29 やがて、春が来ることを信じて(千早視点)

 しいて言うなら、あの眼だ。
 うつくしいけれど、絶対に何物にも屈服しないと訴えてくるあの眼。
 絶対に踏みにじってやる、と思った。涙ながらに許しを請わせ、屈服させ、魂の隅々まで犯し尽くしてやる。
 そうすれば、自分が少しだけ救われる気がした。

 

「これが、今度取り入ってほしい男の写真とデータ」
 営業が終わったバーは静かでタバコくさくて、まるでこの国じゃないみたいで、おれはそんなところが気に入っているので終わってからもしばらくカウンターの中に立っていたりする。
「わー、とんでもねえ美形」
 渡された新しい仕事のターゲットは、映りの悪い盗撮画像ですら息を呑むほど美しい男で、跳ねた無造作な黒髪の下では白衣と医師の身分証が見えた。金持ちを陥れるのは大好きなので、おれは思わず舌なめずりしながらニヤリと笑う。
「この男があの件にどう関係あるの、いつきさん」
 CLOSEDのプレートなんて彼には無関係で、鍵もかかっていないから彼は営業が終了して客がはけたころをきちんと見計らってやってきて、当たり前のようにスツールに座る。後ろに流した髪はこげ茶色、顔立ちは上品だが地味。それでも、この人が命令口調で何かを言えば、誰しも跪いてしまうような気品が全身からあふれ出ている。
「兄に政治献金を持ちかけた男がいたと話しただろう」
「きいた。その件で役員会議にかけられてつるし上げにあったんだよね。献金なんかみんなしてるっつーのに」
 軽い口調で言ったが失敗だったらしい。いつきさんが眉間に深いシワを寄せたので、おれはグラスを磨くふりをして口を閉ざす。
「絶対に兄は潔白だ。二度とそんなことを口にするな」
「はーい、ごめんなさい」
 怒ると長いし、依頼を他の人に回すといわれても困るので、おれは彼の機嫌をとるべくとっておきのウィスキーを出してきて、オンザロックで如才なく進呈する。
「分かればいいんだ。千早は賢い子だろ、僕を失望させないでくれ」
「金さえもらえればちゃんとするさ。そのあたりはよくご存じだと思うけど」
 いつきさんは加藤商事の二人いた跡取り息子のひとりで、彼の祖父はおれやじいちゃんにとって多大な恩のある人だ。ヤクザから足を洗い、芸人さんから土地を安く貰い受けたじいちゃんは、さりとて経営のことやお酒のことなんて何一つ知らなかった。そこに手を差し伸べたのがかれの祖父だった。
日本有数の商社、加藤商事は戦前からある企業で、彼等一族は元華族にあたり、現在でも霞が関や経済界と強いつながりをもっている。
 二人いた、というのは現在はひとりしかいない、ということで、つまりもう一人の優秀を絵に描いたような、彼の自慢の兄はすでにこの世にいない。加藤商事の取締役だった優秀すぎる若者は、収賄の汚名を着せられて橋げたの下で首をくくって死んでしまった。本家筋の有望な跡取りを亡くしたいつきさんの両親は、心労から病を得て経営から離脱し、今はオーストリア、ザルツブルクにある別荘でほとんど隠居のような状態で暮らしている。
「三嶋顕という。そいつは、あの男の隠し子だ。認知されていないから私生児だがな」
 ジャーナリストになる、といって大学を出てすぐに家を飛び出していたいつきさんは、兄の突然の訃報をきいて、コンゴから帰ってきた。そこで目にしたのは無残な兄の姿と、抜け殻のようになった両親、それに経営権を横取りできた為歓びを隠せない親族たちの浮き足立った様子で、聡い彼は大体の事情を把握したみたいだった。
「へえ、代議士先生の。…あんまり、似てないね」
「外見に惑わされるなよ。あの男の血を引いている上にろくな育ちをしていない、いわば成り上がりの下衆だ」
 心がざらざらして、不服を申し立てる。いつきさんの言葉が本当なら、おれだってろくな育ちをしてないクズ、ってことになるし、そういっちゃってるようなもんだけど、頭はいいのに育ちが良すぎる彼はそんなことどうでもいいらしい。つまり、いつきさんにとっておれも、その辺で死んでる虫みたいなものなんだろう。金さえもらえればそれでいい、と内心呟き、嘘だな、と自嘲する。そう思わなければ、この男の首を締めてしまいそうだった。
 生い立ちのデータとともにファイルに添えられていた写真を、改めて見遣る。眩しそうに目を細めている彼の写真に手がとまった。
(下衆はどっちだか)
 何もかも見透かされそうな、見つめていると魅入られてしまいそうな黒い双眸と目が合って、思わずため息をつく。
 この三嶋という男、確かに嗜虐心をそそる。どう料理してやろうかな、と悪役のようなことを考えながら写真をめくっていくと、一枚だけ雰囲気の異なる彼が出てきて手が止まった。
 淡く微笑んでいるか、無表情か、二つにひとつといった彼の写真の中で、その一枚だけはある一つの感情を隠しもせず露わにしている。定期入れだろうか、中を見つめながら目を伏せ、おぼろげではあるが外は雨が降っている様子だ。どこで撮ったんだ、と不思議に思うような場所で、彼は静かに哀しんでいた。見ている者も一緒につられて悲しくなりそうなぐらい、はかなくて切々とした表情だった。
 何かに似ている気がして、写真を近づけたり遠ざけたりしながらしげしげと眺める。
「…アリアスの石膏像だ」
「千早がそんなものを知ってるなんて」
 言葉のとおり驚いているいつきさんに、おれは肩をすくめる。
「そりゃあなたに比べれば教養は皆無に近いけど、それぐらい知ってるよ。音楽室と美術室は隣り合わせだったからね」
 中学、高校と吹奏楽部でピアノを担当していた頃、いつも美術室から漂ってくる油絵具の匂いを嗅いでいた。当時絶賛開催中だった両親不仲劇場とドロ沼離婚裁判で気分が滅入ったとき、美術室の窓際に置いてあったアリアスの石膏像に、ずいぶん心が慰められたものだった。
 彼女は、人のように言葉を発しない。
 だから誰も傷つけない。ただそこにあるだけで物憂げで美しかった。
 おれはその石膏像を眺めていると、どんなに荒れた気持ちも悲しい気持ちも不思議と落ち着き、その鬱憤をより一層音楽へと向かわせることができた。
「分かってると思うが、仕事だ。間違えても本気になって手元を狂わせるようなことはするなよ」
「もちろんだよ。おれが今まで、いつきさんから頼まれた仕事でしくじったことないでしょ。実に忠実なしもべだったじゃないか」
 皮肉な物言いをした自覚はある。いつきさんは眉を寄せ、めずらしく暗い顔をした。
 ウィスキーを飲む彼を置いて、おれはファイルの資料にざっと目を通す。相手を落として意のままに操るには――男でも女でも――まずは相手を知る事から始めなければいけない。
「…感謝してるよ、千早には」
「やめてよ、らしくないな。お金でなんでもするから使いやすい、そういうスタンスで来たんだから、貫いてほしいな。おれがあなたに従うのは、あなたが加藤商事の跡取りで、じいちゃんの恩人の孫で、お金をたくさん持ってるからだよ。雇用主と従業員、それ以上でもそれ以下でもない、そうだろ?」
 家を飛び出したときに相当な金額の財産分与を受けたいつきさんは、儲けが少なくて危険の多い社会系ルポライターになった。戦争や紛争の現地にいって取材したり、写真も撮ったりしているけれど、おれにはそれが、長い反抗期のようにしか見えない。きれいごとを言っている子供の我儘のようにしか思えない。
 その証拠に、彼は未だに汚い仕事を自分でやらずにおれに頼んでくる。
 バーの経営が今のように安定する前は、じいちゃんを手伝いながら何でも屋のようなことをしていた。別れさせ屋とか、女を落として情報を引き出して売るとか、そういうこまごまとした仕事をして小銭を稼いでいた。特にセックスで人に取り入って秘密をききだすのが得意で、いつきさんの目的のために随分その能力を使った。
「でもひとつ分からない。隠し子の存在や出生の秘密まで調べがついてるのに、おれが近づく必要があるのかな。男を落とした経験って多くないし、男のほうが相手は後を引くからきいておきたいんだけど」
「何か、弾いてくれないか」
 タバコを吸わないいつきさんは、気分を変えたいとき必ずこう言う。
 おれはカウンターを抜けて、バーの片隅にひっそりと隠れているアップライトピアノを開き、溜息を一つ落としてから指を慣らした。
「なんでもいいの?」
「スカッとするやつがいい」
 気分的にmoanin’が演りたくて、しょっぱなからガーンと飛ばしていった。ジャズのいいところは、そのときやりたいようにやれるところだ。鬱屈や嫉妬や苛立ちまでもが、スウィングするリズムとメロディの中に溶け込み、昇華されて、それ自体がエネルギーとなっていく。
 ほんの小さなころから、ジャズはおれの生活の中にあった。ガラスを叩いても音符に聞こえるという欲しい人からは死ぬほど羨ましがられる音感のせいで、両親のケンカの声や人の発する雑音が苦痛で仕方なかったけれど、音楽だけは違っていた。いついかなるときも心を楽しませてくれたし、慰めてくれたし、安らがせてくれた。いわば、唯一の友達であり、両親の代わりだった。
 最後の和音を弾き終わる。いつきさんが立ち上がって拍手してくれていた。
「素晴らしいな。バーなんて辞めて、本格的にミュージシャンを目指したらどうだ」
「ニューヨークに来ないかって言われたんだけど、向こうにはオレ程度のやつはゴロゴロいるし、じいちゃんの看病もあるから」
「それはデビューの話ではなく?」
「まさか。修行に来いってこと。そんな甘い世界じゃないんだ」
 カウンターの中に戻って、バーテンダーとしての片づけを再開する。ウィスキーを飲み終えたいつきさんが、低い声で言った。
「さっきの話だけど、証拠がいる」
「ああ…どうしておれが近づかなきゃいけないのか、って話?」
「そうだよ。三嶋は相当頭が切れる男だから、彼は彼で自分の両親のことを調べていて、かなり核心の部分まで迫っている。だがトドメが欲しいんだ。本当にあの男の息子だという、揺らぎようのない証拠が」
「そんなの、どうやって手に入れるんだよ」
「あの男に、こちらに来てもらう」
 ファイルに視線を落とす。三嶋顕は、勤務先も住居も京都市となっていた。確かに今のままでは、おれが近づいて取り入ることは難しい。
「奴の勤務先に噂を流す。うわさといっても、真実を元にしたネタだからあいつは何も反論できない。居づらくさせたところで、こちらに呼び寄せるように仕掛ける。具体的には、あの男が信頼している医師に、状況を伝えて引き抜きを打診させる。むろん僕が直接やるんじゃない。全ては人を挟んで行われるから、そのルートが知られる可能性はない。引き抜きに動く人間すら、裏で操られているなどと思いもしないだろう」
 ああ、耳障りだな、とおれは辟易する。人間の邪心を交えた声、憎悪を含んだ声は、耳を通じて心に爪を立てられるかのような不快感を呼ぶ。
「…ねえ、さっき三嶋も父親を調べてる、って言ったよね。もしかして、父親が誰だか、彼は知らないの?」
「そうだ。三嶋の母親は吉原の高級ソープで働いていた。その際に客として訪れた、当時大学生だった男、それが兄を死に追いやった張本人だ」
「大変な思いをしただろうね」
 彼が何をしたというのだろう。
 不遇な環境に生まれ、何度も運命を呪いそうになりながらも、諦めずに戦ってきて、ようやく手に入れた地位までいつきさんは奪おうとしている。罪人すら定かでない復讐のために。
「不服そうだな」
「べつに…罪悪感も同情も、今更だよ」
「わかってるならいい」
 いつきさんは金を持っている。復讐心に燃えていてそのためなら手段を選ばない。
 おれは、金を必要としている。じいちゃんを守るためなら、なんだってする。

