オトナノハナシ (後編)

 彼が迎えにくるまでの短い時間、わたしは、彼を好きになったきっかけのようなものについて、ぼんやりと想いを馳せたが、これ、という明確なきっかけは見当たらなかった。今までつきあった男性のタイプの全く異なっているから共通点もない。(これは、私の周りには優男然とした男性ばかりが多かったせいであり、彼のような業種のひとと知り合うきっかけがなかったことが大きいけど)
 窓の外は晴れていて、部屋は掃除が終わって片付いている。さっきまで憑りつかれたみたいにグレープフルーツを食べていたけど、今は少し胸やけしてきて後悔していた。もうすぐ食事に行くというのに、どうしてあんな愚かなことをしてしまったんだろう。止まらなかった。親の仇のようにグレープフルーツを剥き、かぶりつき、無我夢中で食べた。もうこれ、自分の意志じゃなくてホルモンのなんやかんやに支配されている気がする。
 ごはんなんて、食べにいけるのだろうか。でも会いたい。妊娠のことを打ち明けることなんて二の次で、わたしはただ、彼に会いたかった。どういう反応が返ってくるのか、もしかしたら、ひどく傷つくことになるかもしれないのに、そんなことどうでもよかった。なんなら遠くから見るだけでもいい。最後かもしれないから、彼の姿形を、全部覚えておこうと思った。
 なにぶん都会の真ん中にあるマンションなので、空気が悪くてほとんど窓を開けることができない。なので、ベランダで彼の車がくるのを待つ、とかそういうことはできず、携帯電話に連絡がきて初めて、わたしは立ち上がってマンションの下、エントランスのところへと降りた。
 風は秋のものに変化していて、けれど、日差しはまだ夏の名残を残している。アスファルトに止められた黒いハリアーにもたれ、俯いていた祥一くんは、わたしが歩道に出てきてすぐ、さっと顔を上げた。まるで、散歩に行く前の犬みたいで、ついつい笑ってしまう。
 ボーダーの長袖クルーネックに、カーキのカーゴパンツ。白いスニーカー。シンプルな服装なのに、足が長くて体格がいいから、恰好よく見えてしまう。
「どうぞ、乗って下さい」
 助手席のドアを開けて誘導され、わたしは促されるがままにそこへ座った。彼は運転席に回り込んでエンジンをかけると、ナビを入力し、車を走らせた。
「どこにいくの?」
「うなぎでも……と思っていたんですが」
 祥一くんがリラックスした様子でハンドルを切り、車が高速道路に乗った。相変わらず大きい手だ。がっしりしていて、大概の果物はひとたまりもなく粉みじんに出来そうな。
 男性の運転している姿に色気を感じる、というのがわたしと友人の共通見解なのだけれど、例えばアキちゃんと祥一くんでは運転に対する姿勢というか、意気込みがまったく違う。アキちゃんも運転が好きで、時々乗せてもらうことがあるけど、彼は気分転換のために運転をするから、車を動かすことや操作することはオマケらしい。どこかへいくこと、そのための手段としての車、好きなのは移動と変わる景色。
 祥一くんは、多分乗り物を運転すること自体が好きなんだと思う。運転しているとき、彼はお気に入りのオモチャを手にしている子どもみたいな眼をしている。自分で操作して、思い通りに動かすことが楽しいなんて、やっぱりこのひとは男の人なんだな。
「侑季さん、きいていますか」
「あ、ごめん。うなぎね、いいね」
 正直に言うと、とてもうなぎなんて食べられそうにないのだけれど、せっかく探してきてくれたのに言い出しずらくて、微笑みをつくって返事をした。
「実は今朝、職場の人から伊勢海老をもらいまして。ひとりでどうしていいのか分からないので、おれの家で調理を手伝っていただけませんか」
 料理はあまりできないので、本当に手伝う程度になりますが。
 そう言った祥一くんの横顔がどこか緊張しているように見えて、わたしはとっさに「オッケーつくる」と了承してしまった。
「伊勢海老調理したことないから、見よう見まねだけど。どういう食べ方がいいかなあ、グリルしてレモンかけて食べるのもいいし、フライにするのもいいし、新鮮ならきっとお刺身が一番おいしいけど頭のところは軽くガス火で焼いてお味噌汁にしたら最高だよね…」
 匂いが受け付けられるかどうか心配だ。最近は鮮魚コーナーの匂いがダメで、スーパーでそのあたりを通っただけで吐き気がする。
 海老…あの丸っこくて赤いフォルムと歯ごたえと香り…おえっ、大好きだったはずなのに気持ち悪くなってきた。しかも伊勢海老って。全くどうしてもっと万全の体調のときにもらってきてくれないんだろう、腹が立つ。なぜ今なの。お互いの人生を左右しかねない、重い話をしなきゃいけない今日、よりにもよって、伊勢海老なんてもらってこなくてもいいのに。
「うまそうですね……」
 恍惚とした表情を浮かべている祥一くんの期待に少しでもこたえるべく、わたしは道すがら、携帯端末でひたすら伊勢海老の調理方法を検索した。匂いを避けるために、もってきたマスクをつけようと考える。妊婦さんがみんなマスクをしているのを「風邪予防かな」と思っていたけれど、どうやらあれは半分正解で半分間違いだ。この世界にはさまざまな匂いがあふれていて、体調のいいときはなんとも思わない匂いが、妊娠初期にはたまなくクサいときがあるのだ。例えば女性のシャンプーの香り…香水の香り…おじさんの油っぽい体臭…おえっ、想像しただけで吐きそうだ。マスクは世界中の匂いから身を守る防波堤なのである。
 もぞもぞとマスクをつけはじめたわたしを横目にみて、祥一くんが「体調が悪いんですか」と深刻な顔をしてつぶやいた。「ちょっとね」と曖昧にこたえを返して、窓の外を眺める。高速で移動していく外の風景と、ほとんど物音のしない静かな車内。絶え間ない眠気に抗えず、祥一くんに「つきましたよ」と揺さぶられるまでわたしはよだれを垂らして寝てしまっていた。

