14 呪いと本音

★エブリスタでスター限定公開にしているものです。ちょっとファンタジー味なのでご注意ください。

 

 

 黒いローブを着たみすぼらしい老婆がベンチに座っていた。
 ランニングで毎日通る公園だ。もしこの老婆がこの公園の常連であったとしたら、見覚えがあったと思う。実際何人かのホームレスは覚えていた。挨拶をすることもある。何しろ毎日同じ時間に顔を合わせるので、会社の人間と同じように顔見知りだった。
 老婆は野良猫にエサを与えていた。いくら夜で目立たないと言っても、あまり感心しない行動だ。家で保護できないなら、むやみに道端でエサを与えるものではない。近隣住民の迷惑になる。地域猫、という言葉があるが、おれはあの活動を良く思っていなかった。最後まで責任を取れないなら、何もしてはいけない。たとえそれによって飢えて死んでしまったとしても、それが自然の掟であり摂理である。
 そんなことをつらつらと考えながら前を走り抜けようとすると、突然老婆がしわがれた声で言った。
「待ちな、そこの大きいの」
「……おれですか?」
「あんた以外に誰がいる。こんな時間にバカみたいに走ってるデカい男が」
 困惑しつつも立ち止まる。息を整えながら老婆の前に立つと、彼女は目深にかぶったフードを肩に落とした。老婆の顔が公園の照明に照らされ、思わずおれは息を呑んだ。
「醜いかい?そうだろう」
 何も言えなかった。女性と接するとき、美しさや若さで態度を変えない人間だと思っているが(興味がないので)、さすがに後ずさりそうになるほどの顔立ちだった。
 足を踏ん張って何も言わずに立っていると、老婆はヒヒッと笑った。
「気の利いたことひとつ言えやしない。……まあいい、アンタにひとつプレゼントをやろうと思ってね」
 老婆が突然おれの首を掴んだ。枯れ木のような手のひらだったが、驚くほど強い力で指が食い込むほど掴まれる。喉が熱い。頭の中が一瞬、真っ白になった。
「人の顔を見て怯えるような失礼な男。アンタに呪いをかけてやった。呪いといっても大したやつじゃないがね」
 息ができない。喉を指でさわりながら地面に跪く。
「ゆっくり息をしな。なあに、死にやしないよ……吸って…吐いて…そうだ、それでいい」
 しわがれた声が次第に遠くなっていく。それはまるで子守唄のようだった。

 

 

 

「悠生」
 目が覚めるとベッドに寝ていた。自宅のベッドだ。
 はっとして指で首をさわる。声が出なくなっているのでは、と思い恐怖したが、眉をよせてのぞきこんできた影浦の冷たい指に「う」と声が漏れたので安心した。
「悪夢か?ひどくうなされていたぞ」
 影浦にしては心配そうな顔だった。からだを起こして、影浦の柔らかい髪が頬に落ちているのを指でひろって耳にかけた。
「心配してくれてありがとう。今日も仁は美しいな、愛してるぞ」
 ――今、おれは何を言った?
 両手で口をおさえて呆然としている間、影浦は目を見開いて一時停止していた。気持ちはわかる。おれだって今何が起こっているのか把握できない。
「…………熱でもあるのか、それとも何か悪いものでも拾って食ったのか?」
 声が震えている。
 分かる、そうなるよな。おれも恥ずかしすぎて窓から飛び降りたい気持ちだ。
 それなのにおれの口はおれの意志を裏切って言った。
「本当の気持ちだ。いつもなかなか言えないけど、あ……ワーーーーッ!!」
 突然叫んでベッドから抜け出したおれを、真っ赤な顔をした影浦が追いかけてくる。Tシャツとジャージ姿でサンダルを履いて部屋を飛び出す。無駄に毎日鍛えているので、追いかけてくる影浦をみるみるうちに引き離していく。
「おれの口はどうなったんだ!?」
 思ったことがそのまま口から出てしまう。いや、思ったことというか……どうなんだ……思ってるのか?まあ確かに影浦のことを「美しい」と思っている。それは認める。あと「愛おしい」とも思っている。普段絶対に言わないが思っている。
「夢じゃなかったのか…!!」
 呪いだ。これはあの老婆の、いや、魔女の呪いなのだ。

 

 

 

