(番外編)世界の果てまで行ったK

※白石視点の番外編です。白石のその後とアキとの再会。

 

 アフリカ大陸、サバンナで見る夕暮れほど原始的で美しいものはない。死ぬより怖い思いをしたり恐ろしいものを見たり哀しみにくれたりしていても、心を打ち抜く、弾丸のような夕暮れをみればおれの心は大概まっさらになった。どんなときでもそうだった。今日の終りを実感し、明日への活力が得られた。
 かつて、ベルギーの苛烈な植民地支配に端を発したコンゴ民主共和国の貧困は、豊富な鉱物資源の発見により泥沼化し、その後まるで改善することのないまま現在に至っている。おれたちが普段使っている携帯電話、パソコン、ゲーム機などには、日本で手に入らない鉱物資源が用いられていて、その主な産地のひとつがコンゴ民主共和国なのだ。本来ならば、豊富な鉱物資源を元に華やかな発展が待っているはずだったコンゴは、国家として未成熟だったところにつけこまれ、つねに紛争のたえない最貧国となってしまっていた。

『また、悪い夢をみたの、パパ』
 一人娘の声をきいたのは三か月ぶりだ。経済状況の悪い国ではもれなくインフラの整備も滞っているため、地方都市には安定した電話回線なんてない。
 イギリスにいる家族に電話するためには、キンシャサにある事務所まで赴かなければならない。普段、危険きわまりない中央アフリカの国境付近で活動しているおれにとって、その移動はなかなかの距離だった。
「そうなんだ。怖いよ、いますぐ家に帰ってアレックスを抱きしめられたらいいのに」
『わたしもパパに会いたい。ねえ、次はいつ帰ってこられる?』
「ママからきいてないの?来年からはしばらく、東京事務所でのんびり勤務になるんだ。そうしたらいっぱい遊んであげられるし毎日ハグして眠ってあげられるし、ディズニーランドにだって行ける。知ってるかアレックス!ワカヤマってとこにいったらな、一生分のパンダが見れるんだぞ。驚きだろ~?」
『トーキョー?ワカヤマ?それってどこ、わたしも連れてってくれる?』
「東京は日本の首都で関東地方にある。和歌山は関西地方の南端。日本はパパの生まれた国だ。アレックスだけじゃなく、ブリジットも…ママも一緒にいくんだよ」
『でもそこって、アップルリンツァーある?スコーンも…』
「あるとも。なくてもママとパパが作ってあげるよ」
『パパのつくったスコーンはまずい』
「それは捉え方によるね!いや、ごめん。ママのが世界一」
 もはや英語が母国語になりつつある。娘と軽い冗談を交わしてから電話を切って、おれは長々と息を吐いた。見上げるとキンシャサの深い青。さわがしい車やバイクの行き交う音の中で、不意に随分遠くまできたな、と感慨深くなった。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に興味を持ったのは、検察官の家族として日本を転々としていた、中学生の頃だ。その頃は官舎に住んでおらず、賃貸マンションの隣人はNGOの代表である小木さんだった。彼のサンタクロースのような髭に、慈悲深い細い目を、いまでもはっきり覚えている。
 転校生だったおれは中々友達ができずにいた。転校生がめずらしいのは最初のひと月だけで、どちらかといえば早熟だったおれは、クラスメイトの子供っぽい雰囲気やつまらない遊びにいつも馴染めなかったし、すぐにひとりになった。本を読んだり、一人で物思いに耽るのが好きだったから苦痛ではなかったけれど、友達の家に遊びに行かないと両親が心配するので、よく小木さんの家に身を寄せていた。
 やがて彼が支援している、不法滞在の難民家族と仲良くなり、いつもマンションの中庭で一緒に遊ぶようになった。特に同い年だったアミーノとは仲が良くて、日本語とソマリ語を教え合ったり、近所の川でザリガニを釣ったり、好きな本を貸し合ったりした。彼女は不遇な環境にいたのに全くそれを表に出さず、同級生たちからは想像できないような大人っぽい笑みを浮かべて全てに耐えていた。たぶん、いつか哀しい結末を迎えることに気付いていたのかもしれない。
 ご存じのとおり、日本ではほとんど難民認定はおりない。ある日学校から帰ってくると、昨日まで仲良く話しをしていたアミーノ一家は、突然姿を消していた。さよならも、ありがとうもいうことができないままに、彼女ら親子は日本から紛争地へと強制送還されたのだ。戻ったところで紛争に巻き込まれて死ぬか、難民となってさまよい続けるしかないというのに。
 子供心に、かなりの衝撃だった。いつも諦めたような笑みを浮かべていたアミーノ。あんなに頭がよくて、思いやりのある良い子が、どうして。どうして死ぬと分かっているところへ、送り返されなければいけないのだろうか。国や民族の紛争で犠牲になるのは、エラそうに高説を垂れている政治家や軍人ではない。いつだって子供や女性、立場の弱い人たちだ。
 アミーノから預けられたんだ、と真っ赤な目をした小木さんが一冊の本を手渡してくれた。それはソマリ語の辞書で、ぱらぱらとめくっているとところどころ、蛍光ペンでマーカーされている場所があった。それらをつなげあわせて、おれは泣いた。声を上げて、丸一日自分の部屋から出ずに泣きつづけた。
 涙でたわんだ紙の上の字は、こう言っていた。
「わたしは あなたと もっと一緒に いたかった」と。

