日曜の夜に鳴く鳥 (前編)

 飼い始めて半年になるカナリアのサマーが、遠慮がちに鳴き声を上げている。
 いつも夜にしか鳴かない鳥だった。神経質で、来客があると決して歌わない。
 だから、日曜の夜はいつも静かだった。

 アキちゃんに謝らないと。
 朝起きて、歯を磨いていて不意に、そのことを思い出した。忘れていたわけではなくて、本当はずっと心の中にあったけれど、忘れたい、知らなかったことにしてしまおうとおもっていたこと。
 乱暴に歯を磨いて、濡れた頭を乾かし、下着とシャツとアクセサリーを身に着けてから、携帯電話を手に取る。まだ少し濡れた髪が、鎖骨にはりついて冷たい。
「――…」
 どういえばいいんだろう。
 大学生のとき、あの日のこと。最初から説明しなければいけないのに、どの言葉が正解なのか分からない。
「またか…。いつもそうやって逃げてる」
 本当は分かっているくせに。わたしがアキちゃんに何をしたのか。それがどれだけひどいことだったのか。自分が一番分かっているくせに。
「最悪」
 携帯電話をカバンの中に投げ込もうとして、着信に気付く。画面の中にある名前に、驚いて手が滑り、電話が床に落ちた。

「お呼び立てしてすみません」
 祥一くんが礼儀正しく頭を下げる。
「いいよ、ていうか呼ばれてないし。ここ、うちからすぐだから」
「そうですか?でも夜で、危ないのに」
「危なくないよ、十代二十代のお嬢さんじゃあるまいし」
 意図してワハハと笑い声を上げると、祥一くんが困ったように眉を下げる。夜に男とふたりで、それもこういうバーで会うっていうのは、三十過ぎた女のプロ(自称)でもなかなか気を遣う。おれのこと意識してるんじゃないだろうな、とか狙われてるのかなヤダなとか思われたら嫌だし、逆に狙われたり意識されたりしても困る。
…まあ彼に限ってそういうことはないんだけど。
「で、どうしたの」
 いつもラフな服装をしている彼が、今日は珍しくスーツを着ている。190㎝近くありそうな長身に、がっちりとした厚い胸板、男らしくて鋭利な顔立ちは、新宿二丁目という場所柄もあってか、注目を浴びまくりだ。わたしがいることが邪魔で仕方がない、というような、女である自分の商品価値がゼロになっている不思議な気持ち。楽だけど、ちょっとさびしいような。
「はっきりフラれました」
「なんかそれ、前も聴いたきがする」
「今度こそ正真正銘ダメでした。これ以上はどうしようもないので、諦めます」
 あきらめます、のところだけ、声が苦渋に満ちている。ウィスキーのオンザロックを舐めてから隣を覗き込むと、彼の鋭くも真っ直ぐな眼には、うっすら涙が浮かんでいた。
「そっか。辛いね。…祥一君の気持ち、この世で一番わたしが理解できるよ、自信ある」
 手を伸ばし、高い位置にある彼の頭を撫でる。硬くて短い髪が手のひらにチクチクと刺さっては離れていく。
「明日は休みなので、今日は飲みたくて。あさって日本を発たないといけないんですが、この気持ちのまま仕事にのぞみたくなかった」
 そう言ったきり、彼は黙った。ハイボールを呷り、静かにカウンターに置く。中身がなくなると、手を上げてバーテンダーを呼び、同じものをください、と低い声で注文する。
 その隣で、私はウィスキーを飲み、ジントニックを飲み、トムコリンズを飲んだ。時々水を飲んだり、ピスタチオを食べたり、バーテンダーと軽い会話を交わしたりした。何か気の利いたことを言おうかな、とか、慰めようとか、そういうことは考えなかった。おそらく、アキちゃんに完膚なきまでにフラれたときの私といまの祥一くんは、同じ気持ちでいるはずだ。ひとりでいたくはないけど、何も言ってほしくない。側にいてほしいけど、ひとりにしてほしい。
 大人になると、泣きながら酒を飲んでクダを巻いたり、友達にひたすら延々と慰めてもらう、そういうことが出来なくなっていく。普段自分を守っている硬くて分厚い鎧を全部脱いで、裸になって人と向き合うのは大変なことだし、それをしたからといって癒されるというわけではないのだと、少しずつ知っていくから。だいたい、三十を過ぎると朝まで一緒に飲んでくれる友達なんて、ほとんどいなくなる。仕事、家庭、子ども。守るべきほかの重要なものたちに、友人関係は淘汰され優先順位が下げられ、やがて儚く消えていく。
「祥一くんは、趣味とかあるの?」
 一時間ほど黙々と飲み続けたあとで、問いかけてみた。どうやら自分の世界に深く入り込んでいたらしい彼は、はっとしたような顔で隣にいるわたしを見た。ちょっとちょっと、幽霊見たような顔、やめてくれる?存在忘れ過ぎだから。呼んだのそっちでしょうに全く…、いや、いいんだけど。そういうものだよね、失恋って。
「しゅみ…ああ、趣味ですか。登山です。大学から始めたんですが、休みがとれるときは大概日本アルプスのどこかにいます」
「へえ、一緒だ!わたしも登山って大好き。あれって不思議だよね~、登ってるときは修行かよコレ…ってぐらい辛さしかないのに、なんか楽しいの。頂上着いた瞬間に、もう二度と登ってたまるかって気持ちがすーっと消えていってさ」
 あ、今日初めて笑った。つられて笑いながら、残っているオリーブを彼の側に押しやる。
「わかりますよ。はじめは鍛錬も兼ねていたんですが、今では大切な趣味ですね。ふつうに暮らしていると感じることのない山の中の音、匂い、身体の動き。全部が好きです」
 全身で喜びを表現するような弟の成一くんと違って、祥一くんはまるで笑っちゃいけないみたいに、控えめに目を細めて笑う。どうしてだろう。わたしより四つも年下なのに。
 大人びた表情に、なんだか胸が切なくなってしまう。
「無心になるのがいいんだよね。色々悩んでたり、煮詰まってたりしても、今はとりあえず目の前にある山を登ろうって」
「ええ。シンプルな歓びですよね。足を前に出して進める、一歩ずつ。そうしたらいつか頂上にたどり着く。人生は、どんなに頑張っても望み通りいかないことのほうが多いのに、山は違いますから。…ときどき、獰猛な顔をみせたりもしますけど」
 アキちゃんのバカ、アホ、弱虫。
――こんなにいい子なのに、どうして彼じゃダメだったんだろう。

