26 ピース オブ ケイク(復讐者に報酬はない)

 暗い部屋の中で、ノートPCの明かりにぼんやりと照らされたアキは、ソファの上で一枚の紙をながめていた。
「親子鑑定結果報告書」
 一行目には、
「DNA 親子鑑定の結果: 親子関係 肯定」と続いている。
(親子関係:肯定…)
 リビングの床には、ひきちぎるように破られた鑑定書の封筒が、みるも無惨な姿をさらしている。

 クリスマスイブの直前。
 勤務先から帰宅すると、エントランスでたまたま郵便局員と出くわした。その場で書留を受け取って、電気もつけずにリビングで食い入るように眺めているのが、今。
 予想していた通りだった。
(やっぱり…)
 特定には、探偵を使った。あの男の行動パターンを調べさせ、行きつけの飲食店を洗い出した。あの男が毎朝のように訪れる喫茶店で、吸い終わったばかりのタバコの吸い殻を自分のものと取り替えたときは、スパイ映画のようで興奮した。
 転職して神奈川に出てこなければ、分からなかったはずだ。長年、一人で「本当の父親」を探していたが、見つからなくて当然だった。男が表舞台に出てきたのは、つい最近のことだったのだ。
 立ち上がり、リモコンで電気をつける。立ち上げたPCにフラッシュメモリを突き刺して、書斎のコピー機で手持ちの紙をスキャンし、保存した。
 大学生の頃から今にいたるまで、毎日パソコンでつけている日記に、そのデータを貼り付ける。そこには調べさせた「父親」のこれまでの経歴、現在の写真などもすべてフォルダ分けされ、保存されている。
 そのまま電源を切ろうとして、キーボードを叩いて一言だけ書き加えた。

「やっとみつけた」

 フラッシュメモリを引き抜いてから、PCをシャットダウンしてそっと閉じる。書斎に移り、デスクトップPCの中にも同じデータをコピーし、フォルダごとパスワードをかけて保存した。
 書斎の椅子の背もたれに体を預け、胸ポケットからタバコを取り出して火をつける。普段は、レンジフードの下やベランダで吸うことが多かったが、今はそんなことどうでもよかった。
 この瞬間ほど体がニコチンを必要としている時はない。
 煙を深く吸い込み、白く太い糸のように吐き出す。灰皿代わりに置いてある飲み終わったビールの空き缶に灰を落とし、書斎に飾ってある写真へと視線を留める。
「あいつに復讐したら、聡さんは怒る?」
 アキと摂の肩に手を置いている聡が、写真の真ん中で笑っている。
「でもおれにはもう、生きる理由がそれしかない」
 フレーム越しの聡は、いつもまっすぐにアキを見据えている。
 その笑顔は、嘘を決して許さない。

 

 

 子宮外妊娠、卵管破裂による腹腔内大量出血で救急搬送されてきた三十代前半の女性は、搬送後まもなくCPAになった。
 除細動でも脈が戻らず、研修医の乾が青ざめた顔で叫ぶ。
「DCで戻りません、アレストです!」
「どけ、おれがやる。アドレナリン追加」
 末梢静脈路から薬剤が追加投与されていく。隣では、開腹手術にとりかかろうとしていた産科医の永井がモニターを険しい顔で睨みつけている。
「戻ってこい!」
 女性に胸骨圧迫を施しながら、アキが大声で叫んだ。時間が一分、二分とあっという間に過ぎていく。
「今何分だ?!」
「四分…経過です」
 息が上がる。胸骨圧迫は見た目よりもずっと体力を使うため、あっという間にアキの顔は汗まみれになっていく。
「戻れ!!」
 途端に、モニターの平坦だった波形がふるりと揺れて、脈が戻ってきた。脈拍が、不安定なものから、次第に一定のリズムで拍動しはじめると、スタッフがそろって声を上げた。
 汗をぬぐいながら隣の産科医に声をかける。
「心拍戻りました、後、お願いします」

 

 

「ありがとう~~助手までしてくれて助かったよ、三嶋先生~」
「どういたしまして。でもまだ油断ならないので、ICUで念入りに様子をみないと。心停止後は、循環動態が不安定になる事がありますから」
「うんうん、そこは三嶋先生がいてくれるから安心だよー」
 当直明け、オペが終わってふたり、喫煙所で互いに労をねぎらう。フワフワとした物言いが特徴的な永井は、アキよりも二歳年上の中堅産科医だ。話し方や童顔の見た目とは対照的に峻烈な医師として研修医に恐れられていて、同じく見た目に反して厳しいアキと、非常に気の合う存在だった。
「にしてもさ、このあたりの救急指定病院はいったいどうなってんだろね?心停止=うちの病院、みたいにされちゃうとさ、ほんと、パンクしちゃうんだけどー。開業医が悪いって言ってんじゃないけどさ、ギリギリまで引っ張ってヤバくなったら救急車読んでさ、気楽なもんだよねー。受け入れる側のことなんか、これっぽっちも考えちゃいないんだから」
「今回は特にそうですね。もう少し早くうちに引き継いでくれてたら、あんなに出血はしなかったはずですし」
「いっつもそうなんだよ。助産院だって個人病院だって、危なくなったらウチらに投げればいいと思ってんだよ。こないだの野良妊婦の件だってそうだよ、断りまくってさあ。おれらが受けるって思ってんだろうけど、じゃあ三次選定の看板下しちまえよって話だよ」
 野良妊婦とは、一度も妊婦健診を受けることなく救急搬送により分娩する妊婦のことだ。はっきりとした週数も、感染症などの既往歴も分からず、医療機関のスタッフに多大なリスクを強いることになる。ハイリスクである上に未婚、無保険、貧困など費用面の不安も多く、十中八九受け入れ拒否に合うため、搬送する救急隊や押し付けられる基幹病院の悩みのタネでもある。
「国から助成金貰ってくるくせに、いざとなったら満床ですNICU一杯です他あたってください、ですからね。まあNICUがある病院は、ここらじゃうちとあと二つしかありませんから、ある程度は仕方ないんですけど…。産み逃げされて困るのはうちだって同じですしね」
 先日緊急搬送された妊婦は、一度も検診にかからないまま臨月になり、交通事故にあった際産気づいたため救急車を呼んだ。廻りまわって由記市の救命センターにも受け入れ要請があったが、NICUが一杯だったため一度は断った。ところが一時間後、ほかの医療機関に全て断られた救急隊が泣きついてきて、新生児科に頼み込んで無理やり保育器を開けてもらい、なんとか緊急帝王切開となった。
 だが、そこまでして三日後待っていたのは、支払いも新生児もほったらかしたまま患者が逃げ去る、「産み逃げ」の被害だけだった。
 あの時、空になった病室の前で立ち尽くしていた永井の、怒りに満ちた横顔が、いまだにアキは忘れられない。
「先日の件、受け入れOKしてすみませんでした。反省しています」
「なーにいってんの、三嶋先生ちゃんと相談してくれたじゃん。おれもOKしたし、大体ウチが受けなかったら、あの妊婦さんも赤ちゃんも間違いなく死んでた。他は絶対受けなかっただろうからねー。救急が手伝ってくれて本当に助かったし、気にしないで」
 永井の吸っている、ラッキーストライクの煙を眺めながら、アキは笑った。
「オペ、オペで疲れていても、永井先生みたいな人と話していると元気が出てきます。やっぱり、地域医療を支えてる人はモチベーションが違う」
「あはー、そんないいもんじゃないって。正直、検診一回も受けない妊婦なんてクソだと思ってるよ。経済的理由だの、男に逃げられただの、事情は色々あるだろうけどんなこた知るかって話だよ、おれは医者で、ソーシャルワーカーじゃないもん。ちゃんと検診をうけてるうちの患者さんにとっても、分娩や診察が遅れるし迷惑でしかない。あ、そういう意味では福祉に携わる仕事の方は心から尊敬しているよ、おれには無理ー。何も考えず避妊もせずにセックスして、子どもできて、男に逃げられて途方にくれるとかバッカじゃないのって思うし。まあ逃げる男は去勢してやれよって感じだけどね」
 過激な物言いに、アキは苦笑しながら隣の永井の丸い頬を眺めた。彼はその童顔に似合わないはすっぱな動作でタバコの煙を吐きだし、ニッと笑いながらアキを見上げた。
「でもさ、生まれてくる赤ちゃんには、何の罪もないからねー、絶対助けてあげたいんだ」
「産科医の先生とか、小児科医の先生は本当になんていうか…志が高いですよね」
「小児の水谷とか?あいつもどMだよね。有能だけど。三嶋先生だってそうじゃーん、志も能力も外見レベルも高くって、正直うちなんかで勤務医やってんの勿体ないよー」
 ケラケラと永井が笑う。アキもつられて、たばこをくわえながら笑った。
「いやー、救急は命さえ助けりゃいいんだから気楽だよな。とかよく言われますよ」
「その分かりやすいあてこすりは外科の新田とみた。あいつは美男子が嫌いなんだ、だからおれも辛く当たられてるような気がするし相手にしなくていいよー」
「イケメンは辛いですねえ」
「まったくだよー」
 タバコを吸い終え、病棟に入るとPHSが鳴った。お互いにさっと胸を押さえて、その着信音を確認する。
 電話は永井のポケットの中で鳴っていた。
「はい、永井です。…あー、うん、わかったすぐ行くー」
「呼び出しですか。健闘を祈ります、いってらっしゃい」
「ありがとー!三嶋先生は着替えてるしもう明けだよね。あなたに言われるとなんとかなるような気がするよー」
 永井が早足でその場を後にするのを、アキは手を振って眺めた。
 それを待っていたかのように、廊下の後ろから佐々木が声をかけてきた。
「よ!さっきはお疲れさん。永井と慰めあってたのか、お互い新田に嫌われるって?三嶋が嫌われるってのはなかなか愉快だなァ、なにせチヤホヤされてるとこしか普段みれねえからよ」
 人の悪そうな笑みを浮かべながら佐々木が言った。
「嫌われることはわりとよくありますよ。前の病院だって、それでだめになったみたいなもんですし」
 首を傾げ、目を細めて笑うと、佐々木が気まずそうに頭をかいた。
「あの件なら悪かったよ、なんかおまえのこと嗅ぎ回ったみたいになっちまって」
 例の「怪文書」の件を言っているのだと分かって、アキはあえて嫌味っぽく肩をすくめる。
「そんな風に思ってませんから、大丈夫です」
 適当なフォローをしながら、病院の通用口を佐々木と共にくぐる。広い病院の敷地内を佐々木と歩きながら、アキは昨日届いた鑑定書と、今後の接触方法について考えを巡らせた。
(何日も考えて、どうしても分からないのは千早との接点だ)
 あの男にとって、アキの存在は脅威であり、絶対に秘匿し続けなければならない秘密であり、目の上のたんこぶだ。彼が自ら千早に接触することは考えられない。それならば…
(あいつを引きずり落として、メリットのある人物が別にいる。たぶんそいつが、千早をそそのかした)
 男の経歴は極めてクリーンなものだった。この三月から表舞台に立っているが、それまでの教育機関はといえば大学まですべて市立や国立で過ごし、父親の手伝い(現在の仕事の下積みではあるが)をし、アメリカに渡ってMITで経済学の博士号まで取得している。写真をみる限り、顔立ちはアキとあまり似ていないが、意志の強そうな眼と、頭の良さやを窺わせる冷たい佇まいは、今のアキとそっくりだった。
「なんだよ、ずいぶん怖い顔して考え込んでたな。今日はイブだぞ、もっと浮かれた雰囲気でも出せよ」
「わざわざイブだと教えてくださってありがとうございます。帰って夕方まで寝て、ニュースを見てるときに思い出すぐらいがちょうどよかったのに。佐々木先輩、奥さんにプレゼントは?」
「もちろん買ったさ。こういうところで挽回しとかねえとな」
「浮気を物で帳消しにするのは難しいと思いますが、一応、健闘を祈ります」
「ありがとよ。気をつけて帰れよな」
「お疲れさまでした」
 駅の長い階段を上っていく佐々木を見送る。姿が見えなくなってから、アキはくるりと踵を返し、駅のロータリーの前にあるカフェに入って、熱くて苦いコーヒーを飲んだ。
 ガラスの向こう側は、平日の朝九時過ぎということもあって、人通りは多くない。だがロータリーの真ん中にどしんと置かれている大きなクリスマスツリーとあらゆる場所で流れているBGMで、これでもか、とばかりに今日がクリスマスイブであることを意識させられる。
 視線を落とす。カップの中にゆらめいている黒い液体に、物憂げな自分の顔がうつっていて、アキは少しうんざりした。クリスマスを好きな人と過ごしたい、と思うほどの若さや軽さはもう持ち合わせていなかったが、孤独を感じないかといえば嘘になる。
(ひとりは好きだ。でも、今日は辛い)
 頭の中には常に、あの「親子鑑定書」のことがひっかかっていた。つまり今ひとりでいたくないのは祭典のせいではなく、これまで十数年抱えてきた「本当の父親は誰なのか、ルーツはどこにあるのか」という重い疑問の答えに、自分自身が押しつぶされそうになっているからだった。
 誰かに全部打ち明けたい。
 そしてこう言ってほしかった。「がんばったね」と。
 長い間たった一人で、莫大な費用と時間と労力を割いてきた。真実を知りたくて、自分の中の憎しみを終わらせたくて、探し続けてきた。
(いや、ちがう。誰かじゃなくて、)
 摂に言ってほしい。そうだ、他ならぬ摂に、「もういいんだ」、そういって抱きしめてほしかった。身動きできないぐらい、強く。
 言われたからどうなるというものでもない。全てが明らかになったわけでもないし、まだ調べることは残っている。それでも、心は幾分すくわれる。
 カフェの中は空いていた。アキの他には、若い女性の二人組と、ノートPCをのぞき込んでいる男性の二組しか見あたらない。窓際で、コーヒーカップを前にぼんやりと外を見ているうちに、あたたかかったはずのブレンドはみるみる冷たくなっていく。
 機械的にカップを口元に運び、眠気と疲れでぼんやりする頭をがしがしと左手でかいていると、遠くに見える二人組に目がとまった。
 商店街の方から歩いてくる、背の高い男性の二人組。若者らしくおしゃれな短髪にあか抜けたファッション、手足の長い、姿勢のきれいな青年は、大げさな身振り手振りで隣の男に何かを話した後、はじけるように笑った。屈託のない、見ている人が思わず微笑んでしまうような笑顔に、隣にいる男もつられて笑っている。隣を歩いているのは、髪が短くて背筋のピンと延びた、ずいぶん厚着の男だったが、青年の影になっていて顔がよく見えない。
 彼らは次第にこちらに近づいてきた。もしかして、といやまさか、を頭の中で何度も繰り返して、とうとう確信した。摂と成一だった。
 カップを置いて、ガラス越しに見えるふたりを黙って見つめる。昔から寒がりだった摂は、分厚いダウンのアウターを着ていて、朝の光に目を細め、両手をポケットにつっこんでいる。口数が少ないのは変わりないのか、唇は動かさずに、首を傾げたり頷いたりしていた。
 そして時々、アキがみたことがないような顔で笑った。
 胸をつかれるような、切なくなるような幸せそうな笑顔は、長い間一緒にいたはずのアキの記憶の中、どこを探しても見あたらない。
(あんな顔、みたことない)
 アキの知っている摂は、いつも苦しそうで、悲しそうだった。
(この薄い壁ひとつ隔てられた向こう側が、おれの行きたかった場所なんかもしれん。そして、絶対いかれへん場所)
 うつむいてカップの中の黒をみつめる。まるでそこに重大な答えでも隠されているかのように、まばたきもせずに見つめ続けた。
 次に外をみたときには、既に彼らの姿はどこにもなかった。

