(番外編)ラーメン食べたい

※幼馴染の女性、市岡からみた、アキと祥一の話。セフレに成り下がってしまった祥一の悩みをきいてあげたり、六人部とアキのことを思いだしたりする話です。女性が出てくる話が無理な方は読まないでください。

「摂に会いたい」
 アキちゃんがまだ研修医だったころ、いちどだけそう言って私を困らせた事がある。
「会いたい」
 何があったのかは分からない。ものすごく落ちこんでいて辛そうで、よほどのことだったんだろうなとは思うけど、私が追及しようとしてもアキちゃんはあの綺麗な眼を涙でゆらゆらさせるだけだった。そんな顔されたらこっちが泣きたくなる。
「六人部くんはもうおらん」
 おらへんねんから。
 わたしの呟きに、アキちゃんが俯く。ああ、下なんか向いたらその必死でこらえている涙が落ちて、また誰かが恋に落ちてしまう。カウンターの向こうで見入っているマスターも、隣の席で溜息をつきながら見惚れているOLも、彼女連れなのにこっちを見たまま固まっている大学生も、いろんな人を叶わぬ恋のどん底に突き落としてしまうから絶対ダメだってば。
「ほかのことならわたし、頑張るけど。その願いごとだけは叶えてあげられへんよ」
 先に社会人になっていたわたし。はじめて男性にごちそうするなら絶対にアキちゃんと決めていた。大阪でも三本の指に入るという素敵なオーセンティックバー。アレキサンダー・ワンのワンピースを着て、ドリスヴァンノッテンのシャツとジャケットを完璧に着こなしているアキちゃんと二人でカウンターに座っていると、自分の階層が何段か上に引き上げられたような気がした。それなのに、願いがかなってうれしいはずなのに、こんな顔をするなんてひどい。哀しくて仕方なくなってしまうからどうかやめてほしい。
「ほかのこと…」
「うん。何かない?アキちゃんもうすぐ、誕生日やから」
 オーダーメイドの革靴でも、フルオーダーのスーツでも、ハイブランドのバッグでもなんでもいい。なんでも買ってあげるから、笑ってほしい。わらってほしいのに、アキちゃんの前でそんなもの全部無意味だってことを、わたしは知っている。
 顔を上げた彼の眼にはもう涙なんて跡形もなかった。店を見回して、少し窮屈そうに溜息をついたあと、わたしの耳元で囁く。
「じゃあおれ、ラーメン食べたい」

 映画を観るといつも思い出すのが、過去の恋人に言われた衝撃的なセリフである。
「侑季って、趣味わるいね」
 北欧を舞台にした、三部作のサスペンス・スリラーを観終わったとき、「あー面白かった」と呟いたわたしにその男はそう言ったのだ。
「残酷な描写がある映画って、おれ、苦手。強姦とか殺人とか……どうしてそんなに面白そうにみれるの?どうかしてるんじゃないの、女の子だとおもえない」
 確かにその映画は割と過激で、強姦された女性が過激に復讐したり、人がバンバンごろごろ死んだり、設定自体がとても暗かったりしたけれど、私はすごく面白いと思ったし、心外以外の何物でもなかった。映画なのに。作り物だから楽しんでみていたのに。
 もちろん現実世界の辛いことや残酷なことはわたしだって嫌いだ。戦争も殺人も強姦も、絶対許しちゃいけない犯罪だしそれを面白がるような人間ではない。でも観ているのは映画なのだ。物語の中に必要な要素として組み込まれていたそれらに対して、本人が苦手だというだけならまだしも、「あんなものが好きなお前はどうかしている」とまで言われてニコニコしていることはできなかった。要するに、大ゲンカのはじまりである。きっかけは映画だったけれどもそこからさまざまなことに波及し、相手の男の我慢ならないところを盛大にディスってしまい恋愛関係は終局を迎えることとなった。あまり思い出したくはないし、思い出すとさすがに言い過ぎたなあと反省しているんだけど、内容はだいたいこんな感じだった。「いちいち細かいんだよ!根暗の神経質!!」とか「20過ぎて毎日母親に電話してんじゃねえよ、マザコンクソ野郎!!」とか。うん、やっぱりすごく言い過ぎてしまったと思う、いくらなんでも。
 普段は温厚なわたしだが、一度火がついてしまうと止められないことが数年に一回ほどある。そのときはまさに数年置きの大爆発だった。たまりにたまった鬱憤が、映画の好みにかこつけた人格否定で大爆発したというわけだ。そしてわたしは決意した。もう絶対、二度と、男性と映画なんか一緒にみない。わたしなんかを否定するための材料にされるなんて映画が気の毒すぎるし、(ああ、面白いのかな、どうかな、ねえねえ大丈夫?)って隣をチラチラ確認しながら観るなんて気が狂ってしまう。絶対にいやだ。

