30 Ambulance! (指先に見える光の環)

 成一は困窮したことも、愛に飢えた事もない。
 お金がない怖さも保護者のいない苦しみも、味わった事がなかった。
 だから三嶋の考えも生き方も、想像することしかできない。実感することができない。
(満たされすぎていた、想像することもなかったぐらいずっと)
 泣きたいときは泣けたし、欲しいものは買ってもらえた。

 成一は、その人のためなら死んでもいいぐらい、誰かを愛したことがない。
 だから六人部の考えも生き方も、想像することしかできなかった。
(誰かのためになんて、生きた事がなかった)

 だから。

 名前を呼んだだけで、胸が締め付けられることがあるなんて、知らなかった。

 病室の扉をそっと引けば、六人部が上半身を起こして、ハンドクリップを握りしめたまま微笑んだ。
「星野。きてくれたのか」
 ちょっと何してるんですか、と叫んで取り上げた成一に、六人部はなんでもないように「リハビリだよ。来週には復帰するから」と言った。
「バカいわないでください、死にかけたんですよ?!」
 取り上げたハンドクリップは、握力を鍛えるための筋トレ道具だ。ベッドサイドのチェストの中に放り込み、椅子に腰かけて成一が怒ると、六人部は肩を竦めて「アキ…三嶋先生にも同じことを言われた」と溜息をつく。
 六人部の経過は順調で、2月半ばには一般病棟に移った。リハビリを入れても、3月初旬には退院できる、と目を輝かせる上司をみて、成一は言葉に詰まる。伝えなければいけないことがあるからこうして見舞いに来たというのに、後回しにしたくなってしまう。
 持ってきた花を飾り、備え付けの冷蔵庫にゼリーやプリンなどをしまってから、どう言おうか、と俯く。安物のパイプ椅子から、成一の長い足がはみ出して、窓からはいってくるやわらかい冬の日差しに、濃い茶色のコーデュロイパンツが明るく照らされている。
 決して気づまりでない沈黙が続いた後、六人部がやさしい声で問いかけた。
「どうしたんだ?」
「なんで、わかったんですか」
 相談したいことがあるってことを。成一が呟くと、六人部がうん、と頷く。
「一年ちかく、一緒にいただろう。一番近くで、長い時間」
「…そうですね」
 署長に言われた言葉を頭の中に浮かべながら、切りだそうとする。止めて欲しかったのかもしれないし、背中を押してほしかったのかもしれない。成一には、自分の気持ちがよく分からなかった。だからこそ、何も言わずに行こう、と決めた。
「やっぱり、なんでもないです」
 六人部の眼が丸くなる。そして、寂しそうに笑った。
「そうか。もう、お前は一人で決められるものな。今も、おれの穴を十分に埋めてくれていると、署長からきいている」
「ちゃんと補充入ってくれてるからですよ。欠員が出てたらこうもいかなかったですし、大友さんもすごく助けてくれています。でもやっぱり、隊長がいない穴は大きいです」
 かみしめるように言葉を紡いでいると、遮るように六人部が言った。
「大丈夫だ、星野なら」
 安請け合いはやめてください、とは言えなかった。六人部が嘘も御世辞も言わないことを、成一は知っている。
「お前なら、どこにいっても大丈夫だ」
 弾かれたように顔を上げた。不意に、母親のヒステリックな否定の言葉が、かつての上司のパワハラじみた罵倒が、頭の中によみがえってくる。顔をゆがめて罵られた数々の言葉、期待外れだった、お前なんか何もできない、いなくなってしまえ。縮こまって逃げたくなる記憶に、六人部の言葉が風穴をあける。
「迷わずに進め。お前が正しいと信じることを、おれも応援する。一緒に信じる」
 ずっと自信がなかった。自分に、本当に人が救えるのか、そう葛藤し続けてきた。自分はダメな人間だ、と思うことで、向き合い、戦うことから逃げてきたのだと成一は気づいて、ぐっと唇を噛む。真摯な六人部の言葉は、いつも説明が足りなくて不器用で、それなのに、いつだって成一を勇気づけてくれた、励ましてくれた、背中を押してくれた。
「おれは…三嶋先生みたいに、特別な才能もなければ、能力もないですけど」
 ベッドの上に投げ出されていた、六人部の手を握った。振り払われるかと身構えたが、上司は何も言わずに成一の目をみつめ、先を促してきた。
「でも、できることはあると思うんです、そう思えるようになったんです」
 右手をそっと握り返してくる力に、成一は泣きそうになった。

