7 (成一)

 電話の音に驚いてしまうクセが抜けない。
 今も、デスクの中に放り込んでいた携帯電話が震えているけど、あえて気づかないフリをして報告書をまとめている。
「星野、携帯電話が鳴っている」
「勤務時間中ですので、休憩時間に確認します」
 充分ではない空調のせいだけではなく、指先が冷たい。
 深呼吸をしながら手をひらいたり結んだりしていると、次第末端に体温が戻ってくる。
 バレエダンサーとしてコンクールに出ていた頃に教えてもらった、リラックスする方法を実践しながら隣の上司に返事をした。
「何かあったのか?」
「そうみえますか」
「電話に怯えているように見える」
 キーボードを叩いていた指が止まる。
 HRが入っているのは中央署近くにある方面基地で、まだ建物が新しくてデスクもぴかぴかだ。顔を上げ、みるともなしに天井の照明をみつめると、隣で六人部隊長が「さきほどの起案文書だが、この部分が少し分かりづらい。書きなおしてくれ」とダメだしされてしまった。
「こういうミスもお前らしくない」
「買って頂いてるんですね……嬉しいな」
 現場中心の消防吏員といえど、書類仕事はいくらでもある。
 業務日誌をひとつき分まとめ、分かりやすいように修正して起案、決裁を回した文書を差し戻され、確かに自分らしくないな、と俯く。
「そうじゃなかったら指導しないしな」
 低い声でそう言ったけれど、おれは知っている。どんな部下が相手でも、この人は決して相手を見捨てたりせずに根気強く育ててくれるのだ。救急救命士の資格だけを持っていた、何もできないおれを、ここまで連れてきてくれるほどに。
 六人部隊の編成は5人だ。おれたちふたりを除けばあと3人の救助隊員がいるが、2人は後輩で1人は先輩(副隊長)になる。副隊長の先輩や後輩たちは、折に触れて「六人部隊長ってちょっと取っつき辛いだろ、どうやって仲良くなったんだよ?」と尋ねてきていたが、数か月経てば隊長の優秀さや分かりづらい優しさに気付いたらしく、今は和気藹々とした隊になった。
「六人部隊長は、女性に、その……しつこく連絡をされたり、家まで来られたことってありますか?」
「なるほど。今そういう状態だから電話に出ないのか」
「違います!と、友達の話です」
 眉を寄せ、周囲を伺った後で「装備の整備をしながら話そう」と小声で言って、六人部隊長が立ち上がって車庫へと歩いていく。おれは慌てて後を追い、階段を駆け下りて、救助車とその近くに置いてある救助器具に視線を移す。
 真っ赤な救助車を横切る、稲妻のようなかたちをした、白いライン。ふつうの救助車ではなく、ハイパーレスキュー隊だと示しているこの模様を見るたびに、誇らしいような、重いような気持ちがする。
 ロープやカラビナは中央署にいたころもよく見ていたが、エンジンカッターや油圧ジャッキ、チェーンソーやガス溶断器などは、まさに救助隊特有の器具が並んでいる倉庫で、六人部隊長は手袋をしたまま、ひとつずつ丁寧に点検、整備をしていく。本来ならおれたちのような階級のものがやるべきことでも、隊長は決して任せきりにしたりしない。部下の仕事を疑っているわけではなく、おれたちの安全のために確認してくれているのだ。
「元妻が家に来たことならあったな。最後にお前が、うちに来た日だけど」
 まさか、あの日のことが持ち出されるとは思わなかった。
 さっと視線を六人部隊長の後頭部に移すと、彼は振り返って目を細めた。
「それ以外は特にない。自分で言うのもなんだが、女性にモテたり、期待をされたりする人間じゃないんだ」
 淡々とした口調で隊長がそう言うので、おれは少し笑った。
「隊長はとても魅力的だし、そう思っている女性も沢山いたと思いますよ。ただ、それを寄せ付けないというか、跳ね除けるオーラはありますよね」
「言うようになったじゃないか、星野。しかし言われてみれば…お前が海外に行っている間にみていた女性の部下は、どことなくそういう雰囲気だったけど。結局何も言ってはこなかったな」
 不機嫌な顔をしてみせてから、隊長も笑った。おれは少し腹が立つような呆れるような変な気持ちで、「なんだ、モテてるじゃないですか」と言い、隊長は吐息のような笑い声をもらして目を細めた。これだよ、こういうところに色気を感じるんだよな。この人は決して大声で笑ったり感情を露わにしたりしないけれど、だからこそ感情の色が乗ったときの表情が、とても魅力的なのだ。
 かつての恋心を思いだしそうになって、慌てて話を元に戻す。
「1日に1回に減ったんですけど、メールが来るんです。日常の…今日はこんなことがあったよ、とか、どこどこへ行ったよ、とかそういうやつで、別に悪いことを書いてあるわけじゃないんですけど、前にそれに返信を返していたら、どんどん依存されていったから…もう返事をしないようにしているんですが。返信できないメールが毎日来る、っていうことが、心苦しくて」
 彼女はもう、家にきたり電話を何度もかけてきたりはしない。それに多分、根本的なことだが、彼女はおれを好きだったわけじゃないと思う。辛い、寂しい思いを紛らわせることができたら、きっと誰でも良かった。
「断った……んだろうな。星野は、そういうところはキチンとしているから」
