Right Action

【番外編】忠誠誓うはただひとり(はつ視点)

 ご当主様は、仁さまを目に入れても痛くない、とばかりに可愛がっていらっしゃいました。
 無理もございません、仁さまには選ばれたものだけが持つ突出した聡明さ、美しさと勇気、人をひきつけてやまない魅力、全てが備わっておりました。将来、影浦財閥の頂点に立たれるのは仁さまだと誰しも信じておりましたし、わたくしはいまもそう信じております。

 仁さまには家と家で決められた許嫁の方がいらっしゃいました。そちらも影浦家ほどではありませんが名家で、江戸時代から続く商家になります。お琴や日本舞踊を嗜まれ、牡丹のような女性でした。
「仁くん」
「日和」
と呼び合うおふたりは、それはもうお似合いで絵になるご様子でした。そう感じていたのはわたくしだけではなく、影浦家以外の人間に対し時として辛辣すぎる執事である寺阪氏ですら、控えめではありましたが祝福している様子を隠しませんでした。ご当主様も、仁さまのご両親も、幼稚舎に入られる前から共に過ごされたおふたりのことを心から応援されていらっしゃいました。
 ただ……仁さまは、あまりにも無垢でした。そして好奇心が強く、ご自身が何かを強く望む前に周りが先回りして与えてくる環境に、人知れず不満を感じられておられたようです。
「はつ、お前だから言うんだが、実はおれは日和のことを、好きだとも愛しているとも感じたことがないんだ。それなのにこのまま、親が決めたと言うだけで、一生を共に過ごさねばならないのだろうか?」
 わたくしは耳を疑いました。けれど、ほかならぬ仁さまの、嘘偽りないお言葉です。すぐに人目につかないようお庭にご案内し、続きをお聞きすることにいたしました。
「仁さま、ハナミズキが綺麗に咲いておりますよ。ご覧になりましたか?」
 わたくしの機転に、仁さまはすぐにお気づきになられました。みせてくれ、といいながらお庭に出ると、仁さまは強い意志の宿ったひとみでわたくしをみすえ、こうおっしゃいました。
「何かを欲しがる前に、周りから押し付けられる。チェロも、ありあまる金も、女でさえも、全部そうだ。だから最近は、自分が本当はなにをしたいのかわからなくなってきた」
 答えに悩みました。と申しますのも、わたくしは寺阪氏とは違って、影浦家の将来を一番に考えるような立場の人間ではなかったからです。わたくしにとって一番大切なのは、仁さまの幸福です。生まれて間もなくお仕事が忙しくなられた仁さまのお母様に変わって赤子の頃から共に過ごしてまいりましたから、決して口に出すことはありませんでしたが、仁さまを実子同然に愛しておりました。
「仁さま、もしも周囲の目を気にすることなく好きなことをできると仮定した場合、何をされたいとお思いですか?」
「わからない。チェロも乗馬も嫌いじゃないが、こんなものかとも思う。女を抱くのは気持ちがいいが、面倒にも感じる。とてつもなく退屈だ。死ぬまで退屈が続くのかと思うといてもたってもいられない」
 貧しい方や庶民の方からすれば、仁さまのご発言は傲慢にも聞こえるかもしれません。けれど、一般の方はご存知ないのです。持てる者には義務が生じます。仁さまの場合、それが『自由に生きる権利のはく奪』でした。何不自由のない生活を送っているようでその実、何もご自身で選び取ることができなかったのです。それは許されないことでした。仁さまの人生はあらかじめご両親、いいえ、お家柄によって決められ、そのレールを外れることは決して許されませんでした。ですから、周囲の方の仁さまに対するご批判やご意見は、そのほとんどが的外れなものであると言わせていただきます。
「このようなことをお伝えしたら、寺阪様から厳しく叱責されるかもしれませんが……。わたくしは、仁さまに幸せになってほしいと思っております。もしも今ご自分のしたいことが分からない、と感じられるのでしたら、探してみてはいかがでしょうか?ご自身のお気持ちが動かれるようなものを、模索してみてもいいと思うのです」
 わたくしの言葉に、仁さまはあの美しいお顔を紅潮させて――それはもう愛らしい表情でございました――叫びました。
「そんなことを言ってくれるのははつ、お前だけだ」
「ただし、お体に危険が及ぶようなことだけはおやめください。万が一お怪我でもされようものなら、わたくしは、もう……」
 想像するだけでおそろしくて、両手のひらで顔を隠しました。すると仁さまが駆け寄ってきて、肩を撫でてくださいました。
「分かってる。ありがとう、はつ。嬉しかった」
 輝く笑顔でそんな風におっしゃった仁さまに、わたくしはなんとか微笑み返しました。
 あのときは、想像もできなかったのです。まさかあのようなことになるなんて。
 当時は死すら考えました。すべてわたくしの不手際でした。実際に解雇していただくようにとご当主さまにも直訴いたしましたが、「お前の責任ではない」とおっしゃって……。
 けれど、あの件については、わたくしに全責任がございます。
 仁さまに非はございません。けれどのちに残る大きな傷跡であったことは間違いないと思います。
 認めてはくださらないのですけれど。