 悪戦苦闘しながら伊勢海老を料理して、テーブルにつく。日曜日の昼間、窓の外はよく晴れていた。秋晴れというやつだろうか。ベランダでは干されている洗濯物が、風の中で気持ちよさそうにゆれていた。
「いただきます」
「はい、いただきます」
 料理をしない、というのは弟に比べれば、という意味だったらしく、米をとぐ動作も、野菜を洗う動作も手慣れたものだった。おもってたよりできるんだね、というわたしの言葉に、彼ははにかんだように笑った。
「弟はもっとすごいんですよ。おれは最低限しかできません」
 なんとか伊勢海老の刺身とフライを作ったものの、とてもじゃないけど食べられる気がしない。ひときれふたきれ口に運んでから、ごめんやっぱり体調が悪くて、と断って、部屋の奥に置いてあるベッドに横にならせてもらった。眠くて眠くて仕方がない。仕事中はなんとかこなしているけれど、休みの日はどうも気がゆるんでしまってダメだ。
「わたしのことはいいから、気にしないで食べてて」
 こちらに来ようとする彼を手のひらで制して、わたしは横になったまま彼をみつめて笑った。
 おいしい、と喜んで食べてくれている祥一くんを、ベッドから眺める。休みの日だからか、今日は髪がおろされていてふだんより少し幼く見えた。硬そうな黒い髪と、まっすぐな眉と、ひきむすばれた唇。箸が小さく見えるほどの、大きい手。
 もしわたしが写真を趣味にしていたら、この横顔を撮ったのにな。
 ごはんを食べることに集中している、姿勢のきれいな、大きい男の人。将来大きくなった子どもにこの写真を見せて、「あなたのお父さんはね…すごくよく食べる人だったのよ。それに身体がとても大きかったの。顔もほら、かっこいいでしょ」とか言ってみたかった。
 多分ホルモンの影響なんだと思うが、ここのところわたしは全てにおいて悲観的になり感傷的になっていて、わけのわからないことで涙が出てきたり哀しい気持ちになったりする。彼とこうして会うまでの間、仕事をしていない時間はずっと、「一体自分(達)はどう言って切り捨てられるか」ばかり考えていた。もちろん彼がそんな人間ではないというまっとうな想像もあることはあったのだが、いかんせん、我々は付き合っていないのである。感覚としては飲み友達(ときどきセックスもする)的な。その友達にいきなり「妊娠しちゃったんだよね~…どうしよ?」とか言われたら誰だって困るだろう。
「ごちそうさまでした、おいしかったです」
 食べ終わった祥一くんが食器を片づけてからこちらへやってきたので、わたしは身体を起こしてスペースを開けた。すぐ側に彼が座り、「寝てて大丈夫ですよ」と気遣わしげにささやく。
「どこか、悪いんですか」
「なんで」
「こないだ、三嶋先生の病院であなたをみかけたので」
 息が止まった。けれどそれも一瞬のことだ。修羅場をくぐってきた数はわたしのほうが多い。こんなことで動揺して我を忘れたりはしなかった。
「ね、ひざまくらしてあげよっか」
 すぐ側で、切れ長の目が見下ろしてくる。驚いたような、でも嬉しそうな、そんな顔。
 言葉は少なくても彼の表情は全てを語る。可愛いなあと思った。
「ほら、おいで、祥ちゃん」
「なんですかそれは…」
 憮然とした表情で、おずおずと膝の上に頭をのせる様子が本当に可愛い。ワックスのついていない髪はまっすぐでさらさらしていて、指をそこに通して撫でてあげると、気持ちよさそうに目を細めた。
「……あなたは変わってる」
「そうかな、どこが」
「女の人はみんな、おれに甘えたいっていって寄りかかってくることが多かったのに」
「わたしだって甘えたいときはあるけどねえ。きみをみてると甘えさせたくなるんだよね、不思議なことに。なんだろ……大きい濡れた犬みたいにみえるときがあって」
「犬」
 半ば愕然とした表情に、わたしは慌てて言い添えた。
「大きい、濡れた犬ね」
「余計にひどい」
 くつくつと笑うと、彼もつられたように笑った。
「今まで生きてきて、ひとに甘えたことなんかなかったんですけどね」
「ああ、なんかそうっぽいよね。わたしは甘えたり甘えられたり、どっちも好きだけど」
 手のひらで目隠ししてやる。まつげが手のひらに当たってくすぐったい。
 これからする話がどういう結論を迎えるとしても、いまを覚えておきたいな、と思う。幸福で泣きそうになるような愛し方を、わたしはいままでしたことがなかった。自己中心的に熱烈に愛しては報われないと嘆く、子どものような愛し方以外は、愛することよりも愛されることばかり求めている、かけひきめいた恋愛ばかりだった。
「おれには甘えてくれないけど」
 静かな声だった。咄嗟に返答できなくて黙っていると、てのひらがそっとわたしの腕をつかみ、目隠しを外してしまう。
「三嶋先生には、相談したり、甘えたり、肩を抱かれて歩いたりするのに」
 いつの話、何の話、と質問すればいいのに声が出てこない。ショックだった。怒ったような声に、彼のアキちゃんへの未練を感じて二の句が継げなくなった。
 思い当たるとしたらあの日しかない。妊娠が確定した、駅前のカフェからアキちゃんの家に向かった日だ。よりにもよって、そんなふうに受け止められるなんて。
「まだ好きなんですか」
「なに言ってんの」
「まだ三嶋先生のこと、忘れられませんか」
「――アホとちゃうか!?」
 カッとなった。完全に頭に血が上った。
 突然わたしが立ち上がったせいで、祥一くんはベッドにごつんと頭をぶつけた。やわらかなマットレスのお蔭で大事にはいたらなかったが、わたしとしては、そこがカチカチの大理石なら良かったのに、と思った。おもっきり頭を打てばよかったのに、と。
「まだアキちゃんのこと好きかって?ようそんなこと言うたな自分、そんなわけないやろ!!それやったら寝るかい、ほんま信じられへん、めっちゃ殴りたいわなんでここにバットないんやろ、ケツ100叩きにしてやりたい」