 全力で走った。こんなに本気で走ったのは久しぶりだ。
 日曜の朝っぱらからジャージにTシャツ姿で近所を走り回り、影浦を巻いて安心していると、自転車に乗った警察官二人組がこちらに向かって手を振ってきた。
「お兄さん、ちょっとすいません。近所の人から、ただならぬ様子で走りまわる大きい男がいて怖い、って通報があってね。はい、とまってー」
 淡々とした、目元の涼しい男がおれの前で自転車を止める。後輩らしき男が後からやってきて、へらりと笑った。
「すいませんね、こういう仕事なもので」
 へらへらしている後輩の警官は、かなり大きい。おれと同じぐらい上背がある。
「ここで何してるんですか?というか、寒いでしょ、そんな恰好で」
 何か哀れみを含んだ声であるような気がするが、先輩警官は口調がとても落ち着いているので、不思議と嫌味がない。ただ、警察官特有の、人を疑うことに慣れた鋭い眼差しは持っている。おれは少し緊張して言った。
「目元のほくろがセクシーだな、イケメン警察官」
 パーン、と音がした。おれが自分の手のひらで口を覆った音だ。
「違う……違うんだ。これは呪いで」
 唖然としている先輩警官の横で、へらへらしている後輩警官がブーッと吹き出した。
「分かる~!先輩イケメンだけど目元がエロいんですよね、目元がー!でもクソ強いからセクハラしたら蹴られますよ……いってえ!!!」
 余計なことを言ったらしい後輩が、尻蹴りの制裁を食らっている。なかなか鋭い蹴りだった。格闘技の心得があるらしい。
「お褒めいただきどうも。で、何してたんです?」
「……」
 自分の口をおさえたまま首を振る。口を開くと思ったことがそのまま垂れ流されてしまうのだ。
 袋小路に追い詰められ、目の前には警察官2人が道を塞いでいる。大ピンチだった。まさかとは思うが、逮捕されてしまったらどうすればいいのか。いや待て。おれは何も悪いことをしていない。確かに朝っぱらから薄着で近所を走り回ったかもしれないが、それだけだ。たったそれだけで通報されてしまう社会。恐ろしい監視社会だ。寛容さがない。いくらおれが平均よりも大きくて迫力のある男だとはいえ。
「連れが何か?」
 女という女が跪く美声。影浦だった。外向けの微笑を浮かべて警察官ふたりに頭を下げたかと思うと、誰しも同情をしてしまうような悲し気な顔でおれを見てこういった。
「彼は私の家族ですが……、病室を抜け出したので追いかけてきました。少し不安定になっているようですが、他人に危害を加えたりはしません。何かありましたか?彼を拘束するような明確な理由が」
 影浦の物言いは丁寧だがとても高慢だった。自分自身がただならぬ人間だ、というのをふたりに感じさせ、威圧している。
「近隣の方から通報があったので、お話をお伺いしただけです。保護されるのでしたら、連絡先だけお聞きしてもよろしいですか」
 先輩警官はあくまで静かな声でそう言った。その眼には影浦に対する反抗のようなものが宿っていた。反骨、といったほうが近いかもしれない。
 影浦は眉を上げ、「名刺をお渡しします。ジャケットの内ポケットにありますが、とってもよろしいですか」と声をかけた。後輩警官が警戒するような眼差しで距離を詰めてくる。さきほどまでと違って、その身から驚くほどの殺気を放っていた。まるで、影浦が銃か何かを持っているのではないか、と警戒しているかのような様子だった。おいおい、ここは日本だぞ。
「お願いします」
 先輩警官の声に、影浦が名刺を一枚取り出して渡す。その間もおれはずっと口をおさえたまま立っていた。
「それでは我々は失礼します。ご協力ありがとうございました」
 来た時と同じように、自転車で去っていく。おれは口をおさえたまま影浦を見た。影浦は大きく溜息をついてから「また自白剤か?それとも別のクスリでもキマってんのか」とうんざりとした声で言った。

