28 ピース オブ ケイク(同じ血が流れている)

 数週間前に救急で運ばれてきた骨盤骨折の青年が亡くなった。
 容体が急変したのはアキがオンコールの日で、病院にかけつけたときにはすでに息を引き取った後だった。
「助かるって言ったじゃないか!」
 病院の廊下で外科医の新田にすがりついているのは、幼馴染の柏木という男だった。救急外来ではアキが対応したため、顔を覚えている。ただの幼馴染というにはあまりにもせっぱつまった様子だったので、印象に残っていた。
「柏木さん、落ち着いて」
 看護師数名が説得し引き離そうとしているが、当の新田は迷惑そうな表情を隠さない。
「私はそんな不確定な情報はお伝えしておりませんが。そのような楽天的な発言をしたのはおおかた、救命の三嶋ではありませんか?」
 夜中の病院はしんとしていて、つめたい新田の声は死神のように響いた。
「三嶋先生はそんなことおっしゃっていません」
 牧田がぴしゃりとはねつけて、新田をにらみつける。
「最善を尽くすとはおっしゃいました。でもそれは、どの患者様に対しても同じことです」
 ふだんはおっとりとしていて笑顔を絶やさない牧田師長の見知らぬ一面に、アキは心強い思いで新田を見返す。
「急変したのなら、その経過を説明するのは主治医の仕事のひとつでしょう」
 静かなアキの反論を、新田は鼻で笑った。
「言われるまでもなくしたさ。…だが家族でもないのに、この方が納得してくれない」
 家族でもないのに、の部分で、柏木の表情が変わった。
「家族じゃなければ、心配しちゃいけないのか」
 ふらふらした足取りで、柏木が新田に迫る。アキが間に入って、「落ち着いてください」と声をかけようとするが、強い力で突き飛ばされ、廊下に叩きつけられた。
「三嶋先生!」
 背中をしたたかに打って咳き込む。牧田が駆け寄ってきて心配そうに覗き込んだ。
「おかしいじゃないか、後遺症が残ることはあるけど、助かるってアンタいったよな…。それともなにか、医者にとってはひとりの患者の命なんて、取るに足らないっていうのか?」
 新田の胸倉をつかみ、前後に揺さぶる。その衝撃でメガネが廊下に落ちた。
「わたしは説明しました。ご両親にも納得いただいておりますし、失礼します」
 腕を振り払い、メガネをかけて新田がその場を後にしようとする。
「待てよ、おい!」
 警備員が出てきて二人がかりで暴れる柏木を羽交い絞めにする。ちくしょう、許さねえからな、という叫び声が徐々に遠くなるのと聞きながら、アキは苦い思いで溜息をつく。
(救急でできることは全部、したつもりやったけど)
 助けられることもあれば、助けられないこともある。それは救急車で傷病者を運ぶ立場である摂も、救急医として治療にあたるアキも同じだ。重篤な患者を多く受け入れている救命センターでは、救うことのできない命の数も少なくはない。
(もっと、本当はもっとできることがあったんやないかって、いつも…)
「おいおい、三嶋先生」
 目の前に立っている新田が、面倒くさそうに顎を上げながら言った。
「まさか落ち込んでるわけじゃないよな?」
 何が面白いのか、わずかに笑みすら浮かんでいる新田に、アキは眉を寄せる。
「落ち込んではいけませんか」
「お前にそんな資格ないだろう。お前ら救急は、便利屋みたいに一時的な処置しかしないじゃないか。外科的手術ができるったって、ICUから出ちまえばその後患者がどうなったかすら知ることができない。崇高な志をお持ちの三嶋先生はどうやら、我々の病棟を訪ねて患者の様子を見たりしているらしいけれどね。心タンポナーデの血抜きは出来ても、バチスタ手術ができるわけじゃない。腹部大動脈瘤の緊急オペをやったって、状態が安定すりゃこっちに放り投げて終わり。くも膜下出血も腫瘍関係もお前らだけじゃ何もできない、そんな下働きみたいなやつらが、患者が亡くなったときだけ一丁前に落ち込んでるなんて笑い種だよ。まあ、白車がくれば受け入れにてんやわんやしてすぐに忘れるんだろうけど」
 救命救急科を見下す専門科があることはアキも心得ていたが、ここまで剥きだしの敵意を当てられるのは初めてだった。師長の牧田も驚きで返す言葉もないのか、アキと新田を交互に見て目を見開いている。
「それじゃ、失礼するよ。今日も当直、せいぜい頑張って、三嶋先生」
 ここまで偏った考えを持った医師は稀だ。でも、外科こそが全ての科の頂点に立っている、と思っているような輩なら、アキは以前の大学病院でイヤというほど目にしてきた。
(救急は全部できる。なんでも診れるから、なりたかったけど)
 最後まで診れるのかといわれると、確かに頷くことはできない。
「いきましょう、三嶋先生」
「牧田師長…私のせいで不快な思いをさせて申し訳ありません」
「いいえ、いいえ!どうかそんなふうにおっしゃらないでください。わたしは三嶋先生がどれだけ有能な方か、よく存じているつもりです。まだ同僚としては短いですけれど、先生に本当にたくさんの患者を救ってくださいました。どうか胸を張ってください、あんな酷い中傷なんて、相手にしないで」
 医師待合室に向かう途中だった。肩にそっと乗せられた手から伝わる牧田のやさしさに、アキは頭が下がる思いで「ありがとうございます」と礼を述べた。

 

