31 ピース オブ ケイク (人生なんか朝飯前!!) (完)

 勤務が終わり更衣室へ行く途中、部長の井之頭に声をかけられた。患者家族の説明用に使われている面談室で上司と向かい合いながら、アキは顔に出さずに身構える。
「退職届はもういいのか。まあ、出すといわれても受理しないが」
 相変わらず率直だな、と思いながら頭をかく。理系の人間は婉曲的な物言いを嫌うことが多いが、その点はアキも当てはまっているので異論はなかった。時間は限られているし、話は短いほうが効率的だ。
「あの件は取り消します。お騒がせして申し訳ありませんでした」
 立ち上がって頭を下げる。
「顔を上げてくれ。それに立っていられると話ができない。…そうか。良かった」
 微笑みと呼んでもいいのか迷うぐらいわずかに、井之頭が頬をゆるめた。乾が「笑わないじゃがいも」と言ってはばからない部長のめずらしい笑みに、つられてアキも微笑んだ。
「理由の説明は必要ですか」
「あのくだらないうわさが関係あるのかね。君が人殺しだとかいう」
 瞬きをする。大柄な井之頭がさっと足を組む。
「部長も…知っていらしたんですね」
「どうでもいい話だ。君は優秀だし、医師として必要な存在だ。人殺しであろうが、悪魔であろうがなんでもいい。とにかく辞めないということなら、次の話に移りたいのだが」
 呼び出された時、退職届についての話だということは想像がついていたが、他にも話があるとは思わなかった。
「私は誰も殺していません」
 井之頭が立ち上がり、コーヒーを飲むか、と声をかけてくる。恐縮して、「いれてきます」と部屋を出てから、医師の休憩室でコーヒーを二杯いれて持ってきた。
 アメリカンコーヒー、砂糖なしのミルクのみ。普段観察している上司の好み通りにコーヒーをいれて手渡すと、両手で包むようにカップを持ちながら、井之頭が言った。
「きくまでもないことだな。MSFでの活動もいれると、君はいままで何千人もの命を救った。私生活を犠牲にして、誤解に対する説明をする暇すら惜しんでまっとうしてきた」
「それは…私の贖罪でもあるんです。昔、目の前で大切な人を亡くしました。CPRしていれば助かったのに、わたしはうろたえて、みているだけでした」
 手のひらをこちらにむけて、井之頭が首を振った。
「理由は不要だ。わたしが知っているのは現在の結果と、これからの君。それでいい」
 眼の奥が熱くなったアキを置いて、あくまで淡々とした表情のまま、井之頭が「次の話題にうつろう」と言ってファイルを手渡してくる。
「先日インドネシアで大規模な地震があっただろう」
 感情の揺れを平坦へ戻すために、掌を握りしめながらファイルに目を落とす。
「ええ…、由記市からも派遣するんですか?」
「国際緊急援助隊が組まれて、由記市からもレスキュー隊や救急隊が派遣される予定だ。我が病院からも二名、派遣予定だ。うちから一名、外科から一名。ただし、事後処理や救急医療体制の整備までになってもらうことになるから、救助隊のようにひと月では帰れない。三か月から、長引けば半年かかるかもしれない」
「DMAT…いや、いまの段階で七二時間以上経過してるから、JMATですか」
 DMATは近年ドラマ化されることもあり、知名度が高くなっている、災害派遣医療チーム(Disaster Medical Assistance Team の頭文字をとってDMATと呼ばれている)の略称だ。由記市立大学付属救命救急センターは、DMAT指定医療機関であり、アキの他に井之頭、佐々木をはじめとして十数名の医師がDMAT隊員登録済だ。
 アキが口にした『JMAT』は、医師会が派遣する災害医療専門チームで、急性期の患者数が落ち着いてくる七二時間を経過したあとに入れ違いに派遣され、医療体制の安定と確保、治療にあたる。
「そうだ。東京を中心としたDMATチームが先に現地入りしているが、彼等と入れ替わりに現地入りすることになる。何回かに分けて派遣するんだが…」
 井之頭が立ち上がり、アキを真っ直ぐ見据えた。
「君を推薦したいと思う。どうだろうか」

 3月に入って、摂の怪我は回復に向かっていた。
 主治医である新田が「目を離すと勝手に動こうとする」と怒りながらもこまめに様子を見に行くのは、やはり自分のせいで刺されたという後ろめたさもあるようだった。
「まったくあいつは本当に変わらない」
 仕事が終わって、病院の外にある喫煙所でタバコを吸っていると、新田が近寄ってきてそう言った。
「三嶋先生、お前なんだろ。六人部がずっと好きだったヤツって」
 摂が刺されてから、かなり険悪になっていたアキと新田だったが、話しかけられて無視をするほど、アキは子供っぽい人間ではない。
「…なんの話ですか」
 メガネを押し上げてから、新田はこれ見よがしに溜息をついた。アキを見かければ嫌味を言うか、無視をするかという態度をとってきた彼にしては珍しい様子だった。
 曇っているせいで、暗闇しか見えない。空に消えていく煙に視線を移して、新田の言葉の意味を想像して、やめた。忙しくて疲弊しきっていた上、反応を間違えれば爆弾になってしまう。
 重たげな雲から雨が落ちてくるまで、そんなに時間はかからなかった。申しわけ程度の軒しかないため、アキも新田も、あっという間に靴の先が濡れそぼる。
 吸わないくせに、新田は黙ってアキの側に立っていた。
(おれなんかに話しかけてる暇があるんやったら、摂に謝って来いよ。知り合いかなんかしらんけど、それとこれとは別やろ)
 摂の怪我は厳密にいえば柏木の逆恨みのせいだし、新田が謝る義理はないといえばそれまでだが、それでも人として最低限の想像力や思いやりがあれば、謝罪をすべきだ。
「そんなにあからさまに怒りを表すのは珍しいな。だが僕には、君を恨む権利がある」
 一本くれないか。そう言われて、怪訝な表情で差し出したタバコを新田が口にくわえた。火をつけてやるのは嫌だったので、アキは面倒くさそうにマッチを手渡す。慣れていないのか、火をつけることに何度か失敗してからやっと点火して、思い切り吸い込んだあと、激しく咳き込んだ。
「無理しなくても…。いままで吸わずに生きてこられたなら、吸う必要ないですよ」
「うるさいな。酒も飲まない、タバコも吸わない。そんな僕が唯一好きだった趣味の友達を、お前は平気で奪い去った。おまけにうちの家族もバラバラにしてくれて、恨んだって当然だろ」
 じとりと睨みつけてから、黙り込む。タバコを二本吸い終えても何も語ろうとしない新田に呆れて、アキは「お先に」とその場を後にしようとした。
「お前は、妹から夫を奪った」
 新田、という名字、あからさまな態度、それに、摂の反応。全てがつながって、アキは振り返って拳を握りしめた。
「やっぱり…新田先輩の、お兄さんですか」
「六人部は、…いいやつだったよ。高校の頃から知ってる。よくうちに来ていた。一緒に釣りに行く仲間だったし、妹を大事にしていた。妹は本当にあいつのことが好きで、結婚してからも職場の東京ではなく、六人部が勤めていた由記市に住んだ。でもあいつは、最後の最後で…」
 言いかけて口を閉ざし、新田は首を振った。「これ以上は、六人部から聞けよ。だが僕のお前に対する嫌悪感や憎しみは正当なものだと伝えたかった。意味もなく人を嫌ったりするほど、おれは暇じゃない」
「待ってください」
 立ち去ろうとする新田の腕を掴む。夜風が春の匂いとタバコの匂いを混ぜながら連れてきて、アキの鼻先をくすぐった。自分のタバコの匂いなのに、他人が吸うとべつもののように思える。
 掴まれた腕をさっと振り払い、新田は眉をしかめた。
「さわるな。男同士で好きだのなんだの、気持ちの悪い」
 吐き捨てられた憎悪に、ようやく納得した。そして原因もなんとなく想像がついて、力無く立ちすくむ。
「六人部のことは恨んでいない。あいつは妹の好意に付き合ってくれてた。離婚の原因を、全部自分のせいにした。本当は妹の浮気が原因だったんだよ、家に浮気相手を連れ込んでは関係を持っていた」
 雨に濡れるのも厭わずに、病院の通路で新田がつぶやく。あたりには、他に人影はなかった。当直の後で入ったオペのせいで、ふたりの帰りは定時をはるかに超えていた。
「……うちの父親は子どもに理想を押し付ける、厳格を通り越して支配的ともいえるような人間だったんだ。母親は毎日父親を怒らせまいと顔色を窺うだけ。僕も妹も、大学から東京に出たのは門限が六時だったせいさ。信じられるか?六時だぞ。同級生と遊びにもいけないし、部活だってひとりだけ先に帰らなきゃいけなかった。アルバイトなんて絶対禁止だ、成績は上位十番以内に入っていないとお小遣いももらえない。口ごたえしたらすぐに手がとんでくる。だから、離婚の本当の理由なんて知ろうものなら、妹はタダじゃすまなかっただろう。それを考えて言ったのは分かってる。でも、…」
 雨が強くなってきて、アキのタバコの火を消した。新田はすでにタバコを灰皿の中に捨てていて、嫌悪と怒りが入り混じった表情で、アキを睨みつけていた。
「摂は、何と言ったんですか」
「凛に…妹にはずっとさびしい思いをさせていた、これ以上は申しわけないから別れたいと。…自分が愛しているのは、幼なじみの男性、生涯ひとりだけだと言ってのけた」
 それはもう大騒ぎになったよ、と新田が青白い顔で笑った。
「おれがいなかったら、六人部は殺されていたかもしれないな。馬乗りになって殴られてた。でもな、そんなの信じられるわけないだろう。妹をかばうために、適当な嘘をついたのだと思った。思おうとした。…六人部は嘘をつくようなヤツじゃないって、分かっていながら」
 腕が延びてきて、胸倉を掴んで揺さぶられる。
「お前のせいで不幸になった人間が、どれだけいると思ってるんだ!」
 雨がふたりを服の中まで濡らして、冷たい夜風があっという間い身体を冷やしていく。対照的に、頭の中にはカチリと火が付いた音がした。喉の奥から、焼けるような声が出た。
「そんなこと…おれが一番、何回も考えた。おれがいなければ、母親はもっと幸福になれたんじゃないか、摂は女性と添い遂げたんじゃないか、聡さんは死ななかったんじゃないか…、そんなこと、おれが自身が、何回も!」
 新田の胸倉をつかみ返して、アキは叫んだ。どうして、よりにもよって自分を憎んでいるこの男に吐露しているんだろう、と思ったが止められなかった。
「何回も死にたいと思った、消えたいと思った。でも生きてる。決めたんだ、自分で自分を殺さないと。不甲斐なさを嘆く暇があれば、おれは、いま自分にできることをする!」
 摂と一緒に生きることを決めたときに湧き上がってきた思いは、喜びだけではなかった。『でも、いつか自分の前からいなくなるのではないか』という足元が揺らぐような不安も同時にやってきて、アキの心を強く揺さぶった。もしも、また摂が目の前から消えたら…そう考えると恐ろしかった。いてもたってもいられないぐらい、恐怖にかられた。
「お前さえいなければ、こんなことにならなかったのに」
 本心を露わにした新田の顔が、突然母親の顔とかぶってみえて、喉が詰まった。
『あなたさえ生まれて来なければ』
 あのとき、修復不可能なぐらいに深く傷ついた心が、まだ癒えない痛みを引きずってきてアキを刺す。いつも自分の存在が認められなくて、人と深く関わることを避けてきた。それでもいつの間にか他人を巻き込み、傷つけ、「お前はいらない」と言われてしまう。
(摂が離婚したのは、新田先生の家族がバラバラになったのは、おれのせいか)
 違う。
 そう思いたいのに、自分を肯定できない性質のせいでうまくいかない。
(だって、実の親にすらいらなかったおれが、自分を肯定できるはずない)
「…ごめんなさい…」
 涙が流れて落ちていく。もう目の前にいるのは、新田ではなく、一度も自分を愛してくれなかった母親だった。写真でしか見た事のない父親だった。もう自分の力では止めることができない涙を、泣いている自分を、遠くから見ている冷静なもうひとりの自分がいる。
 怯えた顔をして後ずさり、その場から去っていく新田をみつめながら、アキは謝り続ける。もうひとりの自分が、『お前なんて誰も愛さないよ』『どんなに愛そうとしても、恩を返そうとしても、お前には愛が分からないんだから』と耳元で囁きつづけるのを、ただ黙ってきいていた。

