24 Ambulance! (偶然のクリスマス・イヴ)

「夜の浅草に行ったことはありますか?
 あのざわついて、にぎやかな観光地が
 夜中は情緒があってすてきな場所に早変わりです
 よかったら一度、行ってみてください

 星野 成一」

 沼田のポストに、メッセージを添えた写真を投函する。以前、三嶋に連れて行ってもらってから気に入ってしまった、夜の浅草寺を撮ったものだ。
 前に挟んでおいた写真は、回収されたのか見当たらない。郵便物もたまっておらず、少なくとも定期的に外にでていることが分かって、成一はほっとした。
(捨てられてるかもしれないけど、生きててくれるならそれでいいや)
 伸びをして、目の前の中央消防署へ自転車を押して歩く。
 ちょうど出勤してきた六人部に、元気よく挨拶をした。今日も忙しい一日がはじまる。

「救急、指令。30代女性、○○町三番、追加情報あり」
 クリスマスイブの前日でも、仕事は待ってくれない。
 朝から夕方まで、軽傷の傷病者を四人搬送した。本格的に業務が忙しくなりはじめる夕刻にさしかかったところで、その指令が入った。
 指令を聞いた3人は、一斉に車庫へと走って、隊長の六人部がすぐに応答する。
「中央署救急隊から本部。追加情報を」
「通報は偶然居合わせた母親から。女性は現在妊娠九ヶ月で、破水したとのこと。本人及びバイスタンダーともに混乱しており、詳しい状況は不明。あらゆる状況に備えてください」
「了解。現着次第、連絡します」
 無線を切ってから六人部が顎に手をあて、考え込む。
「妊娠、出産は本来タクシーなどでの対応になるんだが…」
「お母さんが一緒なんですよね。破水しただけで、そんなにあわてるでしょうか?」
 成一のもっともな指摘に、六人部がううん、と唸る。
「あり得ないとはおもうが、万が一に備えよう。星野、ゴム手袋と臍帯処置用の道具、確認しておいてくれないか」
「はい!」
 確認を終えた成一の「全てそろっています、問題ありません」という返答後すぐに、救急車が道路に滑り出る。クリスマスの浮かれた空気を切り裂いて、サイレンとともに、赤と白の車体が現場へと駆けつけていった。

 現場に到着してすぐに、家の中から母親らしき壮年の女性が飛び出してきた。助手席から降りようとしている六人部の腕を必死の形相で引っ張り、こう叫んだ。
「遅いっ!早くきてよ、赤ちゃんが!」
「落ち着いてくださ」
 声をかけようとするも、それすら遮られるほどの強さでぐいぐいと腕を引いてくる。閑静な住宅街は救急車の到着でざわついていて、玄関先まで様子を見に来ている近所の住人が、心配そうにこちらを注視していた。
 あたりからは、ちょうど夕食の用意をしているのか、様々な食事の匂いが漂っていた。
「かかりつけの病院はどちらですか?検診などに訪れている、」
「それどころじゃないのっ、破水したのよ、もう生まれそうなの」
 ヒステリックに叫んだ母親の声に、六人部が成一を振り返る。ストレッチャーを押して玄関先まで入り込んだところで、女性が仰向けに倒れ、うめき声を上げているのが見えた。
「いいですか、落ち着いてください。破水して陣痛がはじまっても、赤ちゃんはすぐには産まれてきません」
「でももう、あの子たてないって」
 混乱して泣きそうになっている母親に、成一がにこりと笑って声をかける。
「すぐに病院に搬送しますから、病院名を教えてください」
「県立医療センターの産婦人科です。さっき先生に電話をしたら、すぐに運んでくるようにと言われたんですけど、もう破水しちゃって私は運転もできないし…!ああ、どうしたらいいの、まだ予定日は先だったから、わたしてっきり」
「県立医療センターですね、大友さん」
 六人部が合図すると、大友が救急車に戻って病院に連絡をとりはじめた。その間に六人部と成一は家の中に入り、横になっている女性に声をかける。
「高野みゆきさん、救急隊長の六人部です。これからストレッチャーに乗せます。医療センターに搬送可能か確認していますので、もう少しだけがんばってくださいね」
 安心させるようにほほえんだ六人部に、女性が目を見開く。そして――
「ちょっと、この人男じゃない!いやよ、お母さんどうして救急車なんか呼んだの!裕太を…旦那呼んでって言ったじゃない!!」と叫んだ。
「そんなこといったってみゆき、あなた、もう破水して」
「男の人に、赤の他人の男の人にこんなところ見られたくないっ。だから病院だって、女医さんに頼んでたのに…い、いたたた…いたーい!」
 痛みにもがきながらも、帰って!と叫ぶ高野は、母親の宥める声にも一切耳を貸さない様子だ。
「どうしましょう、隊長。本人の同意なしに、搬送できませんよね」
 小声で問いかけた成一に、六人部が静かに頷く。
「私たちは確かに男です。おまけに身分は公務員ですので、規則に乗っ取った業務しか遂行できません。したがって高野さんがどうしても搬送されたり、観察されたりするのがイヤだとおっしゃった場合は、強制的に運ぶことはできません」
「そんな、お願いします!」
 母親がしゃがみこんで話している六人部の肩にすがりつく。成一は、黙って六人部の言葉を待った。
「いやよ、だから、かえってよっ…ううう、痛い、もうやだ」
「でも今、高野さんの命は一人ものではありません。赤ちゃんは助かりたくても、助けてほしいと声に出すことができませんよね。今、それを代弁できるのは高野さん、あなただけなんです」
 顔にびっしりと汗をかいている高野が、イヤイヤと首を振った。
「じゃあ、女性の隊員にしてよ…あんたたち男にはわかんないでしょうけど、いやなのよ、すっごく。しらない男に、あんな場所見られたりするなんて耐えられない」
 そこまで一息にいってから、大声で叫びはじめる。足の間から、羊水がびしゃびしゃと流れてきて、成一は内心真っ青になった。
(まずい、このままじゃ病院までもたないかもしれない)
「わかりました。病院につくまで、高野さんのいやがられることはしません。ただ、バイタルは取らせてください。お母さんも、同乗してくださいますね?」
「わかりました、一緒に乗りますからすぐに運んでください」
「ほんとに運ぶだけにしてよ。それなら、いいけど…」
 大友が入ってきて、「受け入れ可能です!」と伝える。成一と六人部あ目を合わせ、すぐに高野をストレッチャーへ乗せた。

