27 Ambulance! (大丈夫なもんか)

 物音がして、咄嗟に名札をジャージのポケットに突っ込む。
 六人部が起きてくるかと思い身構えたが、寝返りを打っただけだった。引き出しを閉めて、そのまま布団にもぐりこんだ。
(眠れるわけねーだろ…)
 血の付いた名札。三嶋を好きだった六人部。だからこそ離れたこと。それでも三嶋は六人部を忘れていなくて、今でも想いつづけていること。
(あなたの過去には、本当は何があったの)
 体を丸めて頭を抱えた。どれだけ考えても分からなかった。成一がこれまで生きてきた、そう長くない人生経験では、推察することすらできない。

「星野さん、大丈夫ですか?」
 隣を走る野中に声をかけられてはっとした。年が明けてすぐ、冷たい気温の中無我夢中で走っていたが、考え事をしていたせいで彼女のペースを窺うことを忘れていた。
「ご、ごめん!早かったよね、大丈夫?」
「少し…休んでもいいですか」
「うん。ゆっくりペースダウンしよう。急に止まっちゃダメだよ、体に負担がかかるから」
 緑地公園の中、池のそばにあるベンチにふたりで腰かけた。息を荒げ、タオルで顔を拭っている野中に成一がスポーツドリンクを差し出す。
「よかったらこれ」
「ありがとうございます」
 真冬の池には、ほとんど生き物の姿が見当たらない。強い寒気が来ている、というニュースの影響か、日曜の朝だというのに外周を走っている人の数もまばらだ。
 冬らしい薄い青をした空を、ベンチの端に腰掛けて眺める。すこし離れたベンチの端に、野中が座ってペットボトルを一息に飲み干した。汗と一緒に動く喉に視線をうつすと、普段見慣れている上司のがっしりした喉や、とがった骨がなくて困惑する。
(女の子だもんなあ。首も手も、ほそくて小さい)
「髪、伸びたね」
 夏頃知り合った時は、少年のように短い髪をしていたのに。成一がそう言うと、野中が照れくさそうに自分の髪を触った。
「願掛けしてるんです、合格の」
「そっか。夢に向かってるときって、毎日があっという間だよな」
「六人部隊長は、髪が長いのと短いの…どっちが好みなんでしょうか」
 唐突な質問に思わず笑ってしまうと、野中が拗ねたように顔を背けた。
「ごめん。そうだなあ、どっちでもいいんじゃないかな、似合ってれば」
(そうだ、そんなことすらおれは知らない)
 髪が長い女性が好きなのか、短い女性かなんて単純なことさえも。
「星野さんは、どっちが好きですか?」
「おれ?うーんおれは短い方が好きかなあ…ってきいても仕方ないでしょ」
 立ち上がって伸びをする。指先が暖かくなっているのは、思い切り走り込んだからだ。悩みがあるときは体を動かすに限る。もやもやした頭の中は強制的にスッキリさせられてよっしゃ悩んでも仕方ない!という割り切りへ移行するからだった。
「なにか悩み事があるんですね」
「うわー怖い。なんで分かっちゃうんだろう」
「わりと、分かりやすいですよ、星野さんは」
「よく言われるけど、年下の女の子に言われるのはちょっとショックだよ」
 池のまわりを囲むように設けられている柵にもたれて、成一が笑った。
「なんかね、煮詰まってるのかもしれない」
「煮詰まってる、…仕事ですか?」
「いや、人間関係というか、恋愛に」
「恋愛」
 ぽつりとつぶやいた野中の声に、成一はうなづく。
 しばらくの間、ふたりとも黙っていた。何も話そうとしない野中を不思議に思いながら、成一は手持ちのタオルで汗をぬぐい、冬空を横切る飛行機雲をながめた。
 長い沈黙の末に、野中が低い声で言った。
「レンアイは、私にはよく分かりません」
「そうなの?」
「男性とお付き合いしたことがないので。変ですよね、いい年して」
 意外だった。
(少し表情に乏しいところはあるけれど、顔立ちがはっきりしていて可愛い子なのに)
「変じゃないけど意外かも、どうして?」
「人を好きになったことがないんです。誰かを好きにならないとおかしいと思うのですが、なかなか…。周りがみんな、彼氏を作っていって、私のことをおかしいと言います」
「人を好きになるかどうかなんて出会いと縁と運次第だよ。何もおかしいことはない。でも、ごめんね。おれさ、野中さんは六人部隊長のことが好きなんだと思ってた」
 彼女が俯いて、伸びた前髪が表情を隠す。やわらかそうな黒髪は、三嶋を連想させて成一は戸惑った。
「六人部隊長は、なんとなく自分に似たところを感じて。気になるだけです」
「そういうのを好きっていうんじゃないかな、よく分かんないけど」
「違うと思います。レンアイ感情は、相手に触りたいとか触ってほしいとか、性欲を含むものを言うはずですよね?私には、それがありませんから」
 思わず笑ってしまう。またしても、憮然とした表情と視線がぶつかった。
「おれの思う恋愛は、ちょっと違うかな。そりゃあ触りたいとかそういうのも、なくはないけど。どっちかっていうと、そうだな。今日は日曜日だからあの人も休みだけど、何してるのかな、って考えたり、ごはんを一緒に食べている時に、次はもっとおいしいものを作りたいな、どんな顔してくれるかなって想ったり、…隣を歩いている時に、あー幸せだなって感じたりする。そういう感情のことを言うんじゃないかな」
 今度は野中が笑って、成一が憮然とする番だった。
「なんだか、星野さんのほうがずっと恋愛上手みたいで羨ましい」
「上手なもんか。フラれてばっかだよ、おれなんか」
 今度は二人で笑い合う。
「でも少し、分かった気がします」
「何が?」
「自分の気持ちが」
 立ち上がった野中が、鼻歌を歌いながらオデットのアンシェヌマンをしてみせたので、成一もふざけてジークフリート王子のアンシェヌマンで返す。「白鳥の湖」のオデットは全てのバレリーナが一度は憧れる王道中の王道だ。だからこそ、舞台で踊れるのはたったひとり、プリマ・バレリーナだけで、結局舞台の上では一度も踊れないまま辞めてしまう人間がほとんどだった。
「オデットなんて、一度も踊れなかったな」
 寂しそうな横顔に、何も言えずに立っていると、野中がいたずらっぽく笑って見せた。
「でもいいんです。わたしはオディールの方がすきだから」
「おれも、実は黒鳥のほうがすき。男だからいつもジークフリートだったけど」
「いつも王子を踊れる星野さんは、相当すごいんですよ!」
「女子と比べたら競争激しくないからね、そんなことないんだ」
 レンアイのことは、よくわからないですけど。
 そう言って野中が成一を見つめる。いつも真っ直ぐに人を見る、猫のような眼に、胸の奥を見透かされそうでドキリとした。
「星野さんが笑ってくれたら、わたしはうれしいです。これは、恋ですか?」
 一歩、また一歩距離をつめて、見上げてくる彼女の視線に息が止まる。
「あなたに会うと、一日とてもたのしい気持ちになる。すぐにまた会いたくなる。…これは、レンアイ感情でしょうか」
 絶句している成一に、野中が、甘さのない声で問いかけてくる。
「教えてください、星野さん」
 六人部の家に泊めてもらってから、すでに二週間が過ぎていた。

