3 恋はおしゃれじゃない(後編)

 
 白いシーツからいつもの匂いがする。影浦のかおりだ。
 肌にしっとりと馴染む高級なシーツの上で身じろぎをすると、隣から腕が伸びてきて、項の髪を逆向きに撫で上げられ、首にキスを落とされた。
 終わった後、うしろから抱きしめられるのが好きだった。これならどんな表情をしていても見られずに済むし、顔をみているときよりも影浦の仕草がやさしくなる。
 腰を抱き寄せたてのひらがそのまま上へあがってきて、散々舌や指で弄られてひりひりする胸の先をそっと撫でた。声を出すのを我慢してもため息が漏れてしまう。それをきいて、うなじに顔をうずめていた影浦が忍び笑いを漏らしたのが分かって赤面した。
「大丈夫か?」
 どういう意図の質問かはかりかねて、おれは黙っていた。影浦はそのまま指をおろして、肩口に噛みついてきた。甘噛みとはいえそれなりに痛くて、おれはくぐもったうめき声を上げた。
「お前を三週間も抱けないなんて、気が狂いそうだった」
 噛み痕を舌で舐めながら、影浦がささやく。おれは不思議に思いながら首をそちらに向けた。
「おれとヤれないときは、愛人でも抱いてるのかと思ってたけどな」
 ずいぶん前になるが、女は全部切れ、と伝えたことがある。影浦はそうするとは言わなかったし、おれも確認したことがなかったから、たぶんほかにも寝ている人間はいるんだろうと思っていた。だから影浦からかえってきた言葉は意外なものだった。
「よくそんなことが言えるな。お前がほかの相手を全部切れと、このおれに、このおれにだぞ、えらっそうに!命令したんだろうが」
 女をこんなに甘やかしてやってるのは生まれて初めてだ、と憤慨しながら影浦が言った。あまりに意外で、可愛く思えて、間近でじっと顔を見つめていると、やがて恥ずかしそうに目をそらして黙ってしまった。
「おれは女じゃない。お前と同じ男だ」
 女扱いされることには耐えられない。おれは男で、男として影浦が好きなのだ。譲れない部分なのではっきり言うと、影浦は首を振りながら嘆き、仰向けになって目を閉じてしまった。
「んなこた言われなくても分かってる。どうなってんだ。このおれが男に夢中になるなんて……しかもそれを、本人が全く気付きやがらねえ。おい、まさかおれがいない間にイーサンの野郎と二人で飲みに行ったりしてねえだろうな」
 イーサンというのは会社でやとわれているアメリカ人のマーケティング担当者のことだが、それよりも、別の言葉に引っかかった。夢中、と言わなかったか、いまこいつは?
「仁、おまえ、おれに夢中なのか?」
 なるべく平常通りの声で問いかけたつもりだったが、隣の影浦ははっとした様子で目を開き、身体を起こしてから「今のは忘れろ!!」と叫んだ。
「分かった。イーサンとは何もない」
 笑いそうになったので、寝返りを打って影浦に背を向けた。起き上がった裸の影浦は、慌てた様子でのぞき込んできた。
「そっちじゃねえ、いや、そっちも説明はしてもらうぞ。悠生てめえマジで男に対してガードが緩すぎるからな。あいつはお前に気がある。絶対に近寄るなよ」
 それでも「クビにする」とか「異動させる」と言わないところが影浦の影浦たるゆえんだった。私的感情と仕事を完全に切り離すことができるのだ。これは案外、誰にでもできることじゃない。こういうところは尊敬している。チェコに美味いビールがあると知れば、ものすごい勢いで仕事を調整してチェコに飛び、仕事を取ってくる行動力もすごいと思う。
「彼にはアメリカから連れてきたパートナーがいる」
 確かに何度か言い寄られたが、断るとスマートに引いていった。それから友達になったが、恋愛感情はない。日本人に持ちえない赤みを帯びた髪やグレイの眼は、美しいなと思うけれども。美しさにおいて影浦の右に出るものはいない。
「そんなことがあてになるかよ。おれだってお前と出会った頃は婚約者がいた」
「別れたんだろ?」
