【番外編】誰かのために走って泣くこと

※一保の上司、合田視点の話です。 

 

 村山の首筋に残るふたつの痕跡を見つけたとき、俺はすぐに、後ろで着替えている千葉を振り返ってしまった。もはや反射だった。
 当人の千葉は、ウェットスーツを脱ぎかけた上半身をさらけ出しながら、食い入るように村山のうなじを睨みつけていた。そこに残る、意図的に残された情事の痕を、まるで親の仇のように。
 村山の魅力のひとつである素晴らしい鎖骨から少し上、首筋にも、薄く赤い跡がみえる。
「童貞とか言ってなかったか?ずいぶん派手な跡残ってるけど」
 副隊長である安田が冷たい口調で言い放ち、村山の首を指でつねった。いって!なにすんですかと叫んでから、村山はさっさとウェットスーツを脱ぎ、バスタオルで首まわりを隠したまま、シャワーを浴びに行ってしまう。
「……」
 まさか、とうとう千葉が無理やり「こと」を起こしたのか、と考え、それなら村山が反撃したはずだと考える。村山は強いのだ。この熊のような男ばかりが集う羽田基地においても、腕相撲では負け知らずだ。(おれも勝てない、どういう仕組みかわからないけれど)
 こういう職場なので柔道や空手の猛者も数名いるのだが、みな口を揃えて「村山には勝てない、あいつはヤバい」と恐れていた。とくに、由記市出身のものに聞いた伝説が秀逸だ。
「あいつ彼女でもできたのかな。千葉は何か知らないの」
「……知りません。最近話してないんで」
「そういやお前ら最近変だよな。ケンカしたなら早く仲直りしなよ、仕事に響くだろ」
「ケンカしたわけじゃないです」
 それ以上追求してやるなよ、と思いつつ安田と千葉のやり取りを聞いていた。里崎はデートがあるとかで、仕事が終わったらサーっとシャワーを浴びに消えており、一ノ瀬は「おれらのムラちゃんにもとうとう春がきたんですね?」とニコニコしている。
「あんな派手な跡残すような女、大丈夫なのかね。最初だからテンション上がるっていうのは仕方ないかもしれないが、ちょっとなあ」
「ムラちゃんはかっこいいですからねえ、牽制のつもりなのかな?。女の子ってほら、そういうの敏感だから」
 安田の憮然とした声に、一ノ瀬がのんきな口調で返事をした。千葉はもはや、息をしてないんじゃないかと思うほど顔色が悪い。
 最近の乱れた生活を注意しようと思っていたので、いい機会だ。他のメンバーがいなくなったところを見計らって、おれは千葉を自分のデスク付近に呼び出し、「今日はあいてるか」と声をかけた。
「え、あ、はい、ええと……飲み会があって」
「外せないやつか」
「いえ。合田隊長と飲めるならキャンセルします」
 ピンと背筋を伸ばして、千葉が言う。こういうところは非常に可愛いのだが、これを全員にやるのではなく、相手をみてやっているところがある種の人に嫌われてしまうのかもしれない。
「嘘だよ。そこまでしなくていい。帰り道で済むことだから一緒に帰るか」
「はい」
 硬い表情。おそらく何を言われるか想像がついているんだろう。
 着替えを終えて宿舎に向かう足取りは、重そうにみえた。 

 

「寒くなってきたな」
 グレイの空と肌寒い風に首をすくめる。朝だというのに薄暗く、雨がふりそうだった。
「話というのは、最近おれが飲み会に行きすぎだとか、遊びすぎだとかそういう件ですか」
「それもある。次の日に酒の匂いをさせるな。飲むのは勝手だが、仕事に影響させるなら考えるぞ」
「申し訳ありません。でも業務に影響は出ていない、そうでしょ?」
「いまのところは。今後はどうなるかわからないだろう」
 街の中を抜けて、宿舎への坂道を登る。通学や通勤の時間は終わっているので、道路も歩道も人影はまばらだ。
 フードのついた薄手のコートの前をしめて、数歩後ろを歩く千葉を振り返る。自動販売機をみつけたのでホットコーヒーを買って投げてやると、バス停に置いてあるベンチに千葉が目配せした。
「腹が減ったな。朝飯くって帰るか」
 ファミレスでモーニングをやっているのをみつけて、千葉を誘った。さすがにベンチで話すのは憚られると思ったのだ。
「いいですね」