 どれぐらいそこに立っていただろう。
 自分の髪から滴り落ちる雨粒がいつのまにか減ってきて、顔を上げると青い傘がみえた。大きくて、柄のところが木で出来ている品のいい傘だった。
「かぜをひくぞ」
 その声と、伸びてきたてのひらの熱さに、アキは目を伏せた。頭にかぶせられたタオルからは、風邪をひいたときに抱きしめて寝てくれた、摂のにおいがした。
 摂の指が、アキの額にまとわりついた前髪をかき分けた。普段は奔放に跳ねている黒髪は雨に濡れて、いっそ怪しいほど光って見える。その下には、悲しみと後悔を湛えた静かで美しいアキの眼があった。つい、と上げた視線が、摂の視線と絡まる。一瞬で心に火がついたことが、ふたりとも同時にわかってしまった。
「病室抜け出したんか。ICU出たからって油断してたら、治りが遅れるぞ」
 アキの掠れた頼りない声に返事はなかった。力強くたくましい腕が、アキの手を引いた。ひかれるままについていくと、病院の裏手、人通りの全くない場所へと連れて来られ、振り返った摂に強く抱きしめられた。息が苦しいほどに、強い抱擁だった。
「おれのせいで離婚したって本当か。…さっき、新田先生から…」
 喫煙所のそばに、摂が乗ってきたらしい車いすが所在なく雨に打たれている。折り畳み式の、病院で貸し出しているものだ。ちょうど照明灯の下にあるせいで、スポットライトが当たっているように、白く暗闇の中で浮かび上がっていた。
「違う。二十七のとき、やはりアキしか愛せないことに気付いたんだ」
 どれだけ大切にしても、抱いても、おれは彼女の求めているものを返せなかった。はじめから分かっていたのに…。アキにもう二度と会えないとしても、気持ちは変わらないと。
 そう囁いた摂の声は、苦しげに掠れていた。
「言う必要がなかったのかもしれない、でも、もう嘘はつきたくなかった。相手をあそこまでさせてしまうほど、嘘で追い詰めたから。それが誠意だと思ったんだ」
 雨は絶え間なく軒にぶつかり続け、アキは、摂の背中が濡れないように、握っていたタオルを彼の肩にかけた。そして、ひそやかな声でかわされたやり取りを打ち切るように、病衣の背中に腕をまわす。大きな手で顔を肩にのせるよう導かれ、アキは黙って従った。

 外を歩いて雨に濡れるなんてどうかしている、と般若のような顔をした新田に怒られている摂は、病室のベッドで三十八度を超える熱にぐったりとしていた。
「白血球がまた上がってる。退院が延びたな」
 新田とアキは、お互いに仕事の話はこれまでどおりにしているものの、以前よりもはっきりとした境界線がお互いの間にできていた。アキが入ってきたのを知ると、新田は病室から去っていく。
(全員と分かり合うのは無理だから、しかたがない)
 病室に入ってきたアキの顔をみるなり、摂はこわばった顔で言った。
「退院したい。いますぐに。頼む」
 せっぱつまった様子に、何か事情があるのだろうな、ということは分かったが、
「うんいいよ……って言うかバカ!昨日よく歩けたものだよ…担当医じゃなくてもこれは言える、絶対ダメ」
 大体、傷口に感染症を起こして退院が延びたというのに、よくそんなことが言えたものだと、アキは呆れ顔でベッドサイドの椅子に腰かけた。
「白血球の数値が下がってない。まだ抗生物質の点滴だって抜けてないだろ」
「担当医が慎重すぎる。あのぐらいの数字なら、日常生活には支障ないだろう」
「感染症の経過がなければね!いま摂は、とても体力が落ちているんだよ。急性虫垂炎程度のオペなら多少数値が悪くても自分の体力で予後は悪くないと思うけどね、今回はダメ…」
 しゃべり終える前に、摂がアキの手をぐっと握って覗き込んできた。真剣なまなざしに、アキは困惑を隠せない。
「…お願いだ。せめて、今週中に退院させてもらえないか」
「そんな顔してもダメなものはダメ、そもそもおれに、決める権限ないんだ。お前の担当医はおれを嫌ってる新田先生だし、頼んでも逆効果なだけだし潔く諦めて」
 熱のせいか、汗のにじんだ摂の額をハンカチでそっと拭いた。きもちが良さそうに目を細めた摂は、眼を閉じてアキの手を握った。熱い手だった。
「じゃあ、もう少しだけそこにいてくれ」
「わかった」
 窓の外を眺めていると、昼から何も食べていなかったアキの腹がぐうと鳴った。静かに目を閉じていた摂が、わずかに笑う。
「食べてないのか」
「昼ごはん食いはぐれた。食べようとしたところで急患が入ってさ」
「救急隊と同じだな」
 窓の外では、すでに日が傾き始めている。陽光の色合いが春を感じさせる気がして、アキは目を細めた。それをみた眠りかけの摂が、ひとりごとのように言った。
「…アキの笑った顔…長い間、見ていない気がする」
 どうこたえていいのか分からず、アキは黙って摂をみつめた。
「好きだよ」
「……こないだもきいた」
 本当は、言われるたびに身体が熱くなるぐらい嬉しいくせに、憎まれ口を叩いてしまう。
「うん。いままで言えなかったから、沢山言いたくて…」
 それだけ言い終えると、寝息を立てはじめる。摂の額にキスを落として、アキは何かを言おうとする。けれども唇が硬直したように、その言葉はうまく出てきてくれなかった。
(――言おうとすると、声が出なくなる。どうして)
 院内PHSが鳴った。溜息をついて通話口に出ると、佐々木が「お前の患者、コードブルーだ。今すぐ降りて来い!」と端的な説明をして電話を切った。

