日曜の夜に鳴く鳥 (後編)

 祥一くんとの登山は快適だった。黙々と登り、助けたり助けられたり(もっぱら助けられていたけど)しながら登頂して、修行僧のように温泉にも入らずどこにも泊まらずに下山してそのまま家に帰った。
 お互いに登山の経験はそれなりにあったけれど、祥一くんの登山スキルにはまったく及ばないことが、一度登っただけではっきり分かった。彼は息などまったく上がらず、顔色も変えずに淡々と歩き、ときにはわたしをサポートして、近所を散歩するみたいな顔で下山していた。
「山岳救助隊もいいなあと思ったんですが、採用地域が限られていたので。あと、趣味を仕事にすると辛いと友人が言っていたのでやめたんです」
 あくまでリフレッシュとして山に登りたいのだと、休憩のときに笑顔で言った。
「海外の山にも登ったことあるの?」
 運転している黒のハリアーは彼にとてもよく似合っている。運転してもらっているのに寝るのは申しわけなくて、ときどき話しかけたり音楽をかけたりしていた。
「学生時代ですが、アルプスに何度か。あとはマッターホルンとキリマンジャロ、マッキンリーには登頂しました」
「大学ほとんど行ってないんじゃないの!?」
「そうですね。テニスができなくなって、正直何をしていいのかわからないのに、じっとしていられなかった」
 でも日本の山が、一番好きです。
 そう言って祥一くんがサングラスをつける。いつしか車のそとは、西日がまぶしい時間帯になっていた。青いTシャツの下から伸びた腕は、黒のベースレイヤー越しにも硬くて熱そう。熱したかちこちの岩みたいだな、と思う。
 手足が長くてほっそりとした成一くんと違って、そぎ落とされた岩のようなルックスをしている祥一くんは、まさに男性そのものといった雰囲気だった。とくにこうして、サングラスなんかかけていると、海外の俳優みたいに存在感があって驚く。表情に乏しく目元が鋭いのも、口元が厳しいのも、魅力的な肉体にぴったりだった。
「明日からだっけ、仕事」
 自宅の前に停車した祥一くんに、降りる直前、声をかけた。彼はもう何か別の事を考えているようにみえたけれど、わたしに問いかけられて、はっとしたように顔をこちらに向けた。
「怪我しないで帰ってきてね。いってらっしゃい」
 濃いサングラスのせいで、その眼はよく見えない。くちびるが薄くひらいて、掠れた声で「はい」と返事があった。なぜか聴き慣れたはずのその声は、子供じみて不安げに聞こえた。
「帰ってきたら、飲みに行こう。奢るから」
 開いたドアウィンドーの中に手を伸ばして、つんつんとした硬い髪をかき混ぜる。
「…一か月後に。また連絡します」
 あまり頭をなでられることがないのか、頬が赤くなった。本気で殴れば岩をも砕けそうな男も、心の中はこどもみたいなものなんだな、と姉のような気持ちになる。
 夕方の外気に首をすくめて、黒のハリアーが交差点を曲がっていくのを見守る。山のすがすがしい空気から一転、都会のどこか埃っぽい、なじみの空気を吸い込んだ。

 開催されるはずだった同窓会が延期になり、わたしは仕事尽くめで3月を終えた。タイトな締切スケジュールをなんとか乗り切った今日、後輩のまこちゃんと一緒に「たまの贅沢」ということでホテルのスパエステを堪能している。日頃の疲れが溶ける(お金と一緒に)。そのかわり、みるみるうちに癒されていく。
 眠気をさそうぐらい気持ちのいいボディスパを終えて、ガウン姿でハーブティを飲む。言葉もないぐらい気持ちよかった。恍惚としたまま窓の外の東京を眺めていると、隣にすわっているまこちゃんが突然「わたしに隠してることありません?」と嬉しげな声で言った。
「侑季さん、ひどいじゃないですか!彼氏いない者同士、贅沢しよって誘っといて」
「まこちゃ~ん、なんの話?」
 みちゃったんです、わたし。
 そういって、隣の椅子から身を乗り出し、わたしを覗き込んでくる。眼はキラキラ生き生きしていて、女というのは他人の恋愛話でもこんなに顔を綻ばせるのだから不思議な生き物だなと思う。
「見ましたよ~?ジェイソン・ステイサムみたいな身体したイケメンに、家まで送ってもらってたでしょ!?」