 あの日は雨がひどかったように記憶しております。
 仁さまは、学校指定の詰襟姿で傘を持ち、わたくしの運転する車に乗り込まれました。車は国産の普通車です。大富豪の方は、お子様の送り迎えに目立つ車を使用することを避けられます。センチュリーやロールスロイスなどの車もご当主様は所有されておりましたが、四人のお孫様の送迎には決して使わせませんでした。誘拐を避けるためです。公共交通機関も同じ理由で避けるように徹底されておりました。
「仁さま、車内温度はいかがでしょうか」
「問題ない。……はつが寒いなら上げてくれ」
 思い返せば、朝から仁さまは上の空のご様子でした。高等学校までお送りしてお屋敷に戻ってすぐ、わたくしは嫌な予感がしていたのです。
 仁さまは馬術部に属していらっしゃいましたので、部活動が終わる時間ごろに、学校から三十秒ほどの通りでお待ちしているのが常でした。学校の前まで送迎することは校則で禁じられておりましたので、わたくしどもはそうせざるを得なかったのです。
 いつもの時間になっても仁さまのお姿がみえず、連絡もなく三十分が過ぎました。仁さまは連絡をまめになさる方で(わたくしが心配性であることを心得ていらっしゃいましたので)、こんなことは異常事態といってよかったのです。車をとめ、学校へと向かう途中で、携帯端末が鳴りました。

『しばらく友人の家に泊めてもらうが、心配しないでくれ。誘拐じゃない。
 あの家から離れて試したいことが色々ある。両親には、電話連絡には応じるからしばらく自由にさせてほしいと伝えてくれ』
 

 このメッセージに、影浦家が大変な騒ぎになったことは言うまでもありません。警察に届け出るよう何度もご進言いたしましたが、ご当主様も仁さまのお父様も、首を縦には振られなかったのです。寺阪様がおっしゃるように、「影浦家全体への影響」「グループ企業全体への影響」を考えると、無理もないのかもしれません。仁さまは、電話をすると確かにすぐにお出になられましたし、お元気そうなご様子でした。
「あいつもたまには自由にさせてやってもいいだろう。大学を出たら自由なんてものはなくなるんだし」
 ご当主さまはこのようにおっしゃり、仁さまのご両親を説得なさいました。
「仁は特別な子だ。意味のないことはしない。学校には、病気とでも届け出ておけばいいじゃないか」
 そうおっしゃったのは智晴さまです。仁さまのふたりいるお兄様のうちのひとりでいらっしゃいます。フィールズ賞に最も近い数学者、と言われるほどの才覚を持った方で、仁さまとは一番親しいご兄弟です。
「あいつにはどこか危ういところがあるからな。昔、体の仕組みが知りたいといっては虫の四肢をちぎっていただろう。突然家出するなんて……精神におかしなところでもあるんじゃないか」
 長兄の信義さまは、影浦家の中で唯一、仁さまをあまりお好きでない方で、このときも眉をくもらせていらっしゃいました。もう御一方、仁さまにはお姉さまがいらっしゃいますがご留学中で不在にされていました。智晴さまも、姉の礼子さまも、仁さまのご両親もご当主様も、みな歳の離れた末っ子である仁さまを溺愛しておりましたので、信義さまの態度や対応だけは不思議でなりませんでした。
 虫を殺していたなんて、そんなことは、わたくしに言わせればこども特有の残酷さにすぎません。今はそれを悔いていらっしゃるのかまたは恐れていらっしゃるのか、すっかり虫が苦手になってしまわれた仁さまは、とても素直で優しい方です。このときばかりは無表情でいることが難しく、寺阪様に注意されてしまいました。
 仁さまが戻られたのは、メッセージからおよそひと月後のことでした。
 その日以降、それまでの仁さまとは変わってしまわれた、と感じているのは、わたくしだけではないはずです。
 やさしい、悪く言えば甘いところのあった仁さまは、すっかり大人びた男性へと変化を遂げてしまわれました。家族全員の反対を押し切って送迎を断った仁さまは、放課後になるとまっすぐご帰宅されず出歩かれるようになり、大学生になったころには、いかがわしいものを売るアルバイトをされるようになりました。いかがわしい……とても口に出すことはできないような代物ばかりをスーツケースに詰め、売り歩き、ときには実践してみせたのだとお聞きしたとき、自分のせいで仁さまが放蕩な方になってしまったのだと……どれほど自分を責めたか分かりません。
 そのアルバイトが原因で、仁さまはお父様と仲違いをされ、ますます帰ってこられなくなってしまいました。わたくしは心配で、何度も仁さまにお声をかけようといたしましたが、大学に通われていた四年間、仁さまはわたくしを避けていました。最低限の挨拶は返してくださいましたが、お話はしていただけませんでした。それはあまりにもつらい日々でした。何度も暇をもらおうとご当主様に申し出たものの、その要望は却下され続けました。