「どうだった?」
 無意識に感想を求めると、静かな声が返ってきた。
「面白かったですね」
 気が狂うかと思ったけど狂わなかった。
 星野祥一はしつけの行き届いた犬みたいに静かで、もしかすると気配も消していたのかもしれない。男性と映画をみたのは学生時代以来だ。つまり、大学時代に大ゲンカして家の中のものを盛大にぶつけ合い、その後共通の友人に悪口をいいふらされ気まずい思いをするという後濁しまくりの恋愛、以来である。
「そうだね。オチが良かった」
「苦いエンディングが好きなんですか」
「現実は大体苦いからね」
 でも、だからこそたまに甘いものが欲しくなるのも事実だ。全く救いのない、悲しみだけの物語は辛い。ハッピーエンドである必要はないけれど、どこかしらに救われるところが欲しいと思う。
 今日はレイトショーではなく、日曜の昼間だ。成一くんに言われたからじゃないけど、ちょっと様子が気になったのでLINEで「ごはん食べてる?」って送ったらすぐ返信が入ってきて会うことになった。内容はこんな感じだったので、ひとことでいうとげんなりした。成一くんの苦労がしのばれるというものだ。

『市岡さん、こんにちは。
 ごはんは食べているんですが味がよく分かりません。
 寝ても覚めても三嶋先生のことを考えてしまいます。どうしてあんなことしてしまったのか…時間を巻き戻せるなら巻き戻したいです。多分同じことをすると思いますけど。
 毎日とても辛いんですけど恋愛ってこういう感じなんですか?
 考えてみたらまともに人を好きになったことがなかった気がします。
 過去自分を好きだといってくれた女性も同じ気持ちだったなら、ひどいことをしました。それを考えるとまた落ち込んできます』

 分かりやすいようにアンダーラインを引いたのはわたしの独断だ。目を疑った。思わず声に出す。
「…結局同じことするんかい!」
 画面に向かって突っ込んだ。まあでもこの正直さは彼の好ましいところでもあるので(ウザいところでもあるけど)、「気分転換でもすればいいんじゃない?映画観るとか。いまから〇〇をみるけど来る?」と誘ってみたら、本当に彼は東京まではるばる出てきたのだ。神奈川と東京は近いといっても由記市からだと一時間もかかるのに。せっせと電車を乗り継いで、寒い中鼻を赤くして星野祥一はわたしの前に立った。冷たい風、急ぎ足で歩く渋谷のひとごみ。円山町にある単館映画館にいくことを簡単に説明して、私達は前後に並んで歩いた。隣を歩くのは何か違う気がしたし、映画の時間は決まっていたので私は急いでいたのだ。星野祥一は無言のまま、二歩ほど後ろをついてきた。東急本店とドンキホーテの間を抜けて、郵便局の前を曲がれば目的地はすぐだ。
 通り過ぎるカップルの女性や、二人連れの女の子が星野祥一を見ているのがわかる。アキちゃんに向けられる「すごく素敵だけど、私には無理だろうなあ」という距離のある憧れの視線ではなく、「あら、いい男」「良いセックスしそう」という直接的で欲望的な視線が彼に注がれている。つまり、アキちゃんと違って「手が届くかもしれないイケメン」、それが星野祥一なのだろう。
 自分から言いだしたことなのに、歩きながら後悔していた。楽しみにしていた映画に、誰かを誘うなんて失敗だった。あーあ。
 けれど結果的に悪くなかった。星野祥一は「待て」をされた軍用犬みたいに静かでお行儀がよくて、わたしの映画鑑賞の邪魔には全くならなかった。それどころか、ひとりでみるより少し楽しかった気がした。
 彼は置物のように静かだけど置物ではなく気配があった。
 熱くて柔らかい生き物の気配が。