 

 世界を救う、人を助ける。その言葉のありふれた響きと、実際の手順には大きな解離が存在する。UNHCRのフィールド担当となり、実際に難民を救うような仕事について、多くの人々を多少なりとも助けることができたと思っているが、暴力、宗教、貧困、民族問題というどうしようもなく大きくて強い波は、仲間たちが必死で築き上げた小さな『安全』をいつだっていとも簡単に押し流した。そしてそのたび死体の山が築かれ、無力感の中でうちひしがれる。落ち込んでいる暇なんてないぐらい、仕事は忙しいし課題は山積みだっていうのに。

「ケント―、電話終わったなら変わって」
「ごめんよジャン、どうぞ。…あれ、右腕どうしたの」
 いつのまにか考え込んでいた。後ろに並ぶ人に気付いて、電話の前から体をどける。国境なき医師団に所属しているフランス人医師のジャンが、おれと入れ違いに電話をかけようとして、肩をすくめる。
「シェゲにやられた。有り金とカメラと時計、全部だ。まあ命があっただけマシだよ」
 キンシャサはコンゴの中で比較的治安がいい方だが、それでも、先進国の都市部に比べると最悪だ。今年に入ってからは国営放送局が武装集団に襲撃されるなど、UNHCRのみならずJICAやMSFの懸命の活動も、なかなか実を結べずにいる。
「そりゃあその程度の怪我ですんでラッキーだったな。にしても、忙しそうだ。寝てるのか」
「いやあ~優秀な医師が少し前にひとり、国に帰っちゃってサ。優秀なだけじゃなくて、その人は僕にとってモチベーションのひとつだったから、結構参ってるね」
 ダメだ、つながらない。そういって公衆電話をぶっ叩き、ジャンが溜息をつく。シェゲ、というのはこの国のストレートチルドレンの一種で、集団でスリをしたり、強盗をしたりする連中のことだ。命の価値が極めて低いこの中央アフリカで、どうみても白人のジャンがその程度ですんだのは幸運だった。この国では、慈善活動に訪れた医師たちですら、わずかな金のために殺されるなんて日常茶飯事だから。
「ジャンがそこまで言うなんて。よほど美人なのかな」
「ああ。男なんだけどな。このキンシャサの青空よりも、僕の心をとらえて離さなかったね。まあでも帰って正解だよ。シリアがあれからどうなったか考えればさ」
「そうか、ジャンはここに来る前、中東にいたんだよな」
「なおしてもなおしても破壊される。腕の中でこと切れていく人の重みには…いつまでたっても慣れないな。おまけに離婚されそうなんだ、だからせめて電話だけでもと思ったんだけど」
 妻の、ブリジットの顔を思い浮かべた。赤毛の、気の強い、けれどうつくしい娘。大学院で難民学を学んでいる時に知り合い、彼女はそのまま研究者になり、おれは国連で働きはじめた。すれ違いながらも結婚し、子供を持つに至ることができたのは、ブリジットの深い愛情と、お互いの仕事に対する尊敬があってこそだ。あとあの形のいいおっぱいと少したるんできたお腹。最近めっきり触ってないけどあの柔らかさは一度揉むと三日分ぐらいの癒しになる。…ちょっと太ってるぐらいが抱き心地がよくて最高だね、なんて絶対言えないけど。
「今カミさんのこと考えてたろ。やれやれ。…あ、そういえばお前って日本のどこ出身だったっけ?」
「難しい質問だな」
 本部の中、ベンチに腰かけながらジャンを見上げる。疲れがたまっているのか、彼は目をしばたかせながら「ああ、そうか。親が検察官で転校ばっかだったって、言ってたな」と笑う。
「そうなんだよ。だからどこ出身か、っていわれると、生まれは千葉で、日本最後のふるさとは大阪だよ、って答えになるけど」
「そうだ、オーサカ!彼もそこ出身だといってたよ。ケントと同じだなと思って、覚えていたんだ。年もお前と同じだぞ」
「へえ。名前は?」
 大阪出身で、歳が同じだからといって知人の可能性は、限りなく低い。だが何か予感めいたものがあって、おれはジャンに軽い調子で名前を尋ねた。美人という言葉につられたわけでは決してない。断じて違う。
「アキ・ミシマ。知ってるか?」
 ってそんなわけないよな~この広い世界の中で。そういってジャンは笑ったが、おれは全く笑うことなんてできずに、息を吸い込むので精一杯だった。
「…写真とか、あるか」
「ああ、みんなで撮ったヤツなら」
「みせてくれ。…知人かもしれない」
「へえ、アキと?僕はアキって呼んでたんだけど、そのたびに彼がさ、微笑んで、まるで生まれたばかりの赤ちゃんみたいなきれいな眼で僕を見てくれるのが、すごくすきだったな。僕だけじゃなくて、みんなすきだった。アキが笑うとね、すごく…いいんだ。この世の地獄ばかりみてる僕らのね、心がぱっと明るくなる。真っ暗な部屋に、ろうそくが灯されたみたいにさ」
 携帯電話で撮ったらしい画像をみて、疑惑は確信に変わった。
 知ってる、よく知ってるとも。彼が笑うと、咲き誇る白百合が突然目の前にあらわれたみたいに華があって、みんなもつられて笑ってしまうんだ。滅多とみれない分、その威力は絶大だった。センセイも生徒も通りすがりの人も、みんな視線を奪われて微笑んでしまう。そんな光景を、隣で何度も目にした。大げさなたとえじゃなくて事実のひとつとして。
 画面の向こう、ジャンやほかのMSFメンバーと肩を組んで笑っている、黒髪の男。みるものを魅了しては手に入らない絶望のどん底に叩き落す、魔性のうつくしさは、かつておれが身も世もなく愛して、切望して、手に入らないから傷つけて捨てた、三嶋顕その人だった。

 

 