 大学を卒業される日のことです。仁さまが突然、わたくしのもとを訪ねてこられました。その日は朝から、一家を揺るがす大変な発言があって、さすがのご当主様もお怒りになり、部屋に軟禁されていたはずでしたので大層驚きました。
 その内容は、「日和との婚約は破棄する」という一方的な宣言でした。
 驚き、戸惑い、怒り狂ったご当主様は、はじめて仁さまの頬を打ちました。わたくしをはじめとした使用人は皆、固まったように動けませんでした。あれほどまでに怒りをあらわにされたご当主様は、これまでみたことがなかったのです。
 理由を言え、とご当主様、つまり仁さまのお祖父さまですが――は叫ばれました。
「これまでお前に一番目をかけ、可愛がり、ある程度のことには目を瞑ってやった。それもすべて、仁こそ影浦家を継ぐにふさわしい人間だと認めていたからだ。分かっているだろう、御手洗家との縁談も家のため、一族のため、我々に運命のすべてをゆだねているすべてのグループ企業にいる社員のためだ。そんなことも分からないお前ではないはずだ、私を説得するか、考え直せ」
 この言葉はよくありませんでした。長兄の信義さまの顔はみるみる間に真っ青になり、仁さまのお父様も表情が抜け落ちたような顔になってしまいました。世の中には、たとえ真実であったとしても、言ってはならないことというものが存在します。ご当主様はタブーを犯してしまわれたのです。
 仁さまは落ち着いた声で言いました。
「おいおい、いくらなんでもその発言はまずい。これが古代中国ならおれは暗殺されてるぞ。――理由なら説明する。ただし、ふたりになったときに」
 ご当主様は怪訝な顔をしてから、それを了承なさいました。長い間ふたりきりでお話をされていたようです。外からはだれも入れないように内鍵をかけ、言葉のとおり軟禁状態で。お食事もとられず話し込んでおられました。