 状況は芳しくなかった
 医療センターへと抜ける幹線道路は、ちょうど夕方の交通渋滞が始まったところで、サイレンを慣らしても軽快に走り抜ける、というわけにはいかない。
「う、うう!」
「高野さん、がんばってください。ゆっくり息を吸って…吐いて」
 成一がストレッチャーの横で、バイタルを見守りながら声をかける。母親が、娘の手を握りながら同じように「がんばって、みゆき、がんばって」と励まし続ける。
「まだなの…っ!ねえ!まだなのっ、産まれちゃうわよ!」
 ストレッチャーに仰向けになっている高野が叫ぶ。状態を確認しようにも、近づいただけで暴れだすので、成一や六人部にできることは限られていた。
 車はじわじわと前進を続けたものの、とうとう全く動かなくなった状況に、珍しく六人部が焦りをにじませた。
「大友さん」
「隊長、これは抜けるのにかなり時間がかかりそうです、前方で事故が発生してるみたいです」
 無線で本部と連絡を取り合っていた大友が、苦しそうな表情で告げる。
「そんな…」
 愕然としたのもつかの間、高野が悲鳴をあげた。
「どうしよう…赤ちゃんが…出てきちゃう」
 咄嗟に確認しようとした成一の顔を、高野が蹴り上げる。
「いってえ!」
「ちょっとみゆき、なんてことするの!みなさんはあんたを助けようとしてくれてるのに!」
「イヤなもんはいや、約束したでしょ」
 まるで手負いの獣だ。殺気だった表情で言い捨てる高野を見て、六人部が機転をきかせた。
「お母さん。我々のかわりに、状況を確認して教えていただけませんか。それならかまいませんね、高野さん?」
「ううう…」
 母親が頷き、腹をくくったのか険しい表情で娘の足を開かせ、下着を脱がせる。
 そんな!という叫び声に、成一の隣に立っていた六人部が冷静な声で問いかける。
「どうですか?」
「あ、頭が。赤ちゃんの頭が出てきてます」
 成一をはじめとした隊員全員が、表情には出さなかったものの、驚きで声が出なかった。
「すみません、高野さんは、初産ですか?」
 六人部の質問に、高野の母親が代わって首を振る。
「いえ、上に男の子が。いま、うちで夫が見ています」
「でしたら、ごく稀にですがこういうことがあります」
 相変わらず混雑している道路の上で、救急車はのろのろと、歩くような速度で進んでいる。
(このままじゃ間に合わない。――救急車の中で、産まれてしまう)
「落ち着いてきいてください。既に子宮口が開き、赤ちゃんの頭が見えています。分かりやすくいいますと、お産がはじまっている状況です。私は今から、高野さんのかかりつけの病院に電話をして、医師の指示を仰ぎます。星野、タオルを高野さんの足の下に敷いて、お母さんに両手を消毒したのち、ゴム手袋を二重に装着してもらえ。念のため、おまえも装着しろ」
「了解です。高野さん、ゆっくり、少しずつ息を吐いてください。お母さんも落ち着いて」
「うそ、うそでしょ!?いやよこんなところで、うう――っ」
「は、はい…みゆき、お母さんここにいるよ、ちゃんと助けるから!」
 母親の声に、高野が涙をにじませながら頷く。痛みにうめき、大声を上げながら戦う娘を励ましながら、母親はゴム手袋を装着した。
「由記市消防局、中央署救急隊長の六人部です。状況は――」
 六人部が要点をおさえた報告をして、主治医に指示を仰いでいるが、すでに状況は一つの結論を明示している。
「はい。おそらく、ここで産まれることになると思います」
 背筋がふるえた。救急隊員になって四年と半年をすぎるが、出産に立ち会ったことは、これまで一度もない。もちろん救急救命士である限り、そういった技術や知識は身につけているが――
(どうしよう。怖い。でも)
 振り返る。六人部の目が、はっきりとこう言っていた。
『おまえを信じている』
 頷き返す。背筋をのばし、目の前にいる傷病者を、高野をまっすぐにみつめて声をかけ続ける。
「無理にいきまないでください、そう、ゆっくり、少しずつでいいんです」
「みゆき、頑張って!あの、頭が出てきました」
 六人部が電話をスピーカーにして、医師の声が全員に聞こえるように救急車の中に立てかけた。
「お母さん、首にへその緒が巻き付いていたり、赤ちゃんの顔色が悪いということはありませんか?」
「大丈夫です!」
 六人部がその状況を電話越しに医師に伝える。
「それでは、赤ちゃんの頭部をそっと下から、支えてあげてください。…先生、そうですね?」
『ええ、さすが六人部隊長です。お母さん、どうですか』
 女医の落ち着いた低い声が問いかける。
「肩が出てきました、みゆき、もうちょっとだよ」
 必死でいきんでいる高野が、涙を流しながら痛みに叫ぶ。成一はバイタルを確認しながら、高野の汗を拭い、声をかけ続けた。
「ううう…うあーーーっ」
「首の後ろをそっと持って、両肩が出てきたら取り上げてください」
 六人部の声に、母親が必死で頷く。
「高野さん、もう少しです」
 一瞬、救急車の中が静まり返る。
 そして、その静寂を切り裂く大きな鳴き声が、新しい命の誕生を知らせた。
「産まれた、産まれました!」
「十八時四分、先生、男児が産まれました」
 六人部の静かな声の中には、安堵と、感動が含まれていて少しうわずっていた。女医のやさしい声が、『高野さん、おめでとうございます。出生時間は十八時四分ですね』と喜びをにじませる。
「おめでとうございます!高野さん、赤ちゃん産まれましたよ!」
 跳びはねんばかりに喜んでいる成一に、それまで険しい顔をしていた高野の頬がゆるんだ。
「もうっ、なんで、私より先に隊員さんが泣くのよ」
「あっ…ごめんなさい、ぐすっ、感動しちゃって」
「星野、臍帯処置を。できるな?」
 六人部の与えた新しい試練に、成一はあわてて「はい!」と返事をする。経験はないが、覚えた知識を総動員しながら高野に説明をした。
「これからへその緒を切ります。これだけは、赤ちゃんに感染などの危険がありますので、私たち救急隊員にさせていただきたいのですが…よろしいですか?」
 高野が眉を寄せたのは一瞬だった。すぐに顔をほころばせ、「わかったから、早く赤ちゃんだっこさせてよ」とねだった。
 成一が臍帯処置を終え、赤ちゃんの体をやさしくタオルでふいてから、六人部が毛布でくるんで、高野の隣に並べた。
「やっと会えたね。私のところに産まれてきてくれて、ありがとう」
 涙を流しながら差し出された母親の指を、産まれたばかりの赤ん坊が、そっと握る。その光景に、成一はまた涙がこみ上げてきて、必死でこらえた。
 ブーッという大きな音に、全員が運転席を振り返る。
「ご、ごめんなさい。僕も、自分のこどもが産まれた日のこと、思い出しちゃって。感動しちゃいました…ブーッ!」
 大友が鼻をかむ音だった。
 雰囲気をぶちこわすその音に、赤ちゃんを除くその場にいた全員が、声を上げて笑ってしまった。

 病院に到着して、待ち受けていた主治医の女性に状況を説明し、引継ぎを終える。ストレッチャーで運ばれていく途中、高野が成一に向かって寝たまま頭を動かし、「さっきはごめんなさい」と謝罪した。
「蹴っちゃって。痛かったよね」
「いいえ、大丈夫ですよ。緊張と感動で、吹き飛んじゃいましたから」
「フフ、ありがとう。あなたの、下の名前は?」
「成一です。成人の成に、漢数字の一。星野成一といいます」
「一に成るか。いい名前だね。産まれてきた子に、一文字もらってもいい?」
 成一の返事を聞く前に、高野は病院の奥へと運ばれていく。病院の廊下でそれを見送っている成一の背中を、六人部の手が優しく叩いた。
「戻ろう、今日の業務はまだ、終わってないぞ」
「はい。…隊長、」
「ん?」
「救急隊って、最高ですね」
 成一の笑顔に、六人部が虚を突かれたようにぽかんとした。
「おれ、この仕事に就いてよかった」
 心から言った言葉だった。六人部はその言葉の意味をかみしめるように、しばらく黙ってからこう言った。
「しばらく忘れていたけど、今日思い出した」
「何をです?」
 救急車へ戻りながら、六人部がぽつりとつぶやく。
「この仕事が、とても好きだということを」