 

 

「はい、メリークリスマス。……一日早いけど」
 プレゼント用に包装された箱を、倉之助のベッドの上に置く。クリスマスイブということもあって、病院の中ですら、少し浮かれた雰囲気が漂っている。他の病室からは家族が遊びにきているのか、はしゃいだ声や楽しそうな笑い声もきこえた。
 今日は体調がいいのか、ベッドの上で体を起こして外を見ていた倉之助が、おどろいた目をして振り返る。
「なんだ、こりゃ」
「言うたやんけ。クリスマスプレゼントや」
「おまえにもらう義理はねえ、なにも返せねえのに」
「でた!そういう意味わからんプライドも千早そっくり」
 つっけんどんに箱を突き返そうとする倉之助を指さしながら、アキが笑った。
「なあ倉之助さん、女にプレゼントするときって、見返り求めてる?」
 持ってきた花を飾り終え、近くにあったパイプ椅子に座って問いかけると、倉之助がニヤリと笑った。
「そりゃあおめえ。求めてるにきまってんだろ」
「でも最初っからヤらせろとは思ってないやろ?ゲームは難しいほうがおもろいし」
 たくさん貢いで、甘い言葉をかけて、時々冷たくする。相手は自分と全く違う人間だけど、それがおもしろいという前提のもとに駆け引きすら楽しまないと、恋愛なんて辛いだけだ。本気になりすぎたり、自分と相手を同化しようとすれば泥沼にはまる。
「あたりめえだ。じっくり時間をかけた女ほど食うとき美味い。メシと一緒だ、ああいうもんはよ」
「最低な意見聞かせてくれてどうもー。おれもいっしょ。最初っからわかりやすい見返りなんか求めてへんよ。…聞きたいことやったらひとつ、あるけどな」
 まるで聞かれる内容がわかっているみたいに、倉之助の表情にあきらめが浮かぶ。ため息をつき、「じゃあ、これもらっとくぞ」といって包装を外しはじめる。
 中から出てきたものは、フルオーダーのカッターシャツと蝶ネクタイだった。手触りのよさと縫製技術の高さから、一目見て高価なものだとわかる代物だ。
「…おめえ、これ」
「もう一回店に立ちたいって言うてたやろ。寝てる間にささっとサイズ測らせてもらったで。下は適当なスラックスでも履いたら、あとはカウンターの中に立つだけ。おれな、一回飲んでみたいねん。倉之助さんの作ったお酒を、あの店で」
 静かな笑みを浮かべてアキが言う。倉之助はこれまで見せたことがない、神妙な顔で「そうか」と俯いた。
「ありがとよ。まあ、着られる日がくるか、怪しいもんだけどな」
「元気になって、絶対着てみせてくれ。勿体ないし」
 目が合った。倉之助の視線の中に、いつもの迷惑そうな、不機嫌そうな様子は見あたらない。そのかわり、見慣れた感情のひとつが見え隠れしている。
(申し訳なさそうな、つらそうな顔。おれ、他人にこんな顔ばっかりさせてる)
「ほんなら帰るわ。そろそろ千早も来るやろ、おれおったら邪魔やし、また怒られるし」
 席を立とうとすると、腕を掴まれた。病人とは思えない強さで引っ張られ、上げ掛けた腰をもう一度、パイプ椅子の上に落とす。
「千早とは、もう会うな。あいつに一切自分のことなんか話すな、家にも入れるんじゃねえ」
「……なんで?」
「あいつはバカだが、おれの孫だ。だからこれ以上のことはいえねえ。黙って言うとおりしてくれ、頼む」
 このとおりだ。
 頭を布団に擦り付けるように下げて、倉之助がうめく。
「おれは、どうなってもええから」
 倉之助の顔が歪む。アキは続けた。
「おれの過去を売って、それで千早が何か助かるんやったら、いくらでもあげるよ」
 目に見えて青ざめた表情で、やはり自分の推理が間違っていなかったのだ、と確信した。
「倉之助さん、千早を責めんといてな。たぶん、お金がほしかったんやと思うけど、それを責めたらんといてな。千早には倉之助さんしかおらんねん。なにをしてでも、生かしたかったんやと思う。でも、」
 両手で顔を覆ってしまった倉之助の隣から、アキは優しい声で続けた。
「でも、倉之助さんの人生は、倉之助さんのものやから。ほんまに退院して店に立ちたいんやったら、やりようはあるよ。退院の手続きなんか、すぐできる。医者も千早も勝手に怒らせといたらええねん、そんなもん、ひとひとりの生き方を選ぶ大局に比べたら、鼻くそ以下の些事やんか」
 言い終えて、アキが歯を見せてニッと笑う。
「物事を決めるとき、絶対に正しいかどうかなんか、誰にもわからん。だから自分で考えて、自分で決めるんや。千早にとって正しくないことでも、倉之助さんにとって正しいねやったら貫いたらいい。おれも自分が思うように生きたいから、千早と会うなっていわれてもたぶん会う。たとえそのことでおれの立場が悪くなったとしても、それは自分で選んだ結果やから、後悔せえへん」
「おめえ…どうしてそこまでできる?何のメリットがあるってんだ。もう千早の目的はわかってんだろう?利用されて、苦労して築き上げた信頼も社会的地位もどうなるかわかんねえ、なんでそこまで」
 アキの腕を掴み、揺さぶる。
「誰にでもするわけやないよ。それに、これはおれの、個人的な」
 言い掛けて、やめた。これを説明するとしたら、倉之助にではない。千早にこそ伝えたいと思った。誰からも愛されていないと思っているバカ者にこそ、この言葉を伝えたかった。
「なんだ、最後まで言えよ」
「まあ、心配せんといて。もし色々明るみにでて日本にいづらくなっても、外国にかて、おれを必要としてくれる場所はいくらでもあるから。それぐらいの腕とか、ツテはあるつもりやからさ」
 長い治療で疲れ切っているはずの倉之助の目は、強さを失わずにアキをみつめた。千早によく似た、彼よりもたくさんのことを知っている目は、深い、複雑な色合いをしてみえた。
「全く、変な奴だなあ。人形じみて冷たいのかと思えば、妙に熱い。割り切っているのかとおもえば、ひどく泥臭くて感傷的だ。冷たい器に、熱い湯が入ってるみてえな、へんな感じだよ、おめえは」
 力をなくした腕が、ベッドの上に落ちる。アキはその手をそっと握った。
 やせて乾いた、繊細なバーテンダーの指だった。
「そうやなあ。もともとは器も中身も、温度、なかったかもしれん。でも与えてくれた人らがおってな。おれはその人たちのおかげで、今こうして生きてる。風の温度も、花の匂いも、誰かを愛するということも、全部彼らが教えてくれた。――倉之助さん、」
「…ん?」
 立ち上がって、アキは微笑む。誰しもつられてほほえんでしまうような、美しくて晴れやかで、のびのびとした笑顔だった。
「もし倉之助さんが店に立つ日があるなら、呼んでほしい人がおるねん。さっき言ってた聞きたいことやけど、おれの父親って――」
 アキの確信を込めた質問に、倉之助が目を見開く。
 そして、観念したように重々しく頷いた。

 

 