 油断して口から手を離すと、「仁のことが好きで好きで…、お前が死んだら後を追うと思う」とか「でもお前は死なせない。絶対に守るから安心して生きろ」などと言ってしまって、影浦が犬の唸り声のような奇妙な声を上げた。
「もういい……、悠生、黙れ」
「違うんだ、これは本音、いや、呪いで……とにかく今夜はセックスしたいな、昨日しなかったから今日は絶対し……今のは忘れてくれ!!」
 事情を話す合間にも言葉が止まらない。影浦の狼狽する様や絶句する様、ちょっと嬉しそうな、でも「これは呪いであり言いたくて言ってるわけじゃない」というところに起因している悔しそうな様、そういったものすべてが可愛い。
「可愛い?誰がだ、ふざけるのもいい加減にしろ」
 口に出してしまっていた。影浦が振り返って叫ぶ。
「悪い…、自分でもコントロールできないんだ。そこだ、確かその公園だったと思う」
 老婆に首を絞められて、それからこうなってしまったこと。目が覚めると自宅で眠っていたこと。これらの説明を終えると、影浦は眉間に皺をよせて公園についてきた。
「信じてくれるのか?こんな突拍子もない話を」
「お前は愚かだが、嘘はつかねえだろ」
 前半部分は余計だが、後半は嬉しかったので、つい手をつないでしまった。まだ朝だというのに。
「!?」
 人がいないことは確認していた。朝は毎日ランニングする人間や散歩している老人がいるのに、今日は人影がない。不気味なほど静まり返っている。
「おかしい。気味が悪いこの上ない。どうなってやがんだ、一体」
 影浦はおれの手を振り払わなかった。斜め後ろから見える耳が少し赤くなっていたものの、黙って手を引いて、おれが指示する場所に向かって歩いていく。
「手を繋げて嬉しい……ずっとこうしたかったんだ」
 そうだったのか。
自分でも知らなかったが口がそう言っているのでそうなんだろう。
 今は老婆を探すために口を閉じられないので、あきらめて言うがままにしておいた。自分の口だが制御下にないので仕方がない。影浦はいちいち眉をよせてこちらを勢いよく振り返ったり、咳払いをしたりしていたが、最後には震える小さい声で「本当にもうやめてくれ」と懇願した。

 

 

 

 

 
老婆は先日と同じ場所に座っていたが、今度は猫に餌を与えてはいなかった。ベンチに座ってこちらを見てから、口笛を吹いて口元をゆがめた。
「これはまた、ずいぶん綺麗な人間を連れてきたね」
影浦は険しい顔のまま老婆の前に立ち、言った。
「こいつの変な呪いを解け」
老婆が笑った。
「あたしゃその男の潜在的な望みを叶えただけさね。何が不満なんだい」
潜在的な望み?意味がわからなくておれは首を傾げた。
「心の中にあるものを、無理やり引きずり出すなんて下品だ。たとえ呪いがなければ想いの一つも伝えられない頑迷な男だとしても、それこそが成田で、おれはそのままでいいと思っている。元に戻せ」
 老婆は立ち上がり、フードを落として、恐ろしく醜い顔で影浦に笑いかけた。
「その男はあたしの顔を見て怯えて後ずさった。どうやらあんたは違うらしいが、無礼極まりない男だ。だから呪いをかけてやったのさ」
 影浦はこちらをちらりと振り返った。それから神妙な顔で老婆の肩を掴み、覆いかぶさるようにして――キスをした。
「!」
 声も出なかった。キスは一瞬ではなく長いものだった。おれは驚きで固まってしまった。
 どれぐらい時間が過ぎただろう。影浦がゆっくりと顏を離すと、老婆の全身が光り輝き、若く美しい女に変わった。
「ああ…!ありがとうございます、ありがとうございます。これで美しいまま天に召されることができます」
「連れの無礼を許してくれ、美しい貴婦人」
 影浦が拳を胸に当てて礼をすると、彼女は涙を浮かべ、そのまま闇の中へ消えて行った。

 

 

 

 