「ええ。はっきりと。ああ!友達の話にするの忘れてました…もういいや。はい」
 車庫の中は、事務室の中よりずっと寒い。それも今のように、日が落ちてしまった後では、11月末でも結構冷える。
「それだけじゃないだろ。携帯が鳴ると星野は…怯えたような顔をするけれど、その後気になったみたいに、少しそわそわする。連絡が欲しい相手も別でいるから、本当は電話を確認したい思いもある。違うか?」
 さすが鋭い。
 驚きよりも感心のほうが勝って手が止まってしまう。六人部隊長は先日任務で使ったばかりのガス溶断器を手に取り、わずかに残っていた汚れを丁寧に拭き落とした。
「待っているだけでいるのは楽だ。傷つかないし……諦めもつきやすい。でも、」
 振り返った顔は、もう眠たげではなく、出動中のように目に力がみなぎっていた。
「後悔も大きくなる。やれるだけのことをやってから、落ち込んだ方がいい」
 傷ついたって死にはしないんだ。
 六人部隊長の言葉に、おれは小さく頷く。
「おれが前に進むことを怖がっていたとき、背中を押してくれただろう?だから、もしも今星野が悩んだり、迷ったりしているなら、今度はおれの番だ。おれがお前の背中を蹴っ飛ばしてやる」
 なんだかその言い方が一保さんみたいで笑ってしまう。蹴っ飛ばす、だなんて。六人部隊長らしくない。
「ありがとうございます。そうですよね、考えたっておれ、そんなに賢い方じゃないし、動くしかないんですよね。…よし!」
「蹴っ飛ばすか?」
「それはちょっと、遠慮しておきます。お言葉だけで」
 車庫から事務室への階段を上りながら、目を合わせて笑った。よく笑うようになった六人部隊長の変化は、きっとあの人の影響なんだろう。
 おれは電話が怖い。でも同じぐらい、電話を見たいとも思っている。一保さんから連絡が来ていないか知りたいし、知ったらすぐに返信したいと感じている。
 彼の絵文字や装飾の類が一切ない、用件だけの文面が好きだ。一往復以上のやりとりが面倒で、すぐに電話をしてくるところも、そのときの「おれだけど」ってはじめるぶっきらぼうな声も、全部好きだ。
 聴きたいことの結論を、勝手に想像したり逃げたりするのはやめよう。
 次に会うとき、分からないことを全部、きいてみようと思った。 

***

 

 朝焼けの海岸線を走っていると、カモメが一羽、海のほうへと飛んで行った。
 耳に入れていたイヤホンを引っこ抜いて、ポケットに突っ込む。今日の朝は気温が低くて、息がわずかに白い。ジョギングというよりもランニングの速さで、おれは由記市の海岸沿い、なぜかとても懐かしい気持ちになる海沿いを走る。
 息が上がって自分の心臓の音が聴こえる。
 弾む息の先で、海が赤く照らされていた。房総半島の方向から昇る朝日が、海面をブルーと赤のグラデーションに染めていて、とてもきれいだ。
 5キロほど走ってから、海岸線の道路から降りて、砂浜を歩いた。どうしてだか、この海はおれにとって特別だった。潮風の匂いから風景にいたるまで、何から何まで他の海とは違っていた。どうしてだか分からないけれど。
 泳ぐのは苦手だったはずなのに。
 海なんて、好きじゃなかったはずなのに。
「目に映るものの色や形が、なんだか前とは違うような気がする」
 そう言ったおれに、野中さんは困ったような顔で笑って、「恋してますねえ」と言ったのだ。
 あの日彼が帰ってしまってから、連絡が取れなくなっていた。しつこく思われない程度に短いメールは送ったりもしたけれど、既読はついても返事がない。
 お互いに夜勤のある仕事だから、シフトがすれ違っているのかもしれないし、忙しいのかもしれない。いや、返事がないのは、それが答えなのかもしれない。今までのおれなら、きっとそこで諦めていたと思う。嫌われてしまったんだな、とか、もうダメかもしれないな、自分が悪いから仕方がないな、と見切りをつけて。
 一保さんに会うたびに、自分の中にこんなに激しい気持ちがあったのか、と驚いた。強烈な「触りたい」という欲だとか、「もっと一緒にいたい」と求める気持ちだとか、これまで「恋愛」だと認識していた気持ちよりも遙かに熱くて重くて、自分でも上手く扱うことができない。重いなと思う。重い自分は嫌なのに、会いたいし、会うと触りたくなってしまう。
 ただ、いま会いたいと伝えたら、このままずるずると肉体関係だけの繋がりになってしまう気がした。だから数週間、連絡は一定間隔でとりながらも、会う約束はしなかった。
 おれが欲しいのは彼の身体ではなく、心だ。なのに、心が欲しいからといって肉体に手を伸ばしたら、心は遠ざかっていく。
 息を整えるために、砂浜をゆっくり歩いた。ジョギングコースを変えたのは、引っ越したこともあるけれど、海をみたいからだった。
 細かい砂の中に沈みながら、波打ち際を歩く。深呼吸をして、海から正面へと視線を移すと、数メートル先に驚いた顔をした、今まさに「会いたい」と考えていたひとが立っていた。
「…なにやってんの」
「ジョギング、の、コースを変えたんだけど」
 あなたこそ、ここは横浜から遠いのに。そう言おうとして、言葉が出てこなかった。気が付いたら腕を引いて抱きしめていた。