「だから行きます。あなたの代わりに、カンボジアへ」

 寒さが身にしみる。そう言い合いながら救急車からおりる。朝一の出動から帰ってくると、応援で入っている隊員がさっそく成一に話しかけてきた。
「星野、さっきの出動の件だけど」
 入院している六人部のかわりに入っている消防隊員は、星野のふたつ上の先輩だ。普段は救急隊ではなく消防隊所属になるが、忙しい救急隊は欠員を出すわけにはいかないため、一時的に配置が変えられてすぐに補充される。
 簡単なやりとりを終えると、大友がコーヒーをもってきてくれた。
「ほしのっち、ほんとしっかりした子になったよね~」
「いやいや、全然です。やっぱり隊長がいないと不安だし、寂しいですね」
 成一の言葉に、大友はぐっと唇をかむ。
「患者の友人に逆恨みされて、って。…お医者さんも大変だよね」
「そうですね。しかも三嶋先生じゃなくて、外科の担当医を恨んでいたらしいですよ。三嶋先生は救急で受け入れただけだし、そもそもそのときは救命してますからね」
 コーヒーを口元に運び、窓の外を眺める。3月に入って二週目の今日、今年度の最低気温を記録した。
「でも、こういっちゃなんだけど…三嶋先生が刺されていたら、ダメだったかもしれないよね」
 あの人、細いし体力なさそうだから。あ、これ絶対秘密だよ?
 潜めた声でそういった大友に、成一は確かに、と頷く。
「あの隊長でさえ、白血球の数値が下がらないって…退院延びたぐらいの怪我だもん」
「六人部隊長は来週退院、月末ごろから職場復帰らしいです」
 成一の言葉に、何か言いたそうに大友が口を開き、迷った末何も言わずに首を振る。なんとなく彼が言いたいことが分かってしまって、成一は目の前の書類を片づけることに集中するフリをしてその場をやり過ごした。
「…ね、本当に言わなくていいの?」
 遠慮がちに大友が問いかけてきたのは、その日の業務が終わり、消防署を出た朝のことだった。消防署の周りに植えられたソメイヨシノの木々から春の気配を感じながら、成一は首を振る。
「どのみち、六人部隊長の退院には間に合わないからいいんです。行くことは伝えましたし」
「僕、すごく寂しくて。どうしていいかわかんないよ。そもそも隊長に来てた話なのに、階級ついてないほしのっちがなんで?」
 大友の疑問はもっともだ。公務員は階級によって求められる仕事のレベルが異なってくるため、司令補に依頼があれば、それ以下の階級の者がこたえることはできない。
「隊長職は北署の人が行くそうです。おれは、救急救命士の隊員枠で」
「そんなあ…カンボジアなんて、遠すぎるよ。しかも一年だよ?同じ署に戻ってこられるかもわからないし、もう僕ら…二度と一緒に組めないかもしれない」
 この一年、すごく楽しかったのに。
 そう言って大友が涙を浮かべるので、成一も泣きそうになった。ふたりで並んで歩道を歩きながら、まるで今生の別れのように向き合い、二人して涙ぐむ。