 ダメだった。もう止まらなかった。妊娠ホルモンのせいだ(全部ホルモンのせい)。
「今日来たのは妊娠してるからそれを伝えにきたけど、別に何もしてほしいことなんかないし、できたら認知はしてほしいけどそれも無理やったらええし、養育費もいらん。自分でなんとかする、幸い働いているしどうとでもなるわ。結論はもう出てるから。産むから。もうそれは決まってるから」
 泣くまいと思っていたのだが、わたしはそれはもうみっともなく号泣していた。涙も鼻水も出っ放しだった。35にもなろうという女が、見苦しい事この上ない。
「それだけや。妊娠してますあなたの子供です産みます、以上終わり帰る!!」
 自分でも驚くことに、これだけ取り乱して泣き叫んでいても、わたしの眼はとても冷静に祥一くんをみていた。その顔に、失望や面倒そうな表情が浮かぶ瞬間を見逃すまいと、必ずその表情を見つけてやろう、そうすれば結婚しなかったことの理由がちゃんとできる、自分を納得させられると、仔細をすべて冷静に、冷酷に監視していた。
 さあ、切り捨てて。無残に、無慈悲に。
 覚悟は決めた。はずなのに、祥一くんの顔に浮かんでいたのは純粋な驚きと、意味の分からない、喜び…?のような表情だった。
 彼は立ち上がってわたしの肩を両手でつかみ、そっと抱き寄せて言った。
「結婚しましょう」
――プチンと来た。正真正銘「キレた」というやつである。
 わたしは手近にあったハンガーで祥一くんの尻を思いっきり叩いた。「いてっ」と叫んだ祥一くんが驚きの表情でわたしを眺め、情けなく眉を下げた。
「どうしてぶつんですか、痛いですよ」
「別に責任とってくれんで結構。離してください帰ります」
「ちょっとまってください、話を」
「これ以上話すことなんかないっ」
 妊娠したから責任とって結婚してくれるなんて、彼らしくて涙が出る。でもそんなの全然嬉しくない。
 わたしは彼の重荷になりたいわけじゃない。ただ、――…ただ?わたしはどうしたかったんだろう?本当にひとりで育てる気でいるなら、なにもつたえる必要なんてなかったのに。
 狼狽えながら腕をつっぱり逃れようとするものの、力で叶うわけもなく、ベッドの前でおし合いへしあいするだけだ。けれども、彼を突破しなければ玄関に辿りつけないし、外に出られない。ここは8階だ。ベランダから飛び降りたらしんでしまう。
 そのとき、ピンポーン、という間抜けな音が部屋に鳴り響いて、一瞬、ふたりとも動きが止まった。その隙に玄関に向かって遁走しようとしたわたしを、立ちふさがって止めてから、祥一くんが室内のドアフォンを手に取る。出るんかい。
「はい」
『おれだよ、成一。いまちょっといい?』
 ここでまさかの弟登場。彼等はとても仲がいいけど、べたべたしてるわけじゃなくて、まるで友達のように交流している。『両親とウマが合わなかったので、弟と祖母しか家族がいなかった』と祥一くんは言葉少なくつぶやいていたことがあった。確か、夏ごろ。成一くんも交えて3人でバーベキューをしたときに、そんな話をきいた。
「……いまはちょっとだめだ」
 祥一くんがこちらに背中を向けた。いましかない。
 わたしは音をたてないようにゆっくりと後退して、ベランダの方へと向かった。弟との短いやりとりに気を取られているうちにベランダの窓を開ける。
 ガチャリ、と音をたててドアフォンの子機を置いてこちらを振り返った祥一くんが、ぎょっとした顔のまま固まった。
「なにしてるんですかっ」
 走ってくる。さすが、早い。
 捕まるギリギリのところで、わたしはベランダの柵を乗り越え、非常階段にのりうつった。そう、祥一くんの部屋は8階の角部屋で、ベランダの隣に非常階段が設置されているのだ。柵を、こえなければいけないが。
 真っ青になっている祥一くんの顔をみると少し溜飲が下がったけれど、そうも言ってはいられない。
 こっそりもってきた鞄をかかえて、わたしは非常階段を走り下りた。彼がエレベーターで降りてくるよりもほんの少し早くマンションの前の道路にたどり着き、裸足のまま、駅とは逆の方向へと向かった。追いかけてくるとしたら駅のほうへと向かうと思ったのだ。まあ、それもわたしの自惚れで、いまごろ部屋でビールでも飲んでいるかもしれないが。
 お腹が痛い。もうこのままダメになっちゃうかもしれない。
 どうして結婚しようと言われた時に素直に「ありがとう」って言わなかったのか。自分で答えはよく分かっている。もし今彼が言う通り結婚したら、わたしは一生、「あのとき妊娠したからプロポーズしてくれたんだな」「妊娠したからいま一緒にいてくれるんだな」って思ってしまう。
 愛してほしかったんだ、自分は何も云わなかったくせに。
 分かり切っていた答えに涙ぐんだ。好きだと言われれば満足したんだろうか。愛していると言われれば納得したんだろうか。どちらにせよ、自分は疑ったに違いない。
 アキちゃんのことをまだ好きだと思われていたなんて。じゃあ、わたしが彼と寝ていたのはなんだと思っていたのか。誰とでも寝ると思われていたんだろうか。ショックすぎる。分かるだろうそれぐらい、言わなくても!好きだからに決まってる、もっと殴ればよかった。ハンガーが折れちゃうまでケツを叩いてやればよかった。
 自分の矛盾に気が付きながら、大通りまで走っていってタクシーを拾った。今日会うために下した、黒の、ちょっとセクシーなストッキングはボロボロだし、お気に入りのジミー・チュウのパンプスは置いてきてしまうし、伊勢海老はほとんど食べられないし、散々だ。散々な日曜だった。タクシーの中で流れていた、宇多田ヒカルの「Goodbye Happiness」の歌詞に、またしても涙がこみあげてきて唇を噛んだ。
 そう、わたしはもう戻れないのだ。
 あの頃、アキちゃんや六人部くん、ケントくんと一緒に桜並木の坂道をはしゃいで登っていた頃には、もう戻れない。