 写真を撮る。借り物の一眼レフで、一向に上手くならないまま、それでも撮りつづける。この季節、緑地公園の池に渡り鳥がやってきていて、真っ白な羽がとても美しいので成一は鳥の写真ばかりを精力的に撮った。ピンボケしたり、ずれたり、露光がおかしかったりしながらも、なんとか見れそうなものを選んでハガキに出力した。
 今月で一番の冷え込み、と天気予報が告げていたとおり、起き抜けの自室は息が白くなるほど寒い。暖房をつけて、指を擦りながらサインペンを握る。業務日誌すら苦手なのに、手紙なんてかけるわけないよ、と弱気になりそうな気持ちを叱咤激励した。

『例年通り、渡り鳥がやってきました。春になったら飛び立つのですが、沼田さんは群れが一斉に飛び立つところを見たことがありますか?おれはこの街に住んで長いんですが、まだ一度も見た事がありません』

 出勤前の早朝、沼田のポストに投函する。郵便物が溜まっていないことを確認して、おもいっきり伸びをした。鼻の奥がツンと痛くなるほど冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、自転車にまたがる。目の前にある職場へ、今日も気合を入れて出勤する。誰かを助けたり助けられなかったり、学んだり怒られたりしながら、いつの間にか明日がくるのを楽しみにしている自分に、成一は驚いていた。

「あれって告白されたのかなあ」
 頭の中で呟いたつもりが声に出ていた。すかさず、隣にいた大友が反応する。
「えーーっ!ほしのっちがとうとうモテてしまったの!?」
 ひとり言なんて大友には通用しない。分かっていたはずなのにまたしても聞かれてしまい、大慌てで手を振って否定する。
「ちが、ちがいますよ!ん?なんか違いますよっていうのも腹立つけど違うんです」
 大交替が終わり、救急車の点検も全て終了して自席につく。六人部は署長室に呼ばれており、今度は何の話かなあ、と考えているうちに数日前の出来事を思い出していた。
「じゃあ何なのさ」
「友人の女子に、あなたといたら楽しいですけどこれって恋ですか、って聞かれて」
「質問!?なにそれ斬新!」
 大友がゲラゲラ笑った。成一は言わなきゃ良かった、と早くも後悔する。
 自分の顎の下に溜まった肉をつかみながら、大友はニヤニヤした。
「しかしアレだねえ、青春だねえ」
「完全に面白がってますよね」
「そんなことないってばあ。うらやましいんだよ。僕はほら、もう結婚して現役引退してるから。トキメキとかレンアイとか全面禁止でしょ?これからいくらでも人を好きになれるほしのっちが、眩しいったらないね」
「そういう意味では、隊長だって現役ですよ」
「まあね、独身だもん。…長いなあ、署長となんの話してるんだろ。最近、多いよね?」
 一月に入ると、そろそろ上層部では人事の話も出てくる頃合いなので、成一の署でもひとりずつ署長との面談や今後の方向性についてヒアリングが行われる。六人部は現場での業務も行うが、係長級の管理職でもあるので、人事の話にも無関係ではないのかもしれなかった。
「もしかして、隊長とうとう異動しちゃうのかなあ」
「え?」
「長いんだよね、救急。うちの署長はさ、六人部隊長にオレンジ着せたいっていつも言ってるから、いつ消防に異動になったっておかしくないんだ」
 由記市の場合は政令指定都市で規模が大きいため、「ハイパーレスキュー隊」と「レスキュー隊」の両方を持っているが、そこに所属するには厳しい試験をまずパスしなければいけない。座学もあるため知識も問われるが、なによりも『地獄』といわれる体力試験を突破し、資格を得た上で、人員に空きが出なければ配属されない。消防官たちの憧れと言われるハイパーレスキュー隊は東京都をモデルにして作られており、レスキュー隊に所属三年以上が最低条件で、その上多数の安全衛生関連の資格や免許を必要とされる。つまり、体力だけでは決して「レスキュー隊員」にもその上に位置する「ハイパーレスキュー隊員」にもなれないのだ。
「うちの県って横浜市にSRがありますけど、由記市は別でHRもってますもんね」
「うん。大阪でも大阪市と堺市は別で部隊を持ってるから特別なことじゃないけど。どうもね、それを統一するって話が出てるみたいなんだ」
「統一って、横浜市のSRとうちのHRをですか?」
「そうそう。最近話題の二重行政解消ってやつ。どうも消防大学も一つになるんじゃないかって。ほら、うちの市長、先月変わっただろ?そのときのマニフェストに書かれてたんだよ、すみっこにこっそりひっそりと…」
「でもそれだと、人数減っちゃうんじゃないんですかね…」
「逆だ。新しい市長の意向は、災害動員体制の強化に向いている。県と政令指定都市、合同で神奈川消防庁を設立し、レスキューに特化した直轄部隊を作るつもりらしい。つまり、優秀な人員をどんどんレスキューに引っ張りたいと考えているんだ」
 いつの間にか隣に立っていた六人部が、淡々とした声で説明する。あまりの話の大きさに、成一はぽかんと口を開けた。
「まぬけヅラしてる場合じゃないぞ。お前は、おれについてくるんだろう?」
「「てことはやっぱり、隊長異動しちゃうんですかあ!?」」
 大友と成一の揃った声に、六人部が苦笑した。席について書類を開きながら、首を振る。
「おれは人事担当じゃないですし、内部人事が本格的に動き出すのは二月後半ですから。異動するかどうかはわかりません。ただ、望んでいた救急救命士を主としたHR隊の編成がかなうのなら、目指してみたいですね」
「今年の四月から、特定行為の幅がまた広がりますしね。心停止でなくても輸液ができる、ずっと、隊長が望んでいたことでしたもんねえ…」
「ええ。活動の幅がいっそう広がりますから、今がチャンスかな、とは思っています」
 大友をみてから、成一に視線をうつして六人部が微笑む。
「現実味を帯びてきたんですね、救急救命士を集めた、救命に特化した小隊編成…」
 成一の言葉に、六人部がうなづく。
「まずは一小隊、救急救命士を主とした救助隊を作るらしい。今年四月の構想があったが間に合わないから、九月になるそうだ。ただ、署長の話はそれではなかった」
 続けて説明しようとした六人部の声にかぶるように、指令が入る。
『救急、指令。中央区――丁目、高熱、胸部痛』