 飲み掛けのカップを危うく落としそうになりながら、顔を上げた。
「なんで」
「侑季さんの家の近所に、クラフトビールの有名店があるんです。ひと月ぐらい前にそこに飲みに行ったとき、みたんですよ。も~~~!そのうち言ってくれると思ってまってたのになんで何もいってくれないんですかあ!一か月も経っちゃったじゃないですか」
 まさか見られていたとは。この市岡侑季一生の不覚、と心の中でつぶやく。何もないことを説明するのが面倒だったが、誤解されたままでいるのも気が引ける。かといって『同じ人がすきだったから、友達になったんだよね、ちなみにその人高校のときからずっと好きだったの』とか言えないし。いや、まあずっと好きだったっていうと語弊があるというか、付き合いたいって気持ちはもうとおの昔になくなってるけど。でもやっぱりアキちゃんの姿をみれば胸はときめくし眼は潤むし好きって言いたくなるから恋には違いないのかもしれない。
「…友達だよ。レスキュー隊員なんだ、だから良い体してるの」
「へえ~!かっこいい。サングラスしてたけど顔も良さげでしたよね。ちょっと意外なタイプだったけど」
「意外?」
「だって侑季さん、いつも線の細い、『才能はあるけどろくでもない』みたいな男ばっか付き合ってたじゃないですか。あのマッチョは、どうみても誠実そうだったし」
 曖昧な返事でごまかしながらホテルを出る。有楽町直結のホテルなのでそのままガード下の飲み屋に直行した。コートの裾をひるがえし、高級ホテルからガード下の飲み屋へガソリン(ビール)をいれに。ちなみに、色鮮やかなスプリングコートはアキちゃんのものと色違い。マッキントッシュのライトイエロー。「こんなコート着こなせるのモデルか侑季さんぐらいですね」とまこちゃんが揶揄半分、憧れ半分で言ってくれたのでビールを掲げて「ありがとうさん」と返す。
 天ぷらやその日仕入れた魚介が自慢の店は、今日もサラリーマンでいっぱいだった。凍ったジョッキになみなみ入ったビールをガツンとぶつけて「お疲れさま!」「とりあえず今回も終わってよかったです!」とねぎらい合った。
 すきまの多い店なので、春風がときおり入り込んできて少し肌寒い。注文をとりに来た若い男の子が、わたしとまこちゃんを交互にみて「姉妹っすか?」と微笑む。
「まさか。同僚よ、同僚」
「そんな嫌そうな顔しないでください、傷つきます!…あ、白子ポン酢も追加してください」
 白シャツの襟をたててカーディガンを肩にかけているわたしと、ブルーのくたびれたトレーナーにニット帽をかぶっているまこちゃんでは、繋がりが分からないのも無理はない。
「ほんと侑季さんいい女だから、なんか一緒に飲むの恥ずかしいッス」
「またまた~。持ち上げて情報聴きだそうとしても無駄だからね。友達は友達なの」
「ええ~。前の日家に泊めてたのに、まさか『一緒に一晩中ゲームしてました』とか芸能人みたいなこというんじゃないですよね?そんなバカな。大人の男女ですよ」
「あれは…!……」
 向かいでにやっと笑ったまこちゃんの丸顔をみて、やられた!と小さく舌打ちする。かまをかけられたのだ。
「あたりですか。あてずっぽうなのに、いや~わたし鋭い」
「あのねえ、信じないと思うけどその日はふたりともすごく飲んでて、彼は歩けなくなってたから家に泊めただけで…ああー…言えば言うほど怪しい。いま問い詰められてる芸能人の気持ちがちょっとわかった、何いっても信じてもらえないってこんな気持ちなのね…」
 もう笑えてくる。眉を下げていると、まこちゃんが肘をついてじろじろとわたしを見た。それから、ひどくおどろいた顔で後ろを指さした。
「…アワワ」
「なに、その変なかお…」
 まだ酔っていないクリアな頭は、咄嗟の事態についていけなくてフリーズした。後ろに立っていたのは、わたしと祥一くんを泥酔するほど苦しめてくれた、いとしのアキちゃんだったのだ。

「な、なに、なにしてんのこんなところで」
「学会やってん。摂もおるで、ほら」