 どんなに体調が悪くても仕事は無くならない。
 朝こそは通勤緩和を使っているが、残業はいくらでもした。「妊婦が残業をしたくないと申し出たらさせてはいけない」という制度があっても仕事が減らない限りわたしは残業をしなければならないし、なんといっても仕事が好きだった。それに今まで必死で積み上げてきたキャリアを台無しにするのが怖くて、「人事考課は落ちるけど、業務量を減らすことができるよ」という上司の提案に素直に乗ることができなかった。
 最後に祥一くんと会ってから2週間が過ぎ、10月が終わろうとしていた。
 あれから何度も何度も電話がかかってきたが、わたしは一度も出なかった。出られなかったのは何を話せばいいのか分からなかったのと、仕事の修羅場がかぶっていたのと両方だ。
 混乱していた。多分ちょっとおかしくなっていたのかもしれない。とてもじゃないけど祥一くんと「話し合い」なんでできる状態じゃなかった。自分の身体の変化や、それでも待ってはくれない仕事に、わたしは必死で追いつこうとしていた。
 気分の悪い日でも、仕事中は気を張り詰めているのでつわりもマシだった。けれど家についた途端、いままでの疲れやストレスが噴き出すみたいに、吐き気がこみあげてきてほとんど何も食べられない日が続いた。栄養を何もとらないのは不安だったので、夕方や朝に時間休を取って食事のかわりに点滴を入れてもらい、昼は休憩室でフルーツだけを食べてなんとかやり過ごす。
 夜は疲れのあまり家について最低限の家事をやったらすぐに寝てしまう日々だった。おかげさまで、自分のことをウワサしているであろう同年代の同僚達(敵対勢力)の話を、ほとんど気にせずにすんだ。
「侑季さん、現在のウワサ速報ききます?」
 金髪のボブカットが良く似合っている可愛い後輩が、面白そうにわたしに耳打ちをした。彼女は入社以来ずっとわたしが育てていて、月に何度か飲みに行くほど仲がいい。
「あら面白そうぜひ聞かせて」
 うんざりしたようなわたしの態度に、まこちゃんはくくっと笑った。
「なんでも侑季さんは年下のイケメンにハマって貢いで妊娠してしまって、今は捨てられたって設定になっています」
 当たらずしも遠からず…と思いながらわたしはフフンと笑った。
「何歳ぐらいの設定?」
「24,5歳だったかな。背の高い…なんか、ジェイソン・ステイサムみたいな体型のイケメンだって」
 もしかして、彼と一緒にいるところを誰か見たんだろうか?しかし残念なことに祥一くんは31歳で二十代ではない。若い男かどうかと言われると疑問がよぎる。どちらかというと「大人の男」の域だと思うのだが。体型は確かに素晴らしいしわたしも好きだ。彼がTシャツを脱いだときは、まじまじと眺めてしまうし興奮してしまう。飾りじゃない、実用的に鍛えられた身体。きれいに割れた腹筋や、引き締まったお尻。最高である。だからついつい何もないのにわたしは祥一くんの尻を叩いてしまうのだ。あのプリプリした尻に負けじとわたしも、なるべく運動は欠かさない。デコルテの美しさをよく褒められるので、それもなんとか維持していきたいと思っている。顔への投資は言うまでもない。
「はあ、美人はつらい。ちょっと妊娠しただけでウワサの的になってしまう」
「えっ?ちょ、マジなんですか!?」
「マジだよ。まだ心拍確認できたばっかりの初期だけど」
「えーーーーー!!!」
 仰天して目を剥いている後輩に、「しーっ」と人差し指を唇にあてるジェスチャーをしてみせる。いまはランチタイムで、会社内のこの休憩場所にはわたしたちしかいないけれども、誰がきいているか分からないのだ。(一応、会社には上司以外秘密にしている)
「彼氏いないって言ってたじゃないすか、裏切りですよ、裏切り」
「いなかったんだけどねえ。なんか、こう。流れで」
「ながれ、流れでセックスして妊娠て。いい大人がいうことじゃないです」
「いや~避妊しててもできるときは出来るんだね。参った参った」
 まこちゃんは食べていた焼きそばパンをそっとテーブルに置いて、わたしをじっとみた。
「相手のひとは、知ってるんです?」
 めずらしく真面目な声だった。わたしは頷き、野菜ジュースをなんとか飲み込む。
「知ってるよ。こないだ伝えた」
「それで?」
「結婚しようって。断っちゃったけど」
「なんでェ!?えっ、もう、意味わかんない、なんで!?」
 この剣幕に、さすがに「付き合ってたわけじゃないので」とは言い出しずらく、わたしは困った顔で黙った。胃の奥がキリキリと痛んできて、そっと溜息をつく。
「好きなんでしょ?いいじゃん、きっかけなんかなんだって!それとも愛してないんです?」
「愛…愛ねえ、よく分かんないなあ」
 本当は知っている。分かっている。
 相手がテニスをやめてつらいとき、自分が側にいたかったな、何もできなかっただろうけど、と思ったこと。年が4つも離れていて、住む場所も全く違っていたのに、彼は学生のころどんな人だったんだろう、側で見てみたかったなあ、と思ったこと。家族と上手くいかないとき、それに失恋してつらいとき、ひとりで黙々と山に登る彼の側に、寄り添いたいなと思ったこと。
 きっとこれら全てが、恋で、愛なんだろう。――認めたくはないけど。
 胃の傷みが下腹部の傷みへと変わる。いたた。ストレスは妊娠継続の大敵だ。お腹をおさえて呻いたわたしをみてどう思ったのか、マコちゃんが言った。
「ちょっと携帯借りていいっすか?」
 眉を寄せ、考え込んでいたマコちゃんが、急ににこにこ笑って提案してきた。この時点で気づくべきだった。彼女の上機嫌は危険信号であると。
 「なんで?」と聞くまでもなく、わたしが手に持った携帯をぱっと奪って、マコちゃんはさっさとロックを解除して通話履歴をひらいてしまう。ちょっとちょっと、突っ込みが追いつかない、なんで番号知ってんの?なんで通話履歴を開いたの?