 病院から戻ってくると、夜の七時をすぎていた。デスクについて手早く夜ご飯をすませ、報告書を書いていると、珍しく大友が「明日仕事があけたら、飲みに行きませんかあ?」と誘ってきた。
「いいですね、行きましょう」
 六人部が快諾して、成一も同意する。
「先生も呼んでみます?」
「んーん、明日は三人で行こう。考えてみたらクリスマスイブだけど」
 大友の言葉に、六人部が気遣わしげに問いかける。
「ご家族と過ごさなくて大丈夫ですか?」
「あは、大丈夫ですよ。こどもは今、妻と妻の実家にいるんですう」
「そうですか」
 成一と六人部の心配そうな視線に、大友が笑って手を振った。
「いや、別に離婚の危機とかじゃないよお。毎年ね、クリスマスイブは僕、クリスマス当日は妻のお休みの日なんだ」
「お休み?」
「うん。それより隊長とほしのっちこそ、いいんですかあ?イブといえばあれでしょ、女の子とディナーしてシャンパンかちーんってしたり、高いホテルを予約して夜の花火打ち上げたりするんでしょ?」
「おっさんですよ、発想がおっさん!」
 つっこんだ成一に、大友がぐふふと笑う。
「どうせ僕、おっさんだもーん。ふたりともかっこいいのに、勿体ないですねえ」
 大友の言った「お休み」という言葉の意味が気になりつつ、成一が大げさにため息をつく。
「そういや彼女がいたときは、毎年レストラン予約したりしてましたね。二時間であわただしく追い出されるわ、料金は普段の倍以上だわで、正直クリスマスなんてなくなればいいのにと思わなくもなかったですけど」
「赤の他人の誕生日だしな。何故祝わなければならないんだという気持ちはあるよな」
 六人部の同意に、成一が苦笑する。
「プレゼントも加算すれば、一晩で数万飛んでいきますもんね。まあ喜んでくれてる笑顔が見れたら、それでいいやって思っちゃうところが男のバカなとこで」
「ほしのっち男らしいな~。うちの妻なんかあれだよ、こどものプレゼントは真剣に選ぶけどさ、僕なんて誕生日すらなかったことになってるからね。僕は毎年妻の誕生日にはいろいろ贈り物してるのに~っ。寂しいことこの上ないよお」
 机に突っ伏してわざとらしく泣き言を言う大友に、六人部がコーヒーを差し出す。
「大友さん、これでも飲んで元気を出してください」
「くう~っ、隊長の優しさが身にしみますゥ!」
 12月も終わりにさしかかり、気温が低い日が続いていたが、「冷房二十八℃ 暖房十八℃」をかかげる官公庁は、夏は暑く冬は寒いという最悪の職場環境も少なくない。
「寒い。ふところも心も体も寒いよ」
 珍しく指令の少ない夜で、三人は報告書を書き終えてからコーヒーを飲んでいた。
「こないだ、総務の目を盗んで暖房温度を上げようとしたんですけどだめでした。うちってほら、エアコン集中管理だから、リモコンの前に近づこうとおもったら庶務の目の前通らないといけなくて。星野さん何の用ですか!?って厳しく問いつめられてごまかしながらすごすご引き下がる羽目に」
「ごまかしながらって、どうやってごまかしたんだ」
 六人部の問いかけに、成一が指をならしてにやりと笑う。
「マイケルジャクソンのムーンウォークでこう…ゆっくり遠ざかるみたいな」
「なにそれ超見たい」
 大友が笑い声をあげる。六人部も、「今やってみせてくれよ」と食い下がってきて、成一は得意顔で立ち上がり、披露しようとした。
『救急、指令。○○町北、20代男性、飛び降りによる多発外傷』
 これまでの和やかな空気が嘘のように霧散した。一斉に車庫に向かって走り、救急車に乗り込んだ。
 腕時計を確認すると、時間は22時をすぎたところだった。
「中央署救急隊より本部。詳細情報を」
 機関員の大友が住所を確認しながら耳をすませる。成一と六人部は、詳細情報から傷病者の搬送シミュレーションを頭の中で即座に開始した。
『バイスタンダーは友人男性。ひどく落ち込んでいる様子の電話があったため、友人宅に駆けつけたところ、マンションの屋上から飛び降りたとのこと』
 車で十五分ほど緊急走行し、現着する。五階建てのマンションは相当古く、既に取り壊しが決まっているため、人の気配はまるで感じられない。
「こっちです」
 バイスタンダーらしき男性が救急車の姿を確認して、手を振りながら近づいてくる。車が一台も停まっていない駐車場に救急車をとめ、六人部が一番はじめに走っていき、成一と大友がその後に続いた。
「状況を教えてください」
 現場に向かって走りながら、六人部が男性に問いかける。おとなしそうなめがねをかけた男性が、言いにくそうに頭をかきながら「ふられたらしいんです」とつぶやいた。
「ふられた?」
「明日、クリスマスイヴにプロポーズするつもりだった彼女に、ふられたらしくて」
「なるほど。それで、突発的に?」
「はい。もう死ぬしかないとか言い出したから、あわてて駆けつけたら…飛び降りた後でした。あの、助かるんですか!?フットサルまたできるようになりますか?おれとあいつ、中学の頃から同じチームで、幼なじみで」
 狼狽のあまり泣き出しそうになっている男性の言葉に、六人部が一瞬言葉をなくす。到着した現場では、若い男性が痛みにうめきながら「死にたくない、死にたくない」と泣いていた。両足は着地の衝撃で骨が折れて飛び出し、大量の血がアスファルトの上にたまっている。
「江田さん、今から救急車で病院に搬送します」
 反応がない。成一が駆け寄り、呼吸、循環を確認する。
「隊長…」
 脈拍は触れているが、呼吸がなかった。
「バッグマスク!」
「はい」
「骨盤骨折の可能性がある。――スクープトレーチャーを使おう。車内収容、ロードアンドゴー適正」
 不安定型骨盤骨折が疑われる場合、ログロールは禁忌とされている。そのためスクープトレーチャーを使って全身固定を行うことになる。
「良介、良介っ!」
「すみません、下がってください」
 泣きすがる幼なじみを宥めながら、成一と六人部は全身固定を終わらせ、大友とともに車内収容した。
「同乗しますね?」
「もちろんです、行かせてください」
「では、救急車のドアを閉めます」
 高濃度酸素を投与し、バイタルを確認する。自発呼吸は細いながらもかえってきたものの、心拍数が早く、血圧が79と低い。
 停車した救急車の中で、大友が受け入れ先を探し始める。三次選定を指示されているため、総合医療センターなどの大病院に片っ端から確認しているが、満床で断られてしまった。
「星野、まず開放骨折部分を圧迫止血、止血帯を両足に」
「完了しました、隊長…、バイタルが…血圧は低いのに、脈がタキッてるんです」
「目瞼結膜も蒼白だな」
「ショックを起こしているかもしれません。目に見えているのは両腓骨の骨折ですが、万が一大腿骨を骨折していたら」
「出血量がこの開放骨折の比じゃない……」
 幼なじみだという青年が、良介、目を開けろ、しっかりしろと叫んでいる。
「落ち着いてください、ええと」
「柏木です。うう…良介、こんなことで死のうとすんなよ、おれを一人にすんなよ」
 取り乱している柏木に、六人部が優しく話しかける。
「柏木さん。手を握って、ずっと声をかけてあげてください。揺さぶったり、大声をあげたりしてはいけません。いいですね?」
「はい。――お願いします、良介を助けてください。血液がいるなら、おれのをいくら使ってくれてもかまいません。心臓でもなんでも、あげますから、お願いだから良介をたすけてください」
 悲痛な声に、六人部が目を見開く。いつもと違う上司の様子に気づきながらも、フォローする余裕は成一にもない。
「隊長、救命センターから連絡がありました!ベッドコントロールでなんとか空けたから、受入可能とのことです!」
 動揺してしばらく立ち尽くしていた六人部が、はっとしたように顔をあげる。
「救命センターへ搬送します、発車しますから、何かにつかまってください」
 柏木の背中にそっと触れながら、六人部が優しい声で言った。
「よかった。病院決まったぞ、良介。きっと助かる、だから頑張れ」
 六人部のくちびるが、何かささやいた。声は聞こえなかったが、くちびるの動きで伝わった言葉に、成一は胸が痛くなる。

 …アキ…
 ごめん、アキ…

 なんのことか、どういう意味なのか、成一には分からない。だが幼なじみだという彼らの姿を見て、六人部が何らかの過去を思いだしているのだということ、何かをずっと悔い続け、謝りたいと思っているのだということは、これまでの三嶋の話や六人部の様子から察することができた。
(どうして、そんなにも)
 強く握りしめられている六人部の拳に、手のひらをかさねる。手袋越しなので、その温度は分からなかったが、目が合い、成一がほほえむと、六人部は泣き出しそうな顔で手のひらをゆるめた。
(どうしてそんなにも、あなたたちは――)
 到着した救命センターで足早にストレッチャーを押しながら、待ち受けていた三嶋と佐々木、それに師長をはじめとしたスタッフに申し送りをする。既にその横顔には先ほどまでの、後悔と悲しみに揺れていた面影はまるでない。きびきびとした、要点をおさえた伝達内容に、三嶋と佐々木は頷きながら二、三質問を返している。
「良介!」
 追いかけてきた柏木を見つめるスタッフに、成一が説明を加える。
「彼は幼なじみで、本件のバイスタンダーです」
「幼なじみ」
 三嶋が一瞬、痛みをこらえるような表情を浮かべた。
「先生、お願いです、良介を助けてください」
「最善は尽くします」
 安心させるように、強い視線を返す三嶋の横顔は、白い病院の照明の中、冴え冴えとしていて美しい。
 初療室へ吸い込まれていくストレッチャーを眺めながら、柏木が廊下にひざをつく。成一も六人部も大友も、その後ろ姿にかける声も思い浮かばず、ただ強く心の中で、救命されることを祈るばかりだった。

 

 