 映画が終わった時間はまだ早くて、わたしと星野祥一は渋谷から埼京線で赤羽に出て、昼間から飲める店に入り、まだ明るいうちからビールとハイボールを飲んだ。12時には満席になってしまうこともあるという居酒屋は、わたしたちが入るといっぱいになり、休日の昼間だなんて信じられないぐらい、周囲はすでに酒が回っていて大変ごきげんだ。
 会議室に置いてあるような長テーブルにパイプ椅子、というオシャレさとは無縁の空間で、わたしはうなぎ串を貪りながらビール大ジョッキをぱかぱか飲んだ。星野祥一も剛の者である上体育会系が染みついており、わたしがおかわりを頼む前にすでに注文が終わっていたり、絶妙なタイミングで肴が運ばれて来たりする。彼がチョイスする食べ物はどれも美味しくて「そう、いまこれが食べたかったのよ!」と大声で叫んで頭を撫でまわしたくなるぐらいだった。どこからみても気が利くようなタイプにはみえないのに、こういうギャップがまた女心をくすぐるのだろうか…わたしは絶対にひっかからないけどね!
「祥一くん、なんで来たの?」
「えっ。呼ばれたから来たのだと思っていましたが」
 ショックを受けたような顔で言うので、わたしはゲラゲラ笑った。
「そういえばそうだった。いや、なんか落ち込んでるって成一くんからきいたから。ねえねえ、成一くんってほん…っとーに良い子だね。品があってやさしくて気が利いて、良い子というのはこういう子のことをいうんだなあ…って感心しちゃった.。で、まだ落ち込んでるの?」
「落ち込んでいるというか…自分に嫌気はさしています」
「なんで?身体とか使わずに愛したいし愛されたいとか思ってるのにいつも我慢できずに犯しちゃうから?」
「お、おか…。せめて、抱いてしまうとかそういう言い方してもらえませんか」
「一緒のことじゃん。まあ気持ち分かるけどね。アキちゃんが誘惑してきたら、断れないよ。よほど鋼の精神を持ってないと…」
 そこまでいいかけて、はっとした。六人部くんが思い浮かんできたのだ。彼は、いちばん身近で、しかもアキちゃんの剥きだしの愛情と健気な視線を向けられ続けてなお、不埒なことをしなかったのだ。
 愛してはいたと思う。
 それが家族愛なのか友愛なのかは分からないけれど、レンアイ感情ではないだろう、とわたしは決めつけていた。レンアイ感情を持っていたら、絶対にあんなふうに距離をもった付き合い方なんて出来ない。きっとすぐに押し倒して、星野祥一のように犯しまくってしまうだろう。
 だからこそ、レンアイ感情を持っていたとしたら…驚きを禁じ得ない。
 それこそ、精神が肉体を凌駕している。
「でも、六人部隊長はこれまでずっと、そうしなかったんですよね」
 わたしの思考を読んだようなことを、星野祥一が言って溜息をついた。
「好きだったはずなのに」

 星野祥一の言葉で思い出したことがある。
 高校のとき、雨がふるたびに下足室で六人部くんがアキちゃんを待っていた。どうやらそれは何回言っても傘を持たない彼を家まで送り届けるためだったらしい。今になっておもえば、絶対「わざと」だった。アキちゃんは六人部くんの傘にいれてほしいから、わざと傘をもってこなかったんだろう。彼には昔からそういうところがある。ほんとうは一度言われれば大体のことは覚えられるし理解できるのに、わざと忘れたふりをしたり、困らせたりして相手の反応を確かめているのだ。『こんなことをしても、嫌いにならない?』『おれのことたすけてくれる?』ってこどものアキちゃんが上目使いにこちらを窺っているようで、いつも胸が苦しくなってしまう。当時のわたしには分からなかったけど、それは愛情を確認する作業だった。過去に戻れるなら、大丈夫だよ、そんなことしなくてもだいすきだよって何回でも言ってあげたい。
 大きな水色の傘を片手に、下足室の入口で空を見上げていた六人部くんは、いつも声をかけられるより先にアキちゃんに気付いた。そして当たり前のように傘を広げ、自分はずぶ濡れになるのも厭わず、アキちゃんを雨から守った。賢いアキちゃんだってそれに気付いていたから、時々傘を奪ってさしかえす。後ろから歩いて追いかけていたわたしと健斗くんは、何度もその風景をみかけた。雨に濡れて色がかわっていく六人部くんのブレザーと艶を増すアキちゃんの横顔、ほとんど言葉を交わさないのに傘を奪うときだけ目が合うふたり。
 いつも、そんな光景を切なくなりながら眺めていたけれど、六人部くんは…。
 静かで無口な六人部くん。
 アキちゃんと並んで帰るとき、いつも車道側を歩いていた。周囲に気を配りながら、言葉少なくアキちゃんの言葉に相槌をうち、微笑みを返して。変質者や、ぶしつけな視線を投げてくる他人を近づけないように気を付けていた。
 六人部くんは、わたしやケントくんのように、声に出して「好きだ」とは言わなかった。かわりに、行動で示していた。どんなときだってアキちゃんを最優先にしていた。何度か彼等の距離が開いたことはあったけれど(六人部くんに彼女ができたとき、アキちゃんが遠慮して登下校を共にしなくなった)、いつの間にかアキちゃんは六人部くんの傘の中へ戻っていた。中学の頃と違って、さすがに毎日一緒にいるということはなくなって、だからこそ雨の日、六人部くんが下足室でアキちゃんを待っている姿は特別だったし、駆け寄るアキちゃんの横顔は世界中の誰よりも健気で可愛かった。
 彼女ができたから。幼馴染だからといって毎日一緒にいるのはおかしいから。他に友達を作らなければいけないから、部活をしなければいけないから。
 そうやって、周りが理由をつけて奪っていった彼等ふたりだけの時間。わたしも奪ったうちのひとりだけど…、どんなに笑わせても側にいても、六人部くんと一緒にいるときのアキちゃんの笑顔には、結局、誰も勝つことができなかった。