 カンボジアでの救急医療体制の確立と技術継承は、神奈川県のみならず、国やJICAも連携している大がかりな国際援助のひとつだ。五か年計画で、毎年『業務成績が特に優秀で、所属長の認める者』が推薦されてその任務にあたることになっており、三年目にあたる今年は六人部に話が来ていた。ところが今回の通り魔による傷害事件(職場ではそういう認識になっている)によって、六人部の隊長枠に空きが出た上、隊員枠で推薦されていた者が、先日発生したインドネシアの津波災害に伴う国際緊急援助隊に派遣されてしまうことになり、急遽成一に白羽の矢が立ったのだ。
「もし配属先が別の署になってしまっても、おれ、大友さんのこと忘れませんから。絶対、飲みに行ってくださいね、土産話もいっぱい用意しときますから!」
 せいいっぱいの笑顔で成一が言うと、大友がほしのっちー!と叫びながら抱きついてきた。まるで力士のような勢いと重量感に、成一は後ろ向きに倒れそうになりながら受け止める。
「出発、来週だよね。ほんと急だよ、急すぎてひどいったらないよ」
 ハンカチを差しだし、肩をぽんと叩きながら成一が言った。
「いろんな人にさよならを言わなきゃいけなくて、毎日忙しいです」
「縁起でもないこと言わないでよ!一年で帰ってくるんでしょ!」
 噛みつかんばかりの勢いに一瞬面食らったが、心配が嬉しくて成一は笑った。
「もちろん。そんで、帰ってきたら六人部隊長と一緒にレスキューやれるように、試験勉強しなきゃいけませんね」
 自転車を押しながら、これからの予定を整理した。今日の夕方は野中に会って、デジタル一眼レフを返して、その後沼田の家に最後の写真を投函して…。
(緊張するけど、怖いけど。なんでだろう、ちょっとワクワクしてる)
 知らない世界で、言葉もわからない人々に、救急のことを教えるなんて。
(きっとたくさん落ち込んで、イラついて、帰りたくなって)
 大友を駅まで見送った成一は、自転車にまたがりペダルを踏み込む。自宅へ向かうゆるい坂道を上るべく、力を込めて漕いだ。
(でもきっと、今の自分じゃない新しいおれになれる気がする)
 だいじょうぶだ、おれは。隊長がそう言ったんだから。
 呟きながら、成一は自転車を漕ぐ。愛車に乗れるのもあと数日だと思うと、自然と足に力が入った。自宅にほど近い坂の上まで来たとき、朝十時を過ぎた由記市が眼下に広がった。3月半ば、最低気温に近い六度のつめたい風が成一の頬と髪をさわって通り過ぎていく。すでに朝ごはんの時間を過ぎ、通勤の時間も過ぎて、街が動き出している気配が伝わってきて、成一は胸いっぱいに故郷の空気を吸い込み、ゆっくりと吐いた。26年間、この街で過ごしてきた。楽しいことも辛いこともたくさんあったけれど、今はただ感謝している。
 雲ひとつない青空の下、海に向かって広がる街には、成一が顔も、名前も知らない人々が働き、眠り、恋をしたり病気になったりして、生きている。誰かと誰かの人生がときどき偶然交差し、成一が助けたり、助けられなかったり、助けられたりしている。
 携帯電話を取り出して、カメラのアプリを起動した。朝日でもなければ、夕焼けでもない、人々が生きて活動している由記市を一枚、写真に撮った。六人部がいる街、三嶋がいる街、家族が住む街。
 画面を覗き込んで、一番きれいに撮れたものを待ち受け画面に設定した。照れくささと寂しさの入り混じった笑みを浮かべてから、成一はふたたび自転車に乗った。今度は振り返らずに、自分の行くべき場所へと真っ直ぐ走りぬける。