「じゃあ、クリスマスイブに男ばっかでアレだけど。お疲れ様ー!」
 大友の乾杯の音頭に、成一と六人部がジョッキを掲げて軽くぶつけ合った。昼間からあいている、馴染みの店を訪れて、かけつけいっぱいの生ビールを腹の中に流し込んだ。
「今回の勤務は激動だったな。この仕事も長くなるが、さすがに救急車の中で赤ん坊が産まれたのは初めてだ」
 飛び降りによる多発外傷の後は、これといった通報がなかった。夜中から朝にかけて多少仮眠がとれた為、クリスマスイブとなった勤務明けの今日、こうして飲みにくることができた。
「隊長でも初めてなんですか?おれ、なんか胸が熱くなっちゃいました」
「僕も感動しちゃったよ。命って尊いなって、改めて感じた」
 成一の声に、大友が目を潤ませながら返答する。
「両足開放骨折の傷病者は、一命をとりとめたそうだ。骨盤骨折もあるから、リハビリにかなり時間がかかりそうだし……元通り歩けるようになるかは、これからの専門治療次第だが」
「そうですか、よかった!ほんと、よかったあ…」
 かみしめるように言う成一に、六人部が「そうだな」と言って微笑む。並べられた唐揚げや、名物のだし巻きタマゴのいい匂いに、成一の腹は元気に音を鳴らして空腹を訴えた。
 もはや無意識といっても過言ではないスムーズさで食べ物を取り分け、飲み物がなくなる前に注文をとる成一を、大友が「合コンにいる肉食女子みたい」といって笑いをとり、六人部も頬をゆるめている。
「習慣になるんすよ、上下関係厳しい世界ですし」
「わかるわかる。僕もしょっちゅう先輩に蹴られたり叩かれたりしたなあ。だから絶対、そういう先輩にはならないんだって決めてたんだ。ほしのっち、無理しなくていいからね。僕も隊長も、自分のことは自分でできるからさ」
 大友の優しい言葉に「おおともさーん大好きです!」と隣から抱きつく。六人部はわざと厳しい顔を作って、「甘やかしすぎはいけません、星野のためになりませんから」といって成一を睨みつけた。
「ほしのっちの元上司って、徳田隊長だよね?」
「あ…ハイ」
 昔の記憶は苦いものばかりだ。もちろん、今となっては自分の未熟さも大きな原因の一つだということを重々自覚してはいたが、パワーハラスメントにあたるであろう数々の苦痛を思いだし、成一の表情はにわかに曇った。
「結構、つらい思いをしたって聞いてるけど…実は僕もさ、以前の上司とはいろいろあってね。ほしのっちの気持ちは、すごくよく分かるんだ」
 唐揚げを幸せそうに頬張る大友の様子からは想像できなくて、成一は目をぱちぱちさせながら首を傾げる。
「ちょっとすまない、電話だ」
 六人部が店の外へ席をはずしたのを見て、大友がふふふ、と笑った。
「ほんと、隊長は照れ屋さんだなあ。この話になるとね、いつも席外していなくなっちゃう」
 この先の話に、六人部が関わっているということは鈍い成一にも分かったが、その先の予想はつかずに、ただ黙って先を促す。
「あのね、もう知ってるかもしれないけど、僕のこどもは生まれつき、重い病気を患っていてね。奥さんは看護師をしていたから、ほら、消防士なんて休み、なかなかとれないからね、介護や病院通いを任せきりにしていたんだよね。当時消防隊で、ポンプ車の機関員しててさ、車の運転が得意な僕には天職で、それはもう夢中になって仕事して。こどもの手術費や入院費がかかるからって言って、でもそれって病気のこどもを見ているのがつらいから、逃げてるだけだったんだよね」
 ジョッキを置いて、隣の大友に向き直る。酒気で赤くなった丸い頬と、うつむいた優しげな顔をだまってみつめていると、生ビールを一気に飲み干した大友がぽつりとこぼした。
「そんな日が二年ぐらい続いて、奥さん、看護疲れでうつ病になっちゃった。看護師の仕事が大好きなのに、僕が休めないからっていつも職場に無理いって休んだり早く帰ったりしてるうちに、職場でも浮いちゃって、病院では自分のこどもがチューブにつながれて苦しそうで、ぱちんとはじけちゃったんだとおもう」
 いつもにこやかな大友が、いつになく真剣な表情で、辛い過去を打ち明け始める。
「僕のせいだって、自分を責めてる暇もなかった。奥さんとこどもの看護、両方しなきゃいけなくなって、当時男性は誰もとってなかった育児休暇とか介護休暇とか使うことになったんだ。僕らは公務員だから、制度はきちんと整備されてるけども、じゃあ気持ちよく使えるのかっていうと、話はぜんぜん違ってて…」
 成一は不意に、徳田のことを思い出した。かつて自分の上司だった徳田は、海外の災害現場に派遣された後、心を病んでしばらくの間病気休暇をとり、復帰してからは別人のようになっていたと、周囲から聞いたことがあった。
「ある日なんの前触れもなく、異動させられた。消防隊から救急隊へ行けって内容だった。育児休暇とか使うようになってから、たくさん嫌味をいわれたり、人事の査定を落とされたりしてさ。悔しくてしかたなかったけど我慢してたのは、消防隊で働いていることに、すごく生き甲斐ややりがいを感じていたからなのに。そりゃあもう、落ち込んだよお。ものすごく落ち込んで、腐って、今思い出しても最悪な奴だったとおもう。行ったこともない救急隊のことをさ、僕は、左遷先みたいに思ってたんだから」
「…わかります…いや、わかりますなんていったら失礼なのかもしれないけど、でも、想像できます。似た気持ちを、おれもたくさん抱いたから」
 民間会社でもそうであるように、公務員だって所詮は駒だ。本人の希望がどうあれ、足りなくなれば補充するし、あっちこっちへ異動させられる。消防士だからまだ業務は限られているが、これが市役所なら、もっと極端だ。税金の仕事一筋だったものが、ある日突然ケースワーカーになる。福祉の仕事にやりがいを感じていたものが、全く経験したことのない経理担当になる。癒着を防ぐ、慣れによる怠慢を防ぐ、ジェネラリストとして働ける人材の育成……理由はたくさん上げられるが、それが働くということだと、分かっている。分かってはいるが、人事異動は時に本人にも、周囲にも、いろいろな気持ちを巻き起こす。

(使えない奴だと思われたのだろうか)
(おれは、この署にいらない人間だったのだろうか)

(どうして、おれなんだろう)

 元上司のパワーハラスメントから解放されて、ほっとしたはずだった。だが気持ちはそれだけではなかった。どうしてだろう、いらなかったのかな、もっとこうしていれば、わかりあえたかな。迷いや悩み、後悔が、いつまで経っても消えずに残った。
「僕が中央署に異動してしばらくしたら、昇任したばかりの六人部隊長が上司として配属されてきた。隊長は年下だし、愛想は悪いけど、当時からめちゃくちゃ仕事ができてさ。男で育児休暇とか短時間勤務なんかとってる僕は、人事からすればお荷物扱いだったから、嫉妬もあったんだとおもう。今みたいに話もできなくて、かといって表立ってぶつかるってこともないまま、一年ぐらいすぎてね」
 六人部が戻ってきた。本当に電話をしていたのかどうかは分からないが、寒い、寒いと体をこすっていたので、成一は焼酎のお湯わりを注文してから、来たばかりの、熱い湯豆腐をよそって差し出した。
「ある時、いつもみたいに急な休みをとらないといけなくなって、翌日頭を下げながら出てきたらね、替わってくれた人じゃない、上司でもない人が二人、僕のとこにきてさ。「もう、やめたらどうだ」とか、「正直迷惑なんだよ」とか、責められて。言い返せなくて、うつむいてだまってたらね、近くにいた隊長が、これまで業務のこと以外、はなしたこともなかった隊長がね、勢いよく立ち上がってね。あまりの勢いに椅子が、ガーンって倒れて、その音にみんなびっくりしてこっち注目してさ」
 居心地が悪そうな、困った表情を浮かべたまま、六人部が焼酎のお湯割りに口をつける。成一は先が気になって、それで?!と目を輝かせながら相づちをうった。
「ね、隊長。覚えてますか、あのとき僕にいってくれたこと」
「……忘れました」
「ええーっ?残念だなあ。僕ね、あの言葉があるから、今こうして毎日、やりがいを感じながら働けてるんですよお」
「うお―っ続き、続き教えてください!」
「おれはトイレに……」
 成一が不自然に席を立とうとする六人部の服を掴んで座らせる。
『おれの部下をそれ以上悪く言ってみろ…』
「や、やめてください大友さん」
 おろおろしている六人部に全く構うことなく、大友が立ち上がった。握り拳で当時の六人部になりきりながら、ドスの利いた声で、唸るように言った。
「『ありとあらゆる手をつかって、酷い目にあわせてやる』――そう言ったんだ、それはもう縮み上がるぐらい恐ろしい顔と声でね!
 僕ね、嬉しくてたまらなかったのに、同時に恥ずかしくて死にそうだった。こんな風に言ってくれる人が、誇りをもって遂行している仕事を、左遷先だなんて思ってたんだもん。顔が上げられずに、しばらく立ったままうつむいてた。色々言ってた人も、こっちを見ていた人もみんないなくなっても、隊長の顔をみるのがこわくて。そしたらー」
「そこから先は、覚えていますよ。確か…」
 観念したのか、六人部が低い柔らかい声で、大友の続きを引き継ぐ。
「前を向いてください。あなたには病気の家族がいる。それは、傷病者の家族の気持ちが、辛さが、誰よりもわかるということでしょう」
 目の前に座っている六人部の目を、声を、余すことなく自分の中にいれたくて、成一は瞬きも忘れてみつめた。六人部の伏せられていた視線が、顔が上がって、照れくさそうに笑いながら、成一と大友を見つめ返してくる。
「なによりも強い武器です。どうか、」
「「未熟なおれに、これからも力を貸してください」」
 大友の声と六人部の声が重なって、笑い声にかわる。成一は胸が、限りなくまっすぐであかるい刃に貫かれたように熱くなって、それはそのまま涙にかわってポロポロと頬を伝って落ちた。
「あは、なんで泣くんだよ。ほんとほしのっちは、泣き泥棒だよお」
「なんすか、泣き泥棒ってえ!」
 ごしごしとセーターの袖で目をこすっていると、大友が汚れたお手拭きを差し出してきたので丁重に断った。自分のハンカチを取り出すよりも早く、六人部が自分のハンカチを差し出してくれて、またたまらなくなって涙が出てしまった。
(おれ、この人を好きになれて、この人の側にいられて、ほんとうにうれしい)
「人が泣きたいときに、いつも勝手に、横取りして泣くんだもん」
 こんなにも涙もろいのは、酒が入っているせいかな、と考えた。
(いや、そんなんじゃない)
 命がうまれた日、違う命が消えかける。言葉でつけられた傷の痛みを思い出した日、言葉によって救われた人に、その傷がいやされていく。
 視線を成一にうつした六人部が、言葉を確かめながら、ゆっくりと言った。
「徳田という指令補のことを、詳しいわけじゃない。ただ、過酷な業務で病気になってしまってから、それまで組織に期待され、必死にこたえてきた自分が突然お荷物のような、腫れ物のような扱いを受けて、すごく悔しかったんだろうと思う。病気も、怪我も、誰もなりたくてなるわけじゃない」