 1月半ば、午前中の道路はさほど混んでおらず、目的地まで一五分程度で到着した。バイスタンダーがマンションの角で立っていて、隊長バッグを持っていち早く現場へ向かった六人部と、先に少し話をしている。
「星野、マスクをしろ。ゴム手袋は…つけてるな。大友さんも、マスクを」
「もしかして、何か感染症ですか?」
 救急隊員はほとんど毎日マスクを着用している。現場の傷病者が、どのような病気なのか全く分からないからだったが、時折マスクをつけ忘れて現場に行くと、六人部に厳しく叱責された。
「胸部痛に高熱。もしかするかもしれない」
 成一に耳打ちをして、バイスタンダーに再び聴取を開始する。もちろん、二人でストレッチャーを押して現場に向かいながら、である。
「倉橋さん。傷病者の方は二十代の男性とお聞きしていますが、高齢者の方や幼児など、抵抗力の低いご家族はいらっしゃいませんか?」
 六人部の問いかけに、母親らしき四十代後半の倉橋が「70代の、私の方の父がおりますが…?」と不安げな表情を見せた。
「そうですか。念のため、ご家族全員、マスクを装着してください」
「ええ、分かりました」
 六人部の考えが当たっているならば、病院選定が重要になってくる。『先入観は持つな、全てを疑い、観察の目を緩めるな。』六人部の教えを思い出しながら、成一は傷病者の家の中へ入っていく。
「救急隊です、失礼します」
「どうぞ、こちらです。隆太、救急の方が来て下さったわよ!」
 駅から多少離れているが、4LDKの立派な分譲住宅だ。そのうち一室に傷病者が横になっているらしい。
「ああ…マジで救急車呼んだんですね、忙しいのに母が、…すいません」
 言い終えてから、激しく咳き込む。
「とんでもないです。つらいですね、病院に搬送する前に、少しだけ質問させてください」
 六人部が優しい声で傷病者に話しかける。その間、成一は六人部に指示されたとおり、部屋から母親を隔離し、救急車を停めてきた大友に現状を耳打ちした。
「星野、血圧計とパスルオキシメータを。酸素飽和濃度から先に。あと部屋の換気をするようバイスタンダーに伝えてくれ」
「了解です」
 傷病者の指先に機材を装着し、数字を覗き込む。
(90%?!低い、これは絶対循環器か呼吸器に何かあるぞ…)
「隊長、SPO2ですが90%、血圧は140- 73です」
「倉橋さん、ステロイドを長期間使用するような治療を行ってはいませんか?」
「ええと…ステロイドはちょっと分かんないんですが、遺伝型糖尿病を患っています」
「そうですか。なるほど…では、微熱が長い間続いていたりは?」
 六人部の問いかけに、青年がはっとした表情を浮かべる。
「いわれてみれば、二週間ほど続いていました。あの、僕の仕事はゴホゴホッ、日雇い労働者の福祉に関する相談を、やってまして。いわゆるケースワーカーです。もしかして、僕!」
「私は医師ではありませんので、診断することはできません。ただ、正確な情報を教えて頂けると、病院の選定や医師にお伝えする情報の精度が上がります」
「あああ…うちの職場、年に数人出るんです…。若いから、油断してました」
「それでは搬送します。お母さん、同乗願えますか?」
「はい、はいそれはもう」
 車内収容後、大友は六人部の指示通り「市立感染症センター」へ真っ先に連絡した。内容を伝達すると受け入れ可能となった為、サイレンを鳴らして発車した。

「肺結核、ですか」
「ああ。感染症専門医の先生がいらして、助かったよ。話が早かった。CTとチールネルゼンで結核菌が出たそうだ。確定には他にもたくさん検査を要するから、暫定的な診断名ではあるが」
 帰署して、救急車内の換気や消毒を終えると、六人部が言った。
「隊長って本当にすごいですね…どうしてそこまで分かるんですか」
 あまりに豊富な知識量と経験に、成一はため息をつくしかない。
「どの部分からその可能性を考慮したか、いい質問だ。星野、言ってみろ」
 手指の消毒やうがいを終えて、自席で報告書を作成しはじめたところだった成一は、うーん、と顎に手をあてて考え込む。
「高齢者に多いイメージですが…20代ですからこれは無いですしね。年齢要素は無し。…高熱も肺結核特有ではありませんし…。あ!わかりました。継続性発熱と…環境的要因、でしょうか」
「環境的要因?」
 三人分のコーヒーを淹れて持ってきた大友に、恐縮しながら成一が礼を言う。大友は手を振りながら、隣に座る六人部を覗き込んだ。
「ああ、大友さんは廊下にいましたから。傷病者は、比較的感染例が多いとされる高齢者と、多数接触する業務を行っていたんです。実際、年間数例の感染者がいると本人も言っていました」
 いただきます、と頭を下げて、六人部がコーヒーを口に運ぶ。署につくともう正午近い時間になっていたのは、帰りの道路が渋滞していた為だ。傷病者を乗せているときならともかく、帰署する際はよほどの理由がない限りサイレンを鳴らすことができない。
「五十点だな。あとみっつある」
「みっつ…あ、SPO2ですか。通常よりかなり低い値でしたよね。あと、胸部痛…」
 年齢的要素、という言葉が頭に浮かんできてピンときた。成一が、既往歴の糖尿病、と呟くと六人部が微笑んで頭を撫でてきた。
「よくできたぞ。総合的に観るんだ。胸部痛も酸素飽和濃度も、それだけをとってみるとただの点に過ぎない。そこに聞き取った環境要因をからめて、線にする。正確な情報を伝え、病院を選定することで、二次的な被害を防ぐこともできるんだ」
「まってくださいよお、糖尿病だと何か違うんですかあ?」
「免疫力が低下するんです。結核は空気感染しますが、抵抗力があり、栄養状態のいい若者は感染しづらいんです。20代ですと、どうしてもそこに眼が行ってしまって誤診することがあります。ただでさえ、結核は見逃されることが多い病気なんです」
「そういえば、こないだ横浜市でありましたね。結核患者を救急外来で受け付けてしまって、あげく見逃して大部屋に入院させてたとかで、大騒ぎになったケース」
 昔の病気であるかのようにとらえがちだが、結核患者は現在増え続けており、特に若年層での流行が懸念されている。
「あの件はマスコミに知れてしまって新聞沙汰になっていたな。三井さんも、救急車を呼ぶのはしのびないと救急外来を訪れる予定だったそうだ。彼は業務上知識があったから、ふみとどまってくれたみたいだが。救急車を呼ぶべきかそうでないかの判断は、やはり難しいのかもしれない」
 これから大変だぞ、と六人部が低い声でつぶやく。
「接触した可能性のある家族、職場の人間、すべて検査に回される。結核は感染症法の六条に該当していて、仕事にしたっておそらく出勤停止で強制的に休職だ。彼も由記市の職員だから、おれたちと同じはずだから」
「てことは、待ってくださいよ。おれたちも検査されるんですか?」
「可能性はあるな」
「おまけに感染したら、出勤停止で強制休職!?」
「法と条例で定められている」
 冷静な六人部が憎くなってくる。分かっていたつもりだが、救急隊員の仕事は本当にリスクと背中合わせだ。
「いまさらだな、おれたちはただの地方公務員じゃなく、医療者でもある。自覚が足りないんじゃないか」
 いつもの物言いに、成一はがっくりと肩を落とす。すると六人部が、「でも、」と言葉をつづけた。
「よくみてるよ。本当に成長したな、星野」
「そんな…隊長や大友さんの指導のおかげです、おれなんか何も」
「お前の武器は、観察力だ。その年齢では考えられないぐらい、傷病者の変化や状態を正確に見抜く。足りなかったのは経験だけだったから、そこをおれと大友さんが少し補っただけだよ」
「あり、がとうございます」
 しどろもどろになった成一に、六人部が目を細めた。
「もう、おれがいなくても大丈夫だろう」
 少しさびしそうな物言い。成一は違和感を感じながらも、照れくささで「何言ってるんですか」と受け流してしまう。
 その日は軽症患者の搬送が続いて、救急車を呼ぶような案件と呼べるのは、肺結核の一件だけだった。
「悪い、今日はすぐ帰らせてもらうぞ。お疲れ様」
 いつもならゆっくり帰宅する六人部が不思議なほど急いでいるのを後ろから眺めながら、「お疲れ様でした」とあいさつする。どこか焦っているような、珍しい上司の背中に首を傾げながら、冷たい朝の中へと成一は歩きだした。。
 寝不足のまま見上げる空は、くらくらするほど眩しい。

