程度には。
 わかった、と返事をしてポーチに検査薬を入れ、カフェのトイレに向かいつつ、さすがに彼はわたしの性質を熟知しているな、と感心した。今調べなければ、わたしはきっと数ヶ月放置していただろう。気づいたころにはもう「いろいろと」手遅れになるところだった。
 検査薬のキャップをとり、決められた手順どおりに実行して手を洗う。
 試験紙に尿がしみこんでいき、検査終了の縦ラインが入ってからもしばらくの間、わたしは検査薬を手に呆然と立ち尽くしてしまった。
 ――まさか、そんなはずない。
 毎回必ず避妊していた。お互いに十分すぎるほど大人だし、妊娠のメカニズムもタイミングも分かっていた。それなのに。
 いつの間にか検査薬を手にしゃがみこんでいた。ここから出なければ、と思うのに、足が動かない。頭の中が真っ白だった。
「市岡、大丈夫か」
 ノックの音と一緒に、アキちゃんの控えめな声が聞こえて、わたしはドアにすがりつく。
「どうしよう……自分の身に起こった途端にパニックやねんけど」
「まあな、ドラマとか映画では使い古された展開ではあるよな」
 のんきな声に、涙がこみ上げてきた。ひとりじゃないって、本当にありがたい。
「とりあえず出ておいで。うち来てゆっくり話しよう。摂がおって申し訳ないけどあいつは静かな奴やから気にせんでええし」
 思っていたよりわたしが動揺したからか、アキちゃんが六人部くんとの愛の巣にわたしを誘ってくれた。うれしくてありがたくて、こみあげた涙がついに落ちてしまう。いやだ、こんなありがちな反応をしたくないのに当事者になったらありがちな反応しかできない。
 やさしく気遣われながら、わたしはアキちゃんの、駅からほぼ直結、徒歩3分のタワーマンションへと連れて行かれる。きっとこれから色々問いただされるのだろう、まさか自分が、こんなことのなるなんて誰が想像しただろうか。幼少の頃から成績もよく見た目もそこそこ、仕事はバリバリできすぎて独身という、絵に描いたような都会のプロ独身女、市岡悠季が。
 人生って分からないものだな、と他人事のように思った。