 はじめて会った日からずっと、三嶋を抱きたかった。
 いまやおれの身近な問題となった貧困や性暴力。それらの暗い色を薄い膜のように身にまとう彼をはじめて見た瞬間のことを、未だにはっきりと覚えている。最初に飛び込んできたのは、眼だ。長い睫毛に縁どられた、くっきりとした二重の、あの眼。
 ジャンが素晴らしいと褒めた三嶋の眼には、いつも暗い炎が燃えていた。それはおそらく怒りだった。自らの境遇に対する怒りと、恵まれていることに疑問も持たずにのうのうと暮らしている周囲(おれも含めて)に対する怒り。彼の眼は、白眼の部分が青みがかったようにすきとおっていて、眦の切れ上がった黒い瞳は艶めいていて大きく、あの眼にみつめられるたびに理性が剥がれて自分の欲望がむき出しになっていくことを、自覚せずにはいられなかった。あの濡れたように光る黒髪を撫でたかったし、取り澄ました横顔をむちゃくちゃにしてやりたかった。だから親切にした。いつもそばにいて、手が早いことで有名だったおれが、三年近くキスもせずにつくし続けた。それなのに。
 他の誰かのものになるなんて許せなかった。六人部なんて死んでしまえばいいと毎日思っていたし、まるで呪いのように、寝る前毎日祈ってすらいた。藁人形だって打ってやろうかと考えたぐらいだ。実家暮らしだったので実現できなくて、かわりに毎日枕を殴った。この枕が六人部ならいいのに、と思いながら拳で殴り、「これは昨日三嶋の肩に触れた分!」「これは一昨日三嶋の髪を撫でた分!」と理不尽に怒りをぶつけていた。枕にとってはいい迷惑だし、今思えばどうかしている。
 とにかく、触りたくてしかたなかった。
 あの芸術品みたいな頬に。やわらかそうな、ツンとした桜色の唇に。長くて爪のかたちまで完璧なあの指に。いつも寂しさをみせまいと虚勢をはっていたが、人の肌を覚えれば、三嶋は変わるという確信があった。ぬくもりというのは、知らないままでいれば欲しくならないのに、一度手に入れるとそれへの渇望から逃れられない。肉体を奪えば、いつか精神もついてくるだろうと思っていた。
 ところが三嶋を抱いたら分かってしまった。彼の心が絶対に手に入らないということが、焼印で心に記しをつけられたみたいに感じられてしまった。
 自らを殺してでも、三嶋の側にいようとした六人部。あの白い指先に肩を、髪を触れられて、誰よりも甘い声で呼びかけられながら、触ろうとしなかった六人部。
 わかっていた。六人部の視線の中に、おれと同じ欲望があったことを。あのとき三嶋の肌に触れて、誰も暴いたことのない深部に自分自身を埋め込みながら確信した。目の前で乱れる信じられないぐらい淫靡な痴態。体の芯がぞくぞくするような快感の中で、おれは「ああ、六人部には勝てない」と思った。愛して愛して、本当は殺してしまいたいぐらいに好きなくせに、六人部は三嶋に、想いを打ち明けることも、ふれることもしなかった。彼にだけ許されていた「愛する資格・愛される資格」の特権を放棄して、六人部はただ三嶋を見つめ、守り、側にいることを選んだ。勝てない。おれは、六人部に勝てない。