「こいつですね、星野祥一。めちゃくちゃ電話かかってきてんじゃないすか、出てあげなよ。ひどいな~」
 聞き捨てならない言葉をブツブツいいながら、マコちゃんは勝手に通話ボタンを押した。ちょっと!と声を上げて立ち上がろうとするも、下腹部が洒落にならないぐらい痛くなってきて立ち上がれず、机に突っ伏す。
「あ、もしもし。星野祥一さんですか。わたし、侑季さんの同僚で我妻麻子と申します。すみません、侑季さんの彼氏ですよね。え?そうなんです。彼女調子が悪くて、救急車を呼ぼうかと思ったんですが止められ……わっ、落ち着いてください。大丈夫ですか?ええと住所ですね、はい、東京都、千代田区、――です。あらら、もう切れた」
 はいどうも~、すっごい慌ててましたよ、今すぐ迎えに行くって。愛されてますねえ。
 そういって携帯を返してくるマコちゃんの額をぶってやりたいけどそれは叶いそうもなくて、わたしは恨みがましい眼で睨みながら「うぐぐ…余計なことを」といういかにもよわっちい、味方の援軍を待つザコキャラみたいなセリフを吐いた。
「あのね、大事な人には生きてるうちにそれ、伝えたほうがいいです。彼が、どんな仕事してるのか知りませんけどね、仕事中に死んじゃうことだってあるし、交通事故に合うかもしんないし、そういうときに、つまんない意地はってたらめちゃくちゃ後悔しますよ」
 椅子に座り机に突っ伏しているわたしを、仁王立ちで見下ろすマコちゃん。ああ、あなたは若い…。こんなに忙しくても肌はつやつやだし、目は血走っていない。
「わたしはもう、あなたみたいに若くないのよ」
「大丈夫。侑季さんは、きれいです」
 そういえば、出会ったころ彼にも同じことを言われた。「あなたはきれいです」と。とても真摯なまなざしで、それなのに下心もいやらしさもなくて、心が震えたことを思い出した。
「上司に事情説明してくるんで、侑季さんはそこで寝ててください。うごいちゃダメですよ!!」
 きれいだなんて、あと何年もつかわからない。彼は若い。わたしは先に年を取る。外見は衰えていくし、身体の機能だってダメになる。もっと若くてきれいな女の子があとからあとからやってきて、やがて女としては見向きもされなくなる。
「好きなひとが好きになってくれるなんて……そんな都合のいい話は、物語の中だけなんや……肌は衰え卵巣の機能は低下し髪だって…いまはないけどそのうち白髪が…」
 恋愛敗者根性が染みついているわたしは、腹痛とともに浮かんできた泣き言をつぶやき、ぼんやりと窓の外を眺めた。こどもは、おなかは、わたしは大丈夫なんだろうか。あんなにもめたのに、このまま流れてしまうのだろうか。
 何分ぐらいそうしていただろう。昼休みが終わったのか、社内の吹き抜けから聞こえてくる人の声は少し静かになり、窓からみえる大通りを行き来する人の数も減った。
「市岡~大丈夫か~」
 痛みに脂汗がでてきた。多分出血もしている。一応、ナプキンをしてきてよかった。
 上司の声に顔だけをそちらに向ける。口髭を生やした、おしゃれなスーツに身を包んだ45歳の後ろに、彼はいた。いつもと変わらない、無表情。でもいつもと違うのは、着ているTシャツが前後ろ逆になっていることと、髪が濡れたままおろされていて、ほとんどかわいていないこと。
「仕事上がりに同僚の車を借りて、そのまま来てくれたんだと。…いい男じゃないの」
 わたしの耳元でそう言って笑い、帰れ帰れ、と手のひらをひらひらさせる上司。その後ろにいた彼は、すっと前に出てきてわたしにむかって手を広げた。
「帰りましょう。病院には連絡をいれました」
 後ろでまこちゃんが興奮と歓びを押し殺したみたいな顔でウンウンとうなづいている。まんまと、やられてしまった。ピンチにかけつけてくれた。めちゃくちゃ嬉しい。嬉しくて死にそう。白馬に乗った王子様というよりは森林の屈強な戦士って感じだけど、心強くて涙がでてきた。
「ごめん、ありがとう……」
「どう運んだら楽ですか」
 マコちゃんがささっと出てきて、「それはやっぱり、姫抱っこですよ~」といらぬ進言をした。「ひめだっこ?」と首を傾げる祥一くんに、「いい!きかなくていい!背負って!」と叫んだものの、もはや時は遅かった。まこちゃんが身振り手振りで説明し終える前に、「なるほど」とつぶやいて、祥一くんはさっとわたしを抱き上げた。
「首に腕をまわして」
「い、嫌や、やめてこの格好で下まで運ばれるとか、地獄や、恥ずかしくて死んでしまう!」
「恥で人は死なないので、安心してください」
 祥一くんの、全く動揺の見られない、的外れな説得に涙が出そうになる。
「大丈夫ですかあ、市岡、背高いし重いデショ?」
 上司の失礼な言葉にガンを飛ばしたが、自分では歩けそうにない。よくも祥一くんの前で「重いでしょ?」なんて言ったな。
 これが元気なときだったら…このあごヒゲ野郎…復活したら語り草になるような復讐をしてやる。
「全然。軽いですよ」
 祥一くんがさっさと歩きだす。
 わたしはあきらめて彼の胸に顔を埋めた。はからずしも甘えるようなしぐさになってしまい、マコちゃんが隣で「うわ、こんなかわいい市岡さんはじめてみた」と笑っていた。