 病院を出ると、晴れた空に雪が漂っていた。
「風花…」
 ビルの隙間から落ちてくる雪を、立ち止まって眺める。どこからともなく聞こえてくるジングル・ベルのメロディと、冷たくて乾いた風に首をすくめた。
 眠気と疲れのせいで、瞼が重い。少しだけ休もうと思い、病院を出てすぐのバス停のベンチに腰掛け、雪と街を眺めながら目を閉じた。
 ランチタイムにさしかかっているのか、昔団地に住んでいたころに何度もかいだ、なつかしい匂いがした。それはデミグラスソースの匂いや、トマトソースの甘酸っぱいかおりだった。味噌汁やごはんの炊けるかぐわしいかおりだった。全部、自宅以外のどこかかから漂ってくる匂いで、その匂いはいつもアキに、家庭を想像させた。母親がいる。父親がいる。もしくは、両方がいて、仲良く食卓を囲む。
 欲しかった。うらやましかった。どれほど摂や聡がやさしくしてくれても、それによって心を救われても、そこは自分の家じゃない。
 どれぐらいそうしていただろう。
 冷たくなった手のひらに、何か温かいものがふれる。鼻歌がきこえた。ずいぶん古い歌だったが、声は若い。上着の前をあけて着ていたせいで、すっかり冷えた首に、やわらかくてふわふわした布がそっと掛けられる。
 久しぶりにやさしく、宝物にふれるみたいに手を握られた気がした。
 閉じていた瞼を、ゆっくりと開く。隣に座り、一緒に風花を眺めていたのは、よく知っている男だった。
「……、古いうた、知ってるんだな」
「アキ、なんでこんなところで寝てんの。風邪ひいちゃうよ」
 目が合うと、さきほどまでの優しい歌声が嘘のように、冷たい声で千早が言った。つないでいた指はほどけてしまい、立ち上がった千早が上から、アキを見てため息をつく。
「きのう当直で…つい、うとうとしちゃって」
「寝るなら家で寝なよ。もうおれ、帰るから」
「倉之助さんには会った?」
「なんか急に退院するって言ってきかなくて、苦労したけどね。アキ、なんか変な入れ知恵…あー、まあいいや。こんな日までケンカしたくないし」
 世界中の恋人たちが楽しい時を過ごしているってのに、悲しすぎる。
 そう言って千早が腕をつかみ、アキを立ち上がらせた。
「今日だけは休戦しよう」
「おれらって戦争してたんだ?知らなかった」
 皮肉っぽい物言いは、すでに方言が消し去られている。千早は眉間にしわを寄せて、フンと鼻をならした。
「かわいくねーなー、ほんと。顔と同じぐらい、心もきれいならよかったのにね!」
 こどもっぽい嫌味に、アキは少し笑った。
「千早も。普段からそれぐらいかわいかったら、もっともてるのにね」
「マジで口の減らない奴だなー、道ばたで犯すぞ!力はおれのほうが強いんだかんな、アキみたいに勉強ばっかしてたモヤシとは違うんだから」
「もやしはおいしいじゃないか。豚バラと一緒にいためてポン酢かけたらたまんないんだぞお、自分で作ったことはないけど」
「ばっかじゃねえの」
 ふたり並んで、駅まで歩く。お互いにどこに行くのかも聞かずに、ただなんとなく地下鉄に乗った。
 久しぶりに軽口をたたき合うことができて、アキは心底うれしかったが、千早は時々急に黙ったり、窓の外をみたりして沈み込んでいた。
「千早、どこ行くんだよ」
「あ、考えてなかった」
 嘘だな、とアキは思った。たぶん千早は、言い出そうかどうか迷っている気がした。
「うちに来る?いつも行くばっかりだったし、たまには」
 電車が急にスピードをゆるめたせいで、隣に座っている千早にぶつかるようにもたれかかってしまって、アキは焦った。いやがられるかと思いきや、千早は周囲にばれないように背中からアキを支えて、そっと抱きとめる。間近で見た千早の、眦の切れ上がった黒い眼と軽薄さを漂わせている口元。いつも店の中でみせる、思わせぶりに唇の片側だけ持ち上げるような笑い方や、感じの良さだけを追求したような微笑は、そこにはない。
「アキの家ねえ」
「プレゼントもあるぞ」
「もらう義理ないし」
 そういうと思った。
 思わず声にだして笑ったアキを、千早がぎろりと睨みつける。
「倉之助さんにも同じこと言われた。やっぱ、孫だな~」
「ただで物をくれる奴を絶対に信用するな、ってのは、じいちゃんの教えだからね。物にはすべて対価を払わなきゃいけないんだ。でないと」
 何かを言おうとして、首を振る。
「やっぱいいや、こんな話」
「なんで?ききたいよ」
 乗り換えの駅に着いたので、千早の腕を掴んで外へと促す。まだ迷っているのか、うつむきがちの重い足取りで、千早が後ろからついてきた。
 発車寸前の由記駅行き快速電車に二人で乗り込む。平日と違って、二人とも座れる程度には空いていた。
「さっきの歌、じいちゃんが好きなんだよ」
「ああ、流星?」
「人は本質的に孤独な生き物だって、そういう歌。聴く?カバーしかないけど」
 千早はピーコートの襟の中に顔を埋めるように、シートに浅く座りなおしてから、携帯電話を取り出す。インナーイヤホンの片方を手渡され、右耳につっこむ。
 やわらかい女性ボーカリストの声がやわらかく、ささやくように歌う。産毛をそっと撫でるような声に、アキが目を閉じた。車窓から差し込む光が、アキの黒髪と睫毛に落ちて白くにじんで、千早は横目に盗み見ながらばれないようにため息をつく。
「人はみんな孤独で、バラバラだけど。それでもひたすらに君がすきって…いいよね。すきだな。同一化なんかしなくても、何も返ってこなくても、人はひとを好きでいられる」
 小さな声が、到着を告げる車掌のアナウンスでかき消されそうになる。
返事のかわりに、千早がアキの右手をそっと握った。人に見られないように、ポケットの中にてのひらを引き込まれ、指をからませて繋いでくる。
「冷たい手」
(もしかして、こんなに体が冷たくなるほど長い間、隣にいてくれたのかな)
 雪が落ちる、あのさびしいベンチで。漂流者のように、孤独で不安な気持ちを分かち合うように、隣に座っていてくれた千早。
(おれの温度がうつって、少しでも温かくなってほしい)
 祈りを振り払うように、千早が立ち上がる。
 繋いだ指はほどけて、背中はドアの向こうへと遠ざかっていった。

 

 扉を開いて招き入れようとしても、千早はなかなか敷居を跨ごうとしなかった。俯いて、硬い表情をしたまま黙り込んでいた。
 腕を掴んで、強引に家の中に入れる。昼でも、冷え込みの強い日だった。いくら建物の中の廊下でも、長くさらされていれば風邪を引いてしまう。
「じいちゃん、自宅療養させようと思う」
 渋々靴を脱ぎ、中に入ってきた千早が、ソファに腰掛けながらつぶやいた。
「治療、やめるのか」
「……最後のお願いだって言われちゃった。おれだって、もう分かってる。病気は時々、どうしようもないことがあるって」
 立派な家だね、とくたびれたような笑みを浮かべ、背もたれに体を預ける。いつもの攻撃的な物言いも影をひそめ、落ち込んだ様子の彼の横顔は、背徳的なまでに摂に似ていた。
「最後に一度だけ、店に立ちたいんだって。貸し切りにして、客を招待したいって。…アキ、来てくれる?会わせたい人が、いるんだってさ」
 投げやりに言い終えてから、ソファの前に置かれたビールをあけ、ひとくちふたくち、なめるように飲んだ。
「よく、決心したな」
 隣に座り、同じように缶ビールをあけて飲む。ローストチキンも、クラッカーもない片づいたローテーブルには、無愛想なロング缶のビールと、千早が持ってきた紙袋が無造作に置かれている。
「じいちゃんに」
「うん?」
 言い掛けたまま、沈黙してしまった千早の言葉を、アキは根気強く待った。唇をふるわせ、喉の奥から絞り出すような声で、千早が続けた。
「じいちゃんにだけは、嫌われたくない。たとえ、愛されてなかったとしても、おれは大好きだから」
 見つめ返してくる眼は、すでに決意を固めているようにみえた。
「そっか。……うん、わかった」
 部屋をぐるりと囲むように設けられている、窓の外を眺めた。日が少しずつ傾きはじめていて、街は夜と昼の境目の色、一色に染まっていた。
(もし、あれで千早が救われるなら、あげてもいい)
 立ち上がって、書斎からフラッシュメモリを持ってくる。すげえ景色、といいながら口笛を吹いている千早の手のひらに、強引に握らせた。
「なにこれ」
「クリスマスプレゼントだよ。あげるっていっただろ」
「いらないって、おれも言っただろ」
 真剣なアキの声をきいて、勘のいい千早はその内容を悟ったのか、強ばった顔で首を振った。
「そこに、必要なものは全部入ってる。遺伝子鑑定書――これは裁判用のものじゃないけど、効力としては十分だろう――他に大学にはいってから今にいたるまでの調査記録、探偵の調査結果報告書…。これだけあれば、おれとあの男が親子だってことは、十分証明できる」
 千早が虚を突かれたように顔をあげ、アキを見た。そこには何故か、強い羞恥があらわれている。
「好きに使っていい。あげるよ」
「何いってんだ、こんなのおれに渡したら、どうなるかわかってんの?おれはこれを売るんだぞ、そうしたら」
「分かってるから渡してる。いるんだろ?もともと、それが目的でおれに近づいたんだろう、もってけよ。遠慮すんな」
「どうして!」
 大きな声に、アキが微笑んだ。
「そんなもので、あの店が守れて千早が幸せになれるなら、やすいもんだ」
「どうして、そこまで。おれなんか、どうだっていいじゃないか、どうして」
 千早がアキの身体を持ち上げ、揺さぶる。乱暴な行為のはずなのに、アキにはそれが、こどもが母親にすがりついて、愛を請う仕草にしかおもえず、されるがままになっていた。
「本当はききたい。誰に頼まれたのか、そいつの目的はなんなのか」
「……」
「でも、聞かない。もういいんだ。千早が金を必要としている理由は、大体分かる気がするから。自分のためじゃないんだろう?」
 ずるずるとアキの体から這いずり落ち、床にしゃがみこんでしまった千早の頭を、乱暴に撫でながら言った。
「想像だけど、遺留分。倉之助さんが亡くなったとき、たとえ遺言書があったとしても、親族には遺留分として相続が発生するよね。確か直系血族なら財産の二分の一がそれにあたるはずだ。それを支払えなければ裁判沙汰にされて、あの店や土地を売らざるを得なくなる。違う?」
 千早には、血のつながった身内がもう一人いた。
 彼を作っておいて、嫌になったら他の女と家庭を作り、自分の父親に千早を押しつけて一度も見舞いにすら来ない男。
――千早の実の父親が、もうひとりの相続人だ。
 相続は、遺言書があったとしても、すべての財産が倉之助の意志のとおり配分されるわけではない。
 法定相続では、子が生存している場合、孫に相続権が発生しない。それを変えるには遺言書が必要になるが、「すべての財産を千早に譲る」というような記載があったとしても、相続財産の半分は千早の父親に権利がある。
 仮に、一億円の相続が発生したとすると、二千五百万は遺留分として発生してしまう。現金があればそれを分割することになってしまうし、現金がない場合、不動産を売却してそれにあてる必要がある。
 つまり――店を守るには、相続人に資産価値の遺留分相当額を現金で支払わなければならない。
「親父には、相続放棄してくれないかって頼んだけどダメだった。それなら遺留分、耳揃えて払えって言われて…!」
 血縁の呪い、家族の束縛に苦しめられたアキは、千早の苦しみが誰よりも理解できた。
「治療費がこんなにかかるとは思わなかった。じいちゃんはちゃんと、現金も残してくれてた。店を手放さなくて済むように、遺留分の現金を用意してくれてたんだ。――おれが、それを。保険の効かない先端治療や手術代に、つかってしまった。…全部、おれのせいなんだ。じいちゃんはちゃんと、してくれてたのに」
(苦い後悔と哀しみを思い出すのは、千早が昔のおれと同じだからだ)
「生きていて欲しかった。おれを一人にしないでほしかった」
 腕で顔を覆って泣きはじめた千早を、膝立ちになって抱きしめた。投げ捨てようとするフラッシュメモリを必死で押し返しながら、アキは言った。
「早くそれもって行け。高く買ってもらえるんやろ?」
「でも」
 腕をつかみ、強引に千早を玄関の前まで引きずる。どこにこんな力があったんだ、と驚いている千早に、大声で怒鳴りつけた。
「…何をウジウジしとんねん、いますぐ選べ!!選んで、他の物は切り捨てろ、そうやってみんな生きてるんや。おれの気が変わる前にさっさと消えろ。弱虫の、悪役にもなりきれへん半端もん、せめて倉之助さんと店ぐらい、窮地から救ってみせろや!」
 この言葉に、何度も首を振り、迷った様子を見せていた千早が、目を見開く。突き飛ばされ、追いやられた玄関で頭を下げた。
「アキ――ありがとう」
 ドアが閉まっていく。
 その隙間から見える千早の背中が、少しずつ小さくなっていくのを、アキは黙って眺めた。
 廊下から人の気配がしなくなるまで、玄関の側に立っていた。足音が聞こえなくなってから、ふらふらとした足取りで、アキは書斎へ向かい写真立てを手に取る。
(聡さん、おれは、あなたみたいに優しくはできへんけど)
 写真の中の聡は笑っている。摂にそっくりの顔を、くしゃりと崩しながら。
(自分なりのやり方で、大切な人の力になれたらって、思いながら生きてきたよ)