 利害が一致しているから組んでいる。何年もそうしてきたが、今ほどこの男を耳障りだと思った事は、いまだかつてない。

 

 

 

「ビール下さい」
 仕組まれ、誘導されたとおりに事が運び過ぎて、いささか拍子抜けしていたのもつかの間、顔を上げた三嶋顕におれは心と視線を根こそぎ奪われた。
「…かしこまりました」
 写真なんて人を映せないんだな、と高まる心臓をなんとか抑えながら思う。端整な顔立ちをしているということは分かっていたけれど、まるで違う人間のようにみえた。
 ホテルのバーテンダーとして紛れ込むこと三か月。その間は店を藤堂さんと知り合いの人に任せ、ジャズの修行にいくという大義名分で京都のホテルでピアノも弾きながら、網にかかるのを待っていた。いつきさんから「今日おそらくそちらに行く」という連絡を受け、酒が好きで人ごみが嫌いな彼が、ホテルのバーに来ることは想定していたけれど、彼のルックスは想定の範囲をはるかに超えていた。正直、圧倒されてしまった。
 整いきっていない、無造作な黒髪は触れたくなるほど艶があって、その跳ねた髪のすきまから見える彼の眼は、目が合っただけで息苦しくなるほど刺激的な魅力に満ちていた。
 黒く澄んだ眼が真っ直ぐにおれを見る。
 きらめく美しい眼はそれでも、隠しきれない荒廃と反抗心が揺らいでいて、目が逸らせなくなる。
 憂いを帯びた表情や眼差しと対照的な、生き生きとした話し方、変わる表情の無防備なアンバランスさに、仕事を忘れて魅了されていく自分が恐ろしかった。
 スツールに座った彼は、普通の人なら落ち着かないぐらいの視線を既に全身に浴びていて、慣れた様子で平然としている。長い手足に大きな手のひらは確かに男性のもので、声も低く落ち着いた柔らかいテノール。おれは人の声や言葉を耳障りに思う機会が多いが、彼の声、ことば、笑い声は、波の音をおもわせる心地よさがあった。
 ビールを一息に飲み干したときにみえた、白い喉に欲情した。汗で首筋にはりついた、黒髪のひと房すら淫靡だった。こっそり喉を鳴らす。あの顎がのけ反り、悲鳴じみた喘ぎ声をあげるところが、早く見たかった。

