【番外編】With me.(千葉視点)

「なんでこの仕事を?」
 一保に問われた時、初めて突き詰めて考えた。
 仕事を選んだ時は、選択肢が限られていた。給与が出る進学先にすると決めていたのは、養父母に対する遠慮だけではなく、ひとりになりたかった。養親には感謝をしているし、それなりに好意も持っている。だからといって、本当の家族なのかと問われると、おそらく違うと思う。彼らはおれを養子に迎えた後で実子に恵まれ、余計に「血のつながりの有無」による差を感じた。目に見えて冷遇されたことは一度もなかったし、養母はおれの進学先をきいて遠慮をしなくてもいい、せっかく成績がいいのだから、東京でも大阪でも、すきな大学に進学するといい、とすすめてくれた。けれども、おれにはわかっていたのだ。彼らの実子よりもいい大学に進学することが、どんな結果を生むのかを。
 限られた選択肢の中で有力だったのは、防衛大学校と海上保安大学校だった。そしてそのふたつなら、迷う余地はなかった。
「昔、川で溺れたことがあってさ」
「大変だったんだな。それでよく、水が嫌いにならなかったもんだよ」
「嫌いだったさ。でも克服したかった。怖かったからこそ、勝たなきゃいけなかった、それが始まりだった」
 どこで話していたのか思いだせない。一保と……あれは、寮の食堂だったか、自習室だったか。静かな夜だった。厳しい訓練の日々に気が滅入る連中が多い中、一保とおれはピンピンしていた。あいつは海がすごく好きだから、訓練に不満がないと笑い、おれは、とにかく人に扶養されないことが嬉しい、といって笑った。深い話を聞き出そうとはしない一保はそれでも、話をそらしたりせずに「そうか」とうなずいてくれた。
「つまり、選んだ理由は…苦しくて、つらかったことに立ち向かいたかった。救われたままでいるんじゃなくて、誰かを助けて借りを返したかった」
 借り、とつぶやいた一保は、複雑な表情を浮かべていた。今思えば、それはもっともだったが当時は意味がわからなかった。
 卒業する日、一保に告白するときまで、あの日のことを誰かに打ちあけたことがない。川で溺れかけたその後の話だ。命を救われた日の話。見ず知らずの、ボーイッシュな女の子がおれを川から救い上げ、心肺蘇生法を実施して、搬送までしてくれたこと。
 あれも思えば「因果」のひとつだった。「いつか」に言われるまでもなく、わかっていたはずだ。普通の子供が、あんなに手際よく人を助けることなんて出来やしない。
 それに、あの言葉。
「おまえが必要だよ。いらなくなんかない」 
 必死な声。頬におちてきた涙の熱さ。
 死にかけていたというのに、克明に覚えている。
 あの子はおれのことをよく知っていた。初対面ではない。いままでなぜそのことについて考えなかったんだろう。
 一保と初めて顔を合わせた時に感じた、息がつまるような切なさと懐かしさ。
 自分の感じたことを、信じればよかった。
 そうすれば、あの男に一保を奪われることも……永遠に会えなくなることも、なかったのに。 