 後悔はしない。 
 自分で決めたことだ。

「愛着障害、って言葉、知ってる?」
「発達障害じゃなくて?水谷先生、ビールでいいかな」
「ありがとう。あ、ついでに梅くらげも」
 クリスマスイブ、予定がないままベッドでゴロゴロしていると、小児科医の水谷から電話がかかってきた。
『今からクリスマスにケンカを売ろうと思う。独身同士、のみに行かないか?駅前の立ち飲み屋から始めて、隠れ家スナックまでとことん反抗して飲んでやろうと思うんだけど』
という気楽な誘いに、アキは喜んで乗った。
 水谷がつれてきてくれたのは、前に二人で入った由紀駅の高架下にある、煙たい焼鳥屋の系列店だ。こちらは焼き鳥じゃなく、藁焼きの鰹や魚介を売りにしている。
 サラリーマンが大好きな、やすくて美味くて、狭苦しい店だった。
「うん。発達障害の診断は近年爆発的に増えてるけど、おれはその一部分は、愛着障害なんじゃないかと思うんだ」
 あふれんばかりにジョッキに注がれた生ビールを、二人で乱暴にぶつける。「反抗の夜に!」と水谷が声を上げると、アキは笑いながら「乾杯」と続いてみせた。
 小児科医でありながら、精神科の専門医も取得している水谷の言葉に、アキは真剣に耳を傾ける。店内は予定がないのか、それとも家に居場所がないのか、まだ七時をすぎたところなのに、サラリーマンでいっぱいだ。
「愛着っていうのは、何だかわかる?」
「親子の絆、みたいなもん?」
「大体正解。血縁関係を指してるわけじゃなくて、育ての親との絆のことだね。子供が成長して色々なことにチャレンジできるのは、この愛着というベースキャンプがあってこそなんだ。挑戦して失敗しても、帰って行けば抱きしめてくれる、励ましてくれる人がいる。そういうものが、人間には絶対に必要なのさ」
 眉を寄せたアキに、水谷が肩をすくめる。
「不満そうだな。愛着なんざなくても、生きていけるって顔だ」
「少なくともおれには、愛着をもてるような親はいなかったからな」
「本当に?血縁関係がない人で、誰かいたんじゃない?」
 言われて気づいた。摂、それに聡がまさに「愛着」の対象者だったことに。つらいときは抱きしめてくれた、一緒に眠ってくれた、励ましてくれた。血こそつながっていなかったが、アキが人を愛することができるようになったのも、二人のおかげだった。
「そういえば、家族同然にかわいがってくれた人が、いたな」
「だろうね。でもすこしだけ、三嶋先生にはもしかしたらって思う部分があって――…。ねえ、どんな子供だった?昔からそんな顔?」
 いいなあ、うらやましい。
 そう言いながらしげしげと顔を見つめられて、アキは目をそらしてビールを呷った。
「こどものころ……家に帰るのが嫌すぎて、小学校の頃から図書館に入り浸ってたなあ。表情が乏しくて根暗で、人と打ち解けようとしない、嫌な奴やったとおもう」
 安全地帯であるはずの家庭は、アキにとって暴力と放置が蔓延した戦場だった。声も涙もみせられず、ただその場所から逃げたり、耳を閉ざして隠れることしかできなかった。
 淡々と話すアキの言葉を、水谷は頷きながらきき、唐突に腕をのばして肩にとん、とふれた。とたんにおびえたように体を震わせた様子を見て、「傷つくなあ」と苦笑する。
「前から思ってたんだけど、三嶋先生ってスキンシップ苦手だよね」
「あ、ああ…そうかな」
「それに、普段はあまり表情を崩さないね。無表情でいることが多くて、親密な関係を避ける傾向がある。といっても、こっちの病院にきてからは、よく笑ったり、飲みに行ったりしてるみたいだけどさ。少なくとも、子供の頃はそうだったんだよね」
「なんか分析されてるみたい」
 出てきた藁焼きの鶏肉をつつきながら、アキがつぶやく。
「あのさ。三嶋先生は多分、愛着障害の回避型なんじゃないかっておもうんだ」
「回避型?」
「うん。なるべく愛着対象を持たないようにしてる。もっていたとしても、距離を置こうとするんだ。主にネグレクトを受けて育った子供によくみられるんだけどね。本来愛着すべき対象にひどいことをされると、自分を守って生き抜くために、愛着を回避的にしかもてなくなってしまう。三嶋先生は多分、愛着対象…大切な人を、何度も喪失した経験があるんじゃないか?だから、今愛したい、愛していると伝えたい人がいても、その人と距離を置いてしまう。無意識に、その人に嫌われるような行動を取ってしまったりね」
 当たりすぎていて眼を丸くしているアキに、水谷がにこりと笑った。
「ごめん。三嶋先生を分析するつもりはなかった。患者さんでね、ほら、先日虐待の案件で運ばれてきた男の子、いたろ?彼の行動というか言動から、おれも色々考えちゃって。小児科医にできることは限られているよね。いや、小児科医に限らず、医師にできることってきわめて少ないなって」
 大きな図体を丸めて、寂しそうに視線を落とす水谷の肩に、アキはためらいがちに手をおいた。
「何かあった?」
「…その子、小学生なんだけどね。継母に身体的虐待を受けていたんだけど、父親はどうも、気づいていたみたいなんだ。気づいていたのに、何もしなかった。男の子も、自分の父親が分かっていて何もしてくれないのだと知っているんだよな、それでも……」
 それでも、施設に入るのではなく、父親の元に戻りたいと言うんだ。
 水谷が、深いため息をつきながら言った。隣から顔をのぞきこむようにして、静かな声でアキが言う。
「つらいな。また同じことの繰り返しになる、水谷先生はそう思ってるんやね?」
「だって、継母もらうの三回目なんだぜ、あの男!離婚するから二人でやりなおそうなんていってさ、そんなのあてになるかよ」
 外傷は浅かったものの、寒空の下ベランダに長く出されていたせいで、男の子は肺炎になり、救急搬送されてきたのだ。体中に残った痕跡から、病院はすぐに警察に連絡を入れ、両親ともに事情を聞かれることになった。
「おれや、他のスタッフが話しかけても、無表情で首を振ったり頷いたりするだけなんだ。笑ったり、泣いたりするところなんて見たことなかった。それなのに、父親が迎えにきたときだけ、あの子、すがるような笑顔を見せたんだよな。やりきれねえよ。子供はさ、親を信じたいんだ。どんなにクソみたいな親でも、たとえ愛されていなかったとしても、自分を愛し、守ってくれる人は親しかいないっておもってる。だからひたむきに、賢明に親を愛そう、嫌いにならないようにしようと努力するんだ」
 言葉が胸に突き刺さる。――まるで、自分のことを言われているみたいだと思った。
(もう、捨ててしまったけれど)
「おれは、期待する事に、裏切られる事に疲れて家族を捨ててしまったけど」
 アキの言葉に、水谷はまるで驚いた様子を見せず、酒を呷る。
「うん。三嶋先生の眼はさ、おれが今まで見てきた、虐待の被害児童とよく似てるよ。瞳の奥がさ、荒れるんだ。他人を信じられなくて、自分を愛せなくて、……氷のような眼になる」
 愛して欲しい、自分を見て欲しい、抱きしめて欲しい。
 いままで何度、心の中で叫んだか分からない。どんなに願い続けても、叶わないままアキは、両親と決別してしまった。これまで生きてくることが出来たのは、摂、それに聡が良くしてくれたからだ。
 ただ、とアキは思う。
 生きてはいるけれど、やはり心の底にある「親に愛されなかった」という傷や劣等感は癒しきれない。消すことはできない。どれだけがんばって豊かな暮らしを手に入れても、容姿をほめたたえられても、本当に愛している人にだけは、気持ちを伝えることができない。
(親にすら愛されなかった自分を、愛してもらえるとは思えない)
 それどころか、摂の大切な人を奪い、彼にある種の罪を背負わせてしまったかもしれない。そう考えるだけで足がすくんで、「好きだ」なんてとても口に出せなかった。
 飲み終わったジョッキの底を眺めたまま何も言わなくなったアキに、水谷が心配そうな視線を向ける。
「ごめん、辛いこと思い出させてしまったかな」
「ううん、大丈夫」
「三嶋先生、多分、それは捨てたというのと違うと思うよ。脱愛着ってやつじゃないかな」
「脱愛着って?」
「愛着、つまり家族の絆ができた後で、突然それを失った子供はどうするか。まずはじめに、「抵抗」といわれる最初の段階が訪れる。泣いたり、怒ったり、抗議したりするわけだ。なぜ母親がいないのか、どうして自分をおいていったのか、と。
 次にやってくるのが、「絶望」という段階だ。うちひしがれ、自分の心の殻の中に閉じこもる。周囲に興味を失い、食欲をなくす。
 最後に、もう二度とあえないのだ、仕方がないのだと現状を受け入れ、次第に忘れていく段階、「脱愛着」がある。失ってしまった人をいつまでも求めていたら、生きるのが辛いだけだ。だから自然と忘れるようになっている。忘れたり、乗り越えたりしてもう泣かなくなる。ただ、だからといって何の傷も残らないかというとそうじゃない。たとえその愛着対象に再会したとしても、またいなくなるんじゃないか、消えてしまうんじゃないかと疑心暗鬼になって、以前のようには心を開けなくなっているんだ」
 アキを気遣うように、水谷が背を丸めてにっこり笑った。
「水谷先生が優しくしてくれた時って、熊が花束持ってきてくれたみたいな感じでほっこりするわ」
「誰が熊や!あ、うっかり関西弁しゃべっちゃったよ」
 笑いあう。お互い空になったグラスを見咎めて、アキが店員を呼び止めてお代わりを頼んだ。頬を赤くして困ったような笑みを浮かべながら去っていく女性の後ろ姿を興味深そうに眺めた水谷は、ニヤニヤ笑いながらアキの肘をつついてくる。
「あの子、絶対三嶋先生に見とれてたぜ。注文取るときふるえてたし」
「あ、そうなの。よくある事だから気に留めてなかった」
「腹立つなあ~!ま、でも三嶋先生って女性に興味なさそうだしね」
 さらりと言われた言葉に、口に運んだ刺身を吹き出しそうになった。
「興味…ない、わけでは、ないけど」
「嘘つかなくていいって。なんとなく分かるんだよ、おれ。でも別にいいんじゃないの?男であろうが、女であろうが、好きなものは好きってことで」
 そこからは、ピッチを上げて飲んだ。二軒目に行こう、ウィスキーが豊富ないいスナックがあると誘われて店をでる頃には、お腹がビールでちゃぷちゃぷになり、口を開けばゲップが出そうだった。

 

 