 急変患者が落ち着いてすぐに、高熱の意識不明患者が搬送されてきて、救命チームは休む間もなく処置に追われた。患者が八歳の男児だったこともあり、小児科から水谷が降りてきてアキとともに対応した。運び込まれてきて五分ほどで一度心停止したがなんとか持ち直し、現在は一進一退の状況にある。
「CAEBVだな。よく気づいたもんだよ、というか水谷先生気付くの遅い!」
「すいません、いや、三嶋先生が異常ですけどね。ほんとなんで気付いたの」
 患者がかかっていたのは、「慢性活動性EBウィルス」だった。現在有効な治療は、骨髄移植か幹細胞移植しかない上に、救命率は七十%程度だ。ここ最近は病気に対する認識も変わったため、治療方法も進化し、病院によっては九十%の成功率を誇っているところもある。
「合併症だったんですね、心筋炎も、脾臓の腫れも」
 乾が尊敬を交えた眼差しでアキを見上げる。コーヒーを口元に運びながら、アキは「そういうこと。子どもで微熱が続く、っていったら、一度は考慮すべきだろ。水谷は甘い。そういう医者の見逃しが患者の生命を脅かすんだぞ」
「そう言わないであげてください、水谷先生一昨日から帰ってないんですよ」
 どうやら当直から患者の急変が入って、ほとんど睡眠もとっていなかったらしい。さすがに同情して、「そうなの?」と首を傾げると、水谷が首を振った。
「だからって、判断の遅れは許されない。助かったよ、三嶋先生」
「おれも蚊アレルギーからピンときたんだけどね。しかし、今後はどうすんの」
「うちの血液科にも小児科にもあまり症例がないから、転院することになりそうだ。患者の状態が安定したら、神奈川県の周産期センターにうつってもらおう」
 血液科の医師が渋い顔で告げる。自分の領域で白旗を上げるのは、気分のいいものではないのだろう。しかし、何よりも患者の命が優先だ。アキは彼の早い判断に同意した。
「ノウハウのある病院の方が望ましいでしょうね。今CAEBVの治療で一番エビデンスがあるのはあの病院だし、正しい判断だと思います」
 夕方に遅すぎる昼食をとっていると、水谷が高いアイスクリームを持ってやってきた。つかれのにじんだ熊のような大柄な背中をバシンとアキが叩くと、情けない声で「失恋しちまったんだよな」と白状する。
「そんなことだろうと思った。お前が二徹ぐらいで音をあげるとは思われへん」
「美千子さんがいきなり店畳んで、どっかにいってもうたんや」
 仕事中は標準語を使うアキも、関西出身者の水谷の前ではうっかり方言が出てしまう。つられるように水谷も郷里の言葉で話して、奈落の底から吹いてきた風のような救いのない溜息をついた。
「辛気臭いなァ。病院で溜息はやめてくれへんか、はちみつあげるから、な」
「熊とちゃうわ!…はあ…なにがいけなかったのかな。無理に迫ったりもしてないし、時間をかけてじっくりとって思ってたんだけど」
 クリスマスの日、二軒目に行こうと水谷につれていかれた、日本美人がやっていた店を思い出す。スナックというよりはバーに近い、多様なウィスキーを置いている品のある店だった。美千子というのは、そこの店主だ。
「好きなんか」
「おうよ。こうみえて一途なんだ」
「家もなんもかも捨てれるほどか」
 うどんをすすりながら正面に座った水谷の目をみると、彼は戸惑ったように目を揺らした。そして、アキの言葉の意図を汲み取り、しっかりと頷く。
「小児科医になったときから、家とは疎遠やしな。親には悪いけど、大事なモンには順序、つけさしてもらうわ。おれには美千子さんが必要や」
 その言葉に、水谷の意志の強さと迷いのなさに、アキは少しだけ羨ましさを覚えた。
(まっすぐっていうのは、怖いもんやな。愛されてきた人間は、愛することに迷いがない……でもそれが、彼等の強みだ)
 頭の中に浮かんだのは、星野成一の曇りない笑顔と、星野祥一の迷いのない視線だった。愛することを迷わない彼等のことが、アキは内心妬ましく、そして眩しかったのだ。
「ほんなら、探してとことん追いかけろ。見つけたらガンガン押せ」
 間抜けな顔で水谷がアキをみる。
「そんで、振り向いてくれたら絶対、手を離すな。以上、恋愛下手王からのアドバイスでした!」
 投げやりに言ってから食べ終わったトレイを下げる。ぶは、と笑い声がきこえてきて、水谷が顔を覆って笑っているのがみえる。
「何がおかしいねん」
「いや、だって三嶋先生。そんな顔して恋愛下手って。嘘だろ」
「や~それがびっくりするぐらい恋愛下手くそやねん。好きなやつって幼なじみなんやけど、音信不通で十六年ぐらい会われへんかったし、そのあいだずーーっと片思いしてたからな。報われる可能性もチャンスも一切ないのにやで。それで最近再会してんけどそれからもやっぱりすれ違い続けて、ようやく想いが通じたものの、想いを伝えるどころか、何話していいのかわからん。どうや、これで恋愛上手いと思うか?」
 話したいことはいっぱいあった。ききたいことも。
(でも…)
「好きだって言わずに、どうやって想いを通じ合えたんだ」
「一緒に生きてほしいって、ゆった。好きやって言われたから、そう答えた」
「三嶋先生は…」
 水谷が、いたましいものを見るような目でアキを眺める。
「まだ、自分を許せてないんだな。――何度でもいうけど、三嶋先生は何も悪くない。愛着障害も分離不安も、自分に責任があると思ってるなら間違いだ」
(言えない。いつか、摂がいなくなってしまうかもしれないなら)
 アキはまだ摂に好きだと伝えた事がない。それは、愛を確認し、関係性が確定したら、いつか摂が消えてしまうかもしれないことに怯え続けなければいけないからだ。ずっと手に入らなかった愛情を手にしてしまったとき、自分がどうなってしまうのか、恐ろしかった。
「でも、おれがおらんかったら、母の人生はもっと、」
「三嶋先生」
 かき消すように水谷が言って、肩を掴む。大きな手のひらに、アキはびくんと身体を揺らした。
「驚かしてごめん。なあ、その話はおれにじゃなくて、その長くすれ違い続けた、十六年間の片思いの人に言うべきじゃないか?その人はきっと聞きたいはずだ。三嶋先生がどんなふうに考えて、どんなふうに苦しんできたのか…。そして、これからどんなふうに生きたいのか。それこそ、好きな相手から聞きたいはずだよ。違う?」
 だって、一緒に生きるんだろう。
 顔を上げたアキの不安げな表情に、水谷は苦笑した。
「ったく。そんな顔、無防備に見せるなって」
 食堂を足早に歩きながら、アキが振り返る。
「女やったら、嫁にしてくれた?」
 アキと同じぐらいニヤニヤ笑いながら、水谷が返す。
「ああ。美千子さんと出会ってなくて、三嶋先生が女だったら、追い掛け回して口説き倒してたやろうな」
「そらどうも。しかし残念なことに、おれは男やしおまえには美千子さんがおる」
「三嶋先生にも十六年間片思いしてた幼なじみがいるしね。よし…探して、出来る限りのことをやってみるよ」
「ベストを尽くしてダメなときは、焼き鳥おごってあげるから頑張って、水谷センセイ」
 口調を改めて仕事モードに切り替えたふたりに、今度は水谷のPHSが鳴る。ほぼ時を同じくしてアキのものも鳴りはじめる。ハイハイ今行きますよ~、というひとり言に、水谷が肩を竦めながら後に続いた。

『明日、国緊隊任務でインドネシアへ発つんです』
 祥一から短いメッセージが入っていることに気付いたのは、仕事を終えた夜の二三時過ぎだった。更衣室に向かっていると、物言いたげな部長の視線を感じ、会釈してその場を後にする。
 井之頭からJMATの打診を受けてから、すでに一週間が経っていた。
(…もう少しだけ待ってください、すいません)
 着替えを終えてすぐに電話をかけると、祥一が『今から会えますか』と問いかけてきた。電話口からは電車の音と駅の名前を告げるアナウンスがわずかにきこえてきて、「駅前だな、すぐいく」と返事をして電話を切った。
 行き先や相手を問い詰めようとする佐々木をかわして、足早に駅前のロータリーへと向かう。誰とも付き合わない、好きにならないと言っていた自分の言葉に、責任をとらなければいけないと思っていた。
(本当はずっと、摂のことが好きだったなんて、祥一くんはとっくの昔に知ってるみたいだけど)
 好きという言葉を発音しようとすると、声が出なくなる。他人になら言えたはずなのに、いまはそれすら口に出来ない。
(摂が大切で、一緒に生きたいと思う気持ちは本当だ。でも、)
 病院の周囲とは異なる、街の灯りの中で祥一が手を上げる。
 心に秘めていたことを、全部伝えようと決めた。
(嫌われて、殴られるかもしれない。でも、祥一くんにはその権利がある)
 同じように手を上げ、離れた場所から駅前のファミレスを指さす。心得たように頷いてから、祥一はその場所へと歩いていく。高い背に、大きな背中。ゆっくりと歩くさまには自信が満ち溢れていて、そういうところすらアキの心を浅く刺した。

「コーヒーを。何か食べますか」
「パンかじってきたから。おれも同じものをお願いします」
 眠たげな店員が注文をきいて奥へと消える。夜中のファミリーレストランは、プラスチックのような安っぽい明かりと、都会のよそよそしさを空気越しに伝えてくる。
 久しぶりに会った祥一はすっきりとした顔をしていた。仕事の使命感がそうさせているのかもしれない、と考え、アキは祥一の心根がかわらず真っ直ぐなことに、安堵と一緒に昏い気持ちを抱く。いつもそうだった。はじめて話したころから、成一も祥一も、アキにとっては直視するのがまぶしいぐらい、羨ましい光を放っていた。
「国際緊急援助隊って、もう先遣隊は到着してるよね。第一陣のDMATはもう現地入りしてるってきいているから」
 落ち着いたアキの声に、祥一が射るように視線を返すが、俯いていたせいで気付けない。
「三嶋先生」呼ぶ声は、もう逃げることを許さない強さがあった。
「ちゃんと振ってもらっていいですか」
 顔を上げる。いまにも泣き出しそうな表情をしている祥一の、ひたむきな視線とぶつかり、アキは思い出した。
(――おれも、こんな顔をしていた)
 自惚れでも思い込みでもなく、そう思った。
 ずっと同じ目で、摂の背中を見ていた。振り返ってほしいと思いながら、後ろを歩いていた。
(なのに、おれは。こんな顔をしてくれる人を、妬んで、利用して、信じなかった)