 溺れる苦しさは、経験者にしかわからない。
 無力感、絶望感。すべて、心に焼き付いたまま消えることがない。だからこそ、がむしゃらに救助する。人を救うときに感じる全能感が一番自分を救ってくれるからだ。
「人を助けるって、なんかいいじゃん」
 そう言うと、一保は、あの目(一番好きなところ)でじっとおれを覗き込み、笑った。
「まあ、ひとのために助けてるんじゃなくて、おれはおれのためにこの仕事をやってるってことだよ」
「いいんじゃねえの、千葉らしくて」
 寮生活にプライバシーなんてものはほとんど無い。一応個室があてがわれるが4人部屋だ。
 中学入学時から高校2年までアメリカの広々とした叔母の家に暮らしていた一保は、寮生活の窮屈さを嘆いていた。だが格闘技を長くやっていることもあって、体育会系の空気にはすぐに馴染んだ。おれはといえば、養親との生活よりは気楽だった、という感想だ。お互い苦手なジャンルの座学を教え合ううちに、意気投合した。まるで昔から知っている親友のようだ、と思った後で、すぐに嘘だと気付く。
 そう、嘘だ。
 親友なら、相手のことを考えながら自慰にふけったりしないし、彼女と天秤にかけたりしない。休みがくるたびに街に誘ったりしないし、他の男と親しげにされるたびに身が焦げそうなぐらい嫉妬したりしない。
 入校してすぐに気づいていたはずだ。
 春の日差しの中、あの広い保大の敷地内で、視線がぶつかったときから。
「おれらしいって、一体なんだよ?」
「取り繕わない。嘘や綺麗事を言わない」
 一保が参考書から顔を上げて、おれを見た。連日の海上訓練で日焼けした、鼻先と鎖骨の部分が赤くなっている。舐めたいな、と思った。きっと潮の味がするだろうな、と。
「褒めてんだか、けなしてんだか」
 おれがそう言うと、あいつは「褒めてんだよ。正直は美点だろ」と目を細めた。頬杖をついて視線を上げる表情にぐっときて、おれは黙った。
 容姿を好きになったわけではない。何か心の底から泡立つような、クサイ言い方だが「運命」めいたものを感じて惹かれていったのだが、一保の容姿は確かに素晴らしかった。すべてがおれのツボをついてきていた。初恋の子に似ている猫のような目も、気の強そうな、やんちゃな口元も、近寄りがたいほど形のいい鼻梁も、自分の理想をそのまま形にしたような外見だった。そう、――男だ、ということを除けば。
 男と恋愛するなんて考えた事もなかった。ありえない。いまだに、一保以外の男なんて考えただけでゾッとする。だから当時も、一保の一挙手一投足に心が揺れながら、踏み出すことができなかった。そもそも、男同士でどう「する」のかも分らなかった。だから想像の中であいつを裸にして(裸は見慣れていた)、そこから先はどうすればいいのか分からずに困惑していた。こちらに近づいてきて、おれは一保を押し倒し…そこから先は曖昧で、それなのに最高に興奮するのだ。頭がおかしくなってしまったのだと思い、心底悩んだ。そして眠ってしまうことを切に願った。眠りの中でこそ、望むものが得られた。とてもひどい形であれ、おれはそれが楽しみでならなかった。
「この言葉の発音は?」
「ああ、これは…」
 顔を近づけると一保の香りがした。それは海の匂いに似ていた。少し甘く、なつかしい。 

*****

 

 海だ。海が見える。
 生まれ育った広島の海ではなくて、これは――そう、神奈川の海だ。
「誰か、助けてください!夫が溺れているんです!」
 聞こえてきた悲鳴に、弾かれたように視線を飛ばす。海面では波のはざまに男の手が見えて、すでに意識を失って沈んで行こうとするところだった。砂浜を走り、来ていたパーカーを脱いで海に飛び込む。視界の隅で、誰かが同じように飛び込んだのがわかって舌打ちをした。素人が、人助けなんてしようとすんじゃねえよ、と苛立つ。
 ところがいざ救助をはじめてみると、相手もなかなかの手際だった。浜に戻り、人工呼吸をはじめて顔を合わせると、なるほど納得した。相手は保大で一緒だった男だった。
「村山だろ。久しぶりだな、卒業以来か?」
 おれの問いかけに、男は目を見開き、泣きそうな顔をした。変な男だ、と思い、まじまじと男の顔を眺めた。そうだ、こんな顔だった。むさくるしい男だらけの空間にあって、そこだけ光って見えるような端整な顔立ち。それなのに友人を作らずひとりでいて、いつも人目を惹いていた。
「ああ。久しぶり」
 救急車のサイレンがきこえる。
 海をちらりと眺めた村山の横顔は、諦めにも、悲しみにも似た表情が浮かんでいた。長くまっすぐなまつげの先が初夏の光に透けていて、癖のある黒髪は濡れてもなお跳ねていた。
「そういえばさ、」
 お前の下の名前、なんていうの。
 おれの問いかけに、村山は苦しそうに目をそらし、言った。
「知る必要、ないだろ。どうせ今日限りで、二度と会わないのに」
 胸の奥にじわりとひろがる感情の、名前を探す。
 愛しいでもなく、嬉しいでもなく…寂しい。その言葉がぴったりとはまる。おれはこの男を知っている。ただ保大で一緒だった、というだけではなく、もっと深く、長く「知っている」のだと思った。
「そうとも限らないだろ」
 しつこく問いかけて、名前を知った。一保。村山一保。
 カズホ、とつぶやくと、またしても泣きそうな顔でおれを見た。そして小さい声で、「どうして、」とささやいた。 