 悪いことは続くものだ。
 その日の当直は、道路に突き飛ばされた男子高校生の多発外傷から始まった。いじめにあっていたという彼は、悪ふざけで幹線道路に突き飛ばされ、トラックに右半身を巻き込まれる大怪我を負って搬送されてきた。
「ひどい…」
 大概の傷には慣れているはずの救急医や研修医の乾が、顔をしかめる。トラックの下敷きになってしまった大腿部から下は、地面との摩擦で広範囲にわたって皮膚がはがれてしまい、筋肉や骨が剥きだしの状態になっていた。
 一、二、三!合図をして初療室に横たわった青年は、無影灯に照らされてくっきりとその状態を露わにしている。手早く生理食塩水で傷口を洗浄しているアキの隣で、佐々木が北署の救急隊長から事情を聴いていて、その内容のひどさに、アキはひそかに眉をひそめた。
 わるふざけで、人を道路に突き飛ばすなんて。
「現場は一時騒然となりまして、突き飛ばした学生は逃げ出した後で警察につかまったようです」
「胸糞悪い…!乾、バイタルは」
 事情を聴き終えた佐々木が救急隊に手を上げてから叫ぶ。心電図に人工呼吸器にライン取りと、あっという間に患者はコードだらけの状態になる。
「あーこれ右肺もいってますね。胸腔ドレーンいれます。気管挿管終わりました」
 あっという間に血まみれになっていく白衣をもろともせず、アキが淡々と報告する。
「さすが早いね!よし、レントゲン回せ、大至急」

 右下肢解放骨折および広範囲挫滅、右肺破裂、脳挫傷、右上腕開放骨折、肋骨三か所骨折。外科の当直医とともに総力を挙げて治療にあたったが、すべて終了するのに四時間以上かかってしまった。泣き叫ぶ家族をなだめ、現在の状況と治療方針を説明したのはアキで、全てが終わるころには夜中の三時を過ぎていた。
「…搬送、何件か断ってしまいましたね」
「しかたねえよ。さっきみてえな修羅場で、どうしろってんだ」
 珍しく苛立ちを露わにした佐々木をみて、アキは弱弱しく微笑んだ。
「なんだよ」
「いや、佐々木先生は変わらないなあ、と思って。優しいから、本当は今すごく怒っているんでしょう?」
「そりゃあな。許せねえよ、ぜってえ助けてやりてえ」
「…でも、ここで救命しても結局、外科の主治医がついて、おれたちは最後まで診れないんですよね」
 らしくない言い方に、今度は佐々木が眉を寄せる番だった。
「なんだ、三嶋らしくねえ言い方だな。また新田にいじめられたのか?」
「いじめって。新田先生、確かに少し偏ってますが、ある種正しいのかもしれません」
 ずっと割り切って、遣り甲斐を見出してきたつもりだったんです、と話を切り出したアキに、隣でタバコを吸っている佐々木が相槌がわりに火を差し出す。ポケットからキャスターマイルドを取出し口にくわえ、思い切り煙を吸い込んだ。真っ黒に塗られた、星ひとつない夜空の中に、二人分の煙がくゆってきえていく。
「主治医から報告を受けたりはしますけど、おれたちは彼等が徐々に回復していくところや、社会復帰していく姿をみることができない。リハビリは順調なのか、どういうところにつまづいているのか、後遺症はないのか。気を遣いながら、他の科の専門医に教えてもらうしかない。ときどき、とても空しくなるんです。おれがやっていることは、意味のあることなんだろうか?命さえ救えば、それでいいのか、って」
 今日の高校生は、このままいけばはがれた皮膚の部分から感染症を起こし、敗血症になる可能性が高い。損傷の激しい右下肢は出来得る限りの治療をして温存したものの、経過次第では切断することになってしまう。
 そうなると彼は、二度と自分の両足で歩けない。
 本当なら、アキはそれを一番側でついて経過を見守り、励ましながら治療に当たりたかった。いつもそう思う。自殺未遂を繰り返す若い女性も、小児ガンで苦しんでいる男の子も、救命センターに運び込まれてきた瞬間だけではなく、できれば笑顔で病院を後にするその日まで寄り添いたかった。
「お前でも、そうやって悩んだりするのな」
 何故か少しうれしそうに、佐々木が言った。
「悩んで、自問自答を続けることはおれたちの仕事に絶対不可欠だ。より高みを目指してえなら、そうさな。お前さん外傷得意なんだから、外科畑深めてみるのもいいかもな。整形外科は専門医もってねえんだろ?あっちなら、事故後のリハビリまで携われるぞ。そのかわり、いまみたいになんでも診れるわけじゃなくなっちまうけど」
 タバコの煙が目に沁みる。トン、と灰を備え付けの灰皿に落として、アキは隣の佐々木を見た。うれしそうな表情は昔、聡がうかべていた、子供の成長を喜ぶ親のそれに似ていた。
「それとも、ガン治療の医師になるか?なんといっても花形の、心臓外科や脳外科って手もあるな。いやまてよ、それだと精神疾患には対応できねえ、精神科医もとっちまうか?!……無理だろ。きりねーっつうの。お前のきもちも分かるけどな、全ての分野を極めるってのは、土台無理な話なんだよ」
 どっかに絞って新しい場所へ飛び込むか、今の場所で気張り続けるか。決めるのはお前だよ。
 佐々木がしかめつらを作って、「個人的にはずっといてほしいけどよ」と呟く。
「そうか。…全部診られるのは、たしかに救急だ」
「まあ、全部の意味がちょっと違うけどな。おれらはよ、『治してくれてありがとうございました』って言われる機会がすくねーんだよな。生きるか死ぬかの患者が運ばれてきて、なんとか救命したら専門科に振り分けになっちまうし。モチベーション維持すんのはなかなか難しい」
「佐々木先生は、疑問を感じたことはないんですか?」
「あるある。自殺未遂の常連が何度も戻ってきやがるときは、さすがにもう死んじまえやお前、ておもうぞ。アルコール関連の疾患も腹立つなあ、何度言ってもききやがらねえし家族に自覚も足んねえし。あいつらで病床も処置室も埋まってるときに気の毒な交通事故の受け入れ要請なんかあると、放り出してやろうかなと思うぜ」
「道に捨ててやろうかと思いますよね、しませんけど」
「救命センターは最後の砦だ。本来は本当にうちでないとダメな患者を、積極的に受け入れていくべきなんだよ」
「…むかしは佐々木先生、『死にたいヤツもおれの前では死なせねえ!』とかテレビドラマばりに熱いこと言ってたのに。変わっちゃいましたね」
「バカヤロー、こんなとこで働いてたらスレてもくるわッ。いまとなってはもう、死にたいヤツは、人に迷惑かけねえようにひとりで静かに死にやがれとしか思えねえ」
「人に迷惑をかけないように死ぬっていうのは、案外難しいものですよ」
「まあな。おれは散々迷惑かけられてきた方だからよお、好き勝手して死なせてもらうぜ」
「怖いなあ。葬式で複数の女が掴み合いになりそうで」
「それはそれで男冥利に尽きるじゃねえか」
 笑い合う。
「新田のやつ、なんでか知んねえけど三嶋を目の敵にしてやがんな。お前なんかしたのか?女寝取ったとか」
 冗談半分、本気半分といった顔で、佐々木がニヤつく。くわえたたばこの煙を吸い込み、荒っぽく鼻から吐き出してから、「まさか。趣味絶対合わないですし」とアキも応酬する。
「本来はあいつも優秀でいい医者なんだぜ。もとは東京の大学病院にいたらしい」
「…新田って苗字にはあまりいい思い出がないんですよね、個人的に」
「なんだよ?」
 アキの嫌そうな顔に、佐々木ががぜん興味を示し始める。隠すほどのことでもないので、頭をガシガシかきながら投げやりに言った。
「摂の元カノ…つまり、元嫁ですね。たぶん、新田って女だとおもうので」
 一瞬ぽかんとした表情を浮かべた佐々木が、大声で笑いながらアキを指さす。
「三嶋の嫉妬が見られるとは。長生きするもんだな」
 雑談で少し気が楽になったのもつかの間、次の受け入れ要請が入ってきて、院内PHSに返事をしながら初療室へと向かった。