 それなら、おれは三嶋の身体のはじめてを全部、奪ってやる。お前が苦しみ、足踏みをしている間に、横から全部かっさらってやる。
 一番綺麗な三嶋を、まっさらな三嶋を、抱いて汚して消えてやろうと思った。
 たとえ、それによって一生、許されないとしても。

 

 

 どんなにうつくしい人も、年月が経てば曇っていく。特に、少年特有の危うい美しさなんて、20代を過ぎればうたかたの夢だろう。
 そんな考えが打ち砕かれたのは、日本に帰国してすぐの、寒い日のことだ。3月に入っても冷え込む日が続いていて、買ったばかりのトレンチコートだけでは寒い。首にひっかけたマフラーをぐるりと巻いて、山手線のホームに立っていた。
 東京に赴任することが決まり、久しぶりに日本語しか聞こえない電車に乗った。乾いた砂埃や、生きること、生かすことに必死だった毎日が、あっという間に遠のいていく。日本は平和だった。強盗も殺人もレイプも、銃弾の雨もない。生きるか死ぬかの恐怖心や孤独がない。その代わりに、くすんだ空には星が数えるほどしか見つけられない。
 難民の食糧問題や健康問題に頭を悩ませなくていい、生命の危機に瀕していない状況、それなのにおれは毎日、空虚だった。呼び寄せるはずだった家族は、妻の母親が病気になり介護を必要とすることになった為、見通しがつかなくなっていた。
 世界一可愛い天使アレックスと会えないことが、この虚脱感の理由だと思おうとしたが、違うことは分かっていた。せっかく平和で、ご飯が美味しい母国に帰ってきたというのに、おれはもうフィールドに戻りたくなっていた。あの殺伐とした、乾いて、わけのわからないエネルギーに包まれた大地が恋しかった。
 手のひらには、電話で「行く」と返事をしたまま放置していた、同窓会のハガキがあった。もう出さなければ、と思うのに、同級生たちに会う事は、ひどく億劫だった。
 三嶋は、来るのだろうか。――…きっと、来ないだろう。
 自分がひどく彼を傷つけたことを分かっていた。そうすることで、自分の三年間を意味のあるものにしたかった。できると思った。手ひどい傷なら、治った後も傷跡として一緒に生きることができるだろうと。
 おれは心の最も深い場所に、いちばん美しい彼を抱いたという優越感を、愛おしさだけを抱きしめて、何年も生きていた。ブリジットに出会うまで、他の誰かを愛せる日が来るなんて、思いもしなかったのだ。宝物のアレックスが生まれて、ようやく、この世の中に自分の場所が出来たのだと感じた。
 揺れる電車が、到着駅を告げてからゆっくり止まる。休日の昼下がり、たくさんの人がホームへ流れていく。その中で、人目を引く、すらりと長身の人物がこちらを振り返り、一瞬目が合った。
 毛先のはねた艶のある黒髪、なめらかな白い肌、整い切った美しい顔立ち。
「み、しま…」
 見間違えようもなく、三嶋顕だった。
 彼はその美しさを劣化させるどころかより一層成熟させたていた。青年期のような硬質であやうい色気ではなく、にじみ出るような、余裕のある色気だった。
 視線が合った瞬間、わずかに目を瞠った。
 時間にすれば1秒もなかったであろう視線の交差だったが、三嶋は確かにおれを認識した。