 こんな奇跡ってない。会いたいと思っていたら、目の前に現れるなんて。
 でも一保さんは、初めて会ったときからそうだった。突然、目の前に現れてはおれの心をめちゃくちゃにかき乱して、夢中にさせて、なんでもなかったみたいに去ってしまうのだ。
「おれは…実家がすぐそこだから。久しぶりに帰ってたんだ」
 抱きしめられて苦しいのか、くぐもった声で一保さんが言った。
「会いたいと思ってたから、ちょっと感動しちゃった。奇跡ってあるんだね」
 身体を離して、潮風で乱れた黒髪を整えてあげた。彼は恥ずかしそうに目をそらして、小さい声で「ほんと、成一は恥ずかしいことを平気で言うよな。月9の主人公かよ」と悪態を突いた。おれはほんの少し苦い気持ちで笑った。甘い言葉なんかであなたの心を縛ることができるなら、いくらでも伝えるけれど、そうじゃないくせに。
 先に歩きはじめた一保さんを追うようにして後に続いた。風が強くて、潮の香りが全身に叩きつけられるようだった。
「春の人事異動で、特殊救難隊を除隊になるかもしれない」
 海辺を歩いていると、一保さんがぽつりと言った。
「……そうなの」
「ああ。大体3,4年で異動して昇任するんだよ。トッキューなんて長くいられる場所じゃねえから。あ、合田隊長と千葉は別な、あいつらは化け物」
 朝焼けの光に照らされた一保さんの横顔は、凛としていてとてもきれいだった。
 長い睫毛と猫の目が、じっとみつめていたおれに気付いてキッと睨み付けてくる。
「弱音吐いてんじゃねえからな。事実を言ってるだけだ」
 わかってるよ、といいつつもちょっと微笑んでしまった。直情型のようにみえるが、彼は案外冷静で客観的だ。
「次行く部署は分かっているの?」
「大体は。語学生かせるようなとこ…国際部門があるんだけど、多分そこじゃねーかな。ただちょっとな…デスク仕事が主になるだろ。いままで船乗って救助しかしてないからな。自信、ねえわーーー」
 ははっ、と苦笑してから、一保さんは海辺に向かって走っていき、足で海水を蹴ってきた。それを避けてから、走り寄って捕まえる。細身の、けれどしっかりと筋肉のついた身体。この身体がどんなふうに熱くなるか知っている。無邪気な笑顔がどれほど淫靡な表情を浮かべるかも…。
「なに怖い顔してんの」
「いや…ちょっと。やらしいこと考えてた」
「バーカ」
 カラカラと笑って、一保さんがまた海水を蹴った。今度は足元に少しかかって、おれも仕返しに海水を手のひらですくって飛ばした。彼はそれを軽々と避けてしまう。
「異動したら多分勤務先東京だから、4月から地元に戻って来ようと思ってんだ。ここから東京まで1時間ぐらいだしな」
「そうなんだ。実家?」
「いや、どっか部屋借りるよ。年頃の妹はおれのと一緒に洗濯されたくないらしいからな」
「なにそれつらい」
 声がつい浮かれてしまう。家が近くなったら嬉しい、という気持ちがモロに出ていたんだろう、一保さんはまた笑って「かわいいやつめ」と手のひらでおれの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
 嬉しいのは、家が近くなるから、それだけじゃない。
 千葉さん。あの人の側から離れてくれることが、正直にいってとても安心する。
「たまたま今週末休みだったし、実家に帰ってきて物件目星つけてた。4月に探すと遅いんだよなー、異動の時期だから不動産屋もクソ忙しいし」
 彼は腕時計をちらりと見てから、引き締まった顔でおれを見た。このまま別れなきゃいけないのかな、と寂しくなったのもつかの間、思いもよらない提案が彼の口から飛び出す。
「なあ、朝飯食った?まだならウチ寄って食ってけよ、ほんとすぐそこだから」
「……いいの?」
「もちろん。寝起きの妹と母ちゃんいるけど気にすんな」
「え!おれは気にしなくてもご家族が嫌なんじゃ…」
 一保さんの家族と育った家なんて、いきたいにきまっている。でも形式的に遠慮しなければ、と思ったので一応伝えると、彼は笑って手を振った。
「深雪も母ちゃんもそういうの全然気にしないから大丈夫だって。ただなんか色々話しかけてきてうぜえかもしんないけど、適当にかわしてりゃいいから」
 自分の母親とは全く違う彼の家族との距離感に戸惑ってしまう。でもきっと、普通の家族はこういうものなんだろう。一緒にいるとリラックスできて、楽しい。そういうものが、いまの一保さんを作ったんだろう。
「じゃあ、お邪魔しようかな」
「どうぞ。こちらです、狭いですけど」
 一保さんがおれの手を取ってつなぎ、引っ張って歩く。嬉しくて、このままあと1時間は歩けるな、なんて思った。  

 

 10分もしないうちに、彼の実家に到着した。
 2階建ての、ごく標準的な木造家屋。入口にはサーフボードが立てかけてあり、玄関に入ると、大小さまざまな貝殻(おれの顔の二倍ぐらいありそうなものまで!)が飾ってあった。
 一保さんは「ちょっと待っててな」と断ってから家の中に入り、おれのことを家族に説明してから、「どうぞ、上がってー」と声をかけてきた。お邪魔します!とうるさくはない、けれどはっきり聞こえる程度の声量で宣言してから、フローリングになっている廊下に上がらせてもらう。
