25 ピース オブ ケイク(三嶋 顕の過去Ⅶ)

「もうすぐ、お父さんが帰ってくるの」
 ほづみの言葉に息が止まった。当然のことだった。一生刑務所に入れておくことはできない。刑期を終えれば、必ずまた戻ってくる。だからこそ、アキは当時引っ越しを主張したのだ。母であるほづみは決して首を縦には振らなかったけれど。
「もう、嘘つくのやめたら」
「なんのこと言ってるの」
「あいつが父親じゃないこと、とっくに知ってるから」
 そもそもの話題は、進路相談だった。
 高校三年に進級したことで、受験や進路の話がいよいよ現実味を帯びてきたのだ。アキの通う進学校の文理科は、毎年百パーセント進学で、うち八十パーセントが国公立の大学へ行く。入学金や入試のお金はなんとかためようと思う、と言ったほづみが、「京都の大学にいきたいから、一人暮らしをする」とアキが言ったとたんに、黙りこくってしまった。

「何言ってるの、お父さんは」
「これ。戸籍謄本見た」
 ダイニングテーブルに、アキが薄い紙を投げる。
 目に見えて青くなったほづみが、恐ろしいものをみるような目で、アキを見上げた。
「どうやって……!」
「あの男は誰?認知してないだけで父親やとか言うなよ。血液型的にそれはありえへんねんから」
 あの男の血液型はO型だ。母のほづみはAB型で、ふたりのこどもだとしたら、A型かB型しか生まれない。
「おれはAB型。調べたから間違いない。あの男は誰。おれの本当の父親って、誰なん?なんであんな奴を、そこまでかばうんや。散々ひどいことされてきて、なんで!」
 窓が風でガタガタと揺れた。昼間に摂が言っていた、「台風が来るんやって。今日明日は、天気があれるらしい」という言葉をぼんやりと思い出す。
「大学に行くのはかまわないわ。そのためのお金も、がんばって用意する。でも…下宿させることはできない。あなたをここから出すわけにはいかないの。この場所から…」
「どういう意味?」
「あなたのお父さんと、そういう約束をしているから」
「お父さん?遺伝子上の父親ってこと、それとも」
「お父さんは、お父さんよ」 
 そう言ったきり、ほづみは何も話さなくなった。
 どれだけアキが説得しても、諭しても、無駄だった。

 摂の竹刀さばきを見ていると、心が静まる。
 背筋がピンと伸びていて、ためらいのない打ち込みをする彼は、三年になると主将をつとめるようになった。
(誰かを指導するなんて、向いてないと思ってたけど)
 手合わせが終わると、後輩に静かな声で注意点を伝えている。的確で冷静な指導は意外にも、後輩受けがいいらしい。
 全員そろって挨拶を終えると、摂がアキのほうへと走ってきた。夏が終わろうとしている今でも、やはり胴着は相当暑いらしく、袴は汗で色が変わっている。
「おつかれ」
「お疲れさま。珍しいな、どうした」
「ちょっと話したいことがあって。一緒に帰ってもええかな?」
「ああ。少し待ってくれるか」

 摂の年上彼女は、東京の大学へ進学したらしい。
 いわゆる遠距離恋愛だが、摂はそのことをまるで気にしている様子はなかったし、相手もそのようだ。月に一回、彼女が実家に帰りがてら、会いに来て、翌日になれば下宿先の東京へと帰って行く。
 寂しくないの、と訪ねたアキに、摂はまじめな顔でこう言った。
「東京と大阪なんか二時間半やぞ。それに、月に一回会えるし」
(その答えを聞いたとき、うれしいと思った自分がすごくイヤだった)
 彼女と遠距離恋愛になったことで、登下校以外にも、共に時間を過ごすことが増えた。彼女に遠慮をしなくなった、というのもあったし、当初敵視していた白石が、あれ以来きわめて誠実に、根気強くアキや市岡と一緒にいるのを見て、摂がその中に混じってくるようになったのだ。
「今日、白石と市岡は?」
「二人ともバイト。だから、おれは休み」
「なるほど」
 摂が入部している剣道部は室内競技なので、サッカーや野球のように真っ黒な日焼けはしていないが、毎朝走っているせいで健康的な肌の色をしていた。
 精悍さと静けさのある摂の顔立ちが、アキは好きだ。どれだけ眺めていても、飽きるということがなかった。
「あんまりじっと見られると、困る」
「あ、ごめん。日焼けしたなあと思って」
「夏、親父と散々釣り行ったからな」
「おれも行ったけど、全然やけへんねんなあ。あーあ。おれもこんがりしたい」
「食パンやないねんから」
 制服に着替えた摂がふきだす。
 薄暗い通学路を歩きながら、くだらない話をした。
「私は食パンになりたい」
「貝やろ」
 肝心の話を言い出せずにいると、団地の入り口についたところで、摂がアキを振り返り、言った。
「もうすぐアイツが帰ってくるんやな?」
 その目には迷いも、弱さも全く見あたらない。
「うん。…京都の大学受けようと思ってるって話したんやけど、それも反対された」
「なんで」
「わからん。約束がどうとか…」
 ほづみの言った「約束」は、義理の父ではなく、遺伝子学上の父と結んだものではないか。
 彼女の頑なな様子と、堅い意志がそう感じさせた。
 確固たる理由や証拠があるわけではなかったが、彼女がこの場所を離れようとしないのも、あの男をかばうのも、そこに原因があるのではないかと感じはじめていた。
「来月センターの出願やもんな」
「そうやねん。ゆっくり説得してる余裕は、もうなくて」
 団地の中にある公園のベンチに腰掛けた。こんな話は、お互いの家では出来ない。
「アキ、ええから京都の大学、受けろ。お前やったらセンターの点数なんか余裕やろ?」
 摂が肩をつかむ。布越しにも伝わってくるほど、その手は熱い。
「バイト代、貯めてるんやろ。こっそり受けて、こんなところ出て行ったらええねん。大学の学費はがんばって特待生取って…そうやな、生活費の分だけでも奨学金がいるか。理系の学部は忙しくて、バイトできへんこともあるって聞くし。もし借りるんやったら、親父に保証人頼むから。第三者が無理やったら、今は保証会社って手もある」
「でも、摂は?」
「さすがに大学までは、アキと一緒は無理や。学力が違いすぎる。でも、がんばるよ。おれ、なりたいもの見つけたから」
(摂がいてくれるだけで、目の前が開けていく。もうだめだと思ったとき、いつもそうだった)
「うん、そうやな、そうする。なあ、」
「ん?」
「摂のなりたいものって、何?」
 困ったように目をそらして、摂が立ち上がる。ベンチの前をうろうろ下後で、「笑うなよ」と言って憮然とした顔をあげた。
「約束する」
「医師になりたいねん」
 さすがにこれにはアキも驚いた。今まで、一度もそんなことを摂の口から聞いたことがなかったのだ。
「え、ちょっとごめん。なんで?」
「理由はちゃんとあるけど、親父に口止めされてて」
「聞きたい。そういえば、聡さんのことで前、言い掛けてたことあったよな?最近聡さんが、って言い掛けて、やめたこと。あれが関係してるんじゃないの?」
 さすがアキ、記憶力がいいな。そう言ってため息をつき、再びアキの隣に座る。頼りない街路灯の明かりの中、不安げな摂の横顔が浮かび上がった。
「実は、何年も前から親父は、心臓の調子が良くない」
「…ほんまに?」
 記憶をたどると確かに、その事実を示す事象がいくつも思い当たった。乾いた咳、動悸や息切れ、悪い顔色。なぜ、今まで気付けなかったのだろう。
「悪いの?なあ、聡さん、具合はわるいの?」
体が冷たくなるほど動揺しながら聞き返す。
「狭心症って言って、ふつうは生活習慣病を原因なんやけど。心臓の血管が狭窄して…」
「本で読んだことある。虚血性心疾患やんな…原因は、動脈硬化やけど、動脈硬化は過労によるストレスでも進行するっていうよな」
「そうなんだ。…会社は順調なんやけど、独立してから軌道に乗せるまで相当無理して働いてたみたいで。休みをとれって、ずうっと言うてきたけど親父はあのとおり、頑固な人やから」
 絶対にアキには言うな、と口止めされてたから。秘密にしててごめん、と摂は苦しそうに言い、頭を下げた。
「こっちこそごめん…そんなこと、全然しらんかった。気づきもせんかった。摂、つらかったよな、苦しかったよな。力になれんくて、助けてもらってばっかりで、ほんまにごめん」
 突然抱きつかれた摂は、驚きで固まっていた。
「おれにできることがあったら、何でも言って。どんなことでもするから。摂と聡さんのためなら、なんでもする。心臓がいるんやったら、おれのをあげるから。だから絶対、助けが必要なときは言って」
 アキの言葉に、摂の体が震えた。両腕が、助けを求めるように強く、アキを抱きしめ返す。
「ありがとう。その気持ちだけで、これから先もやっていける」
「勉強なら多少、力になれるから」
「頼りにしてるよ」
 言葉少なく家路を歩く。大学行きを反対されてから、再び母との関係が悪化していたアキは、摂の「うちでご飯たべて帰るか」という言葉に飛びついてしまった。
「電話だけ入れとき。親父は今日も帰り遅いから、二人やけど」
「うん」
 リビングで二人、並んで食べたのは、形の悪いお好み焼きだ。ホットプレートで焼いたので、火力も足りなくて頼りない味がした。
 テレビでは、悪徳商法に引っかかった人を助け出す、というドキュメンタリー番組が流れていた。こんなものに引っかかる人間がいるのか、という思いで時折流し見ていると、摂が麦茶を飲みながらつぶやいた。
「こんなん、引っかかる奴おるか、って思うやろ。でもな、病気の家族とかおったら分かるわ。胡散臭くても怪しくても、なんでもいいねん。万が一にも効果があるかもしれん、助かるかもしれんって思ったら、なんでもしたいって思う。そこにつけ込んでるんや、こういうのは」
 静かな声は、抑えた怒りを感じさせる。アキは摂をのぞき込み、じっと見つめた。
「医者なんか、なれるやつはごく一部やって分かってる。何千万も学費払われへんから、国立しか無理やし……少なくとも一浪はせな無理やと思う。でも、こういうのに縋る前に、出来ることをやりたい。知識で、技術で、同じ思いをしてる患者を、家族を、一人でも救いたい」
「立派やな、摂は」
 心のそこからそう思った。
「そうでも思ってないと、勉強してないと、おかしくなりそうで」
 目が合う。不安で、寂しさで、恐怖で、その目は揺れていた。いつもまっすぐで強い摂。いつも前を見て、手を引いてくれた摂。
 今こそ、彼のために役立てる時だ。
 自分が生まれてきたのは、きっとこのときのためだった。
「じゃあ食べたら早速、勉強しよ」
「うん。弱音吐いてる暇なんかないよな」
「そうや」
 ちょっとだけ、ごめん。
 そういって、摂がアキの肩にもたれかかってくる。額を首にこすりつけるようにして、座ったまま抱きつかれ、アキは、心臓が飛び出すのではないかと思うほどに鼓動が高鳴ってしまった。
 どれぐらいそうしていただろうか。
「た、他人に勉強教えるようになって、ますますコツがつかめてさ。伝授したるから。合格にはとにかく過去問やで。二五年分のやつあるから、それ解いて解いて、解きまくれ!」
 緊張のあまり、何か話さなければ、と思い、はずれた声で叫んでしまう。
「何赤くなってんの、その顔はまずいで」
「まずいって言われても…」
「そういう可愛い顔は、外で絶対すんなよ」
「かわいい!?」
 クスっと笑ったのが聞こえて、肩にある摂の頭をつかむ。両手がアキの顔を包んで、すぐそばでじっと顔を見られた。
「人をからかうな」
 恥ずかしさと気まずさで、目をそらしてしまう。
「からかってへん。本音や」
「そういうのは、彼女にゆったれよ。喜ぶぞ、おまえ普段そういうの、絶対いわなさそうやし」
「言わんな、だって思ったことないもん」
「酷いな」
「かわいいとか、きれいとか、思ったことないよ。――アキ以外には」
 驚いてのけぞってしまう。顔が、風邪でも引いているかのように熱い。
「すごい、真っ赤」
「変なこと言うから」
「変てなにが。本音やけど」
 いつもの淡々とした口調とは対照的に、視線が、声が、じっとりとした熱を帯びている。小さいささやくような声なのに、耳の奥をくすぐるような甘さがある。
「もし、お互いに第一志望の大学に通ったら」
 視線が絡まる。今度ははずせなかった。縫われたように、お互いから目が離せなくなる。
(どうしよう、触れたい。触れてほしい。頭がおかしくなりそう)
 指で摂の頬をなでる。彼の指も同じようにアキの頬に触れた。おそるおそる、壊れ物にふれるみたいにそっと、指が頬をなでて、唇にさわった。
「ただいまー!!あれ、アキもきてんのかあ?」
 玄関から、酔った素っ頓狂な聡の声が聞こえてきて、慌てて飛び退く。
 はかったようなタイミングに、二人ともついつい、笑ってしまった。