 

 

 いってきます、という明るい声が聞こえる。
 立派な門構えの家は松濤にあって、飛び出してきた青年はあやうくアキにぶつかりそうになり、慌てて謝罪してきた。
「ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ」
 1月の朝、青年の吐息が白く浮かぶ。目が合うと、驚いたような表情が返ってくる。背中に視線を感じながら、アキは通行人を装ってその家の前をやり過ごした。角を曲がってようやく青年の気配を感じなくなったところで、電信柱にもたれて溜息をついた。
(14歳年下だから、いま、大学生ぐらいか)
 愛情をたっぷり受けて育ったのだろう、礼儀正しくて好感の持てる青年になっていた。
(はじめて会ったな。おれの……弟)
 顔立ちはアキにも母にも似ていない。眉の太い、古風だが男らしくて端整な顔立ちをしていた。身なりがよくて、人を疑うことをしらない真っ直ぐな目。暗闇を這うように生きてきたアキには、その眼をまっすぐ見返すことすら躊躇われた。
 しばらく呼吸を整えた後、ふたたび歩きだす。さきほどの青年はどうやら駅に向かっているようだった。日本有数の高級住宅街を抜けて街中に出ると、銀座から東京メトロに乗り込む。 アキは気付かれないよう、距離を置いて後ろから追いかけた。電車に乗ってからも彼は、お年寄りに席を譲ったり、本を読んだりしながら、ときおり窓の外を眺めていた。
 本郷三丁目で下車していく背中を追いかけながら、(これは、育ちだけでなく学歴も負けたかな)とアキは内心苦笑した。最高学府といわれる大学に向かった彼は、どうやらそこの生徒らしかった。
「おはよー、湯浅」
「おはよう」
 友人たちに声をかけられるたびに、笑顔で応えている。しばらくそれを眺めた後、アキは食堂に向かった。広大な敷地を歩きながら、光あふれる未来を背負った学生たちとすれ違うたびに、おれはいったい何をしているんだろう、こんなバカげたことは今すぐに辞めるべきだと何度も自分に言い聞かせた。
 秋は銀杏が美しいであろう通りを抜けて、講堂の地下にある食堂でコーヒーを前にぼんやりと座り込む。すっかりコーヒーが冷めた頃に口をつけようとして、目の前に誰かが座ったことに気付いた。
「さっきそこで見かけたから、後をつけてきちゃいました。朝、会いましたよね」
 つけてきたのはこっちだ、と思いながらアキは曖昧に微笑む。
「そういえばそうだっけ」
 青年はクイズの答えを探すように、にこにこ笑いながら「もしかして、」と続ける。
「ウチの大学の助手か何かされてるんですか?でもあなたほど目立つ人、一度みたら忘れないと思うんですが」
「たまたま通りかかって、母校が懐かしくなっただけだよ」
 嘘だった。ぬるくなったコーヒーに眉をしかめると、青年が心得たように笑って、暖かいコーヒーをいれなおしてきてくれた。まじり気無しの善意にアキは、礼を言って視線を逸らす。
「いいところに住んでるんだね」
「あはは、あそこは母方の祖母の家なんです。実家は浅草にあるんですけど、月一は泊まりに来いってうるさくて。昔はとにかく厳しい人だったのに、最近はすっかり丸くなってしまいました、祖母も祖父も」
 姿勢がよくて、頭も顔もよく、経済的に何不自由なく育った、血を分けた弟。
 笑顔や、声や、所作のひとつひとつが、アキに突き刺さって抜けない。
(どんな生活をしているのか、知ってからぶち壊してやろうと思ってたのに)
 今はすっかり後悔していた。払拭したつもりだったコンプレックスが全部自分に向かって牙を剥いてくるのが分かる。どうして自分や母は、あんな思いをしなければいけなかったんだろう、この青年はそんな兄がいることすら知らずに、幸せに他人に笑いかけ、親切を振りまいているというのに。
「何を専攻しているの?」
「航空宇宙工学です。夢があっていいでしょう」
 この青年はなぜ自分のことを何もきいてこないのだろう。
 家の前で会った男に大学で再会したりしたら、不審に思ってもおかしくない。
 もう帰ろう。そう決めてから、ずっと尋ねて見たかったことを問いかけてみた。
「…今、幸せ?」
 青年は一瞬照れくさそうな表情をみせてから、笑った。
「はい。…あなたはどうですか、兄さん」
―――驚きで、表情も声も失ったアキに、青年がまっすぐに視線をぶつけながら言う。
「父からきいたことがあるんです。おれには母親の異なる、年の離れた兄がいると。あなたなんでしょう、――違いますか」
 返事をせずに立ち上がる。地上へ上がり、講堂の前の道を足早に歩く。
「待ってください、どうして逃げるんですか」
「ついてくるな」
 振り払おうと、走った。だが運動をほとんどしないアキが、大学生の体力に叶うはずもなく、大学の構内を抜けきる前に追いつかれる。
「否定しないことがすでに肯定ですよ、兄さん」
 真っ直ぐすぎてヒヤリとするほど澄みきった眼に、アキは怯んだ。
「なにいってんの、さっきから…そんなわけ、ないでしょ」
「おれ、燿平っていいます。兄がいると聞いてから、ずっと会ってみたかった。こんなこんなきれいな人だとは思わなかったから、今すごく驚いてますけど。……あの、これ連絡先です、よかったら今度一緒に」
 掴まれた腕を振り払い、叫んだ。
「さわるな!」
 迫力のある拒絶に、燿平の眼が傷ついたように揺れる。しまった、と思ったがもう止められなかった。
「おれは、お前なんか死ねばいいってずっと思ってた。お前なんか不幸になってしまえばいいって、そう思って生きてきたんだ。会わなければよかった、やっぱり来るべきじゃなかった!お前も、お前の父親も母親も、全員地獄に堕ちてしまえ!」
 燿平が真っ青になって立ち尽くす。背を向けて、アキは走った。
 何度振り返っても、燿平はもう追いかけてはこなかった。