 廊下には、いくつかの魚拓が額縁にいれられ、飾られていた。どれも立派なものばかりで、それらを感心しながら眺めつつリビングに入る。リビングは広々としていて、北欧の雰囲気の家具でまとめられており、窓辺やテーブルなど至るところに花が飾られていきいきとしていた。
「いらっしゃいませ。星野くん、好き嫌いはある?きゅうりは食べられるかな」
「突然お邪魔してすみません。なんでも食べられます」
「そう、良かった!姉から貰ったジャムがあるのだけれど、オーガニックでとても体によくて美味しいの。たくさんあるから持って帰ってね」
 一保さんがダイニングテーブルから手招きしてくれたので、隣の席に座った。お鍋を両手に持っている彼のお母さんは、一目でそうと分かるほど、一保さんにそっくりだった。
「おかーさーん、私の下着どこ~~?ないんだけど~」
 もうすぐできるからね、とおれたちに声をかけてから、一保さんのお母さんがパタパタとお風呂場らしき方向に駆けていく。もう、たくさんあるでしょ、着たいのがないだけでしょ、なんてこぼしながら。
「いまの声が妹の深雪な。年離れてるから今23なんだけど、可愛いぞ」
 惚れてもやんないから、とふざけてから、「コーヒー飲む?」と問いかけられる。どうやら彼のお母さんが焼いたらしい、自家製のパンを籠いっぱいにつめて、一保さんがテーブルの前に置いた。それから、すでに用意されていたコーヒーをカップ一杯に注いで、あたたかいミルクと一緒に渡してくれた。
「ありがとう。パン、おいしいね」
「焼き立てだからな」
 風呂場から戻ってきたお母さんが、コーンスープやベビーリーフのサラダ、カリカリに焼いたベーコンとほうれん草(目玉焼きが乗せられている)をテーブルに並べてくれた。座っているのも申し訳なくてお手伝いを申し出たけれど、彼女は笑って断った。
「いいのよ、一保のお友達はわたしの息子みたいなものだから」
 にっこり笑った顔に、つられておれも微笑んでしまう。
 となりで一保さんが、妹さんの分とおぼしきカフェオレを作って、お母さんが座った席の隣に置いた。やがてリビングの扉があいて、「おなかすいたー!」という元気な声とともに、女の子が駆け込んできた。
「おはようございます~。わー、お兄ちゃんやるじゃん、彼氏かっこいいじゃん!」
「ちげーよアホ!と・も・だ・ち!!」
「ええ~?ほんとにそうなんですか?」
 だよねえ。おれだって訊きたい。
 あなたは友達とセックスするんですか、と問いたくなったけれどガマンして、その場を傍観する。
「わたし深雪といいます。妹です」
 一保さんを女の子にしたらきっとこんな感じなんだろうな、という、気の強そうな、とびっきり可愛い子がおれのほうを見て目を細めた。なんだかもう、楽しくなってきてしまって、「おれは彼氏になりたいんですけどね」と言ったら、目の前で二人分の、とても嬉しそうな悲鳴が上がった。
「成一、やめろって。ババアとクソガキが喜ぶから」
「誰がババアよ!お腹ぶん殴ってごはん返してもらうわよ」
「お兄ちゃんのほうがクソガキだし」
 女のひとふたりの攻撃に、さすがの一保さんもたじたじだ。
 こんなに賑やかな食事、おれは経験したことがない。食事中はテレビも会話もダメだったから、ただ黙々と食べることが多かったし、兄はもともと口数が少なかった。祖母が亡くなってからは、実家に帰ることすら稀だ。……兄よりは帰ってはいるけど。
「このジャムうま。やっぱ伯母さんのジャムが一番美味いな」
「姉さんから昨日電話あったんだけど、受け取ってから『ジャム送ったけど』って遅すぎるのよねえ、あのひとは。もう3日前に届いてるのに。相変わらずマイペースなんだから…こら、深雪!野菜も食べなさい、また便秘になるよ」
「ちょっと初対面の人のまえで便秘の話やめてくれる!?」
「お前便所入ったらなげーもんなあ、運動しろ、運動。そんで食物繊維をとったらクソも出るって」
「ご飯中!!もーほんとデリカシーない。お兄ちゃんってそういうとこお母さんにそっくりだよね」
 朝7時とは思えない元気と、次から次へとあふれてくる言葉の応酬に、おれは笑っていることしかできない。なにしろ、そっくりな顔をした美形家族が、そろいもそろって口が悪くて元気なのである。
「あの、廊下に飾ってある魚拓って…?」
 おれの問いかけに、そっくりな顔が一斉にこちらを見た。そして、「あれは親父の趣味」と一保さんが返事をしたのを皮切りに、「ほとんど家に返ってこないエア親父よ」という深雪さんの皮肉っぽい言い方に、「お父さんがいるからわたしたちは何不自由なく暮らせてるんだから、そんな言い方よしなさい」という菩薩のようなお母さんの言葉で、ようやくその場は少し静かになった。
「夫は商船の船長をしていてね。半年航海に出て、2、3か月帰ってきては、また半年海の上。一保が海で仕事をしたいといったときに、これは我が家の血筋なのね、と悟ったわ」
 少しさびしそうに笑ってから、彼女は立ち上がった。ごちそうになったお礼にせめて片づけを手伝おうとしたのだけれど、またしても丁重に断られてしまう。
「あとでデザートを持っていくから、一保の部屋でゆっくりしててね」