「公務員試験も受けようかとおもってる。実は、すでに願書送ってるねん、来週から試験始まる」
 九月に入ってすぐ、下校の最中に摂が言った。
「大学に万が一滑ったら、公務員やりながら考えようかなって」
「でも、それやったら医学部はいかれへんやろ?」
「保険やな。おれが自立したら、親父もちょっとは休み、とるかなって」
「大阪市とか府とかそのあたり?」
「あと裁判所事務官とか…ちょっと遠い市町村も受けてみるつもり」
 公務員試験には、居住条件などは特にない。小さな市町村ならともかく、政令指定都市や中核都市ではコネ採用など一切ない。筆記試験と面接結果さえよければ通過できる。
「そーかー…おれは公務員絶対無理やわ、向いてへんとおもうし」
「アキは確かに向いてなさそう」
 摂が笑う。
「せっかく剣道やってるんやし、警察受けたら?」
「うーん。警察は考えてないけど、消防はええかなって。いろいろ調べてみたら、救急隊のほうやったら医療にも携われるみたいやし」
「体、鍛えやなあかんな」
 さすがの摂も、九月に入る頃には部活を引退していた。台風が過ぎ去った後の、抜けるような深い青空を見上げる。残暑はまだ続いていたが、八月のようなべったりとした暑さはすでにない。
「親父に反対されてるねん」
 空を見上げていたアキの隣で、摂がつまらなさそうに言った。
「あの人、自分で金借りて大学行って、会社立ち上げたからな。おれには公務員になって、安定した生活をおくって欲しいねんて。なんか医者っていろんなしがらみとか人間関係とかややこしいらしくて。まず医大うかるのが死ぬほど難しいと思うねんけどな。なんでか知らんけど、なった後のことめっちゃ心配してるわ」
「聡さんなら言いそう。愛されてるなー」
 アキの言葉に、摂は不服そうに顔を背ける。
「そうかな」
「そうやで」
 手のひらを空にかざす。人差し指と中指の間から、飛行機雲がゆっくりと先へ伸びていく。まだ五時を過ぎたところなのに、空の端があわく沈み始めていた。短くなった日が、季節の移り変わりを伝えている。
「なあ摂。最初から、全部正解が分かってたら。問題解くの楽しくないとおもわへん?わからへんことがあるから、世界中の研究者は一生懸命知ろう、理解しよう、周知しようとするわけやんか」
「それは…結局、金もうけのためやろ?分かった理論や新しい発見で、金をもうけるためにやるんやろ?新薬の開発だって、そうや。患者数が多い病気に焦点を絞って研究されてるのは、結局そういうことやろ」
 声をあげて笑った。あまりにも楽しげにアキが笑うので、摂まで笑顔と困惑を混ぜたような不思議な表情になった。
「アホやなあ。金だけのために、そこまで頑張れるわけないやん。彼らはただ、純粋に知りたいんや。宇宙のなりたちから物質の構成まで、まだ世界に知られていない自然の凄さを、謎を、ただただ知りたい。だからな、あの人らって、くたびれた格好してるけど、目はすっごい子供みたいに輝いてるよ。楽しいから。わからへんのが、楽しい。わからへんことが分かるのって楽しい。生きるのも同じやとおもわん?」
「それは…。でも、誰だって失敗したくないやろ。将来の選択を間違えたら、大変なことに」
「ならへん、ならへん。遠回りにはなるかもしれんけど、一回も失敗も挫折もしてない奴より、何回かおっきい失敗してる奴のほうが絶対いいって。どの道を選んでも、リスクはついて回る。最初から完璧で失敗のないルートなんかない。だから、一つずつ選んで、がんばって乗り越えるしかないけど、どうしても一人じゃきついわってときは…」
 摂の前に立つ。すでにアキよりも、数センチ背が高くなっている摂に、得意の笑みを浮かべた。
「おれが側におるよ。いつでも助けるし、力になる」
 見つめる。
 視線が絡んで、ぶつかった。
 不思議な光を宿した摂の目が、じっと見返してくる。
「それ、おれが、昔言ったやつやろ」
「いつやっけ?」
 わざととぼけると、摂は少し憮然としながら、言った。
「アキと、はじめて喋ったときや。ほら、まだ小学生のころに、変態に誘拐されそうになったことあったやろ、あのとき」
「うん、ちゃんと覚えてるよ。あのころは、摂や聡さんに助けてもらわんと生きてこられへんかった。でも今は、ちょっとは強くなったと思うねん。だから…世界中がおまえを殺しにきても、おれだけはおまえの味方や、摂」
 風が強く吹いて、摂とアキの髪をぐしゃぐしゃにして通りすぎていく。摂の指が伸びてきて、アキの顔にかかる髪をそっとかきわけた。
「摂、泣いてんの」
「泣いてない」
 こどもの頃。
摂の小さな手のひらがアキの冷たい手を包んだ日から。聡の大きな手がアキの頭をなでて、やさしく抱きしめてくれた瞬間から。
 二人のために、自分の全てを捧げると決めたのだ。
 届かなくてもいい。
 報われなくてもかまわない。

 九月が終わった。
 公務員試験も一段落して、摂はますます勉強に打ち込んだ。高校の図書館には一人分ずつ仕切られた勉強ブースがあって、摂は毎日、夜の七時までそこにいた。
 アキは、週に一回河川敷で勉強を教えていたので、摂よりも少し早く図書館を出て、白石と合流した。

「三嶋、なんかいいことあった?」
 白石の言葉に、すっかり髪を黒くした三井と、以前よりもずいぶん落ち着いたゆりしーこと仁木が、小屋の中で問題集から顔をあげた。
「なんでそう思うの」
 淡々とした声で、アキが返す。白石はおもしろそうに続けた。
「なんとなく。毎日、たのしそうだからさ」
「あーたしかにー。みしまっち最近めっちゃ可愛い顔で笑うー」
 三井がふざけてアキを指さす。
「ええからおまえはさっさと問題を解かんかい」
 少し照れくさそうにそう言ってから、アキは三井の頭をちゃぶ台に押しつけた。
「なあ、白石ーここってこんでええの?」
「仁木さん…なんで三嶋には「くん」つけるのにおれは呼び捨てなの」
「はやく見てよ、白石」
「くうーっ…おれだって女の子にはまあまあモテてきたのに。三嶋のせいでおれの価値が下がっている気がする。ええと、うん、合ってるよ」
 しばらく顔をみせなかった仁木が突然、「私本気で勉強する、看護師になるねん」と言い出したときは、アキも白石もびっくりした。理由をきいて、もっと驚いた。
「子供を堕して、入院してた」
 あり得ない話ではなかった。仁木は、避妊もせずに頼まれれば誰とでもやる、と噂になっていた。三井も白石もアキも、何度も彼女を止めようとしたが無駄だった。彼女は無計画で、破滅的だった。
「日帰りでは無理な月数やった。――お医者さんはすごい冷たかったし、相手の男は逃げるし、親には殴られるし最悪やってんけど、看護師さんが…看護師さんだけは、やさしかった。辛かったね、つらいときはつらいって泣いていいんやでって言ってくれた。わたし、人殺しやのに。赤ちゃん殺したのに。だから、単純って思われるかもしれんけど、私も看護師になりたい。看護師になって、誰かに必要って思われたい」
 泣きながら言った仁木の肩を、アキはそっと抱いた。
「がんばるときの理由なんか、単純でええんよ。――つらかったなあ、よく、がんばった」
 俯いていた仁木が顔を上げ、抱きついた。三井と白石はひたすらおろおろとしていたが、アキには、仁木の気持ちが痛いほどにわかった。
 誰かに大切にされたとき。
 愛されていると感じたとき、はじめて人は自分を大事にすることができる。それが星屑のように一瞬しかみえない、小さなものでもいい。本当の輝きさえもっていれば、胸に抱えて道しるべにすることができる。
(そういう意味では、人ってめちゃくちゃ健気で、いじらしいなあ)

「キャー!三嶋くんがじいっとこっちみてくるー!」
 半年経って、表面的にはすっかり元気になった仁木が、うれしそうに悲鳴をあげる。理由は説明せずに、アキは微笑んで彼女の頭を撫でた。

「やっぱ、三嶋のこと好きだわ、おれ」
 悔しそうに、ため息をつきながら白石が言うので、アキはいつもの落ち着いた口調で返事をした。
「そうか、残念や」
「言うに事欠いて残念ってなんだよ、残念って」
 街灯のオレンジ色の下で、白石が笑う。暗くなった夜空は曇っていて、星のひとつも見えない。
「おれは白石に感謝してる。関わってくれて、好きになってくれてありがとう。おかげで、変わることができた」
 遠くで、電車の走る音がきこえた。団地へと向かう道に人通りはなく、暗い。危ないから、という理由で、白石はよくアキを家まで送ってくれた。
「なあ、今なに考えてるか、わかる?」
「わからん。多分ろくでもないことやろ、エロいこととか」
「正解」
 歩道橋を登る。下を通る幹線道路を眺めていると、白石の指がアキの髪に触れた。
「さわりたいなあ…キスだけでいいんだけどなあ」
「声に出てるぞ」
「やっぱ、だめか。だよな、だって三嶋は」
「ええよ」
 距離にして五十センチほどの近さで、アキが言った。
「なんかすごい空耳した気がする」
 このヘタレが、と思いながらアキは白石の前に立って、その高い身長の上にある顔を眺めた。ダークグリーンの美しい眼が、驚きと期待に揺れている。
「キスしよ、白石」
「空耳じゃなかったの!え、なんで、どういうこと」
「だから、それであきらめて友達になってくれ。おれ、摂のことが好きやから、おまえとはつき合ったりできへんけど。尊敬してるし、感謝してるから友達になってくれたらうれしい」
「……」
 沈黙が流れる。視線からは、感情がうまく読みとれない。
「はじめて、ちゃんと言ってくれたなあ」
 かすれた声で、白石が言う。
「六人部のことが好きだって、知ってたけど。そんな風にはっきり言ってくれたこと、なかったから」
「そう、やったかな…。ごめん、おれ無神経で。そういうのよう分からんねん、どう気を使ったらええかとかも。だからそのまま言ったけど、迷惑なら取り消す…」
 最後まで言えなかった。白石が、抱きしめて唇を重ねてきたからだ。
 はじめて触れた他人の唇は、不思議な感じがした。想像したような気持ち悪さも、いやらしさもなかった。柔らかくて熱くて、気持ちいい。
 頭を抱えられ、下唇を甘噛みされる。合わせた胸から、白石の早い鼓動が伝わってきて安心した。
 車の音も、周囲の音もなにも聞こえない。時間にすれば、数秒ほどのことなのに、ひどく長く感じた。妙に時間の流れがゆったりとしていて、終わってからもしばらくぼうっとその場に立ち尽くしてしまう。
「そんな無防備な顔してたら、もっとしちゃうぞ。きもちよかった?」
 切なそうな男の表情で、白石が言う。
「うん。はじめてしたから比較対象ないけど、たぶん」
「まじかよ!ファーストキスだったの!?」
 声を上げている白石を置いて、アキはさっさと歩道橋を降りる。考えてみたら、こんなところでキスなんか危険極まりない。団地に住んでいる人間は、みんなこの歩道橋を通るのだ。
「三嶋ぁ、ちょっとまってって、おれ勃起しちゃってさ。いまお巡りさんに見つかったら結構やばいんだけど」
 広い団地の敷地に入ってしばらくすると、アキが突然立ち止まり、自分の部屋のある方をじっと眺めた。
 窓越しに、影が見える。
 二つの影が、近づいたり離れたりしていた。
 間違いない、帰ってきたのだ。

(とうとう、きたか)
「――白石」
「ん?」
「ここでええよ。ありがとう」
「どしたの、急に」
「また明日、学校でな」
 一方的に会話を終わらせてから、アキは走った。
 今度は、ただ見ているだけでは終わらせない。