 おれの言葉に返事をせずに、影浦がベッドから降りた。下着だけをみにつけている影浦は、白くてしなやかな背中をみせて、部屋から出ていく。
「仕事の電話をかけてくる。沸かしてあるから風呂に入ってこい」
 ドアが閉じる音を合図に身体を起こす。シーツを剥がして、風呂の前にある洗濯機に放り込んだ。
 風呂に入り、全身にこびりついた色々な汚れを丁寧に洗い落としながら、影浦のことを考えた。ありとあらゆる要素について恵まれてうまれてきたのに、影浦はいつも人生に対して攻撃的だ。ぼんやりしていても収入はあったし生きていけただろうに、好きだと思うものに手間を惜しまず、躊躇しない。
 いつだったか千歳が「影浦の世界には自分しかいない」と言っていたが、あれは間違っている。自分が信じる道を突き進む影浦の行きつく先には、必ず誰かの幸福があるのだ。例えば仕事の後に美味いビールを飲む幸福が。もちろん影浦自身がそんなことを言うわけがないのだが、本当に自分のことしか考えていない人間は、他人のよろこびなんて仕事にしない。もっと人を食い物にするような仕事はいくらでもあるし、その方が儲かる。
 湯舟につかっていると、何も言わずに影浦が入ってきてシャワーで身体を洗いはじめた。出ようとすると、「まだ出るな」と止められてもういちど湯舟に身を沈める。
 影浦は黙々と身体を洗った。欠点のない顔と身体を洗い、流し終えると、無言のまま湯舟に入ってくる。広々とした浴槽はおれと影浦がふたりで入っても十分なスペースがあったが、どちらも百八十センチを超えている大柄な男なので、大量の湯が浴室の床へ流れていく。
「誰と電話してたんだ?」
 沈黙に耐えかねておれが尋ねると、影浦は浴槽のふちに腕をのせ、天井を仰ぎながら言った。
「インスタグラマー。いや、違うな。正確には『インフルエンサー』のインスタグラマーだな」
 少し考えてから、おれは言った。
「ビールの宣伝をしてもらうのか」
「ああ。うちにCM打つ予算なんかねえし、いまやSNSの拡散力のほうが対若者相手には強いからな。クラフトビール=カッコいいのイメージをつけてもらうのには、これが一番だ」
 フォロワーの多いインスタグラマーの投稿には相当な影響力がある。今度都内のレストランやバルと共同で行うビールのイベントにもインフルエンサーを多数招待し、写真を投稿してもらうよう依頼するらしい。
 もっぱら企業や料飲店、量販店とのやりとりを担当しているおれは、SNSなどの広報系に弱い。つながりも持っていないし、コネもない。
「よくそんな連中とつながりがあるものだな。お前インスタもフェイスブックもやってないだろ。確か……『防犯上の理由で』だったか」
 視線がかち合う。影浦は小馬鹿にするように笑ってから、「ストーカーされちゃたまんねえからな。硬派な雑誌の取材は受けるけど、生活圏や交友関係が分かるSNSは危険だ」と言った。
「出るぞ。のぼせそうだ」
 まだ話が終わってないぞ、と追及しようとしたが、影浦は風呂から出て言ってしまった。いつもこうだ。好きにふるまっておれに気を遣うということがない。慣れてきたが、時折うんざりする。勝手に話を切り上げるなんてしょっちゅうだった。
 浴室を出るとバスローブと下着が置いてあった。まだ濡れた髪のままそれらをまとってリビングへ出ると、影浦は冷蔵庫から水を取り出し、グラスに注いでいるところだった。
 リビングでは、ソナス・ファベールのスピーカーから何か優雅な音楽が流れている。耳を傾けながら水を手に取り、ソファに腰かけて飲む。
 一曲目は何の曲か分からないまま終わった(聞き覚えはあるが、曲名が分からなかった)。二曲目は、確か――
「ロミオとジュリエットか」
 ヴァイオリンの主旋律が美しく、誰が演奏しているのか気になってしまった。
「正解。社交ダンスでワルツの王道曲といえばこれだな」
 ワルツを踊る機会はないが、と言いかけてやめた。影浦にはあるのかもしれない。あっても不思議じゃない。