「ごめん、うるさいだろ。うちの女どもは」
「ううん、すごく楽しい。一保さんがおろおろしてるところなんて、初めて見た」
 独り立ちしてからも彼の部屋はそのまま残されていて、いまおれは、かつての一保さんの部屋にお邪魔している。
 ごはんを食べたらお暇すべきところだろう、と思い「それじゃあ」と腰を上げた瞬間、「もっとゆっくりしていって!」「そうだよ!なんなら泊まっていってくださいよ!」とふたりがかりで引き留められたのだ。とてもありがたくて、ラッキーだと思った。だっておれは、まだ一保さんと一緒にいたかったから。セックスなしで、いろんな話がしたかったから。
「じゃあ、泊まってくか?つっても何もねーけどなあ…」
 その言葉が聴けたとき、内心ガッツポーズをした。表情には出さなかったけれど。
「明日休みなのか?」
 そうならよかったのだけれど。仕事だよ、と伝えたら、「おれも」と一保さんが頷く。とはいっても同じ由記市だし、朝早く出て一度自分の家に寄れば出勤は可能だ。
「ねえ、そんなに遠くにはいけないけどさ、ちょっと出掛けない?」
「お、いいな。どこいく?」
「江ノ島水族館とか」
 神奈川に生まれ育ったというのに、行った事がない場所を伝える。一保さんは「子どものころから嫌ってほど行ってるけどな!」と笑ってから、「まさか成一、行った事ねーの!?」と目を丸くした。
 ないんだよなあ、なにせ家族サービスってやつを、ほとんど受けたことがないから。
 父親は商社の企業戦士、母親はバレエ教室の先生、祖母は華道の師範でみんな多忙だったから、どこかへ連れて行ってもらうという経験はほとんどない。物的には満たされた子ども時代だったけれど、思い出的にはとても貧相なのだ。それでも、育ててくれたことには感謝している。こどもはひとりでは生きていけない。いまおれが幸せに暮らしているのは、(例え結びつきが希薄なところはあったにせよ)両親が経済的に支えてくれたおかげだし、祖母や兄の精神的な支えが大きかった。
「マジか。てことは、旅行もあんまり行ったことない?」
「ほとんどないねえ…あ、バレエ関連でイギリスには何度か行ったけど」
「デートとかで行かなかったのかよ、水族館だぜ?」
「んー……意図的に避けてたのかもしれないね。ほら、家族連れが多いでしょう。なんとなく寂しい気持ちになっちゃうからさ」
 三嶋先生と知り合ってから、「貧困に端を発する家族の地獄」を知ってしまい、余計に自分の話なんてできなくなったけれど、個人的には、裕福かそうでないかということと、幸福かどうかということはあまり関係がないと思っている。貧しくても支え合いながら幸福に生きている家族もいれば、金銭的に恵まれていても常に孤独を感じるような不幸な家族もいる。おれは自分を不幸だと思った事はないけれど、ある程度の年齢になってからずっと、家族を持つということに対して、漠然とした不安があった。
 歴代の彼女にフラれてしまったのは、もしかするとおれのそういう部分を感じ取られていたのかもしれない。
「じゃあ、昼から行くか。海の生き物は大体の解説もできるから案内してやるよ。あとな、今は「新」がつくんだぜ。新 江ノ島水族館だ」
 暗い顔をしていたのだろう。一保さんが安心させるように笑って、ベッドに座っているおれの頭を撫でた。彼のもつ清潔な香り――洗い立てのシーツみたいな匂いだ――がふわりとただよって、少し心が騒いだ。どうしてかな、と思う。どうして、おれは彼に対して、こういう欲望を抱いてしまったんだろう。抱きしめたいとか触りたいとかそういう気持ちさえなければ、一生付き合っていけるような親友になれたのに。
「出かける前にアルバムでも見るか?」
 おれの天使時代を見せてやろう、と一保さんが言うので、すすめられるがままにフローリングの上に座ってベッドにもたれ、アルバムを開く。
 美少女といっても差支えの無いきれいな顔をしたこどもの一保さんが、やんちゃな顔をしてザリガニを釣ったり、海で遊んだり、花火を両手に砂浜を疾走したりしてる写真はどれも本当に愛くるしくて、「ちょっと失礼しますね」といって2、3枚持って帰ろうかと思ったほどだ。
「うわっかわいい……!」
「まあな。親も心配だったから色々やらせたんだろうな、柔道だの合気道だの」
 一保さんは他にも何か言おうとして、ぐっと口をつぐんだ。気になりつつも、彼が話したくないことを無理にききだしたくなかったのでみなかったふりをした。
 おれの隣で膝をたてて座っていた一保さんが、コーラを呷って(コカ・コーラの瓶のもの。彼曰く、コーラといえばこれなのだそうだ)「こいつがアメリカで親友だった、台湾人のシュウ。あ、この神秘的な女の人、これがおれの伯母さん。街並みきれいだろ、カリフォルニアのバークレイってところだよ」と説明してくれる。
 整然とした異国の街並みや、ファーマーズマーケットで野菜を沢山買い込んでいる様子、友人たちとのホームパーティ。
 中学から高校2年まで住んでいたというアメリカの話をしている一保さんは、生き生きしていて嬉しそうだ。