 自宅のドアを開けた途端、男の大声とほづみの悲鳴が聞こえてきた。まさに今殴られようとしていたほづみの前に飛び込むと、男の拳が鈍い音をたててアキの頬をうった。
 殴られても、アキは怯まなかった。両手を広げてほづみの前に立ちはだかり、燃えるような眼でにらみ返す。
「やめろ。これ以上やったら警察呼ぶぞ。また刑務所戻りたいんか」
 地をはうような声にも、男は動じず鼻で笑った。
「はっ、泣かせる親子愛じゃねえか、なあ!ほづみ、おまえまだ本当のこと言ってねえのか?おれがムショに入ったら、困るのはおまえだもんなあ。四年も連絡がとれねえで、さぞ心細い思いをしたんじゃねえのか、あ?」
「なんのことや」
「…やめて」
 細く、途切れそうな声でほづみがつぶやく。意味わからず、アキはほづみを振り返って問いかける。
「なあ、なんのことなん!」
 男の手が伸びてきて、アキの胸ぐらをつかみ、床に引き倒す。
「てめえのおかげでくせえ飯食わされて、本当なら殺してやりたいところだけどよお…。その容姿、これから商売道具にしねえといけねえからなあ。軽く蹴るだけにしといてやるよ」
 容赦のない蹴りが飛んできて、アキはうめき声をあげた。視線だけを動かしてほづみの様子を確認すると、フローリングに座り込んだまま爪を噛み、か細い声で「やめて…もうやめて」といいながら泣いていた。
「教えてやれよ、ほづみ。なあ、アキ、てめえはスペアなんだぜ」
 しゃがみこみ、ニタニタとした笑みを浮かべながら、男が言った。
「スペア…?」
「いざってときのためにとっておかれたスペアで、金づるで、そこのバイタがおまえの父親と連絡をとるために必要な道具なんだよ」
「やめて!もうやめてよ、出て行って」
 悲鳴に近い大声でほづみがすがりつくのを平手打ちで黙らせてから、髪を掴んでアキの前へと突き出してくる。すでに青ではなく白くなってしまったほづみの顔色や言動から、男の言葉が真実であることを察して、アキは声を出せずに眼を見開いていた。
「いまだって今までだって不思議だったろ?なんで警察を呼ばねえのか、なんで引っ越さねえのか。簡単な話だよ。このバカ女は、いまだに待ってやがんのさ。来るわけねえのに、おまえの父親が迎えにくんのをよお」
 目の前にほづみの顔があった。
 涙と、鼻血でよごれていても、それでも美しく疲れた母の顔は、小刻みに震えていた。
「こいつは母親のくせに、子供よりも男を選びやがったんだ。バカげてるよな!ソープ上がりの淫売が、代議士先生の息子なんかと結婚できるわけねえのに!んなこと火を見るより明らかだってな」
 いいながら腹が立ってきたのか、髪を掴んだまま食器棚へとほづみの顔をたたきつける。
「やめろ」
 アキがその腕を掴んで止めれば、男はますます楽しそうに笑った。
「ああーいい息子だよなあ。それにひきかえ、おまえは本当にクソみてえな親だよな?いつまでたっても母親になれず、女であることを優先してよお…アキ、おまえは可哀想だなあ。警察なんか呼べやしねえぜ、この女が止めるからな」
「うそ…うそやんな。なあ、嘘やんな?」
「…許して…もう、許して」
「お母さん!」
 久しぶりに「お母さん」と呼ばれたほづみは、びくんと震えてからアキを見た。だがその視線は、恐ろしいものをみたかのようにゆがんでいた。
「やめて…やめてよ!わたしに母親を押しつけないでよ、いい子供のフリなんてしないでよ。あなたが生まれたから、あなたのせいで私は、こんなところまで逃げてこなきゃいけなかったのよ!!」
 耳障りな笑い声が部屋中にこだましていた。男が、心底おかしくてたまらない、というように、大声でげらげらと笑っている。
「そうだよなあ、ほづみはそういう女だよ。だからおれが刑務所にはいって一番困ったのは、おまえだよなあ。おれがいないと、男と連絡がとれないからよお」
「アキ、あなたさえいなければ…私はあの人と一緒にいられたのに。あなたさえ生まれてこなければ、こんなことにはならなかったのに」
「じゃあなんで、なんで産んだんや、殺してくれたらよかったのに!」
「もう堕ろせなかった、それに、あの人が産んでくれって言うから」
 嗚咽混じりの言葉のあまりのひどさに、絶句する。
 なんてひどい女だ、ひどい女には罰を与えねえとな。浮かれた声でそういった男が、ほづみの胸ぐらをつかみ、テーブルの上へと突き飛ばした。すでに用意されていた夕食がけたたましい音を立てて床に落ちていくのを、アキは呆然と眺めた。
――足下が、崩れていく。
  信じたい、信じようと思っていた。少しずつでも変わってくれると信じていた。

  全部嘘だった。
  はじめから、全部、嘘だったのだ。

「おめえは若い頃のほづみよりも綺麗なツラしてんなあ。ほんと、約束守って高校まで我慢してよかったぜ。今から稼いでもらわねえといけねえからな」
 顎を掴む指の汚らわしさに寒気がして、とっさに振り払う。――すぐに男の拳が飛んできて、床に転がった。
「金がかかんだよ、おれぁよ。クスリの金も遊ぶ金も、これからはおまえの体で稼いでもらわねえといけねえんだ。安心しろよ、ちゃーんとその筋の人に、ふさわしい値段で売ってやるからな。おれが仲立ちして、おまえにも少しは分けてやるよ。ありがてえだろ?」
 おまえの裸の写真、すげえ需要があったんだよ。
 本番させてくれるならいくらでも払うって変態、わんさとキープしてあるからな、楽しみだろ。
 口笛がきこえる。男だ。体のいたるところをかきむしっているのは、覚醒剤の禁断症状の現れだった。
 体を強く掻きながら、ほづみを殴り、家の中をあさって金を探している。アキは、冷たいダイニングのフローリングに寝そべったまま、心が、少しずつ死んでいく音をきいていた。

(わかってたはずやのに。なんで、こんなにかなしいんやろう)

 ただ、家族だというだけで。血がつながっているというだけで、愛に満ちた生活を共に送れるなんて思っていたわけではない。そんな幻想は、こどものころに打ち砕かれた。
(でも、実の母親にまったく愛されてなかったなんて…)
 悲しい。
 少しぐらいは、愛されて生まれてきたのだと信じたかった。
 望まれて、祝福される生であってほしかった。
 かなしくて、空しくて、苦しくて
――もう全部、どうでもいい。
(あいつがいなくなれば)
 激しい怒りで、手が震えた。目の前で金をせしめて出て行こうとしている男の後ろ姿を見ながら、アキはゆっくりと立ち上がった。
(殺してやる)
 追いつめられていた。傷つきすぎた心はもう、ほかの手段を考える余裕すら奪って、破滅の方向へとアキを駆り立てていた。

「スペアってどういう意味?」
 団地のドアを出た階段の踊り場で、後ろから男に声をかけた。クスリをうったのか、その眼はうつろで焦点が定まっていない。
「さっきの話かあ?おまえのことだよ」
「だから、それはどういう意味かって聞いてるんや」
 男が舌打ちをしてから、頭を振る。
「そのまんまだろうが。おまえの父親はなあ、子供のできにくい女と結婚したんだよ。政略結婚てやつで、ほづみに比べたらとんでもねえぐらいのブスだけどな。だから、最初から保険かけてやがったんだよ」
「保険?」
「あっちこっちに種をまいて、万が一ブスに子供ができなかったら、一番優秀なやつをとってくる、って寸法さ」
 階段を一段ずつ降りて、男の前に立つ。
「じゃあ、おれを売ったら損やんか。多分、おれが一番優秀やろ?」
 気付かれないように。余裕の笑みを浮かべて、アキは男に近づいていく。クスリがキマっているせいか、男は気付かずに続けた。
「おれもほづみもそう思ってたさ。でもなあ、残念なことに、できたんだなあ」
 ポケットに手を入れる。ビニールのかさかさとした感触が、手のひら二伝わってくるのを確認して、その端をさぐってぐっと握りしめた。
「できた?」
「息子ができたんだよ。ブスと、先生の間にな。ちょうどおれが刑務所に入ってすぐの頃だよ。だから、てめえもほづみも用済みバイバイってわけだ。あの女はちょっとここが狂ってやがるから、何回説明しても理解しやがらねえけど」
 頭をゆびさしてヘラヘラと男が笑った。
「…そうか。おれには今四歳の、弟がおんのか」
「おまえとは正反対の、いーい暮らしをしてるガキがいんだぜ、傑作だよなあ!」
 むせるほどの大笑いを、今すぐに黙らせたかった。
 アキは腕をのばして、男の首を両手で掴み、ぐいぐいと締め上げた。とっさのことに男は声も出せず、手足をばたつかせている。
「ぐ、ぐう…」
「殺してやる。おまえなんか死ね、今すぐしんでいなくなれ」
 親指が食い込んでいく。口の端から泡がこぼれて、男がぐるんと白目を剥いた。あと少し。あと少しでこの男を殺すことができる。殺して、糸でつり下げて…自殺だと言い張ればいい。
 ばれるかもしれない。日本の警察は優秀だ。そのぐらいのことはアキにも分かっていた。でも、もうどうでも良かった。
 この男が自分の目の前から、人生から消えてくれれば後のことはどうでもいい。指に力を入れて、そう、とどめをさしてしまえば――
「なにをしてるんや!」
 あと一歩のところで、聡が部屋から飛び出してきてアキの腕を掴み、男から引き離した。男はずるずるとしゃがみこんで震えている。殺されそうになったことが、信じられないようだった。
「邪魔しやんといて、こいつを殺さな、こいつがおるかぎりおれは」
 聡が肩をつかみ、強く揺さぶった。
「しっかりしろ、ええか、人を殺したら、殺したおまえも一緒に死ぬんやぞ!――あんたもそんなとこにおったらまた締められるで、早く逃げ!」
 男がおぼつかない足取りで逃げていく。追いかけようとしたアキを、聡が後ろから羽交い締めにして止めた。
「死んでもいい。しんでもいいから、もう邪魔しやんといて」
「アキ…っ」
 さらに言い募ろうとした聡が突然、胸を掴んで苦しみ始め、踊り場に倒れた。
「聡さん!?」
 助けを求めて大声をあげる。だがアキの住んでいる団地の棟は、夜勤の者が多く夜間はだれもいないことが多い。家に戻って救急車を呼ぼう、と決めて立ち上がったところで、摂が飛び出してきた。
「お父さん!どうしたん、いったいなにがあった」
 風呂に入っていたのか、摂の髪は濡れていた。
「どうしよう…どうしよう、おれのせいで」
「泣いてたらわからん、アキ、救急車は?」
「今から、今から呼ぶ」
「おれが呼んでくるから、ここにおって。薬も持ってくる!」
 摂が部屋へと飛んで戻っていく。胸をおさえてくるしんでいる聡の側で、アキはうろたえながら声をかけることしかできない。
「聡さん、聡さん」
 手を握り、背中をさすった。痛みと苦しみで汗を流している聡が、かすれた小さな声でアキの名前を呼ぶ。
「アキ、…ごめんな」
「やめて、謝らんといて。悪いのは全部おれやのに」
「…、頼む…」
「え?」
 耳を寄せる。
「摂を…たのむ。手紙、おいてる…台所の、ひきだし」
 小さな声だったが、確かにこう言った。言い終えると、聡はぐったりと意識を失ってしまった。

 弔問客が絶え間なく訪れるせいで、摂はまだ泣けずにいた。
 聡は遠方に住んでいる兄しか身内がおらず、喪主もその男がつとめた。摂からすれば伯父にあたるものの、今までに数回しか会ったことがなく、ほとんど他人も同然だ。鼠のように鼻をひくひくさせている、落ち着きのない男で、青白い顔で親族席の近くに座っているアキを、何度もちらちらと眺めてきた。
「六人部…」
 聞き覚えのある声に、遺影を抱いて俯いていた摂が顔を上げた。
「三嶋も。…このたびは、なんと申し上げたらいいか…」
 中学の時に担任をつとめていた、松浦だった。当時はまだ頼りない若者然としていた雰囲気がすっかりなくなって、落ち着いた声で、痛ましそうに二人をみつめている。
「できることがあれば、なんでもいってくれ。ずっと、おまえたちのことは忘れたことがなかったからな」
「来て下さって、ありがとうございます」
 懸命に声を絞り出し、摂が頭を下げる。
「いつでも、連絡してくれていいから」
 名刺のようなものを握らせ、松浦が去っていく。アキはその後姿をぼんやりと眺めた。それから、斎場に飾られた聡の、生きていた頃のやさしい笑顔に視線を移す。
『アキ、一緒にごはんたべよ』
 そういってくれるときの笑顔に、そっくりだった。 
 涙が出そうになって、必死でこらえる。
(摂が泣いていないのに、おれに、泣く資格なんかない)
 聡が息を引き取った夜、病院の暗い安置所で摂に言われた言葉が頭をよぎり、息ができないほど苦しくなった。

(返してくれ)
 涙を浮かべながら、決して流すことはせず、摂は静かな声でそう言った。

(お父さんを、返してくれ、返せよ!)

 聡の亡骸を目の前にして、アキも、摂も泣けずにいた。
――本当に悲しいときは、涙なんか出ない。

 すっかり冷たくなった風に、首をすくめる。
 センター試験の結果から、アキは進路を変えた。もともとは薬学の研究者を目指そうと思っていたが、聡の死に至った原因を知ってから、医学の道を志すようになったのだ。
 亡くなる寸前、聡は心室細動を起こしていた。救急隊が到着するまでCPR、つまり心肺蘇生法を実施していれば、助けることができたかもしれなかった。
(おれのせいで、聡さんは死んだ)
 ストレスを与えて発作の原因を作り、CPRできずに死に至らしめた。
(摂から、たったひとりの家族を奪ってしまった)
 自分が死ねばよかった。聡ではなく、自分が死ねばよかったのに。そう何度も何度も自分を責め、自殺も考えた。
 それでも死ぬことを実行に移さなかったのは、聡の言葉があったからだ。
 図書館を出る。一時的にすべてを忘れるために勉強に打ち込んでいるうちに、いつの間にか年が明けて、もう二月も目の前に迫っている。
 公園のベンチに腰掛け、読み過ぎて傷んでしまった封筒をみつめる。
「三嶋 顕 様」
 きれいとは言えない字、でも聡らしいあたたかみのある字だった。その宛名をみただけで、アキは涙がこみ上げてくる。
 聡の四十九日が過ぎて落ち着いてから、ようやく聡の手紙の場所を伝えることができた。そこには摂だけではなく、アキにも宛てられた手紙が二通用意されていて、葬儀では呆然とするばかりで泣くことができなかった二人は、わんわんと声を上げて泣いてしまった。
「聡さん、摂、親戚に引き取られるかもしれへんねんて」
 ため息が白く変わる。
「伯父さんに、高校卒業したら店手伝ってくれって言われたみたい。…あれからあんまり口きいてくれへんから、詳しいことはおれも知らんけど」
 遺影に手を合わせることができないので、手紙にボソボソと話しかける。夜が深まり、ベンチの側の水銀灯に灯りがともった。
 何度も何度も読みながら泣いたせいで、封筒の字も、手紙の字もすっかりにじんでしまっていた。もう読まなくても、内容をそらで言えるぐらいだった。
「辛くても、さびしくても、生きていけ。それが、おれへの恩返しだーーか。結構それって過酷やんなあ。死んだほうが楽やのに」
 眼を閉じれば、聡の声が聞こえた。
 笑顔で、手紙の言葉を語りかけてくれる聡が、いつでも思い浮かべることができた。
「おれ、医者になるよ。たくさんの人を救えるような、すごい医者になる。昔、聡さんが言ってくれたように」
 そして、摂が本当に困ったときは、助けたい。
 嫌われていることは分かっている、憎まれていることも。きっと、一生かけても償えないし、許されることもないだろう。
 それでも、誰よりも摂の幸せを祈っている。