 あいかわらず洗練された部屋だけれど、少し生活感が出ていてほっとした。たとえばコーヒーメーカーが、ふたり以上に使えるような大容量のものに変わっている、とか、玄関に男性用のシューズ(タイプがまったく異なるもの)が数足おいてある、とか、通りかかったバスルームのランドリーボックスにオレンジ色の制服が無造作に押し込められている、とか。そういう細かいところに、アキちゃんが他人との生活を受け入れ、楽しんでいるのだとにじみでていて、とても嬉しい。
「ひさしぶりだな、いらっしゃい」
「おはよう、六人部くん。日焼けしたなあ」
「今はハイパーレスキューにいるから。外を走ったりもするのでどうしてもな」
 わたしがわずかに反応したことを、アキちゃんは見逃さなかった。じっとわたしの眼をみつめ、でも何もいわずに「どうぞ」と中へ案内してくれる。
 大理石張りの広い廊下を出迎えにきてくれた六人部くんとアキちゃんが並んで歩くさまは、映画のワンシーンのようだ。しなびたイケメンと、美しい男の2ショットは、いつみても絵になる。
 「コーヒーでいいか」という六人部くんの問いかけに、アキちゃんが「いや、カフェインの入ってない奴がいい。麦茶あったやろ、レンジで軽くあたためてあげて」と返事をする。リビングのソファに案内され、腰掛けるとすぐに膝掛けを手渡された。
「暖房つけるほどではないけど、冷やしたらあかんからな」
「ああ……ごめんね、気を使わせて」
「気なんか使ってへん。当たり前のことしてるだけ」
 大きい真っ白なカッシーナのソファは座り心地が抜群だった。背もたれに体を預け、眼を閉じてため息をつく。まぶたのうらに、あの妙にくっきりとした青色の縦線がこびりついて、離れない。
 隣に座ったアキちゃんの表情が気になり、目を開けられずにいると、六人部くんがコーヒーひとつと麦茶のホットをもってきてくれた。
「ごゆっくり。じゃあおれは寝室にいるから、用があれば呼んでくれ」
「ごめんな、摂。ありがとう」
「六人部くんありがとうね」
 こそっと彼らを盗み見る。いつも通りの無表情の中にも、少し心配そうな雰囲気があって、なるほど、彼のこういうところが魅力的なんだろうな、と思った。露わにしない優しさや、気分に波がなく落ち着いているところは、アキちゃんにとってすごく救いになっているんだろう。
 立ち上がったアキちゃんが、六人部くんの手にそっと触れて離れる。すると、無表情だった彼の表情は、途端に嬉しそうな笑顔に変わるのだ。眠たげな眼が細められ、広角がふっと上がる。それをみたアキちゃんも嬉しそうに微笑む。
 彼らはちょっと、色気がありすぎる。
 ふたりとも根底に孤独を抱えているところが、そうさせるのかもしれない。
 六人部くんが寝室に行ってしまってからしばらくすると、アキちゃんが小さい声で「つき合ってる人に、まずいわなあかんな」とつぶやいた。
「それは……無理かもしれない」
「なんで。おまえ、もしかして妻子ある男とつき合ってる、とかとちゃうやろうな?イージーな恋愛はやめろって言うたやろ」
 柳眉を逆立てて低い声を出したアキちゃんに、わたしは慌てて首を振る。
「ちがう。相手は独身やし、それは問題ないねんけど、その……つき合ってるわけじゃ、ないんよねえ」
 わたしの言葉に、アキちゃんは眉をひそめ、手に持っていたコーヒーカップをローテーブルに置いた。
「なんやそれ」
「定期的に会ってて、一緒にお酒飲んだり遊んだりはするけど、つき合おうとか好きとか、そういう話になったことなくて」
「アホか。そういうのは二十代で卒業しとけや。男は減らへんけどなあ、女は人生も変わるし、命に関わることやねんぞ」
 一喝されて、言葉も出ない。
 黙り込んだわたしに、アキちゃんが苛立ったようにため息をついた。
「………まあ、ええわ。おれもひとのこと言えた立場とちゃうしな。けじめのあるつきあいばっかしてたかっていうたら、違うし」
 怒ったりしてごめんな、医者失格やわ。そう行って頭を下げたアキちゃんの手を握って、わたしはぶんぶんと頭を振った。
「嬉しかったよ。友達として怒ってくれたんやろ?ありがとう」
 わたしの言葉に、アキちゃんは眼を細め、「産むの」と聞いた。
「産む。産みたい」
 どうしてか考える間もなくわたしは口にしていた。ほかの選択肢はまったく思い浮かばなかった。相手がなにを言おうが、ひとりであろうが、わたしは産む。
「そっか」
 手のひらがわたしの髪をやさしく撫でた。彼の肩に顔をうずめて、ばれないように、少しだけ泣いた。聡いアキちゃんはちゃんと気づかないフリをしてくれた。髪をやさしく撫でたままで。