 帰路につこうと自転車にまたがった瞬間、佐々木から電話が入った。飲みに行かないかと誘われ、成一は喜んでOKした。
(佐々木先生って、腕ききなのに全くエラそうなところがないんだよな)
 おれとふたりだが、構わないか?と問われて少し緊張しながら待ち合わせ場所へ向かう。自転車は署の中に置かせてもらい、由記駅構内にある本屋で合流した。
「へええ、肺結核か」
「珍しいですか、肺結核は」
「いや、肺結核自体はよくある感染症だよ。ウチの病院だと重症化したホームレスが搬送されてくるとかそういうケースで、月に1件あるかないかだ。三次だからよ、どっちかってえと重度外傷だの、心臓、脳血管関係が多いからな」
 何度か訪れている、広い日本家屋の和食居酒屋の個室。成一はビールを呷って佐々木の隣をなんとなく眺めた。
「今日は三嶋先生、ご一緒じゃないんですね」
「なんだよ、星野君まで三嶋ファンか!ッカー、一人ぐらいおれを慕ってくれてもいいだろうが!」
「ファンというか、三嶋先生ってなんとなく心配なところがあるから。まあ、おれみたいな薄給公務員に心配されたくないとおもいますけど」
「それ、なんとなくわかるわ。あいつ危なっかしいよな。仕事はいつも完璧すぎるぐらいだし、見た目だって末恐ろしいぐらい整ってんだけど、いつも目が、なんていうか…」
「餓えてる……ですか」
「それだ。何か足りないって顔してる。…星野君は若いのに鋭いじゃねえか」
 ならべられた出汁巻卵や刺身の盛り合わせをつつきながら、佐々木がニヤリと笑う。
 成一の頭の中には、数日前に三嶋が落とした辞表のことがぐるぐる回っていた。どうして、という気持ちと同じぐらい、ああ、やっぱり、という考えもわいてくる。
(三嶋先生はいつも、心ここにあらずで、なにか目的に向かってフラフラ歩いているように見える。それも希望のない、破滅的な目的地に向かって)
 幸福になることも、愛し愛されることも望んでいないような…。
 普通の人が想定するゴールが、彼の眼には映っていない。
 だからこそ成一にとって三嶋の生き方は理解不能で、気になって仕方がなかった。
「幸福になろうとしないことが、見ていて怖いんだと思います。本能に逆らっているようにみえて」
「…なあ、星野くん」
 佐々木が、いうか言うまいか悩んだ様子でタバコを口に咥える。すかさず火をつけると、彼は美味そうに煙を吸い込み、ゆっくり吐き出した。
「幸福という言葉は、難しいとおもわねえか。例えばおれにとっての幸福が、星野くんにとってのそれと一致するとは限らねえ。おれたちの想像する幸福が、三嶋の望むものじゃないって、それだけかもしれねえ」
 それでも、と成一はおもう。
 傷だらけになって、今にも割れそうなヒビだらけのガラスみたいな三嶋も、感情を殺して、冷たい殻に閉じこもっている六人部も、放ってはおけない。
「でも、おれ。幸せになってほしいんです」
 佐々木と目が合う。真剣なまなざしに、彼が本気で三嶋を心配していることを知る。
「たとえその幸せが、おれが勝手に定義している、つまらない枠だとしても。三嶋先生が傷つくのも、六人部隊長が苦しそうなのも、嫌だ」
 哀しみの涙を流すことに慣れた三嶋に、喜びの涙を教えてあげたい。涙を流すことすらなくなった、冷えた六人部に熱を与えてよみがえらせたい。
 生きることは、立ち止まらないことだ。どんなに哀しいことがあっても、忘れたいぐらい苦しくても、進みつづけて欲しい。
 そのためにできることがあるなら、なんでもする。
「佐々木先生、教えてください。三嶋先生のことを」

 店を変えよう。そう言われて連れて行かれたのは、由記駅からタクシーですぐの場所にある、静かなオーセンティックバーだった。佐々木が手を上げると、勝手知ったるマスターが、カウンターの一番奥へと案内してくれる。
「……三嶋が、複雑な家庭環境で育ったことは、知ってるか」
「それは、はい。うっすらとですが、ご本人から」
「そうか。笑えるぞ。絵にかいたようなクズっていうのは、あいつの義父のことを言うんだろうな」
 血は繋がっていなかったらしい、と佐々木が話しはじめる。
「三嶋の母親は吉原で働いていた、いわゆるその…泡姫だったらしい」
「泡姫?」
「ソープ嬢っていえば分かるか?」
「ああ…はい。そのあたりのことは、三嶋先生からお伺いしました。先生のお父さんは、その。お客さんだったんですよね?確か、当時大学生だった、とか」
「ああ。本当の父親はな。でもその男がちょっとやばい家の息子で、結局入籍することも出来ずに東京を出たらしい。ほづみさんは…三嶋の母親だが…親の借金のカタで泡に沈められてるって典型的な水商売の女でな。借金が残ってたから、店の男と一緒に大阪まで逃げて、迎えに行くって男の言葉を信じて待ち続けた。実際、三嶋の父親から金は定期的に振り込まれていたし、手紙なんかもついていたんだとよ。それが、本当に父親からの手紙だったのかは疑問だけどな」
 その、店の男。三嶋からすれば義父だよな。そいつが徹底的なクズでな。
 佐々木が険しい顔をして、深くタバコの煙を吸い込み、上に向かって吐き出す。成一が普段来ないような高級なバーは、うっすら聞こえるBGM以外、何も聞こえない。どの客も息をひそめたように静かに酒を飲んでいる。
「アルコール依存症で、ヤク中で、おまけにDV加害者。三嶋の母親には本気でホレてたらしいけど、それをこじらしちまって毎日殴る、蹴る、犯すだ。それも、こどもの前で…」
 吐き気をこらえるような顔で、佐々木がウィスキーを呷る。
「あいつにはな、まともな子供時代なんか一瞬たりともなかった。小学生のときには、一人で役所に直談判しにいったらしいぞ。半信半疑の大人を必死で説得して、シェルターに保護までこぎつけたこともあったらしい。信じられるか?その辺の小学生のガキ見てみろよ、やれポケモンだなんだってゲーム突き合わせて遊んでるヤツらん中で、三嶋が見てたのは地獄と、助けてくれない大人と…それに抗うために必死で勉強してた福祉の本なんだぞ」
(そこまでだとは、おもわなかった)
 三嶋は成一に、過去を詳細には語らなかった。ろくでもない家だった、と微笑みながら自嘲気味に打ち明けたことはあったけれど、まさかそこまでひどかったなんて。
「そのままだったら、さすがにあいつも医者にはなってなかったかもしれねえ。ほんとに、六人部隊長殿とそのお父さんのお蔭だよ。おれはな、会った事もねえけど、三嶋から何度かきいたことがある聡さんて人に、死ぬほど感謝してるんだ。あと隊長殿にも。あんたたちのおかげで、神奈川県の重症患者がどれだけ救われたか、これから先救われるか知れねえ。本当にありがとうって思ってんだぜ」
 佐々木がわずかに表情をゆるめて、成一におかわりをすすめる。ためらいがちに手をあげて佐々木と同じものを、とバーテンダーに頼んだ。グラスに口をつける成一を見守った後で、佐々木が話を続ける。
「教室でずっと浮いてた三嶋に、隊長殿は根気強く話しかけた。行きも帰りも一緒にいた。放課後はほとんど自宅に居させて、悪辣な環境から拾い上げた。…どれだけ感謝しても、したりねえよ。三嶋はな、頭の良さが半端じゃねえ。医師としての能力もおれより上だ。時々、こんな男を救命に縛り付けてていいのかなって思うぐらいにな。本当なら、前の勤務先だった大学病院で栄華を極めていったはずだったんだ。あの、変なウワサさえ流れなければ」
 佐々木がロックグラスをからんと鳴らしてコースターの上に置くと、物静かなバーテンダーが微笑みながら注文を問いかけてくる。同じもので。言い終えて、隣に座っている成一を真正面から見据えた。
「これを見てくれ」
 カウンターに置かれたのは、古い新聞記事の切り抜きと、A四のコピー用紙一枚だ。記事の内容は、一六年前の三月某日、大阪のある府営住宅からひとりの男が転落死した、というものだった。