 おれの日常には存在しないものの、社交界でタキシードを着て貴婦人と一緒に踊る影浦は想像に難くなく、おれは黙ったままグラスに水を注ぎ足して飲み続けた。
 影浦は隣に座って同じように水を飲み、目を閉じてソファの背もたれに身体を預けていた。曲がロミオとジュリエットから「With you I`m born again」に変わると、影浦は突然立ち上がっておれの手を取った。
「これもワルツでよく使われる曲だ。来いよ」
 腰に腕を回され、踊りの真似事をさせられた。影浦はリードが上手く、リビングは広々としていたので、足をとられたりすることはなかったが、意味がわからなかったし、恥ずかしかった。
「もう、やめろ、おい」
「近々踊る予定があるんだが、最近練習してないからな。練習台になれよ。……お前は力を抜いておれのリードのとおり踊れ。はは、へたくそめ」
 それじゃ社交界デビューできないぞ、といって影浦は笑った。その顔が無邪気で何の含みもないかわいいものだったので、おれは殴るのも抵抗するのもやめて言う通りに踊ってやった。道化のようだと思ったが何もいわずに我慢して。かなりいい恋人なんじゃないか?感謝してほしい。
 オーバーターンドナチュラルスピンターン、ウィーブフロム、リバースピボット、と技か何かの名前を言いながら、影浦は優雅に、そして的確におれをリードして踊った。そそのかされるままにくるくる回り、背を反らせ、そうこうしているうちに少し楽しくなってきて、おれも笑った。
「悠生、スジがいいぞ。ふたりでタキシード着て裏切り者の鳳凰ビール本社で踊ってやろうか。楽しそうだ」
「バカか。つまみ出されるぞ」
 ひととおり踊り終わってから、ふたりで笑ってソファに座り込んだ。それから、どちらともなく顔を近づけ、さっきまでベッドでしていたのとは違う、ゆっくりとしたキスを味わった。
 目を閉じている影浦を盗み見る。長いまつげが細かく揺れていて、やわらかい前髪の間でそっと伏せられていた。舌が入ってきてそれを噛んだり絡めたりする。そうこうしているうちに、窓の外から差し込む日光はどんどん真上へと向かっていた。それを見て、本当に朝までセックスしてしまったのか、とおれは途方にくれた。ちょっとどうかしている。
 気持ちがよくて頭がぼうっとしてきたころ、影浦は顔を離してテレビの方へ身体を向けた。音楽を止めたかと思うと、テレビボードの引き出しからディスクを一枚手に取り、おれの方を見た。
「もっと、って顔だが、それは後でな」
「してない、そんな顔」
 ムッとしてしまったおれを見て、影浦が片眉を上げて笑った。
「明日は仕事だし、今日はスポーツ観戦でもしようぜ」
 おれは眉を寄せ、「スポーツ?」と聞き返す。影浦は何も言わずにブルーレイプレイヤーの電源をつけて、ディスクをトレイの上にのせた。照明を暗くして、ソファの上で前のめりになってテレビに見入った。
 内容に思い当たるフシがなくて、おれは内心首を傾げていた。
 影浦はさまざまな教養を身に着けているが、主に接待に役立つスポーツが多かった。例えばゴルフだとか、フィッシングだとか、テニスだとか。乗馬は趣味で一緒にやるが、そんなに熱心に乗馬種目を観戦しているところをみたことがない。
 一体なんだろう、と考えながら画面を見つめた。数秒後、真っ暗な画面に突然アップでうつったのは、弟、周平の顔だった。
『――ピッチャーの成田、大きく振りかぶって第一球――投げました、直球、ストライク』
 ブラスバンドの音と歓声が入り混じる中に、解説者の緊張がにじんだ声が割り込む。
『今大会最も注目されている投手、成田周平はなんといってもストレートの速球ですね。一五0キロを超えるストレート、それも抜群のコントロールを誇ります…第二球、投げました、ボール、ワンボールワンストライクです』
 これは、周平が全国優勝を決めた夏の甲子園、決勝戦の映像だ。一体これをどうやって手に入れたのだろう。おれも持っているが、机の奥深くにしまい込んでいたはずだ。