 店の中は空いていた。サラダバーとドリンクバーのついたサンドイッチのメニューをふたりで頼んで、しばらくの間黙って食べた。サラダは思っていたよりも新鮮で、量や種類も豊富だ。好きなだけ食べられるというのも、おれにとってはありがたい。
 黙ったまま窓の外を眺めている千葉を放って、おれは何度もサラダをとりにいき、ひたすら腹の中に入れた。サンドイッチが出来上がって目の前に並べられる段になってはじめて、千葉がため息まじりに言った。
「親友のフリすんのに疲れちゃったんです」
「そうか」
「誰が、とか何が、とか聞かないんですね。一保に何かききましたか?」
「村山がそういうことを他人に話す人間だと思うか?……何もきいてない。見てたらわかったけどな」
 サンドイッチを口に運び、「うまいな」とつぶやいてから、千葉は正面にいるおれを見た。
「知ってたんですね」
「安心しろ。俺以外は知らない。にしても、いままで我慢して何故今なんだ。もっと早く…離れることも、もういちどアピールすることもできたはずだろう」
 千葉は目を伏せてコーヒーを口元に運び、「やっぱり、あいつがいれるコーヒーのほうがうまいな」と囁いて苦笑した。あいつというのは村山のことだろう。確かにそうだった。職場でも、当直中に全員分コーヒーを淹れてくれることがあるのだけれど、味も香りも、他の人間が淹れるのとまるで違っていた。いつだったか、「そういうバイトでもしてたのか?」と尋ねると、「おれはバリスタだったんですよ、前世で」とおどけた声で言われたことがある。
「あいつ、好きな人がいるって言ってたじゃないですか。あれ、保大のころから言ってたやつで、嘘だとおもってたんですよね」
 さほど美味しいわけではないコーヒーを一口飲んで、視線を上げる。
 千葉が肘をつき、窓の外を見た。アスファルトの上で、鳩が群れていた。
「うそ?」
「ええ。だって、好きなやつがいるけど、まだ出会ってない、これから探すんだ、とかいうんですもん。体良く振られたのかなって思って、本当に諦めようとはしたんですよ。実際、保大出てからは年に数回会うぐらいでしたしね、職場が全く違ってたから。けど…トッキューで一緒になって」
 好きなやつがいるけど、まだ出会っていない、とはどういう意味だろう。嘘やごまかしをいう人間ではないから、おそらく本音のはずだ。何かの比喩だろうか?
「職場が一緒になって、一番そばで、ずっと見てたら。ああ、あれは嘘じゃなかったんだなって思ったんです。一保は、もう何年もそいつを探して、会うのを楽しみにしてたんですよ。ーーきっとね、会おうと思えばもっと早く会いに行けたのに、何か…タイミングでもあったんでしょうね、我慢して、ずっと待ってたんです」
 俺も窓の外へと視線を移す。車がきて、鳩は空へ逃げていった。散歩しているらしい老人が、ゆっくりと店の前を横切り、タバコ屋で雑談をしていた。日の光の色が、冬の雰囲気を帯びてきていることを寂しく思いながら、おれは星野祥一の弟の顔を思い浮かべた。おそらく、村山が言っているのはあいつのことにちがいない。甘い、優しげな顔立ちと育ちの良さをにじませる物腰。千葉とは対極に位置するような男だった。
「最近、その男と会えたみたいで。連絡が来たって嬉しそうにしたり、遊びにいくんだって浮かれたり……そういうの、間近でみてたら、強烈に嫌だって思ったんですよ」
 穏やかな口調から一転、険しい声に、おれはコーヒーカップをおいて千葉を見た。千葉は眉を寄せ、テーブルの上を睨みつけながら言った。
「あいつが誰かのものになるなんて、嫌だ。おれ以外が触るなんて絶対に…、ましてや、あんなヤツに」
「星野を知ってるのか?ああみえて、なかなか優秀だぞ」
「あんなヤツ、絶対最後は一保を捨てますよ。いい家の子供なんでしょ、見ればわかる。何一つ不自由したことがないってツラだった」
 そう言い切ってから、千葉がおれをにらんだ。おれは星野成一ではないし、睨まれてもお門違いというものだが、あえて何もいわずにその視線を受け止めた。
「多分星野は一保じゃなくてもいい。でもおれは、一保じゃないとダメなんです」