 

 

 

 突然押しかけたというのに、千早は以前のように厳しい顔をすることなくアキを受け入れ、何も聞かずに部屋に上げた。寒いでしょ、何かいれてくるから座ってて。そういってソファに座らせ、彼はキッチンでお湯を沸かしている。
 部屋の中が妙に片付いている。元々物の少ない部屋だったが、壁一面に並べられていた楽譜が、積まれた段ボールの中へ移動させられていた。
「当直明け?もしかして寝てないんじゃないの、ベッド使う?」
「……千早、なんであのデータ、使えへんの」
 熱いコーヒーをいれたマグカップをアキに持たせ、千早が隣に座った。とぼけることも、答えることもせずにじっと見つめてくる彼の視線に、アキはそれがわざとだということを知る。
(そのためにおれに近づいたんやろう。なんで、あれを使ってくれへんの)
 沈黙する千早に、アキは深いため息をついて俯く。上着を脱ぐと、ポケットからルーズリーフの切れ端が落ちた。角ばった読みにくい字は、どこかアキのもの似ている。『湯浅 燿平』という名前と、携帯番号、メールアドレスが書かれていた。
『兄がいると聞かされてから、成人したら一緒に酒を飲みたいと思っていました。ぜひ、連絡をください』
 握りしめ、祈るように額に、握った手のひらを押し当てた。
(ひどいことを言った。弟はなにも悪くないのに、ひどいことを)
 アキをスペアにしたのも、挙句いらなくなったから捨てたのも、燿平ではない。彼は何もしらない、まっすぐで感じのいい青年だった。両親の愛や期待を一身に受けて、必要とされる人生を歩んできたのは、べつに彼が望んだからでも誰かを出し抜いたからでもない。
 アキは運が悪かった。そして彼は幸運だった。自分に同情するぐらいなら、運のせいにしたほうがましだった。
「アキ?」
 口から零れ落ちた言葉は、そんな心境とは無関係な、即物的なものだった。
「…して」
 問い返すような野暮なマネはしないのが千早らしい。顔を上げ、目を細めて欲望をあらわに耳元でささやく。
「いますぐセックスして」
 考えたくない。嫌なことも哀しいことも。傷つけられるよりも傷つけたときのほうが、ずっと自分の胸にささって取れないのだということも、アキはよく知っている。だからこそ忘れたい。
 セーターを脱ぎ払い、千早のベルトを外そうとすると、その手をやさしく握られた。近づいてきた唇に、アキは安堵する。これで、今だけは何も考えなくて済む。
「ひどくしていいから」
「…しないよ。もう、そんなことする理由がないもの」
 息を呑んだアキに、千早が苦笑した。
「あ、ごめん。セックスはする、したいけど、ひどくしたりはしないってこと」
 手のひらがアキの背中を撫でる。見上げたアキの黒く潤んだひとみに、マジで魔性だわー、と軽い口調で呟いた。
 手を引かれてついていくと、ベッドの上に座らされた。
「アキに八つ当たりする必要はもうないからね。今日はうんと優しくしちゃうよ」
 抱き寄せられ、唇を重ねる。いつになく丁寧に、千早はアキの唇を舐めて、ゆっくりベッドに押し倒した。てのひらが服のすきまから侵入して、一枚ずつ器用に剥がされていく。キスをしながら自分の服も脱いだ千早が、アキの上でにっこり笑って髪を撫でた。