「……はじめて話したとき、君は全部持ってる人だと感じた」
 今まで話したことのない、心の底にへばりついた薄汚い本音を吐き出す。
「祥一くんは、やさしい家族も、裕福な家庭も、めぐまれた体格や容姿も、全部生まれつき持ってた。愛されて、支えられるのが当たり前みたいな顔で…おれに好きだと言った。何もかも持っているくせに、おれなんかに。相手をろくに知ろうともせず」
 愛することは、アキにとって果てしなく辛いことだった。愛されたことがないせいで、どのように他人に愛を注げばいいのか分からないのだ。聡のおかげで強い自己否定感まで持つことはなかったが、渇きは常にアキを苛んだ。愛されたいのに、いざ愛されると自分はそれに値しない人間であるように思えてしまう。そして相手が幸福な人間であればあるほど、自分が得られなかったことに苦しみ、妬んでしまう。
「おれは祥一くんを傷つけたかった。苦しめたかった」
――そして許されたかった。嫌われたいと思いながら、愛していて欲しかった。
「好きだと言ってくれた言葉の意味も、重さも分からずに、そういうやり方で甘えてた。本当にごめん」
 三嶋先生、と低い声がさえぎる。
「あなたが誰をすきなのか、あなたの口から教えてほしいんです」
 頭の中が真っ白になった。心の中には確かに摂がいて、彼が幸せになるためならどんなことだってしようと思い、また実際にしてきたつもりだった。摂のためなら罪人になっても良かったし、一生振り返られることが無かったとしても、彼が幸せならそれで良かった。
(あれは、逃げだったのか)
 ところが今祥一に突き付けられた質問で、アキは心の奥にある本音に気付いた。愛されなくてもいい、のではなく、愛されるのが怖い、が正解だったのだ。いざ気持ちが通じ合うと、どうしていいのか分からなくなる、いつかなくなるのではないかと怖くなる、その想いに見合う自分ではないと苦しくなる。
 だから、好きだという、たった一言がどうしても言えなかった。
 その真実に気付いたとき、ことばが自然とこぼれ落ちた。
「おれは、摂が好き」
 ひゅっと息を呑む音がした。祥一の喉から漏れたその音に、アキは呻くように言った。
「うん、好き。ずっと、子どもの頃から。…アイツ以外好きになったことなかった」
 星野兄弟に対して抱いていた羨望と嫉妬を認めると、答えが出た。
 アキは長い間、自分を好きになる人間に憎しみをぶつけてきたのだった。本当に憎みたいのは愛してくれなかった母親や自分を捨てた父親であるはずなのに、身近にいる、満たされた人を傷つけたいと願ってしまう。哀しげな顔や相手の依存を見てはじめて、想いを寄せられていると満足する。
「祥一くんの気持ち知ってて、利用してごめん。傷つけてごめん。好きなだけ、殴ってくれていい。なんなら、殺してくれていい。もう、一番の願いは叶ったから」
 指が伸びてきて身構える。
「本気で言ってるんですか」
 だがその指は、わずかに震えたままアキの頬をするりと撫でて離れていく。ふ、と祥一が笑った。それは今までアキが見た事のない、苦みのある大人の笑みだった。
「おれは、騙されてもいなければ傷つけられてもいません。あなたはずっと、好きにはならないと言っていた。それでもいつかと期待したのは、自分の勝手な気持ちです。それに…三嶋先生のことを深く知るのが怖くて、何も聞かなかった。あなたの表面だけを見て欲しがって手を伸ばしていたんだ。ずるいのは、おれの方です」
 祥一が手を伸ばし、伝票を自分の方へと引き寄せる。それから、ためらったようにアキのてのひらへ視線をうつす。そっと手を取ると、甲へうやうやしくキスをした。
「あなたの幸福を、いつでも、こころから祈っています」
 引き留める暇もなく、祥一はさっと席を立ち店を出ていく。窓ごしに見える後姿は、待ち合わせのときよりもずっと早足で、前のめりだった。
「いってらっしゃいとか、ありがとうぐらい言わせろよ、ばか」
 ありがとう、ごめん。何百回でも、声が嗄れるまで言いたい。
(愛してくれてありがとう)
 手の甲へのキスは『敬愛』を意味するのだと、どこかできいたことがあった。最後の最後までかっこよくて真っ直ぐで、憎たらしい。
(あんないい男、おれにはもったいない、ほんとに)
 駅へと向かう祥一が、一度だけ腕で顔を拭う。うつむき加減だったのはその一瞬で、すぐに顔をあげ、前を向いて歩き出す。

 アキは、窓の外を向いて肘をつき、店員に顔を見られないようにしながら、泣いた。そして改めて思った。
(やっぱり、誰かと生きていくことなんておれには無理だ、そんな資格ない)
 自信がない。いつも不安で、生きていていいのか分からない。誰かの役に立つ人間になれば、自分を肯定できるだろうと、仕事に心血を注いできた。自分を捨てた人間に復讐すれば、前に進める気がして父親を探した。
(――無理だった)
 燿平の存在が、血の呪いを断ち切ってしまった。家族に対する不信感や苦しみや憎しみの矛先を失ってしまった。
 それはアキを救済したが、同時に心の支えを奪いもした。

 勤務が終わり、私服に着替えてから摂の病室へ向かう途中、外科の廊下が騒がしくなっていることに気付いた。ナースが数人、慌てた様子で何か探していて、小声で耳打ちしながらあたりを見回っている。
「どうかしました?」
 後ろから話かけられたナースは、迷惑そうな顔で振り返った後悲鳴をあげた。
「三嶋先生!ああ、びっくりした。大変なんです、中央署の六人部さん、二〇五号室の。病室にいないんです、あたりを探しても見当たらなくて…」
「なんだって!?」
 返事をしたのはアキではなく、佐々木だ。どうやら飲みに誘うつもりで、アキの後ろをついてきたらしかった。
「動ける状態じゃないのに!新田に連絡は?」
 慌てた様子で佐々木が言う。看護師は、狼狽を隠さずにこたえた。
「まだ…今日、新田先生はお休みで」
「じゃあ、申し訳ないけど少しだけ連絡を待ってくれない?一度、おれと佐々木先生で探してみるから」
「わかりました」
「騒ぎになるといけないから、あまり口外しないようにね。大人の男だし、迷子ってこともないだろうから」
 釘を刺してから、佐々木と手分けして病院内を探し回る。病院内の施設は大体探し終えても摂の姿は見当たらなかった。周囲の人間にばれると困るので、あまりおおっぴらに探すわけにもいかない。佐々木とPHSで連絡を取り合いながら、二時間ほど探したところで、外階段はまだ見ていないことに気付いて一応確認しておくことにした。
 三月の外気は、まだ朝晩冷え込む。ステンカラーコートの襟を立てて風をしのぎながら、下から上へと階段を上り、名前を呼んだ。
(うーん、いまは自殺とか事故防止に、階段には出られへんようになってるはずやねんけど、開いてたもんな…ここが可能性高いかも)
「摂、良かったみつかって。何してんの」
 階段を一番上まで登ったところに、摂が座り込んでぼんやりと外を眺めていた。
「リハビリがてら、階段の上り下りをしてたんだ」
「心配したやん、もう…。よくまあ、ここまで歩けたな。傷、痛まなかったか」
「痛んだ。前かがみにしか歩けない」
「やっぱり!バカ!」
 隣に座る。コートを脱ぎ、摂の肩に掛けようとすると断られた。
「おれは大丈夫だ。アキが風邪をひいたら困るから、着ていろ」
「うるさい。だまってそれ着てろ、けが人」
 見つかってほっとしたせいで、タバコが吸いたくなった。立ち上がり、摂の座っていたところから数段下りて風下に行ってから、一本くわえて火をつける。
「吸うなとか言うなよ。さすがに殴るからな」
「…言わないよ。どうぞ」
 外階段の隙間から見える夜の街に、煙を吐き出す。病院の中庭を照らす灯りと、その奥にある街の灯りをみながら黙ってタバコを吸っていれば、沈黙の末に摂が静かに「悪かった」と謝罪してきた。
「どうしても退院したくて」
「理由があるんだろ。どうしたんだよ、一体」
 質問の答えを期待していたアキの目を、摂がじっと見つめてくる。熱のこもった静かな視線に、アキの胸は途端に早鐘をうちはじめた。
(…そういえば、今すごく摂に近いな)
 病室の中にいるときは、医師と患者という立ち位置が抜けずにいたため、今のような気持ちにはなることはなかったのだ。
「なんで退院したいのか、ちゃんと言え、理由次第では協力するから」
 精悍な顔が、夢から覚めたように、はっとした。
「…実は星野が、仕事でカンボジアへ行ってしまうんだ。明日の夕方には日本をたってしまって、一年間帰ってこない。だから、見送りにいきたくて」
「せいちゃんが?」
 頭の中に、人のいい笑顔が浮かぶ。アキが摂と思いを通じ合うことができたのも星野成一のお蔭で、いわば、彼はアキにとっても恩人だ。
「餞別に、少しいい聴診器を渡そうと思うんだが、頼んでもいいか」
「分かった、任せといて。明日の夕方までに買っておく。でも…そうか。それなら見送りにいきたいのも分かるよ。せいちゃんは、おれにとっても大切な人やからな」
 自分の利益を省みずに、人のために動ける人間は、そう多くない。成一は、まるで風のような人だとアキは思っていた。澱んだ場所を見つけると、通り過ぎてくれる。
 あるいは、雨が上がった後の虹だ。
「好きだと言われた。星野に」
「…うん」
 なんとなく分かっていたが、だとしたら、なぜアキや摂のために、あそこまで動いてくれたんだろうか。
(いや、それこそが、せいちゃんの人柄なんやろうな)