 だからといって、手近にいる部下を傷つけたり、憂さ晴らしに使うなんて、おれは絶対に許せないけれど。

 そういったときの六人部の目は、以前、千早とケンカをしたときに見せた炎のような熱さと怒りがこもっていて、いけないと思うのに、成一は喜びを感じてしまう。
「隊長や、周りのみんなが協力してくれたおかげで、妻の体調はよくなってね。今は、二人で協力しながらこどもの看護や、病院の送り迎えをしてるんだ。でもずっとつきっきりは辛くなっちゃうから、クリスマスイブは僕、クリスマスは奥さんのお休みの日」
「そっか、お休みってそういう意味だったんですね」
 成一の問いかけに、大友がにっこり笑った。
「娘の病状は一進一退で、辛くて…仕事に逃げたりもしたけれどね、今日また思い出した。力強い赤ちゃんのなきごえを聞いて、娘が生まれたときすごく泣いたこと、うれしくてうれしくて、一生守るんだって決めたこと、思い出したよ」
 楽しいことばかりでは決してない。理不尽なこと、辛いこと苦しいこと、やるせないことは山ほどある。
(でも、この仕事がすきだ。好きだと思わせてくれた、大友さんと隊長のことが大好きだ。――これまでおれを育んでくれた、この街に住んでいる人のことが、大好きだ)
「いま、おれと星野は同じことを考えている気がする」
 六人部の言葉に、成一は「たぶん、そうです」と目を細める。
「いいことも、わるいこともあるなんて、仕事と人間ってそっくりだよね。いいだけの人間も、悪いだけの人間もいないじゃない?仕事だってさ、どんな仕事だって、きっとそうなんだね」
 さあ、難しい話はここまでにして、せっかくだから七面鳥食べよう!
突然そう叫んだ大友が、個室であるのをいいことに、なにやら箱を取り出してフタをあけた。
「さあ、奥さんの作ってくれたまずーーい、ぱっさぱさの七面鳥の丸焼き、どうぞ召し上がれ!」
 それまでの雰囲気が嘘のように、成一と六人部の明るい悲鳴が重なり、やがてそれは三人の笑い声へと変わっていった。

 

 

 

 すっかり酒に寄った大友をタクシーに乗せ終えてから、成一と六人部は、由記駅の商店街を二人、並んで歩いた。午後五時直前の街は、これからの客入りに備えてそわそわと浮かれはじめたところで、冷えた体を震わせながら家路を急ぐ二人とは対照的だった。
「ぐ、寒い、寒すぎる…隊長、もうちょっと飲んで体温めるか、そこに新しくできたスーパー銭湯いくかどっちかどうですか?」
 ファーのついた、暖かそうなダウンパーカの背中に声を掛ける。寒さに前のめりになっているたくさんの人の中で、まるで目印のようにぴんと延びた背筋が、成一の声に振り返った。
「今日みたいな日に、スーパー銭湯って混んでないか?」
「あ、そっか。日にちの感覚狂ってるけどそういやイブでしたね」
「七面鳥、さっき食ったろ」
「おれに作らせてくれたらもうちょっといいものを作ったのに。素材がもったいなくて泣きそうでした、どうやったらあそこまで見事なパッサパサにできるのか…。いや、まあ確かに七面鳥ってパッサパサになりやすい素材ではあるんですけど」
「大友さんに伝えておくよ」
「やめてくださいお願いします!」
 淡々とした表情を崩して、六人部が笑う。こんなに笑う人だったかな、とおもいながら、成一もつられていつも笑ってしまう。
 商店街を抜けると、風が直接吹き付けるせいで、ますます寒さがひどくなった。
「よかったら、うちに来るか。酒以外何もないけど、風呂ぐらいなら貸せる」
「いいんですか?」
 突然降ってわいた幸運に、声がうわずる。小走りに近寄って隣に並ぶと、わずかに成一よりも背の低い六人部が、不思議そうに見上げた。
「明日は非番だしな。なんなら、泊まっていってもいいぞ」
「じゃあ、DVDでも借りて、食料買い込んでからいきましょうか」
「そうだな。今は腹いっぱいだけど、そのうち空くだろうし」
――今日がイブなのは、単なる偶然だ。
 だがその偶然に、二人でいられることが嬉しかった。

 食べものを買い込んで、レンタルビデオ店に立ち寄る。アクション映画のコーナーをうろうろしている成一を置いて、六人部はホラー映画のところで真剣な顔をしていた。
「クリスマスイブに人食いゾンビっすかあ…」
 げんなりした声で呼びかけると、六人部はDVDのケースを手に取って呟く。
「こっちもすごいぞ。悪魔の子が一家を滅ぼす、どこかでみたような設定だ」
「もうちょっとスカッとするやつにしましょうよ!ほら、これとかどうすか」
 シリーズもののスパイ映画のジャケットを見せると、六人部が表情を緩める。
「なつかしいな。ジェームズ・ボンド」
「これ兄貴が好きで、DVD全部持ってるんですよね。あとほら、リーサルウェポンとか、ダイハードとか」
「お前の年齢で知ってるのか。おれが子供のころ流行った映画だぞ」
 あれでもない、これでもないと散々議論したあと、アクション映画一本、ホラー映画一本、ミュージカル映画一本を借りて店を出る。温まりつつあった体を冷たい風があっという間に冷やして、二人とも同じタイミングで首をすくめた。
「すっげー寒い」
「コーヒーでも買って帰るか?」
 駅のロータリー付近を歩きながら、六人部が視界にとまったカフェを指さす。
「いや、ここは我慢です。今から酒飲むんだし、なるべく喉乾かしておきたいなと」
「オッサンの発想だな」
「そういえば朝もあのカフェの前通りましたよね。コーヒーの匂いってそそられるなあ」
 成一の後ろから指す夕日がまぶしいのか、六人部が目を細めて見上げた。さほど身長は変わらないが、たまたま履いていたのがブーツだったせいで、いつもよりも成一の視界は高い。上から見た六人部の顔立ちは、鼻が高くて、ともすれば眠そうにみえる目は、眦がきりっと上がっている。
(どうみても男の、かっこいい顔だよなあ…。でもおれは、ドキドキしちゃうんだから不思議だよ)
「オッサンは隊長でしょ」
「失礼なやつめ。お前より腹筋割れてるぞ」
「おれのほうが体やわらかいですよ」
 成一は姿勢を正し、アラベスク、そのまま軸足から振り切って飛び、ポーズを保ったままドゥミ・プリエして下りる、タン・ルヴェ・アン・アラベスクをしてみせた。
 ブランクがある割には体が軽い。一番ポジションで立って恭しく礼をすると、六人部が笑いながら拍手してくれた。
「本当に、なんで消防士になったんだよ」
「歌って踊れる公務員、かっこよくないですか」
「残念ながら、その特技は仕事の役に立たないけどな」
「ぐっ!本当のことなんか言わなくていいんですよ、今は」
 通りがかりの女性が笑顔で拍手してくれる。成一はすいません、ありがとうございますと言いながら高い背をかがめて礼を言った。