 肌をかさねると、頭の中がとろけて何も考えられなくなるのが良かった。手のひらが、くちびるが、千早の硬くなった性器がアキを溶かしてグズグズにする。ベッドに四つんばいになって、動物みたいに後ろから揺さぶられていると、意味なんて何もない喘ぎ声しか出てこない。
「アキ」
 息の上がった千早の声に、かろうじて振り向く。快感のせいで浮かんだ涙と汗が頬をつたってシーツに落ちる。掴まれた腰から下は、痺れたように熱くていまにも達してしまいそうだった。
「あ、ふあ、気持ちいい…千早、きもちいい」
「ん、おれも」
「もっとして。もっと、いっぱいして。前みたいにひどくして、おねがい」
 千早が無言でアキの身体を持ち上げ、正常位に変えた。大きく開かれた自分の足とだらしなく開き切った穴。足を持って深く挿入され、背筋がふるえるような快感に声を上げた。
「おれもやめるからさ。もう、やめようよ」
 千早が眉をよせ、絶頂をこらえながら吐き出すように言った。
「復讐なんかやめよう」
 くちびるが動く。そんなことしたって、と欲情にぬれた声で千早が続けた。いやらしいことをしているはずなのに、まるで別れの儀式みたいにおごそかで、切なくて、抑えこんでいたはずの涙が眼のふちからこぼれおちてしまう。
「それしかなかった。おれにはそれしかなかった…あああ…っ!」
 枕がアキの涙でぬれていく。どれだけ舐めとっても途切れないそれに抗議するように、千早は長い足をもちあげて膝裏に舌をはわせ、噛んだ。
 セックスしているのに孤独なの、かわいそうなアキ。
 千早に耳元でささやかれて、アキは赤く染まった顔を横に振った。
「もう、いや、いや…!」
「薄いガラスがさ、っ、割れる瞬間みたい。割れちゃダメだよ、つらくても、われたら終わりなんだよ」
「割ってくれていい。もう、ころして。このまま…!首をしめて、ころして」
 喉から空気が抜けるような、声にならない声をあげながらアキが達する。それはとても哀しげで、救いのない声だった。

 摂が歩いてくる。
 子どもの摂が、こちらに向かってゆっくりと。
 手を伸ばし、声をかけても彼は気づかない。隣には聡もいた。
 彼らが近づいてくるにつれ、こどもだった摂が中学生になり、高校生になって、今の彼になる。様々な哀しみを乗り越えてきた深いひとみの黒を、アキは見つめた。大人の摂はアキを見ずに前を通り過ぎ、女性と寄り添い合って遠ざかっていく。
「好きな女性と、幸せな家庭を作れって、摂にはゆうたよ」
 いつの間にか聡が隣に立っている。おだやかで、意志の強い眼差しは息子の摂にそっくりだった。
 分かっていた。他人のアキをどんなに大切にしてくれても、摂には追いつけないのだと。嫌悪感こそ示しはしなくても、アキの摂にたいする好意を、喜んではいないのだと。ふつうの親なら当然なのに、申し訳なさそうな顔がとても聡らしい。
 聡の後ろには果てしなく続く青い空が見えた。さびしげに微笑んだ聡に、アキは目を伏せる。
「わかってた。それがいちばんいいんやって」
 摂の手を握りたかった。手を繋いで、見つめ合い、共に生きたいと思った。
「おれでは、摂を幸せにすることはできへん、でも」
 白いカモメが空を横切っていく。うらやましくて、目を細めた。摂と一緒にいられないのなら、もういっそ、人ではなく鳥に生まれ変わりたい。空をとびながら、幸せに生きる彼を見守れたらそれで良かった。
 女性と離れた摂が、今度はたくさんの仲間に囲まれていく。救急隊の面々と、星野成一の前に立った摂は、自信にあふれた笑顔を浮かべて頷く。
 聡の後ろの空が、あっという間に夜空へ変わる。アキはその、どこでもない場所に座り込んで地平線を眺めた。聡は、アキの視線の先を黙ってみつめている。
「摂が、幸せになってくれたら、それでいい」
 願い事は、昔から変わらずひとつだ。
 自分の中にある唯一のうつくしい願い事が、熱く温度を持ち光を放つ。