 お酒を飲むと少し体を動かしたくなったので、バッティングセンターに行くことにした。新宿にあるその場所へは、仕事でむしゃくしゃしたときに足を運んでハイヒールを履いたままフルスイングしている。正直運動神経はあまりいい方ではないので、ほとんど球が前に飛ぶことは無いんだけど。
「なにか話したいなら話してもいいよ。バッターボックスの外できいてるから」
 ここに誘ったとき、星野祥一は少し考えるような顔をして、右ひじをさすった。怪我でもしてるの、と尋ねると、いえ、大丈夫ですと短く答えた。
「昔、肘をやっているので無意識に触ってしまうんです。今は異常ありません」
「本当に?仕事に障ったらいけないし、無理はダメだよ」
「久しぶりに、振りたいですし」
 球数と速度を選んでボックスに入る。星野祥一から打つことになったので、私はフェンスの後ろで声をかけた。彼はゆっくりと足元をならし、バットを掴んで打席に立ち、LED右投げ投手を睨みつけた。構えはなかなか様になっていて、さすが運動神経の良さそうな人はちがうな、と感心する。
 一球目、90キロのストレート。様子を窺いながら振っていたせいか、空振りした。
「前にさ、いろいろ知りたいことはあるけど、聞けないって言ってたじゃん」
 わたしの問いかけに、星野祥一が「はい」と返事をする。
「逃げられそうだから何も聞けないって。あれ、嘘だよね」
 二球目、100キロの変化球。バットにはあたったものの、センターゴロ程度かな、という感じ。
 彼は何もいわずに電光掲示板のピッチャーを睨みつけている。
「本当はさ、アキちゃんの事を知るのが怖いんじゃないの」
 三球目、バットを持ち直し、フルスイング。――120キロのストレートはバットの芯にあたった小気味のいい音を立てて飛んでいく。
 ホームラン。
「薄々感じてるんでしょ、アキちゃんが一筋縄じゃいかないって。色々なものを背負ってるって。だけどそれを知って、一緒に背負ったりずっと守ったりすることが怖いんだ。自分には荷が重いって思ってる。結婚や出世や世間体も捨てきれずにいる。死にたいほど嫌なのは、そういう自分に気付いたから。…違う?」
 振り返った彼に、わたしはどう映っているだろう。強張った顔をしているだろうか。それとも怒った顔だろうか。
 わたしに彼を責める権利なんてない。だってアキちゃんはわたしのものじゃないし。彼氏でもなければ家族でもない。でもこんなことを言ってしまうのは、きっと同じ人を好きだからだろう。もう私はアキちゃんを追いかけないし好きだと言わない。だからといって、気持ちは消えてくれない。同じ人を好きな星野祥一を見て、自分をみているようでイライラしてしまう。何か言いたくなってしまう。余計なお世話だと分かっているのに。
「セックスするだけなら気が楽だよね。あんなにきれいで、色気のカタマリみたいにエロくて、なのに何も押し付けてこない。カラダ以外を求めたりしなければ、全部受け入れてくれる」
 不意に同窓会のことを思い出した。アキちゃんと六人部くんを誘おう、と決めてから、まだ口に出すことすらできずにいるあの集い。余計なお世話かもしれない、とか、きっと断られるに決まってる、とか言い訳をつけているけど、わたしだって星野祥一と同じなのだ。