 ほとんど眠らずに二日を過ごしたせいで、アキは自宅に到着するやいなや、ソファで昏々と眠ってしまった。目を覚ました時、既に太陽は少し傾き始めていて、二十五日という日の半分を寝て過ごしてしまったことに、アキは苦笑した。
 起き上がり、シャワーを浴びてから二日ぶりに携帯を眺めると、複数の着信が入っていた。一件は佐々木からで、二十五に予定がないならフグでもどうだ、というありがたい申し出で、もう一件は非通知着信だった。
 バスタオルで頭を拭いながら、佐々木の携帯に電話をかけたが、六コールを過ぎても出なかった。もう一件の着信について想像を巡らせていると、電話が甲高い着信音を鳴らしはじめる。非通知設定の電話がかかってきたときに流れる着信音は、やや不気味で耳障りな音をしていた。
「もしもし、どちら様ですか」
 起きた時からちくちくと痛む喉を撫でながら、声をかける。電話口では、確かに人の気配がしていたが、後ろで工事か何かしているのか、雑音が多くてざらついた音がした。
『六人部です、六人部摂。突然電話して、すまない』
 体温が上がった。途端に、自分が風邪でもひいたんじゃないか、と思うほど全身が熱くなり、眩暈までしてくる。
「摂、どうしたん、非通知ってこれ、公衆電話?」
『そうなんだ。携帯電話を落としてしまって…手帳に控えていた電話番号からかけてる』
「それは災難だったな。大丈夫?何か助けがいるなら…」
 咳が出てきた。どうやら気のせいではなく、本当に風邪をひいているらしい。アキは頭を乱暴に拭き終えてから、ソファにどさりと横になった。
『助けは特にいらない。謝りたかった。ひどいこといって、すまなかった。アキはきっと死ぬほど努力して、医者になったっていうのに。親父が生きていたら、すごく喜んで誇りに思ったとおもう。おれだって同じ気持ちだ。それなのにあんなこと言ってしまって、申し訳なかった』
「いいよ、本当のことだし。昔から、自分を大事にするのは苦手なんだ。多分、自分を無価値な人間だと思ってるからだろうな」
『目標に向かって努力して、達成して、沢山の人を救っているアキが、無価値だなんてことは絶対にない。そもそも、無価値な人間なんて一人もいない』
「そうかな」
 脳裏をよぎったのは、かつて母親を蹂躙し、マンションから落ちて死んだ義父の死に顔だった。――そして、覗き込むようにして立っていた摂の、せっぱつまった横顔だった。
(あの男を突き落としたのは、もしかしたら)
 違う、まさか、そんなはずはない。首を振って、その考えを打ち消す。
(決めたはずだ。もしそうだとしても、絶対におれが摂を守る)
 例え佐々木に疑惑の目を向けられても、前の病院のように立場が悪くなっても、構わなかった。アキは、とっくの昔に決意していた。何にかえても、摂だけは守る。彼自身に嫌われ、疎まれていたとしても、決意は変わらない。もしも彼に疑いの目が向けられるようなら、人殺しの汚名はすすんで引き受けるつもりだった。元より摂以外の人間に、嫌われようが憎まれようが、痛くもかゆくもない。
(でも、どうして)

 決意を新たにするたびに、考え込んでしまう。
 どうして摂はあの時、あの場所にいたんだろう。
 しゃがみこんで、何をしていたのか。

――思い出すたびに怖かった。否定しても否定しても、アキの頭の中には一八年前のシーンが再生され、そのたびに、ひとりの人間、それも、誰よりも大切な人の人生を変えてしまったのではないか、と恐怖に震えた。
「ただそこにいるだけで、他人を苦しめる人間だっているよ。例えばおれの義父だったり、…おれ自身だったり…。そういうやつらは、結局無価値な人間なんだと思う…。ゲホッ、ごめん、ちょっと風邪をひいたみたいなんだ。用件がそれだけなら、切っていいかな」
『風邪?大丈夫なのか』
「二日ほどろくに寝てなかったから。単に疲れてるだけかも」
『必要な水分は家にあるのか、持っていくぞ』
「摂、気持ちはありがたいけど、今日はクリスマスだよ。予定があるだろう?おれのことは気にしなくていいよ」
『行く。住所を教えてくれ』
 有無を言わさぬ物言いに、アキは住所を告げて電話を切る。咳をしながら服を着てベッドに横になり、今終わったばかりの摂の声を思い返す。心配されるのは嬉しかったが、期待してしまいそうな自分に嫌気がさした。
(嫌われてないのかなって思いたくなる)
 まさか本当に摂が来るとは、想像もしていなかった。

 電話からわずか十数分後、摂はアキの家にやってきた。
 飲み物、簡単に食べられる食品などが山ほど入った買いもの袋の中に、医療者の中でおなじみの『経口補水液』があって、思わずアキは笑った。
「出た。OSー1、伝説のクソ不味さ」
「いつも人に飲ませてばかりだろう?たまには飲むといい」
 部屋の中に上がってきた摂は、洗面所で手を洗い、上着を脱ぐと、ベッドで横になっているアキの側に立ち、微笑んだ。
 鼻が真っ赤で、息も上がっていた。よほど急いできてくれたのだということが、風邪でぼんやりしているアキにも分かって、涙がにじむほど嬉しかった。
「少しでも水分を摂った方がいい。体を起こせないか、手伝うぞ」
「大丈夫」
 上半身を起こして、手渡されたペットボトルを呷る。久しぶりに飲んだソレは、思っていたほど不味くもなく、かといって美味いわけでもなかった。
「ごめんな、クリスマスに。せいちゃんと一緒やったんやろ、悪いことした」
 仰向けになりながら、ベッドサイドに座った摂を見上げる。驚いたのか、眉を上げた摂は「どうして知ってるんだ」といたずらっぽい表情をしてみせた。
「昨日、たまたまみかけたから」
「お互い予定もなかったから、星野の家で酒盛りしてた。ホラー映画を見たり…酔っぱらってシャンパン掛け合ったりビール掛け合ったり。バカだろ?」
 そう言って、鼻にしわを寄せて笑う。
「バカだな。風邪ひいてもうたらええのに」
「そういうのを八つ当たりっていうんだぞ」
「違う。ただの嫉妬や」
 つぶやいた声に思わず本音が漏れて、慌てて毛布を引き上げ、顔を隠した。すると摂は何を勘違いしたのか、眉根を寄せて怪訝な顔をしてから、低い声で言った。
「アキは、星野が好きなのか」
「せいちゃんは、まっすぐで、優しくて、ほんまに可愛い。見てると素直にそう思う。でも恋愛感情は全くないよ」
 不意に思った。摂は、星野成一に惹かれているのではないか、と。そして、それはまっとうな事のように思えた。子供の頃から、ネガティブな要素でしか繋がっていない、一度断絶した幼なじみの自分よりも、未来の、太陽の、風の匂いがする成一に心惹かれる方が、ずっと建設的で前向きだと感じた。
 どこで間違ってしまったんだろう。
 聡が死んだ日だろうか。それとも、義父が死んでしまった日か。摂が消えてしまった日からだろうか。
 アキにとって摂は体の一部で、生きるよすがで、明日だった。誰よりも近い、自分の半身だとすら思っていた。だがそれはいつしか狂い始め、今となっては、お互いの人生がわずかに触れ合う程度の繋がりしか持てていない。あんなに会いたかったのに、会えた時は歓びで涙が出たのに、いざ対面すると踏み込む資格は自分にはないのだ、とアキは目を逸らしてしまう。
 はじめて話した誘拐未遂の日からすでに、お互いの歯車はかみ合っていなかったのかもしれない。
 あの時握ってくれた手の熱さを思い出して、アキは呟いた。
「摂、手握って」
 ためらいがちに握られた手のひらの温度は、思い出と違っていた。
「…、熱い」
「熱があるからだろう。氷枕、つくろうか?」
「そういう意味じゃないねんけど」
 咳が出た。医者が風邪をひくなんて恥ずかしくて、掛け布団の中でこっそりせき込む。
「アキ、息苦しくないか、そんなに顔までかぶって」
「ごめん、摂。うつしたらあかんから、もう行ってええよ。医者が風邪ひくなんか自己管理できてなさすぎて恥ずかしいわ」
「医者であろうが、救急隊員であろうが、病気には勝てないさ」
 うっすらと微笑んだ摂の表情に、しばし見とれた。思い出の中の摂は、いつも苦しげだったのに、今目の前にいる摂は、まるで別人のように大人で、やさしいほほえみを浮かべている。
「それにしても、でかいベッドだな。寝返りどころか前転出来そうだ」
「やろ?激しいプレイも可能やから、気に入ってる」
 期待しそうになる自分を戒めるために、わざと下品な冗談を飛ばす。摂は少し眉をよせて顔をしかめ、アキがズリ上げた布団を引っ張って、首の位置に戻しながら言った。
「くだらないこと言ってないで、寝ろ。治らないぞ」
 ベッドの端に座り、のぞき込まれる。間近になった顔に耐えられなくて、アキはふいと顔を逸らせた。せき込むと、摂が優しく背中を撫でてくれて、それがうれしくて信じられない。
「むかしこんなことあったよな」
「そうだったか?」
「中学のころやっけ。おれが風邪ひいたとき、聡さんもおまえも、めっちゃおろおろしながら看病してくれたやん。ドロドロの味せえへんお粥作ってくれたり」
 摂が吹き出す。思わず、アキも笑った。
「思い出した。あのときは悪かったな。料理は親父もおれも、苦手だったから」
「ぜんぜん冷まさんと口に押しつけられて、舌やけどしたんよな。懐かしいわ。うとうとしてるうちに、着替えまでさせてくれた」
「あれ大変だったぞ。親父が、アキに触るなとか言い出して」
「なんで?」
 熱で朦朧としてきたアキが、反射的に問い返した質問に、摂は声を詰まらせてから、言いにくそうにつぶやいた。
「変な目で見てる、と言われた」
「…なに、それ」
 大事なことを言われている気がするのに、薬と疲労で今にも眠ってしまいそうだった。握られた手のひらに力をこめると、摂も握り返してきてくれて、安心する。
「もう、寝たほうがいい」
「うん、摂」
「ん?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「ついでに、もうひとつだけお願いが」
「この際だから言ってみろ」
「あのときみたいにして」
 熱で潤んだ眼とあかい頬で、アキは訴えた。
「あのとき?」
「あの、かぜひいたとき。まずいお粥たべさせてくれて、着替えさせてくれた後、覚えてないん」
「……忘れた」
 摂の腕をつかんで強く自分の方へ引き寄せる。不意打ちだったのか、摂はアキの隣に倒れ込んできた。黒い髪の下で、涼しげな目が驚きに見開かれる。
「寝るまで、抱きしめてくれたやろ」
 風邪をひいていなければ、とアキは思う。ひいていなければ、こんな大胆で厚かましい願い事は、とてもじゃないが言えなかった。熱に浮かされるという言葉があるが、まさにそのとおりだ。後で思い返せば、きっと後悔して申し訳なく思うに違いない。
(今だけ。かぜが治ったらもう、二度とこんなこと言わないから)
 驚きと逡巡で固まっていた摂が、ため息をつく。
「ごめん、嘘。うつるから、ほんまに帰ったほうが」
 冗談にしてごまかそうとすると、摂がのそのそと布団の中に入ってきた。自分で言っておきながら驚いて思わず背を向けると、後ろから強く抱きしめられた。服ごしの体温に、アキの心臓が早鐘を打つ。
「かなり熱が高いな。明日、仕事は?」
「さ…さっき佐々木先輩に電話したら、休んでいいって」
 動揺で声がふるえた。
「そうか、良かった」
 摂のつめたい鼻先が、アキのえりあしのあたりに当たった。
(よほど急いで来てくれたんやな、鼻、真っ赤やった)
 体の前にまわされている摂の手に、おそるおそる触る。てのひらは、信じられないぐらい熱かった。
「摂の手、めっちゃ熱いねんけど。もしかして風邪ひいてんの?」
「違うと思う」
 寝返りをうち、正面から向き合った。アキも摂も上背があるので、抱きしめあうと顔の位置はほとんど同じだ。
「緊張してるからだろう」
 アキから目をそらし、摂が言った。
「いや、ふつう緊張すると交感神経が働いて手のひらは冷たくなるけど」
 思わず正論を返したアキに、摂が苦笑した。
「医者って面倒くさいな」
「悪かったな。…摂は熱、ないんやね?ならええけど…」
 体の位置を少し下げて、摂の首筋に額がくるようにして抱きついた。乾いた摂の首元から、彼の匂いがする。
 くらくらした。彼の匂いや声の調子は、十年前と変わっていない。
 熱で赤みを帯びた目で、上目使いに見つめていると、彼は困ったような顔をして「早く寝ろ」と促された。
「お願いやから、寝てる間に消えやんといて」
 摂が目を見開き、痛みをこらえているような顔をした。
「…いなくならんといて。お願い」
 涙が目尻から流れ落ちるのを、摂の指が受け止めて拭い取る。
「辛いことでもあったのか?」
「うん。ちょっと。おれ、病院クビになるかもしれん」
「なんで」
「なんででも」
 ごまかしを許さない厳しい目で正面から見つめられて、アキは咳をしてから溜息をついた。
「…そやな、しいて言うなら、敵と差し違えるって感じかな。ずーっと復讐したろうと思ってたヤツがおって、今がそのチャンスやねんけど、復讐したらおれも社会的にダメージを負う、みたいな」
(「あのこと」が表沙汰になったら、多分、あいつは失脚するやろう。でもおれも、あの病院にはおられへんようになる。いい病院やのに悔しい)
「よく分からないな」
「わからんでええねん、ただ、今だけ側にいてほしい」
 病気のせいで、気持ちまで弱っていた。次から次へと流れてくる涙を、摂の指が根気強く拭い、両頬を手のひらで包みこまれた。
「いるよ。アキが眠って、目が覚めるまでここにいる。だから二度と、自分を無価値だなんていうな。おれはアキに、幸せになってほしいと心から思っているから」
 手のひらを背中に移動させてゆっくり撫でられて、みるみるうちにアキは眠くなった。
「…おやすみ、アキ」
 意識が遠のいていく。
 こんなシチュエーション二度とない。
 わかっているのに、抱きしめられた安心感であっという間に眠りに落ちてしまった。