 コーラをおれも一本頂戴して乾杯した。どの写真も、知的な顔立ちをした「シュウ」という友人が映っていて、肩を組んだり、ふたりで変な顔をしていたり、何故かギターを肩にひっかけていたりした。
「――こないだ、ごめんな。いきなりゲイバー待ち合わせにしたりして。驚いただろ」
 アルバムに魅入っていたおれの上から、一保さんが静かな声で言った。
「おれはゲイなんだ。それを伝えようと思って、あの店を待ち合わせ場所にした」
 顔を上げて、隣にいる一保さんをみつめる。彼は目をそらさなかった。何かを覚悟しているみたいに、強い眼でおれを見返してきた。
 そっと溜息をつく。すると、彼の目がわずかに怯んだ。そういう意味じゃないのに。
 彼の手をそっと握って、ひとつ頷く。そして言った。
「前に言えなかったのは、おれを信用できなかった?」
「違う、そうじゃない」
 慌てて否定した彼を、腕を引いて抱きしめる。
「いいんだ。教えてくれてありがとう」
 勇気を振り絞って出会って間もない自分を信用してくれたのだ、と思うと、すごく嬉しかった。同時に、これまで彼の信頼に応えることを、なにかひとつでもできただろうか、と考えて胸が痛くなった。好きな人がいる、と言って苦しそうにしているところに、付け込んで、欲望をぶつけただけだ。
 兄の言葉を思い出す。『まだ決めるのは早い』。その通りだった。
 今から、少しずつ積み重ねたい。友人としての信頼から――少しずつでいい。
 背中におずおずと腕を回してきた彼に気付くとたまらなくなったけれど、これは友情のハグであって、不純なものではない、ように、努力した。
 彼に触れるのは、今日、これが最後にしよう。
 次にこうするときは、気持ちを手に入れたときだ。  

  

 

朝は気温が6℃と冷え込んだこの日も、昼過ぎには16℃まで上がっていた。
 車で行くか?という誘いを断って、おれたちはバスと電車を使って新江ノ島水族館へ向かった。せっかくよく晴れていたから、できるだけ一緒に歩きたかったのだ。
 鎌倉駅まで出てから江ノ電に乗り換えて、最寄の江ノ島駅に着いたら13時を過ぎていた。駅を出て一歩踏み出したところで同時にお腹が鳴ったので、ちょっと笑ってから昼食をとる店を探した。一保さんは何度も来ているというだけあって周辺の地理に詳しく、それほど迷ったり断られたりせずに、美味しいごはんにありつくことができた。
 彼オススメの魚料理の定食を美味しく頂いてから、いざ目的の水族館へと向かう。徒歩10分ほどで着く道のりを、ゆっくり歩いた。
 海風で、彼のクセのある黒髪や長くてまっすぐな睫毛が揺れる。
 決して線が細い訳じゃない。おれと同じぐらいか、それ以上にしっかりとした骨組みと筋肉をしている一保さんは、どこからどう見たって「男の人」だ。けれど、どんなに着飾ったスタイルのいい女性よりも目を奪われる。
 「朝は冷えたけど、あったかくなってきたな」と呟いている横顔に見蕩れたり、その声が心地良いと聴き入ったりしていると、すぐに水族館に着いてしまった。
「思ってたより人が少ないね」
「平日は朝のほうが混むんだよ。小学生の集団がいたりしてさ」
 はじめの展示は「相模湾ゾーン」だ。
「相模湾はたしか三つの海流の影響を受けてんだ。黒潮って暖流、これは浅いところで、次に親潮って寒流がだいたい水深1000メートルぐらいまでの海洋生物を運んでくる。その下が、最近よく聞くような深層水ってやつ」
 水槽の中を指さし、ほら、お前の好きな魚いるぞ!と笑う。
「マアジ、ゴマサバ、マイワシ。おれらの食卓によく並ぶ系だな、あれは全部黒潮系の魚だ。で、こっちがーー」
 高級魚といわれるアカムツやクロムツの前で、一保さんが口を開けて「美味そう……」とつぶやいているのに笑った。
「こっちが親潮系とか深層系の魚。はあ、アカムツ食いてえ~」
 相模原大水槽の前では、思わず「うわあ」と声をあげてしまった。マイワシの大群がうねりながら水槽の中を泳いでいる。照明に照らされってピカピカと光る魚群は、圧巻の一言だった。
「相模湾は日本でも有数のマイワシ漁場だ」
 水槽を見上げ、固まっていたおれの隣にやってきて、一保さんがささやく。
「圧力鍋で煮たら美味いだろうな……」
 もう、いい加減にして、と吹き出してしまった。水族館に来て魚をみてると腹が減る、なんて言うものだから、おれたちは魚を指さし、「あれは焼いたほうが美味い魚だ」とか「刺身にしたい」とか「あれは……うちの基地長に似てんな、似ても焼いても食えねえやつだ」とか言い合う。
 その後も深海ゾーンやクラゲの球体水槽などを見て回ってから、イルカショーを眺めた。柔らかい日差しと、朝よりはあたたかくなった気温の中、元気に飛び跳ねるイルカたちにふたりで拍手喝采を送った。
「賢いなあ、もしかしたらあいつらおれより賢いかもしれねーぞ」
「あー……あの子すごかったね、一番高く飛んでた子。若いのかな」
「否定しろや」
 ショーを見終わってからはウミガメをみた。「苦手な先輩に似てる」とおれが言うと、一保さんが「えっ亀頭みたいな顔してんの?」と眼を丸くした。そこじゃない、でも笑いが止まらない。亀頭みたいな顔ってどんな顔だよ。