 少し離れた席で、六人部くんが軽く手をあげたのが見える。満員の店内では移動も簡単じゃない上に、うるさくて声も聴きとりずらかった。
「……お、お知り合いでしゅか」
 まこちゃんが動揺のあまり噛んでいる。そっか、アキちゃんを見た事がないひとからすれば、それぐらいの衝撃なわけね、忘れてた。
「こんばんは。可愛らしいなあ、…妹?」
「兄弟いないの知ってるでしょ!後輩だよ」
 いつも長めのアキちゃんの髪は、少し整えられていて耳にかけられていた。理想的なかたちをした黒い眼が、やさしげに細められてまこちゃんを見つめる。微笑みにあてられた途端、まこちゃんはカーッと赤くなって俯いてしまった。
「また今度飲みに行こうな」
 隣で飲んでいたOLグループが、さきほどまでの下ネタトークを一時停止してアキちゃんを眺めている。隣のカップルもしかり。なんか時間が止まってるんですけどここだけ。
「また連絡して、って言ってたらアキちゃんいつまでたってもしてけえへんから、明日電話するわ」
「おう、待ってるわ。じゃあ、お邪魔しました」
 まこちゃんに軽く頭を下げて、アキちゃんが六人部くんの元へ帰っていく。彼もなかなかの男前なので、彼等の席はたちまち注目の的となった。アキちゃんといたらどこでもこうなってしまうのか、と考えて、わたしはすこし六人部くんに同情した。
「俳優さん、とかですか」
 なぜかひそめた声で、まこちゃんが言った。溜息のような声だった。
「違うよ、お医者さん。救命医っていうの?ドラマとかによく出てくる、あれ」
「ひええ…イケメンで医者…しかも性格も良さそうなんて怪しい…!!絶対ゲイですねあの人」
 鋭い。どうして分かったんだろう、と思いつつもわたしは「どうだろ、知らない」ととぼけてみせた。彼の性指向を勝手に他人に暴露するなんてありえない。
「ん~あのふたりはデキてると思うんすよね、ほぼ間違いなく」
 金髪の中に時々黒髪のメッシュがあるという、『普通なら逆やろ』という奇抜な前髪を弄りながら、まこちゃんがニヤッと笑った。視線は六人部くんとアキちゃんを捕えている。
「当たってるでしょ?自信あるんです」
「さあ…なんでそう思うの」
「付き合ってるオーラが出てるじゃないすか、なんかこう、視線が絡まる雰囲気とかに~」
 まこちゃんの持つ野生の勘には仕事でお世話になっているので全否定はできないが、こういうときはかなり困る。普段はわたしと同じで「昼ごはんはひとりで食べたい一匹狼タイプ」なのに、社内恋愛にはものすごく敏感ですぐ気付くのだから、まさに絶対的勘と観察力の持ち主だ。
「あんまり隠してる感じもしないし。片方、お医者サンじゃないほうの男のひとってノンケっぽいけど…たぶん、お医者サンに人生狂わされたんでしょうね。美しいって恐ろしい」
 ためいきをつき、ビールのおかわりを飲むまこちゃん。…すごい…ここまで分かっちゃうなんて。頭の回転が速い子だとは思っていたけれど。
「いままで相当たくさんのひとの人生、狂わせてきたんだろうな~」
 嬉しそうに微笑む横顔、それをみつめる六人部くんの充足しきった表情。遠慮なく伸びた手が、柔らかくていい匂いのする、アキちゃんの髪にさわる。幸福そうなふたりを眺めていたわたしを、まこちゃんがじっと観察しているのが分かって、慌てて俯く。
「侑季さんも、狂わされたヒトなんですね」
 ささやく声は、からかうような色のない、真剣なものだった。視線を上げると、まこちゃんがなんともいえない、透き通った表情でわたしをみていた。
「…すごく長い時間を、それに費やしちゃったの。だから、他の人を真剣にみつめられない。全部比べてしまうから」
 無駄な時間だったとは思わない。アキちゃんの激しい生き様は、わたしをいつも揺さぶって前へ前へと進ませてくれた。男女としてつながることはできなかったけれど、好きだったこと自体は、一度も後悔したことはない。
――彼に関係を迫ったことは、後悔しているけれど。
「それで、どこかしらのめりこめない要素のある人とばかり、付き合ってたのかもね」
 周囲の喧騒が遠くなる。チャットモンチーがうたう『恋の煙』が有線で流れていて、その歌詞と声だけが心をくすぐり、引き絞って、去って行った。