 きちんと磨いてバッグに入れられた一眼レフを目の前に、野中は黙り込む。酒が飲めない彼女を呼び出したのは、居酒屋ではなく、成一が昔から時々行く洋食屋だった。成一がすすめるままにデミグラスソースのオムライスを食べた野中は、店を出た成一の背中を追いかけてきた。
「あの、お金」
「いいよ、ごちそうするから」
「星野さん」
 洋食屋の向かいは公園になっていて、少し歩こうか、と言って返事もきかずに成一は野中を振り返らずにソメイヨシノの並木道へと歩を進めた。三歩ほど後ろを、うつむきがちに野中がついてくる。枯葉を踏みしめるかさついた音が、無言のふたりに気を使ったように鳴る。
 鳩の鳴き声と、木々が風に揺れる音に成一が顔を上げる。枝の先がわずかに膨らんで、やがて春が来ることを知らせていた。
 振り返り、声をかけようとしたところで背中に衝撃を感じた。
「…好きです、星野さん」
「野中さ」
「あれから考えました。混乱して怖くて、分からなくなって、でも答えは一つだと気づいたんです。あなたの声が聴きたい。あなたと一緒にいたい、あなたにさわりたい。好きです。きっとこれが、好きってことなんです」
 声が湿っていることに、成一は焦った。
「泣かないで、おれ女の子に泣かれるのほんとダメなんだ」
「あなたと離れたくない」
 カンボジアに一年間、仕事で行くことになった。明後日から。さっきそう伝えた瞬間、野中の顔は色がなくなった。驚きだけでない感情がそこにあることに成一は気づいて、先日彼女が言ったことばの意味を、ようやく悟った。あれは愛の告白だったのだ。
「泣かないで、お願い」
 静かな嗚咽に振り返り、縋りついていた両手を繋いだ。つめたくなった野中の手のひらを握る成一の手はあたたかくて、涙に濡れた赤い眼が、引き留めるように見上げてくる。胸が甘く痛んだ。朱のさした頬と鼻先がかわいそうで、抱きしめたくなる。
「ありがとう、ごめんね。おれ、野中さんのことそういうふうに考えた事ない」
 傷ついた視線に、今度は胸が軋む。自分がついこないだ感じた失恋の痛みを思い出し、たまらない気持ちになる。
(でも、ちゃんと言うのが愛してくれた人への誠意だ)
「おれ、六人部隊長のことが好きだった。この一年、だから辛くて、楽しくて、はっきりフラれたんだけどまだ全然忘れられてなくて。もうね、生傷だよ。フラれたてほやほやだし、まだ血が出てる状態」
 おどけたような声を中断するように、野中が言った。
「わたしを利用してください。キスでもそれ以上でも、あなたなら構いません。したことないから、うまくできないかもしれないけど…頑張りますから。だから」
 握っていた手のひらを振り払い、正面から抱きつかれる。やわらかい花のような香りが鼻をかすめて、息苦しくなった。久しく嗅いでいない、女の子の匂いと温度と柔らかさだった。
「ありがとう。でも、そんなことできない。バカだよな、こんなに可愛い子にここまで言われて、本当勿体ないよな」
 心臓が高鳴るのは仕方がなかった。なんとか自制心を総動員しながら、野中のピーコートを着た背中をなだめるように撫でる。
「あなたと、走るのが好きで。あなたの踊りが好きで、あなたの声がすき、だいすき」
 堰を切ったようにあふれ出る愛の言葉に、成一は「ありがとう」「ごめんね」を繰り返す。細い背中がふるえて、涙が成一のダッフルコートを濡らす。
「手紙、書いてもいいですか」
 ひとしきり泣いた後で、野中が照れくさそうに笑いながら言った。おとなしそうな子だと思っていたのに、こんなに大胆なところがあるんだ、と成一は驚いていた。
「もちろんだよ。きっと泣き言いっぱい言っちゃうと思うけど…。でもなんで、LINEとかフェイスタイムじゃなくて手紙なの?」
 手の甲で乱暴に涙を拭おうとする彼女にハンカチを差し出してから、成一が問いかける。当然じゃないですか、とでも言わんばかりに、野中が得意げに笑った。
「愛を伝えるのは、昔から手紙だと決まっているでしょう?」
「結構押しが強いんだねえ」
 目を合わせて笑い合う。
「写真を撮って、ポストカードにして…言葉を添えて送ります。でも、その前に」
 カメラをバッグから取り出して、タイマー操作をした後で野中が目を細める。
「写真、一緒にとってください」