 本当に情けない話だけれど、避妊しているだけで安心しきっていた。
 けれど振り返ってみれば前回排卵日付近に、彼と寝た気がする。たしか雷のひどい日だった。秋の嵐かな、と言って窓の外を眺めていたら、後ろから抱き寄せられて「帰りたくない」とだだをこねられたのだ。そのあまりのかわいさと肉体の吸引力に負けてしまい、その日も彼を泊めてしまった。
 正直に言えば、わたしは彼と寝るのが好きだった。
 鍛え上げられた肉体は、それだけで美しくて魅力的で、あの腕に抱かれるとたいがいのことはどうでもいいと投げ出してしまう。好きとか嫌いとか、つき合うとかつき合わないとか、そういうことは考えたくなかった。
 「恋愛」のレッテルを貼れば、いつか終わりがきて傷つくことが確定してしまう。
 それなら、何もはじまっていない、ただ行為だけがそこにあることにすればいい。
 自分を大切にするとかしないとか、そういう考え方など通り過ぎた。わたしは大人の分別があり、それなりの経験があり、経済力がある。したいようにするだけだ。相手は独身で、わたしもそう。何の問題もない。
 彼はわたしを抱くとき、ほとんど何もいわない。熱い吐息と苦しげな雄の顔がすべてで、それで良かった。傷の舐めあいからはじまった関係だったのだし。
 身体を重ねたきっかけも他愛もないものだった。
 いつものように山に登ったある日、帰りで台風に捕まってしまったのだ。豪雨により鉄道が止まり、山のふもとで一泊せざるを得ない状況になった。部屋はひとつしか空きがなく、そこはツインではなくダブルだった。わたしたちは疲れていたし、5月の雨に濡れて身体が冷えていた。そして、どちらもさびしかった。失恋から完全に立ち直れていなかった。
 だから寝た。どちらからともなく顔を近づけ、その後は夢中だった。力強い手に身体をうつぶせにされたり、抱き上げられたり、腕力や体力がないとできない様々な体位で、動物のように何度も何度も交わった。
 疲れきって腕の中で眠りにおちるときに、わたしはしみじみと思った。「世の中には本当に気持ちのいい、演技の必要のないセックスもあるんだなあ」と。
 実をいえば、男性とのセックスでオーガズムに達したことは一度もなかったのだ。彼とこうなるまでは。

「市岡さん、集中してください」
 低い声が耳元でささやきかけてきて、わたしは眼を閉じた。
 きもちいい。最高。
 それならそれで、それだけで、いいじゃないの。
 

「相手がだれか、気にならないの」
「気にしてほしいんか」
 たばこに火をつけようとしたアキちゃんが、慌ててその手を自分でぱしんと叩いてやめた。その様子がかわいらしくて、わたしは眉を下げる。
「聞かれてもいわへんけど」
「おれは別にどっちでもええ。言いたいんやったら聞くし、言いたないねやったら言わんでも。ただ、子どもにはちゃんと言わなあかんで。結婚するかせえへんかは、お前と相手が決めることやけどな。子どもには、自分のルーツを知る権利がある。それはもう、切実に、本能的に知りたいと思う時期が絶対くるから、そのときには教えたらなあかん」
 決然としたまなざしで言ってから、アキちゃんは立ち上がってカーテンを開けた。それから、めをほそめて笑った。
「相手が結婚も認知もしてくれへんねやったら、おれが認知するし」
「な、にいってるの、そんな勝手に!六人部くんに相談もしないで」
「父親がわからへん、おらへん子どもがどういう想いをするか、知ってるからな。色々と不便なことも多くなるし。まあ、頼りない父親やけど、摂にも手伝ってもらったらなんとかなるやろ」
 保育園の送り迎えとか、交代でやったらいけそうやん?摂はほら、夜勤の後は二日間、送り迎えできるし。おれも当直の開けの日と翌日は休みやし。
 真剣な声に、ありがたくてますます泣けてしまう。
「迷惑、かけられへんから、気持ちだけで十分」
「アホ、子育てなんかひとりで出来るかいな。貸してくれる手は全部借りたらええねん。それに……」
 戻ってきたアキちゃんが、照れくさそうに笑いながら言った。
「おれも摂も、子どもを産み育てることはできへんからなあ。それぐらいの社会貢献、させてや」
 あなたのその優しさがいけない、と以前なら腹をたてていたかもしれない。でも今は、純粋にありがたいと思う。アキちゃんをあきらめることができてはじめて、その優しさを素直に受け止めることができるようになった。
「ありがとう、うれしい。ありがとう」
 