 空があけていく。
 どんなときでも、夜は終わり、朝がくる。

 心配そうに覗き込んでいる乾の顔が間近にみえる。
「…大丈夫ですか?ひどくうなされてましたけど」
 あまりに頭痛がひどいので、仮眠室で少し休ませてもらった。一五分経ったら起こしてくれと研修医の乾に頼んであったから、言われた通りにしたのだろう。
 重い身体を起こす。自分の頬が濡れていた。
(また、夢をみながら泣いてしまった)
「大丈夫だ」
「でも、泣いてましたよ、三嶋先生」
 乱暴に手の甲で頬をぬぐって、うるさい、と切り捨てる。立ち上がり、救命救急科室へと足早に歩く。後ろからついてくる乾が、「なにか悩んでるんですか、おれで良かったら聴きますよ」と問いかけてきたが、アキは「お前にきいてもらうぐらいなら、道端でダンゴ虫にでも話しかけてるほうがなんぼかマシだな」としらけた顔で流す。
「最近よく眠れないから、良い夢がみれない」
「へええ。心配ごとでもあるんすか?」
 あるといえば、ある。
 ここのところ、仕事が終わって家に帰るとき、誰かにつけられているような、観察されているような気がしていた。
「ちょっとな。まともに生きてる奴は、大体ひとつふたつ悩み事があるんだよ、お前にはないだろうけど」
「ひっでー!おれだってありますよっ、美人の先輩はいつもキツイし…何回誘ってもやらせてくれないし…」
「そんなもん悩みに入るかアホ。ド厚かましいな、二千回死ねっ」
「そんなに!?ドラゴンボールだって二回しか生き返れないのに!?」
「バカめ。途中から神龍のシステムがアップデートして、回数制限はなくなったんだよ」
「ちょっと三嶋先生~神龍をOSみたいに言うのやめてくださいよお~」
 部長の鋭い視線からうまく逃れながら、アキは自分のデスクに腰掛けた。隣から佐々木が「三嶋が悩み事だって?」と割り込んできて、肩をすくめながら「ストーカーに合ってるんです」と適当に返事をする。
「ストーカーってお前の場合しゃれになんねえからな。大丈夫か?」
「今は訴訟抱えてないし…面倒な関係も、持ってない……はずだし、思い当たるフシはないんですけどね」
「いま結構間があきましたね」
 すかさず乾の指摘が入ってくる。
「あいたな」
 佐々木が腕を組み、椅子を回転させてアキのほうへと体を向けながら同意した。
「うるさい。昔からときどき付け回されたりしましたけど、無視してればそのうち飽きてどっかいきますよ、多分」
 容姿が人並み外れていると、ただ歩いているだけで一方的に好意を持たれて追いかけられたり付け回されたりすることがある。子供の頃からのことで慣れているので、なんでもないように言い捨ててアキは仕事に戻る。
「三嶋先生ってー、子供の頃危なかったっしょ」
「あ?」
「絶対変態とかに狙われたでしょ、いまでもこんだけキレイなんだし」
「まあな。誘拐されかけたりレイプされかけたり、一度や二度じゃなかったな。でもいつも…」
 摂が、幼なじみが守ってくれた。自分もまだ小さかったのに、竹刀を振り回して追い払ってくれた。境内に連れ込まれて裸にされて犯されそうになったときも、大人を引き連れて泣きながら助けにきてくれた。
 そう答えようとして口をつぐむ。怪訝な表情を浮かべた乾が追及しようとしたところに、佐々木が心配そうに視線を寄越す。
「帰り道気をつけろよ。暗いところを一人で歩くんじゃねえぞ。お前近道とかいって公園の中歩いてるだろ。あそこ人気無くて夜あぶねーんだから…」
「なんですか佐々木先生は。おれのお父さんですか」
 電子カルテを見ながら軽口をたたく。周囲の医師から、笑い声が漏れた。
「たしかに佐々木先生、三嶋先生のおとうさんみたいですよね」
「ばかいうな!年大してかわんねえのにこんなデカいガキがいてたまるか」
「……ほんまに、佐々木先生がお父さんやったらよかったのに」
 心の底から言ったつもりだったが、一瞬面食らった後で佐々木は鼻に皺を寄せて「気持ちわりいこと抜かすな」とそっぽを向いてしまう。
 キーボードをたたきながら、ふと「ストーカー」の視線を思い出す。そこには恋愛感情を持ったものが押し付けてくる性欲や情熱は見当たらず、ますますアキを不安な気持ちにさせた。
「いい万年筆ですね、三嶋先生」
 朝の申し送りを終えたところで小児科医の水谷にばったり会い、飲みに行く約束をしてから手帳を開いていると、牧田に声をかけられた。
「ありがとうございます。プレゼントで」
 いつも笑っている丸い顔が、いっそう嬉しそうにやわらかくなる。
「プレゼントって、お誕生日かなにかですか?」
「はい、先月なんですが」
 そのやり取りをきいていた救急科の若いエース看護師である海野が、「ええっ、もっと早く教えてくださいよお!みんなでお祝いしたのに!!」と駆け寄ってきて、人差し指でアキの胸を突いた。
「三嶋先生のお誕生日会っていえば、数十人は集まりますよ」
「いいよそんな。めでたい日でもないんだし。三十路のヤローなんか祝わなくていいって。そういうのは若い人同士でさ、」
「年寄くさいこと言わないで、やりましょうよー。三嶋先生と話したいと思ってるナース、めちゃくちゃ多いんですよ。わたし同期と飲むたびに先生の話聞かれるんですから!何歳かとか彼女は何人ぐらいいるのかとか美しさの秘密は何かとか愛人は募集してるのかとか…」
「質問自体に疑問を感じるものがいくつかあったな」
「三嶋先生マジできれいだもんねー。そこにいるだけで空気が清浄になるっていうか」
 乾が話に入ってきた。
「そうなんですよ。森の中にいるのと同じぐらい癒しのオーラが」
「おれは空気清浄器か」
「あ、ねえねえ海野さん、おれのことは?なんて言われてる?」
 盛り上がってきたのをこれ幸いとばかりにその場から逃れて、佐々木の隣に座る。
「乾先生~?お金はもってるけど先生やり逃げ野郎じゃないですか。知ってますよ、内科と脳外科の…」
「そこまでそこまで!やめて部長もいるんだから」
 お前が空気清浄器ねえ…。と佐々木がからかうようなまなざしを投げてくるので、アキはうんざりして、万年筆の先で佐々木の額を叩く。
「あでっ!お、おま、ちょっと刺さったじゃねえかッ」
「ふざけてる場合じゃないですよ。……ほら、来た」
 アキの言葉の後すぐに、ホットラインが鳴って受け入れ要請が入る。応対した佐々木が電話を切ったあと、「なんだお前いまの、予知か!?」と驚いている。
 返事をせずに、盗み聞いた消防局とのやり取りを、アキが大声で周知する。
「患者は70代男性、家族が朝起きたらトイレで吐血し倒れていた、JCS二桁、呼吸浅薄!」
 途端にあわただしくなる救命救急科室と、準備に動き回るナースたち。指示を飛ばす佐々木の横で冷静に助言しているアキを、部長の井之頭は物憂げにながめていた。