 

 

 

 摂の寝顔をみるのは久しぶりだった。まっすぐで太い眉のした、いつも人をじっと見つめる黒い眼は、しずかに閉じられている。
 自分とは違う、男性的で精悍な顔立ち。抱きしめてほしいと頼んだとおり、摂の手は腰に回っていて、体がぴったり密着していた。
(…やばい、興奮してきた)
 日焼けした首筋と喉仏に鼻先をあてて、体温をそっとぬすむ。こどもの頃から摂は寝息すら静かで、心配になったアキと聡は、てのひらを鼻にかざして呼吸を確かめたりした。
 規則正しく動く胸に頭をよせた。腰に回っていた手のひらが背中にまわって、ぎゅうと抱きしめられる。昨日は風邪でぼんやりしていたので分からなかったが、記憶の中の摂の胸板よりもずっと厚くて硬い。すっかり成長した幼なじみの体格にドキドキして、アキの意識は急に覚醒した。
 布団の中でもぞもぞ動くと、サイドテーブルに置いてあった本にぶつかり、頭の上におちてきた。『百人一首解説』と書かれた本は、アキの蔵書ではない。手にとり、仰向けになって中をパラパラめくっていると、有名な歌に目がとまった。
「千早ぶる…神代もきかず、龍田川」
 摂が起きないように、小さい声で音読していたつもりだったがきこえていたらしい。笑い混じりの低い声が、続きをそらで詠みあげた。
「からくれないに 水くくるとは。…もう起きたのか、おはよう」
「おはよ…」
「よく眠れたか」
「うん。でももうちょっとだけ」
 離れようとした摂の体を抱きしめて、上目使いに見上げる。
「おねがい」
「わかった」
 昔から、摂はアキのお願いに弱かった。じっとみつめて懇願すれば、大概のことは溜息ひとつで許してくれる。
「これ、百人一首やんな。どんな内容なんやろう」
「アキがこういうのに興味を示すなんて、珍しいな」
「知り合いに同じ名前の人間がおるから、かな」
 言ってからしまった、と思った。摂は、千早と面識があるどころか、殴り合った仲なのだ。
 アキの表情でそのことを思い出したのか、少し不快そうな表情で、摂が吐き捨てる。
「浅草のあの男か」
「トイレから戻ってきたら殴り合ってるし、びっくりした。何やったん、一体」
「…あいつが、殴らないと気が済まないようなことを言ったから殴った」
「全然分からん。ちゃんと説明して」
 さきほどと同じように、抱きしめて下から覗き込むように見つめたが、今度は摂も目を逸らして応じない。
「あんなやつに、千早なんて名前は勿体ない」
 ぼそりと言った言葉にアキは敏感に反応した。
「どういうこと?」
「バーは、あの男のものなのか?」
 質問に質問で返されて、アキは眉を寄せながら返事をする。
「いや、倉之助さん――千早の祖父がやってる店。千早とあのバーは同い年なんやって。これが頑固なジジイでなあ、献身的に介護してくれてる孫に、ありがとうも愛してるも無いねん。一回ぐらい言うたったらええのに。店はおれの全てだった、とかかっこつけてなあ、ほんっま面倒くさいヤツやで」
 憤懣やるかたないといった様子で話すアキを見て、摂がほほえんだ。
「それが答えなんじゃないのか」
「え?」
 枕の横に置いてあった本を寝ころんだまま拾い、頁をめくる。アキとは違う、訓練や業務で少し荒れた摂の手。仰向けになってふたり、本の中をのぞきこむ。
「……この歌、そんな意味があったんや…」
 深くて静かな感動が胸の中におりていく。
「ああ。だからあいつの祖父は、『千早』と名付けたんだろう。バーの名前と繋がっているんだ」
(なんて遠回しな愛情表現だ!あのジジイ、柄にもなく)
 内心口汚くののしりながら、アキは泣きそうになった。一刻も早く、千早にこの事を伝えたい。どんな顔をするだろう、おどろくだろうか、それとも恥ずかしがるだろうか。
「なあ、昨日なんで来てくれたん?」
 抱き寄せられた胸の中で問いかけると、摂はあきれたような顔をして言った。
「誕生日だろ、十二月二十五日」
 すっかり忘れていた。医師になってから、忙しすぎてまともに誕生日を意識したことすらなかった。
 自分自身ですら忘れていた誕生日を覚えていた上に、会いに来てくれたことが嬉しくて、アキはぎゅうぎゅうと力をこめて摂に抱きつく。「こら、やめろ」と慌てた声が降ってきて、笑いながら顔を近づけた。
「そういやそうやったなあ。ありがとう、覚えててくれて」
「プレゼントを渡したくて」
 ベッドサイドに小さな包装箱が置いてある。驚きで、思わず箱と摂の顔を交互に見つめた。
「万年筆だけど、今は電子カルテだからいらないかな」
「そんなことない。うれしい。いつの間に買ったん、そんな」
「星野についてきてもらって、きのう買いに行った。でもそのときに携帯を落としてしまって」
 高揚していた気持ちに、影が差す。ただの身勝手な嫉妬だとわかっているのに、気持ちは暗く沈んだ。
(やっぱり、昨日はせいちゃんと一緒にいたんや。ふたりで選んだプレゼントを、やさしい摂は持ってきてくれたわけか)
 想いを伝えることも、ましてや叶えようだなんてことも、アキは既に諦めている。それでも、摂が他の誰かに心を惹かれていることを感じるのは、この上なく辛かった。自分ではダメだと分かっているのに、優しくされると期待しそうになる。嫌われていないのなら、と希望を抱きそうになる。
(もう来ないでほしい。優しくされると、おれはいつまでも摂を諦められない)
「謝るってあの失望したってやつ?そんなんええのに。…実際、好みのタイプやったらすぐ寝てしまうのは事実やし、失望されても仕方ないよ。気にすんな」
 指を伸ばして鼻をつまむと、アキ、と咎めるような声が落ちてくる。
「いつから、そんなことをしてるんだ」
「そんなことって、気が向いたらいろんな人と寝ること?大学入ってからかな。医学科におるとき知り合った人にいろいろ仕込まれて。今やどんな男も五分でイかせられるテクニックの持ち主やで。……試してみる?」
 目を細め、誰しも魅入られてしまう淫らな笑みを浮かべながらアキが囁く。くちびるが顎にふれるか触れないかの距離で、息を吹きかけるように。
「どうしてそんな風に、自分を貶めるんだ」
 見下ろしてくる摂の眼に浮かんでいるのは、意外にも嫌悪や怒りだけではないようにみえた。アキが大嫌いな同情なども見当たらず、そのかわりにわずかに感じられたのは、欲情じみた切望だった。
「貶めるも何も。おれははじめっから今まで、ずーっと地べたにおるんやから」
「アキ」
 いたましいものを見るような目で、摂はアキをみつめた。その視線がますますアキをいじわるな気分にさせてしまうことを、彼は分かっていない。
「手か口、どっちでされるのがすき?」
 手のひらで服の上から股間を撫で上げると、摂は驚いたようにベッドの上で身を引いた。早い動きだったが、わずかに硬くなっているのが分かって、アキはニヤリと笑った。
「清廉潔白そうにみえて、摂も男やなあ。反応してるよ」
「やめろ!」
 肩を掴んで引き離された。摂が立ち上がり、ベッドからおりる。
「今日はきてくれてありがとう。でももう来るな」
 後ろ姿に呼びかける。声がすこし震えていた。
「おれはもうお前の知ってる三嶋顕じゃないし、お前も、おれが知ってる幼馴染の六人部摂じゃない。偶然再会できてうれしかったけど」
 ドアの前で立ち止まっている後ろ姿は、沈黙したまま動かない。
「もう、こっちを向くな。優しくするな。いつまでも過去に囚われるのはやめろ。前だけ向いていけばいい」
 広い背中が身じろぎする。無表情な横顔が、ゆっくり唇をひらく。
「じゃあ、いまここにいるアキは、なんだ」
 大股に近づいてきた摂に、肩を掴まれ揺さぶられる。
「抜け殻か?違うだろう!」
 強い眼が、数センチ先で怒りに燃えている。
「過去に囚われているのはおれじゃない、アキだ。あの日、あいつが死んだせいか。あんなの忘れろ、クズを絵に描いたような人間がひとり、この世から消えただけだろう」
「それでも……!」
 そのせいで、摂がひとごろしになったんじゃないのか。おれのせいで、聡さんは死んだんじゃないのか。声に出してしまいそうになり、絶対言えないことに苦しむ。あの男が落ちて死んだとき、自分は部屋にいた。音がして飛び出したら、摂が落下した遺体の側で立っていた。そして男の手から何かを奪い、逃げるように立ち去ったのだ。
「あのとき、あいつの手から何を盗った?」
 摂の顔から色が失せる。
「アキ……気づいて、なかったのか」
 首を振る。うわごとのような声で、なんのこと、おしえて、摂、と呟く。
 立ち上がった摂が、暗い表情をしたままアキを見下ろす。またくる、そう言って立ち去る後ろ姿を、アキはベッドの上で、しゃがみこんだまま見送った。
 何か根本的な勘違いをしているような気がした。頭の中で、思い出せ、よく考えろとアラームが鳴る。
 義父の転落死、現場に立っていた摂、死体のてのひらから消えた何か。
 不審な点が多数あるのに、警察から追及されなかったのは何故なのか。
(気付いてなかったのか、って、どういう意味?)