****

 さて、どうしようか。
 妊娠検査薬の結果をうけて、産婦人科を探した。都内はダメだ。どこに知り合いがいるか分からない。こういう仕事をしているから、人脈は浅いが限りなく広い。
 かといって、全く分からない場所の知らない病院に行くのも怖い。
 結局、わたしはアキちゃんに紹介してもらって、彼の勤めている市立病院の産婦人科に行くことにした。
 アキちゃんが勤めている病院は、救命センターしかないのだと思っていたけれど、どうやらそうではなく、総合病院の中にある科のひとつが救命センターなのだという。
 大きくてきれいな病院の外来は、見たことがないほど混んでいた。アキちゃんが話を通してくれたおかげで、初診なのに予約をできたのだけれど、それでも決まった時間から1時間は経過しているが、いまだに呼び出しのひとつもない。これだから病院は苦手だ。待ち時間があまりにも長すぎる。
「そもそも、外来は受け入れのキャパシティを越えてるからな」
 アキちゃんが、「永井に話は通すけど、待ち時間は覚悟してくれ」と渋い顔で言っていたのを思い出す。本当に受け入れ可能な人数を越えて受け入れているのは、たとえば薬が切れる患者や、助けを必要としている患者を「人数的に無理です」と切り捨てることができないからだという。医療の精神は、「必要な人すべてに」だから、どうしても患者さんに負担をお願いすることも出てくるのだ、と。
「にしたって、この人数……医師を増やしたらええのに」
 きっと、医師ひとり雇うのに大変なコストがかかるのだろうけれど。
 持ってきた文庫本を読み終わってしまったとき、ようやく名前が呼ばれた。わたしは立ち上がり、のろのろと診察室に入った。
 身体がだるくて疲れていたせいだろうか。後ろから、彼が見ていたことに全く気づかなかった。

「おめでとうございます」
 永井という童顔の医師が、まるで自分のことのように嬉しそうにほほえんで言った。
「ほ、ほんまですか」
「ほんまです」
「いるんですか、その、人間が。わたしの中に、もうひとり」
「そうですね、います」
 あらかじめ言っておくと、妊娠が確定した途端に涙を流して喜ぶ描写、わたしはあれを信じていない。むしろ気持ち悪いとすら思っていた。なんでそんなにすぐ受け入れられるの、他人がいるのよあなたの中に。もしかしたら凶悪殺人鬼とか連続レイプ魔とか40年間ニートとかそういうとんでもない人間になる可能性だってあるのに。そうなったとき責任はとれるの、ちゃんと育てる自信があるの、なんで手放して喜べるのよ、バカじゃないの。
 そう思っていたはずなのに、わたしは「そうですかあ……いるんですねえ」とつぶやきながら、泣いていた。号泣に近い域だった。
「永井先生」
「はい、なんですか」
 くりくりとした眼が、やさしくわたしをみつめる。その誠意ある雰囲気に、思わず本音が出た。
「いままで、子どもなんかほしいとおもったことなかったんですけど」
「ええ」
「愛する人の子どもなんや、って思うだけで、こんなに愛おしくなるものなんですねえ。所詮はセックスの結果でしかないのに」
 あからさまな物言いだったかな、と反省して、わたしは眼を伏せた。エコーの画面にうつっているちいさい粒のようなもの。あれが命、の、はじまりなのか。
 心配は杞憂に終わった。永井先生は特段驚いたり嫌悪感を抱いたりしなかったようで、「愛するひとの遺伝子をつなげていきたい、って思う動物的な本能が、やはり人間にもあるのでしょうね」と頷いた。
「妊娠はセックスの結果ですが、その結果には重い責任と多大な時間、労力を求められます」
 ですので、パートナーの方とよく話し合ってくださいね。
 永井先生は、少し顔を引き締めてそう言った。おそらく、診療の前に書いた問診票で、「結婚している」に丸をつけなかったからだろう。
「はい」
 浮かんできた涙がかわくように、わたしは上を向いた。けれど、まだ話す勇気は、沸いてこなかった。
 なにしろ彼は4つも年下だ。将来がある。好きだと言われていないし、言ってもいない、つき合っているかどうかすら定かではない。
 