 

 どうして。
 あれは――あの言葉の意味は。もしかして。 

「一保、おれのこと好きだろ」
 信じられないようなものを見る目で、一保が振り返る。決して泣かない、黒い双眸がおれをみつめ、光を含んで反射する。否定しようとした唇を、顎を掴んだ手でそのまま触った。
「ヤらせろよ。そうしてほしかったんだろ、お前は」
 腕を掴み、引き倒す。勢いのせいで大きくたわんだベッドの上で、一保が暴れた。手のひらがおれの頬を打ち、それでも、キスをすると抵抗はなくなった。目を閉じず、睨みつけたままのキスだ。指は、てのひらは一保のことを知っていたみたいに、肌を暴き、屈服させ、ひらいていく。悪態をつく唇も、背後から貫いてからは哀願を口にするようになり、最後には媚態を含んだ声に変わった。無理やり脱がせたシャツのボタンがベッドの上だけではなくフローリングの上に転がっている。腕を掴んで背後から犯していると、赤くなった首筋と耳がよく見えた。嫌じゃ無いくせに、とけだものじみた吐息を吐きながら思う。いやじゃないだろ、お前は。本当は、おれにこうされたかったくせに。どうしていつもおれから逃げようとするんだ。
「千葉…、もう、許して」
 とうとう涙声になった一保の顎を後ろからつかんでこちらに向かせる。涙は流れていなかった。残念だ。
「泣いてみろよ。じゃあやめてやる」
 一保は泣かない。背後からろくな前戯もなく突っ込まれても、喉の奥まで性器を突っ込まれても、携帯を勝手にみられても。怒るだけで、泣かなかった。みたいのに。おれは一保の泣き顔がみたい。そして認めてほしかった。おれのことが好きだと。必要なのだと認めてほしかった。
「二度とおれ以外と飲みに行かないって誓え」
 おれの命令に、一保は首を振った。当然だ。どうかしている。
 でも許せない。
 おれは好き勝手犯されてぐったりしている一保の喉を掴み、締め上げた。
「言えよ」
「…誰が言うか」
 平手で頬を張る。1回、2回。一保は傷ついたような顔で呆然とおれを見たが、反撃はしてこなかった。できるはずなのに。口の端が切れて血が流れる。3回、4回と続けざまに殴り続けると、鼻血が出てベッドに散った。
「なら、仕方ないな」
 自分でも驚くほど低い声が出て、一保はびくんと肩を揺らした。 

****

 