 交代、といってボックスの中に入った私の後ろから、低い小さい声が聞こえた。
「…全部お見通しなんですね」
 ばかじゃないの。
 でもわたしは今星野祥一をぎゅっと抱きしめてあげたい。バッターボックスで忙しいからそんなことできないけど、心の中では全力でハグしている。自分で痛めつけておいて、酷い話だけど気持ちが分かってしまう。好きなんだ、愛してるんだ。でも怖い。アキちゃんの抱えている深くて暗くて得体のしれない空洞が恐ろしい。つきあいの長い私ですら知らない、物を落としても落下音すら聞こえなさそうな深い深い穴。全部教えてほしいって言って踏み込めるほどの若さも、厚かましさも、勇気もない。それなのに惹かれてしまう、触れるものなら触りたい。
 私達はずるくて汚いのにアキちゃんは受け入れてくれて、笑ってくれる。返してはくれないけど許してくれる。

 だからこそ、私達はどんどん自分を嫌いになる。

「その程度で死にたいとか落ち込むとか、10年早いよ。そんなの愛でも恋でもない、ただの欲。動物の性欲とおんなじ。レンアイの美味しいところだけ食べたいだけじゃん。もっとなりふり構わずぶつかってから死になよ。骨やったら拾ってあげるわ、骨になるまで頑張ったらな」
 90キロのストレートがバットに当たった。ヒット。久しぶりに空振り以外を経験できて、思わずわたしは飛び上がる。
「レンアイでもなんでもなァ、やるんやったら全力でやらんかい。やらへんねやったらもう一生諦めてまえ!ほんましょうもないやっちゃで、腰と下のバットばっかり振り回しくさって。もっとできることあるやろ、アホか。そもそもアンタなあ、アキちゃんの好きな食べ物知ってんのんか。好きな色は?好きな花は?何もしらんやろ!ようそれで好きやなんやて言えたもんや、ちゃんちゃらおかしいわ。おかしすぎてもう腹よじれるわ!」
 突然大声を上げたわたしに星野祥一が目を白黒させている。
 ざまーみろ。
 男に生まれたくせに。わたしのようにハナから切り捨てられて、相手にしてもらえない女とは違うくせに。ちゃんと知ろうともしないでよくも好きだなんていえたものだ。
「女の人がそんな下品なことば、」
 窘めようとしたのか、星野祥一が的外れな言葉をわたしになげかける。あまりにオロオロしたその様子がおかしくて、私は文字通り声を上げて笑った。
「あんたがいまいち好きになれませんでしたァーとかふざけたこと抜かしとった過去の女も、ちょっとでも気に入られようとせっせせっせと化粧してご飯作って可愛い顔して、好きなものやら知ろうとして頑張ってたんやで?記号みたいに「モトカノA」「モトカノB」って認識しかないんやろうけど。どうせ今と一緒で相手のことなんか知ろうともせんかったんやろ」
 言いながら、すべての言葉がブーメランのごとく返ってきて自分に突き刺さる。無防備に手を広げてナイフ投げの的になってるみたいに、どんどん刺さって血まみれだ。上辺だけみてドキドキして、上澄みだけほしくて手を伸ばして、底にある本質を避けて甘い汁だけ吸おうとする。そんなドクズはわたしです。ここにいます、星野祥一だけが悪いのではありません。アキちゃんとセックスしたことは心底妬ましいし追いこせない壁だけど、彼の「好き」はわたしの「好き」と非常によく似ている。きれいでエロくて頭がよくて、一緒にいると押し倒したくなるアキちゃん。それは彼の表層であって深層ではない。深層に立ち入らないのは彼に嫌がられるから、ではなくそこに踏み込む勇気がないだけだ。それだけなのだ。