「あのね、侑季さん。幸せから逃げても、あのヒトの気持ちが理解できるわけじゃないんス。多分…理解したかったんですよね、寄り添いたかったんですよね。それは本当に、誰にでもできることじゃないけども。もういいんじゃないですか?他の人を見たり、好きになったりしても。その…クサいですけどつまり…幸せになってもいいんじゃないですか?」
 両眉が上がる。思わず口元をおさえると、なんちゃって!とまこちゃんが笑った。
「あなた…売れっ子占い師になれるよ」
「よく言われます。わたしの実家って400年続く神社なんス。女系家族なんで姉ちゃんが継ぐんですけど、姉妹の中では一番力が強いって言われてたんですよ~これでも。へへ。みんな信じないんですけどねえ」
 金髪で前髪が短い、童顔の巫女さん。…案外悪くない気がする。
「じゃあ、新しい恋の訪れとその行方でも教えてよ、まこちゃん」
 れんげで湯豆腐をよそいながら、まこちゃんがフフンと唇の右端を持ち上げた。
「高いっすよ、侑季さ~ん」
「ここ奢りでなんとか」」
「手を打ちましょう」
 硬い握手を交わしたあとで、ふたりして吹き出す。それから終電まで、お互いのろくでもない恋愛遍歴の晒し合いで盛り上がり、肩を組んで駅まで歩いた。いまどきの子はあまりお酒を飲まない、なんて誰かが言ってたけど、どうやらわたしの周りではそうでもないらしい。

 3月が終わり、4月が終わっても、祥一くんからの連絡はなかった。
 可能なら、花見酒にでも誘おうと思っていたので残念ではあったけれど、わたしと彼は定期的な連絡がないことに苛立ったり駆け引きしたりするような関係じゃないし、それが楽なので放っておいた。
 日曜は毎週、友人や知人を呼んで一緒に夜ごはんを食べた。そうすることで、部屋を常に綺麗に保つことができる。学生時代の友人で上京しているメンツや、職場の後輩。仕事で知り合ったアパレル業界のひと。いろんなひとが、入れ代わり立ち代わり、お酒を持って部屋にやってきた。泊まってかえるひともいれば、数時間で帰るひともいた。
 相変わらず、サマーは人前で鳴かない。
 わたしだけのときは、楽しげに歌ってくれるのに。

 5月、人事異動が一段落して、わたしは長年居座っているファッション誌に残留が決まった。

「お、侑季~!いてくれて心強いよ。今年もよろしく」
「そろそろ飽きてきたけどね。よろしく」
 
 育休から復帰してきた同期とあいさつをかわして、自分のデスクに戻る。
 わたしがこの会社に入社したころは、いまよりもずっと出版社の編集者自身が雑誌の内容に携わることができていた。いまはというと、出版社は下請けの編集プロダクションに委託して記事を書いてもらい、その内容を確認したり、予算をとってきたり、調整したりする業務が主になってきている。
 正直にいうと――仕事がつまらなくなった。
 35を目前に控え、わたしは日々『転職』の二文字を考えるようになっていた。実は、それなりのポストを用意するから来ないか、と誘ってくれている編集プロダクションもある。ファッションコラムを書いてほしいという話も複数あって、それなりのコネクションも築いてきたから、フリーの編集者になるのもいい。
 ただ、このまま独身で生きて良くなら、今の「大手出版社勤務」という安定を捨てるのはリスクが高い。それぐらいは誰でも分かる。若い頃ならともかく、雑誌の「最初から最後まで」を担当する編集プロダクションでこき使われて体調崩してリストラにあったりしても、誰も助けてはくれないのだ。

 そんなようなことを、酔った勢いでダラダラと語っていたと思う。
 思う、といったのは、めずらしく酒量が適量を間違えてしまったせいで自分の発言に自信がもてない状況になっているから。
 仕事を終えて、新橋の居酒屋で語り合っていたのは、2回の離婚歴をもつ先輩敏腕編集者だ。男性で30代後半、ファッションセンスはよく金払いもいい、顔は普通。仕事のやり方はときどき賛成できないところがあるけれど、話は面白い。
 抜群にやり手だが、その分冷酷で、ときどき彼の顔は蛇にみえる。言わないけど。