「おれの隊じゃねえんだけど、別隊にスキンヘッドの人がふたりいてさ、後ろから見るとどうみてもチンポだからすげー困るんだよな。並んでんだぜ、チンポが。2本。話しかけようとしたらどっちだっけ?ってなるんだよなあ」
「こらっお外でチンポとか言わないの」
「成一が言うとなんかお上品な感じするから腹立つ」
 この人と一緒にいると笑いが絶えない。我慢できなくなっておなかを抱えて笑っていると、カップルがこちらを見てびっくりしていた。
 想像していたよりもボリュームのある展示だった。すべてまわって出てくると、外は日が傾きかけていた。
「お。母ちゃんから「夜はすき焼きでいいですか?」って」
「なんでも食べるから気を使っていただかなくて結構です……申し訳ない……」
「ただしうちのすき焼きは関西風だぞ。なぜなら、おれが関空でつとめてるときにあっちのすき焼きに感動したからだ」
 一保さんはおれの遠慮を笑い飛ばし、いかに関西風のすき焼きが美味いか、について熱弁をふるった。その声に耳を傾けているうちに、遠慮や申し訳なさよりも、「すき焼き食べたい」ことしか考えられなくなるぐらいに上手に、すき焼きの美味しさについて語ってくれた。おかげで鎌倉で電車を乗り換えるときには、遠慮なんて忘れてすっかり「好きな食べ物の話」で盛り上がっていた。
「三嶋亭ってところのすき焼きがほんと美味くてさー、京都なんだけど、成一からたまに「三嶋先生」ってきいたらすき焼きのことばっか考えちまうんだよな」
 そういえばおれはほとんど関西方面に行ったことがない。バレエのコンクールで兵庫県の神戸市なら行ったことがあるけれど、修学旅行はオーストラリアだったし、大学の卒業記念は北海道だった。(車を借りて、2週間かけて一周したのはかなり楽しかった)
「あっちも海難は多いの?」
「そうだな。こっちと変わんねえな。鳴門海峡っていう自然の難所があるから、あのあたりは救助も難しくてさ。時間によっては8ノット近い流速で………」
 言葉がとぎれた。隣の座席をのぞき込むと、一保さんが遠慮がちな表情で「この話興味あるか?」と問いかけてきたので、「あなたの話すどんなことだって興味あるよ」と返事をしたら黙ってしまった。
「山で遭難したり、事故で車に挟まったり、火事で取り残されたり……そういうところでおれは普段働いているけど。海の上でも同じようなことが起こって、おれたちと同じような仕事の人が命がけで助けてるんだ。そう思うと勇気がわいてくるよ」
 海でも陸でも、ひとつひとつはニュースにならないけど、毎日誰かが救われている。大きい事故も、小さい事故も関係ない。ひとたび事故が発生すれば、おれも一保さんもその場へ向かって全力を尽くす。
 この感覚は、いまのHRに来なければ分からなかっただろう。
 自分が今、人命救助の最前線に立っている、ということが、重く、そしてとても誇らしく思えた。
「おれはさ、勇気って言葉はすごく怖いものだと思ってる」
 一保さんが静かな声で言った。
「勇気って、血路を開くってことと同義だろう」
「どういうこと…?」
 質問には答えずに、一保さんは顔をこちらに向けた。その眼は、一度だけみたことのある北海道の摩周湖のような、深くて澄んだ色あいをしていた。
「およそ勇気の名に値する勇気とは――魂のまさにくずおれようとする瞬間を経験し、しかもなお、くずおれぬことを意味するはずである」
 おれの伯母が好きだった作家の言葉、と説明してから、彼は興味をなくしたように前を見た。車窓から入り込んでくる黄色みを帯びた光が、彼のまつげの先を光らせ、整った顔立ちを物憂げに見せた。
「……一保さんは、いままで勇気を振り絞ったこと、あるの?」
 どうしてこんなことをきいたのか、自分でも分からない。
 答えが恐ろしくて、自分で訪ねたくせに、おれは手のひらを握りしめてうつむいた。
 長い時間、電車の揺れる音と、ひそやかな声で交わされる周囲の人々の雑談だけが聞こえた。いっそ、このまま返答がなければいい、と思った頃、彼は掠れた小さな声で、「ある」といった。
「自分が死んでもかまわないから、どうしても助けたいと思った人がいた」
 理由は分からない。
 おれには、それが「千葉創佑」、そのひとだと分かってしまった。
「着いたぞ。降りよう」
 もっと聞きたかったけれど、電車は到着してしまった。不安と疑問をとりあえず胸の奥に追いやって、家に向かう彼の後を追った。

***

 妹の深雪さんは、「彼氏と約束がある」といって出かけてしまったらしい。食卓についたのは一保さんとお母さん、それにおれの3人だけだった。
「いいお肉もらったの。めいっぱい食べてね!」
「ハードルあげんなよ~~…って思ったら松坂牛!?ほんとにいい肉じゃん!!成一お前あれだ……そっちの無名国産牛食ってろ」
「たくさんあるんだから分け合って食べなさい。お母さんはいいわ、最近いいお肉の脂が胃にもたれるのよね」
 すき焼き用の鉄鍋に牛脂を塗って、お肉を並べる。ここまでは関東と一緒だったが、砂糖を一面にふりかけたときにはびっくりした。これじゃ砂糖味の焼き肉になっちゃう!と思ったら一保さんが得意満面の笑顔で醤油と酒を入れて、白菜などの水気の出そうな野菜を加えていく。最後にどっさり乗せられた九条ねぎが、お肉と一緒に食べると最高なのだという。