「この転落死した男。こいつは、三嶋の義父だよ」
「……それって」
 記事の内容にもう一度目を通す。
『府営住宅で男性が転落し、死亡。事故現場から走り去る人影があった、という目撃情報もあり、現在警察は事件と事故の両面から捜査をしている』
 もう一枚、コピー用紙には無機質な文字で三嶋を誹謗中傷する内容が書かれていた。
「…三嶋顕は私生児で…義父を殺した、人殺し…!?待ってください、佐々木先生こんなひどい中傷を信じたわけじゃないですよね?」
 怒りで声が低くなった成一に、佐々木が溜息をつく。
「信じないさ、おれはな。だが、三嶋の元居た病院では、そうはいかなかった。誰もあんな記事真に受けないだろうってのは、好意的な物の見方さ。なにかと目立つあいつを引き摺りおろしてやろうって舌なめずりしてた連中は、これ幸いとあいつを追い詰め、孤立させた。…出世の道は絶たれて、やめることもままならないぐらいに」
 三嶋の澄んだ美しい眼を、成一は思い浮かべた。壮絶な人生を感じさせない、見る者を魅了してやまない透明な視線。子供の頃から、どれほど人の悪意を、醜悪さを見つめてきたのだろう。

――ただうつくしかっただけなら、こんなにも苦しまなかったに違いない。
 人より聡明だったからこそ、彼はそのひとみに荒廃の色を映すほど、苦悩してきたのだ。

「あと、これは知り合いの記者から聞いたんだがな。現場から走り去った人影、…背格好が、六人部隊長にそっくりだったそうだ。現場に残された痕跡は事故死だったってのと、他殺を裏付けるような証拠が挙がらなかったらしく、結局事故として処理されたんだと」
 うまく声が出せずに、成一は佐々木を見た。佐々木は探るように成一の眼をじっと見つめた後、ゆっくりと首を振った。
「そんな顔すんな。別に疑ってるわけじゃねえよ、高潔を絵に描いたような六人部隊長が、他人を殺すわけないだろ。ただな…」
 三嶋は、もしかすると。
 佐々木の言葉に、成一が「そんな」と大きな声を上げる。
「三嶋先生だって、そんな人じゃないですよ!」
「誰が分かるんだ?あの異常に頭のいい男が本当に考えていることが、おれら凡人に想像できるとおもうのか?」
 息をしようとして、うまくいかずに飲み込む。成一よりもずっと三嶋を知っているはずの佐々木が、こんな風に言うなんて。ショックよりも、恐怖のほうが強かった。
「勘違いすんなよ。おれは三嶋のことを、本当に可愛い、弟みたいなもんだと思ってる。憎たらしいところもあるけどよ、根っこは素直で優しくて、いつも外れクジばっか引いて、ほっとけねえんだ。なんでもしてやりたいって気持ちはおれだって同じだよ。でもな、もし現場から走って逃げたってのが六人部隊長だとしたら、何を隠そうとしたのか、何を守ろうとしたのか、一目瞭然だろ?三嶋だよ。三嶋が現場に残した何かを、六人部隊長は消そうとしたんだ」
(あの、名札…)
 六人部が持っていた、血の付いた三嶋の名札。あれこそが、六人部が現場から持ち去ったものじゃないのか。 
 咄嗟に持ち帰ったまま、毎日ポケットに入れて持ち歩いているそれを、成一は服の上から撫でた。
 想像する。
 三嶋の胸についていた名札を、もみ合っているうちに掴んでしまった男。そしてそれを、マンションの下から眺めていた六人部。走って止めようとしたに違いない。このままでは、どちらかが死んでしまう。
 だが、遅かった。男はマンションから突き落とされ、地面に叩きつけられて死んでしまった。慌てて駆け寄った六人部は、男の手に握られている名札を見つけて、心臓が止まりそうになっただろう。このままでは、三嶋が犯人だと知られてしまう。
 それさえ持ち去れば、誰にも分からない。男はジャンキーだったし、バッドトリップしては死にたいと叫んでいた。自殺や事故にみせかけておけばいい。
「……うそだ」
「星野くん」
「そんなの、嘘だ…」
 命を救う三嶋が。あんなにやさしくきれいに笑う三嶋が。
 人を、殺したなんて。
「なにか、知ってるのか」
 震える手で、ポケットから名札を取り出しカウンターに置いた。佐々木が目を瞠り、成一を振り返る。
「これが、六人部隊長の家に」
 血の付いた名札を手に取り、佐々木が「血痕だな」とつぶやく。
「六人部隊長に事情をきいても絶対、何も言わないと思います」
「そうだろうな…。三嶋も、なにもいわなかったよ」
 佐々木の言葉に、成一は驚いて彼を見た。
「本当に三嶋が殺したなら。もっと、上手くやっただろうと思う。言い訳も用意してあっただろう。でもあいつは何も言わなかった。ただ申し訳なさそうな顔をして、おれをじっと見やがった。だからな、」
 ぐいっとグラスの中の酒を飲みほしてから、佐々木が晴れやかに笑った。
「信じてやることにした」
「しんじる…」
「話をしたとき、もし三嶋がよどみなく答えていたら、おれはあいつを疑った。でもな、違ったんだ。話したくても話せない、そういう顔をしてやがったからな。多分あいつ、やってねえんだよ」
 顎に手を当てて、成一も考えてみた。そもそも、警察の捜査はそこまで甘いものだろうか?現場に他殺の痕跡があれば、三嶋や六人部はすぐに捜査線上に浮かび上がってくるだろう。三嶋の家庭環境も、それを支えていた六人部親子のことも、近隣の者には周知の事実だった。
「……三嶋先生は本当にやっていないのかもしれません」
「どういうことだ?」
「聞いたことあるんですけど。他殺と事故死では、現場に残っている足跡とか、落下するときの角度とか、全部違うらしいんです。不審死だったっていうなら、多分ひととおりの捜査、それこそ科学捜査も含めてやってるはずですよね。それなのに三嶋先生は起訴されてない。名札一つ持ち去ったからって、ごまかせるとは思えません」
「てことは…」
「六人部隊長がいなくなったのも、お父さんが亡くなったこと以外に、それがあったんじゃないですか?つまり、隊長は三嶋先生が殺してしまったんだと思い込んだんです。だから、証拠になりそうなものを持って行方をくらませた」
「それなら三嶋が『おれはやってない』って言えば済む話じゃねえか」
 眉を寄せて黙り込む。三嶋が口を閉ざす理由。…そんなの、ひとつしかない。
「そうか…六人部隊長の、逆だったんですよ」
「どういうことだ?」
「三嶋先生は自分がやっていないことを知っていますよね。だとしたら、」
「そういうことか!」
 男の死体の側で、六人部が死体と接触し、何かを抜き取る。それを偶然、三嶋が目撃したのだとしたら―――
「六人部隊長が殺してしまったんだと、思い込んだんだ。だから、言えなかった。自分がやっていないと言えば、その矛先が六人部隊長に向かうから」
 全てを知った途端、成一は全身から力が抜けていくほど衝撃を受けた。ただ一言、お互いに「おれはやっていない」、そういえば誤解は解けたかもしれないのに、言えなかったふたり。
 自分に疑いがかかろうが、それによって冷遇されようが、決して口にしなかったのは――
「ずっと、お互いを守りあっていたのか」
 佐々木が重々しく、溜息混じりに吐き出す。眼の奥が熱くなって、涙が出てくるのを必死で堪えた。
 ここまで自分を犠牲にして、誰かのために生きられるなんて、信じられない。
(自分を全て捧げて、見返りも求めず…)
 まるで、想いと殉死するみたいに。
 人殺しなんて、きっと違う。違っていてほしい、そう祈りながら、問いかけることができずにすれ違い、お互いを想うあまりに近づけずにいる六人部と三嶋。
「三嶋先生も六人部隊長も…自分がどんなに孤独でも、苦しくても、一緒にいられなくても、相手さえ幸せならよかったんですね。あなたがどこかで幸せにしているなら、それでいいって、必死で心に灯をともしながら生きてきたんだ」
 六人部のことを好きだといいながら、何も理解していなかった自分に気付いて、成一は愕然とした。仕事に対する秘めた情熱は知っていた。だが、人を愛することには、熱量が少ない人間なのだと思っていた。
 逆だった。
(隊長が以前自分で言っていたじゃないか…)
「六人部隊長は、何考えてんのかわかんねえヤツだと思ってたけどよ。…ずっと、想いを行動で示してたんだな」
(言葉にしなくても。声に出さなくても)
 六人部の知っている愛は、
(たとえ、相手が間違っていても、自分のしたことが正しくなくても)
 薄汚れていて、ドロドロしていて、ものすごく熱いのだと。
(触ったら、溶けてなくなってしまうぐらいに、一途に想いつづけていたんだ)