 二月に入っても、ほづみは帰ってこなかった。
 聡が亡くなってからふらりと姿を消した母親を、アキはもう探さなかった。幸い家には多少の金が置いてあったし、週に三回のアルバイトも続けていたので、生活をしていくことはできた。
 あれから男も姿を見せなくなっていたが、それは一時的なものだということを、アキは分かっていた。
(殺されかけて相当ビビったと思うけど、このままではおわらへんやろうなあ)
 ベランダでたばこをくわえ、マッチで火をつける。聡の遺品を整理していたときに見つけたもので、摂が捨てようとしていたところを譲り受けて吸い始めたのがきっかけだった。
 未成年がタバコなんて、と咎める者は誰もいないので、キャスターマイルドの煙を思い切り肺の奥まで吸い込み、ゆっくりと吐き出す。白い煙が冬空の中に溶けて、消えていく。
 覚醒剤の禁断症状は、様々なドラッグの中でも相当強い部類に属している。ラッシュ、ハイ、酩酊が覚めれば激しい禁断症状がやってきて、その状態が一番攻撃的で危険だ。妄想や幻覚のみならず、聴覚神経が過敏になり、眠れないほどに中毒者を苛む。
 ちょうど聡が死んだ日、男はその状態だった。
 殺せないなら、せめて施設か病院にぶち込むことはできないかと、アキは覚醒剤の成分から依存症の症状まで、徹底的に調べた。
「アルコールにドラッグに暴力って。あいつ、絵に描いたような悪人やな。まあ、真相を教えてくれただけでも感謝してるけど」
 男のいっていたアキの父親、「代議士の息子」についてもインターネットや新聞記事などである程度調べたが、どうやらまだ秘書か側近の立場らしく、それらしき人物の名前は特定することができなかった。
 ベランダの柵にもたれて、そっと隣をのぞき込む。
 今日も摂は不在のようだった。
(どこにおるんやろう)
 摂の伯父は、住まいは中部地方で商売は大阪でしているらしい。手伝うのであれば、大阪から出て行くことはないだろう。
(あえなくなることはない、でも)
 それでいいのだろうか。医師になると、うれしそうに教えてくれた摂の表情を思いだし、アキは胸をおさえた。最近では、辛いときに胸をぐっとおさえるのがくせになっていた。
 いつか、この胸の痛みも消えるのだろうか。
 はじめは、煙を少し吸い込むだけでむせていた喉が、徐々に鈍感になっていくように。
 ベランダの柵の前で座り込む。冷たい風から身を守るように、自らの体を抱いて膝に頭を乗せた。

「なあ、三嶋」
「ん?」
「ちゃんと飯、食ってる?」
 いよいよ月末に二次試験を控え、やるべきことを全て終えているアキは、医学関係の専門書を読みあさっていた。
「今も食ってるやん」
「そんなジャムパン一つで、よく足りるよな」
「あとはチョコレート食っとけばなんとかなるわ」
「おいおい。よくそれで医者目指すとか言えるよ。糖尿病まっしぐらだぞ」
 公立高校は、二月にはいるとほとんど授業がなく、二次試験に備えて自宅待機するところがほとんどだ。
 アキが通っている文理科は、府内でトップの進学コースにあたるため、受験期間中も校舎や図書館は解放されており、教師も常駐していた。
 教室の中で自習しているのは、アキと白石だけではなく、市岡やほかのクラスメイト、数名が見受けられる。
「おれ図書館いって先帰るな」
「まってまって、おれも一緒にいく」
 教室を出たアキの後ろから、白石があわててついてきた。
(聡さんが亡くなってから、ずっとこうやな。そんなにおれ、ヤバいように見えてるんかな)
 つかず離れずの距離感を楽しんでいる風だった白石が、まるでアキを見張るようについて回る。嫉妬されると面倒だから、アキとは教室で話さない、と宣言していた市岡も、無理矢理アキに携帯電話を購入させて、毎日電話やメールをしてくるようになった。
「六人部、どうしてるんだろう」
 本を返却し終え、マフラーを巻いて校舎を出る。控えめな声で投げかけられた問いに、アキはため息をついた。
「おれが知りたい。…郵便物はたまってないから、たまに帰ってきてるんやと思うけど」
 赤いチェックのマフラーは、誕生日に市岡と白石が送ってくれたもので、例年よりも寒い今年の冬の愛用品だ。街へと続く坂道をゆっくりと下りながら、刺すような冷たい風に眼を細める。赤くなった頬に、艶のある黒髪が揺れながら影をつくるさまを、白石は一歩離れた距離からみつめ、みとれた。
「二月は自由登校だもんな。一月もあんまり来なかったし…心配だよな、憎きライバルではあるんだけど、やっぱりいないと張り合いがないっていうか」
「憎きライバルっておまえ」
「まあでも現在一歩リードだよね。なにしろファーストキスを奪った男だから、おれ」
 思わずこぼれた笑みに、アキははっとして手で口元をおさえた。
「やっと笑ってくれた。いやあ、長かった。三ヶ月は三嶋の笑顔見てなかったもんな。やっぱり、笑ってるほうがいいよ」
「JPOPの歌詞みたいなこといいやがって」
 すぐに元の無表情に戻して、アキが毒づく。
「もしかして、笑っちゃいけないとか思ってる?だとしたらそれ、とんでもない間違いだよ。そんなこと、何の意味もないからやめたほうがいい」
 なにも考えていなかったはずなのに、足が自然と河川敷に向かっていく。ほとんど無言で、たまにぽつぽつと会話をしながら、アキは河川敷の小屋の前から流れる川を見つめた。夕焼けの光が水面にうつって、汚いものもみすぼらしいものも、すべてが、とてもきれいにみえた。
「夕暮れ色に染まった川面、それをみつめる三嶋という、美しいシチュエーションにふさわしくないこと、きいてもいいかな?」
「…あかんってゆっても聞くんやろ」
「オナニーとかちゃんとしてる?」
 眉を寄せて白石を振り返ると、あ、怖い顔、と言って彼は笑った。
「だめだよ、出すものは出さないと。くうものはくう、出すものは出す!これ、メンタルやられないために一番大事なことだから」
「……そんな気分になれるわけないやろ。だいたい、なんやねんおまえは。犬みたいについてまわって。自殺するとでも思ってんのか」
「世界中の不幸を一身に背負ったみたいな顔してるんだから、心配するに決まってるだろ」
 白石の手がアキの腕を掴んで引き寄せる。背の高い彼の首もとに、アキの鼻があたって、その熱さと肌の感触にぞくりとした。
「そこまでやつれるほど、大切な人だったの、六人部のお父さんって」
 何もいわずに、棒きれのように突っ立ったまま、白石の言葉をきいた。返事を催促するように、白石の腕が強くアキを抱きしめる。突風が起こって、結んだマフラーの先がひらひらと宙を舞った。
「おれね、三嶋のそういうところ、すごく心配なんだ。すてきな魅力でもあると思う、でも、怖いんだ」
「そういうところ…」
 つぶやくと、白石が「なんていうか…むき出しのところ」と囁く。
「三嶋はね、心が、愛が、むき出しなんだ。どうでもいい人にはきちんとコントロールできるのに、好きな人にたいして、際限なく無防備で出し惜しみがない。ふつう人間っていうのは、たとえ相手が好きな人であってもね、無意識のうちに自分に保険をかけてるものだよ。大事な人に嫌われたときに、心が離れてしまったときに、仕方がないよなって諦められるのは、心や愛をある程度かくして生きているからだ。相手のせいにしたり、環境のせいにしたりして、上手くいかなかったときの自分の心を守っているんだよ」
 顔を上げる。眉を寄せた苦しげな表情で、白石が続けた。
「おれだってそうだ。本当は、もっともっと三嶋に色々してあげたいけど、それが原因でうざったく思われて避けられたり、嫌われたりしたら嫌だからやらない、でもそれは結局、自分が傷つきたくないだけなんだ。クソみたいにつまんないエゴだよ。でもさ、人はね、どれだけ大切な人が相手でも、エゴを捨てることができない。プライドをかなぐり捨てることだって、すごく難しいし、自分を傷つけてでも相手に尽くしたいなんて、そんなやつ滅多にいない。そう、…いないって、思ってた。三嶋に出会うまでは」
 どうしてなんだよ、と涙混じりの鼻声で、白石が呻いた。
「どうして、そこまでできるんだ。どうして、おれじゃだめなんだ。おれならきっと、三嶋を辛い目になんてあわせたりしないのに。一緒に笑って、たくさん楽しいことをして、笑顔でいっぱいにさせてあげられるのに。どうしてそんなにぼろぼろになってまで、六人部がいいんだよ」
 涙がアキの肩に落ちる。その熱い温度に、頭を殴られたような衝撃を受けた。当たり前のことなのに、生きているんだな、と感じた。目の前で、いきている白石が、赤の他人の白石が、自分のために泣いてくれている。無様に愛を請いながら、何の嘘もごまかしもないありのままの言葉をぶつけてくれている。
 嬉しかった。
 でも、同じぐらい苦しかった。
 返すことができない想いは、甘さと同じぐらい、苦さがあった。
「なあ、白石」
「ん」
「白石は、イギリスの大学に行くんやんな」
「うん。なにせ、おれの目標は国連職員だから。紛争、難民についての研究やフィールドワークは、やっぱり欧州が先進国だしね。でも、三嶋がやっぱりおれは健斗がすき、いかないで!っていってくれたらすぐにでもキャンセルするけど」
「アホ。誰がそんなこというか」
「だよねー」
 思わずもれた笑い声に、つられたように白石も笑った。
「手紙、書いたら返事くれる?」
「もちろん。Love letter from the united kingdom of great britain and northern ireland」
 突然流暢な英語で白石が言うので、アキはとうとう声をあげて笑ってしまった。
「三嶋って、手紙すきだよね。聡さんだっけ、六人部のお父さんがかいてくれた手紙、いつも読んでるし。どっちかっていうと、これからの時代は電子メールとか携帯メールが発展していくんじゃないの?」
「多分、中学のときの松浦先生の影響かなあ…なんやわからんけど、交換日記書かされたりしたし」
「三嶋が!?それ超ウケる、マジかよ!」
「大事な人には、手紙を書きたいやん。時間はかかるし面倒くさいけど、もらったときの喜びがぜんぜん違う」
 白石からそっと離れて、河川敷に座った。隣に座った白石が、わざとらしいため息をついて「かっわいいなあ、なんだよそれ」とすねたようにつぶやく。
「ずるいよな、不意打ちでそういうかわいいこというんだから。好きが溢れて射精したらどうしてくれるんだ…すきだよ」
「まいどおおきに、またどうぞ」
「ほんっと腹立つなーそのあしらいかた!」
 軽妙なやりとりに、ひさしぶりの笑顔や、感情がこぼれてしまう。 
 楽しかった。楽しくて、河川敷の上、遊歩道から二人を眺めている人物がいたことに、気付けなかった。
 摂だった。
 彼は、表情の抜け落ちた、冷たい無表情でしばらくながめてから、ふらりとその場から消えてしまった。

 二次試験が終わって、あとは結果を待つだけとなった三月。
 卒業式に関する登校以外は、ほとんど自宅待機するだけなので、アキは目いっぱいアルバイトを詰め込んでいた。
(うん、今日も郵便物、ちゃんと取られてる)
 正面の部屋の、ドアポストを確認しながら家を出る。ここのところ、摂は毎日自宅にいるようだった。
「アキちゃん、おはよう。もう、合否きた?」
「いや、まだ。多分今日やったと思うねんけどなあ」
「なんか余裕やねえ」
「医学部に受かることが目標と違うからな。おれの目標はもっと先にあるから」
「…ふつうなら、大口叩いてるアホやと思うところやねんけど…アキちゃんはやるといったらやる男やもんね。すごいわ」
 DVDの返却を手早く終えてから、レジの前に立つ。アキを目当てにしている女子高生や女子中学生が時折集団でやってきては、話しかけたり手紙を渡したりして去っていく。いつも同じ時間にやってくる映画好きの老人が、同じ映画の同じ蘊蓄を市岡に聞かせ、笑顔で頷いて同じ作品をレジに通す。
「今日も今日とて、刺激のないバイトで一日終わったわ」
「刺激のない一日、って最高やと思うけど」
「…そうかな」
「そうやで」
 アルバイトが終わり、二人で自転車に乗って帰路につく。
 午前中は卒業式の準備などで登校日になっていたので、二人とも高校の制服を身につけている。荷台に横座りしている市岡を家の前で降ろしてから図書館に寄って帰るのが、早上がりの日のアキの習慣だった。
 腰に手をまわした市岡が、背中に頬を寄せてささやく。
「おかあさん、帰ってきた?」
「けえへんなあ。どこにおるんやろ、しらんけど」
「それってネグレクトってやつじゃないの。何ヶ月もこどもほったらかしたままなんやろ?何があったかはしらんけど…絶対おかしいやん、そんなん」
「例えそうやとしても、もう高校卒業するし、大学からは京都やし、今更被害者もないやろ」
「アキちゃん」
「んー?」
「わたし、アキちゃんのことが好き」
 とっさに返事が思いつかずに、押し黙る。市岡は、自分の気持ちを確認するように頷き、アキの背中に強く抱きつきながら、もう一度言った。
「すっごいすき。だいすき。だい好きやー!……ああ、やっと言えたあ…」
 家の前につくと、市岡はひらりと自転車から飛び降りた。自転車にまたがったまま言葉を探すアキに、目を細めて笑う。
「お願いやから、覚えてて。それで、必要なときは思い出して」
 あ、と言う暇もなく、市岡の唇がアキのそれと重なる。二度目のキスは、リップクリームの匂いがするやさしいバードキスだった。