 30分以上心臓マッサージをやり続けたせいで、全身の疲労感が足取りを重くする。それで助かる見込みがあるなら一時間でも二時間でもしようものだが、助からないことが分かっている患者に、患者の家族の要望だからという理由でやり続けるのは、病院側のパフォーマンスに過ぎないような気がした。
 搬送されてきたとき、70代の患者はすでにCPAの状態になっていて、いくら救命センターといえども出来ることは限られている状況だった。原因は肝硬変に伴う食道静脈瘤で、大量に血を吐き下血もしていて、ショック状態からCPAになっていたものだ。肝硬変の原因は主にアルコールで、彼の場合はほとんど飲めないにも関わらず営業職であるため飲まざるを得ず、そうしているうちにどんどん肝臓の状態が悪化してしまったという。
 お父さん、と泣いてすがる患者の家族を見るのは、いつも辛い。あのときのことを、聡が死んだときのことを思い出させるからだった。今回のようなケースは一時的に救命したとしても予後が悪く、もっていかれる可能性は高いのだけれど。
 考え事をしているとき、寒さや暑さは感じなくなる。おそらくそれぐらい深く思考のなかに沈んでいるのだろう。一月半ばを過ぎた由記市は、海が近いこともあって、夜は風が冷たく相当冷え込んでいて、無意識に頬を触った指は寒さでしびれていた。
 気が付くと、佐々木に暗いから気をつけろと言われた公園の中をぐるぐる歩き回っていた。アキの住むマンションはこの公園の裏側にある。現実に帰ってきた途端、燿平の顔が浮かんできて気が滅入った。もう三十を過ぎていて、仕事もそれなりにやれているし自分の人生に責任を持って生きてきたという自負はある。それでも、みっともない嫉妬心や劣等感は消えてくれない。アキは、自分の中に恵まれた人間にたいする暗い願望、つまり彼等がおちていくところを見たいという下衆な心があることを自覚していた。
 子供じみた愚かな欲望だと分かっている。分かってはいても、およそ傷ついたことのない、苦労を知らない人間が挫折していくのを見ると、ほの昏い喜びが込み上げてくるのだ。もっと傷ついてほしい。もっともがき苦しんで、愛されたいと足掻いてほしい。
(だから、祥一くんと寝たんかな、おれ)
 自分を好きだと言ってはばからない男を家に上げて、相手が襲いかかってくるように仕向けたのは、自分だ。誠実であろうとする祥一が性欲に負けて圧し掛かってきたとき、心の中で「やっぱりこの男も」と身勝手に失望していた。
 様々な人間がアキの前に現れ、愛をささやき、体を蹂躙して通り過ぎていく。
 何も返せないと伝えても、彼等は入れ代わり立ち代わりやってきた。そして本当にアキが気持ちを返せないことを知ると、時間を無駄にした、と憎みながら立ち去っていく。粘り強く側にいようとする人間は、アキのほうから手ひどく切り捨てた。それが彼等のためだとすら思っていたから、心は全く痛まなかった。
 好きだ、愛していると言われるたびに、アキはその想いを試し、引き裂き、ゴミのように捨ててやりたくなる。どうせすぐにいなくなるくせに、本当は男と本気で添い遂げられるなんて思ってもいないくせに、アキの外見に吸い寄せられてくる人間は後を絶たない。
 彼等がそうであるように、アキもさびしさを埋めるために、好みの人間と時々寝た。それなりに大事にして、優しくした。けれども、決して愛したりはしなかった。誰かに愛着を持つのも、持たれるのも、持った相手がいつしか消えてしまうのではないかと不安になるのももう懲り懲りだった。一番欲しくてたまらない人は絶対に手に入らない。それならば誰と何をしたって一緒だった。彼等はアキの顔を、体を、うすっぺらい優しさを求め、アキはひとときの体温と安心と、傷つけるときの苦しみと歓びをもとめた。
(外見はともかく、中身はもう、腐る寸前やのに)
 自嘲して、唇を噛んだ。
 どんなに這い上がろうとしても、よじ登っても、所詮は下等な人間なのかもしれない…。
 生まれ育ちで全てが決まってしまうなんて絶対に認めたくなかった。跳ね返すために努力してきたつもりでいたが、結局、いま自分自身の手でそれら全てをぶち壊して、台無しにしようとしている。
(下らない復讐心のために)
 あの日、千早と話してから、アキの中には迷いが生まれていた。自分がしようとしていることが正しくないことは、はじめから知っていた。知っていたが、長い間蓄積された、昏く燃えたまま消えない復讐心に支えられて、やめてしまおうと考えた事はなかった。
(おれの父親、おれの出生。公表したら、あいつはもう表舞台に出て来られへん。だから千早に渡したのに、託したのに、このままでは多分――)
 あれは、使われる日が来ないかもしれない。
 千早とアキは似た者同士だ。だからこそ、よく分かる。
 それなら自分で、やるしかないのか。あのデータをマスコミに持ち込んで、社会的制裁を加えて…。
 そんなことを考えながら夜の公園を抜けて、自分のマンションの前まで来たとき、誰かが立っているのが見えた。フードをかぶっていて、顔はよくわからない。
(もしかして、あれがストーカーの正体か?)
 ポケットの中の携帯電話を握りしめて、逡巡する。あの手の人間に直接接触すると、ろくなことにならないことは過去の経験からアキも学習していた。誰か呼んできてもらおうか、それとも警察に…。
「アキ」
 後ろから腕をつかまれて固まる。振り返れば、走ってきたのか息が上がった摂が目の前に立っていた。
「摂、なんで」
「…ずっと、言いたかったことがあって」
 呼吸を整える摂とは逆に、アキは心臓がうるさく鳴りはじめる。
 何を言われるんだろう。
「星野が、」
(―――誰とでも、幸せになってくれたら。それは本音やったはずやのに)