「下に車をおいていますので」
 祥一くんの口調はあくまで淡々としていた。彼があまりにも落ち着いているので、わたしは口を閉ざした。ひとりで騒ぐなんて黙って抱っこされるよりも恥ずかしい。
 勤務時間中とはいえ、歩いている人がいないわけではないので、その人たちがみんな、わたしたちをまじまじと見てくるのが恥ずかしくて恥ずかしくて仕方なかった。顔を隠すために、わたしは一層強く祥一くんの胸に顔を押し付け、しがみついた。
 後ろからついてくるマコちゃんと上司が、「軽々と運んでますなあ、お仕事は何を?」とか「かっこいい…やっぱり結婚するなら守ってくれる系男子っすよね~」とか言いたい放題言っている。祥一くんはそれに対してたまに「仕事が救助なので」「神奈川の救助隊で働いています」などと短く答えて、あとは真剣な顔で黙っていた。
 駐車場にとめられていた車は、彼のハリアーではなく、みたことがないスバルのものだった。わたしを助手席に乗せてからすぐ、座席を倒して後ろに下げ、横になれるように配慮してくれて、そのたびに、「ごめん」「ありがとう」「ごめん」と呟きつづけるしかなかった。
「気を付けて!あとで連絡くださいね」
「ゆっくり休めよ~」
 動き出す車に手をふってくれる彼等に、祥一くんが軽く頭を下げる。車はなめらかに道路へと滑り出し、赤信号の短い間にナビの行き先が「由記市立病院」に設定された。
「侑季さん」
「はい、ごめんなさい」
「謝らないでください。おれが、勝手に…したくてしたことですから。それに、あなたのお腹にいるのは、おれの子どもでもあるんだ」
 静かな話し方だ。低い落ち着いた、張りのある声。
「……」
 痛みに眉をしかめ、目を閉じる。何か飲みますか、と問いかけられて、いらない、と答えた。
 車が高速道路に入って、祥一くんがFMを小さい音量で流し始めた。カーペンターズの「Maybe It’s You」のうつくしいメロディに耳をすませていると、痛みが少しマシになるような気がした。
「…連絡をもらった時、肝が冷えるというのはこういうことなんだな、と思いました」
 掠れた声。
 彼の、前後ろさかさまのTシャツと、濡れたままの髪。
「あなたが好きです。――もう、随分前から」
 分かっていた。いや、今日分かった。どれほど大切に想われているか。言葉じゃなくて、行動で思い知らされた。
 わたしを抱き上げる腕、その手のひらが少しふるえていたこと、表情は平然としていても、心臓が、激しく脈打っていたこと。抱かれるときと、同じように。
「わたしも、あなたのことが好き」
――それなのに、アキちゃんの話が出てきたから悔しくて。まだ未練があるのはそっちじゃないの、って思っちゃって。
 先日は逃げ出してごめんなさい。
 わたしの謝罪に、祥一くんは首を振った。
「ずっと自信がなかった。あなたが好きなのは…まだ、三嶋先生だと、おもっていたから。伝えよう、今日こそは好きだって、付き合ってほしいって言おうって、何度も思ったんです。でも言えなくて…。  あなたが妊娠したと告げたとき、おれは心の底から嬉しかった。家族になる理由ができたと思った。でも、あなたは…おれでいいのだろうかと…。おれは三嶋先生のように頭が良くないですし、どう転んだって、あんなきれいな顔にはなれませんし。彼のように、幼なじみとして長い間側にいたわけではないから、あなたのことをまだ理解できていないところも多くて。どうして、こんな離れた場所に産まれてしまったんだろう、とか、どうしようもないことを考えていました。おれも、あなたの幼なじみになりたかった。すべての初めてが、あなたなら良かったのにな、と思った」
 こんなに長く自分の気持ちを話してくれたのは初めてかもしれない。そしてわたしも、彼に自分の考えていることや悩みを、気持ちを、ちゃんと伝えたことがあっただろうか?伝えもせずに、どうして伝わらないのだと腹を立てているなんて、本当にバカだったと思う。どうでもいいことならいくらでも話せるのに、大切なことはいつも言えなかった。
「…わたしも、同じこと考えてた。どうして四つも年上にうまれちゃったんだろう、もしもあなたの側にいたら…あなたがつらいとき、側で寄り添うことができたのに、って。祥一くんがつらいとき、せめて一緒に、山に登ることができたら良かった」
 過去があって今がある。だから、わたしのこれまでや祥一くんのこれまでがなければ、出会っても、恋に落ちていなかったかもしれない。ふたりで同じ人を愛して、失恋して、だからこそわかり合えたのかもしれない、惹かれあえたのかもしれない。
「……登ってくれましたよ」
「え?」
 祥一くんが、まっすぐこちらを見た。そして少し微笑んでから、前を向いた。
「あなたは、三嶋先生にふられて落ち込んでいたおれと、一緒に山に登ってくれた。何度も何度も…美味いものを食べて、いっぱい笑ってくれた」
 ギアを握る左手に、わたしはそっと右手を重ねた。その手は、そっとひらかれ、手をつないできた。わたしよりもずっと大きな、硬い手。これまでたくさんのものを守ってきた、そのために傷ついてきた手。