 言葉を返そうとしたところで、成一の携帯電話がポケットの中で鳴った。
「出ていいぞ、気にすんな」
「すいません…兄からです、もしもし」
『前に言おうと思って忘れていた。ほら、お前がらみのウワサがあるって言っていただろう』
 兄の言葉をきくにつれ、成一の顔から次第に色がなくなっていく。心配した佐々木が声をかけてきたが、ほとんど頭に入らない。
(うそだろ)
「あの。…すいません、ちょっと確認しないといけないことが出てきたので、今日は失礼してもいいですか」
 真剣な顔に事情を悟ったのか、佐々木が「払っとくから、早くいけ」と手を振ってくれる。後日きちんとお詫びをしよう、そう思いながら、成一はもつれる足で店を出た。早歩きから、次第に助走へ。そして、トップスピードで走って目的地へ向かう。
(いやだ、まだ、教わることがたくさんあるのに)
 自分はまだ、何も伝えていない。好きだということも、あなたに出会えたおかげで変われたのだという感謝の言葉も、なにも。
(あなた自身の気持ちだって、まだ何も伝えてないじゃないか!それなのにこのまま、)
 あの時、「もうおれがいなくても大丈夫だな」そう言った六人部の微笑みがよぎって、成一は頭を振りながら走った。そういう意味だったのか。そんなのあんまりだ。何も言わず、何も言わせずに消えてしまうなんて、一六年前と同じじゃないか。
 つい先ほどきいた、兄の動揺した声と、驚きのあまり返事もままならなかった自分。