 自分のシフトじゃない日の夜中に出勤するのは初めてだった。ロッカーと机はもう整理したし、署長やメンバーに挨拶も済ませた。窓から見える、沼田が住むマンションに最後の写真も投函した。
『一年ぐらい仕事でカンボジアに行きます。お元気で 星野』
 写真は相変わらず下手だ。携帯で撮った、由記市の朝を現像して白いペンで殴り書きした。書きたいことは、たくさんあるような気も、何もないような気もした。
 一番出動が少ない時間を狙って、雑巾を片手に救急車の前に立つ。
(今まで一緒にいた相棒は、大友さんや隊長だけじゃない。お前にも、世話になったな)
 腕まくりして、気合をいれて拭きはじめる。仕事道具なのでマメに洗車はしているが、普段行きわたらないところを重点的に洗ってやった。ホイールの汚れや、窓のワックスがけを丁寧にやりながら、成一の頭の中には一年間の思い出がよみがえる。六人部に叱られたこと、その倍以上褒めてもらって嬉しかったこと、大友と三人で飲みに行ったこと。助けられなくて落ち込んで帰った、署の前の歩道、二人で歩いた由記駅前のロータリー、コーヒーを飲んだカフェ。
(湿っぽいのはごめんだ!そら、きれいになれよ~、相棒)
 明日は署のメンバーが数人、見送りに来てくれることになっている。だがその中に、まだ退院していない六人部はいない。
 三月の風はまだ冷たく、フード付きのパーカーだけでは凍えそうだったが、力をこめて車を拭いているうちに、少しずつ全身が温まってきた。雑巾には、日ごろ拭いきれていない黒い排気ガスの汚れがべったりとついていて、成一の心は熱くなった。頑張ってきたのは、人間だけじゃなんだよな、と。
「やっぱり、いるとおもった」
 はしごの上に上り、サンルーフを拭いていると後ろから声を掛けられ、飛び上がりそうになった。そこには腕まくりした大友が、雑巾を片手に得意気に笑っていた。
「ほしのっちはこういうことしそうだな~っておもってたら本当にするんだもん。手伝うよ」
 情けない笑みを浮かべながら、成一が頭を下げる。
「ありがとうございます。…どうしてわかっちゃうんだろ」
「一年一緒にいたんだ、それこそ朝から晩まで。分かるさあ~~~」
 僕、お別れなんて嫌いだ。そう言いながら一緒に救急車を拭いてくれる大友の後ろ姿に、もういちど深く頭を下げる。
(また会いましょう、一年後、もっと役に立つおれになって帰ってくるから)
 大友と六人部には、あえてさようならは言わないでおこう、と成一は思った。