 敷地内のベンチで、摂をみかけた。
 よくないことだとわかっていたのに、あまりにも久しぶりで、嬉しくて、名前を呼んでしまってすぐに後悔した。
「アキ…」
 振り返った摂の表情は、氷のように冷たかった。まるで射るような鋭い視線にさらされて、アキは二の句が告げずにその場に立ち尽くした。
「摂、試験どうやった?」
「受けてない。…もう、夢とか全部どうでもよくなって」
「摂…」
 視線が地面に落とされて、アキも同じ場所を見つめた。清潔感のある容姿は相変わらず格好よかったけれど、ずいぶんやせてしまったせいで、鋭さが増してすごみがでている。
「店、継ぐの?豆腐屋やっけ」
「わからん。でも、ほんまは」
 かすれた頼りない声で、摂が言葉をつむぐ。アキは隣に座って、辛抱強く続きを促した。
「うん?」
「ほんまは、この街におるだけで、辛い。何みても、お父さんのこと思い出してまうから」
 胸をおさえる。
 痛い。苦しい。ひたすらに、哀しい。
「――捨てたら、ええんよ」
 嫌だった。本音じゃなかった。
「こんな街、捨てて、新しいところで生き直したらいい」
 離れないでほしかった。そばにいてほしかった。
「公務員試験、他県も受けてるんやろ。なら、こんな街も、思い出も、大した縁もゆかりもない親戚も全部捨てて、出て行って…」
 でも何よりも勝るのは――
「新しい場所で、幸せになれ」
 のぞき込んだ摂の暗い眼が、うっすらと光って見えた。生気が宿ったように、昔の、いつも一緒にいたころの摂がそこにいた。
「…アキは」
 どうするんだ、これから。そう問われているのだとすぐに分かった。
「おれは、決着をつけなあかんことがあるから」
 あの男のことだ。このまま野放しにしている限り、永遠に付きまとわれてしまう。それだけは、なんとかしなければならない。
「ただ、行き先だけは教えてほしいけどな。摂に会われへんかったら、おれたぶん気ィ狂うし」
 ふざけた言い方だったが、本音だった。だが摂は、眉間に深いしわをよせて、ぎらりとアキをにらみつけた。
「白石がおるやろう」
「あいつは、」
 イギリスの大学にいくんやで、と伝えようとしたアキの、ブレザー越しの二の腕を、摂が強く掴む。
「河川敷で、白石と…抱き合ってた。それを見ておれは、」
 見たことのない表情だった。
 黒い瞳は燃えるように強い光を放っていて、アキは眼をそらせなくなる。
(まるで嫉妬みたいな…はは、まさかな)
 突然、抱き寄せられた。
 右手で頭を抱えられ、濡れた唇が、アキのそれと重なる。体を電流が走った。甘くて激しい、狂おしいキスが、摂の唇が舌がアキをからめとり、溺れさせる。
 歯列をなぞる舌の熱さに、体がふるえた。はしたなくその舌にふれたいと思った。おずおずと舌をのばせば、摂がそれを甘く噛み、舐めて、やわらかく吸われる。
 息ができなかった。
 両腕が、心をあらわすように摂を強く抱きしめている。心臓が、急にとまってしまうのではないかと心配になるほど、強く脈打つ。白石としたはじめてのキスも、市岡とした二度目のキスも、比べ物にならないぐらいの官能が、欲情が、神経の隅から隅まで支配していく。
「…っ、せつ、摂」
 自然と声が漏れた。媚びるような、あまったるい声だ。摂が苦しそうに眉を寄せ、ますますいやらしくキスを深めていく。背中に回された手のひらが、次第にゆっくりと下がっていき、制服の、スラックスの上からなぞるように、腰を、太ももを撫でられた。
「アキ」
 低い声。耳から愛撫されているような声だと思った。
「おれは、浅ましくて、いやらしい、最低な人間や」
 吐き捨てるように、摂が言った。
 意味を問いただそうとしたアキの耳を、摂は両手でふさいでから、囁いた。
「誰にも渡したくない。誰の目にも、指にも、触れさせたくない、ほんまはずうっとそう思ってた。でもおれだけはそういう眼でみたらあかんって、我慢して、他の人を好きになれたらって…」
 頬を、涙が伝って落ちていく。
「なに、きこえへん、摂、手はなして」
「好きや。おれは、ずっと、アキのことが好きやった。たぶん一生、他の人間なんか好きになれない」
 手をのばして、摂の涙を拭った。声が聞こえなくて、でも泣いていて、アキは不安と切なさで胸がはりさけそうだった。
「側におったら、さわりたくて触りたくて死にそうになる。そういう眼でみられることが、どんだけアキを傷つけてきたか、一番しってるのはおれやのに。おれは汚い。でも目を離されへん。優しくもできへんのに、他の誰かが近づいたらそいつを殺したくなる。だから、」
「なに、なあ、なんて言ってんの」
「おれは、おまえの前から消える」
 ようやく耳をふさぐ腕を振り払って、アキが叫ぶ。
「なんでこんなこと、」
 立ち上がった摂が、背を向けて走り去っていく。
 キスで腰が抜けてしまったアキは、しばらくその場から動けずにいた。

 団地の階段を上りはじめてすぐに、気配はあった。
(あいつがいる)
 そわそわとした、落ち着きのない足音。部屋の鍵を変えたせいで、家の中に入れないことにいらだっているらしく、しきりとドアを叩いたり悪態をついたりしている。
 踵を返して、白石の家にでも避難しようか、と一瞬考えたが、やめた。万が一後をつけられでもしたら、友人にものすごい迷惑をかける可能性がある。それだけは絶対に避けなければいけない。
 俯いていた顔を上げ、一段ずつ階段を上る。
(とりあえず金を与えて…次にあいつが来るまでに、家を出よう)
 追い返し方をシュミレーションしているうちに、男が階段を降りてきて、鉢合わせしてしまった。
 血走った目と、落ち着きのない手の動きで、また禁断症状がでていることはすぐに分かった。アキが何か声を発する前に、男の手が伸びてきて首を締められる。
「よくも、やりやがったな。おまえ、マッポにチクリやがっただろう。
毎日監視されてクスリもろくに買えやしねえ」
 被害妄想を喚きながら、首を掴んでガクガクと前後に揺さぶられる。階段の踊り場にある錆びた柵に叩きつけられ、瞳孔の開ききった目が、数センチ先でギラギラと光ってみえた。
 まだ肌寒い時期に薄着の男の顔は、汗で濡れている。ツンとした中毒者独特のにおいが鼻につき、アキは首を締められながら顔を背けた。
 腰の高さ程度しかない柵に追いつめられ、上半身がのけぞる。考えられないほどの力だった。掴んでも、押し返そうとしてもビクともしない。冷たい風が頬をかすめる。下を眺めると、足がふるえた。階層にして八階、高さは一五メートル近くあり、落下したらまず間違いなく助からない。
 首を締められ、意識が遠のいていく。
 このまま突き落とされて死んだほうが、いっそ楽なんじゃないか…
 目を閉じる。

(いやだ。――こんなところで、何もできないまま死にたくない!)

 首をしめている手の甲に、骨を砕かんばかりの勢いでかみついた。痛みで悲鳴を上げ男が怯んだ隙に、鳩尾めがけて思い切り蹴りを入れる。衝撃に吹っ飛んだ男が、階段にぶつかって気を失った。
 息が上がった。ぐったりとしている男を飛び越えて、家の中へ飛び込む。スポーツバッグの中に大急ぎで旅支度一式を突っ込み、金目のものや通帳をかきあつめてチャックをしめる。
(大学の合否なんか、直接見に行けばいい。金なら貯金があるからなんとかなるし、しばらくの間、そうやな、中学ん時の松浦先生に頼み込んで泊めてもらおう。…あとは…)
 ほづみの顔がよぎる。泣いている顔。泣きながら、アキをののしっている哀しい顔。産みたくなかったと叫んだ、母親になりきれない女の顔。
(あんな女、もう待たんでよかったのに、まだおれはここにおる。愛されたことなんか一回もなかったのに。なんでおれは捨てられへんの)
 家を出よう、全部捨ててしまうと思うたびに、本当にそれでいいのか、と懊悩した。
 血のつながった家族を、捨てるのか。暴力の支配に苦しんでいる、実の母親を捨てるのか。それは、自分の父親がまさに、ほづみや自分にした仕打ち、そのものではないのか。
 たとえ自分が、父親をつなぎとめるための道具だったとしても。
 愛されたことは、本当に、一度もなかったのか。
 ただの一度も?
 記憶がないほど小さい頃でさえも?
(赤ん坊は、一人では生きられへん。だから少なくともその間は、生きてたんじゃなくて生かされてたはずや)
 自分は道具だった。ただの一度も、愛されたことない、疎まれるだけの道具だった。
 頭では分かっていても、心が拒否する。誰からも愛されずに生まれてきたという事実を受け入れるのは、存在意義の否定と同じで、心がバラバラになりそうなぐらいに痛い。苦しい。
 おそらくこの世界には吐いて捨てるほどありふれているのだろうに、そういう家族や子供には、スポットライトが当たらない。家族は素晴らしいもの、絆は大切なもの、愛は世界を救う、嘘と欺瞞に満ちた美しい言葉が、得られないこどもを傷つけ、責め苛み、殺そうとする。実際、殺されているのだ。そんな家族は、なかったことにされているのだから。
「おれは死にたくない。殺したくもない。自分の人生をただ、自由に生きたいだけや」
 頭を振って立ち上がる。荒れた部屋を見回してから、思い出してあわてて聡の手紙とタバコ、それに聡、摂と三人で撮った写真を大事に、鞄の奥にしまい込む。
 スニーカーを掃いて家を出ようとした瞬間、重いものが高所から落ちたような、ズシンという音が聞こえた。またどこかの住人がひどい夫婦喧嘩でもして、鉢植えか何かを窓から投げたのだろうか、とおもいながら部屋を出て、そっと踊り場をのぞいた。
 男の姿は、そこから消えていた。
(…なんで)
 落ちたのは、鉢植えではなかった。踊り場から中庭を見下ろすと、一五メートルほど下、古くなって浮き上がったアスファルトの上に、壊れた人形のように四肢を投げ出して、人が横たわっている。頭部は、トマトのような真っ赤な脳漿をぶちまけており、ピクリとも動かない。
 さきほどまでここで気を失っていた、男本人だった。
 震える手で口元をおさえる。落ち着くために何度か、深呼吸をする。
 落下の衝撃で頭から、全身からおびただしい量の血を流している男は、どうみても即死だった。だがアキが真に驚愕したのは、その先だ。
 血まみれの男をのぞき込むように、立っている人物がいた。
 短い黒髪、上背のある、きれいにのびた背筋。
(まさか、うそや。そんなはずない)
 彼は妙に落ちついた動作でしゃがみこみ、男の右手から何かを奪い、ポケットに入れた。
 立ち上がり、顔を上げて周囲を見回した青年は、目撃されることを恐れたのか、慌ててその場から走り去っていく。
 その横顔は――。