 どれぐらい飲んだのか覚えていないけど、フラフラになった祥一くんを支えて、自分の部屋に運んだのはわたしだ。誰かにそそのかされたとか、祥一くんが「部屋に行きたい」と言ったとか、そんなことは全くない。
 つまりこうなったのは100%自分の意志。
「重い…重すぎる…置いて帰りたい」
「すいま…せん…。いいです、置いて行ってください。男だし、大丈夫ですから」
「大丈夫なわけあるかい。せめて歩いて、お願い」
 部屋にたどり着いた途端、「吐く」と宣言されて大慌てでトイレに放り込んだ。間に合ってくれ神様…!!嘔吐物を何も思わずに処理できるほど、まだ祥一くんのことをそこまで知らないし気を許してもいない。じゃあなんで連れてきたんだ、って話になると、まあ要するにわたしは、『圏外だし』と決めてかかっていた。お互いに圏外だと。なにしろつい最近まで同じひとを好きだったのだから、過ちなど起きようがなかった。
 着ていたスプリングコートを脱いで、彼のジャケットをクローゼットに掛ける。生地の艶といい、さわり心地といい、縫製といい、かなり良いものだろうな、と思ってタグを盗み見ると、『五大陸』の文字。そりゃあいいスーツだわな…と納得して、『プラウドメン』をかけておいた。前の彼氏が置いていったものだけど、これだけはなぜか捨てられなかったのだ。洋服にまつわるものだから、かもしれない。
 洗面所から水の流れる音がする。冷蔵庫を開けて、フタを開けていないミネラルウォーターのペットボトルを取出し、テーブルに置いた。ついでに耳につけていたピアス、お気に入りの腕時計、ネックレスを外してケースに仕舞う。早く部屋着に着替えたいけれど、今日は珍客がいるのでそうもいかない。
「すいません…」
「いいよ、そういうときもあるって。水、テーブルに置いてあるから。着替えはねえ…ちょっと祥一くんが着れそうなものってないんだよね。お客様用の布団、クローゼットから出しておいたから、ベッドの横に敷いて自由に寝てね。お風呂は入る?」
「いえ…あの、大丈夫です…すいません」
 彼がふらつきながらもなんとか水を飲み始めたのを横目に見てから、浴室へ向かう。どさり、と大きな音がしたのでベッドの方を見やると、水を飲み終えた祥一くんが力尽きて布団の上で倒れていた。