「村山の気持ちは無視か。一方的に想いを押し付けて、それは自己満足や自己愛とは違うといえるのか?」
 俺の言葉に、千葉がぐっと黙り込んで唇を噛んだ。
「一保には、この世界の誰よりも幸せになってほしいと思っています。それは、嘘じゃない」
「なら、答えは出てるだろ」
 沈黙。
 おれはコーヒーのお代わりを頼み、千葉にもすすめた。彼は黙って首をふり、苦々しい声で言った。
「星野の野郎は一保に何も言ってないんですよ。付き合おうとも、好きだとも言ってない。それなのに抱いた」
 そういうやつはきっと、都合が悪くなったら簡単に一保を捨てます。本当に好きなら、そんな状況で抱けない。
 千葉はそう言って、ソファの背もたれにもたれ、目を閉じた。
「なぜそんなことがわかるんだ」
「今日聞きました。付き合ってんのか、って。そしたら一保は苦しそうな顔で「付き合ってない」って。遊ばれてるんですよ、あいつは」
 人の良さそうな星野成一の笑顔を思い出し、そういうタイプには見えなかったのに、と驚く。何事も順序や礼儀を大切にしそうな人間だと思っていた。
 どうやらおれも顔つきが険しくなっていたらしい。千葉がふっと笑った。
「娘を手籠めにされた父親みたいな顔してましたよ」
「近いものはあるな。だが、村山はもう29で立派な成人男性だ。あいつが自分の意思で選んだことなら、周りがとやかく言うことじゃない」
 俺は伝票を持って立ち上がり、千葉を見下ろした。
「千葉。おれはお前に期待しているよ。おそらく、そう遠く無い未来に俺を超えることができるだろう。だからこそ、仕事でがっかりさせないでほしい。私生活の感情を仕事に持ち込むな。村山と話をして、早急に改善しろ」
「合田隊長…、…はい、申し訳ありませんでした」
「星野とは俺が話してみる」
「え!?」
 呼び止める声が聞こえたが、無視して支払いを終え、店を出る。携帯に登録したばかりの星野成一の番号を呼び出し、発信した。 

 

 星野成一を待つ間、おれは同僚や後輩からきいた、村山の「一斉粛清伝説」とそれを裏付ける事実を思い出していた。
 アメリカで現地の学校にかよっていた村山は、高校2年のときに日本に帰ってきたのだが、そのとき海の周りを根城にして悪行を働いていた暴走族やチーマーを全て、あいつひとりで壊滅させたという噂があった。
 顔を見たときは「まさか」と思ったが(腕も足も、おれよりもずっと細い)、一度池袋でふたりで飲んでいるとき、悪ガキ数名に絡まれたことがあって、そのときにあいつの隠している本性をかいま見た。
 村山は、ガキのリーダーらしきやつをすぐに見わけ、そのガキが「金を寄こせ」の「かね」を述べた瞬間に、鼻っ柱、一番ぶつかると痛いところに頭突きをかました。鼻血をふきだしその場に崩れ落ちたガキのリーダーらしき奴を蹴っ飛ばし、驚いて一斉に飛びかかってきたザコ3名のうち1名を背負い投げで投げ飛ばし、1名は腕をとって関節をキメてから顔面にひざ蹴りを食らわせた。この間、1分もかからなかった。あまりのスピード戦に、おれは入るきっかけを失ってただ見ていたぐらいに早い展開だった。
 残りのひとりが及び腰でナイフを持ち出したとき、さすがに警察を呼ぼうと携帯電話を取り出したのだが、その電話の発信音が終わる前に決着はついていた。村山はあの整った横顔に一瞬、強い怒りを滲ませ、「てめえ、エモノ使うってことは自分も刺される覚悟があるってことなんだろうな?」と睨みつけた。そして相手が何か反論しようと口を開いた刹那、目にも留まらぬ速さで回し蹴りを繰り出して右手のひらに命中させ、ガキが持っていたナイフが宙に舞った。唖然としている顔に、ふたたびぶつけられる強烈な頭突き。声もなく倒れこんだガキの後頭部を見ながら、「相手を間違ったな、お前ら」と俺は内心手をあわせた。そしてあの噂はおそらく本当のことだろう、と確信した。
 村山は全てが終わってから首をぐるりと回して、「警察呼んだ方がいいすかね」とつぶやき、「まあいいや。手加減したし、そこの防犯カメラに全部写ってるし、大丈夫だろ」とひとりで納得して、「いきましょっか!」とおれに全開の笑顔をみせた。
「あらかじめ言っておきますけど、おれは平和主義者ですからね。ただ降りかかる火の粉は全力で払うだけで」