 摂がいま、別の人間のなまえを呼んだだけで、アキは息ができなくなる。他の誰かと一緒に暮らしているところなんてみたら、きっと死んでしまうと思った。心が捻じれて切れてしまいそうなぐらい辛かった。もうどうしようもないのに。あの日、離ればなれになった日から、アキと摂はもう別々の人生を歩き始めてしまった。それは平行線のように、別々の出口に向かって伸びていて決して交わることはないのだ。
「アキと、ちゃんと向き合って話をしろと言ってくれて、…おれはずっと、逃げていたんだなと気づいた。たとえアキが間違った事をしていても、構わないと思っていた。世間的に許されない罪だとしても、いま幸せに生きていてくれるなら、それで良かったんだ」
 口下手な摂の、途切れ途切れの言葉。はっきりとは分からないまでも、なんの話をしているのか少しずつ見えてきて、アキは震える声で「それは、」と問いかけようとする。
「あの日のことだ」
 それは間違いなく、アキの義父が死んだ日のことだった。
「おれは、勝手に思い込んでいた。アキが、あの男を殺してしまったんだと」
「ちょっとまって、摂が、…突き落としたんじゃないの?」
「やってない。アキも、違うんだろう」
 唇がわななく。まさか、という気持ちと、やはり、という気持ちが同時に襲ってきて言葉にならない。
 摂は、やっていなかった。誰も殺してなかった。
 アキの答えを待つ摂は、問いかけながらも答えを知っているような顔をしていた。その場でしゃがみこみそうになりながらも、なんとか声を絞り出す。
「やってない…おれも、摂が突き落としたんやって、思い込んでた…」
「どうして?」
「だって…あいつの手から、なんか取ったやろ」
「ああ、あれは…」
 説明しようとした摂が、急にはっとしたような顔でアキの後ろを見た。フードをかぶった青年がこちらに近づいてきて、何かを前に差し出す。
「…あんた、三嶋だろ。救急で運ばれた時、いたよな。いますぐ新田の住所を教えろ」
 包丁だった。刃渡り二十センチはあろうかという、牛刀を前に突きだしているのは――
「柏木さん、なにを」
 摂の声に、アキはフードの中を覗き込む。確かにそれは、幼馴染を亡くして激しく動揺していた、柏木だった。
「さっさと言え!!でないと、殺すぞ!」
 柏木を刺激しないように、摂はゆっくりアキに近づいてきて隣に並んだ。
「バカな事はやめてください。そんなことをして何の意味があるというんです」
 冷静な声に、柏木が激昂する。
「うるせえ!おまえら、幼なじみなんだって?あいつを奪っておいて、なんでお前らはのうのうと二人で道歩いてんだよ。もうおれには、おれを心配してくれるやつも、一緒に遊んでくれるやつも、ひとりもいないのに。助けてくれなかったくせに、お前らはおれみたいなヤツのこともあいつのこともすぐ忘れて、当たり前みたいに生きてくんだろ。どうせ、たくさんいるやつのうちの一人だもんな!!」
 おれには、たったひとりだったのに。あいつしかいなかったのに。
 涙混じりの柏木の声に、アキは胸を衝かれた。もしも、自分が摂を失ったら。冷静でいられる自信はまるでない。生きていくことすらままならなくなるだろう。
「…柏木さん、おれは新田先生の住所を知らないんです」
「名簿ぐらいあるだろ、出せよ!」
「あったとしても、あなたには渡せない。何をするつもりなんですか」
 包丁を突きだす腕は震えている。柏木も必死なのだと思った。
「お前には関係ないだろ、さっさと教えろ」
「その包丁で刺すんですか。新田先生を刺して、何か変わりますか」
「黙れ!!」
 脅すために振り回していた包丁が、真っ直ぐこちらに向かってくるのがみえる。恨まれているのは新田だけじゃないんだな、とアキは感じて、他人ごとには思えなくて、避けることはせずにその刃先を眺めていた。
 まっすぐな刃物が下腹部に刺さる直前、横へ強く突き飛ばされる。アスファルトに倒れ込んだアキの目に飛び込んできたのは、腎臓の横、小腸を突き抜けて腹部大動脈のあたりまで包丁が突き刺さった摂と、呆然自失のまま青ざめている柏木だった。
「やめろ……抜くな」
 こんな時でも医師として思考できることに驚く。だが動揺している柏木は、無我夢中で包丁を抜いて放り投げ、その場にへたりこんだ。途端におびただしい量の血液が、摂の腹部からドクドクと流れ落ちて膝をつく。抱きとめようと近づく自分の動きが、時間でも止められているかのように遅かった。
「摂!」
 手が震える。鞄に入れていたタオルで腹部を圧迫止血しながら携帯電話を手に取るが、血で滑って上手くかけることができない。夜遅いせいで誰も通りかからない上に、刺した柏木はどれだけ声をかけても腑抜けてしまって、使い物にならない。
 聡が死んだ日のことがまるで今、この瞬間であるかのようにフラッシュバックする。大切な人が、また目の前で命を落とすのか。ハードさに弱音を吐きながらも救命の最前線に立ってきたこの八年間は、全くの無意味だったのか…
「いやや、せつ、めを開けて。せつ、せつ」
 アキの腕の中で仰向けに目を閉じていた摂が、うっすらと目をあけた。アキの涙が、雨のようにパタパタと摂の頬に落ちる。摂が手を伸ばそうとして力を入れたが、腕上がらなくて諦めたのが分かった。
「あき、さっき、いおうとしたのは…」
「そんなん、あとでいい。いつでもきくから、遺言みたいにすんのはやめて!」
 血が止まらない。さっきまであんなに晴れていた空は、突然曇り始めて、冷たい風が槍のように横っ面を殴ってくる。雪とも雨ともつかないものが、ふわふわと空からおちてきて、摂の眼尻で溶けた。
 浅くて早い息で、アキの目の前がくもる。うっすらと微笑みながら、摂は言った。

「好きだ。はじめて会った日から、お前のことがすきだった」