***

 話すことができないまま日にちがすぎた。
 10月の下旬、いよいよつわりが出てきて毎日口の中が酸の味で満たされているため、なにかしらのキャンディをずっと舐めながらやり過ごす。幸い、一日中吐いているとか、ずーっと船酔いしているようだとか、そこまでのつらさはなかったけれど、特定の匂いにはやはり嘔吐感があった。
 仕事場には秘密にすることができなかったので、上司に打ち明けて遅出にしてもらった。通勤時間は短いけれど、満員電車に乗らなくて済むだけでもありがたかった。
「またね。家ついたら電話する」
「うん、心配だから絶対してよ?」
「約束する」
 帰宅する電車の中で、かわいらしいカップルのやりとりをなんとなく聞いていた。彼氏のほうは電車を降りてから何度も振り返り、手を振り、彼女も電車の中でそれに応じていた。
 夜空の中に浮かぶ東京の街を眺めながら、わたしはあの日の彼を思い出して少し笑った。
 手を振ったり、名残惜しそうにしたりするのではなく、腕を組み、映画にでてくる鬼軍曹みたいに厳しい表情で、わたしの後ろ姿を見張っていた顔。
 彼と会った帰り道で、一度、かなりしつこいナンパにつきまとわれたことがあった。断っても逃げてもついてきて、家まで来られそうで怖かったので、交番に駆け込んだ。結局警察官に家まで送ってもらったのだけれど、その話を「べつにこんな三十路女を追いかけなくてもいいのに、よほど相手に困ってたんかなあ」と笑いを交えて話した日から、彼は毎回、わたしを部屋まで送るようになった。そのまま部屋に入ってきて泊まって帰ることもあったし、ただ見送るだけのこともあったけれど、見送るときは必ず「軍曹スタイル」でマンションの下からにらみをきかせていた。油断のならない相手を見張るかのような目つきで。
 そう、あれは見張っていた、という表現がぴったりだった。甘さなんてかけらもないのがおもしろくてたまらなかった。
「ふふっ」
 こらえきれず声にだして笑ってしまって、目の前のOLが訝しげにこちらを見た。わたしは軽く頭をさげてから、夜景に視線をうつす。
 携帯電話がポケットの中で震えた。前に着信があったとき出なかったからか、しばらく彼からの連絡はとぎれていたので、メールを見たわたしはどうしても彼の声がききたくなった。
 あの、低くて揺れ幅のすくない、落ち着いた声。見た目は粗暴そうに見えるのに、指やてのひらはいつもやさしくて丁寧で、この手がアキちゃんに触れたんだ、とおもうたびに、わたしは嫉妬していた。はじめは、彼に。そして、今は――
 最寄り駅について、電車を降りる。電話を耳にあてて、何度か呼び出し音が鳴った。
「……こんばんは。久しぶりに、飲みに行きませんか」
「ごめん、ちょっと体調がわるくて。お酒はしばらく無理かも」
「それなら、ごはんでも」
 めずらしく食い下がってくる。その声の硬さと様子に奇妙なものを感じつつも、会いたい誘惑には勝てなかった。
「じゃあ、あさっては?」
「大丈夫です。家まで車で迎えにいきます」
「そんな、いいよ」
「いきます。それじゃ、あさってに」
 電話を切ったわたしは、のんきなことに妊娠の事実を告げる方法や言い方のことではなく、なにをたべようかな、と考えていた。現実逃避かもしれない。
 久しぶりに会えるのは嬉しい。でも、話すのは震えるほど恐ろしい。
 自分の髪を手でさわるのは、不安なときの癖だった。知っている。それでもやめられずに、なんども髪をさわりながら、わたしは自宅マンションのエレベーターの前で、何度も何度も「上」ボタンを押した。エレベーターがやってくるたびにぼんやりしては乗り過ごし、また「上」を押して、そうやって少しでも時間が経つのを、ものごとが前にすすむのを遅らせたいと願った。それは単に時間の無駄であり、遅らせることでもなんでもない、とわかっていながら、何度も何度も押し続けた。