『六人部隊長に、海外派遣の声がかかっているらしい。今年の三月からカンボジアに、救急システムの構築と技術継承で一年間…成一、何もきいていないのか?』

――六人部がいなくなってしまうなんて、信じたくない。

 駅まで走ると二十分ほどかかった。上がってきた息を整える間もなく、駅から今度は山の手側へと進路を変える。見慣れた駅前の風景から、住宅街の、薄暗い街灯の照らす坂道へと視界がうつりかわっていく。蹴りだす足が、次第に重くなるのにも構わず、数回しか訪れた事のない六人部の家へと走った。心細さと憤りが時々体の中から吹き上げてきて、自分が今からしようとしていることが本当に正しいのか分からず、足が止まりそうになる。
 六人部のアパートに着いてから、一層こわくなった。外階段を上がり、ドアの前に立って、あとはドアフォンを鳴らすだけなのに、拳を握りしめたままドアの前で立ち尽くす。
「もう、おれがいなくても大丈夫だな」
 あの時の六人部の笑顔を思い出して、頭を振った。
(大丈夫なわけあるか。何も良くない)
 意を決して、ドアフォンのボタンを押す。電源が切れているのか音が鳴っている気配がなくて、握りしめた拳で扉をドンドンと叩いた。
「六人部隊長、いるんでしょう、開けてください!」
 部屋の中から人がうごいた気配がした。さらに叩こうとしたとき、ドアが開く。
「星野。こんな時間にどうした」
「じゃあ私、帰るわね」
「ああ」
「また連絡する」
 ドアを開いている六人部の腕の下から、女性がするりと出て行った。ほっそりとした、薄幸そうな美人で、こんな時間に部屋にいるなんてどう考えてもふつうの関係じゃない。
 ヒールが金属の階段にぶつかる音がする。それは徐々に遠ざかっていき、成一は彼女の姿が見えなくなるまでなんとなく見送ってから、「あっ!」と声を上げた。
「すいません…お邪魔でしたか」
「構わない。そろそろ帰ってほしいところだったから、助かった」
 入るか。そう言ってドアを開いて迎え入れられ、ぼんやりしたまま玄関に入る。伝えたいことはたくさんあったはずなのに、さきほどの女性に受けた衝撃のせいで、言葉がうまくまとまらなかった。
「何か誤解しているようだが、あれは妻だ。元だが」
「えっ…いや、その」
「説明が不足しているな。頼みごとがあるといって来たんだが、即答できるような内容ではないからお引き取り願った。お前が想像しているような関係じゃない」
 靴を脱ぎ、部屋に上がると、リビングには二人分のコーヒーカップが出たままになっていた。座るよう促されて、どうやらさきほどの元妻が座っていたらしい、クッションの上に腰を下ろす。コーヒーでも飲むか、と尋ねられて、ありがとうございます、と返事をした。
 ローテーブルの端に、ふせんがいくつもついている本が二冊、重ねて置いてあった。カンボジアの歩き方という本と、語学の本だった。すでに何度も読んだのか、マーカーされている部分もいくつかある。それまで心のどこかで半信半疑だった六人部のカンボジア行きが、いよいよ事実なのだと感じて、成一は頭の中が一気に冷えた。
「カンボジアに行くって、本当なんですね」
 目の前に出されたコーヒーに手を付けず、目の前に座った六人部を直視した。
「…誰からきいたんだ」
「兄からです。隊長、こんなのってあんまりだと思いませんか。おれ、あなたの部下ですよ。一番近くで、一番お世話になってて、どうしてこんなことを他の人から聞かされないといけないんですか。どうして言ってくれなかったんですか」
 六人部が俯いて、なにかの答えがそこにあるかのように、コーヒーの入ったカップをじっと見つめた。視線を上げて成一と目が合った瞬間、「すまない」と掠れた声で言った。
「もう、ここにはいられないと思ったから」
 内容の意味がわからなくて、成一は眉間にしわをよせた。
「どういうことですか」
 質問のこたえを返す気がないのか、六人部は黙って再び視線をそらしてしまう。
「あの名札のことですか。三嶋先生が、義理のお父さんを殺したっておもってるんですか」
 驚きと恐怖が入り混じった表情で、六人部が成一を見た。構わず成一は続ける。
「佐々木先生も三嶋先生に聞いたそうです。前の病院を追い出された理由が気になって、本人に。そしたら、三嶋先生は…」
 続きは言えなかった。六人部の手のひらが、成一の口を塞いだからだ。
「ききたくない…やめてくれ」
 その腕を振り払って、成一は続けた。「何も言わなかったそうです。たださびしそうに、分かってほしいという顔をしたって佐々木先生が言っていました」
 おびえたような表情が次第に、考え込むようなものに変わっていく。
 そう、六人部こそ、成一や佐々木よりもずっと、三嶋のことを知っているはずだ。
(だから、分かるでしょう。三嶋先生が何もいわなかったのは、どういうことなのか)
 六人部はそのまま黙り込んでしまい、コーヒーは手が付けられないままみるみるうちに冷めていく。困り果てて窓の外をながめると、暗い雲が重たげに重なり、空を覆いはじめていた。
 いつも人の眼をまっすぐにみる、六人部の眼。短い不揃いな前髪と、端整だけれど少し疲れたような、さびしげな表情。けれど、成一は知っている。冷たげな無表情の中に、押し殺した熱くて、強い愛情があることを。見返りを求めず、伝えることすらしようとせず、ただひたすらに相手の幸せを願う心。これこそを祖母は『愛』だと言ったのだ。
「アキに、再会したとき。おれは、自分がなにひとつ変わっていないことに気付いたんだ」
 絞り出すような声で六人部が言った。
「いつも上手く言葉にできなくて、側にいるひとを辛くさせてしまう。おれといたら、アキが辛そうな顔をする。思い出すから。お互いに一番つらかったことを、傷つけたことを、突きつけられるから」
 だから、もうここにはいないほうがいい。
 口下手な上司の結論に、成一は思わずテーブルを叩いた。カップが揺れて、コーヒーがこぼれたが気にしていられなかった。
「いやだ!!」
 大声だった。自分の中に、こんな部分が残っていたことに驚きながら、成一は首を振り、もういちど「絶対いやだ!」と叫んだ。
「いやなんですよ、もうほんとにいやなんです。いない方がいいみたいな、おれがいたら幸せになんかなれないよ、みたいなの。誰もそんなこと思ってないのに、ここにいてほしいのに、隊長が勝手にそう思い込んで、身を引いて」
 成一の声に、六人部が目を見開く。
「三嶋先生も、おれも、隊長のことが大好きなのに。いてほしいのに。あなたじゃないとダメなのに、どうして自分がいたら不幸だって感じになっちゃうんですか。どうしていつも勝手にいなくなっちゃうんですか。おれそんなの許しませんから。絶対、そんなことさせませんから!」
 我ながら子供のような言い分だと思うのに、いいながら感情が高ぶってきて、成一は泣きながら叫んでいた。
「だって好きなんですよ。おれ、六人部隊長のこと大好きなんです。あなたが誰を好きでも、そんなの関係ないんです。おれのことなんか好きじゃなくてもいい。その辺の石ころぐらいどうでもいい存在だって構わない。いつも誰にも愛されてないって勝手に思い込んでどっか消えちゃう身勝手なあなたのことが、好きなんです、必要なんです、いてほしいんです!」
 成人してからこんなにも人前で泣いたことがあっただろうか。絶対ないに違いない。いまきっと、ひどくみっともない顔をしているだろうなと頭の片隅でおもった。
(でも今言わなきゃ、今伝えなきゃ、この人はまた消えてしまう)
 六人部は目を見開いたまま、黙っていた。何かを言おうと唇を開いて、逡巡して、閉じる。それを何度か繰り返した後、くしゃりと顔を崩した。いつも冷静で、凛としていて、かっこいい上司の顔から、愛することに悩み、苦しみ、逃げ続けてきた男の顔に変わる。切れ長の眼に浮かんだ涙に、成一は目を奪われた。
「…アキをひどく傷つけてしまったんだ」
 ふるえる唇で、六人部が言った。
「父の死をアキのせいにして、勝手に消えて」
 成一は強く首を振って、声を荒げた。
「それだけじゃないでしょう、庇ってたんでしょう?三嶋先生が、人を殺してしまったんだと思って。隊長はずっと、守ろうとしてきたじゃないですか。自分の幸せだって放棄して、想いつづけてきたじゃないですか。あなたは何も悪くないよ」
 今度は六人部が首を振る番だった。黒髪がゆれて、いつも使っているシャンプーの匂いが成一の鼻をくすぐる。清潔な、彼らしい匂いだった。大好きな匂いだった。
「違う。信じ抜くことも、問い詰めることもできなかっただけだ」
「違わない。何度だって言います、あなたは、何も悪くないんだ。ただ、愛しただけじゃないですか。ほかの人より不器用なやり方で、三嶋先生のことを愛しただけじゃないですか。きれいな気持ちだけじゃないのは、誰だって一緒だよ。おれがあなたを好きな気持ちだって、やらしい気持ちもキタナイ気持ちもいっぱい含んでるよ。それがそんなにいけないことですか。嫉妬したり、傷つけたり、傷ついた相手を見て喜んだり。良くないことだけど、あることだよ。ただ美しいだけの気持ちなんてないんだ。
 もしも、悪いところがあるのだとしたら。それは前に進もうとせず、逃げ出そうとしている今だけです。変えられるのに、変えようとしない今のあなたです!」
 肩で息をする。言いたいことを全部言い切って俯いた顔を上げると、六人部が嬉しそうな、苦しそうな複雑な表情を浮かべていた。笑いたいのに、それを我慢しているみたいな不思議な顔だと成一は思った。
「そうか」
「そうですよ」
「おまえ、おれのこと好きだったのか」
「え、そこ!?」
 思わず突っ込んでしまうと、六人部が破顔した。
「ありがとう。うれしいよ」
「ええー…なにこれ…ちょっと真剣にきいてますか、ひとのはなし!」
「きいてる」
「気持ち悪くないんですか?」
「何が」
 一瞬、言葉が出てこなかった。六人部の平然とした様子に、成一はその場でへたりこみたい気持ちになってしまう。
「男に好きとか言われて気持ち悪くないんですか?!って言ってんですよ」
 首を傾げてから、六人部はゆっくり首を振った。
「きもちわるいとは思っていない」
 腕が伸びてきて、成一はぎゅうと抱きしめられた。驚きと信じられなさで固まってしまった成一の耳元で、六人部がやわらかい声で「ありがとう」ともう一度囁く。
「誰かに想いを寄せられるなんて久しぶりで、嬉しいと思った」
「それって、」
(いいってことなんだろうか)
 肩を掴む。かたくて熱い、男性の身体そのものなのに、成一は「この人が好きだ」と強く再確認してしまう。目の前にある六人部の唇にキスをしようとすると、驚いた顔で強く胸を押された。
「できない」
「えっ」
 声が掠れた。苦しげな六人部の顔に、成一は眼が釘付けになる。
「好きな人がいるんだ。だから、お前とそういうことはできない」
 壁に腕をついて、ずるずるとしゃがみこむ。顔が上げられなかった。
(わかってたはずなのに。このひとが誰を好きかなんて、はじめから分かってたはずなのに)
「星野」
(もしかしたら、ほんのすこしでもおれのこと好きでいてくれるんじゃないかって)
 手のひらが成一の髪にふれて、乱暴に撫でる。その腕を掴んでやめさせると、もう一度名前を呼ばれた。
(おれは、ばかだ。すっげーばか。滅茶苦茶ハズカシイ)
「星野、顔を上げろ」
 涙が落ちる。フラれて泣いてしまうなんて、みっともないにも程があると分かっているのに止めることができない。何故か成一よりも辛そうな六人部が、頬に流れる涙を指で拭った。
「…行ってください」
 どこに、とは聞かれなかった。六人部が黙って成一をみつめる。
「あなたが、想いを伝えなきゃいけないひとのところへ、いますぐ」
 どうしてこんなこと言ってるんだろう。好きな人に、別のひとのところへ行けだなんて、お人よしにも程がある。
(でも知ってる。隊長がどれほど、あの人のことを好きか)
 一生、報われなくてもいい。ただ相手が幸せでいてくれたらそれでいいなんて、成一には理解できなかった。好きになったら、どうしても相手の気持ちが欲しくなる。勝手に好きなのに、返ってこないと腹が立って、辛くて、相手を憎んだりする。今までそういう恋愛しか経験してこなかったから、そんな綺麗事を実践しているバカな人間がいるなんて、思いもしなかった。
(あの人が、どれほど隊長のことを好きか。知っていて、知らないふりなんてできない)
 どうしてだろう。理解できないという憤りは確かにあるのに、いま、成一には彼らの気持ちが痛いほど分かる。愛する人が毎日、幸せでいてくれたら…六人部が三嶋と、笑い合っていてくれたら。それが、この上なく自分の幸せだと思えるのだ。
「早く!」
 運命というものがもしもあるのなら、彼等は結ばれない「運命」だったのかもしれない。そうとしか思えないほどに、不幸と不運が彼等の道を塞いで、断絶させた。
 六人部も三嶋も、沢山傷つき、涙を流していきていくうちに、その奔流に抗うことをやめてしまったのだろう。ふたりで一緒にいることができないなら、せめてあなただけは幸せでいてほしい。そんな風に諦めてしまったのかもしれない。
「諦めんなって、教えてくれたのは隊長だろ!ちゃんと伝えて、ぶつかって来いよ!」
(運命がなんだ。そんなもの、クソくらえだ)
 あやふやに外側から決められる不幸になんか、屈してたまるか。負けてたまるか。
 成一は頭の中で叫んだ。不幸に身をゆだねようとする三嶋の手を掴めるのは、六人部だけなのだ。
「三嶋先生が病院に辞表を出そうとしてた。絶対、何かするつもりだ。止められるのは、六人部隊長しかいないんだ。行って!」
 六人部が立ち上がる。成一も後に続いて、部屋を出た。慌てて上着を着たせいか、グリーンのマウンテンパーカは背中がめくれあがっていて、思わず笑いながら成一が元に戻す。
 スニーカーの紐を結びなおしてから、六人部が成一に向き直る。
「一生、伝えないつもりだったんだ。バカで臆病だと思うだろうけど、大切に思えば思うほど、失ったときに苦しい思いをする。父を失ったときのように…もう、あんな思いをしたくないとおもっていた。誰かを特別にしたり、されたり、…そんな資格もないと。ひとりで生きて、ひとりで死ぬ。それでいいんだとおもっていた」
 眼の中に浮かんだ迷いに、成一が語気を強くして言った。
「六人部隊長、人はいつか死ぬんですよ。一緒にいてもいなくても、死ぬときは死んでしまうんです。今勇気をだして手を伸ばしたら、ひとときだけでも好きな人と一緒にいられるかもしれないのにどうして迷うんですか。もしかしたら明日、あなたの好きな人は死ぬかもしれない。あなただって、海外派遣で死んでしまうかもしれない。こんなこと考えたくないですけど、死っていうのはこちら側からはコントロールできないから。おれたちができるのは、死ぬかもしれないとか傷つくかもしれないとか、来るかどうかわからない未来にビクビクしてることじゃなくて、たった今、大好きな人を抱きしめて喜びを感じること、それだけなんじゃないですか。それ以外になにが必要ですか、生まれてきて、大好きな人を抱きしめること以外に、大切なことはありますか!」
 我ながら生意気で、青臭い発言だと気づいて赤くなった成一に、六人部は――
 笑った。鼻にしわをよせ、目を細めて、この上なくいとおしいという顔で笑って、成一の頭を撫でた。
「もう二度と迷わない。…星野、こんなおれを好きになってくれてありがとう」
 もういくよ。
 そう言って、遠くなっていく六人部の後ろ姿を見送りながら、成一は呟いた。
「あなたは臆病なんかじゃない」
(おれの知っているあなたは、勇敢で聡明で、誰よりも優しい人だ。いま見送っている背中が、そうであるように)