 

 

 クリスマスが終わり、年末年始がやってきた。酒を飲む機会が増える時期は、それだけ急患も増えるのが習わしで、アキをはじめとした救急科のメンバーは、連日休み無しで働いていた。
「もう大晦日とか。おっそろしいぜ」
 佐々木が溜息をつきながら休憩室のソファにどっかりと座った。隣にアキが腰掛けると、やっとその存在に気付いたように、片方の眉を上げる。
「今日お前休みじゃなかったか」
「よく言いますよ。オンコールで呼び出したの先輩でしょ」
「こりゃ失礼。いやーお前がいると助かるわ。毎度おおきに」
「変な発音やめてください。おれねえ、何がイヤって、いい加減な関西弁が一番腹立つんですよね。ドラマとか映画とか、ムリなら標準語使えばいいのに無理に関西弁のキャラ出して。しかも大体お笑い担当のお調子者か、空気読まないバカ。あれってすっごい失礼ですよね。関西にだって、面白い事一つもいえないまじめで根暗なキャラだっているんですから」
「六人部隊長のことみてえ」
「ちょっと、摂はそんなこと………ありますね」
 二人で顔をあわせてゲラゲラ笑う。
 飲酒運転に起因する車三台を巻き込んだ事故が発生したのは、三十一日に日付がかわってすぐのことだった。呼び出しがかかるかもしれないな、という予感めいたものはしっかり的中して、枕元に置いてあったスクラブを手早く身にまとい、コートを羽織って車に飛び乗った。最近乗る機会が減ってしまったミニクーパーSが、唸り声を上げて抗議していた。
(ドライブもまともにしてない。もうちょっと乗ってあげないとな)
「はあ。最近忙しすぎてまともに運転もしてないですよ、おれ」
「たまには遊びに行けよ。どうせ家に閉じこもって根暗に論文でも読んでんだろ、お前のことだからよー」
 血に濡れたスクラブ(救命センターの救急科はみんなこのユニフォームだ)を脱ぎ、新しいものに着替える。いちいち更衣室にいくのが面倒だったのでその場で着替えたのだが、佐々木の咳払いと乾の遠慮のない視線にしくじったなあとアキは思った。
「三嶋先生、今日はアレですかあ、年末だからサービスタイムみたいな感じっすか」
「だからお前は顔が近いって言ってるだろ。出前頼んだのか、腹減ったぞバカ野郎」
「はいはい。師長はうな丼ですよね。佐々木先生は――上うな重でおれも上っと。うっわ、三嶋先生ちくびピンク色なんですけどエッロ。いくら積んだらセックスさせてくれます?」
「どこ見てんねん蹴っ飛ばすぞ、さっさと食いもん持って来い!」
 いいながら乾の尻にとび蹴りをお見舞いする。佐々木が服を着ろ、と慌てて新しいスクラブを持ってきて押し付けてきたので、しぶしぶそれを身に着けた。身長はアキのほうが高いが、身幅は佐々木の方が上なので、どうしてもブカブカしてしまって着心地が悪い。
「三嶋先生、それ着てるほうがエロいよー、なんか彼シャツみたいジャン」
 コーヒーを買うついでに寄ったという当直の産科医、永井に冷やかされ、唇を尖らせる。
「どうしたらいいんだよおれは!」
「愛されてますねえ、三嶋先生は」
 師長が的外れな言葉をのんびりと述べる。海野をはじめとしたスタッフが、いっせいに笑った。

「も~食堂休みなのはおれのせいじゃないっしょ。ええとー、うな重の人ォ~」
 年末の休みで病院内の食堂も開いていない。意識不明の重体で運ばれてきたドライバーの後にも重症者の搬送が三件あって、アキをはじめとしたスタッフは全員、年明けをオペ室の中で迎えてしまった。
「あ、やべ。こんな夜中にうな重やってるわけなかった」
「そういえばそうね…ああ、私疲れてるのかしら」
「というわけでピザにしました」
「年越しそばとかねえのかよ!」
「あけましておめでとうございます。言い忘れてた」
「ほんとだ、おめでとう」
「そういえば忘年会もできなかったですね、今年呪われたように忙しかったですから」
「三嶋が当直の日は特になあ。お前なんかついてんじゃねえの?」
「失礼な。乾!さっさとピザ頼め、それかお前がピザ焼いてここまで持って来い!」
「なんつー横暴ですか」
 不眠のハイテンションで声が大きくなるスタッフ達をわらうかのように、救急隊からの受け入れ要請が入ってくる。今日のコーディネーターは本来佐々木だが、たまたま近くにたアキが連絡を受け、内容を確認しながらメモを取る。会話に耳を澄ませる牧田師長と看護スタッフたちは、すでに病床の確認と受け入れ準備の体制に入っている。
「患者は四十代男性、製造現場で機材に巻き込まれて右腕、右大腿部を損傷。JCS三〇〇、呼吸浅薄、脈拍一四〇、血圧七九‐四〇」
 佐々木と、自席で休んでいた井之頭部長が、同時に「受け入れろ!」と叫ぶ。
「由記大付属救命センター、受け入れ可能です」
 アキの返事を待たずに、スタッフ達はそれぞれの役目を果たすべく動き出す。アドレナリンが全身に巡って、眠気と疲れを忘れさせる。
 立ち上がり、首をならして迫りくるサイレンの音に全身で備えた。

 スタッフを酷使することは地域医療の質を低下させることにつながる。そう言ってはばからない井之頭センター部長の尽力もあって、他の救命センターに比べると「丸二日眠っていない」などの事態は少ないが、年末年始にかけてはそうもいかない。勤務日やオンコール(待機日)のみならず、休日も返上して働き続けているうちに、一月も半ばに差し掛かってしまった。
(激務に翻弄されて、携帯電話も確認できへんかったな)
 ようやく休みがとれるようになって、自宅に帰る道を歩きながらスマートフォンを操作する。仕事用の電話は病院から配布されているので、ますます個人持ちの携帯からは遠ざかってしまうのだ。
「千早?」
 着信履歴を見て驚いた。昨晩、『生野千早』からの着信が四件も続いてかかってきている。
(今日の夜、店で倉之助さんと一緒に会うはずやのに。なんで…)
 アキの本当の父親を店に招待したいという申出が、祖父からあった。そう伝えてきた千早と日程調整をして、一月十六日の今日、店に行くことになっていたのだ。自宅療養となってから経過は順調だと聞いていたが、少し緊張しながら電話をかけた。
「もしもし、千早か。三嶋です、どうした」
『………アキ、ごめん。約束は果たせなくなった』
 立ち止まる。冷たい朝の風が吹いて、アキから体温を奪っていく。
『じいちゃんが昨夜、死んだ』
 周囲の音が遠ざかり、一瞬、無音になる。真っ白な世界に閉じ込められたように、目の前が見えない。
『遺言書があってさ。遺産のことだけじゃなくて、葬儀のこともこまかく書いてあんの。おかげで、泣いたり落ち込んだりしてる暇全然ないんだ。やれあの芸人を読んであれをやらせろだの、あのミュージシャンにこの曲を演奏してもらえだの、おれにあの曲を演奏しろだの。呼び出すの無理だろっていう人にも片っ端から連絡してさ、あさっての葬儀にきてくれないかって依頼してて。いまやテレビにひっぱりだこみたいな人もいるんだけど、何故かみんな絶対行くって言ってくれるんだよ。忙しいくせに』
「倉之助さんらしい……」
 やっとでてきた言葉は、尊敬と寂しさが入り混じり、掠れていた。
『ほんとに。湿っぽいのがイヤなんだってさ。…アキ』
「ん?」
『来てくれる?生野倉之助をしのぶ会』
「行くよ。何があっても。仕事で遅くなってしまうかもしれないけど、必ずいく」
 今一人インフルエンザで欠員が出ていて、規定の休日以外は休暇が取れない。それでも、早く抜けることぐらいは今のスタッフ達ならさせてくれるだろう。
『なんか賑やかで、これが葬式かよって思われそうだけど』
「したいように、してあげたら」
『うん』
 葬儀の場所を聞き取り、慌てて手帳に控える。会場は東京のこじんまりとしたライブハウスで、何度か千早がそこでジャズライブをしたことがある場所だ。アキも数回、聴きに行った事がある。
『じゃあ、明後日』
「千早、」
『ん?』
「何かできることがあったら、なんでもいって」
『ありがとう』
 電話が切れる。千早の声は明るくて、はりつめていた。糸が切れてしまったときにどうなるのか心配で、話がおわってもしばらくの間、アキは携帯を見つめて立ち尽くしていた。
(倉之助さんのお酒、一回も飲まれへんかった)
 薄暗い冬の空から冷たい雨が降ってきて、容赦なく街とアキを濡らしていく。
 鼻先に、髪に、雨が落ちてくる。

 

 

 葬儀の日、アキは仕事をなんとか早めに抜け出し、電車に揺られて会場に向かった。葬儀というよりもむしろ、送り出す会なので喪服でなくていい、と千早に言われていたが、黒いロングコートの下には礼服を着て、黒い革靴を履いた。電車の車窓にうつった自分の姿は、まるで烏のように黒づくめだった。
 時計を眺めると、既に開始時刻を三十分ほど過ぎている。遅れることはあらかじめ伝えてあったが、最寄駅からの距離もじれったくて履き慣れない革靴で会場まで走った。途中、何人か会場に向かうらしい人物が、同じように慌てているのを横目に見ながら、上がった息で受付を済ませる。葬儀の受付というよりも、ライブ会場のチケットもぎりのようにラフな人物が二名、長テーブルの中からマジックを差し出し、メッセージカードのようなものに記名を求めてくる。汚い字を自覚しているアキは、ことさらゆっくりと丁寧に名前と住所を記載した。
「何を飲まれます?」
「は?ええと、どういう意味ですか」
「会場内はワンドリンク制なんです。といっても、この瓶ビールかシャンパンか、ワインしかありませんが」
 テーブルの下を見るとなるほど、クーラーボックスの中に大量の酒が置いてある。戸惑いながらもシャンパンを頼むと、フルートグラスの中に目一杯、モエを注いで手渡された。
「ヴーヴクリコもありますけど」
「いえ、こちらで結構です」
「コートをお預かりしますね。こちらがクローク番号です、帰りに受付で渡してください」
「ありがとう」
 会場を間違えたかな、と考えたが、入口のところには確かに「生野倉之助を偲ぶ会」と書いてあったはずだ。首を傾げながらもライブ会場特有の重い扉を開くと、中は別世界だった。
 ステージには、かつてバーに立っていた頃の倉之助がシェイカーを振っている姿や、客と談笑している姿がモノクロで映し出されている。会場にところ狭しと並べられた椅子には隙間なく人が座っていて、酒を片手に笑い声をあげていた。
「アキ、こっち」
 千早に手招きされて、会場に座れず立っている人の間をすり抜けて最前列に座る。檀上では、テレビでレギュラー番組を何本も持っている落語家が、倉之助との思い出を笑い話にして打ち明け、会場の中は笑いと、時折鼻水をすすりあげる音が聞こえる。
「ああ、佐倉師匠。あの人ね、売れない頃しょっちゅうじいちゃんにタダ酒飲ませてもらってたんだって。さっき挨拶にきてくださって。よっぱらって、家に泊めてもらった事もあるんだって涙ぐんでた」
「そうなんだ……」
 ひときわ大きな笑い声が上がる。すべて倉之助の話だった。一文無しで腹が減り過ぎて、食い逃げしたときに身元引受人になってくれたことや、ツケをためすぎて一週間店でタダ働きさせられたこと。売れてから金を返そうと尋ねたら、叱り飛ばされて「その倍、下のモン食わしてやれ」と怒鳴られたこと。それでも気がすまずに何かしたいと申し出たら、「じゃあ一番高いキャバクラに連れていけ」と言われて一晩で五十万使ったこと。その後二人とも酔いつぶれて財布をすられ、道路の側溝にはまっているところを通りすがりの人に助けられたこと。アキも聴いているうちに、声を上げて笑ってしまった。
 その後もステージには入れ替わり、立ち代わり芸人や、ジャズミュージシャン、手品師等が上がって芸を披露する。今や一流の人間ばかりなのに、ちっとも気取ったところやエラそうなところがない。会場の中は笑いやあたたかい雰囲気に満ちていて、葬儀というよりもパーティのようだった。
(年齢も性別もバラバラやけど、確かにこの人たちは倉之助さんの友人や)
 隣に座ってステージを眺めていた千早も、涙を流すわけではなく微笑んだままグラスを傾けている。
「あ、次おれの出番だ」
 立ち上がり、ステージに上がった千早が挨拶をする。
『本日は、祖父のためにお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。みなさんを見ていたら、本当にじいちゃんは愛されていたんだな、と感じて…今、私はすごく幸せです』
 拍手と口笛。がんばれ!という野次が飛んで、千早が微笑む。
『最後に、祖父からこの会で演奏するようにと指示があった曲を、演りたいと思います。――somewhere over the rainbow』
 ピアノの前に千早が座ると、会場から、チェロを抱えた者、ヴァイオリンを右手に持った者、ギター奏者、ウクレレ奏者に何も持たないものが続いて檀上へと上がっていく。
 前奏。ウクレレとギターとピアノが、聴き慣れたフレーズを柔らかく奏でる。チェロ、それにギターがそこに加わって、千早がマイクに声をのせた。沢山の問題を抱えた千早の内面が、才能を通して宝石になり、まばゆい光りを放つ。まぶしかった。これまで聴いた、彼のどんな歌よりもあたたかく、切ない声だとアキは思った。
 虹のどこか彼方。
 本当にそんな場所があるならば、これだけ沢山の人に愛された倉之助はきっと、そこで蒼い鳥とともに穏やかに暮らすことができるだろう。
 鳴りやまない拍手喝采の中、千早が手を振り、頭を下げる。総立ちになった会場の中には、従来の葬式にあるようなしめやかさも、哀しさもない。あるのはただ、もう会えない故人を惜しむ気持ち、寂しさだけだ。
 立ち上がって手を叩きながら、まだ泣かずに笑っている千早の心を、アキは想った。