 俯くと、夜風が通り過ぎて、ふたりの前髪を揺らしていく。どこからともなく、ギターの音が聴こえた。近くの公園で、誰かが練習しているのだろう。
 沈黙が続いた。ギターは何度も同じところでミスをしては、演奏しなおしている。どこかで聴いたことのある歌だったが、タイトルは分からなかった。
「アキ」
 名前を呼ばれ、タバコの火を消して近づくと、腕を掴まれて引き寄せられた。座っている摂に抱きつくような体制になって、慌てふためく。
 見上げた摂の表情は、切なさと愛おしさを足して二で割ったような、複雑な色合いをしていた。
「星野が好きだよ。すごく特別な存在だった。長い間、自分の周りにつくっていた壁を、あいつはなんでもないことみたいに壊して入ってきた。この一年で、知らなかった自分をたくさん知った。だから、見送りには行きたいんだ。でも、」
 強く抱きしめられて、息ができない。摂の匂いがする、と意識した瞬間、体がかっと熱くなった。
 ギターの音が、やっとミスをせずに曲を鳴らし終えて、きこえてくるのは摂の息遣いと、風の音だけだ。首筋にかかる声は、囁くようだった。
「あいつと同じ気持ちは返せない。おれはアキが好きだ」
 相手はけが人だと分かっているのに、うれしいと思う気持ちが止められない。背中に腕を回し、ぎゅうと抱きしめ返す。すると耳元で、感極まったような声が「ほんものか心配になる。もしかして夢か」と呟くのが聴こえた。「これが夢なら熱すぎる」とアキが掠れた声で返すと、笑ったような気配のあとにいっそう強く抱きしめられる。互いの鼓動が、からだごと弾ませるようだった。
「好きだ」
 ことばが少しずつ降り積もり、アキの心をひらいていく。病室できいたときよりもずっと、熱っぽくて甘い声だった。
 耳元に、うなじに、鼻先が擦りつけられて、体が期待に震えてしまう。つめたい唇が首筋から頬へ移動してきたとき、幸せの予感で心臓が飛び出しそうになった。予感はきちんと的中して、摂の唇がアキの唇を探しだし、触れて、離れる。何度かそれを繰り返す。存在を確かめるような、やさしいキスだ。
 目を閉じなければ、と思うのに、片時も目を離したくなくて、アキはずっと摂をみつめていた。間近でみる摂は、穏やかで、それなのに熱い、男の顔をしていた。
「…目ぐらい閉じてほしい」
「そういう摂こそ」
「見ていたくて。やっぱり、まだ信じられない」
「何が」
「腕の中にアキがいることが」
「ほっぺた、つねってやろうか?」
 至近距離で目を合わせ、鼻にキスを返す。頭の後ろに手が回ってきて、抱えながら唇を舐められた。体がさざ波のような官能で満たされていき、次第に摂にもたれかかるように、力を失っていく。触れるだけだったキスから一転、深く口づけられる。背中を抱いていた両腕を首に回して、侵入してきた舌にこたえた。熱い舌は丁寧にアキの弱いところを探りながら絡まってきて、鼻にかかった甘い声がもれてしまう。キスひとつでいってしまいそうだ、と本気でアキは危惧した。
(そうだ、あのときみたい。一度だけ摂としたキス。…体が中から溶けてしまうかと思った、いまみたいに…)
 次第に理性が遠のいていく。このままではマズイ、ここは勤務先だし、相手はけが人なのだ、と自分を律して、背中に回していた手で肩を押した。
「ん…摂、ちょっと、まって」
「もう二十年待った。これ以上一秒も待ちたくない」
 こっちもそうだ!と言いたい気持ちを抑えて、強く体を押しのける。同時に、後ろから手すりを叩く「こんこん」という音がきこえてきて二人で振り返った。
「お楽しみ中のところわりいけど、…風邪ひくぞ。中に入ってやれや」
 呆れ顔の佐々木だった。
「い、いつから!いつからみてたんですか」
 真っ赤になって飛び退いたアキを見て、「ぜんぶ見てたぞ。当分このネタでからかえそうだなあ」と嬉しそうに笑っていた。

 翌日、朝起きてすぐに聴診器を買いに行った。その足で家の合鍵をふたつ作り、迷った末にひとつだけを持って病院へと向かう。すっかり春めいてきた日差しは、正午近くの明るさで車内をさんさんと照らしている。
 キーをひねりエンジンをかけると、FMから聞き覚えのある曲が流れてきて、しばらくの間耳を澄ませた。それは昨日、公園でへたくそなギタリストが何度も弾きなおしていた曲で、著名な映画のエンディングでつかわれている。
 こうして本物を聴けば、哀愁に満ちた美しい曲だった。歌詞は、ポーカーで日銭を稼いで生きてきたギャンブラーが主人公だ。長年感情を表に出さずに生きてきた為、本当に愛する人にも想いを伝えることができずに失ってしまった、一番欲しいものだけは手に入らないまま生きてきた、そういう男の哀しい歌だった。
「おれのハートの形とは、違う、か」
 勤務先の病院に着くと、車を病院の前にあるパーキングに停めて、裏口でIDをみせてこっそり摂の病室へ向かう。摂は、ゆっくりとなら歩くことが出来るようになっていたが、まだ走ることはできない。申し訳ないと思いながらも車いすをひとつ拝借して抜け出すつもりだった。
「はーいこんにちは!昼メシおごってお兄様」
 病室のドアを開いて、視界に飛び込んできたのは燿平が両手でハートを作って摂の隣に立っているというにわかには信じがたい状況だった。動揺したアキは、開いたばかりのドアをもう一度閉める。
「病室間違えた、すいません」
「間違ってないよ!おれおれ、燿平だよ!」
「おれおれ詐欺はまだ流行ってんのか。分かった、病室間違えてるのはお前だな?さあ出て行け」
 ドアの側で騒ぐわけにもいかず、燿平に腕を引かれるままに摂の側へとやってきた。体を起こしてふたりの様子を見ていた摂が、目を細めて笑っている。
「さっき見舞いにきてくれたんだ。輸血、協力してくれたんだってな」
「いや、ええねんこいつ若いし、血有り余ってるから」
「ちょっと、本人差し置いて何いってんのさ。あ、名乗るのが遅れましたが『湯川 燿平』と申します。この人は異母兄の顕です、どうぞよろしく」
 突然センシティブな話題を放り投げた弟に、驚いて声が裏返った。
「おまえ、バカ、急に何いってんの」
「バカじゃありませんー偏差値は兄ちゃんより上ですー」
「やかましいわ。お忙しい理系学生が何しにきてんねん大学帰れ」
 ムキになって言い返す。とうとう我慢できなくなったのか、摂が声をあげて笑った。
「笑わせないでくれ、腹にひびくから。それにしても、兄弟だな」
 アキに懐いていた燿平が、ぱっと顔を輝かせて摂を振り返る。
「どういうところが似てます?」
「口の減らないところ」
 ドアの側に立っていたアキは、ベッドのそばにおいてあった丸椅子に腰かけて嫌そうに顔をしかめた。
「一緒にすんな」
「六人部さん、驚かないんだねえ」
 もしかして信じてない?そう言いながら摂をのぞきこむ燿平に、隣からコラ、と声をかける。摂はいいや、と首を振り、アキが想像もしなかった言葉を口にした。
「アキに、血のつながった家族がいて、嬉しいよ」
 精悍な顔だちは、笑うと少し甘くなる。アキの心の中にいつもある、愛情に対する不信は、摂の笑顔をみるたびに薄まっていくようだった。かわりに、じわりと暖かい気持ちが心を満たすのだ。
(ああ、摂のことが本当にすきだな)
 自覚するたびに、逃げ出したくなる。ずっと欲しくてたまらなかったはずなのに、愛されたいと願い続けてきたはずなのに、どうしてそんな風に考えてしまうのか自分でもよく分からない。
「…お邪魔感がすごいところ申し訳ないんだけど、兄ちゃん。おれ今日願い事言いに来たんだよね。なんでも叶えてくれるって約束だったでしょ?」
 どこからもってきたのか、丸い椅子をアキのとなりに置いて、燿平がニッと笑った。黒縁めがねの奥にみえる眼はいたずらっぽく弓なりに細められている。どうして今なんだ、と思いながらも「ああ、言ったな」とアキは頷く。
「運転させて」
 耳を疑った。なんだって?と聞き返すと、とりたてぴかぴかの運転免許をめのまえにかざし、燿平が満面の笑みでもう一度言った。
「免許取ったんだけど、車持ってないんだよな~。ドライブしたい、三人で。どお?」
 ダメって言われてもやるけどね。宣言し終えた燿平は、いつの間にかアキのポケットから掠め取ったらしい車のキーを見せる。猫のモチーフがついたキーリングにゆびをひっかけて、くるくる回しながら「これ人質ね」といってのける。
「成田空港行くんでしょ?病院抜け出して。そういう冒険するのってはじめてでワクワクしちゃうね。ほら、おれって議員の箱入り息子だから。ピース」
 断られることなんて全く想像していないかのように、燿平は胸を張る。
「無理。おれの車、二ドアのクーペやから後ろ狭いし、摂は上背あるから後ろ乗られへんねんから」
「兄ちゃんが後ろ乗ればいいじゃん。あ、ちゃんと練習はしてるからね、運転は警察官の友達にもお墨付き貰ってるから安心して」
「おまえなあ~~~…はあ。まあええけど」
「やっり~!そうと決まれば六人部さん、出発だぜ」
 肩を落として渋々了承するアキの様子に、またしても摂が笑う。アキと燿平が肩を貸してやりながら車いすに座らせ、病室を出ようとしたところで「あ」と摂が声を上げた。
「手紙を一緒に渡そうと思っていたんだ。おれは書いたけど、アキは?」
「書いてきた。なんとなく、そう言いそうな気がしたからさ」
 聴診器の入った紙袋に、二人分の手紙をいれる。燿平が「うわー以心伝心の相思相愛だあー」とニヤニヤ笑ってくるのが癪にさわったので、アキは遠慮なく弟の尻をうしろから蹴飛ばした。

 窓を開けた。車は晴れた空の下を快適に走っていく。
 カーステレオのFMからは、十年以上前に流行ったJPOPシンガーが爽やかな声で恋人の家へと向かう歌をうたっている。
 アキが鼻歌をうたうと、世代が同じ摂も助手席でそれにならった。ひとまわり以上年が離れている燿平だけは、その歌を知らずに耳を澄ませている。
「歌詞にカセットテープが出てくるところに昭和を感じるなあ」
 免許を取ったばかりとは思えないぐらい落ち着いた運転をしながら、燿平がうそぶく。
「これだから平成生まれは」
 すぐに憎まれ口を返すアキに、摂が笑い混じりに「アキが振り回されているのは、はじめてみた」とつぶやいた。
「振り回されてへんし。相手したってるだけ」
 顔を背けたアキをバックミラー越しに確認した燿平が、「六人部さんみて、兄ちゃん超可愛い顔してるから!」と追い打ちをかけてから、摂に真顔で「アキはいつでもきれいだ」と返されて撃沈した。ついでにアキも一緒に沈んだ。
「…あ、カモメ」
「おお~、ジョナサン!」
 白い鳥がみとれるほどきれいなかたちを一瞬だけ見せて、海のほうへと飛び去っていく。ねえ、どんな人を見送りに行くの?と燿平が訪ねてきて、摂とアキはぽつりぽつりと成一のことを話した。摂は、成一との出会いとこれまでのことを、アキは成一が繋いでくれた縁を、運転している燿平にわかるように伝えた。燿平は、相槌をうちながら嬉しそうに目を細めたり、笑ったり、驚いたりしながら話をきいていた。
「本当に、素敵な人なんだねえ」
 話をきき終わると、燿平はしみじみとそう言って、少し羨ましそうな顔をした。
「おれだったらそこまで出来ないなあ。こうみえて結構性格悪いからね、親父に似て」
 どこか自嘲の混じった燿平の声に、アキが何かを言う前に摂が手を伸ばし、頭を撫でた。
「アキのこどものころを知ってるから、正直お前の父親は許せない。でも、燿平は燿平だろ」
 ――こういうところが、摂のすごいところ。
 心の傷ついた人にすぐ、手を差し伸べられるところ。普段は言葉数が少なくても、必要なときにその人が欲しい言葉を的確にあげられるところ。
「そうそう。らしくないからそういうのやめろ」
 誇らしい気持ちで、アキも後部座席から燿平の頭を撫でる。せっかくセットしてきた髪をぐしゃぐしゃにされた燿平はそれでも、泣き笑いのような表情をうかべて「ありがと、」とささやく。その横顔を後ろから見ながら、ポケットに入れてきた合鍵は、やはり燿平に渡そうとアキは思った。