 ほかならぬ六人部摂、その人だった。

 男が死んでしまってから、何度か警察に話を聞かれた。ドラマのように家を訪ねてくる、というやり方を、絶えず忙しい捜査員は決して使わない。話を聞きたいから何時に警察署にきてください、と呼びつけるのが彼らのやり方であり、スタイルだ。
 アキは何も見ていない、音がしたので外にでたら、すでに男が落下していて頭から血を流していた、と何度も伝えた。警察官はドラマで見たような執拗さも、鋭さもなく、きわめて事務的で機械的な声で、何度も何度も同じ質問をぶつけてきた。Aという質問を終えたらその質問を変形させたBという質問を繰り出し、時間がたった頃に再びAという質問を投げかける、といったように、やりとりの中に矛盾はないか、ほころびはないかを見極めているようだった。
 彼らのやり口や疑いは、アキには通用しなかった。頭脳の優秀さ、という意味では、何人でかかっても適いようもなかった。徹底的な無表情や、少し哀しい表情を織り交ぜながら、同じ質問に同じ答えを返し続ける。
「もしかしたら、また来てもらうことになるかもしれへんけど」
 実際、アキは殺していないから何の証拠もないので、自白や目撃証言がなければ、いつまでも拘束しておくことはできない。胡乱な目で見られながらも、日付が変わるまでには所轄警察署を後にすることができた。
「…ねむたい」
 目をこすりながら、警察署を出る。どうやらずっと待っていてくれたらしい白石と市岡が、ぎこちない笑みを浮かべて両手を広げて近づいてきた。二人は戸惑いを隠すように「シャバの空気はどう?」とか「カツ丼って出てきた?」などと緊張感のない質問をしたので、アキもふざけて「おとうさんおかあさーん」といいながら二人に抱きついてみせたりした。
 さすがに家に帰るのはいやだろう、と気遣ってくれたのか、市岡も白石も、こぞって泊まりに来いとアキを誘った。昼過ぎから、日付が変わる寸前まで拘束されていたアキは、眠い目をこすりながらも辞退した。
「おとうさん…の亡骸は?」
「解剖に回すみたい。だから、それが終わったら直葬する」
「そっか。ほんとに、大変だったね」
「本音をいうと…死んでくれて、ほっとしてるねん」
 自分でもぞっとするほど冷たい声に、市岡が怯えた表情をみせた。彼女の常識の中には、アキや、アキの家族のような特殊な人間関係は、想定されていないのだ。そしてそんな反応のひとつひとつが、愛されて恵まれてきた優しさの反射が、アキを傷つけ、距離を感じさせる。
「佑季ちゃん、三嶋はおれんちに来てもらうよ」
「でも」
「やっぱり、女の子の家はマズいって。ご両親も納得しないとおもう」
「……わかった」
 警察署から駅までの道のりが、妙に長く感じた。疲れていたせいなのか、それとも、あまりにも全てが非現実的で信じがたかったせいなのか、アキには分からなかった。
「…しま、三嶋!」
 見慣れないドアの前で、白石が心配そうにのぞき込んでいる。
「大丈夫?じゃ、ないよな。そりゃそうだよな、ウン」
「あれっ、ここどこ」
「おれんちの前だけど。すごくタイミングがいいことに、両親は今日帰ってこないんだ」
「……帰る」
 踵を返そうとしたアキの腕を掴んで、白石が冗談だって、と笑った。
「今日は何もしないよ、こんなに疲れてる三嶋、はじめてみたもん」
「今日は、ってなんやねん、は、って。よけい不安になるわ」
「まあまあ、言葉のあやだよ、きにすんな」
 官舎だから質素でごめんね、という白石の言葉に、アキは信じられない気持ちで首を振った。おなじ公的施設でも、アキの住んでいる公営住宅とは、そもそも雰囲気からして百八十度違った。古くてもよく整備されている中庭や、磨かれた壁には、どことなく気品すら感じられる。
 ドアを開けて、白石が先に入る。 
「三嶋、おかえり」
 安心させるような、やさしい微笑みを浮かべて、白石が言った。
「なんやねん、それ。ここ、おれんちちゃうし」
「うん、それは分かってるんだけどね」
 涙がこみ上げてきて、歯を食いしばって耐えた。あまりに強くかみしめたので、ひどい頭痛がしたが、アキは、痛みをこらえてうっすらと笑い返した。そこにはどんな慰めも、優しい言葉もはねのける強い意志が現れていて、これまでの深い苦しみや、悲しみさえも凌駕するほどに、どこか不敵で、何よりも美しい微笑みだった。
 はっと息をのんだ後で、白石は困ったような笑みを浮かべた。
「…きっと三嶋はさ、間違ったことを貫いた後、いつかそれが露見しても、いまみたいに笑うんだろうな」
 アキの後ろで扉がゆっくりと閉まる。家庭のあたたかみを感じさせる、掃除の行き届いた廊下と、センスのいい家具でまとめられた白石の部屋を見ながら、不思議な感覚に襲われた。
(帰りたい)
 摂と聡がいた、あの家へ、帰りたい。
(自分の家じゃないのに。おれは、あそこに帰りたい)
―――白石と市岡の優しさが。白石の家庭のあたたかさが。
 アキを、ゆっくりと確実に傷つけ、なぶり殺す。
 持てる者と持たざる者の差を、刀傷のようにはっきりと、体と心で感じながら、アキは心の中で叫んだ。

(聡さんに、摂に、会いたい)

 本当に何もしてこなかった白石がはじめて、アキの家へやってきた。正確には、「送るよ」といって勝手についてきただけだったが、止めなかったということは、結局着いてきてほしい気持ちがあったのかな、とアキは自問する。
自宅に戻っても、人の気配はなかった。部屋の隅々まで見ても、やはり母が帰ってきた様子はない。
「お邪魔しまーす…」
 アキの後ろから、勝手に白石が上がりこむ。家の中は、警察に行く前と変わらず散らかっていた。
「何勝手に入ってきてんの」
「いや、だって。ずっと家の前に立ってるのも不審者だろ」
「まあええけど。なんか飲む?」
「お構いなく」
 ベッドに勝手に腰かけて、白石がへらりと笑った。
「なんか緊張する。三嶋ちょっと、隣すわってよ」
「嫌や。身の危険を感じる」
「ひどいなあ」
「お茶でも持ってくるな」
 自室から出て、キッチンで湯を沸かす。ついでにポストの中をのぞいてみると、大学の合格通知が届いていた。
「はいこれ」
 ベッドに座っていたはずの白石は、勝手に横になって、枕に顔をうずめている。勉強机にいれたばかりの熱い煎茶を置いて、あきれ顔で問いかけた。
「なにやってんの、お前」
「え、においかいでるんだけど。くんくん、くんくん」
「やめろっつーの、アホ」
 思わず笑ってしまいながら、アキが突っ込む。
「いいじゃん、減るもんじゃなし」
 もうほうっておくことにして、ベッドに腰掛けた。どこからともなく、ガタガタという物音と、ドアが開閉して人の出入りする声が聞こえてきて、引っ越しか何かかな、と思いながら医療書を開く。
「三嶋さあ、おれに隠し事あるだろ」
「何の話?あ、大学やったら受かってた。ほら」
 本の内容に没頭し始めていたアキは、上の空で問い返しながら、合格通知書をベッドの上に投げる。
「ちげーよ。三嶋が大学受かるのなんて分かってたからどうでもいいんだよ」
「じゃあなんやの」
「この枕からー、三嶋のシャンプーのいいにおいと一緒にー、あるにおいが検出されたぞー」
 聡の遺品である、煙草の匂いだ。顔をあげた白石が、じっとりと睨みつけてくる。
「お前~たばこすってるだろ。やめろよ、たばこは老化を早めるんだぞ。血管だって細くなるし、成人病のリスクがなあ、」
 あぐらをかいて説教を始めた白石を挑発するように、アキは机の引き出しからたばこを取り出し、火をつける。
「フン。自分の体や、毒入れようが早よ死のうが、自由やろ」
 窓をあけて、煙を外に逃がす。すっかり板についた喫煙姿に、白石が大げさに顔をしかめながら文句を言った。
「自由じゃない。医療費の負担は国民全体にのしかかってくるし。三嶋が早く死んだら、おれは悲しい」
 伸びてきたおおきな手のひらが、アキの唇から煙草をひったくる。抗議する声に耳を貸すことなく、そのまま白石は大股に歩いて、ベランダの地面で火を消してしまった。
「三日後は卒業式かー。あー、なんかあっという間だったな」
「いつ渡英すんの?向こうの大学はは九月からやろ」
「いろいろ準備があるからね。卒業式終わったら、一週間後には海の向こう」
 ベランダから吹き込む春風に、気持ち良さそうに目を細めながら、白石が振り返った。ダークグリーンの瞳が、静かにアキを見つめる。しなやかな筋肉につつまれた長い四肢と、いたずらっぽい表情を浮かべた、外国の子供のようなそばかす混じりの顔立ちは、あらためてみれば確かに人好きするだろうな、とアキは思った。
「なあ、おれがいなくなったら、さびしい?」
 四つん這いで犬のように近づいてきた白石が、ベッドに座っているアキを見上げながら聞いてきた。
「…うん、さびしい」
 本から目を離して、素直に返事をする。すると白石の小麦色の顔が、赤くなった。
「まさか、そんなかわいいこたえが三嶋から返ってくるとは」
「一回だけきいたやん、日本の大学やったらあかんのか、って」
「ああ、そういえば。あれって止めてくれてたの。…そっか、三嶋、おれがいないとさびしいんだ。そっか…」
 顔をあげて、下から抱きつかれた。その勢いで、アキは自室のベッドの上に押し倒されてしまう。
「三嶋…一回だけ、しよ?」
 手のひらが、デニムの上から太股をなでる。ボーダーのカットソーをまくり上げ、腰骨を親指で押されて、甘い声が漏れた。 
「ちょっと、白石…」
「さびしいって言ったじゃん」
 のしかかりながら、腰骨を舌で舐める。押し返そうとするアキの手のひらに指を絡めて、抵抗を封じた。
「おれがいないと、さびしいって言ってくれたでしょ」
 どこもかしこも白くてすべすべ。
 そういいながら、白石がアキの腹部に舌を這わせ、甘く噛んだ。ジーンズのボタンが外され、ジップが下ろされていく。
「やさしくするから」
「待って、おれそういうの、やったことないから」
 たくしあげられたカットソーが、首でたわむ。困惑を隠さないうるんだ眼に見つめられ、白石の興奮に火がついて、あっという間に燃え上がる。
 膝まで一気にジーンズを摺り下げられ、アキの頬がかっと赤くなった。舐めながら、吸い上げながら白石の唇が鳩尾から臍下へと移動していき、感じたことのない羞恥と欲情に、身を震わせる。
「ここ、自分でしたことはあるよね?」
 白石の手のひらが、下着の上からアキの性器をなでた。
「や、めろ…」
 声がふるえる。だがその声の中に、嫌悪は見あたらない。
「本当にやだ?」
 白石が口を開いて、布越しに性器をくわえる。形をたしかめるように、鼻先を擦り付け、舌をはわせ、甘噛みする。
「いや…」
 ベッドの上でぐい、と足を開かされ、白いシーツに、艶のある黒髪が散らばる。膝下まで下がったジーンズを足かせのようにして、足と足の間に入り込んだ白石が、いやらしく笑った。
「でも、たってるよ」
「さ、触るから…」
「うん。…三嶋、本当にきれいだな」
 そんで、やらしい。
 つぶやいてから、両手で下着をずらして、半勃ちになったアキの性器に直接触れた。指が慣れた様子で上下に動き、巧みな手技に、経験値のないアキの昂ぶりはあっというまに固くなり、先からとろとろと液体をにじませはじめる。
「ひゃ、や、やめて…!そんなとこ、さわらんといて」
 止めたいのに、快感で腰がくだけてしまって、首を起こすだけで精一杯だった。
「三嶋のこんなところさわれるなんて、見れるなんて、夢みたいだ」
 上気した頬と、白い歯の向こうの真っ赤な咥内。
 普段は、どんなに近づいても触ることのできない、荒涼とした美しい一対の眼が、快感でとろけて、長いまつげの間から白石をみていた。
「かわいい…!三嶋、すき」
 突然口で愛撫されて、ビクンと腰が揺れた。逃げようとする体を押さえつけながら、白石は舌を使って竿を舐めあげ、右手でやわやわとこすりながら、敏感な先のまるいところを吸い上げる。
「いく…いくから、ああっ、んう、離してぇ…!」
 じゅうう、と思い切り吸い上げると、アキは全身を戦慄かせて、白石の口の中に射精した。
 足の間からみえるアキの顔の、壮絶ないやらしさに、白石の局部はすでに限界寸前まで硬くなっていた。見せつけるように精液を飲み下すと、アキの表情が凍り付く。
「ごちそうさま」
「お、おまえ。信じられへん…!」
 はあ、はあと荒い息を吐きながら、アキが体を起こす。
「ちょっとちょっと、自分だけ気持ちよくなって終わりってひどくね?ほら、おれもうこんなになってんだけど」
 アキの右手をとって、白石がじぶんの股間を触らせながら、熱い息をアキの耳たぶに吹きかける。ぞくぞくするような快感に、眉を寄せて眼を閉じると、かみつくようにキスをされた。
「ん…っ、ふ、う…」
「っは、三嶋、そのまま擦って」
 サルエルパンツの前だけをゆるめて、昂ぶりきった性器をアキに握らせる。抵抗や反論を許さないように、白石は舌をからめ、口の中を犯しながら命令した。
 おずおずと上下に手を動かすと、白石の手が延びてきてむき出しの胸の先に触れた。指先でやわやわとこね回され、身悶えする。そんなアキの様子を、肉食獣のような獰猛な視線で、白石がじっとみつめていた。
「あー…きもちいい。こんなことすんの、おれがはじめてだよね?」
 ぎゅ、と乳首をつまんで引っ張られ、アキが控えめな悲鳴をあげる。
「今だけでいいから、おれのこと見てよ」
 眼を閉じ、顔をそらそうとしたアキの顎を掴み、強引に視線を絡ませる。羞恥で涙ぐみながらも、普段にはない強い口調で話す白石に、アキは必死で視線を返した。
「しら、いし…」
「おれのことだけ考えてよ、三嶋」
 返事を恐れているように、白石は覆い被さって唇をふさいだ。硬くなった性器をアキのものに擦りつけ、ゆらゆらと腰を揺らす。
 舌が、咥内の敏感なところを的確に撫でていく。深くてむさぼるようなキスに、飲み込みきれない唾液が顎を伝っていった。
「もっと激しく、こすって。いつも六人部のこと考えながら家でやってるみたいに、おれのもして」
 卑猥な言葉で責め立てられ、白石の手のひらが再びアキの性器を掴んで激しくこすりはじめる。大きな手のひらが精液を絞り出すように上下され、あっという間に頭をもたげる。
「う…うあ」
「いく…っ、三嶋、胸にかけていいっ…?」
「あ、おれも、いきそう…」
 白石が膝立ちになり、射精した。勢いよくとんだ精液が、アキの白い胸の上にみずたまりを作り、たらりとシーツに流れていく。後を追うように達したアキの白濁は、白石の下腹部をべっとりと汚した。
「うわ…おれの精液ぶっかけられた三嶋とか。当分この画でオナニーできるな」
 どさりとアキの隣に寝ころんで、荒い息を整えながら白石がささやく。立て続けに二度も射精させられたアキは、急激な眠気に襲われていた。
「寝るなよ。まだはじまったばっかなんだから」
「眠い。変態にいろいろされたせいで」
 背を向けていた体を強引に向き直らせて、白石がニヤリと笑う。お互いに中途半端な着衣状態だな、と気づいたアキは、笑いがこみ上げてきて困った。
「へんな格好で、へんなことして。アホみたい」
「セックスてのはそういうもんだよ。冷静になるとバカみたいなことを真剣にするから意味がある」
「動物だってしてるやろ、本能だけで」
「そうだな。人間だけが特別な生物だって見解は間違ってる。動物なんだよ、所詮。理性だなんだって言ったって、結局は食欲とか性欲とかさ、強い欲望の前には無力だ」
 アキの額や鼻先にやさしくキスをしながら、白石が言った。髪を撫で、優しくすかれると気持ちがいい。流されて卑猥なことを許してしまったというのに、自分を責めるのも面倒なアキは、白石の首もとに頭を埋めた。
「三嶋、大好き」
「う、うん」
「…いや、分かってるんだけどね。好きとか、愛してるとかああいう言葉って、声に出したとたんに陳腐になるよな。本当はこのあたりに…ものすごく熱くてドロドロっとしたやつが渦巻いてて、それを三嶋に見せてあげられたらいいんだけど」
 アキの胸を指でなぞりながら、ささやく。
「つづき、していい?」
「ちょっとまって…のど乾いた」
 起き上がり、ティッシュで後始末をしてから、台所へと向かう。コップに水をくみながら、なにげなく外を眺めた。
 引っ越し社の二トントラックが、まさに発車しようとしていた。社名のかかれた派手なトラックに、「やっぱり引っ越しか」と想像が当たっていたことを確認したところで――アキは絶句した。
 トラックの側で、頭を下げて見送っていたのは、摂だった。
 見送りを終えると、彼はゆっくりと駅に向かって歩きはじめる。考えている余裕はなかった。アキがグラスを落としたがちゃん、という大きな音に、白石がどうしたの、と台所までやってきた。
「ごめん、おれちょっといかなあかん」
「どうしたの、突然」
 あわててスニーカーを履いて、家を飛び出す。
「おい!」
 後ろから白石が追いかけてきたが、かまわず走り続ける。団地の階段を降り終わる頃には、既に摂の姿は見えなくなっていた。
「そんな走って逃げるほどよくなかった!?」
 さすがバレー部の元エースだ。アキの全速力にも余裕で追いついて、隣から話しかけてきた。団地の敷地を抜けて、横断歩道を渡りながら、アキは首を振った。
「違う!摂が、どっかいってまう」
「どういうこと?」
「引っ越しの、車っ…!挨拶してんの、みたんや」
 気持ちのいい春風に、雲一つない晴天。心情に全く不釣り合いな、うららかな春の昼過ぎ、アキと白石は駅へと向かう歩道を、一心不乱に走る。信号も守らずに、つらくて息が上がっても、走り続けた。
「がんばれ、もうちょっとで駅だから!」
 白石が励ます。視線の先に、駅の高架が見えてきた。プルルルル、と発車を告げる音が、線路沿いの道路を走るアキの耳まで届く。
(待って、おれまだ、何も伝えてない)
「摂!」
 切符を買う時間もないから、支払いを白石にまかせて改札を飛び越え、ホームへと走った。三両目へ乗り込む摂の横顔に向かって、アキは叫んだ。
「摂っ、待って、おれ、おまえのこと」
 一瞬、それはほんの数秒のことだったが、摂が振り返った。
 視線がぶつかり、息が止まった。鳴り響いているはずの発車のベルの音すら、遠く感じるほどに、その瞬間時間が止まった気がした。
 短い黒髪の、不揃いな前髪が風に揺れる。見つめられただけで、切なくなるようなまっすぐな視線と、精悍な顔立ち。