『しらいし?』

 きっと許されない。憎まれてすらいるだろう、そう思っていたのに。
 おれの考えが見当外れだったということが、その瞬間はっきりと分かった。
 声には出さずにおれを呼んだ後で、彼は、ゆるりと微笑んでみせたのだ。

 立ち上がろうとして、目の前でドアが閉まる。驚きのあまり、うまく声も出なかった。
 おれの知っている三嶋顕は、もっと眼の中に、暗い炎を飼っていたはずだ。愛されることを信じられず、周りの人を憎んで、それゆえに張り詰めた危うい魅力があった。それが。
「うそだろ…」
 別人のようだった。
 さきほど見た彼は、三嶋の特徴だった、ひとみのなかの荒廃がなかった。誰しも魅入られてしまう黒い眼の引力は、あの荒廃が、絶望が理由だったはずなのに、それらはほとんど見当たらなくなっていた。
「いちばんきれいな三嶋を抱いたなんて、思い上がりだったのか」
――愛する人に愛されたとき。
 三嶋の眼の中の、暗い炎は消えてしまった。いつかそんな日が来たら、きっと魅力が半減するだろうと思っていたのに。年をとってしまえば、あんな鋭利な美しさなんて損なわれるだろうと願っていた、のに。
「恋する瞳はうつくしい、ってか。畜生、結局のところおれは六人部に負けた!」
 電車が目的地について、おれは渋々腰を上げた。断ろうかと思っていた同窓会のハガキを、駅を出てすぐのポストに突っ込む。「ご出席」という字の「ご」を二重線で消して「出席」に〇をつけるという、実に日本人らしい一連の作業を終えたハガキが、真っ赤なポストの中で音もなく積もる。
 世界の果てまでいって帰ってきて、ようやく分かった。サバンナの夕焼けがいつみても美しいように、この世には変わらぬ美しさというものが存在するのだと。三嶋の眼のとめどない黒が、年月の経過など超えて、郷愁に近い気持ちすら湧き起こさせてくれた。
 立ちそびえるビルのせいでコンゴよりも狭い空、コーヒーやタバコの匂い、聞こえてくる日本語の退屈なほど平和な会話。ようやくおれは祖国を懐かしく、愛おしく思いはじめた。

 背伸びをして、街へと歩き出す。錆びた緑色の歩道橋をわたっていると、三嶋としたキスを思い出した。車が走り抜けていく音と、3月の東京の風のにおいに、思わず立ち止まって空を眺めた。
 歩道橋の先へ視線を移せば、高校生の三嶋が振り返り、50センチ先まで寄ってくる。
―――…錯覚だ。記憶がまぼろしを作り出している。
 分かっていながら、手を伸ばす。

『キスしよ、白石。それであきらめて友達になってくれ』

 キスをしたあと、興奮と欲情で死にそうになっていたおれと対照的に、三嶋は苦しそうな顔をしていた。気持ちにこたえられないという罪悪感がありありとあらわれたいたけれど、それすらも平気で利用した。おれだけが苦しいのはまっぴらだった。本当にバカだ。苦しみと性欲の上に成り立つレンアイなんか、うまくいくわけがないのに。
 のばした腕は空を切る。16年前には戻れないが、三嶋は立派な医者になって人を救い、おれは国連職員になって世界を、ほんのすこしだけ変えているつもりだ。

 どんなに頑張っても、もうアミーノの笑顔をみることはできない。
 けれど、祖国へと返っていく難民たちの、希望に満ちた笑顔ならみることができる。

「あのときは、死んでもなってたまるか、って思ったけど…」

 今なら三嶋に、「友達になろう」と笑顔で言える気がした。