「あ、びっくりした?でもこれが美味いんだよ」と言っておれの溶き卵の中に松坂牛と九条ねぎを放り込んだ。
「いただきます……香ばしくてうまっ」
「だろ。関東風だと先に割下で味を決めるんだけど、あっちってザラメをのっけて醤油入れて、野菜の水気をみながら味を決めていくんだよな」
「肉、うわ、口の中で溶けるんですけど!」
「ほんとだ。いい肉だな、確かに美味い」
 仕事柄、おれたちの食欲はふつうの二十代後半を遙かに超える範囲に入るのだが、お母さんはそれを見越して、たっぷりのお肉と野菜を次から次へと鍋の中に投入した。そして「好きなだけ飲んで!」といって、冷蔵庫いっぱいに詰まったビール(なんとサッポロクラシック)をグラスに、まるでわんこそばみたいに注いでくれた。
「いいよ、自分のペースで飲むから」
「あ、ごめんなさいね。のみっぷりが気持ちよくって。それに一保が帰ってきてくれたのも久しぶりだったから嬉しくって」
「よけいなこと言うなっつーの」
 やりとりがなんとも微笑ましい。どれぐらい帰ってなかったんですか?とおれが訪ねると、「半年は顔を見てなかったわね」と寂しそうにお母さんは言った。
「それはさすがにひどいでしょ、家近いのに!」
 おれが口を挟むと、一保さんは肩をすくめてみせた。
「仕事忙しかったし。毎日クタクタだったんだよ」
「お父さんとはメールしてるんでしょ?」
 とっさに入れたフォローに、一保さんが平然と答える。
「たまに。いまの隊に配属決まったときに、「羽田行くことになったわ」って送ったら「頑張れよ」ってきたから「おう」って返した」
「びっくりするわよね、何年前よ、それ」
「あと今年除隊になるかも、ってのは送ったぞ。「お疲れ様でした」って返ってきた」
 返事が面倒になったのか、一保さんは立ち上がって冷蔵庫をのぞきにいってしまった。残されたおれは、お母さんと目を合わせ、ふたりで苦笑した。
「一保の仕事、危険なんでしょう?あの子、仕事の話は一切しないから、調べた範囲でしか分からないけれど」
 不安げな様子に、なんと返事をしようかと逡巡した。確かに、安全な仕事とは言えない。海保官の中では、もっとも危険と隣合わせの部署といっても差し支えないだろう。
「2万人の中から選び抜かれた、36人がいくところです。危険じゃないとは言えませんが……彼も、彼の仲間も、優秀なひとばかりですから。心配をするなといっても難しいでしょうが、信じていいと思います」
 言葉を選びながらそう伝えると、お母さんはにっこり笑った。
「星野くんも危険なお仕事なんでしょう、きっとうちと同じように、ご両親は心配されているとおもうの。でも、それを煩わしいと思わないであげてね。親って言うのは、心配せずにはいられないのよ。信頼していないとか疑っているとかそういうわけじゃなくて、愛しているから心配なのよ」
 一保さんとそっくりな顔に正面から「愛している」なんて言われて、どきどきしてうつむいてしまった。我が両親はそんなことないですよ、子供のことなんて忘れて各々好き勝手に生きていますよ、とは言えなくて、おれは曖昧に笑ってビールをあおった。

「寒い?暖房いるか」
「大丈夫だよ。ありがとう」
 さすがに一緒に寝るわけにはいかない。いくら「友達からがんばろう」と決意を新たにしたところで、接触した上で欲を抑えるのは容易じゃない。
 ベッドの隣に敷いてくれた布団で仰向けに横になる。寝返りを打った一保さんが、こちらを見下ろして首を傾げた。
「どうした」
「少し、話してもいい?」
 身体を起こし、常夜灯だけの薄暗い部屋の中で一保さんと向き合う。彼はベッドの上であぐらをかいて、こちらをじっとみつめた。暗闇の中でもはっきりと、彼のつり上がったきれいな眼が見えるのは、自分が惚れているからだろうか。
「前に、一保さんが言ってた話……、タイムリープの」
「ああ、あれか。変なこと言って悪かったよ、あのことなら…」
 話を切り上げようとした彼の手を握って、首を振った。
「全部きかせてほしい。それで、もしできることなら」
 きっと、すべては話してくれないだろう。そもそも、なにもかも全部を聞かせてもらう権利なんておれにはなく、彼にだって、話さなきゃいけない義務もない。
「あなたの力になりたい」
 握っていた手が震えたのが分かって、彼の顔を下からのぞき込む。あのきれいな眼は見開かれ、瞳の中にはおれだけが映っている。
「おれは……それを話して、成一の未来や生き方を縛ってしまうのが嫌なんだ。お前は優しいから、聞いたことと無関係ではいられないだろ」
 落ち着いた声で一保さんが言って、おれの手をそっと退けようとする。その指を追いかけ、つないで、言った。
「やり直したって、一保さんは言ったよね。何度も、誰かを救うために、あなたは世界を一から生きたんだって。きっとおれが一保さんに会ったのも、初めてじゃないんでしょう」
 絡めた指に力を込めると、彼の眼に強い光が宿った気がした。
「確かにおれは、前のこと、何も覚えてないけど。見つけたよ」
 そう、走って会いに行った。
 はじめて会った訓練の日。まだしらないはずのあなたを追いかけて。

「きっと何度でも、あなたを見つけるよ」