 道路が途中から混雑していたせいで、ギリギリの到着時間になってしまった。アキは摂を車いすに乗せて、「駐車場入れとくから先行って!」という弟の言葉に甘えることにした。
 広い成田空港を、摂が同僚からきいたという搭乗口に向かって急ぐ。人は多いが、道が広々としているので存外通りやすかった。遠くに人だかりが見えて、中心に成一が立っていることがわかる。
「思っていること全部、せいちゃんに伝えておいで」
 摂の耳元でそっと伝える。
「おれ、結構嫉妬深い方やけど……せいちゃんなら、許す」
 振り返った摂は、眼を見開いてアキの真意を探っている。喜びと切なさの入り混じった視線でこちらをみつめている成一を展望デッキへと誘って、アキは車いすをゆっくり押した。

「行かなくていいの?」
 車を停め終わった燿平が、展望デッキから離れた、喫煙所にたっていたアキに声をかけにくる。吸うというよりもくわえていただけのタバコを灰皿に押し付け、燿平の額にデコピンをお見舞いした。
「こういうときは、ふたりだけにするもんやの。お前はまだまだガキやな、ガキ」
「フーーーン、ガキねえ。いつも自分からは手を伸ばせなくて、誰かに助けてもらってばっかの兄ちゃんは、ガキじゃないっていうの」
 言葉を失って、隣に立っている燿平を振り返る。たばこを慣れた様子で口にくわえ、火をつけた燿平がうまそうに煙を吐き出す。どうみても、最近吸い出した感じではない。
「もう、星野さんはいなくなるんだよ。兄ちゃんや六人部さんを、星座みたいに繋いでくれたあの人は、文字通り星になっちゃった」
「……死んだみたいに言うな」
 かろうじて口をついて出た反論は、頼りないものだった。ふう、と溜息をついてから、燿平が「愛着障害って、自覚を伴うものなのかな?」とひとりごとのように言った。
「水谷か。あいつ、余計なこと言いやがって」
「本当は愛して欲しいのに、その人から離れようとしてしまう。いつか捨てられることが怖くて、いつも不安で、どんなに言葉を尽くされても、信じることができない、でしょ?」
 煙の立ち込める喫煙所から、アキはさっさと出て行く。うしろから、慌てて燿平が追ってきた。
「インドネシア、いくの。またそうやって逃げんの、せっかく星野さんが繋いでくれたのに。いろんなひとが、ふたりのために動いてくれたのに、またそうやって別々になんの」
 人通りの多い通りの中、燿平の声を無視してアキは展望デッキへと向かう。成一に最後の言葉をかけることはできないが、せめて飛行機が飛び立つところは、摂と一緒にみたかった。
「燿平、これ預かって。おれの家の鍵、たまに空気入れ替えてくれたら助かる」
「……いやだ」
「お願い。こんなこと頼めるの、お前しかいないんだよ」
「どうして六人部さんじゃダメなの。あの人、同じ街に住んでるんだよ。兄ちゃんのために命だって投げ出したんだよ。ねえ、なんで。なんで信じられないの、なんでそうやっていつも逃げんの!」
 腕を掴まれ、大声で呼び止められる。周囲の人が、何事かとみているのが分かって、アキは燿平の肩に手を置いて「逃げるわけじゃない。仕事で行くんだよ、人を助けに」と声を抑えて言った。
「本当にそうなら、どうしてちゃんと言わないんだよ?どうしてこの鍵をおれに渡すんだよ、知り合ったばっかの、良く知らないおれに!」
 もう何も言えなくて、アキは黙って燿平をみつめた。その表情は、みたもの全てが心から謝りたくなるような、哀愁と申し訳なさでいっぱいだった。怯んでしまうほど美しい顔に間近でそんな表情をされて、燿平は口を開けたまま固まった。
「わかったよ。もう言わない。…でも、兄ちゃん、ほんとうに欲しいなら、自分から手を伸ばさないとダメだよ。どんなに怖くても、いつかなくなるかもしれなくても、みんなそうやって手に入れるんだからね」
 知っている。誰よりも分かっているのに、アキの心に根付いた不安が、いつも耳元で「信じるな」「他人に自分をゆだねるな」と呪文のように唱え続けるのだ。そうしていつも人と深く関わらないように、自分の中に入れないように、寂しさだけを友人にして長く過ごしてきた性質を、すぐに変えることは難しかった。
――それでも愛してしまうのは、愛することができるのは、摂と聡の愛情のお蔭だった。
「いってしまった」
 展望デッキへ上がると、夕暮れの空を見上げている摂の頬を、流れる涙が見えた。後ろから抱きしめて、アキは硬い髪の中へそっと声を落とす。
「また会えるよ」
 離れた場所で、燿平が同じように空を仰いでいる。車いすから立ち上がった摂が、夕空に向かって手をかざし、一度だけ大きく手を振った。それから所在なくおろされた手のひらに、アキは自分の左手を重ねてそっとつないだ。もう一度、今度は少し強い口調で言った。
「大丈夫」
 握り返される、てのひらが熱い。風が強く吹いて、摂の涙も遠くへと運んでいった。