 つめたい風が、濡れた頬を冷やしていく。失恋したはずなのに、どこか晴れやかな気持ちが生まれてくるのがおかしくて、成一はひとりで眉を下げて笑った。

 駅に向かってゆっくり歩きながら、鼻をすする。鼻水が出るのは寒いせいだし、涙が止まらないのは空気が乾燥しているせいで、決して失恋したからではない。そう自分に言い聞かせて、空を見上げた。空には満月が浮かんでいて、雲の切れ目にさしかかるたびに、明るく道を照らした。
 鼻につめたいものが落ちたことを感じて指で触る。雪が降り始めていた。
 駅の方から、救急車のサイレンが聞こえる。駅の向こう側の受け持ちは北署だな、と考えた時、不意に正体不明の胸騒ぎがこみあげてきて、携帯を取出し電話をかけた。早く出てくれ、と思いながらコール音を六回きいたところで、乱暴に電話を切ってポケットの中に放り込む。
(まさか、そんなはずないよな。急いで出て行ったから、携帯忘れたんだよな)
 サイレンは、救急車だけではなくパトカーのものも混じり始めた。道路が渋滞でもしているのか、一向にその音の場所は変わらない。だが成一の胸騒ぎはおさまるどころか強くなる一方で、(まさか、考え過ぎだ)と何度も頭の中で否定しながら、三嶋のマンションに向かって走った。それは祖母が死んだ日に、仕事中だった成一が突然感じた強い不安や孤独感によく似ていた。昔から時々、そういう心霊めいた第六感が働くことがあって、いままで一度も外れた事がなかったのだ。
 三嶋のマンションの手前、交差点の角で信号待ちをしていると、誰かの叫ぶ声が聞こえた。その声は三嶋のものだった。混乱と緊張で、彼が何を言っているのか、成一には分からなかった。
 ただひとつだけ、はっきり聞こえた声があった。
『助けて』
 まだ赤の信号を無視して走る。マンションのエントランス付近にたどりつくと、フードをかぶった男が一人、呆然自失の状態で道路に座り込んでいた。どこかで見たような気がしたのと、幾分現実逃避もあったかもしれない。成一はその男をちらりと観察した。確か、数週間前に二十代の青年が自殺未遂で搬送されたときに、付き添っていた幼馴染だ。骨盤骨折で、傷病者自身は一命を取り留めたと聞いていたのに、どうしてこんなところにいるんだろう…。そう思いながら視線を落としていくと、男の手は真っ赤に濡れていて、すぐ側に柄まで血に染まった包丁が落ちていた。男は青白い顔で、こちらに背を向けて誰かを抱えている人物の方を、じっと見ている。
「三嶋先生」
 道路は赤黒い血だまりができていた。振り返った三嶋の頬は涙でぬれていて、その腕の中には――
「六人部隊長…!」
 下腹部を刺され、血まみれで倒れていたのは、さきほど成一が見送ったばかりの六人部だった。