「まあ、お前がいうならそうなんだろう、お前の中では」
「なんですかそのこたえ」
「なぜ、頭突きなんだ?」
 飲みに行く途中だったのだが、なんとなく気勢を削がれた俺とは対照的に、村山は興奮を隠さないツヤツヤした笑顔で言った。
「拳を交える価値のないやつには、あれで十分なんですよ。手で殴るとおれも痛いし」
「うん、頭は拳よりも硬いしな」
 どう返事をしていいのかまよった末、間抜けな答えを返した俺に、村山が大きく頷く。
「ですね。あとはケンカってスピード命なんで、相手が準備整えて殴りにくるのを待ってるなんて、その段階で負けてるんですよ。こっちが殴りたいタイミングで殴ればいいんです。まあ、先制攻撃になっちゃうんで事件になったらマズいんですけど、今回はナイフ持ってるやつがいたんでいかせてもらいました。にしても、あんな弱いくせによくまあおれらに絡もうと思いましたよね、合田隊長なんか握力90超えてんだぞっていう…多分ナイフ持ってるからいけると思ったんだろうな。ったく。弱いだけじゃなくて頭もわりーんだからどうしようもねえや」
 その日、村山が「白Tシャツの悪魔」と呼ばれ恐れられていたという噂が、事実だったことを知った。彼は不良ではないので、髪は黒いままだったし、特徴が捉えづらかったのだろう。唯一、「いつもTシャツにデニム姿」という外見的要素が伝わって、その通り名になったらしい。ダサくて嫌だった、もっとかっこいい通り名がよかった、と唇を尖らせていたのが可愛かった。
 それから数日後、村山は突然「自分はゲイです」とおれにうちあけてきた。そして不思議なことに、何の抵抗もなく「俺もそうだ」と自分のことを明かしていた。村山は全く動揺せず、そうなんですね、と頷いた。きりっと釣り上がった、きれいな猫の目がおれをみつめ、親しみをこめて微笑む。しゃがみこみたくなるほど可愛い、と思った。近寄りがたい端整な顔に、無邪気な表情は反則だ。
 それをきっかけに、お互いにぽつぽつと家の話や恋愛の相談をするようになった。そのやりとりのなかでは、いつも俺が「今、おれの右手は空いてるぞ。どうだ?」と誘いをかけ、村山が「でも左手は別の男の腰抱いてるんでしょ?」と皮肉を言って返すというお決まりのやりとりがあった。内容は少しずつ変わっていったが、いずれも俺が村山を誘い、村山が断るという一連の流れが心地よく、いつしかそれが定番のやりとり、挨拶のようになっていた。

「合田隊長は、誰かひとりを真剣に愛したこと、ないんですか?」
「あるさ。結局うまくいかずに、家族には全員縁を切られて終わったけどな」
 小笠原諸島にいる自分の家族のことを思い出す。昔は思い出すことも辛かったが、今はすでに過去のことだ。
「縁…どうして?」
「相手とその家族が全員、無理心中で死んだ。息子がゲイだなんて耐えられなかったらしい。おれは母からその話を聞くまで、彼が死んだこともしらなかった。それどころか、腹を立ててすらいた」
 上京してくるときいていた日、東京駅で、丸一日待ち続けた。最終電車が行き過ぎて、彼が来ないのだと知ったとき、俺は「裏切られた」と思い、激しく彼を憎んだ。お互いに、両親を含めて社会すべてに隠蔽している関係だったのだ。土壇場で怖気づいたのだと思った。
「俺の母は薄々、息子の性的指向に気づいていたらしいが、彼……、若江という男だったんだが、若江の家族は全く知らなかったらしい。家を出ていくと言い出した息子を問い詰めて、はじめてすべてを知った」

 そして事実を知って激昂し、息子を殺して、家族全員で死んでしまった。

 村山が息を呑んだのが分かって、おれはウィスキーを呷って少し頬を緩めた。
「自分の子どもを殺すまえに、父親が遺書を書いておれの実家に送っていたんだ。お前の息子に人生を狂わされたと。俺の両親は絶望し、俺を忌み嫌い、絶縁を宣言した」
 話を聞いた村山は絶句した。
 そしてしばらくしてから、静かな声で「ごめんなさい」と言った。