 溺れさせていくはずが、溺れていく。頭の隅、冷静な自分が「これじゃマズイぞ」と警鐘を鳴らしていたがもう遅い。おれは彼を知ってしまった。
 彼の過去はいつきさんから貰ったファイルで大体把握していた。不幸な子供時代を過ごしたこと、幼馴染一家と家族同然に過ごしたこと、不審な事故による義父の死、母親の出奔。普通ならこれだけ役満揃っていれば不良街道まっしぐらでロン!なはずなのに、彼はそうせず、むしろ社会的な成功へと野心を燃やして実現したこと。
「千早…もう許して」
 ぞくぞくする。快感でどれだけ追い詰めても陥落しない、澄んだ黒い眼に興奮する。乱暴にしても、言葉で貶めても、この眼だけは絶対に屈服せずに睨み返してくる。そこに、用意されていた運命を捻じ曲げた、恐ろしいまでの意志の強さが垣間見えた。
「もっとして、の間違いじゃないの」
 腰を掴んで後ろから揺さぶりながら、アキの耳元に声を落とす。耳朶を舐められて震える彼の頬が、ゆるやかにあかく染まっていた。
 行為中でないときの彼は、皮肉っぽくて冷たい、きまぐれな性質をやわらかい笑顔で覆い隠す、大人の男だ。繊細な内面を見せまいとする淡々とした言動は、内面を知ればしるほど愛おしさが募り、こうして人は彼に落ちていくのだと身を持って体験した。
 ともすれば、本当に恋愛感情を持ちそうで危なかった。
 だから、彼がじいちゃんの治療にまつわるアドバイスをしたことをきっかけに、乱暴で粗野な自分へギアを変えた。実際、じいちゃんの治療方針のことに口を出されるのは、この上なく腹が立つことではあったけれど、あそこまで逆上したのは、自分を「仕事で近づいたのだ」と追い込ませる為でもあった。
 アキはいつも、冷たいフリをしていた。自分自身が努力を努力とも思わない性質だからか、向上心のない人間にはひときわ厳しかった。とくに、過去の不幸を今の自分の言い訳にする人間を、彼は嫌っていた。軽蔑すらしていた。
 それなのに、おれのことは嫌いになりきれないようで不思議だった。ピアノを聴けば本当に嬉しそうに拍手してくれて、「才能があるよ」と手放しに褒めてくれた。どんなに乱暴に抱いても、しばらくすればふつうに店にやってきた。何度ひどいことをされても、じいちゃんのところへ勝手に見舞いにいくのをやめなかった。
 分からなくなった。どうして、そこまでするんだろう。
 聡い彼は、途中からおれが何故近づいたのか薄々感づいているようなフシがあった。それなのに何もいわなかった。拒絶しなかったし、声をかけることをやめなかった。

 おれなんか、彼の最も嫌う人種のひとりなのに。
 愛されなかったから傷つけてもいいなんて思っているのに。

 父からも母からも捨てられた。だから誰かを傷つけたって許される。
 そんな幼稚な思想を、アキは早くから見抜いていた。母に背中に着けられたアイロンの火傷も、父に投げつけられた時計で出来た腕の傷も、セックスしたときに見たはずだ。医師である彼は、それを虐待の痕だとすぐに見抜いたはずだ。
 でも彼は、何もいわなかった。その傷跡に、やさしく唇を、舌を這わせただけだった。
「じいさんのこと、ほんまに大事なんやなあ」
 時折、眩しそうな眼でおれをみながらアキは言った。
「千早はちゃんと人を愛せる。それって本当にすごいことやとおもう」
 やめろよ、そんな眼で見るな。おれは、アキをだまそうとしているのに。
 彼は何も言わない。責めないし、怒らない。ただ手を広げて、自分だって体がつらいくせに、行為が終わるといつもおれをぎゅっと抱きしめてくれた。
 そのたびにおれは胸が苦しくなる。あの日のじいちゃんを思い出してしまう。
「お前はおれといたらいいんだよ」
 傷だらけのおれを実家から連れ出してくれた祖父の、優しい笑顔。
 本当は、勝るとも劣らないぐらい、いつもアキに救われていた。