 影浦家には使用人が住む別宅が用意されており、わたくしをはじめ、執事の寺阪様もそこから母屋に出勤いたします。この別宅に影浦家の方が来られることは極めて異例で、悲鳴を上げそうになるのをなんとかこらえながら、仁さまを部屋の中へ招き入れました。
 落ち着きなさいと自分自身に言い聞かせつつ、特別ていねいに紅茶をいれて、仁さまに差し出しました。昔から、わたくしがいれる紅茶が一番美味しいと仁さまが笑ってくださいましたので、とびきりのアップルティーをお出ししました。仁さまはソファに座り、とても優雅な肉食獣のように――生まれつきの気品が匂いたつような仕草で――ゆっくりと紅茶を口に運ばれました。
「はつ、おれが姿をくらませていたひと月のあいだに、何があったか知りたいんだろう」
 息をのみました。知られていたことに驚いたのです。
「いいえ……、」
「本当のことを言えよ。お前だけはうそをついてくれるな」
 仁さまは立ち上がり、わたくしを見下ろして微笑みました。冷たい笑みでした。けれどとても美しい、自由な微笑でした。
「人間のある欲望について、ありとあらゆることをやっている組織がある。おれはそこにいたんだ」
「なんですか、それは」
 たばこを取り出し、思いきり吸い込んでから、レンジフードの下へと仁さまが歩いていきました。スイッチをオンにすると、けむりがゆらりと上へ引きよせられていきます。
「セックスショーをやっている組織だよ。会員制で、すごく高いんだけど、ひとりの人間を好き勝手できる。調教したり、複数でマワしたり、ひとりでやらせてそれをみんなで観たりさ」
 言っとくけどおれはショーには出てないぜ、と仁さまがつぶやき、わたくしは気の抜けたような返事をしました。頭がひどく混乱していて、うまく理解できなかったのです。
「そこはガラス張りになっていて、中庭みたいなガラスの中の空間でセックスショーが行われる。観客はひどく高い会費を払い、顔や身分を隠してそこに参加する。ただ眺めるヤツもいれば、道具を使って人形、ああ、対象者のことを人形って呼ぶんだけど……を犯すやつもいる。それを取り仕切っていたのが男と女のコンビだった。やくざ者じゃないぜ、みかじめ料は払ってるみたいだったけどな。おれはそのショーの運営を手伝ったり、眺めたり、人が足りないときはサクラのようなこともした」
 その片方の女と、毎日寝たよ。
 なんでもないことのように、仁さまはおっしゃいました。
「セックスのすごさを教え込まれたのは、あの女のおかげだな。毎日寝た。何度も。ありとあらゆる方法と道具を使って、性技という性技を仕込まれた。避妊なんかしなかった。それで、分かったんだ」
 おれには子どもができない。いや、子どもをつくる能力がない。
「――なんですって?」
「毎日毎日中だしセックスしてたのに妊娠しなかった。そりゃもちろん一か月しかいなかったし、偶然できなかったって確率のほうが高い。だが検査したから間違いないんだ。おれは無精子症で精巣内に精子はほとんどいない。非閉塞性の無精子症だ」
 おもわずその場にへたりこんでしまいました。いうべき言葉が見つからないとはこのことです。
「後継ぎを作ることができない。だからこの家を継げないし、おれの子どもを産みたいといっている日和の願望が叶うことはない。婚約を破棄したいと言ったのはそういう理由だ」
 淡々とした口調でした。仁さまは溜息をひとつもらしてから、ソファに浅く腰掛けてわたくしを見下ろしました。
「おれは人間のことを何も知らなかった」
 セックスっていうのは人間のもっとも動物的な部分、本能的な部分があらわになる行為だ。そう続けた仁さまは、挑むような眼をしていらっしゃいました。
「連中と一か月過ごして分かったことだが、どうやらおれにはセックスの才能があるらしい。けれど子孫を繋ぐ能力がない。面白いじゃないか。おれはおれのためだけに生きることができる。それなら、やりたいことをやっていきるしかないだろう」
 仁さまはわたくしの頬に指をのばし、同情するような眼差しで涙をぬぐいました。恥ずかしいことです。わたくしが涙を流すようなことではない。分かっていました。けれども止めることができませんでした。どうしてこのお方が、と何度も何度も心の中で叫びました。世の中には女性を欲望のままに抱き、何人も妊娠させ、責任をとることなく逃げ出すような外道の極みといった男性がいくらでも存在しています。およそ子どもを持つにふさわしくないような人格の者が簡単に手にできるものを、どうして仁さまのような方が得られないのでしょう。このお方の、誰よりも素晴らしい遺伝子を後世に残すことができないなんて、間違っています。あんまりです。
「どうしてはつが泣くんだ。おれは全く落ち込んでいないのに」
 わたくしの知る限り、仁さまが人前で泣いたことは一度もありません。特別な家柄のお方ですから、感情をあらわにされることは下品なこととして育てられてきたのです。そのことが、今、とてもつらいことに感じられました。
「仁さま、まだ無理だと決まったわけではございませんよ。わたくしにお任せください。最高峰の技術と経験を持つ医師を探してまいります」
 わたくしがそうお伝えすると、仁さまは少し笑って首を振りました。
「じい様が同じことを言っていたが、たぶん徒労に終わるぞ。やめておけ」
 これはあまり人に言いたいことではないが、教えてやろう。そう断ってから、仁さまがご説明くださいました。
「精巣を切り開いて検査した。結果、不動精子と奇形精子しか見当たらなかった。信じられるか、玉を、切るんだぞ?あれは痛かったし、とんでもなく惨めな気持ちになった。まあ終わってしまえば大したことはないけどな。で、次の段階は精子になる前の細胞を取り出して培養することになるが、それについてもダメだった。育たないんだ。勃起にも射精にも問題はないが、精液の中にまともな精子がいないし、細胞も育たない。先天的なもので、治療方法はない」