 一度だけ、アキちゃんとセックスしようとして、失敗したことがある。
 そのことを思い出すとまだ辛くて、消えてしまいたくなるけれど。
 高校生のとき告白して、軽く触れるようなキスを自分から、した。拒絶はされなかったけれど、抱きしめてもくれなかったし表情はこわばっていた。それから「他に好きな人がおるから、ごめん」と断られたのは大学に入ってからのことだった。場所は確か自分の部屋だ。答えは想像していたから平気だったけれど、「じゃあ一回だけ、して」と食い下がってアキちゃんの腕を引っ張り、ベッドでわたしが下になりアキちゃんが押し倒すような状態で懇願した。ここまですれば情けをかけて抱いてくれるだろう、わたしはそれなりに可愛いしスタイルだって悪くない。そう思っていたミジンコみたいな自信はまもなく打ち砕かれる。上になったアキちゃんは、ひどく狼狽してその場から逃れようとした。それでも強く抱きしめて離さずにいると、今にも泣き出しそうな顔をしたのだ。抱かれようとしているのはわたしのはずなのに、なぜかアキちゃんが無理やり抱かれそうになった生娘みたいに、真っ青になって震えはじめた。さすがに手を離すと、何度も何度も謝られた。その声で自分が少しずつ削れていくような気がした。

 ゴメンイチオカ。
 ゴメン。オマエハナニモワルクナイ。オレガオカシイネン
 オレガ オンナノヒト ムリヤカラ。

――女の人無理やから、という言葉よりも。
 私はその表情に深く傷ついた。嫌いだと言われるよりも辛かった。
 それから長い間、わたしは全部「自分の性別のせい」にしてきたかもしれない。受け入れてくれないことを、女に生まれたからだと思っていた。そしてそんな風に思わせたアキちゃんを内心憎んだ。そう、ろくに相手の事を知ろうともしないで、全部相手のせいにした。
 今そのことに、星野祥一を通じて気づいてしまった。だから言葉が剃刀みたいに返ってくるのだ。全部刺さる。よけられない。
「わかったか!?今度またしょうもないことグチグチ言うたらケツにバット突っ込んだるからな」
 バットを星野祥一に向けて叫ぶ。激励だ。星野祥一に、ではなく、自分自身にも。
 わたしみたいに間違わないで。
 ちゃんと相手に手を伸ばして、話をきいて、知ろうとして。
 この想いが届けばいいんだけど…と心配していると、目を瞠っていた星野祥一がニカッと笑った。普段の強面がうそのように、いたずら好きでやんちゃな高校生みたいな顔でわらったのだ。
「市岡さんは、おもしろい。女の人といてこんなに楽しいと思ったのははじめてです」
 交代してください。そう言ってバッターボックスを追い出される。怒られすぎて頭でもおかしくなっただろうか、今度は私が目を白黒させる番だった。
「は、はあ…?」
「そんな振り方では、球が芯にあたりませんよ。こうするんです」
 飛び出した120キロのストレートを、星野祥一がフルスイングする。
 またしてもホームラン。
 勢いよく飛んでからネットにぶつかって落ちる野球ボールを眺めながら、私はいつの間にか笑っていた。
「どいて!次こそ当てるから」
 腕を引っ張ってバッターボックスからどかせる。ノースフェイスのダウン越しにも伝わってくる熱い温度に、どういうわけか身がすくんでしまう。
 黙々とバットを振り続けた。決まった球数が終わっても何度か延長して、星野祥一はヒットとホームランを、私は三振を順調に積み重ねた。
 絶対明日は筋肉痛になるだろうな、むしろ明日来なかったらどうしよう。
 不安になったのは一瞬で、久しぶりに心の底から笑って、スッキリしていた。