 周平が長い腕を大きく、しなるように振りかぶるたびに、ストライクが積もっていく。キャッチャーは打者に合わせて的確にインサイドやアウトサイドを攻め、周平は頷き、ときどき首を振って(それはおれが投げていたころよりもはるかに少ないが)、強い眼差しのままワインドアップした。
 影浦は黙って画面を見ていた。おれも何も言わなかった。
 一回から四回までは無失点のまま過ぎ去り、五回で一度あわやホームインかという鋭い当たりがあったが、優秀な遊撃手があざやかなジャンピングキャッチしtemise
、ホームに返してピンチを救った。
 周平はマウンドの上で慌ててそちらを振り返り、そのあと、ふわりと笑って指を空に突き出す。ワンアウト。まだワンアウトなのに、周平は本当にうれしそうだった。それにつられるように、アップで映される仲間たちの表情も緩む。

 野球が好きで、楽しくて仕方がない。そんな顔だった。

 おれはどんな顔をしているだろう。分からないが、はずかしくて両掌で顔を隠しつつ指の隙間からテレビを見てしまう。
 影浦が小さい声で言った。
「空が青いな。よく晴れてる」
「ああ……」
 本当にそうだった。入道雲の白が奥に控えていたが、周りの空は胸がくるしくなるほど鋭い青だった。
 八回が終わり、九回裏に入った。周平は日焼けで鼻先を赤くし、汗を腕で拭いつつホームを睨んでいた。スコアは2―0で満塁、一言で言えば「大ピンチ」のシーンだというのに周平は落ち着いていて、深く息をしたかと思うと、迷いなくサインに頷いた。
 喉の奥がぐっと狭くなる。結末を知っているのに、心臓がうるさく音を立て、足元が落ち着かない。
 拳を握って口元に当てながらみていると、不意に、髪に影浦の指が伸びてきた。うなじからするすると髪を撫で上げたかと思うと、そのまま背中を撫でてから腰を抱かれ、ぐっと引き寄せられる。身体がぶつかって密着するような体勢になって、「仁」と声を荒げてしまった。
『――フォーク、投げました!……打ちました、上がった!ライトへ高々と上がった、……ファウルです。カウントは二ストライク三ボールのままです』
 影浦の視線はテレビに向いたままだった。おれは隣から腰をだかれたまま、画面へ顔を戻す。
 投げる寸前、球場の中は水を打ったように静まり返った。こんなことはめったにない。ブラスバンドも、歓声も、偶然なのか、すべてが止まった。
 最後の球を周平が投げた。
 おれはソファに下ろされたままの影浦の手を強く握った。痛い、と顔をしかめられてもおかしくないぐらい強く。
『第六球、…投げました、直球!空振り、ストライクです!……スリーアウト、試合終了――!』
 何度みてもこのシーンではガッツポーズをしてしまう。そう、画面の中の周平と同じように。
 周平は仲間のところへ真っすぐ走っていく。チームメイトたちと抱き合い、涙を流し、円陣を組んだ。
「なるほど、たしかに――」
 影浦がこちらを向いた。
 悔しそうな、それでいて少し楽しそうな、不思議な表情だった。
「素晴らしい投手だったんだな」
「――ああ」

 そうなんだ。本当に、素晴らしい投手だった。

 目を伏せると涙が零れ落ちてしまいそうだったから、おれは顔を上に向けて涙が渇くのを待った。けれどその前に、影浦が立ち上がっておれの目尻を舐めたので、涙は胃の中へと消えてしまった。
「悠生」
 名前を呼ばれた声で、影浦が何を求めているのか分かった。
 おれは立ち上がって自分のバスローブを肩から落とし、影浦にも同じようにした。影浦は長い間おれの身体を快楽でいたぶって、焦らして、「愛している」と言わせようとした。 それでもおれは言わずにいると、ソファの上でおれをうつぶせにして真上に覆いかぶさってきた。
「クソ意地っぱりめ」と悪態をついたので、おれは「そんなものは今更だろ」と言い返した。影浦は少し笑ってから、あきらめたような声で「いれるぞ」と囁いた。