 浴室から出てくると、既に祥一くんは深い眠りの中だった。手の中にペットボトルを握りしめたまま、うつ伏せで寝息を立てている。
「あーあ。スラックス、しわしわになっちゃうよ。良いスーツなのに」
 掛布団を彼の上にそっとのせて、ペットボトルを取り上げる。手の中の感触が変わったせいか、祥一くんはうめき声をあげて、寝返りをうった。普段、硬く後ろに撫でつけられている短い髪はすっかり崩れて眉の上で散らかっていて、そのせいか凛々しい顔が幾分幼く見えた。
「…みしませんせい」
 すきです、
と掠れた低い声が言った。胸が痛いぐらい締め付けられる。こんなに強そうな男の人でも、失恋の前では情けなくみっともなく、どうしようもないぐらい無力だ。
「うん、わたしも」
 くしゃくしゃになった前髪をてのひらで整えてから、相槌をうつ。千早くんがいつだったか、祥一くんのことを「自分が一番正しくて、強くて、間違った事なんかないって顔してるところがむかつく」と評していたことを思い出して、違うよ、と首を振った。
 彼をまたいで、ベッドの中にもぐりこむ。てのひらに感じた祥一くんの温度に戸惑いながら、違うよ、とささやく。
 いつも強い人間なんて、どこにもいない。

 身体を揺さぶられて、強制的に眠りから引きずり出される。ううん…ごめんもうちょっと…今日って日曜でしょ…と眠気交じりに呟くと、肩をつかんでいた大きな手がたじろいだ。
「山を登りませんか」
 目を開けると飛び込んできた、祥一くんのせっぱつまった表情。あれだけ飲んだのに、二日酔いになっていないなんてすごいね、とか、おはよう、とか、他に色々言いたいことはあったはずなのに、わたしの口からは「はあ!?」という大声が飛び出す。明日から日本を離れる男の、信じられない提案にもう一度「正気?」と問いかける。「もちろんです」という落ち着いた低い声に、長い溜息を吐く。言い出したら聞かないところは、確かに千早くんの印象を思い出させる意志の強さ。
 遠くで、驚いたサマーが小さく「ピイ」と鳴いたのが聴こえた。