 全部好きだと思った。代わりなんて絶対にいない。
 声も顔も手も足も髪も、全部死ぬほど大好きだ。
 優しいところも不器用なところも人見知りなところも、全部。

 伝えたいのに、見つからない。最後の言葉なんてどれだけ探しても見つからなかった。好きも愛してるも全部、合っているけど少し違った。相似だけれどもイコールではなかった。
 動いているはずの足は、ひどく鈍重に感じた。近づこうとしているのに、手を伸ばしても、摂との距離は縮まらない。涙が自然とあふれてきて、プラットフォームにいる他の乗客が、何事かとアキを見ている。
 摂の顔が、歪んだ。アキの泣いている顔をみて、動揺したのかもしれなかった。こちらに来ようと足を一瞬止めたが、唇を噛んで、そのまま電車に乗り込んでしまう。
 発車のベルが鳴り終わって、ドアが閉まった。重い腰をあげるように、電車がガタ、ゴトと音をたてて走り出す。そのすべての風景が、まるでスローモーションのように、ひどく現実離れしてアキには見えた。摂がいなくなるということも、電車が発車してしまうということも、全部が信じたくなくて、電車を見つめたまま駅のホームに膝をついてしまう。
「摂、どこいくの」
 涙がぱたぱたと落ちていく。
「せつ」
 追いついた白石が、かける言葉もなくアキの側に呆然と立ち尽くしている。
 走りすぎた電車の風が、ごう、という音をたててホームを吹き抜けていった。

 出会わなければよかった。好きにならなければよかった。
「三嶋」
 閉め切った部屋は、いつのまにか暗くなっている。ベッドに突っ伏して、ひたすら泣いた。
 自分で言ったのに。ここを出て行って幸せになれと、背中を押したのは自分だったのに、後悔しかなかった。
「なあ、今日何も食べてないだろ。せめて、水だけでも飲もう」
 何時間も黙って側にいた白石が、そっと声をかける。アキは黙って首を振った。顔は、枕に埋めたままだ。
「…白石、帰って」
「やだよ。今ひとりにしとくの、不安だもん」
「帰れ」
「じゃあご飯、食べてよ。買ってきたから。そしたら帰る」
「いらん」
「そんじゃ帰んない」
 ベッドがぎしりと音をたてる。隅に腰掛けていた白石が、うつ伏せになっているアキの隣に横になり、眼を閉じた。
 夜が更けていく。日付が変わって、夜明けを知らせるように空が白んできても、白石は帰らなかった。涙は止まったかと思えば思い出したようにボタボタ落ちてきて、枕はすっかり濡れそぼった。
「ふう…こうなったら歌でも歌うかな」
 わざとらしく宣言してから、白石が咳払いして歌い始める。

「ぼくはまるで幽霊だ いてもいなくてもおなじ
 てのひらをいつも宙をかき きみの眼はぼくを通り過ぎる
 できることなら いちどだけでいいから
 ぼくはあいつになってみたい きみの眼にうつってみたい
 ぼくはまるで幽霊だ、 きみにとって空気と同じ 」