「ちょっと電話してくる」
 バッティングセンターから出て、電話をかけた。発信先は、誰にも捕まえることのできない、わたしの大好きな人。6コール鳴らしても出ないので、切ろうとしたところで眠そうな声が「もしもし」とかえってきた。
「アキちゃん、高校の同窓会いかへん?六人部くんも誘って。結構先、3月やけど」
 詳しい日程や場所を伝えて、返ってきたのは沈黙。きっとどう断ろうか、悩んでいるんだろう。
 寒空の下、目の前にある中華料理屋の匂いに鼻をうごかしながら足踏みをする。餃子食べたいなあ、アキちゃんと。鉄なべにぎっしりまるく詰まった、まだ油がはねてるぐらい熱いヤツに、酢醤油ぶっかけておなか一杯食べたい。祥一くんが拗ねるから一応声をかけて、…うん、六人部くんも呼んでみようか。ビールがあれば、年を重ねたせいで重くなってしまったわたしたちの唇も、少しは滑らかになるかもしれない。
『……市岡がそんなん誘ってくるん、めずらしい。何か、理由があるんやろ?』
 さすがアキちゃんは賢い。耳と肩に携帯電話を挟んで、近くにあった自動販売機でホットコーヒーを買った。あっというまに冷えてしまった指が、じんとあたたかくなっていく。
「ケントくんが来るねん。夢叶えて、世界を救うヒーロー…の末席ぐらいには座ってるよ。腹立つから、一緒に殴りにいこうや。わたしが右頬、アキちゃんが左頬」
 わずかに笑った気配がして、わたしも微笑む。
『そうやな。そしたら行こかな。あいつ、おれの一番大切なものを盗んでいったからな』
「なにそれめっちゃ気になるねんけど!アキちゃんの心やないよな?!」
 タバコを吸っているらしく、煙を吐く音がきこえる。
『秘密。摂にも、おれからゆうてみる』
「うん。あ、アキちゃん!」
 好きだっていって追い掛け回したくせに、ろくに知ろうとしなくてごめん。知るのを怖がってごめん。それなのに「傷ついた」って被害者面しようとして本当ごめん。女だから受け入れてもらえなかった、なんて、自分を慰めようとしていただけだ。その理由を知ろうともしないで、責めて、押し付けて、ごめんなさい。家庭がとても大変だったことを、知っているはずだったのに。女の人が怖くなるなんて、よっぽどの事があったに決まっている。
 アキちゃんは何も悪くない。
 何も悪いことしてないのに、長い間あなたのせいにして、ごめんね。
 心の中で謝ってから、わたしは続けた。
「今度、わたしとアキちゃんと、六人部くんと祥一くんで、餃子たべにいこ?」
『なんで餃子限定なん』
「ビール飲んでクダをまきたいねん」
『なんやそら。まあ、翌日休みの日やったらええよ』
 アキちゃんの声が笑っているから、わたしもうん、と何度も頷きながら笑ってしまう。
 電話が切れてすぐ、くしゃみが出た。いつの間にか隣に立っていた星野祥一が、自分がまいていたマフラーをそっと、わたしの首にかける。肌触りのいい、カシミアの白いマフラー。きっとこれは彼の趣味ではないだろうから、モトカノAもしくはBのプレゼントだろう。全くこの男は本当に分かっていない。わたしだからいいようなものの、これを別の女にやったらちょっとした修羅場である。誰にもらったのよ?こんなマフラー、祥一の趣味じゃないじゃないでしょ?!いや、これは昔、付き合っていた女性に。そんなものまだ使ってるの、馬鹿じゃないの?こんなもの、こうしてこうして、こうしてやる!
 頭の中で引き裂かれた白いマフラーを想像すると、笑い声が漏れた。
「なんつって…フフ」
「なんですか、ニヤニヤして」
「なんでもない。餃子、楽しみだなー。いつにしようかな」
「今月なら来週の金曜が空いています」
「…なんで来る気満々なの。まだ誘うとは決めてないわよ」
「そんないじわる言わないでください…」
 街の中へ、星野祥一を置いて歩き出す。慌てて追ってくる足音を聞きながら、わたしは思った。
「ラーメン食べたい」
 あつあつの。涙と鼻水がでるぐらいの。
 アキちゃんがあのときラーメンを食べたい、と言った理由も、きっと今のわたしと同じだ。
 あの食物は非常に熱い。だから涙が出ても鼻水が出ても、全部ラーメンのせいにできる。会いたくて切ないのも会えなくて哀しいのも想いが届かなくて辛いのも、全部ラーメンのせいなのだ。
 あの日、アキちゃんは敷居の高いバーなんかでしずしずと酒を飲むよりも、ただ泣きたかったのだ。ラーメンをズルズル啜り、鼻水を垂らし、みっともなく涙を流したかったに違いない。どんなに美しい人だって、人生に一度ぐらいはラーメン食べながら号泣したい日もある。目を真っ赤にして、頬を紅潮させて…ああアキちゃん、あなたならきっとそんな顔だってかがやいているのでしょうね。行けばよかった。行ってそんなアキちゃんの写真を嫌がられるぐらい何枚も撮ればよかった。
「あんなに食べたのに、まだ入るんですか」
 星野祥一の呆れ顔がたのしい。わたしは神妙な顔をして頷いてから言った。
「いますぐに、涙が出るぐらいあつあつの、ラーメン食べたい」