「いいんだ。それから、おれはもう誰かを特別にするのはやめてしまった。自分を責めているとか罰しているとか、そんなのじゃない。刹那的に身体をつなげることでしか、寂しさが埋められないんだ。ひとりに決めてしまうと、そいつに執着し、もとめ、束縛してしまう。自分も相手も苦しくなる。いつかいなくなるかもしれないことに、怯え続けるのはごめんだ。気持ちよさと安眠だけが欲しい」
 笑顔でそう言った俺を、村山は澄んだ目でじっとみつめた。
 それから、そっと肩を抱き、背中をやさしく二度なでてはなれていった。
「本当はハグしたいと思ったんですけど、外ですしね。できないのが残念です」
「密室ならできるかもな」
「それは、おれの貞操が危ない気がするからやめておきますけど」
 笑いながらそう言って、村山が海を指差す。
 空はよく晴れていた。今日のように。雲ひとつない快晴だった。
 風がなかったこともあって、海も凪いでいた。砂浜に人はまばらで、窓越しに見える海は、沖縄のようなエメラルドブルーではなくとも、美しい青だった。
「若江のことを、運命だとか、生涯彼しか愛せないだとか、思ったことはなかったんだ。彼はごく平凡な男だった。運動神経も、顔も、身長も、自分で言うのもなんだが、おれのほうが優れていた。特に美しいわけでも、醜いわけでもなかった。でも一緒にいると、俺は自分を偽ることなく伸び伸びと呼吸できた。呼吸、というのも変かもしれないけど」
「わかりますよ。ゲイだということを隠して生きていくのは、時折、自分だけ空気の薄い場所に放り出されたみたいな気持ちになるから」
 安易な慰めや励ましを口にしない村山に、俺はあらためて感謝した。そして心の中で、この男のことだけは信用しようと決めた。
 恋愛的な意味ではなく、部下としてでもない。期待する見返りも何もない。ただ人として、誰かひとりだけでも、自分のことを打ち明けたり、守ったり守られたりする存在が欲しかったのだと思う。
 その日から村山一保は、俺にとって男でも女でも恋人でも部下でもない何かになった。それはある意味、長い間「作らない」ときめていた特別な存在に酷似していたが、肉体関係や約束のない、ただ信頼関係や尊敬で結ばれているこれは、恋愛的関係ではなく、家族や兄弟に似ていると思った。血縁こそないけれど村山のことを弟のように、あるいは妹のように、自分の中のすでに擦り切れてしまった、純粋無垢な部分のように、まぶしく、懐かしく思っていた。 

 

「お待たせしてすみません」
 思い出に沈んでいた俺を引き上げたのは、後ろで姿勢良く立っている星野成一だった。
 ここは横浜でも由記でもない、海沿いのバーだ。村山と俺が自らの性指向について打ち明けあったのもこの店だった。
「いや。久しぶりだな。来てくれてありがとう」
 どこか思いつめたような顔をしていた星野が、ふっと表情をゆるめる。さっと引っかけてきたかのような、ベージュのトレンチコートは高級感があって柔らかそうで、スエードのコンバースのスニーカーが、若者らしい雰囲気を醸し出している。雑誌から抜け出てきたかのような洗練された雰囲気があり、それでいてまったく気負いがない。つまり、彼は自分に似合うものを知っていて、それを選び、着ているだけなのだ。誰かに好かれるためにおしゃれをしている、というわけではなく。
 これは、確かに持たざる者からすれば、妬みの対象になるかもしれなかった。
「何か飲むだろう?」
「おれはビールを頼みますが、合田さんはお代わりでいいですか」
「ああ、ありがとう」
 窓辺をぐるりと覆うようにカウンターがあるこの店は、海が見えるようにすべてガラス張りになっている。暗い夜空の中にぽつんと浮かぶ月影が、静かな海の上で一筋の道を作っていた。
「外は寒かっただろう、何か食べるといい」
「お気遣いありがとうございます。食べてきたので、大丈夫です」
 店の中では、ピアノの伴奏と共にヴァイオリニストが『愛の挨拶』を弾き始めた。外国人の多い店で、同性同士で来ている者もいれば、カップルもいる。
 やがてビールが運ばれてきた。星野は、カウンターにのせた手のひらをグラスに移動させ、控えめにおれにむかって掲げた。おれも同じように少しだけグラスを持ち上げ、そのまま飲んだ。ギネスの濃厚な泡が、喉を通り過ぎて胃に落ちていく。 