「あなたといると楽しくて、何もかもが色鮮やかにみえる。どうか、おれと一緒に生きてください。どんな災害からも、あなたを守ります。それぐらいしか、勝てる要素はないけど」
 どこかの警備会社のキャッチコピーみたいなことを言うから、後半、笑ってしまった。
「笑わないでくれ…」
 情けないような、拗ねたような声。そういう顔も声も、わたしだけにみせてほしい。
 手のひらをぎゅっと握って、祥一くんの手の甲を指で撫でる。
「あなたに出会う前のわたしが、どんなふうにひとを愛してたか忘れちゃったよ」
 車が由記市に入った。渋滞していなくて良かった。
「側にいたいと思う。あなたのことを守りたい。外で誰かを守って疲れ、傷ついたあなたを癒してあげたい」
 わたしの声に、祥一くんが「それは、イエスと取っていいんですね?」とめずらしくはしゃいだ声を上げた。
「うん、わたしと結婚して」
「やった」
 祥一くんは子どものように笑って、ハンドルから手を離してガッツポーズをした。すごくかわいいけど危ないので、隣からそっとハンドルを押さえたら、慌てて真剣な顔で姿勢を正す。
「病院の帰りに、区役所寄って帰ろうよ」
 きっとわたしの声も弾んでいるだろう。なんだか足元がふわふわして、現実感がない。でもまったく不安や後悔がなかった。こんなことなら、もっと早く気持ちを伝えればよかったのだ。
 音楽が終わって、DJの声がきこえた。DJは、「うーん、この歌みたいに、いまもどこかでいろんなひとが、失恋したり、恋に落ちたりしてるんでしょうね」とのんきな声で話している。そうだよ、と思った。ここには、結婚しようとしてる男女もいるからね、と。
「届出書取ってこなきゃ。緑色のやつだっけ?あとたしか、証人がいるんだよね。すぐとなるとうちの両親は無理だから、誰にしてもらうか考えなきゃ」
「侑季さん、緑は離婚届だから…できたら死ぬまで見たくないな」
 苦笑している祥一くんに、顔が熱くなった。
「え、そうなんだ。あれ、そういえばドラマで見るのって緑の紙ばっかりで…婚姻届って何色なんだろう」
「茶色だったような気がしますね」
「なんでそんな、未来を感じない色なの。赤とかピンクとかにしなさいよ。ちょっと言っといてくれる?」
「今度会ったとき伝えておきましょう」
 真顔で頷きながら言う彼の適当な返事に笑ってしまう。
「誰によ」
 腹痛は、少しずつマシになってきた。わたしたちは意味もなく役所の書類について「字が小さい」とか「言い回しが回りくどくい」とか「今時ネットで申請できない書類があるのは時代遅れ」などあしざまに罵り、やがて病院につくまでずっと笑い合っていた。
「そういえば、この車って誰の?」
「六人部隊長ですね。いま、おなじ署にいるので。慌てていたから、妻が怪我をしたので誰か車を貸してくれ、と吹聴してまわってしまいました。おれの車は、署から大分遠いところに置いてあるもので…多分、明日行ったら質問攻めです。いつの間に結婚したんだよ!?って、成一も声が裏返っていましたから」
 言われてみれば、彼もHRにいるのだ。でもきっと…
「六人部くんは、落ち着いていたでしょう?」
「そうなんですよ。極めて淡々と『近くの駐車場に車をとめているから、使え』と言って、こっそり貸してくれました」
 きっと勤務明けにアキちゃんとどこかへ行くつもりだったんだろう。申し訳ないな、と思ったけれど、六人部くんや成一くんの様子を想像すると、どうしても笑ってしまう。大体、まだ結婚してないのに「妻」って。面白すぎる。

 病院につくと、区役所にいくどころではなくなってしまった。切迫流産のおそれあり、ということで、そのまま入院になってしまったのだ。しかも、最低一週間は一切ベッドの上から動いてはいけない、という恐ろしすぎる命令がくだされ、わたしは戦慄した。
「一週間後、良くなっていたら退院できるんでしょう?ガマン、ガマンっすよ」
 わたしの深い嘆きに、頂いた梨を勝手に剥いて食べながら、マコちゃんが頷く。わたしにも頂戴、とお願いして口元に運んでもらった。美味しい。さすが、アキちゃんは好みを分かっている。
 パイプ椅子に座っているマコちゃんが、ドアのほうをそっと見た。すると5秒後、言い争いながら成一くんと祥一くんが病室に入ってきた。
「だからァ!ふつう婚姻届の証人欄なんて、親が書くだろ!もしくは親友とかだろ、なんでおれなんだよっ」
「あいにく頼めるのがお前しかいないんだ。それにお前は暇だろう」
「ヒマじゃねーし!てかさ、婚姻届だけで結婚できないし。両者の戸籍謄本いるから。兄貴は本籍地が由記市だからいいけどさ、市岡さん大阪だよね。戸籍謄本って本籍地しかとれねーんだぜ、それぐらい大人なら知ってろよ、筋肉ばっか鍛えるから脳みそも筋肉なんじゃないの」
 がらり、と開いたドア。個室を借りているのは、空いているのが個室しかなかったからで、決して大部屋が嫌だったわけではない。(むしろ、こんなにヒマなら大部屋で誰かと話していたかった…)
「ども、お邪魔してます」
 マコちゃんがさっと立ち上がり、頭を下げる。途端に成一くんは口をもごもごと閉ざし、祥一くんは「先日はおせわになりました」とあいさつを返す。