 千早にメールを送った。彼がニューヨークに立つとき、見送ったのは実は成一ひとりだけだった。誰にも時期は言わずにいくつもりだったんだけど、と千早が恥ずかしそうにしているのを見て、成一もむずがゆい気持ちになった。でも納得していた。
「いつかこういう日が来るだろうなって思ってたんだよな」
「へえ?なんで」
「千早には、他の人にはない才能があるから」
「それは…どうも」
 珍しく赤くなった千早の顔は見ものだったので、あえてしげしげ眺めてやった。
「巣立ちだな。気をつけろよ、お前って相手を舐めてかかるところあるから」
 成一が握手とともに伝えた言葉に、千早はいたずらっぽく笑って、こう返してきた。
「へへ、お先に。星野さんの巣立ちはいつになるのかな~」
「うるせえやい」
 千早の手はとても熱かった。それを、時間が経ったいまでも時々思い出す。

 リムジンバスが揺れて、空港に到着したというアナウンスが流れる。スーツケースを押しながら歩く成一は、身軽な私服姿だ。国緊隊なんかではみんな制服を着ているが、今回のような小規模な派遣の場合、制服着用義務はない。
 成田空港の広いロビーを目的地に向かって歩く。携帯電話がポケットで震えて、千早からEメールが届いた。立ち止まって、メールを開く。
『とうとう星野さんも巣立ちだね!気を付けていってらっしゃい。
 一年半後、東京のブルーノートで会おう、招待してみせるからね』
 意味がよく分からなくて首を傾げていると、ロビーに待っていた見送りの人たちに声をかけられた。両親や、つい先日国緊隊でインドネシアに行ってしまった兄の姿はなかったが、署の面々が横断幕と一緒に手を振ってくれている。
「気を付けて行って来いよ」と署長。叩かれた肩が痛いぐらいだったが、成一も笑って「ハイ!」と返事をする。大友が泣きながら袋一杯の食べ物を押し付けて、「おなか壊しちゃだめだよ」「知らない人についていっちゃダメだからね」と忠告してくれた。同期や、他の隊の仲間も口々に成一を励まし、思わぬ人数の見送りに、成一は驚きと一緒に心配になった。
「嬉しいですけど、署のほうは大丈夫なんですか?」
「もちろんシフトのないものだけだよ、安心しろって」
 野中の姿もあった。体格の大きいものの間で、埋もれそうになりながら手を振っている。
「手紙書きます」
「ありがとう、待ってる」
 周囲の隊員達が一斉に囃し立てる。これだから体育会系ってやつは!と呆れながらも、このノリともしばらくサヨウナラかと思うとさびしい。十数人によってたかって揉みくちゃにされながら、視界の隅に入ってきた初老の男性に驚いて叫んだ。
「沼田さん!?」
 元気そうで、良かった。そんなことを言いながら近づいてきた成一に、沼田は迷惑そうな顔でA四の封筒を押し付けて立ち去っていく。のしのしと、周囲を威圧するような足取りに、大友が隣で「変わってないなあ~、ほら、署に怒鳴り込んできたときと同じだよ、歩き方」と言って忍び笑いした。
「それなんだろうね?まさか、お金…」
「いやいやいや、それはないでしょ」
 ホーチミン行き航空便の、搭乗手続き開始がアナウンスされる。見送りにきてくれた人々の中に、やはり六人部の姿はなかった。退院が延びて、まだ入院しているはずだから当然なのに、成一の心は寂しさで翳る。
(まだ全然諦められてないなあ、おれ、結構しつこかったんだな)
「ちょっと待って!」
 窓口に向かおうとしたところで、後ろから呼び止められる。振り返って、目を剥いた。
「ひどいやん、摂にお別れの言葉も無しとか。せいちゃんの薄情もの!」
「まったくだ」
 車椅子に座っている六人部と、それを押している三嶋だった。
「ど、どうして!?」
「抜け出してきた。アキに協力してもらって」
 なんでもないことのように言う六人部に、成一が「なにしてるんですか!」と声を荒げる。
「シッ!署長さんにみつかったらヤバイねん。搭乗手続きは終わった?」
 相変わらず人目を引く容姿を帽子で隠して、三嶋がささやく。
「いや…まだですいまから…じゃなくて!」
「じゃあ済ましておいで。展望デッキで待ってるから」
 あー担当医に怒られるし師長にも怒られるわあ、などとボヤキながら、こそこそと三嶋が六人部と共に展望デッキへと消えていく。何が何だか分からない高揚感を押し殺しながら、成一は搭乗手続きとともに手荷物を預け、展望デッキへ向かった。