 独身同士気兼ねなく飲める相手にお互い餓えているので、月に2,3回のみに行く。
「お前さえ望むなら、元祖編集の仕事に口利いてやろうか?」
「なんですか、それは」
「文芸。女性編集者がひとり欲しいんだとよ。原稿も女性のほうがとってきやすいし、アポもとりやすい。――ただ、時間も休日もあったもんじゃないけど、どう?」
「どう、じゃないですよ、どう、じゃ」
「社会部も空きがあるぞ。寿退社した女性編集者がいてな」
「わたしは記者じゃないですからね」
「コラム書いてるじゃん。あれなかなか評判いいだろ」
「コラムと社会記事は違うでしょ…」
「いま育休で欠員2名だっけ?お前のとこ」
「ひとり復帰したから1名ですね。でも秋ごろ他の子が出産予定です」
「おー、大変だな」
 編集者全体でみると少ない女性が、いまわたしのいる部署には集中している。出版社の中でも大手なので、産休・育休制度も充実しているし、実際に結婚しても働いている人は少なくない。
 こどもは社会の宝だし、いまもこうして社会貢献といえば納税(所得税・市府民税・酒税!!)ぐらいしかしてない自覚のあるわたしは、既婚者の同僚にはなるべく早く帰ってもらえるよう協力は惜しまないのだが、どうしても独身者・既婚者・子持ちという立場の違いによる隔たりが生まれがちだ。
「まあ、わたしもいつかこども産むかもしれませんし、こういうのってお互い様ですから」
「市岡はさあ、美人で気が利いて仕事もできんのに、なんで独身?」
「それ、褒めてるフリしてディスってるでしょ、分かりますよ」
「いや、マジで」
 けっこうな頻度で一緒に飲んでいるが、この手の話題を振られるのははじめてだった。わたしは少し考えて、手元においてあるグラスをもてあそんでから、ゆっくりとこたえた。
「わたし、長いこと片思いしてる人がいたんですよね」
「へえ、そうなの?」
 日本酒のおかわりを頼んで、焼き枝豆をつつく。ここは近江野菜と日本酒が美味しいとひそかに人気のある店で、かつてグルメ雑誌を担当していた先輩のコネを使って予約してもらった。ふたりともそれなりに美味しいものを食べ慣れているので、多少高くても美味しい店か、安くて美味しい店しか行かない。
「いままで付き合った人って、『そのうち、好きな人よりも好きになれるかもしれないから』『キライじゃないから』『すきっていわれたから』って理由で付き合ってきてて」
「わーお、お前わりと最低だな」
 運ばれてきたぬるめの燗を、御猪口に注ぎいれる。彼とは手酌で飲むと約束しているので、注がれたり注いだりしない。口をつけると、はなやかな香りが鼻の奥を通り抜けていく。やっぱり、おいしい。夜はまだ肌寒いので、冷酒はもう少し先まで我慢だ。
「だから、いま罰があたってるんですよ」
「そんなにひとりって嫌か?おれ、ひとりのほうがよっぽど楽しいけどな」
 そりゃあ何度も慰謝料取られればそうでしょうね、とは言わずに、先輩の眼をみて微笑んだ。彼は少し目をみはってから、なぜか気まずそうに視線を逸らす。
「ひとりでいることが罰なんじゃないです。だれのことも好きになれないのが、罰なんです。もう一生誰かのことをあれほど強く好きにはなれないと思うので」
 いつの間にか、ふたりとも黙り込んでいた。彼のへびのような冷たい横顔からは何も読み取ることができなかったが、彼は彼なりに、過去について思い悩むことがあるのかもしれない。敏腕弁護士を雇って慰謝料を最低限までおさえた上で妻とも子どもとも絶縁している男の頭のなかは、わたしには想像がつきかねる。
 手元のバロンブルーを覗き込むと、もう終電近い時間帯になっていた。わたしは便利な場所に住んでいるので、ここからならタクシーで帰っても大した金額にはならないが、「終電なので」という言葉はなにかと使いやすくて重宝している。今日も、同じ言葉を持ち出してお開きにしようとしたとき、先輩が冷たい眼に思いつきを宿して、言った。
「お前、おれと付き合ってみたらいいんじゃない」
「……なにがどうしてそうなりました?散々、お前には女としての魅力を感じない、っていってたじゃないですか」