祥一くんは「先日はおせわになりました」とあいさつを返す。
「市岡さん、体調はだいじょうぶですか?」
 成一くんには妊娠の話を伝えていない。まだどうなるか分からないから、秘密にしてもらっているのだ。ご両親への挨拶もまだ済ませていないし、ひとまずそちらが先だろうということで、今わたしが入院しているのは過労による体調不良ということになっている。
「大丈夫だよ、ありがとうね」
 心配そうな顔がとても可愛い。こんなにかわいい弟ができるなんて、一人っ子として生きてきたわたしには想像もつかなかった。成一くんが何かおねだりしたら、大概のものは買い与えてしまう自信がある。
「婚姻届のサインを頼まれたんだけど、本当におれでいいのかなあ…。普通、両親とかじゃないのかなあって」
「わたしもそう言ったんだけど、どうしてもあなたがいいみたい。わがままを許してあげて、ご挨拶にはちゃんとお伺いするから」
「いやいや、こういうのは男親がお伺いするべきだから。まずは兄貴が大阪のご両親のところに行って、それからうちの両親とおれと市岡さんの家族で顔合わせして…って感じだよね?あのトウヘンボクにはちゃんと言っとくから!ゼクシーも買って渡しといた」
「有能な弟くんがいてほんと助かる、退院したらお礼させてね。なんでもいいから考えておいて」
「…ひとつ、前からお願いしたいことがあるんです」
「なんでもどうぞ」
 成一くんははにかみながら「一緒に服を買いに行って見立ててほしい」と言った。可愛すぎて、なんでも買ってあげようと決意する。彼はスタイル抜群だから、見立て甲斐がある。
「そんなのいつでもOKだよ」
「やった!兄貴はすぐ拗ねるし嫉妬するから内緒ね、多分ばれたら…」
 こそこそと話していたつもりだったのに、後ろから祥一くんが入ってきて「おれもいく」と不機嫌そうに言った。
「ほら、そういうと思った!!やだよ、兄貴は来るなよ。目立つんだよ、デカいから」
「お前と身長はそう変わらないだろ」
「おれはきれいなお姉さんとふたりでデートしたいんだって」
「だめだ。ふたりは許さない」
 やりとりをきいていたマコちゃんが笑いをこらえ、「じゃあ、また明日来ますね」と言って病室を出ていく。手を振り、彼等のやり取りを眺めていると、兄弟っていいなあとうらやましくなる。
 祥一くんが「飲み物でも買ってきます」と言って病室から出ていってから、成一くんが周囲を確認し、身をかがめてきた。背が高い彼は、ベッドで横になっているわたしと視線の高さを合わせようと、自分自身が腰を落として安心させるように微笑んでくれる。こういうところをみていると、彼もまたアキちゃんと同じ、医療従事者なんだなあと思う。
「あの、質問があるんですが」
「うん?」
「兄貴のどこが好きなんですか?」
 まあ、ルックスは悪くないけど…市岡さんならもっとかっこよくて、話し上手で、おしゃれな人とだって付き合えたと思うのに。
 そう言っていたずらっぽく笑う彼に、わたしは少し考え、小さい声で言った。
「かわいいところかな」
「かわいい!?」
 叫びそうな顔なのに声はおさえていて、プロだなと吹き出しそうになる。
「うん。あのひとはね、すごくかわいくて、無垢なひとだよ」
「む、無垢……それって英語でいうとイノセントですよね……ええ…」
 身長190センチ、握力95キロの兄を「かわいい」と形容したことがよほど納得できないのか、成一くんはしきりと首を傾げ、「ちょっと意味がわからないですね…」と不満げにひとりごちている。
「いいの。わたしだけが分かればいいんだから」
 はあ、とあきれたような顔で成一くんがわたしをみつめる。
「恋のときはかっこよくみえるんだけど、愛になるとかわいく思えるの」
 わたしの言葉に、成一くんは目を瞠り、深くうなづく。
「それはすこし、分かるかもしれません」
「すきなひとのカッコ悪いところもちょっとダメなところもかわいいと思えるようになったら、それはもう愛だから無駄な抵抗はやめたほうがいいの。これ、大人からのアドバイスね」
「わ~、なんか見透かされてそうで怖い」
 具体的に思い浮かべる人でもいるのか、成一くんが頬をゆるめた。それから、飾っている花を片付けたり、必要なものを尋ねたりしてから、持ってきてくれたらしいたくさんの本と雑誌を枕元に置いてくれた。
「このひとだ、と思うような人との出会いなんて、一生に1回、あるかないかだと思う。だから、見つけたら――」
 病室の扉が開いて、祥一くんが入ってきた。水や、カップに入ったホットコーヒー、それにフルーツの入ったゼリーなんかを両手に抱えて、弟の隣に椅子を置いて座った。
「絶対、手を放しちゃダメ」
 きっとうまくいかない恋のほうが多いだろう。たくさんの手が一度は繋がれて、ほどけていく。それでも、触れたい、ずっと一緒にいたいと思うのなら、そのつながりを守り、育むしかない。
「市岡さんも。兄貴の手を離さないでくださいね」
 成一くんがそう言うと、祥一くんは驚いたような顔でわたしをみた。
 たっぷりと日差しが入る昼下がりの病室。
 祥一くんは何かを言おうと唇を薄く開いて、すぐに閉ざしてしまう。

 目が合うと、彼は幸福そうに眼を細めた。