 日が沈み始めた空を飛行機が飛んでいく。滑走路をすべっていく旅客機の青や白に目を細めながら、買ってきたコーヒーを六人部に手渡した。夕方という時間帯のせいか、展望デッキには人影もまばらだ。
「あれ、三嶋先生は」
「邪魔者は退散するって言って、どこかへ行ったぞ」
 車いすの側に立ったまま、成一は眉を下げた。ふたりの考えていることが分からなかった。
「…まだちょっと寒いし、傷に障りますよ」 
 見下ろした六人部の顔は穏やかだった。凛々しい横顔をみつめていると、まだ成一の中にくすぶっている未練と恋慕が、胸を苦しくさせた。
「こないだ言えなかったことがあるから言いに来た。すぐに終わる」
 六人部が車いすを動かして、向き合おうとするのが分かったので、成一もしゃがみこんで視線を合わせた。精悍な顔立ちには、いままで見た事がない、複雑な表情が浮かんでいた。
 缶コーヒーを側のベンチに置いて、意を決したように六人部が口を開く。
「おれは、お前のことが本当に可愛くて、愛おしくて、大切で、この世界で二番目に信頼してるんだ」
 一息に言い切った後、六人部の顔がわずかに赤く染まる。おそらく、自分の顔はもっと赤いだろう、と思いながら成一は「はい、えええ?」と返事をする。
「だから、待ってるぞ。一緒に働けることを、楽しみに待っているから。
 救命救急士を主としたレスキュー隊。お前より早くそこに行って、呼ぶからな。
 無事に帰って来いよ、星野」
 車いすに乗っている六人部が、両手を伸ばす。導かれるままに顔を寄せると、首の後ろに腕を回され、――やさしく、キスをされた。
 あまりに一瞬で、信じられないような出来事に、成一は息も忘れて固まる。
「いってらっしゃい」
 その声の真摯さに、あたたかさに、成一も心を込めて伝えた。
「いってきます。絶対、かえってきますから。次はあなたの後ろじゃなくて、隣で働かせてください」
 抱きしめた身体は、知っていた彼より少し細く感じた。硬い髪が頬に当たって痛い。
 腕を離してみつめると、六人部は寂しそうに、でもどこか誇らしげに笑っていた。

 飛行機が離陸する。遠くなっていく空港を、機内の小さな窓から追いかけた。街が、人々が遠くなっていく。
「…ずいぶんさびしそうですね」
 隣に座っている初老の男性が、気遣わしげに成一に声をかけてくる。
「はい…。はじめての独り立ちですから」
「ははは。…それは?」
 沼田に手渡された封筒を開く。無言で胸元に押し付けて去って行った、頑固な男。成一がへたくそな写真をポストカードに印刷して送っていたことが、果たして彼にどう受け止められていたのだろう。なんとなく恐くて、そろそろと袋を開く。
 それは、小さなアルバムだった。せいぜい二枚ずつ、L寸の写真が貼れる程度のものだ。
「…わあ…」
 そこには、夕暮れの由記市、赤く染まる中央署や、小高い丘の上から撮った、街の灯り。数々の美しい写真が、文句なしの画角、露出で納められていた。
『写真ってのは、こうやって撮るんだよ、へたくそ!』
 ポストイットに殴り書かれた文字に、成一は情けなく笑う。「かわいくねーじいさんだな!」と呟く成一の隣で、初老の男性はおや、という顔をした。
「…これ……」
 最後のページには、一枚の写真が貼られていた。それは一月に由記市の緑地公園にあつまり、三月になると飛び立ってしまう、渡り鳥のものだった。
「すごいですね」
 真っ白な鳥が、一斉に同じ方向に向かって飛び立つ写真。青い空を背景にした、見事な一枚だった。
 最後のページをめくる。何も写真が貼られていないところに、沼田のポストイットがまたひとつ。
『ありがとうな』
 涙がこぼれそうで、成一は上を向いた。気を紛らわそうと、六人部と三嶋から手渡された小さな箱を開く。そこには、成一の給料ではなかなか手が出ない、高級な聴診器と――小さなお守りが入っていた。折りたたまれた便箋に、一言ずつ言葉が添えられていた。
『どうか無事で。離れていても、同じ空の下で患者のために尽くす同志として、心から願っている…三嶋』
『星野といた一年弱…本当に、楽しかった。かえってきたら、一緒に美味い酒を飲もう…六人部』

 大きく息を吸う。ハンカチを探そうと、ポケットを探る前に隣の老人が、やわらかそうなブルーの布を差し出してくれた。
「ありがとう、ございます」
「いいえ。…ほら、外を。すごいですよ」
 涙を拭う。声すら出ないほどの嗚咽が、一瞬止まった。

 橙に染まる地平が、環を描いてひかり輝いている。

 成一は指を伸ばし、窓越しにその光を掴んだ。六人部隊長、とつぶやくだけで、胸が張り裂けそうなぐらい切なくなった。
(おれは、あの署に帰るんじゃなくて)

「あなたの元へ帰るから」

 指先からはみ出した夕日がまぶしくて、目を閉じる。
 飛行機は旋回しながら、日本の空から離れていった。