 目覚めの気分は最悪だ。最悪なのに、またみたいと思う。
 夢の中に出てくる一保は、いつも熱っぽい視線でおれを見た。まるで恋愛みたいな目で。
 それが嬉しくて、毎晩眠るのが楽しみだった。現実にはただの友人だったからこそ、毎晩のように見る「恋人の」一保の姿が嬉しかったのだ。
 ただ、目覚めの気分はいつも悪かった。一保を抱いている夢だ、ということはなんとなく覚えているのだが、肝心の一保はいつも辛そうな顔をしていた。
「元気ねえな」
 羽田基地で業務についてすぐ、隣の席から一保が声をかけてきた。振られたのにまた告白して、挙句襲われかけたというのに、こいつの態度は変わらなかった。それがとてもありがたく、同時に苛立たしかった。おれの気持ちも存在も、こいつにとって取るに足らないものなのだと思いしらされて。
「睡眠不足なんだよ」
 そっけない言いぶり。一保は気にした様子もなく、「ふうん」と言って机に向かった。合田隊長が、向かいの席から注意深くおれを観察しているのが分かる。この人には全て知られているし、気付かれているのだろうなと思うと、投げやりな気持ちになった。どうとでも思ってくれ。いずれにせよ、仕事には手を抜かない。おれの居場所はここにしかない。
 特殊救難隊に入るのは悲願だったから、かなえられて嬉しかったのだが、まさか一保と組むことになるなんて思わなかった。保大を卒業してから10年近くの時が過ぎ、会わない間に一保に対する恋心は綺麗に処理され、忘れられたと思っていたが、そうではなかった。ただ凍っていただけだった。特殊救難隊のベレー帽をかぶった一保が戴帽式で挨拶をした瞬間、その凍った想いは解凍されてあふれてきた。凛とした立ち姿、潔い態度に物言い。笑うと、無愛想に見える無表情があどけなくほどけること。全部たまらなかった。たまらないほど好きなままだった。
 机の上に何か放り投げられて、視線を落とす。それは甘さ控えめなレモンキャンディで、一保はどうやらこのキャンディがおれの好物だと思っているらしいが、本当は違う。はじめにこのキャンディを見つけてハマっていたのは一保だった。つられるように口に入れているうちに、好物のように定義されてしまっただけだ。
「それでも食ってしゃきっとしろ」
「レタスじゃないんだから、しゃきっとする必要もないだろ。好きなだけしなっとさせろよ」
 憮然といった言葉に、合田隊長がふっと笑った。心配しなくても大丈夫ですよ、とおれは心の中で合田隊長に声をかける。仕事に影響させたりしないし、バディを変えられてもなんとも思わない。
 後輩の里崎が、女遊びがひどすぎるんじゃないですか、と揶揄してきたので睨みつけて黙らせる。よく言われる「女遊び」だが、おれは合意の関係しか結ばないし同じ女と2回以上関係を持たないので、遊んでいるわけではなく「処理している」だけだ。心のない肉体関係で性欲を発散させるだけ。相手も同意のもとに。
 今日は奇跡的に出動が少なく、体力的には余裕のある1日だった。朝に言葉をかわしてからは目を合わせることもなかった一保が、濡れたウェットスーツのまま、合田隊長の言葉に真剣に返事をしている。隊長の大きな手のひらが一保の髪についた水滴を払い、がしがしと乱暴に撫でる。まるで愛犬のような扱いに、一保は嬉しそうに白い歯を見せて笑った。
「お先に失礼します」
 感情を表にださないように意識しながら、基地を後にする。見たくなかったし、聞きたくなかった。忘れられるものなら忘れたかった。現実世界から逃避して夢の世界に浸れたら幸せだろうな。
 風が冷たいせいか、鼻の奥がツンとした。気のせいじゃなければ、夏と冬のアスファルトは匂いが違う。おれたちの仕事をしている者は夏が好きなものが多いが(それは単純に冬の救助が体力的に辛いから)、おれは冬のほうが好きだった。冬のほうがぎゅっと締まっている感じがする。
 モッズコートは使い古しているせいかくたびれてきた。今度の土日は服でも買いに行こう、今度は思い切ってカナダグースのコートを買おうか(高いので、なかなか思い切った決断だ)、などと考えながら、朝の光の中を小走りに走った。
 日常生活においても、ほとんどエスカレーターやエレベーターは使わない。これはもう習慣のようなもので、こういう細かいところをきちんと管理していれば、そう簡単に太ったりしない。
 おれは駅の階段を2段飛ばしで登り、最近引っ越したマンションの自室まで早足で歩いた。体を動かしていると余計なことを考えなくて済む。歩きながら鍵を取り出し、ドアの前に向かう。
「……誰だ、お前」
 黒いフード付きのパーカーに、黒いスキニーデニム。黒い帽子。全身真っ黒な細い青年が、ドアの前でしゃがみこんでいた。
「待ってたよ。多分信じないと思うけど、1分だけ話きいてくれない?」