 妙な歌がきこえてくる。アキはゆっくり頭を動かして、隣に寝ている白石を見た。
「なに、その変な歌」
「おれのすきなこはあいつがすき、ってタイトルなんだけど」
「誰の歌」
「おれの歌。いま作った」
 この重い空気の中で、バカげた即興の歌を作って平然と歌う白石の神経が信じられず、アキはぽかんとした表情で隣にいる彼を見た。
「ここにギターがあったら、もうちょっとクオリティが高いもの作れたんだけどな」
 身体の向きを変えて、白石がアキに向き直る。そばかすの浮かんだ鼻先と、一重のきれいな緑色の眼。目が合うと、ひっそりと弓なりになった。
「目、真っ赤だな。冷やしたほうがいいよ」
 枕元に置いてあったペットボトルを瞼に当てられ、驚きと怒りで腕を突っぱねて拒絶した。
「やめろ。もうひとりにして、変な歌もいらん」
「いま三嶋が感じてる悲しみとか後悔っていうのは、全部三嶋だけのものなんだよ。おれが理解できないからって、責めるのはおかど違いってもんだ」
 正論だが、聞きたくなかった。ペットボトルを掴んで白石の頭を殴ると、「いてて」とうれしそうに笑いながら抱き寄せられた。
「別に理解していらんから、どっかいけ!」
「元気になってきた、その調子だぞ」
「ふざけんな、元気になってたまるか。摂がおらんのに、おれ、これからどうやって生きていったらええの。好きやのに、大好きやのに、伝えることもできへんかった。心も身体も引き裂かれそう、苦しい、もう何もしたくない、――もうこのまま死んでしまいたい…!」
 感情がたかぶって、涙がぽろぽろ落ちた。鼻先二センチの距離で、白石が目をみはる。
「…三嶋にそこまで想われるなんて、六人部は本当に幸せ者だ」
 何ともいえない悔しさを滲ませてから、白石は抱きしめたアキの背中を撫でた。振り払おうと暴れるアキの髪を撫で、耳にキスをする。
「それなのにこんなやり方で消えるなんて、あいつはクソだ。最低最悪のバカ野郎だ。あんなやつ、どっかで恋愛に失敗して、上司にいじめられて、毎日犬のうんこ踏んじゃえばいいのに」
「摂の悪口言うな!そもそも全部、おれのせいやのに」
 拳で白石の背中を叩く。身をよじり、離せと叫んだ。
「思い上がりだな。いくら好きだからって、相手の不幸に全部自分が関与してるなんて、自意識過剰もいいところだよ。病気になるとか、死ぬとか、そんなどうしようもないことまで自分のせいだと思ってるの。バカじゃないの、三嶋」
「うるさい!」
 かみつくように唇を塞がれて、息を忘れた。熱い舌が無遠慮に入ってきて、咄嗟にかみつく。口の中に、白石の血の、鉄錆くさい味がひろがって、アキは怯んだ。
「おれが三嶋のこと好きな気持ちなんて、どうでもいいの?」
「それは…」
 背中に回った手のひらが、乱暴な動きでカットソーをまくり上げる。責めるような言葉に、アキがはっとして黙り込むと、白石がため息とともに苦笑した。
「ほら、そういうところにつけ込まれる。…こんな風に」
 長い指が背筋をなぞる。快感か、それともくすぐったさか分からないのは、他人にふれられたことがないせいだった。
「っは、こそばい」
 再び寄せられた唇を、今度は拒絶せずに受け入れる。逃げられないように、首の後ろを手で掴まれ、無遠慮に舌が入ってきた。
 経験のなさをたのしむように、ベッドに押しつけてなぶられる。やさしく舌で咥内をさわったあと下唇を強めに噛まれて、たまらず声が漏れた。
「みしま、はじめてなのに、時々すごくいやらしい顔するよね」
「…へん、なこと、いうな…」
「その顔で怒っても怖くないよ」
 先ほどさわりあったときとは違う、真剣そのものの顔で白石が首筋へ唇を落とす。鎖骨の上、柔らかく白い肌に歯を立て、赤い痕をつけていく。
「あっ…、いたい」
「さっき舌噛まれたおれのほうが、絶対痛い。舐めてよ、ほら」
 白石が痛そうな顔で舌を出し、アキの唇の横を舐める。罪悪感で、おずおずとアキが傷口を舌でなぞると、白石は欲望のにじんだ顔で満足げに微笑んだ。
「かわいい。傷ついて、ボロボロで、素直な三嶋もさいこうに綺麗」
 右手で下着ごとジーンズを引き抜いてベッドの端にぽいと投げ、まだ抵抗している両足を開かせて性器を掴む。サルエルパンツを脱ぐ前に、白石はポケットから小さいプラスチック容器を取り出しフタを開けた。透明で粘り気のある液体を、アキの下腹から性器に、ドロリと流し落とす。
「つめたっ、なにこれ」
「ローションっていうやつ。男同士だとこういうの使うんだ、でないと女みたいに濡れないから入んない」
「い、いれるって」
「ここ使うんだよ、他に穴ないでしょ」
 指でなぞられた場所に驚いたアキが、思わず足をばたつかせて白石の腰を蹴った。
「いてて、暴れないでよ、無理やりするのって趣味じゃないんだ」
「どけっ、もう嫌や、これ以上おれにさわんな」
「この状態で止めらんないよ。ただ、最後までしたとしてもおれは、あとで死ぬほど落ち込むと思うけどね」
 胸が苦しくなって、アキは抵抗をやめた。すると圧し掛かっていた白石は寂しそうに笑った。
「そういう優しさは、残酷だ。おれなんか、おもいっきり蹴飛ばしていい。突き飛ばして、嫌だって拒絶してくれていい。そしたら、おれは二度と三嶋に近寄らない。…会えなくなったら寂しいって言ってくれて、本当にうれしかったのにさ、こんな風に同情で気を引いて、落ち込んでいるところにつけこんで、そのくせ優しさを責めてる。最低じゃんか、おれなんか」
 ローションで濡れた指が、アキの性器をぬるぬると擦る。ぐちゅ、ぐちゅと卑猥な音に、目を逸らさずに声を上げた。
「ああっ、…そんなこと…できるわけ、ないやろ」
 色を含み、次第に淫らになっていく低いかすれた声に、白石は飢えた目で生唾を飲み込む。しっとりと汗がにじんだ白磁の肢体と、未知の快楽に戸惑う美しい顔が、わずかばかり残っていた理性と罪悪感を根こそぎ奪っていく。
「おまえの気持ち知ってて、答えられへんのに甘えてた。…ごめん、おれは何されてもいい、だから二度と近寄らへんとか、そんな悲しいこと言うな」
 白石が、驚きに目を見開く。
 アキは両腕を伸ばして、白石を強く抱きしめた。
「あ!」
 今度はアキが目を丸くする番だった。抱き寄せられると同時に達してしまったらしい白石が、情けない顔で笑った。
「ああ――なんてこったあーー!三嶋の前じゃ、おれいつもダサい、ダサすぎる!!自分でもしらなかった、もうちょっと余裕あって、誰でもいい奴だと思ってたのに」
 荒い息を整えながら、アキをぎゅうと抱きしめる。
「誰でもいい奴…?」
「うん、言い寄ってくる奴全部ヤってたよ、おれ。女なら誰でも。当時自分のセクシャリティがよくわかんなくてさ、性欲持て余してたし、来る奴来る奴、ちぎっては抱き、抱いては捨て」
 隣に寝ころんだ白石が、アキの鼻先に優しくキスをしながら言った。
「好きって気持ち、よくわかんなくて。本当は、ヤりたいっていうのと、キスしたいっていうのは別なんだよな。今は分かるけど、当時はよく分からなかった。中学で身長が急に伸びて、そこから女の子の目が急に変わってさ、どっちかっていうとチビで勉強しかできなかったのに、チヤホヤされるようになって。完全に調子に乗ってた」
 目の前に無防備に置かれていた大きな手のひらに、アキが指を絡めて手を繋ぐと、白石は頬を赤く染めて困った顔をした。
「あのー、そういうかわいいことされると困るんですけど」
「続き、きかせて。調子にのった白石は、その後どうなったん?」
「中三の時かな。チームメイトだった男友達にさ、ずっと好きだったって言われて。ものすっげー仲良かったんだけどさ、急に裏切られたような気持ちになってさ。一回だけヤらせろって言ったら、泣きそうな顔しながらそいつ、頷いて。はじめて男とセックスしたんだけど、向こうは緊張でカチカチだし、痛がられて萎えるし、さんざんだった」
 繋いだアキの手の甲に口づけをしてから、白石がぽつりと言った。
「最低だよな。めちゃくちゃ勇気だして言ったと思うんだよ、あいつ。嫌われるかも、とか、気持ち悪がられるかな、とか。でも思い出が汚れた気がしたんだ、落ち込んでたときにかけてくれた言葉も、優しくしてくれたことも、全部、下心があったのかなって思ってしまって。…親友だと思ってたのは、おれだけだったのかって」
(わかる、どちらの気持ちも。痛いほどに)
「恋愛を純粋なものやって思ってたんやな、白石は」
 アキの言葉に、白石が苦笑した。
「三嶋を好きになったとき、ああこれがおれのしてきたことへの罰なんだなって思った。好きな人に傷つけられてはじめて、自分が散々人を傷つけてきたことを知った」
「ごめん、…」
「あやまんないで。責めてるわけじゃないから。ずっと知らなかったんだ、好きな人が自分を振り向いてくれないことの辛さを。自分以外の人をひたむきに見つめている横顔の美しさと、切なさを。キスをしたときの幸福感を、おれはずっと知らなかった。だから、ありがとう。叶わなくても…三嶋を好きになれて良かった」
 横になって向かい合っている白石の頬を、涙が流れて落ちる。アキが指で拭うと、欲で濡れた目で、その指を舐められた。
「なあ、その友達は今は…?」
「転校したから、高校からは離ればなれになった。…元気にやってるって他の奴から聞いたけど、だからっておれのやったことが許されるわけじゃないから」
 思わずほっとした。頬に口づけられ、目を閉じる。
「いつかその優しさが、三嶋の身を滅ぼすかもしれないね」
 再び唇が重なる。次第に深くなるそれに、アキは体を寄せて応えた。拙い動きで応じてくる様子が、ますます白石の興奮を煽る。
 ローションで濡れた指が中に侵入してきて、悲鳴を上げてのけぞる。足を大きく開かれ、キスと手淫で追い立てられて、アキは息も絶え絶えになった。
「痛い?…大丈夫みたいだね、ここ、うれしそう」
 左手で性器をゆるりと擦りながら、白石が笑った。
「や、いやあ…なんか、へん」
「気持ちいいってこと?」
「わからん、ああっ、そこ嫌、ちから、抜けるみたいになる」
 指を二本に増やした白石は、どこも触っていないのに息が荒くなっている。目の前にさらけ出されたアキの痴態は、これまで見た誰よりも淫らで美しく、目が離せなかった。
「ここ?…」
「あ、ああーっ」
 肩の上に抱え上げられた長い足がビクンと揺れて、白濁が流れ落ちる。絶頂でうつろになった視線と、目尻に浮かんだ涙の卑猥さに、白石はせっぱ詰まった声で「ごめん」と謝罪した。
「ごめん、も、ヤらせて。我慢できない、いれたい」
 正面からのし掛かってきた緑色の目は、欲情で底光りしている。背中がしびれるような欲望。達したばかりの荒い息に、アキの胸が上下していることにも構わず、白石が張りつめた性器をゆっくりと挿入してきた。
「うあっ…痛い、いたい、抜いてぇ」
「ちょっとだけ我慢して…!」
 膝が胸につきそうなほどに押しつけられ、酸素をもとめてあがく。
「三嶋、ゆっくり息して。力ぬいて、おれも痛いっ…」
「いやや、痛い、お願いやめて」
 落ちる涙を舐めながら、白石が苦しそうな顔で呻く。
「ああ、そんな顔されたら興奮しちゃうよ、おれって最低だから…!ね、ここは?」
 ぐり、と擦られた場所はアキの弱い場所で、繰り返しそこを抉られて、萎えかけていた性器がふたたび頭をもたげはじめる。
「ふあ、そこいや、おかしくなる」
「…なんなの。かわいくて死にそう」
 苦しみだけで漏れていた吐息が、次第に熱のこもった、いやらしいものに変わっていく。浅いストロークからより深く、激しいものになるにつれ、上になっている白石の額から汗がにじみはじめる。
「気持ちいいの?今なかがぎゅってなったよ」
「気持ちい…白石お願い、もっと、擦って」
 あえぎ声混じりの懇願に、限界まで高まっていた興奮の糸がぶつりと切れる。マットレスに肘をつき、アキの胸に額をよせながら、白石は中に射精した。タイミングも何も合わせられないほどに激しく唐突な絶頂で、つながったまましばらく呆然としてしまう。
「かっこわるい。あー、おれ、三嶋の前ではいつもかっこわるい!」
「ふ、…くくっ。白石って早漏やってんねえ」
「どっちかっつうと遅い方だったんだよ!なのに三嶋の前じゃ童貞並みの早さになっちゃうんだっ」
 腕の中で笑うアキに愛しさが募ったのか、白石は怒ったフリをしながら口を塞いだ。背中に手を回して体を起こし、体位を騎乗位に変えて下から突き上げられる。体の中、秘密の場所を暴かれて、あっという間にアキの体は熱く火照った。
「あっ、や、そこ、いやあ」
「三嶋の嫌、はきもちいい、ってことだよね、…はあっ、いい眺め」
 ぐっ、ぐっと緩急をつけて突き上げながら、太股を持ち上げて下し、深く突き刺される。汗が全身から吹き出して、つながっている場所の周りとシーツを濡らしていく。痛みよりも快感が強くなり、次第に自ら腰を振り始めたアキに、白石が貪欲な笑みを浮かべて目を細めた。
 両手首を掴まれ、押さえ込むようにしながらめちゃくちゃに突き上げられる。我慢できなくなって、悲鳴まじりのあえぎ声を上げた。肌のぶつかる音と、粘膜を出入りする濡れた音が部屋をいっぱいにする。味わったことのない痛み混じりの快感に、普段の冷たい無表情はすっかり消えて、貪欲に快感を追う紅い頬には、うっすらと笑みが浮かんでいる。
「いっちゃう…!あぁっ、健斗、ぎゅってして」
「!くそ、反則だろ、こんな時に名前で呼ぶなんて…!」
 体が軋みそうなほど強く抱きしめながら押し倒され、狭い穴の中へ放出される。
 ほとんど同じタイミングでアキが体をふるわせて達して、熱い体を重ねたままふたり、朝の光の中でしばらくじっとしていた。

 目を覚ますと既に昼前で、どうやら白石が被せてくれたらしい毛布の中には、一人分のぬくもりしかなかった。
(あ、卒業式…!は、二日後か。日にちの感覚が狂ってる)
 体を起こそうとするも、あまりの激痛に再び枕に突っ伏してしまう。
 全身が痛かった。普段使わないあらゆる場所の筋肉も、口には出せないような場所も、思わずうめき声をあげてしまうほどの痛みだ。運動の習慣がないアキにとっては、ほとんど経験のない種類のものだった。
 外は雨が降っている。風が強く吹き荒れていて、ベランダに干したまま、朽ち果てそうになっているタオルが、濡れたまま、吹き飛びそうになりながらハンガーにこびりついている。
 窓の外に視線を移したとき、ノートの切れ端が、窓に張り付いているのが見えた。ガムテープで乱雑に貼られた紙に書かれた内容を目で追って、衝撃に痛みを忘れて窓辺に駆け寄る。

『三嶋へ。
 本当は今日、渡英することになってるんだ。
 卒業式には出られない。一緒に行こうといってくれたのに、ごめん
 思い出のひとつとして、三嶋の名札をもらっていこうと思ったけど、探しても見つからなかった。だから、いつも使っていた、ちょっと高そうなボールペンを拝借したよ。事後になるけど謝っておく、ごめんね。』
 白石の字は、まるで書道の見本のようにきれいだ。
 アキはいつも字が汚いことを罵られ、密かにコンプレックスを感じていた。
 ボールペンで殴り書いているはずなのに、品があって端正な文字は、まるで白石健斗そのものだ。
 紙が破れないように、そっと窓からガムテープを剥がして読む。動悸がひどくて、喉がカラカラだった。

『ずっといえなかったけど、おれは本当はずっと、六人部のことが憎くて、嫌いで、腹が立って仕方がなかった。表面上は何もないように装っていたけれども、本当は、あんなやつ死ねばいいと思ってた。消えちまえばいいと思ってた。おれよりも早く三嶋に出会った、それだけであんなに無条件に愛されるなら、おれだって母親がいなくてもいいから、三嶋の幼なじみに生まれてきたかった。そうすればあんな風に愛してもらえたのかな。無条件に、剥き出しの愛を向けてもらえたのだろうか。そう考えるたびに、嫉妬で狂いそうになった。息ができないほど苦しくなった。
 もう知っているかもしれないけど、おれは本当はすごく俗っぽい、ただの男だ。心が手に入らないなら、体だけでも奪ってしまおう、そんな風にずるがしこく計算して立ち回るような奴だ。
 そんなことしたって、本当に欲しいものは永遠に手に入らないのに。
 ますます自己嫌悪に陥るだけなのに。我慢することができなかった。
 三嶋の寝顔をみていると、こんな酷いことをするのはやめよう、そう何度もくじけそうになった。六人部に置いて行かれて、両親に捨てられて、きっと三嶋は誰かに置いて行かれることがものすごく怖いはずだ。怖くて、寂しくて、たまらないはずだ。分かっているのに、それでも、おれは自分の心の底にある本当の願望にあらがうことができなかった』
 そこで紙は書く場所がなくなっていて、一度途切れる。うすく浮かび上がっている文字に気付いて紙を裏返すと、そこに続きが書いてあった。
 動揺していたせいで、紙の端で指を切ったが痛みは感じない。瞬きすら忘れて、文字を追う。
『本当の願望。それは、友達になることじゃ果たせない。
 三嶋の中できれいな思い出になるなんて、絶対に嫌だった。アルバムを見たり、手紙のやりとりをしているうちに本当にただの友人になって、「ああ、そういやあいつおれのこと好きだっていってたな」なんてビールを傾けながらぼんやり思い出される、そんな存在にだけは死んでもなりたくない。
 おれは、三嶋の傷になりたい。深くて大きな傷になりたい。そうすれば、もう一生あえなくなるかもしれないけど(顔も見たくないなんて思われるんだろうな、辛いな)、その分おれは三嶋の中に残り続けることができる。信頼していた友達、いつかきれいな思い出になったはずのおれ。それがこんなふうに、薄汚い内心をぶちまけて、住所もいわずにさっさといなくなれば、きっと三嶋はすごく傷ついてくれるよね。立ち上がれなくなって、卒業式にだっていけなくなるかもしれない。ひょっとしたら大学に行くことだってやめてしまうかもしれない、てのは、あまりにも都合のいい妄想かな。自己評価が高すぎるかな。…そうかもしれないね。三嶋はとても綺麗だけど、時々驚くほど強くて冷たくて、ひとりぼっちな顔をするから。

 手紙を送るといってくれたけれど、住所を知らせるのはやめておく。
 神様。どうかおれが、三嶋にとって一番の裏切者になりますように。

 白石 健斗』