 仁さまは腕を天井に向けて、思いきり伸びをしました。嘘をおっしゃっているわけではない、と分かったのは、その表情が晴れ晴れとされていたからです。
「さっき智晴兄とも電話で話した。学会の発表でボストンにいたから、とんでもない時間に電話するなって叱られたけどな。第一声、なんだったと思う?『これで仁は暗殺されずに済むな』だぞ。ほんと、おもしれえよあの人」
 けらけらと笑っている仁さま。無理をされているような様子は全くありませんでした。
「じい様がおれをえこひいきするせいで、そのうち嫉妬に狂った信義兄か親父に殺されるんじゃねえかと思ってたからな」
 なあ、はつ、と仁さまは真剣な声で言いました。
「おれは自由が欲しい。自分が好きなもののために働きたい。自分の手や足や頭を使って、手に取れるものを売りたい。実感のある仕事がしたいんだ。はつが言ってくれただろう、気になるものを探せって」
「仁さまの……お好きなものとは、いったい何でしょうか?」
 ぶしつけな質問だと分かってはおりましたが、今の仁さまなら、お答えいただけるような気がしたのです。
 首を傾げ、「笑うなよ」と囁いてから、仁さまはこうおっしゃいました。
「おれは……ビールが好きなんだよな」
 想像もしていないお答えでした。わたくしはぽかんと仁さまを見上げました。照れくさそうに笑っている仁さまは、眼をそらしてお続けになりました。
「成人した日、じい様とふたりで馬に乗ってな。丘の上にレジャーシートを敷いて、ふたりでビールを飲んだんだ。それが、めちゃくちゃ美味かった。じい様ときたらわざわざ凍らせたグラスやら、ハムやらチーズやら持ってきて、草原にある丘の上までおれを連れて行った。質素なメシさ。もっと豪華なものをいくらでも食べたし、もっと高級な酒だってある。けど、じい様が持ってきたのは鳳凰ラガーの缶ビール二本と凍らせたグラスだった。ピルスナー独特の黄金色の中に、泡がぷつぷつ浮かんでさ。……とても美しいと思った」
 結局うちの家の系列会社のビールだったんだけどな、と仁さまは肩をすくめました。
「値段きいてびっくりしたんだ。二百円かそこらだってじい様は言った。あまりに安いから『もっと高級なワインやシャンパンじゃないのはどうしてなんだ』ってきいちまったよ」
「……ご当主様は、何と?」
 それが、と笑いをこらえるような顔で、仁さまは続けられました。
「誰でも手に入れられるものにこそ、真の価値がある、って」
 わたくしは胸をうたれました。やはり、ご当主様の目は間違いございません。仁さまは、人の上に立つために必要なものをすべて兼ね備えていらっしゃいます。
 もう迷いは消えました。仁さまのご選択に、間違いなどありません。
「どのような道であろうとも、わたくしは仁さまについてまいります。何なりとお申し付けください」
 株式や土地家屋など、現金以外の資産も合わせると、仁さまの所有財産は数十億を超えているのですが(わたくしが管理を任されているものも多数ございます)、それでも仁さまは、ビールを売る仕事につきたい、とおっしゃったのです。
 影浦家の人間ともあろうものが、つまらない仕事についたものだと、信義さまは嘲笑なさるかもしれません。けれど、それは間違いです。

 誰にでも手に入れられるものにこそ、真の価値がある。

 ご当主様のお言葉の意味を正しく理解されている、仁さま。
 わたくしはあなたさまに、生涯尽くさせていただきます。
 たとえその道が、想像を絶するような厳しいものであったとしても。