「新聞の押し売りなら間に合ってる。NHKはちゃんと料金払ってるし、保険は見直すつもりもない。宗教も御断りだ、おれは無神論者だから」
 ありそうな線を先に言って顎をあげて見下ろす。帽子の影になっていて表情はうかがえなかったが、青年はまるで動揺した様子もない。
「あなたが毎日見ている夢は、2回目のことだよ。村山一保に執着して、乱暴して、自宅に監禁する」
 押しのけて家の中に入ろうとしたおれの後ろで、青年が言った。
「わけがわからないって顔をしてるね。2回目っていうのは、村山一保が1回目のやり直しをしたあとの世界のこと。彼は4回やりなおした。今は5回目の世界になる」
 振り返って帽子をひったくる。長めの黒髪の下で、陰気な顔がじっとおれを見ていた。
「頭がイカれてんのはよくわかった。警察呼ばれる前に消えろ」
 低い声で恫喝しても、青年は無表情のまま動かない。
「1回目、あなたは村山一保を助けるために死んだ。2回目はさっき言ったとおり。3回目、あなたの妻が村山一保の友人の、大切なものを奪ったからそれを取り戻すためにやりなおした。最後、4回目――あなたは世間体を守りながら村山一保との付き合いを続けるために結婚しようとして、彼に拒否され、無理心中した」
 えりくびを掴んで「いい加減にしろ」と凄んでも、青年の唇は止まらなかった。
「そのとき、村山一保はこどものころのあなたに会いに行って、川で溺れているところを助けて、保大時代に戻った。そして今に至る」
 息を飲む。これは、さすがにおかしい。あのことを知っているのは、おれと当事者の数人だけだ。ことがことだったから、表沙汰にもなっていない。
「きっと言っても信じないだろうけど。これらのやり直しによって、村山一保には因果の糸が絡み付いて取れなくなった。彼の弟の犠牲は転生によってリセットされ、」
「分かるように言ってくれるか。そもそも、お前は誰だ」
 にわかに大声をあげたおれに、青年はまばたきをひとつして名乗った。
「綿谷いつか。――村山の弟の生まれ変わり。僕は村山航太郎の記憶を持っている。全部」
 頭痛がする。大声をあげて追い返したいのに、喉がカラカラに乾いている。
「わかりやすく言うと、近いうちに村山一保は死ぬ」
 首をかしげて言い放った「いつか」は、どこか満足気な微笑を浮かべていた。
「あなたは信じないだろうね。普通はそうだ。けど、実際にそれが起こったとき、血眼になって僕を探す。わかっている。だから、電話番号を渡しておくよ」
「いやがらせにしては手がこんでるな」
 声が震えた。おれを助けたのが一保?そんなバカな。SFじゃあるまいし。
「僕もやりたくてやってるわけじゃない。頼まれて仕方なくやってる」 
 けれどそう考えると全ての点が繋がって線になる。おれを助けた技術、おれを知っていたこと、あのときの言葉。そこらの小学生が得られるものじゃない。
 ひらりと落ちてきた紙片をしゃがみこんで拾う。見上げた先で、いつかは眉を寄せて嫌悪の表情を浮かべていた。
「過去のろくでもない思い出に浸って自慰に耽るなんて、実にあなたにお似合いだね。5回目のあなたが、少しは利口になっていることを祈るよ」
 さきほどまでの淡々とした物言いと異なる口調は、まるで「いつか」ではない別の誰かのようだった。驚き、言葉を失っている間に、いつかは立ち去ろうとした。立ち上がり、腕を掴むと、迷惑そうな顔で振り返った。
「いまから本人たちにも伝えてあげないといけないんだ。無駄だとは思うけど一応」
「何者なんだ、お前は」
「そのうち分かる」
 するりと腕から逃れて、いつかは階段のほうへと走っていく。話している内容は滑稽極まりなく、喉が渇いたせいで、口の中がざらついて不快だった。おれは自分の家に入ってからすぐに顔を洗ってうがいをし、綿谷いつかと名乗ったガキのメモをシューズボックスの棚の中へ放った。ゴミ箱に捨てなかったのは、話を信じたわけではなく、ただ純粋に不気味だったからだ。
「おれが一保と心中しようとした、だって……?」
 こみ上げてきた笑いは思っていたよりもヒットせずに、掠れた「は、」という声が数度放出されて終わった。恐ろしかった。一保と付き合っていたのに、他の女と結婚しようとした、だと。挙句、思い通りにならないから一緒に死のうとした、だと。まったくふざけている。
「は……、わらえねえ冗談だ」
 自分がやりそうなことだと思った。背筋が凍ったといってもいい。世間体を気にして、一番大切なものを傷付け、あげく奪おうとしたのか。
 一保と出会う前に長く付き合っていた女に言われた言葉を思い出した。 

『常に猜疑心にかられ、他人を信じられず、自分本位な愛情ばかりを求める』 

 まったくその通りだ。それがどうした。
 握りしめた拳を洗面所の鏡に叩きつける。ヒビが入った鏡面に、歪な顔をした自分がうつっていた。