「言葉の一部を訂正すると、女として、じゃなくて、妻としての魅力を感じない、だよ。お前は頭がよくて自立心が強い。家庭に入って夫を支えるタイプじゃないだろ、だから結婚相手としてみたことはないって意味」
「そうですか」
「おれはもう結婚には懲り懲りしているんだ。けど、知的な会話や下品な会話やうまい酒を楽しめる相手は、常に欲している。そしてそれは誰でもいいわけじゃあない」
「相変わらず傲慢なんですね」
「そうさ。知ってるだろ」
 わたしは人間なので、へびと付き合うことはできません。よほどそう言ってやろうかと思ったけれどやめておいた。
「付き合うってことは、セックスするってことですよ。抱けますか、わたしを」
「おれが抱くか抱かないかを決めるとき、どこをみると思う?」
「知りません」
「顔と、尻だよ。尻が垂れてるやつはもう女じゃない、おばさんだ。お前はとてもいい尻をしているし、顔も年のわりには若くてきれいだ」
「それはどうも」
 酒に酔っているわけではない。このひとはいつも、平気でこういう話をする。わたしも普通に応じる。けれど明確に誘われたのは初めてだ。
 鞄から財布を出し、万札をテーブルの上に置いた。手入れの行き届いた爪と、皺やシミひとつない白い手の甲、それに垂れ下がらない尻のラインは、わたしが、わたしのために行ってきた努力のたまものである。断じてへびにいやらしい眼で品評される為じゃない。
「ここが静かなお店で良かったですね。違ったなら、頭から水をぶっかけていたところですよ。――いいですか。わたしが誰と寝るかは、わたしが決めることです。あなたじゃありません。当分、連絡してこないでください」
 立ち上がってそのまま店を出た。あんなふうに長い付き合いの男の友人や先輩に見くびられることが、ここ数年増えてきている。不思議だった。どうして彼等は、独身の女をみれば「ひとりで寂しいに違いない」「言い寄られれば簡単におちるに違いない」と決めてかかるのだろうか。同情して優位に立とうとしている彼等のほうが、よほど「つがいでいなければいけない」という生物の本能に縛られているように見える。
 せっかくの美味しいお酒が台無しになってしまった。
 くさくさしたきもちをなんとかしたくて、足早にJR新橋駅へ向かった。自宅近くで飲みなおしたい。タクシーで自宅にかえってもよかったけれど、このままじゃ夢見が悪そうだ。
 改札を通り過ぎたとき、ジャケットのポケットにいれていた電話が震えはじめた。
 電話に出る気分じゃない。居留守を使ってやろうかと思いながら画面をみて、考えを変えた。
「…はい、もしもし」
『夜分遅くにすみません。いまどこにいますか』
 低い、落ち着いた声に毒気を抜かれていく。祥一くんこそ、と問いかけると、東京消防庁の知り合いと飲んでいたので新橋にいる、と返ってきた。
「わたしも今新橋なの」
 かすれた笑い声。彼は口数が少ないかわりに、声に感情が出る。驚きと、親しみを感じさせる声だった。
『こんな偶然ってあるんですね。飲みませんか』
「ちょうど今、最悪の飲み会だったから飲みなおしたいと思ってたところだった。神様仏様祥一様って感じ。…いまどこ?」
『あ…目の前に』
 電話が切れて、視線を上げると駅前に祥一くんがいた。眼があうと、折り目正しく頭を下げられる。それから、目を細めてにっこりと笑った。
 その姿勢の美しさと恐れをしらないまっすぐな視線に、思わずため息が出た。
 頭の中で、詩の一文がよみがえる。よごれっちまったかなしみに、というわたしのすきな詩人、中原中也のフレーズだ。
 『よごれっちまったかなしみに 今日も小雪のふりかかる』
 よごれっちまったのは、わたし。
 同じ人を好きだった。でもわたしと祥一君は全然違う。なぜなら彼はよごれていない。心の奥に無垢なところを残している。その風のような清々しさは、弟の成一くんとそっくりだった。誰にも侵されない、きれいなところをちゃんと守っている。
 なんだか急に彼を遠く感じて、わたしは遠くの鳥をみるような目で祥一くんをながめた。
 ゆっくりと、しかし着実に、彼はこちらへと近づいてきた。