 影浦の家でへたくそなワルツを踊った翌週、おれたちは区民グラウンドに来ていた。周平の試合を観戦するためだったが、その日はよく晴れており、思っていたよりも観客が多くいた。
 初夏の風はさわやかで、緑と土の匂いがした。
「霞会館って知ってるか」
「名前だけ。皇族と華族の末裔だけが入れる社交場なんだろ?」
 都内の高層ビル、そのワンフロアを貸し切った社交場だときいたことがあるが、もちろんおれは何の縁もゆかりもない。
「ああ。そこの、とある令嬢とワルツを踊る予定があってな。それでお前と練習したんだ。……誤解するなよ、ただ踊るだけでいいそうだ。子どものころからおれに憧れていたんだと」
 観客席から塁にいる周平に手を振ると、すぐに気づいて笑顔で振り返してくれた。嬉しくて、つい何度も振ってしまい、隣で影浦が唸り声を上げたのでやめた。
「仁がそんな夢をかなえてやるなんて、何か裏があるんだろう」
 おれの言葉にフンと鼻息で返事をしてから、影浦は缶ビールを鞄から取り出し、こちらへ手渡してきた。それは我らが「あさなさなエール」ではなく、古巣の鳳凰ラガーだった。
「インフルエンサーの女がそいつの妹らしくてな」
「なるほど、そういうことか」
 やはり影浦、無駄なことはしない男だ。
 そう感心し、プルリングを引き上げて心地のいい音を鳴らす。プシュッと音をたてた缶ビールをぶつけあおうとすると、影浦が眉を上げて言った。
「何に乾杯するんだ?」
 いたずらを思いついたような声だった。おれが答えようとすると、影浦は「待て、おれが決める」と言って手のひらをこちらに向けた。
「そうだな。――愛にするか」
 突然真剣な目でみつめられて、音声が消えた。周囲のざわつきすべてがシャットアウトされ、おれは間抜けな声で言った。
「愛!?」
 プレイボール、という声がきこえて、顔をそちらに向けようとする。手のひらがおれの肩をつかみ、耳にキスをされた。
「お前が好きだ。一日でも顔をみられないと苦しいし、一週間抱かないとおかしくなる。ああ、もう降参だ。おれはおかしくなった。どうかしちまったんだ」
 あの美しい顔が情けなく眉を下げてそんなことを言うので、おれは驚いて缶ビールを座席の下に落としてぶちまけてしまった。
「あっ、おお……、お………」
 おろおろとうろたえながら缶ビールを拾おうとするおれを、影浦が指さして笑った。
「そんなに動揺するほど嬉しいのか」
 好きだなどという言葉を、影浦が、あの影浦仁の口が放つとは思わなかった。確かに特別な感情は抱かれている、と思っていた(でなければこんなに続いていない)が、まさか、本当に恋愛感情の「好き」だったとは。
「おれは言ったぞ。お前も言え」
「なんだその交換条件は」
 強制されると言いたくない。あまのじゃくな性質がひょっこり顔をだしておれの邪魔をしてくる。
 深いため息をついた影浦が前を向いた。試合がはじまり、投手がマウンドの上で構える。確かに投手は大したことのないチームだったが、守備が良かった。周平だけではなく、センターとファーストの選手がとても有能だった。
 風が強く吹いて、隣に座っている影浦の前髪を揺らして通り過ぎていく。
「おれも好きだ」
 ボールがミットに吸い込まれ、小気味のいい音が鳴った。その音にかぶって聞こえなければいいな、と思いながら、もう一度つぶやく。今度はさっきよりも、確信に満ちた声で。
「好きだ」
 となりの影浦はなんでもない顔でビールを傾けているが、その缶にはもう、何の液体も入っていないのだと知っている。なくなっているのに、ずっと呷っているのだ。
 野球を楽しんでいる周平の姿をみながら、おれは影浦の手に自分の手をそっと重ねた。それから、言ってやろうと決めたセリフを頭のなかで反芻した。

 そんなに動揺するほど嬉しいのか?

 そう尋ねるために、おれはゆっくりと唇を開いた。