 

 

 

 冷え込んだ空気のせいか、顔をこわばらせた人々の間を通り過ぎて、六人部のアパートに着いた。駅から少し歩いた、路地を入り込んだところにある二階建ての古びた建物は、まるで官舎のように質素で、かわいた黄土色をしている。
 錆びた外階段をカンカンと音をたてながら上がり、鍵を開ける六人部の後ろ姿をぼんやりと眺めていると、突然(好きな人の家に来たんだ)と気づいて顔が熱くなる。
 今までこんな気持ちになったことあったかな、と過去を思い返してみたが、思い当たらない。独り暮らしをしていた前の彼女の家にはよく行ったけれど、人の家で眠るのが苦手な成一は、用が済めばいつも家に帰っていた。
(他人の家の匂いが、苦手だった)
 自分の痕跡を残すのも嫌いだった。歯ブラシや小物など、一切置いたことがない。一度そのことを、「いつでも別れられるように準備されているみたい」と当時の彼女に詰られたことがあった。
「…星野、どうした?」
「あ、ごめんなさい。お邪魔しまーす」
「狭くて悪いけど。どうぞ」
 玄関にはスニーカーが二足、きちんとつまさきを揃えて並べてある。鮮やかな緑色をした、使いこまれたコンバースの隣に、靴を脱いで上がりこんだ。
 ワンルームかと思っていた部屋は意外に広い。寝室は別にあるらしく、廊下のつきあたりはリビングになっている。
「わー……本がいっぱいありますね」
 リビングをぐるりと取り囲むように置かれた本棚は、さすが消防士というべきか、すべてきちんと壁に固定されているが、文庫本からハードカバーまで、ありとあらゆる本がぎっしり詰まっていた。圧倒されて口を開けたまま立っている成一に、六人部が「座れよ」と言ってビーズクッションを手渡す。
 一枚木でできた丸いローテーブルと、テレビボードの色は落ち着いたブラウンで統一されていて、ラグは薄いグレーだ。色合いに乏しい部屋だが、本棚の中にある色とりどりの本の背表紙のせいで、物寂しい雰囲気は感じない。
「このクッション、ダメ人間になるやつですね…」
 体をすっぽりと覆う、大きなクッションに腰掛けて成一がつぶやく。六人部は笑って、風呂沸かしてくる、といって廊下の向こうへ消えた。
 ストーブが着いたのか、わずかにガスが燃えるようなにおいがする。クッションの中に身を預けてしばらくしてから、不意に六人部の言葉を思い出し起き上がった。
「風呂!?」
「寒いから入りたいと言ってただろう」
 十分ぐらいで沸くよ。そういって六人部が冷蔵庫へ向かい、缶ビールを二本持ってきた。寒くないか、とか、ブランケットか何かいるか、という問いかけに、成一は慌てて「大丈夫です」とこたえる。
 六人部は床に敷かれているラグの上にあぐらをかき、ビールを手渡す。買い込んできた食べ物をテーブルに並べるのは成一の役割で、名残惜しく思いながらビーズクッションを横へ追いやって、同じようにあぐらをかいて座った。
「冬でもスーパー、ドラーイですか。隊長いつもこれですよね」
 CMできいたような口調を真似て成一が言うと、六人部が首を傾げた。
「そうだったかな。なんとなく、飲みなれてるから買ってるだけなんだが」
 その仕草を可愛いな、と思ってしまって、成一は焦る。
「おれも好きです。きりっとしてて、後をひかないから」
 署の飲み会のように、勢いよく成一が立ち上がる。胸の中に生まれた邪心に水を差すため、あえて仕事の空気をこの場に引き入れる。
「本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。由記中央署の忘年会ということで、救急隊の六人部隊長から、お言葉と乾杯の音頭を頂戴したいと思います!」
 言い終えて両手でさっと合図をすると、体育会系の悲しい性だろうか、六人部も隊長らしい業務の顔をして立ち上がる。
「えー、クリスマスイブですので、手短に終えたいと思います。星野が異動してきてはじめての年の瀬になりました。はじめは随分頼りない青年だな、とか、これで救急救命士か手際が悪いな、と思わないでもありませんでしたが――」
「えっそんなこと思ってたんですか」
「まあ最後まで聴け。――ありませんでしたが、素直で、前向きな性質のせいか、みるみるうちに成長してきました。まだ少し鍛える余地はありますが、今は由記署救急隊のエースとして、欠かすことの出来ない隊員の一人です」
 淡々とした口調の中に上司という立場を超えたあたたかみを感じて、成一は立ったまま六人部を見つめた。もしかするとおれ涙ぐんでるかもしれないな、と思っていると、彼は目を細め、破顔した。
「何より、星野が来てから毎日が楽しくなりました。これからもよろしく。乾杯」
(ぐっとくる、てのはこのことか)
 うれしくて愛しくて、眩暈がした。
 ごまかすために、成一はビールの缶を高く掲げて「乾杯!」と叫ぶ。普段の飲み会のノリでふたり缶ビールをぶつけたせいで、勢いが強すぎて中身がこぼれ、成一は慌ててラグを拭いた。
 お互いに一息に飲みほし、そのまま二人で拍手する。律儀に職場の飲み会を再現してから、目を合わせて笑い合ったところで、風呂が沸いたことを伝えるメロディが台所から聞こえてきた。
「外、寒かっただろ。先に風呂使っていいぞ。バスタオル置いてあるから」
「すいません、それじゃ、お言葉に甘えて」
「悪いが、お前の家みたいにバスソルトなんて洒落たものは置いてないんだ。石鹸とシャンプーとリンスしかない。体は適当にあるもの使って洗ってくれ、剃刀だけ新しいの出しといた」
「了解しました、充分です。ありがとうございます」
 上司の家で風呂に入る機会なんてそうそうない。緊張と、少しの興奮が混ざり合った不思議な心地で服を脱いで、よく磨かれているタイル貼りの浴室に入る。空気が冷たかったので、シャワーをひねって温水が出るのを待った。
「うああー…あったまるー」
 浴槽で天井を仰ぐ。全体的によく掃除がされていて、本人がいうほど「家事が苦手だ」という印象は受けない。
 自分の頭から、普段六人部からかおってくるシャンプーの匂いがする。眼を閉じ、参ったなあとひとりごちた。暖かい風呂は、どんどん成一の心を無防備にする。
「隊長も入ったら、おれら同じ匂いがしちゃうじゃん」
 当たり前のことなのに、むずむずする。
「恋人同士みたい。……えっろ」
 若者らしい軽い言葉を吐きだし、浴槽にぶくぶくと沈む。
 隊長は、と考える、
(隊長は、そういうのなんとも思ってないんだろうな)
 気持ちの重さに差があることは理解していた。見返りを求めないのが愛だ、というのは成一の持論であり、祖母の教えでもあった。
 ただ、相手も自分を、ほんの少しでも気に留めてくれたらいいな、と思うのは、こと恋愛においてはしかたないことだった。

 

 