 やがておれは、彼に嫌われたいと思うようになった。
 ズタズタにしてやれば離れていくだろうか。凌辱の限りを尽くしてやれば、怯えて来なくなるだろうか。
 考えて、実行に移しても、しばらくするとアキはやってきた。気張った様子も、怯えた様子もなく酒を飲み、首を締めながら犯されても逃げなかった。
 木端微塵にしてやりたい。美しい眼をうつろによごしてやりたい。
 そう思っていたはずなのに、そうすれば自分が救われると信じていたのに、どんどん遠ざかっていく。彼を陥れるために近づいたのに、嫌われて突き放されたいと考えるようになった。
 季節は、アキと出会った夏から冬へと変わっていた。じいちゃんの容体は次第に悪くなっていき、抗がん剤も放射線治療も、効果が出なくなっていた。
「おめえ、毎日来なくていいぞ。店もあるんだし大変だろ」
「何言ってんの。もっと甘えてよ、唯一の家族なんだからさ」
 病室は冬の薄暗さをうつしている。窓の外にみえる風景も、モノクロじみて寂しい。
 この頃になると、暴れる気力もなくなっていた。抗がん剤治療を始めた頃は、副作用に苦しんだじいちゃんに随分八つ当たりをされたものだったが、既にそんな元気もないらしく、いつ行っても本を読んでいるか、静かに窓の外を見ているかのふたつだった。
「唯一、な。…千早、千博に会ったか?」
 千博というのは父の名前だ。じいちゃんに引き取られてからは、一度も会っていない。分かっているはずなのにきいてくるじいちゃんを疎ましく思いながら、「会ってない。なんで」と返事する。
「まだ恨んでるか、あいつを」
 じいちゃんからすれば、親父は血のつながった息子だ。かつてならず者だった自分のせいで父がああなった、と思ってでもいるのか、妙にらしくない様子でおれを見つめてきた。
「恨むも何も…どんな人だったか忘れたよ」
 嘘だった。忘れられるわけがない。連日の耳が裂けそうになるぐらいやかましい夫婦ケンカ、すぐに出る手、泣きわめく母のカオスを、簡単に忘れられるわけがない。
「すまん。…本当にすまん、許してやってくれ」
「なんだよ、なんでじいちゃんが謝るんだ。やめてよ」
 考えてみれば、じいちゃんがおれに頭を下げたのなんてこれが最初で最後だった。いつも超然として人情に厚く、粋という言葉そのものだと憧れていた。
 でも、違うのだ。
 自分の息子がこどもを愛せないことに、ずっと心を痛めていた。自分が家庭を省みなかったせいだと、強い自責の念を抱いていた。
 他の誰もがそうであるように、じいちゃんだって、親で、不完全な人間のひとりだ。だからこそ、自分の息子に上手くできなかった罪滅ぼしを、帳尻合わせを無意識に求めていたに違いない。おれに優しくすることで、バランスを取っていたんだろう。決して息子よりも孫を愛していた、ということではなくて。
 分かっていた。
 でも気づかないふりをしていた。誰かが自分の事で悩んだり、苦しんだりしてくれなければが浮かばれない。一人で苦しむなんてまっぴらだ。じいちゃんだって苦しめばいい。その分おれに心を注げばいい。
 いつのまにかおれは、散々自分を苦しめた、父や母と同じことをしていた。ひとに暴言を吐き、暴力をふるうのは、救いようのない下劣な甘えだ。自分が苦しいことを他人に擦りつけて紛らわす、最低の行為で弁解の余地もない。わかっていたはずなのに、いつの間にか同じことをしていた。暴力も暴言もなかったけれど、おれは無言でじいちゃんを責めていた。見返りを求めていた。これだけしたんだから、愛してくれるよね。ここまでしたんだから、おれを一番だと思ってくれるよね。謝罪を受け入れずに聞き流すことで、一層強くわかりやすく、「父を、あなたの息子をおれは絶対に許さない」というメッセージを送っていた。

 じいちゃんはそれを黙って受け入れてくれた。
 アキは、抱きしめてくれて、おれから逃げなかった。

 それなのに。
 友達も身内もほとんどいない。言葉どおりじいちゃんしかおれにはいないのに、その一番大切な人が死にそうなときに、おれは何も出来ずにいる。金の算段が出来ず、結局店を売り払うか、心ごと抱きしめてくれたアキを売り払うか、どちらかにしろと迫られている。
 いつきさんに逆らうという選択肢はなかった。無事依頼を終えてアキから「あの人」の息子であるという証拠を手に入れれば、結構な金がもらえることになっている。
 金がなければ、じいちゃんどころか店すら守れない。
 おれは無力でバカで度胸のない、どうしようもないゴミだった。
――しかも、燃えないゴミだから埋められるしか脳が無いのだ。

 

 

 自室にあるグランドピアノを開く。
 たまごを握るように。やさしく鍵盤に指を置いて、深呼吸をひとつ。
 クリスマスが粛々と過ぎ去り、部屋の中は凍てつくように寒いけれど、ガス代をまた滞納しているので暖房がつけられず、ノースフェイスのダウンブルゾンとマフラーでころころに着ぶくれながらピアノの前に座っている。
 譜面台の楽譜を開き、さらりと眺める。読譜はあまり得意じゃないけど、じいちゃんが知り合いのツテでつけてくれた先生のおかげで、一通りできるようになった。譜面が読めなかった頃は、じいちゃんの家に所せましと置いてあったレコードや、父が置いて出て行ったCDを聴いて、耳でコピーしながら弾いていた。一度聴けば、大体どんな音だってピアノで当てることが出来たから。
 息を吐き出しながら、鍵盤を優しく押す。恋人の背中にふれるようにやさしくやわらかく、音楽の海の中へ。いま、このときだけはおれと、音楽しかいない。
 『Seascape』を弾きながら、目を閉じて海を想う。生まれ育ちが浅草のおれは、海というものをあまり見た事がないけれど、映画や音楽の中の海は常にうつくしく、せつなく、遠い存在だった。
 ひとりでジャズを弾いていると、インタープレイが出来ないからよりいっそうメロディの骨格のようなものが際立つ。無意識で弾いているとつい敬愛しているビル・エヴァンスの模倣になってしまうので、時々反発するようにかき乱した。外す、暴れる、ゆっくりもとのルートに戻る。元のルート?いや、そんなものはジャズにない。好きに弾いていい、いつだっておれの側に音楽は寄り添ってくれる。聴衆がいないことも相まって、おれは本当に好き勝手にあの甘く物悲しいのにこの上なく繊細な『Seascape』を演奏した。何故だろう。悲しい。涙があふれてきて止まらない。
 おれはこんなにダメなのに、音楽が変わらず美しいのが悲しくて、申し訳なかった。
 祖父がどうやって買ったのか不思議なぐらい高級なピアノの、楽譜の横に置いたフラッシュメモリを眺める。アキが押し付けてきたこの情報記録媒体の中に、何が入っているか、もう知っている。
 アキと、アキの父親が親子であるという証明――
 つまり、東京都第二区、衆議院議員の『湯浅 護』との親子関係を証明する、
『肯定』
 という文字が、記載されているに違いない。
 これを加藤いつきに手渡せば、一千万の報酬がもらえて店や土地を手放さずに済む。
 そのかわり、湯浅という議員は隠し子騒動で議員の座を追われる。いつきさんの復讐は叶うけれど、アキは外見や職業も相まって、恰好のゴシップネタとして追い掛け回される。加減を知らないマスコミの連中はきっと職場にも押しかけ、またしても彼は居場所を失うだろう。
 そして、おれは。
 おれはどうするんだろう。何食わぬ顔をして店を続けるのか。
 頭にかっと血が上って、鍵盤を拳で叩き……つけようとして、やめた。ピアノはじいちゃんの次に大事な友達だ。「あいつ危ない空気持ってるよな」「こないだ円山町で女連れてるの見たぜ」「見るたびに違う女連れてる」「男ともやるらしい」などと囁かれ(全部事実だった)、大学でも同性の友達は皆無だったおれの、唯一無二の大切な友人なのだ、このピアノは。
「なあ、自分を信じられない奴に、夢を追う資格なんかあるかな?」
 Cの鍵盤をそっと叩く。迷いを反映したように、音が濁ってきこえた。
「自分の欲望のために、他人を不幸におとしてもいいなら、おれはあいつらと同じだよ」
 次にDを。おれの言葉を肯定するような、あかるい響きがあった。
 友達がいないからピアノに話しかけるのは子供の頃からの習慣だ。根暗だってことはよく分かっているから誰にも言われたくないけど、案外楽器っていうのは語り相手にふさわしい。何せ、とてもいい音がする。人間の言葉みたいに、汚かったり、耳障りだったりしない。
 でも、鍵盤は、冷たい。
 やわらかさも、あたたかさも、湿り気も匂いもなく、ただぴんとした音があるだけだ。心を騒がせる力はあっても、心を溶かしてくれる温度はない。
「ダメなところはいくらあってもいい。ただ、気高く生きろ。魂に逆らっちまうような、ゴミ以下の人間にはなるんじゃねえ」
 じいちゃんが繰り返し言っていた。汚い言葉だし、センスがあるとは言い難い。でもこの言葉は、いつもおれの胸の中にあった。気高くってなんだよ、と憎まれ口を叩きながらも、ちゃんと頭では理解していた。気高いとは、つまり。
 つまり、アキのような人のことを言うのだ。
 雷に打たれたような気持だった。いや、正確には雷にうたれたことなんかないので、雷に打たれたら実際死ぬだろうし、どんな気持ちなのかわからないけど、それぐらい衝撃的だった。
 あの、仕事を離れれば人の好き嫌いが激しい、じいちゃんが。自分の弱っているところなんて他人にみせてたまるかっていう、意味不明の意地を齢七十にして持ち続けている、じいちゃんが。
 アキには、笑っていた。嫌味をいいながらも、実は彼が訪れるのを楽しみにしていたことを、おれは知っている。