有名な呪いだぞ、知らないのか?と人通りが戻った公園の中で影浦が言った。知らない、と返事をすると、影浦が興味をなくしたように伸びをした。
「帰るか」
「ああ」
「にしても、お前が素直になると気持ちが悪いな。覚めない悪夢のようだった」
 自分の身に起こったことなのに、そのあまりのファンタジー感についていけなくて首を傾げる。同時に、影浦がなんでもないことのように受け入れていることにびっくりした。
「……今ふたりで麻薬をやってるとかじゃないよな」
「ああ?バカか」
 めずらしく影浦が笑ったので、おれもつられた。影浦は元の顔が整いすぎているせいで無表情でいると少し近寄りがたいのだが、笑うと年齢より幼く見える。
「仁は笑うと無邪気で可愛い」
 思ったことをそのまま言っただけなのに、影浦が赤鬼のような形相でおれを睨んだ。
「まだ呪われてんのか、お前」
「二度と言わない」
 別に怒ってはいなかったが、怒ったフリをして早歩きをしていると影浦が後ろから追いかけてきた。
「アーサー王物語のひとつ、『ガウェイン卿とラグネルの結婚』を読んだことないか。おれは、あれと同じことをしただけだ」
「ふうん」
 さしたる興味もなかったので、歩く速度を変えずに公園から出て横断歩道を渡る。待てよ、と追いかけてくる影浦はひとりでその物語の概要を説明した。
「悠生」
 腕を掴まれて振り返ると、珍しく真剣な顔で影浦が言った。
「お前はおれの顔が好きなのか。万が一、事故や呪いでこの顔がダメになったらどうするんだ」
 とっさに黙ってしまったのを肯定と取ったのか、影浦が俯いた。
「おれも自分の顔が好きだ。正直に言ってここまで美しい顔をした男はなかなか実在しないと思うし、顔につられて寄ってくる人間も不快に思ったことはなかった」
 でも、と続けた声が思いのほか小さくて、耳を澄まさなければいけなかった。
「お前もそうだとしたら、……不快だ。いや。違うな。――悲しい」
 心臓が口から飛び出すかと思った。それぐらい驚いたし、正直言ってときめいてしまった。今すぐ抱きしめてキスしてやりたいほど。でもここは往来だ。そんなわけにはいかなかった。
 かわりに両手で影浦の手を握ってやった。冷たくなった手は、やはり爪の先までうつくしく整っていた。
「仁が醜くなったら、おれは嬉しい」
 目を合わせると、怪訝な表情が返ってきたので、おれは暗く笑った。
「誰も振り返らなくなって相手にしなくなるぐらい、醜くなってほしい。そうしたら独占できるし、安心できる」
 いつかいなくなることを。誰かにとられることを。自分が捨てられることを想像しなくてよくなる。
「中身が仁なら、どんな外見でも構わない」
 家族にすら心を依存させないように気を付けて生きてきたのに、影浦はダメだった。おれの一部になってしまって、失ったときはきっと自分の一部を亡くすような痛みを伴うだろう。
「理解に苦しむ発言だな」
 苦々しい声だったけれど、その表情はどことなく嬉しそうに見えた。きっとお前には分からないよ、とおれが言うと、影浦はそうかもな、とつぶやいた。
「おれとお前は違う人間だから、何もかも分かり合うことはできない。まあ、分からないことこの上ないお前だから、退屈しないんだろうな」
 影浦とおれは、似たところと全く違うところ、両方ある。だから苦しいし、その分楽しい。
「仁を尊敬しているから。腹が立つことがあっても許せる」
 恥ずかしくなったので背を向けて歩きはじめる。公園を出て、人通りがすくない道路になった途端、後ろから殺す勢いで抱きしめられた。
「骨が折れる……、苦しいぞ」
 振り返ろうとすると、「うるさい、こっちを見るな」と脅された。
「そのまま歩け。初めの角を右に曲がったところにおれの車がある」
 引きずるようにして歩き、助手席のドアを開けると、ようやく影浦が離れて行った。何食わぬ顔でハンドルを持ち、運転しはじめる。
「なあ」
「とりあえず黙れ」
「腹減らないか」
「黙れって言ってるだろ。今頭の中を整理してるんだよ。一体おれはどこで間違えたんだ…?なんでお前なんかにこんなに執着して……、分からん……」
 頭を抱えそうで心配だったが、そこはさすが影浦だった。運転技術に一点の曇りもない。車は絶妙な速度で動き、揺れのないおだやかなブレーキまで完璧だった。
「仁」
「お前は耳がどうかしてんのか?黙れっていったろ、」
「好きだよ」
「…………」
「これは黙れって言わないんだな」
 少し笑ったのが良くなかったのか、影浦は機嫌を損ねた顔で黙り込んでしまった。けれどその顔はどことなく幸せそうだったので、これからは機を見て、伝えていくようにしようと決めた――影浦から甘い言葉を聞くことなんて、ほとんどないのだけれど。