「お先にお風呂いただきました、ありがとうございます」
 リビングに入って声をかけるが、返事がない。姿を探すまでもなく、六人部はラグの上で横になって寝息を立てていた。
 頭をバスタオルで乱雑に拭いながら、成一はその寝顔をみつめた。起こさないように、静かに隣に座り込んで、短い前髪の下、目を閉じた精悍な横顔を観察する。
 思い返せば、六人部は成一の前でよく眠っていた。成一の家に三嶋とともにやってきたときも、大友を交えて勤務後飲みに行ったときも。まるで成一が睡眠導入の役割を果たしているかのように、無防備に目を閉じ、休んでしまう。
 直線的な眉の下の、今は見えない眼は、眦の上がった涼しげな一重まぶたをしていて、三嶋ほどではないが、睫毛の密度が濃くて長い。鼻筋は男性的であるがすらりと高く、薄い唇はいまも、一文字に引きむすばれている。
 甘い顔、と揶揄されることのがある成一とは違う、男性的で凛とした顔立ちを飽きずに眺めていると、体の奥にある本能的なところが、じわじわと自分を刺激するのを成一は感じる。それは普段、決して表に出すことを許さないよう徹底的にコントロールしている彼に向けた性欲じみた衝動で、うすく開いた唇に指で触れたい、という願望を頭の中に伝えてきて途方に暮れた。
(信頼に応えるには、すべての欲望を制御する必要がある。他の人がどうするのかは知らない、少なくともおれはそうありたい)
 自縄自縛とはこのことだった。必死の思いで六人部から視線を剥がして、成一はDVDを一枚、レコーダーの中に挿入する。着いたままになっていた部屋の灯りを落として、ゆらりと動く画面へと意識を集中させようとした。
「…悪い、眠ってたか」
 大好きでたびたび見ている「サウンドオブミュージック」のオープニング、美しい草原の緑に目を奪われていた成一が、体を起こした六人部に微笑みかける。
「お先にお風呂いただきました。追い炊きします?」
「いや、いい。入ってくる」
 遠くからシャワーの音が聞こえてくる。画面の中では、主人公がのびのびと『The hills are alive』を歌っていて、そのメロディが成一の古い記憶を呼び覚ます。
 父が集めていた古いミュージカル映画が大好きだった。タップダンスやバレエに興味を持ったのも、ジーン・ケリーが歌って踊る映画を見てすっかり魅了されてしまったからだ。
 サウンドオブミュージックは成一の大好きな映画で、落ち込んだときや孤独を感じた時、どうしても観たくなってしまう。オープニングの歌で既に心は高揚しはじめ、ドレミの歌は一緒に歌い、「私のお気に入り」は聴きながら涙がにじんでしまうぐらい好きだ。
 この映画を見ると、子供の頃の決意を思い出す。
 映画のように、音楽やダンスでバラバラになった家族が一つになれば、と当時の成一は考えたのだった。自分の事やバレエ教室のことしか考えていないような母、それに反発する兄、唯一の家族といっていい祖母、ほとんど家にいない父。みんなが一つになるには、音楽しかない。
 だが悲しいかな、成一には楽器を演奏するセンスがなかった。音を聞き分けることは他人より得意だったし、リズム感もあったけれど、体を動かすセンスに比べると、成一の両手はあまりにも不器用だった。
「なつかしいな」
 風呂から出てきた六人部が、ビールを片手に隣に座った。髪から、成一と同じ匂いがして、慌てて成一もビールを呷る。食べ物をつまみながら、映画に見入るフリをした。
「この映画、定期的に観たくなるんですよね」
「わかるよ。映像がうつくしくて子供らが可愛い、なにより音楽が素晴らしい」
 沈黙が落ちてくる。十センチもない距離で隣り合って座っているせいか、相手の息遣いまで肌で感じる気がした。
 飲み終わったビールの缶が、二人の間に縦に積み重なっていく。映画の中で主人公が「私のお気に入り」を歌い始めた時、成一だけではなく、六人部も口ずさんでいた。小さな鼻歌から、徐々に大きな声へ。酔いもあってか、目が合うと笑みがこぼれた。体が動かしたくなってきて、成一は自分の中のダンサーの部分がまだ死んでいないことを自覚する。
 映画が終わると、窓の外はすっかり暗くなっていた。物語の余韻が部屋のなかにうっすら漂っていて、どちらもDVDを止めたり交換したりできなかった。そんなことをすれば、今ここにある親密な空気が霧散してしまう。
「人の死は、少しずつ風化するんだな」
 静かな声だったが、唐突な内容に成一は思わず「え?」と聞き返してしまう。
「この映画、父が好きでよく観ていたんだ。アキと、おれと、三人で」
「そう、だったんですか……」
 縦に積まれた空き缶を、成一がそっとコンビニ袋に詰めていく。冷蔵庫にはすでにビールの姿が見つからず、その旨を伝えると、ウィスキーの瓶をとってくれと声をかけられた。
 水割をつくるのもこの世界に身を置いていれば慣れたもので、成一は適当な容器に氷を入れ、冷蔵庫の中にあったミネラルウォーターやソーダ水をお盆に乗せて、リビングに座りこむ。
「シングル水割りでいいですか」
「ありがとう」
 氷がぶつかる涼しげな音がする。水割りを手渡してから、自分の分のハイボールを作って軽くグラスをぶつければ、六人部が目を細め、成一をみつめた。強い視線はまるで成一の心を見透かしているようで怖くなり、俯いてしまう。
「成人してからずっと、見てなかった。ときおりこの映画にでてくる音楽を聴いただけで、胸が苦しくなったぐらいだったんだ。他にも父に繋がるものを、ことごとく避けた」
 でも、と続けて六人部が部屋を見渡す。圧迫感すらある本棚を、成一も一緒に見上げた。
「ここにある本の半分は、父の蔵書だった。本だけは苦しくなかったんだ。読んでいれば違う世界に逃げることができたから。耳から入る情報よりも、やんわりと頭に入ってくるからかもしれない」
「音楽や匂いは、記憶とダイレクトにつながっていますから」
 成一の言葉に、六人部が頷く。無表情の中に浮かんでいるのは、諦めとも寂しさとも違う、身にまとい慣れた孤独だった。
「星野とこの映画を見ている間、ずっと考えていた。どうしておれは、父の死を誰かのせいにしたりしたんだろう。どうして逃げることしかできなかったんだろう。避けていた映画は、今見ても素晴らしいのに。悲しくも、辛くもない、ただ作品に込められたあたたかさや誠実さが、ちゃんと伝わってくるのに」

 どう答えたら、正解なんだろう。
 成一には分からなかった。慰めや励ましを言うには、成一と六人部の間柄に時間はさほど経っておらず、かといって質問したり掘り下げたりすれば、六人部を傷つけることになるかもしれない。
 この人がもしも、女性なら。
 きっと、手を握ったり抱きしめたりする。言葉で伝えられないこと、あなたのことを想っているということ、あなたは一人じゃないということが余すことなく伝わる素晴らしい方法が、そういったスキンシップなのだと成一は思う。
 けれども六人部は自分よりも大人で、上司で、おまけに男だ。
(それなのに、おれには時々、この人が泣いてる子供みたいに見えるんだ)
 ほとんど無意識に、成一は六人部を抱きしめていた。それは性的な匂いの全くない、親が愛してやまない子供にするような、やわらかくて優しい抱擁だった。
「おれね、隊長と三嶋先生をみてると、いつもこうしたくなるんです」
 囁く声に、六人部は身じろぎもしない。驚いたのか、声すら上がらなかった。
 六人部と父親の聡、それに三嶋。互いを尊敬し、認め合い、生きるよすがにしていた三人。
 彼等の間にある濃密な時間が、成一には羨ましかった。
 血縁の家族であっても、表だってぶつからなくても、関係の薄い家族だっている。成一の家族がまさにそうで、祖母がいたからなんとか兄とはつながりを持てていたものの、結局のところ母親を失望させ、父親は理解の及ばないところにいるままだ。かつての六人部のように、街に住み続けることすらままならなくなったほどの愛情は、成一の中、どこを探しても見当たらない。
「隊長も、三嶋先生も、おれよりずっとしっかりしていて、大人なのに。変ですよね」
 でも、と抱きしめた六人部の髪の中に、成一は言葉を潜らせる。
「ふたりとも他人ばかり助けて、自分達のことはボロボロのままで走ってるから」
――だからおれは、ふたりを抱きしめて、しばらく休んで下さいって言いたかった。側にいますよって、一人じゃないですって伝えたかった。
 腕の中で固まっていた六人部が、震えた。成一の肩に、強く額が擦りつけられる。だらりと垂れたままだった腕が成一の背中にまわり、苦しくなるほど抱き返される。
「体温、」
 肩が暖かく濡れている。そのことに気付かないふりをしながら、成一は抱きしめた六人部の髪に鼻を埋めた。同じ匂いのする、硬い髪。ずっとこうしたかった気がするのに、想像の中ではもっとすごいことだってしていたのに、不思議なぐらい性的な興奮はやってこない。
「なんですか?」
「人の、体温。ひさしぶりに感じた」
「男でごめんなさい。本当ならこういうの、きれいな若い女性だったら隊長だってもっと嬉しいですよね」
 笑った気配がする。抱きしめているせいで、くぐもった声だった。
「そんなことない」
 ありがとう。
 六人部の声に、成一は首を振る。
「隊長も、三嶋先生に言葉で上手く言えないことがあるなら、抱きしめてみるといいんですよ。きっと何か言うより、伝わるはずだから」
「…そうだろうか」
「そうですよ」
 体を離し、DVDを交換した。今、名残惜しい顔をしているのが自分だけじゃないといいな、と成一は思った。