 それは、彼の外見ではなく魂が気高く、美しいからだ。

 自分の中にあった真実に気付いて、溜息がこぼれる。
 ずっとアキがうらやましかった。眩しくて妬ましかった。何人と寝ようが、どこにいって何をしようが、誰に何を言われようが関係がない。いつも魂に従って生きている彼は気高くて美しかった。おれがどんなに引き摺り落とそうとしても、汚そうとしても、あの眼や魂が屈服することは決してなかった。きっと――おれは思う、きっと、アキを本当に打ちのめすことができるのは、この世界にたった一人しかいないのだ。そしておれは、その人にはなれない。どんなに顔が似ていても、おれとその人は全く別の人間だ。
 恋をしているわけじゃない。ましてや、愛なんかではありえない。
 ただ、強く思う。
 おれも三嶋顕のような人間になりたかった。
 どんなに傷つけられても前を向いて立ち上がれる、気高い魂をもった人間になれたら良かった。触りたくて、憧れて、羨ましくて、少しだけ憎くて愛しい。
 これは、愛だの恋だのを超えた、深い深い尊敬だろう。愛や恋は年月で変化し消え去るけれど、尊敬は決して色あせたりしないのだから。
「なあ、ニューヨークって暑いのかな、それとも寒いのかな」
 Eの音が呆れたように返事をする。
 今のおれは、泣き笑いのような変な顔をしているに違いない。
 待ち合わせ場所にやってきたいつきさんに、軽く手を上げる。
 いつものごとくおれの店ではなくて、秘密事に使うカフェの個室だ。予約しておけば最初のコーヒーを受け取ってから二時間、絶対に誰も来ない。
 窓の外を見ると雪が積もっていた。暖房を強くしようかどうか迷っていたら彼が来てしまったので、おれは向い合せにフカフカの椅子に腰かける。コーヒーは、少し冷めてぬるい。
「用件は」
「約束のもの、手に入れたよ」
 彼は表情を変えなかった。意外で、覗き込んでしまう。
「嬉しくなかった?」
 黙っているとアキの片思いの相手、六人部さんに似ているというそれなりに整った顔を心配げに歪めると、いつきさんが首を振って、テーブルの上に紙袋をドスンと置いた。札束の重みが発する音は、その重要性に比べると幾分軽く感じてひっそり笑う。
「遺伝子鑑定のデータ、このフラッシュメモリの中に入ってる」
 黒いプラスチックの長方形を、グラスの水の側にことんと立てる。その手前、結露してコースターを濡らしているのを、いつきさんが冷めた目で眺めた。
 彼の指が伸びてきて、手に取ろうとする。寸前で、フラッシュメモリを取り上げた。
「何のマネだ」
「いつきさんは、これをマスコミにリークするんだよね」
 不快を通り過ぎて憤りに変わった表情を隠さずに、いつきさんがおれを睨みつける。
「一千万じゃ足りないのか。あといくらいる」
「金の話じゃないよ。質問に答えて」
「はじめからそう言ってるだろう。湯浅は失脚して議員の座を追われる。ただの人になったところで、金をちらつかせて兄の件をききだす」
「湯浅って、議員になってまだ数年だよね。どうしてだか知ってる?」
「知るか。そんなこと僕に関係ない」
 フラッシュメモリを胸ポケットに入れて、ボイスレコーダーを取り出す。怪訝な顔をするいつきさんの目の前で、再生ボタンを押した。

『……君の言うとおりだ。私は、彼女と顕を捨てた。父からほづみが男と逃げたと聞いたとき、正直ほっとしたんだ。私はまだ大学に通っていたし、ほづみのことを愛してはいたけれど、父が絶対に許さないであろうことは分かっていた。最低だろう?
 男と逃げたなんて嘘だと分かっていたさ。父が手を回したんだと、すぐ気付いた。だが結局私は、彼女の後を追うとか、家を捨てるということはしなかった。半ば強制的に留学させられた…こんなのは、理由にならないな。要は、逃げた。捨てた。父が恐ろしかったから。生まれた時から、私は父の言いなりだった。何度も逆らおう、ほづみに会いに行こうと思った。男を作ったなんて嘘だと。でも、できなかった。権力と暴力で私たち家族を支配していた父が、こわくてこわくて、私はずっと傀儡だった。政治家になろうだなんて思ったことも無い。なんとか理由をつけて、父をサポートするフリをして、議員という道から逃れつづけた。だが死期がいよいよ迫ってきたとき…病院で、痩せさらばえた父が、おれの腕を掴みながら謝ったんだ。あれは嘘だったと。申し訳ないことをした、ずっと金は送り続けていたが、きっとお前の子供は不幸になったに違いないと。そのときになって私は、全てを父のせいにして自分を罪の意識から逃れさせていたことに気付いた。私の人生はいつも、私とともにあったはずだ。ただ父に選ばせていれば父の所為にできるから、自分が楽だから、そうしただけだ。
 どうして議員になったのか、と私は父に問いかけた。許すとか、許さないとか、そういった答えを全部保留して。すると、彼は、笑ったんだ。私たち家族ですらほとんど見た事が無い笑顔を、惜しげもなく見せたんだ。
 この街の人が、すきだからに決まってるだろう。そう言って。
 私は議員になった。私の中にも同じ気持ちがあったから。だから、はじめて自分で自分の道を選んだんだ。付き合っていた女性や、名づけまでした自分の子供を不幸にしておいて、何を言うかと思われるかもしれない。本当にそのとおりだ。私は私を糾弾する言葉を、何一つ止めることは出来ない。
 ただ――顕のことを公表するというなら、どうかひとつだけ頼みがある。
 名前だけは、伏せてもらえないだろうか。
 顕がいま、どのような仕事についているのか、結婚はしているのか子供はいるのか、私は知らない。知りたいけれど…本当は、会って直接謝っていろんな話がしたいけれど、そんな権利はないのだろうと思う。でも、もしも社会的に成功しているのなら、名前が出てしまったらきっと、顕の立場は著しく悪くなる。私は身から出たサビだ、そもそも生きていることすら厚かましいぐらい、ひどいことをした。議員の座を追われようが、連日連夜マスコミに叩かれようが構わない。でも顕は、顕は何も悪くないはずだ。君がもし、誰かから依頼をうけてこのことを知ったのなら、どうか依頼主の方にそう伝えてもらえないか。全ての罪は私にある、と』