 

 

 会場の片づけが業者の手で終わっても、千早はホールの真ん中に立ったまま動かなかった。さきほどまで無音で流れていた倉之助の映像もなくなり、暗いホールの中にはわずかな灯りしか残っていない。
「撤収終わりました」
 スタッフらしき男性が、遠慮がちに千早に声をかける。ごめんなさい、と謝った彼に対して、いいえ、と笑い返す。
「ここのオーナーも、倉之助さんには恩がありますから。今日一日は、気が済むまで使ってください」
「ありがとうございます」
 ドアが閉まる。
「帰らないの?」
 会場の端で、腕を組んだまま千早を待っていたアキが、後ろから声をかけた。
「うん、もう少し。アキ、かえってなかったんだ」
「思い出したことがあったから、伝えたくて」
 黒く塗りつぶされたホールの中央、千早が立っている場所に近づく。隣に立つと、彼はやや疲れてはいたが、泣いた形跡がないことが分かる。
「ちょっと前に、千早、聞いたろ。『どうして、おれにそこまでしてくれるんだ』って。あれな、おれも昔同じことを言ったことがある。聡さん…いつも、父親みたいに面倒みてくれた、摂のお父さんに」
 赤の他人のはずなのに、本当の父親のように接してくれた聡。まだうんと小さい頃、聡のことも摂のことも信じきることが出来なかった頃、問いかけたことがあった。

『なんで、おれにそこまでしてくれんの』
 ご飯をごちそうになりながら、不意にアキは(これが同情ならたまらない)という強い羞恥心が湧いてきて、強い口調で尋ねた。
「なんや、やぶらかぼうに」
 目を丸くする聡と、コロッケ冷めるで、と隣から声をかけてくる摂に、アキはなおも言い募った。
『同情してくれてんの、それとも何か目的があんの、なんでなん、聡さん』
 箸を置いて、向かいの摂と微笑みあった聡をみて、アキはますます頑なになる。
(どうせ、おれは赤の他人や。聡さんは摂のもので、摂は聡さんのものやろう)
 かわいい末っ子をみるようなやさしい眼で、聡がアキをみつめる。そして口をひらくと、あっけらかんと『恩返しや』と笑った。
『アキは、摂の大事な人やから、だからおれも大事にするんや』
『理由になってへん!』
『なってるやろ、そのままやんか。なあ、摂」
 隣からのぞきこんでくる摂は、さも当然だろうというように歯を見せて笑っている。
『そうやで。なんでわからへんの、アキ』
 聡が立ち上がって、椅子にすわっているアキの横にしゃがみこむ。
『摂は、おれのこどもで宝物。一番大切な人』
 隣で「ウワー、きもちわる」と呟く声が聞こえて、アキは唇を噛んだ。うらやましくて、憎かった。この深い愛情を、当たり前のように享受できる摂が腹立たしかった。
『その一番大切な人が、一番大事にしてる人をおれも大事にしたい。なんでかって、おれもそうやって育ってきたから。おれのことを本当に大事に想ってくれた人が何人かおって、それでおれは大きくなった。生きてくることができた』
 目が合う。聡の眼は、澄んでいてとても美しかった。やさしく笑ってから、聡はアキを抱きしめた。隣から、摂も「お父さんだけずるい」と言いながらアキの背中に抱きついてくる。
『だから、アキがもしもそのことに……思う必要ないけど、申し訳ないとかどうしていいのか分からんとかおもってんねやったら、いつか誰か別の人に渡してあげて欲しい』
『…わたす…?』
『うん。抱きしめるのもいいし、側にいてあげるのもいいな。誰かにいつか、アキの愛を渡してあげて。友愛でも、恋愛でも、情愛でもなんでもいい。大事な人はみんなつながってるから。そうやってつながって、いつかその先でアキが幸せになってくれたら。それが、おれの目的なんやで、アキ!』

 涙が頬を伝っていく。思い出しながら、そういうことだったのか、と気付く。
 もう、聡の深い愛情に報いることはできるないのだと思っていた。絶望していた。
 けれど、違ったのだ。
 突然泣いたアキを見て、千早が目を見開く。
「あのときの答え。千早、おれは恩返しをしてるんだ」
「恩返しって……意味わかんないよ」
 俯いてしまった千早に、涙をぬぐってからアキが言う。
「まだ、じいさんに愛されてなかったって思うの?」
「今更そんな話ききたくない」
 苛立ったように、千早が背中を向けてホールを出る。アキは追いかけて、構わず続けた。
「店の名前って、The Autumnだよな。千早が生まれた時に一緒に名づけて、店と千早は同い年なんだって聞いた」
「それが、何」
 振り返らずに、千早が応じる。高台に位置しているためか、ガラス張りになっているロビーからは夜空と、東京の街の灯りが無数に見えた。
「ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」
 突然和歌を詠みあげたことを不審に思ったのか、ようやく千早が怪訝な表情で振り返る。
「これ、秋を詠った歌で、百人一首の中でも有名な一首なんだ。ちはやぶる、っていうのは荒々しいとか、猛々しいとかそういう意味なんだけど、じいさんはこの歌が好きでさ、ここから千早という名前をとったんだよ」
 千早の暗い、涙すら浮かばない眼が、点滅するように光る。
「全てだったと。あの店がおれの全てだった、そう伝えてほしいって言ってた」
 『あの店』は、千早のことだ。秋を意味する歌と、そこにかかる枕詞の「千早」。遠回しで、まだるっこしいけれども、これが倉之助にとって精一杯の「愛情表現」だった。

「………っだよ、ソレ……」
 はは、と力無く千早が笑う。そして、ふるえる手で顔を覆った。
「ガラじゃないだろ…ロマンティストかよ、くそじじい」
 指の間から、涙が落ちる。ボタボタと、止めどなく落ちていく。
「バッカじゃねーの、死んじまってからそんな、クソ!おせーんだよ!」
 正面から、千早を強く抱きしめた。昔、聡がアキにそうしてくれたように。
「おれだって、だいすきだった。じいちゃんさえいれば、ほかに何もいらなかったのに」
 腕が、ゆっくりとアキの背中にまわって強く抱きしめ返す。次から次へと嗚咽混じりに落ちてくる涙が、アキの礼服の肩を、髪を濡らした。
「アキ。……おしえてくれて、ありがとう」
 鼻声で、髪の中にささやきかけるように、千早が言った。アキは笑って背中をポンポンと叩く。

(聡さん、みてるかな。愛でも恋でもないけど、おれは今少しでも返せてるかな)

「ほんま、世話のやけるジジイとクソガキやわ」

 ガラスの向こう、夜空をみつめる白い頬を、涙が伝って落下する。
 その軌跡を追うように、窓の外で一筋の星が流れて、落ちていった。

 

 目の前に差し出された封筒に、部長の井之頭は訝しげにアキを見上げた。
 二月に入り、今年の最低気温を更新した夜だった。当直中に、ふたりきりになれる時間帯を見計らって声をかけた。
 救急救命科室の中で最も見通しのいい、大きな机に腰掛けている井之頭は、大柄で座っているだけで迫力がある。
「なんだ、これは」
「来たばかりなのに、申し訳ありません。一身上の都合で、辞めさせて下さい」
「一身上の都合などという理由では、受け付けられないぞ。ちゃんとした理由を聞かせてもらおう」
 低い声はいつも無駄のない、最低限の言葉を口にする。鋭い視線に、アキは掠れた声で返答する。
「私がここにいると、近々、ご迷惑をおかけすることになりますから」
「不思議な話だな。まだかけられてもいない迷惑のために、先んじて君をクビにしろというのは。一体、どういう迷惑だ」
「マスコミが殺到するような系統の、迷惑です」
「それは確かに医療行為に支障をきたすな。君は、実は俳優かなにかで、近々電撃婚でもするのかね?そういうことなら確かに蜂の巣をつついたような騒ぎになりそうだが、あいにく私はテレビを見ないのでそういったことには非常に疎いんだ」
「いえ、そういうわけではなく」
「釈然としないな。そんな理由では了承できない」
「………」
「だんまりか。話にならないぞ」
 これは返す。きちんと理由を説明してもらうまで、その先の話はしない。
 井之頭は封筒を手に取り、アキの胸元に押し付けた。スクラブにぶつかった紙が、かさりと音をたてる。
「部長」
「迷惑の度合いにもよるが、君の能力と天秤にかければ、ある程度なら許容できる。多少の騒ぎは私がなんとかしよう。ただし勘違いするな。君のためではなく、患者のためだ」
 扉をあけて出ていこうとする井之頭に、後ろからアキが縋りつく。
「待ってください。私は、本当は」
 全て打ち明けてしまおうか。そう考え、口を開いたと同時に、救急車のサイレンが聞こえてきた。搬送だ。
 スクラブの上に着た白衣に封筒を突っ込む。アキは救急車専用入口へ、井之頭は処置室へと走った。到着した救急隊は中央署の摂の隊で、ストレッチャーを押しながら、成一がバイタルを告げる。
「あとは任せて」
 成一、摂と目を合わせてからアキが頷く。スタッフが一斉に処置室へと流れていく中、後ろから声をかけられた。
「三嶋先生、何か落としましたよ」
 振り返り、息が止まった。
 辞職願とかかれた封筒を拾い上げ、手渡そうとして成一が固まる。あわててひったくって周囲を確認したが、幸い誰にもみられてはいなかった。
「ちょっと、先生それ!」
「摂には黙ってて」
 低い声で、耳元でささやく。
「お願い」
 さらに反論しようとした成一に背を向けて、アキは処置室に消えた。