 星野弟のことは、詳しくない。兄の祥一の方については、友人としての付き合いが長くて大体の性格や仕事の能力について把握しているつもりだ。弟の成一のことは、彼の上司である六人部隊長と少し話をしたときに伺い知った程度で、「物腰が柔らかく謙虚だが、観察眼に優れていて根気強い、優秀な部下」だと聞いた。六人部隊長はひとつ年上の由記市では有名な消防士だけれど、実際に話してみると、シャイで物静かな人物だった。そんな彼が、珍しく雄弁に人を褒めていたので、印象に残ったのだ。
「一保さんのことですよね」
 俺が話を切り出すより先に、星野成一が言った。
 グラスをさわる指やカウンターの上で移動させる仕草が優雅だ。海を眺めていた視線をこちらに向けて、彼は真っ直ぐに俺を見た。琥珀のような色をした眼は優しげだったけれど、真剣だった。
「ああ……そのつもりだったんだけどな」
「おれは本気ですよ。でも、ちょっと怖いんです」
 曲がSomeone To Watch Over Meに変わった。ジャズもやるのか、と少し驚いてフロアの真ん中を振り返る。サックスとピアノの音が魅力的に絡まり合っていた。そういえば、「この店はいろんなジャンルの、上質な音楽が聴けるんですよ」と教えてくれたのは村山だった。
「一保さんは時々、良く分からないことを言うんです。嘘か本当か、分からないようなことを」
「嘘?あの村山が」
「そんなに意外ですか?」
 問い返しながら、嬉しそうに笑っている星野。俺は安心させるように笑い返した。
「あいつは正直こそ美徳だと勘違いしているようなヤツだぞ。つい先日、誰とも付き合った事がない、とうちの隊全員の前で公言していたし」
 あはは、と声を上げて笑い、あの優雅な指でグラスを傾ける。
「そうですよね。一保さんは嘘をついたり、自分を良く見せようとしたり、そういうことができない人ですよね。分かってるんです。でも、彼と関係を持ったら……、なんだか分からなくなって」
 そこから、星野は途切れがちになりながらも、村山との関係と現状を俺に話した。初めて会ったときから心惹かれていたことや、昔から知っているような気がすること、想いを告げる前に関係を持ってしまい、それが続いてしまっていること。
 そして時々、村山が『別の何かを探し求めるような目で』自分を見るのだということ。
「何かを探して、ってそんな、JPOPの歌詞みたいなことがなぜわかるんだ」
 冷やかしているわけではなく、疑問だったのだ。俺の問いかけに、星野は首を傾げ、「一度、『お前はおれの知ってる成一じゃない』って言われました」とつぶやき、その言葉に傷ついたような顔をした。
「寝たら、相手に経験があるかどうかぐらいは、わかっちゃうじゃないですか。少なくとも彼は、おれが初めてではないと思います、でもそれは」
 どちらでもいいんです、と星野は言った。
「彼が誰かと経験があってもなくても、そんなことはどっちでもいいんです。でも、どうしてそんな嘘をつくんだろうって、それがすごく気になってしまって。問いかけてみたこともあるんですけど、……」
「村山はなんて言ってた?」
 うつむき、声を落として、星野が言った。
「タイムリープして何度もやり直しているから、お前に会うのははじめてじゃない、って」
 そんなの、信じられませんよね。SF映画じゃないんだから。
 低い声でそう言い、グラスの中身を空にする。そして洗練された仕草でバーテンダーを呼び、ふたり分のビールを注文した。
 ――何かがひっかかる。
 言われてみれば、村山は不思議なところがあった。まず、俺が彼に初めて会ったときも、どこか「初めてではないような」気がしたのだ。村山も、俺を知っているように落ち着いて微笑みかけてきた。それに、
「訓練……」
「え?」
 ビールで喉を潤し、考え込む。
 特殊救難隊の訓練内容を知っていること自体は、不思議ではない。ひっかかったのは、あの落ち着きだ。
 新人ならだれしも疲労困憊になるはじめの一ヶ月、村山は、平然としていたのではなかったか。
「今の所属にあいつが来た時、訓練の内容を知っているみたいに落ち着き払っていたんだ。それに、彼の上司に話をきいたら…妙なことを言っていたな」