 停止ボタンを押す。この後、足に縋りつかれて土下座され、困りながら、どうしようもなく腹が立った。白髪交じりではあったけれど、ハンサムで体格のいい湯浅は、とても幸福そうにみえたのだ。アキが歩いてきた、ときに這ってきた泥まみれの悪路と違って、舗装されたハイウェイばかりを走ってきたこの男。頭を蹴飛ばし、地面に擦りつけ、泥水を啜らせてやろうか。それともボコボコに殴って、口の中で味わう血の味を体験させてやろうか。それとも…
 そこまで想像して、男が震えていることに気付いた。ホテルの一室を借りていたから人目を気にする必要はなかったけれど、まさかカーペットに縋りついて泣くとは思わなかった。呆れて、しらけて、どうでもよくなった。
 わかっている。
 この男が泣いているのは、きっとアキのためなんかじゃない。
―――それでも、

「これ聴いて、どう思う?」
 意識を今に戻して、無表情のいつきさんに問いかける。
 彼は眉を寄せ、気まずそうにおれから目を逸らし、言った。
「僕の復讐には関係ない」
 フラッシュメモリを机の端に置く。テーブルから、半分だけはみ出すように置いて、掌で覆い隠す。
「そう。残念だ」
 立ち上がり、思い切り体重をかけた。バキンと大きな音を立てて、フラッシュメモリが真っ二つに折れる。おれはその残骸を手に取り、いつきさんが口をつけていない、水が入った彼のグラスに放り込む。呆然としている彼の顔をおかしく思いながら、そのグラスを、彼の頭の上で逆さにした。水と、水浸しになった情報記録媒体の残骸が、いつきさんの顔を濡らしながらテーブルに落ちる。
 これまでの人生でこんなに愉快だと思った沈黙はいまだかつてない。満面の笑みを浮かべながら、立ったまま水浸しのいつきさんを見下ろす。彼は怒りで白くなった顔を上げ、震えた声で負け惜しみを口にした。
「…店や土地が、どうなってもいいんだな」
「仕方ないさ。売るよ。売って、遺留分払ったって充分おつりは来るから、修行にでもいくさ」
「…どこに」
「そんなもの、いつきさんの復讐には関係ない、だろ?」
 じいちゃんの、遠回しだけどこの上ない愛を知ってから、おれは無敵になった。誰に嫌われようが、どうでもいい。店や土地に執着する必要も、どこにもない。形になって何も残らなくても、おれの心の中にはちゃんと、じいちゃんがいる。
「どうしてだ。どうして、お前まで僕を裏切る」
「バカ言わないでよ。裏切っちゃいないさ、お灸をすえてるだけで」
「なんだと」
 今度は怒りではなく、呆れを交えた顔でいつきさんが叫ぶ。あーあ、水に濡れて、上品ないい男が台無しだ。でも拭いてやらないし、ごめんも言うつもりはない。
「ね、いつきさんは賢いから知ってるよね。千早ぶる 神代もきかず 龍田川…」
 ええと、なんだっけ。顎に手を当て、考え込んだおれに、深い溜息をついたいつきさんが続きを詠む。まるで歌人のような、優雅な声で囁くように言う。
「からくれないに 水くくるとは …在原業平の和歌だろう。それが、なんだっていうんだ」
「おれの名前、そこからとったんだって」
 バーの名前も、The Autumn。秋を意味する言葉だけど、この和歌も秋をうたっているんだ。
 じいちゃんが、生前言ってたんだって。おれに何か伝えたいことはないのかって、アキがきいてくれたときにね、「あのバーは、おれの全てだった」って。
 それって、バーのことじゃなくて、おれのことだったんだ。
「ちゃんと愛されてた。今はそう思える。だから、魂に従って生きるんだ」
「くだらない…!愛だの、魂だの、くだらない!」
 感情を露わにしたいつきさんを見るのは初めてだ。
 そこにあるのは怒りよりも恐れだった。襟首を掴んで引き寄せると、体がテーブルにあたって、大きな音がなった。構わず、怒鳴りつける。
「くだらないのはどっちだよ。自分が本当にしたいことも分からないくせに。自分がいちばん愛だのなんだのに、とらわれているくせに」
 自分自身に言っているようだった。いつきさんは、おれだ。ついこないだまでのおれ自身だ。
「うるさい、黙れ」
 いよいよ怯えがはっきりと浮かんだ目に、おれは容赦なく言った。
「前に進むのが怖いだけだろう、いつきさんは。目を覚ませよ、お兄さんは、もういないんだ。死んだらそこで御終いなんだ、そんなのみんな同じだよ。じいちゃんだって、いつきさんのお兄さんだって六人部さんのお父さんだって、同じだよ!哀しいからって、そこから目を逸らすな。誰かのせいにするな、逃げるな!!」
 思い切り殴られて、ドアにぶつかる。これ以上暴れたら店員が来そうだけど、そんなこと言ってる場合じゃない。
 これは、闘争だ。自由になるための、ふたりとも魂が自由になるための、戦いだ。
「今日限り、おれはいつきさんの復讐には一切関係ない」
「千早…」
「やりたかったら一人でやれよ。本当にそれが、いつきさんのしたいことなら」
 生きたいように生きろ、とじいちゃんは言った。加藤家には恩があるけれど、お前が生きたいように生きろ。もう影にならなくていい、そうじいちゃんは言ってくれた。
「いかないでくれ、…千早」
 さようなら、お世話になりました、たくさんのお金をありがとう。
 頭を下げ、タオルを投げて、個室を後にする。手に入れるはずだった金も、できれば守りたかった店や土地も、これで全部なくなる。既に不動産屋に相談はしているけれど、ピアノだけはなんとか売り払わずに、日本での仮住まい場所に置いておきたいなあと考える。
「あーあ、やっちゃった」
 スクランブル交差点を渡りながら、人ごみの中でつぶやく。この中で、今おれよりバカなやつがいるだろうか。きっと、いないに違いない。
「おれほんとバカだなー」
 今、どんな顔をしているだろう。
 鏡を見なくてもわかる。