 冷蔵庫の中にあるものを使って、適当に朝食をつくる。実を言うと、わたしは男のために料理をするという行為があまり好きではない。友人なら男女の別なく食事を作るのに、なぜか恋愛関係になるとしたくなくなる。理由ははっきりしていて、大体9割の男が「はじめはありがたがるけど、途中から当たり前のように受け止めはじめ、やがて文句を言うようになる」から。そのうち食べた食器すら下げなくなる。あれは一体どうしてなの、と考え、ああ、わたしが相手にそれを伝える努力をしてこなかったからだな、と反省する。食べたら食器を下げて。料理を手伝って。机を拭いて。そういうことを言うのが面倒くさくて、何から何まで自分でやってしまい上げ膳据え膳に慣らされた男は、やがてそれを当たり前だと思うようになる。いや、待てよ。そんなのって、男も女も関係ないのかもしれない。男からの高いプレゼントを始めは喜んでいた女が、やがて「ティファニーじゃないの」とか「カルティエがいい」とか言い出すのと同じことだ。
「…わたしってダメ男量産機だったのかも…」
「え?なんです」
「なんでもない。口に合わなかったら無理しないでね、多分出汁の取り方とかこっちと違うと思うから」
 ローテーブルの向かい側で、祥一くんが目を細めてゆるく首を振る。
「とても美味しいです。…香りが…こちらの味噌汁とは異なる気がしますね」
「そうだね、関西は昆布と鰹を使うの。こっちだと鰹といりこかな?どっちも好きだけど、やっぱり作り慣れてるから向こうの味になっちゃうよね」
「関西といえば白みそのイメージでした」
「それは正月だけだね。基本合わせみそを使うよ。…ごはんおかわりする?」
 作ったのは簡単なものだ。えのきと玉ねぎの味噌汁、卵焼き、焼き鮭に白いご飯。食べるのが大好きだから、炊飯器と出汁に使う昆布だけはいいものを使っているけれど、こだわっているのはそれだけ。締切近いときや、仕事が詰まっているときは、外食やファストフードで済ませることも多い。
「いただきます。…市岡さんはすごいですね」
「なにもすごくないよ。凄かったらとっくに結婚してるし」
 立ち上がってご飯をよそい、手渡す。自分の分を食べ終わって、テレビをつけるのもなんなので目の前の男を眺めた。箸のつかいかたがキレイ。おいしそうにご飯を食べる。ラノベのタイトルみたいに『この男がモテないわけがない』というフレーズが頭をよぎって、ひとりでニヤニヤした。
「なんでもできるじゃないですか」
「あのね、ひとりでなんでもできる女って、モテないんだよ。だからそれ褒め言葉になんないよね。お前はひとりで生きていける…何回そう言われたか分かんないけど、絶対あれは褒めてないね、突き放してる」
 わたしの言葉をきいているのかいないのか、味噌汁の入っていたお碗の底を見つめながら、祥一くんがつぶやく。
「それに、きれいだ」
 ガコン、と音がしたほうへ視線をうつす。自分の手からしゃもじが落ちた音だった。どうしてこんなところまで持ってきてしまったんだろう、と疑問に思うひまもなく、伸びてきた大きな手のひらが、フローリングの上に落ちているしゃもじを拾う。
 変な事、言わんといて、と静かな声で言い捨てる。動揺したときに方言が出るなんて、まるでアキちゃんみたいだ。あ、またアキちゃんのこと考えてる。心が動いたときにアキちゃんのことを考えるのは、多分逃避なのだと、とっくの昔に知っている。
「あなたが自分をどう思っていようと、関係ありません」
 しゃもじを拾った祥一くんが、真っ直ぐにわたしを見た。
「あなたはきれいだと、おれが思うだけです」
 絶句しているわたしを置いて、テーブルの上の食器をさっさとまとめ、台所へと下げに行く。水の流れる音に、彼がとくに断ることなく洗い物を始めたのだと分かって、全身から力が抜けていった。わたしの知っている(つもり)だった男って、なんだったんだろう。「自分の思い通りに相手を支配しようとする」男や、「尽くされているうちにそれが当たり前のようにあぐらをかきだす」男、「寝たら相手の所有権は自分に移ったと決めつける」男。そんなのばかりと一緒にいた。でももしかすると、それは私が選んできた結果だったのかもしれない。どうせ一番好きな人とは一緒にいられないし、という投げやりな気持ちが、相手にも伝わっていたのだろう。そんな女、大切に想ってもらえるわけがない。
 のろのろと立ち上がり、ひとまとめにしてある登山道具をとり出すために、クローゼットを開く。中に入っている色とりどりの美しい服たちが、わたしの動揺に反応するように淡く揺れた。