 退院の日、アキが手続きを終えて病室を訪ねると、摂はすでに荷物をまとめてベッドに腰掛けていた。世話になった主治医や看護師にも挨拶を済ませた、といって立ち上がる様子は、もうすっかり元気そうに見える。
「家まで送るよ。休みなんだ」
「ありがとう」
 本当は、佐々木に頼み込んで休みを変わってもらったのだが、そんなことはおくびにも出さない。
 病室に置いてあった卓上カレンダーは、三月二十九日の今日、赤でまるく囲まれている。よほど待ちわびた退院だったのか、摂はアキをおいてさっさと駐車場へと歩いていく。
「もうすぐ桜の季節だな」
 まもなく蕾がひらこうとしているソメイヨシノの木を見上げながらアキがつぶやく。摂のアパートの敷地の中には、ソメイヨシノの他にもいくつかの樹木が植えてあって、建物も古い割には手入れが行き届いていた。
 白と黒の猫が、外階段の前でひなたぼっこをしている。摂が近づいても逃げずに、面倒そうに顔を持ち上げただけだった。慣れた様子で二匹の猫を撫でてから、摂は彼等をまたいで上がっていく。
 車を敷地のあいた場所に停めさせてもらってから、アキも後を追う。アキが近づくと、猫たちは素早い動きでどこかへ消えてしまった。
「大家さんの猫なんだ。一階に住んでる。…荷物ありがとう」
「どういたしまして。…猫、春だからかな、気持ちよさそうだったね」
 アキが肩にかけた荷物を引き受けて、廊下へ投げる。片付いた玄関で立っていると、入ってくれ、と手を引かれて慌てて靴を脱いだ。ローテーブルとクッションが置かれたリビングに腰掛けて、摂が窓を開けたり、コーヒーを淹れようとしているのをぼんやりと眺める。
 手伝おうか、と声をかけても断られ、テレビをつけるのも違う気がして、アキは部屋の隅で膝をかかえて座った。テレビとテレビボード、部屋を囲むように設置された本棚と、ぎっしり詰まった本。医療関係の書籍が多いが、もともと読書家の摂らしく、日本の名だたる文豪の本からはじまり、海外の作家に詩集、写真集と幅広く並んでいる。
「コーヒーでよかったか。他にもいろいろあるが」
「大丈夫、ありがと。ねえ、これおれも部屋に飾ってるよ」
 本棚に飾ってあった写真は、聡と摂、それにアキの三人で撮ったもので、アキに至っては毎日持ち歩いて、辛いときは眺めたりしていた。
 写真立てを持ち上げて、顔の隣に持ってきたアキが、写真の中の自分と同じように微笑む。摂が一瞬その表情に魅入ってから、目を逸らして座るよう促した。
「いただきます」
「どうぞ。…アキ、頼みがあるんだ」
「なんでも」
 隣に座った摂と目が合う。真剣な表情に、アキも笑みを引っ込めて視線を返す。
「今度、一緒に父の墓参りに行ってくれないか。墓前で報告したいんだ、ふたりでいきていくこと」
 テーブルに置いていた左手に、摂の指がそっと触れてくる。やがてゆっくりと手を握られて、肩がふるえた。
「聡さんが…許すかな、おれたちのこと。反対してたのに」
 わざと返事をせずに、アキは目を逸らす。逆の手で頬を包まれて、視線を外すことを許さないとばかりに摂のほうへと顔を向けさせられた。その指は、愛おしげに頬を撫でて、髪に触れ、耳の下を包んだ。
「決定事項だから、許すも許さないもない。もう、自分の気持ちから逃げない」
 抱き寄せられて、アキの自制心が揺らぐ。離れなければ、という理性にヒビが入って、体が溶けそうなほどの歓びが満ちてくる。抱きしめたい、触れたい、触れられたいという恋情で、たちまち顔は上気してひとみが潤んだ。
 全身で誘惑されて、摂は息を飲む。すぐにも押し倒したい、という獰猛な顔を一瞬みせた後で、唇を噛んで頭を振った。
「だからアキも、おれを選んでくれ。たくさんのものを奪うかもしれない、子供や、社会的な承認を、アキから奪ってしまうかもしれない。それでもアキと生きたい。すぐに信じられなくていい、愛していると言わなくてもいい、側にいてくれ」
 座ったまま壁に押し付けられて、とうとうアキは目を閉じる。こめかみに柔らかい唇が当たって、まぶたの上へ、そのまま唇に。戸惑っていた腕を、摂の首にまわして抱き寄せる。重なった唇のやわらかさと、息のあたたかさに泣きそうになる。
 頭を手のひらで庇いながら、そっとラグの上に押し倒される。触れた舌は、やけどしそうなぐらい熱かった。羞恥と欲情で顎を上げたアキの首筋を、摂の舌がそろりと舐める。うすく目を開けて摂の表情を盗み見ると、眉を寄せて興奮を隠さない雄の顔が、挑発的に見上げてきた。
「…一か月は、激しい運動だめだって言われただろ…!うあ、」
 首筋を甘くかまれて、声を上げる。摂の切れ長で涼しげな目元が、野生動物のようにぎらりと光った。
「ゆっくりするよ。なるべくていねいに、やさしくする」
 忍耐力には自信があるから。そう言いながら、摂の手のひらはいままでアキが経験したことがないほどやさしい動きで、服を脱がせにかかる。指で腹から胸元へと撫で上げるようにカットソーをたくし上げられて、あっという間に首元に服が寄せられ、たわんだ。まだ肌寒い室内にさらされた白い肌が、ざわりと粟立つ。それは寒さだけではなく、性的興奮が原因であることも否めなかった。
「う…、ちょっとまって、まって」
「もう二十年待った、と何回言えば納得するんだ」
 首筋から鎖骨へ、摂はキスをしたり甘噛みをしながら移動していく。その間もずっと、朱の走ったアキの顔から目を逸らさない。片時も見逃してなるものか、とばかりに、ぎらついた眼でじっとアキの顔をみつめつづけながら、てのひらはどんどん不埒さを増していく。デニムのボタンが外され、するりと足首まで脱がされて、アキは目を閉じて顔をそむけた。
「こんな、あかるいところで恥ずかしい」
「恥ずかしそうなアキもいいな。興奮する」
「そういうこといちいち言うな!あっ、だめ」
 口を手でおさえても、声が止められない。自分に触れているのが摂だと思うだけで、アキはたまらなく興奮した。大きな手は何度かふれたままに熱くて、なぜか少し震えていた。
 摂は服をすべて着ているのに、アキだけが裸にされていく。ベージュと白のボーダーカットソーも、グレイのパーカーも首から抜かれて、ラグの上であっという間に下着姿だ。蛍光灯と窓から差し込む朝の光に、アキは全身を羞恥でうすく染めた。
(まさか、摂がこんなに大胆にくるとは思わなかった)
 閉じようとする膝の間に割り入って、摂も来ていたVネックのセーターを脱ぎ払う。ローテーブルのそばに無造作に投げられた上衣と、少しやせたものの逞しい摂の上半身を、アキは交互に見た。
 目が合うと、摂が目を細めてうっすらと微笑む。
「きれいだよ」
「そういうのいいから!」
 何が恥ずかしいのか分からない、とばかりに、摂が首を傾げる。そして突然、アキの膝裏を掴んでぐっと足を開いた。
「なにすんだよ、やめろ、ばか」
 下着は着ているが、とんでもない体勢に声が大きくなる。摂は全く頓着せず、持ち上げたアキの右足の指を、ぺろりと舐めて、口に含んだ。
「…っひ…や、いやだ、もうほんとやめて……」
 朝、風呂に入ったものの、心理的抵抗感でアキは涙ぐんだ。その声がますます摂を興奮させることに気付かず、いや、やめてと懇願する。音を立てながら舐められ、キスをされて、指の間に舌を這わされる。
 これまでアキは、セックスで主導権を握ることで、決して相手に自分をゆだねまいとしてきた。快楽に溺れそうなときでも大概は、冷めた自分が状況を静かに見つめていて、行為そのものに没頭することはなかった。
 いま体験している、体が痺れるような快感、ふれた先から火花が散るような熱さは、未経験のものだった。
(気持ちがあるというだけで、こんなにも違うのか)
「アキ」
 名前を呼ばれて、閉じたまぶたを開く。手首を掴まれて、硬くにぎっていたてのひらが、摂の裸の胸へと導かれた。そこは、落ち着いた表情からは想像できないほど、早く、強く拍動していた。
「緊張してるの…?」
「そうだな。…うれしくて、まだ信じられない」
 持ち上げていたアキの足を下ろして、摂は自分の胸に触れているアキの指を持ち上げ、口づけた。
(自分だけが興奮してるのかと思った)
 衝動に突き動かされ、アキは起き上がって摂にキスをした。舌をあいたくちびるの隙間に差し込むと、一瞬驚いたような顔をした後、激しく復讐された。目尻を赤く染めて眉をよせ、鼻から甘い声が漏れるアキの表情に、普段は決して冷静さを失わない摂が噛みつくようにキスを返す。
「これで…信じたか。おれが本物やってこと」
「ああ。なにせ、妄想の中で千回は抱いてるから、時々夢か現実か分からなくなるんだ」
 冗談なのか、真実なのか分からないことを、滴るような色っぽい顔で摂がいい、唇を吊り上げた。ふたたびラグの上にアキを押し倒して、今度は横抱きにして後ろからうなじへ、唇が吸い付く。指は先ほどよりも遠慮なく肌を暴き、右手はなだらかな腹部から胸元、左手は下着の上から包むように性器を撫で上げ、意図を持って動き始める。
「あ、はあ、…ん」
 首にかかる息が荒くなっている。腰に、痛そうなほどに硬くなった摂の性器が当たっていた。手を伸ばして触れようとすると、腰を引いて避けられる。
「んう、なんで…?」
 擦られた下着が濡れ始め、音をたてる。手を止めようと振り向けば、たちまちキスの嵐が降ってきて、反論のひとつも許されない。口から洩れるのはあえかな声に絞られてきて、摂は満足げに微笑む。
「ぬれてきた」
「さわられたら、誰でもなる…!」
「誰でも?」
 怒ったような顔で、ますます激しく擦られる。胸の先を爪で弾いて、右手が乳首をひねりあげた。痛みと快楽で、あられもない声が漏れる。ああ、やだ、と身をよじると摂は肩口に噛みつき、この傷を作ったヤツを殺してやりたい、と低い声で囁いた。
「さっき、アキが嫉妬深いと言ったけれど」
 下着の中に指が入ってきて、興奮で濡れた性器に直接触れる。はじめは優しく、次第に強く擦られて、アキは右手を噛んで声を抑えようとする。気持ちがよかった。もう、身も世もないほどに溺れていた。
 耳を噛み、音をたてて舐めしゃぶられる。耳をふさぎたくなるような水音がきこえた。
「おれのほうがずっと、嫉妬深いんだ」
 子供の頃からずっと閉じ込めたかった。どこか、自分以外の眼が触れない場所へ。そう言いながら、荒い息をわざと耳元へ吹き込む。興奮が渦のように押し寄せてきて、全身が戦慄く。
「はなして、いく、…あっ、いくからあ…!」
 ドロドロとした直截な欲望をぶつけられて、アキはたまらず絶頂してしまう。脱がされていない下着の中が濡れそぼり、涙をうかべた形のいいひとみが摂をみる。知らない顔だった。何度も想像したどんな淫らな顔よりも、清廉で、美しく、淫靡だった。それだけで、極限まで硬くなった自分の性器まで震えて、同じように達してしまう。
 これまで長い間自分の欲望を抑圧してきたのに、と摂は驚く。子どもの頃の漠然とした欲求から、はっきりとした性欲にかわるまで、幾度となくアキに触れたくなり、衝動的に犯してしまいたくなったが、ずっと耐えてきたのに。
「本物はすごいな」
「なんのはなし」
 自分だけは、アキを身勝手な性欲で傷つけたりしないと決めていたんだ。でも、我慢できなかった。
 その声に、アキはクスっと笑った。射精したばかりの気だるい腕を上げて寝返りを打ち、正面から摂を抱きしめる。
「我慢する必要、どこにあんの。好きにしていいんだよ、摂」
 下着を脱がせる摂のために腰を浮かせて、同じようにアキも摂を裸にした。
「お前だけは、昔から何をしてもよかったのに。おれは全部、お前のものなんだから」
 日に焼けた摂の身体に重なるように、アキの白い肌が密着する。朝の光が、アキの身体をふちどって白くひかってみえた。横になった摂の足の間に入り込んで、いやらしく笑った。
「今度はおれがしてあげる」
 まだガーゼを貼ったままの腹の傷に触れないよう、やさしくキスをしながら、アキは摂のまだわずかに硬い性器を口に含んだ。そんなことしなくていい、と慌てて肩を押す摂に、したいんだよ、と反論して舌を裏筋に、何度も往復させる。白くて長い指が、高い鼻筋が、血管の浮きあがったそれを擦ったり触れたりする様を、摂は自分の足の間から信じられないような気持ちで眺めた。グロテスクな自分の性器が、アキの口の中に飲み込まれ、絶妙な刺激を受けてどんどん膨らんでいく。
 苦しそうな、それでいて食いついてきそうな顔をしている摂を盗み見ながら、アキは自分の身体もまた熱くなっていくことを自覚していた。凛々しい眉が寄せられて、切れ長の眼は欲情をあらわにしている。大好きな顔の、知らない表情。
(覚えておこう、絶対、忘れたくない。今日のこと全部、一分一秒だって)
「アキ、もういいから…!」
 急に肩を強く押された。喉の奥までのみこんでいたせいで、アキはごほごほと噎せてしまう。唇の横から飲みこみきれない唾液が垂れて、それを見とがめた摂がべろりと舐めた。横になったアキの腰の下にクッションを差し込み、足を開いて内腿に強く吸い付く。噛まれ、舐められて、赤い痕になった。
「んん…摂、…?」
 上からじっと瞳をのぞきこまれて、動揺した。どこか哀しげな眼に不安になって、アキは顔の横に置かれた摂の手を、上から握る。
「ゴムがない。すまない、忘れてた」
 ずっとしてなくて。そうクソ正直に告げる摂に、アキはついつい笑ってしまう。
「…して。つけなくていいから、そのまま」
「でも」
「いいから。でも、何かでならさないと入らない、ローション、とか…」
 言いながら赤面してしまう。急に困ったような顔になって、摂も目尻を赤くした。
「その顔は…。ただでさえ、もう限界なんだ、やめてくれ」
「ローションがないなら、ハンドクリームとかワセリンでもいいけど、…ひゃ!」
 なるべく目を逸らしているが、視界に入ってくる摂の凶器は相当に大きかった。さすがにあれをいきなり突き刺されると、アキのダメージは甚大だ。そう考えて助言している最中、いきなり濡れた指がアキの中に侵入してきてあられもない声を上げる。
「あ、あう…なに、つめた…」
「専用のローションを買っておいたんだ。痛くないか?」
 ゴムはないのに、そんなものいつのまに。言いかけて、声になって出てきたのはいやらしい喘ぎ声だけだった。粘度の高いローションにぬれた指が、アキの中でうごめく。圧迫感を感じたのは一瞬だけで、たちまち気持ちのいい場所を探し出した摂が、そこを執拗に撫でさする。
「そこ、だめ…!や、やだ、摂、…」
 右手はアキの中を探り、あいた方の手で、長い足を大きく開く。荒い息は、摂も限界が近いことを告げていた。掠れた声で、「もうだめだ、いれるぞ」と宣言してすぐに、摂がアキの中に入ってくる。裂けるのではないかとこわくなるほどに、アキのそこが広がって受け入れていく。
「きついな…アキ、深呼吸してくれ」
「む、り…いや…大きい、しんじゃいそう」
 涙がにじんで、眼尻から流れ落ちた。首を振って身体を上へ逃げさせようとするが、その様子がますます摂を煽って中がきつくなる。
 荒い息を苦しげに吐き、じっとしていた摂が、助けを求めるようにキスしてきた。ちゅ、と音をたてながら落とされるキスは、気持ちよくてついアキも夢中になる。
「摂、痛くないの、傷」
「ん…痛いのかもしれないが、今は分からない。興奮のせいだろうな」
「何いってんの…痛かったらすぐやめないと…あっ、…んん」
 ゆっくりと腰を動かされ、のけぞる。膝を掴まれ、正面から足を開かれて、次第にグラインドが深くなる。制御できない快感に喉が鳴り、嘘をつけなくなっていく。
 欲しい、もっと、きもちいい。濡れた声でアキにねだられて、摂は夢中で覆いかぶさり、腰を振った。どちらかといえば淡泊なほうだと思い込んでいた自分の性欲だったが、単に対象が限られていただけなのだと気付かされ、目の前であられもない姿をさらす幼馴染を、食い入るようにみつめた。紅潮した頬、長いまつげの隙間から見える、かたちのいい黒い眼、うすい桜色のくちびる。わずかにひらいたすきまから、白い歯と真っ赤な舌がのぞいていて、何度もそこへ、摂は舌を伸ばす。
 狂ってしまいそう、とアキは極限まで熱くなった息を吐く。摂の額から、険しい表情をしたこめかみを伝い、汗がおちてくる。繋がっている場所が信じられないぐらい気持ちよくて、声も生理的な涙も止められない。
「…き…」
 もう意志の力ではねじ伏せられなかった。言葉が出口を求めて暴れ出し、勝手に解き放たれていく。
「すき、摂…すき…!」
 驚きで見開かれた摂の眼を、涙のまくがつつんで決壊する。涙がアキの顔に降り注いでくる。
 抱きしめられ、中に射精されて、アキもほとんど同時に達してしまう。脱力し、圧し掛かってきた摂の髪を撫でていると、耳元にやさしい声がふってくる。
「愛してるよ、アキ」
それは、ずっと聴きたかった言葉だった。
「愛なんて、ずっと分からないと、知らないふりをしていたけれど。本当は知っていたんだ、わかっていたんだ」
 信じられない言葉で、呪いの言葉で…――なによりも、切望した言葉だった。
「はじめて会った日から、お前だけを愛している」