 きっと、心からたのしそうに笑っているだろう。

 服を脱がせる指がふるえていることに気付いて、アキの眼にいたずらっぽい笑みが浮かぶ。それはそうだ。いつも余裕っぽく笑っているおれか、やたらと乱暴で性急なおれか、どちらかしかアキはしらない。
「またガス代滞納してんのか」
「ガスがなくても人間は生活できるってことをさ、」
「屁理屈いうな。…はは、なんでそんな緊張してんの」
 まるで童貞喪失みたいだな。そう言ってアキが体を揺らして笑った。
「憶えておきたいから真面目にやるんだよ」
 セーターがベッドの下に落ちる。おれの部屋が妙に片付いていることに、アキはきっと気付いている。きづいているが、何も言わない。おれが言うのを待っているんだろう。
 白くてなめらかな背中が露わになって、横抱きにした後ろから、うなじにキスをした。毛布の中にもぐりこんだまま手のひらで彼の弱いところをゆっくり撫でると、笑い声にすこしずつ色が混ざってきて興奮する。
「どこかにいくの」
 振り返り、キスをねだられてあえなく陥落する。濡れた黒い眼が、びりびり痺れるような欲情を持ってきておれに差し込む。唇を重ねると、ささやくようにアキが言った。
「おれがすきになったひとは、みんな、おれの前から消えていく」
 泣くのをこらえている子供のような顔だった。だから、「それは、みんなあなたのことが大好きだったからだよ」と言えなかった。言えば泣いてしまう気がした。
 どうしてだろう。泣かせたいとおもっていたはずなのに、傷つけて打ちのめしてやりたいと願っていたはずなのに、今はひどくつらい。  笑ってほしくて、手のひらを髪の中に差し入れてやさしく混ぜると、アキの冷たいてのひらが、おれの背中に回ってそっと背筋を辿った。性的で、うっとりするぐらい洗練された誘い方だと思った。
 くちびるの間から舌を探って舐めると、腕の中でアキがたまらなく可愛い喘ぎ声を上げた。お互いにはじめからひどく昂ぶっていて、抱きしめた体は湿りあっている。てのひらで性器にふれると、いやらしいのに清廉な顔に朱が走る。熱い息が、お互いの顔にかかって気恥ずかしい。こんなに近くで、じっくりとお互いの顔を見ながらセックスするのは、何度もしているのに初めてだった。
「千早…どうしよう。恥ずかしい」
「大丈夫、いつでもアキはきれいだよ。…とかいってるおれのほうが、もっと恥ずかしい。何いってんだろほんと」
 ローションでゆっくり慣らして湿らせて、毛布をベッドの横に投げる。組み伏せられたアキは長い睫毛の影をつくりながら目を伏せ、恥ずかしそうに腕で顔を覆い隠そうとした。
「あ…や、いや、見んといて」
 壮絶にいやらしくてきれいな顔に見とれながら、正面から足を開いてふくらはぎを舐める。キスをしながら内腿へ、そして下腹へ唇を落とすと、アキの手がおれの性器に触れて巧みに擦りあげてきて、慌てて身を引く。
「ちょっとちょっと、アキは何もしないでじっとしててよ」
「まぐろは、性に合わんねんもん」
「たまにはまぐろになって素直にさばかれてくれたっていいでしょ」
「ええ…いややなあ、なんか今日の千早優しいし気持ち悪いわ」
 黙らせるために、すっかり湿った彼の中に自分自身をねじこんだ。突然のことに驚いたアキが「ふあ!」と声を上げて、その声のいやらしさと可愛らしさに、中で容量を増してしまう。
 いつもならそのまま、激しく突き上げて色んな体位でアキのいやらしい顔を堪能するのだけれど、今日はそうしなかった。正常位で挿入したまま、おれは、アキに覆いかぶさってぎゅうと抱きしめる。本当は体を揺さぶって、こすりつけて、気持ちよくなりたい。頭の中が変になりそうなぐらい、興奮している。それでも、抱きしめてしばらくの間、じっとしていた。
「なに、千早…動いて、なあ」
「アキ、おれさ」
「千早…っ」
 手をつなぐ。指を絡め、顔の横に押し付けた。見下ろしたアキの顔が、欲情と困惑に染まっていて、どうしようもなくきれいだった。忘れられないな、と思った。一生、忘れられない。
「親父のこと、許すから。母親のことも。だから」
 何度もキスをしたせいで、赤くなっている唇に、舌を這わせる。アキが舌を出して、それにゆっくりと応えてくれた。また泣きそうになって、腹に力を入れて堪える。
「アキも、復讐なんかやめろよ」
 驚きに目が丸くなるのを確認してから、ゆるゆると突き上げはじめる。顎を上げ、掠れた声をもらし、眉を寄せたアキが身をよじる。太腿を掴んで動きを激しくすると、きもちいい、とアキが呟く。きもちいい、千早、熱い、と。
「自分を捨てた親が不幸になっても、アキが幸福になるわけじゃない。むなしくなるだけで、何も、残らない」
 涙が落ちる。眼尻からシーツの上へ。おれのじゃなくて、アキの涙がはらはらと落ちていく。みる者を釘づけにするあの泣き顔で、アキが泣く。痛くて眉を寄せた。胸のあたりが刺されたように痛む。心が串刺しにされたみたいだった。
「それしかなかった。それだけを目標に生きてたのに、」
「おれと、アキの辛さは全然べつだ、べつのものだけど、それでも…」
 溶けていく。体が、心が、交じり合って溶けていく。アキのかなしみと苦しみがおれの中に入ってきて、混ざり合って涙になって、おれの眼からも落ちる。
 体が溶け合うのは、心が解け合うのは人間同士だからだ。体温を持ち、言葉という各々異なる雑音を発しながら、おれたちは体を合わせて理解しようと試みる。雑音をぶつけあっても理解できないところを、肌と肌で、心音を合わせながら交わり、知ったようなきもちになって、本当はどうなのか分からないまま、それでも一緒にいたい知りたいと願い続ける。
「それでも、おれはいうよ」
 濡れた音が部屋の中を満たす。はしたなくてはずかしくて、でも生きてるっていうのはこういうことなんだなって、思わせてくれる生々しい匂いと音だ。アキの中の気持ちのいい場所を突きながらゆすぶれば、溺れそうな人のように、両手が背中に縋りついてくる。
「幸せになってよ。幸せになろうとしてよ。嫌いな人や、分かり合えないひとのことばかり考えて、摩耗するなんて、馬鹿だ」
 ああ、もういく、いくから。桜色の唇が戦慄きながら訴える。激しい吐息まじりにいっていいよ、と応えると、アキは体を震わせて、おれの腕の中で射精した。
 後を追うように、アキの中に全部放つ。体が熱風を発している、と呆然とした。セックスって、こんなだったのか。死ぬほどいろんな人としてきたのに、こんなのしたことがなかった。
「しあわせに…どうやったらなれるのか、わからへん」
 きれいに生まれて、頭もよくて、困難な人生を切り開いてきた強さもある。それなのに、アキはいつも自信がない。愛される自信がまるでない。それでいて、人には無意識に愛を与える。自分についた傷なんて、気が付きもしないといったように。
「そんなもん、おれだって分かんないよ。分かんないけど」
 終わった後に、こんな風にゆっくり話をしたこともなかった。毛布の中でぬくもりを共有しながら、鼻先をくっつけて、ひそやかに言った。
「どうやったら幸せになれるのか、を、探すのをやめたくないんだ」