「妙なこと?」
「ああ。経験値がおかしい、と」
 技術や能力は努力と才能があれば短期間で飛躍的に上がることもある。けれど、経験だけは年数を経て手に入れるしかなく、そればかりは場数をどれだけ踏んできたか、というところがものを言う。
「村山は、潜水士を拝命してすぐの頃から、頭角を現していたらしい。普通なら習得に3年はかかるような技術も、入ってきたときほとんど完成していたと……。現実的に考えると、それはありえないことなんだ。現場に出る前から、できる、なんてことは」
 星野がはっと息を飲む。俺が言わんとしていることを察したらしい。
 ため息をつき、海へと視線を移す。そんなことがあり得るだろうか。いや、でもそれならば、いろいろなことの説明がつく。
 感じていた違和感が、すべてつながってひとつの線になっていくのを、俺は憂鬱な気持ちで感じていた。馬鹿げている。けれど、もしかしたら。いや、そんなはずはない。でも。
 そういう葛藤を繰り返していると、隣で星野が笑った。
「どっちでも関係ないですよね」
 だって、諦める気、ないから。そう呟いて、俺を見据える。
「彼が本当に未来から来た人だとしてもそうじゃないとしても、彼が好きで追いかけている人が別の誰かだとしても、答えは決まってるんです。好きだって。ずっとそばにいてほしいって、もう決まってるから」
 だから、だれにも譲る気はありません。誰が泣こうが、知ったことか。
「それをきいて安心したよ」
 大人しいだけの男ではない、ということがわかって、おれはおもわず微笑んだ。彼は微笑みを返し、それから、急に思いついたように眉を寄せて「そういえば、千葉っていう人は合田さんの部下ですか」と問いかけてきた。
「極めて優秀な部下だが、何か」
「……おれ、あのひと苦手です。向こうもおれのこと嫌いだと思うけど」
「羨ましいんだろう、きっと。それに、千葉は君のことをよく知らないから」
 そこからしばらくの間、はじめて千葉にあった日の話になり、おれは笑ったり、代わりに謝罪したりして盛り上がった。悪いやつではないんだ、と庇ったら、星野はすかさず「悪いやつですよ」と返してきて面白かった。
 終電の時間が迫り、トイレにいくついでに会計を済ませて戻ると、星野は携帯電話をじっと眺めていた。一瞬見えた画面からは、星野の「明日一緒にご飯たべようよ」というメッセージと、村山の「夜ならいけるけど」という短い返事が見えた。
「夜かあ……夜は我慢できなくなっちゃうからダメだなあ。昼じゃだめか…あ、昼でも関係なかった…あ~っ、どうしたらいいんだろ」
 ひとりでぶつぶつ言っては頭を抱えている星野は、気配もなく隣に座った俺に驚き、「いつからいたんですか!?」と叫んだ。俺は肩を竦め、返事は保留した。
「さっきの話だが、信じてきいてみてもいいかもしれないな」
 真実かどうかはともかくとして、村山は嘘つきじゃない。何か特別な事情があるのかもしれない。
 店を出て駅に向かう道中、俺がささやいた言葉に、星野が深く頷いた。
「ちゃんと向き合って、納得するまで話をする。それが、大切だ。後悔しないようにするには」
「……はい。そうですね、だって知りたいこと、いっぱいありますもんね。今からきいてきます」
 澄んだ眼と、強い言葉。
 はやる気持ちを表すように、次第に早く遠ざかっていく星野の背中を見ながら、俺は、自分の中にはもうあんな情熱は残っていない、ということをまざまざと感じさせられ、悲しくなった。
 星野の言葉を思い出す。
『ただ、みているだけで愛おしいんです。だから側にいてくれたら…すごく幸福だろうなって思うんです』――そう、彼は言ったのだ。
「いとおしい、か」
 せめて彼らがその輝きを失わないように、できるだけのことをしてやりたい。
 誰かを想い、誰かのために走って、誰かのために泣く。それは当たり前のようで、そうじゃない。心の中にある火は、いつか消えてしまうのだ。あるいは辛い出来事で、あるいは老いで。
 もう見えなくなってしまった星野の後ろ姿を追うように、俺はその方向をみつめつづけた。