 さすがに傷が心配で、その日のセックスは一回で終わりにした。もっとしたい、と強請られて、アキも自制心が揺らいだものの、医師としての自分は捨てきれなかった。
 家を出るのがイヤで、ご飯は出前を取った。狭苦しい風呂に一緒に入り、おしあいへしあいしながら歯を磨いた。ベッドルームにうつってくっついてキスを交わし、色々な話をした。お互いの思い出の断片を繋ぎ合わせ、確かめあい、抱きしめあった。
「燿平がさ、せいちゃんのことを、『星をつないで星座にしてくれた人』だっていってて、…いい表現だと思った。ぴったりだなって」
 暗くなった窓の外から、月明かりが入ってきて、仰向けになっている摂の横顔を照らす。その顔がほほえみ、アキのほうへ向きなおって、「意外とロマンチストなんだな」と言った。
「でも、燿平はすごくいいヤツだ」
「…そうだね。あいつがいたから、おれは目が覚めた。復讐なんかやめようって」
「復讐?」
 アキは、ゆっくりと説明した。認知されていない自分の生い立ちを週刊誌に売ることで、父親を貶めてやろうとたくらんでいたこと。そのために長い時間をかけて調べていたこと、遺伝子鑑定までしていたこと。
「もういいんだ。地面を見て歩くのはもうやめた。これからは、摂と一緒に空を見上げて、星を探すから」
 手をつなぐ。その温もりが、乾いたアキの心を、ひたひたと温かいもので満たしていく。
 まぶたが重くなってくる。他人といると、緊張して先に眠れないはずなのに、摂といると安心して眠くなってしまう。子どもの頃からそうだった。
 布団をかぶせて、摂がアキの頬にキスをする。
 そしてひそやかな声で、「おやすみ」と告げた。

  翌朝、まだ眠っている摂を置いて、アキはそっとベッドを抜け出した。携帯電話を手に、音をたてないように家から出る。早朝の外気は、真冬ほどではないが寒くて、自分の身体を擦りながらコール音をきいた。
「井之頭部長、朝早くに申し訳ありません。先日のお話ですが…」
 インドネシア行きのJMAT。返事をする前に、井之頭が思わぬ言葉を返してきた。なんといっていいのか分からないまま黙っていると、必要な内容を伝え終えた部長は、さっさと電話を切ってしまう。
「…ははっ…あの人らしいな」
 ドアにもたれたまま、ずるずるとしゃがみこむ。それは事実かもしれないし、違うかもしれない。どちらにせよ、アキは、またしても成田空港に行くことになった。

 二週連続で成田空港にやってきた摂が、寂しげに飛行機を見送る。そのすぐ隣で、燿平が同じように目を細め、溜息をついていた。
「ったく、兄ちゃんはほんとに…」
 ベンチに座って、のんきに手を振っているアキを憎々しげに睨みつけて、燿平が車のキーを投げつける。
「まぎらわしいんだよ!行かないなら行かないって、ちゃんと言えよな!!」
「ごめんって。行くつもりだったんだけどね」
 あの電話をするまではそのつもりだった。けれど、井之頭から帰ってきた答えは、「代わりが見つかったから、もうあの件は無しだ。君は引き続き、うちで馬車馬のように働いてくれ」という身もふたも飾り気もないものだった。
「佐々木先生、ただ修羅場から逃走しただけじゃなければいいが…」
「どっちにせよ、いずれは帰ってくるんだし一時しのぎだよね」
 要は、浮気相手に家に乗り込まれた佐々木が、ドロ沼からの一時逃避もかねて立候補した、ということらしい。もちろん佐々木の実力は本物だし、志の高さも疑うところはないのだが。
 心配そうにしている摂の人のよさに、アキはひそかに笑う。伸びをして、何か食べて帰ろう、とふたりに声をかけた。
「寿司喰いたい!お医者さま~寿司~」
「帰り運転するなら食わしてやる。摂は何食べたい?」
 三人で、並んで歩く。顎に手をあてて考え込んだ後、摂はなんのてらいもなく言った。
「アキ」
 突拍子もない、冗談にもきこえそうな言い分が、いつも本気だということを知っている。声を押し殺し、顔が赤くならないように注意しながらアキは言った。
「…おれは食い物じゃないっつーの」
「おれにとっては一番美味い食い物だ。燿平は邪魔だな。ひとりで帰れ」
 わざとらしく飛び上がって、燿平が叫び声を上げる。
「なんて言い分だよ!おれだって傷つくからね?」
「金を渡すから一人で寿司を食ってこい」
 まじめくさった顔で冗談を言う摂と、楽しげに言い返す弟をみながら、アキは笑った。
(まだ、恐怖はなくならない。逃げ出したくなる衝動も、消えてないけど)
 でも、もうひとりじゃない。
 こどものころのように、ひとりで生きられないわけじゃない。摂もアキも、経済的にも社会的にも、十分ひとりで生きていける。

 けれど、ふたりでいたほうが幸せだから、ふたりでいきていく。

 走り寄ってきた燿平が小声で、「もし、佐々木先生が行かなかったら、やっぱり兄ちゃんがいってたの?」と問いかけてきてアキは鼻息荒く「当たり前やろ」と返事をする。
 嘘だった。
 医者になってはじめて、仕事よりも、人命救助よりも自分の気持ちを優先したいと思った。たとえいつか一人になるとしても、いま摂と一緒にいたいという気持ちを、生まれてはじめての我儘を、貫き通したいと思った。はじめから、断るつもりで電話をかけたのだ。
「やっぱ燿平、ひとりで帰って。おれと摂はそのへんのホテルで泊まって帰るから」
 嫌そうな声が、空に上がってきえていく。
 見事なグラデーションに彩られたマジックアワーの空。浮かんだ一番星が、三人の上で瞬いていた。

(おわり)