――おれとアキは、決して恋人なんかじゃない。
 だから、こんな風に体を繋げることに、眉をしかめるひとはいるかもしれない。セックスは恋人同士ですることだ、と古めかしく咳払いなんかしながら。
 でも、とおれは思う。恋人という約束がなくても、体がそこにあって、交わって溶け合って、それで心の奥の硬い石が割れることがあって、それの何がいけないんだろう。この世界はとても理不尽で痛みに満ちているし、好きな人が好きになってくれるなんてそれこそ、奇跡の中の奇跡だ。ほとんど無い、といっていい。そんなときに、傘を分け合うように、毛布をわけあうように、体温を分かち合って何が悪いんだろう。一体どんな罪になるっていうんだろう。
「ニューヨークって、暑いのかな、それとも寒いのかな」
 ピアノは言葉を返してくれないけれど、アキは違った。笑い混じりに、返事がゆるりとかえってくる。
「冬はすごく寒い。いくんやったら春になってからにしとき」
 春になってから。
「そうか、冬の次は春なんだ」
 長い間冬が続いていた気がする。だからすっかり忘れていた。
「何をしにいくん?」
 終わらない夜はない、という言葉と同じように、終わらない冬はないのだ。少しずつ木の芽は育ち、やがて芽吹いて、あでやかな花を咲かせる春がくる。万物がやわらかく淡い色合いに染まる、大好きな季節がやってくる。
「秘密だけど…現地から贈りたいものがあるんだ」
「なにそれ。気になるなあ」
「何年かかるか分かんないけど、きっと贈るよ。冒頭に、Aに捧ぐって書いて」
 ベッドから抜け出し、下着を身に着けてピアノの前に座った。アキが毛布をかぶって隣にやってきて、毛布ごとおれを抱きしめる。
 あたたかい。
 音を鳴らす。バーではどんな話でもできるように装っているけれど、本当はしゃべるのはあまり得意じゃなかった。お酒をつくるのは好きだけど、お酒にはあまり強くなかった。
「あ…この曲、知ってる」
 You must believe in spring.
 ネイティブのような発音で、彼が曲名をささやく。
 復讐も、憎しみもおしまいにしよう。言えなかったけれど、そういう想いを込めて、ことさら丁寧にピアノを弾いた。アキは立ったまま、隣からおれの耳に頬を寄せている。
 おれは音をつづり、アキは命を拾い上げて、日々を過ごしていけたらいい。朝と夜の積み重なりがいつか、冬を通り過ぎ春へと続くように。
「このタイトル、どういう意味なんだろ」
「分からんでよく弾いてたな。これは…」
 魅力的な声が、おれの耳元で告げる。あまりに出来過ぎた訳に、思わず彼を疑った。
「『やがて、春がくることを信じて』とか、そんな意味かな」

 英語をいまいち分かっていないおれが、たまたま選んだ曲がこれだったなんて。
 あまりの巡り合わせに、おれは隣のアキを抱きしめることしかできなかった。

 

 

『お元気ですか。なんて、かしこまった内容は性に合わないからやめておこうか。
 ニューヨークに来て一年半ちょっと過ぎたけど、そっちはどう?
 おれがこちらに来てすぐ、六人部さんが事件に巻き込まれて刺されたんだってきいて、未だに気になってる。なにせそっちの情報が全然入ってこないし、おれも生活に慣れるのに必死だったからね。
 でも、きっと元気だよね?あの人体鍛えてそうだしさ。腹筋でバシーンとガードしたりできそう。…さすがにそれは無理か。
 ちなみにおれは、元気すぎるぐらい元気。こちらのオーディエンスは反応が素直で、好きも悪きも分かりやすいからピアノの上達は早くなったと思う。やっぱり、明確な反応があるのとないのとでは、全然違うね。

 いきなりだけど、オリジナルのアルバムを出すことになったんだ。
 ジャンルはジャズ、全部メンバーが書き下ろした曲ばかりで、カバーは一曲もない。
 日本でも売っているようだけれど、せっかくだから現地の雰囲気をそのまま閉じ込めたみたいな、こっちで売ってるCDを同封してみたよ。よかったら、きいてみて。
 冒頭の曲、「Aに捧ぐ」は、約束どおりアキのことだから。
 楽しんでもらえたらうれしいよ 
 生野 千早 』

 短い手紙を添えて、フェデックス・パックに入れる。もちろん、緩衝剤を入れることは忘れない。アメリカの空輸便は果てしなく荒っぽいのだ。繊細なものは大体割れるか傷がつく。
 店を売り払う前に撮った、「Bar the autumn」の写真がジャケットに使われているCDは、ニューヨークに来て一年半で、幸運にも発売されることになった。

 あれから結局、春になるまで待てずに渡米した。まさに「思い立ったが吉日」というヤツだった。無我夢中でピアノと向き合っているうちに季節は巡り、仲間が出来て、音楽を通して沢山の人と繋がる事が出来た。
「アルバムのタイトル、びっくりするかな」
 アパートを出て、木々が色づきはじめた秋のセントラルパークを歩く。稀にハヤブサが飛んでいるときいて、通るたびに目を凝らしているが、いまだに一度も御目にかかったことはない。
 吹き抜けた風に、ノルウェーカエデの葉がさやさやと音を立てて揺れる。耳障りのいい音符が気持ち良くて、思わず同じ音を口笛で鳴らしてしまう。
「ずっと、秋が続けばいいのに」
 おれの名前の由来をアキが教えてくれてから、季節の中で秋が一番好きになった。
 靴の裏で枯葉が粉々になって地面に落ちていく。トレンチコートのポケットに両手を突っ込みながら、アキの顔を思い浮かべる。

 今、彼の隣に好きな人がいて、微笑みあっていたらいいな、と心からおもった。