 酒を飲む。なくなる。またつくる。
 アクション映画のドンパチを、へべれけになりながら野次を飛ばしながら鑑賞した。「もっとやれー!」とか「志村、うしろうしろ!」とか既に映画と全く関係ない内容もその野次には混じっていたが、成一は腹を抱えて笑った。
 映画館に行くのが面倒だが映画が好きだという六人部の部屋には、ビールと同じぐらいポップコーンが置いてあった。電気の消えた夕暮れの部屋の中、さながら映画館のようにラグの上に座って、時々横になったりポップコーンを投げつけられたりしながら、いつの間にか二時間の映画は終わっていた。
「停止ボタン押してくれ、星野」
「いまいちスカッとしない終わり方でしたね」
「実は味方が犯人でした系は、確かに食傷気味ではあるな」
 成一は顔に出るがあまり酔わなくて、六人部は平然としているが眠くなるタイプだ。ふたりして散々な量の酒を飲み、次第にテンションがおかしくなってきて、暑い!と叫んでから六人部がパンツ一枚で風呂場へ走って行ったのを、成一も同じくパンツ一枚で追いかけた。六人部は両手にシャンパンをいれたグラスを四つ持って、「シャンパンファイトするぞ!」と言いながら風呂場で、成一の頭からシャンパンをかける。高級なシャンパンなので、頭経由で飲んでも美味しかった。
「隊長!なんか、こうばしいです!」
 自分の頬を舐めながら成一が言うと、六人部が突然顔を近づけてきて、頬をぺろりと舐めた。唖然としている暇もなく、自分でもシャンパンを頭からかぶり、「ほんとうだ、頭からかけたほうがこうばしいな」と訳の分からないことを言った。
 本当は全く酔っていなかったのに、成一も酔ったフリをして六人部の頬から顎に伝うシャンパンを舐めた。眼を閉じてそれを受け入れた上司が、「なんかおまえの舐め方は、やらしいんだよ」と突っ込む。返事をせずに、耳から首筋を舌でなぞる。バチンと頬をはたかれて、やり過ぎてしまったかとヒヤヒヤしたが、その顔は笑っていた。

「隊長酔いすぎ」
「怖いんだよ。ホラー映画、本当は苦手なんだ」
「じゃーなんで借りたんすか」
「思い出して懐かしくなったから」
 シャワーのコックをひねると、熱い湯が噴き出してお互い頭からかぶってしまう。濡れた髪の下で、六人部の目がさびしげに揺れた。
「父が好きだったんだ。クリスマスはもちろん、イベントのたびにホラー映画借りてきて、おれとアキをびびらせて楽しんでた」
 びびらせて、という言葉が平静の六人部らしくなくて、成一は思わず笑った。
「隊長もびびってたんですか」
「そりゃあな。わざと電気を消して隠れたりするんだぞ、あの親父は」
「あはは。三嶋先生は?」
「全然平気です、って顔を装ってたけど、後ろから大声だしたら叫んで抱きついてきた」
「なにそれかわいい……!」
「そうなんだ。おれも父も、あれが楽しくてつい驚かしてた」
「グルじゃないですか。先生かわいそう」
「想像してみろ。あの顔で、涙目で抱きついてきて、下から睨み付けてくるんだぞ」
「ちょっとやばいですね、クラっと来ちゃいそう」
「で、散々騒いだあと電気をつけたら、床にクリスマスプレゼントが置いてある」
「粋な演出ですねえ」
「アキもおれも毎年驚いていた。いつの間に置いたのかさっぱりわからないし、結構いい年になるまで本当にサンタクロースがいると思っていた。親父は親父でおれにはアリバイがある、お前らと一緒にDVD見てただろとか言ってくるし」
 父親や三嶋の話をするとき、六人部はいろいろな顔をした。意地がわるそうな顔、楽しげな顔、やさしい顔。全て、仕事中はあまり見ることのできない貴重な表情で、成一は嫉妬よりも驚きの方が勝ってしまう。
(これだけ深い絆を見せつけられると、妬み嫉みよりも、そりゃあ勝てないよなあって)
 勝ち負けじゃないことは分かっている。時間が全てではないということも。
 だが確かに存在していた長い時間を一気に覆すことができると自惚れるほど、成一はバカではない。全てが積み重なっていまの六人部があるなら、彼の中の三嶋や父親すら愛しかった。
「もっと話がききたいなあ。ホラーやめますか?」
「せっかくだから見ようか。お前がびびってちびるところがみたいから」
 ちょっと酒乱の気があるのかな?と成一は内心笑った。
(なんかちょっと、口が悪くなって、手癖も悪くなるような気がする)
「びびりませんし、ちびりませんよ!おれそっち系強いんです」
 シャワーも済ませ、バスタオルで体をふいた。寝室に消えた六人部からフリースの上下を手渡され、パジャマがわりに着る。暖房は少し暑いぐらいに効いていたが、デニムよりも体が動かしやすくて助かった。
「冷たいお茶でも飲むか。入れるぞ」
「じゃあちょっと片づけますね。ポップコーン散乱してるし!なんで投げるんですか、もー」
「映画館らしくていいだろ」
 言いながら、また拾ったポップコーンをぽこんと成一の頭に投げる。床に落ちる前に空中でキャッチして、犬のようにぱくりと食べる
「食べ物を粗末にしちゃだめです」
 冷たい麦茶のペットボトルをテーブルの上に置いて、六人部が再生ボタンを押す。幽霊ものじゃなく、東欧の地で何も知らない若者が、いつの間にオークションにかけられて拷問されるという、正真正銘のソリッドスリラーだ。
「最初のえっちなサービスタイムはどこにいったんすかこれ…ギャーッ」
 幽霊だとか超常現象だとか、そういったものになら成一は耐性がある。そんなものはいないと思っているからだ。だが、今目の前でやっているホラー映画は、人間が人間を痛めつけ、痛みを想像させて震え上がらせるという類のもので、救急救命士という仕事柄その怪我の程度と苦痛が想像できてしまう成一は、見ているのも辛くなってきた。
「もうこれ怖いとかではなくて気持ち悪いよな。いた気持ち悪い…ダメだ無理だ」
 それは六人部も同じ気持ちだったらしく、勝手に停止ボタンが押されてチャンネルが民放のバラエティに切り替わる。主人公の大ピンチで切られてしまった成一は、大声で抗議した。
「ちょっ、ここでやめないでくださいよ!めちゃめちゃ気になるじゃないですか」
「気持ち悪くないのか、あんな痛い映像ばっかりでてきて」
 やや青ざめた顔で麦茶を飲む上司に、成一は虚勢をはった。
「どうせ全部作り物ですよ。あんな設定あるわけないし」
「おれは嫌だ。もう見たくない。エンディングは適当に想像しよう。多分あのあと全部夢でしたーって話になって全員ゾンビメイクのままスリラー踊るんだ」
「ひどい。映画への冒涜だ」
 言いながら、立ち上がってスリラーのダンスを軽く披露する。手を叩いて六人部が笑った。
 電気をつけて、リビングの時計を見る。いつの間にか夜の一一時を過ぎていて驚く。
「こうやって、クリスマスイブの夜は更けていくわけですか」
「お前、実家で過ごさなくて良かったのか?」
「実家帰っても誰もいませんから。母は自分の教室のクリスマス公演のことであちこちいってますし、父はドバイですし。兄貴は…どうだろうなあ、腹筋背筋でも鍛えてんじゃないすか、よく知らないけど」
 半ば冗談で言うと、六人部があり得るな、と真面目な顔で同意する。
「星野のお父さんは商社勤めだったか。忙しくて大変だな」
 どこの商社だったかな、と詮索するでもなく世間話のようなのんびりした口調で問われて、成一はぽろりと普段口にしない父の会社名をばらしてしまう。
「加藤商事です。安定してるねとか一流商社じゃんとか言われますけど、実際忙しいどころか滅多に会わないんで、会うたんびに『おれのこと覚えてるかー?お父さんだよー!』とか言われてすげーめんどくさいです。一流じゃなくてもいいから、三流でもいいからもうちょい家にいてほしかったな」
 いい年をして恥ずかしいことを言ったという自覚はあった。だが六人部がとても優しい顔で笑って成一の頭を撫でるので、成一は照れくさくなって俯く。
「母親の話が全然出てこないけど、仲が悪いのか?」
「うーん、悪いとかじゃなくて、好き勝手してるんですよね、うちの母親。思った事をそのままいっちゃって配慮が足りないから、いつも周りを傷つけたり振り回したりするんです。バレエやってたころ、それが原因で兄貴と母が決定的に仲悪くなっちゃって」
 母は、おれを生んだ直後に病気で、子宮全摘してるんです。
 成一の言葉に、六人部が息を呑む。
「ずっと女の子が欲しかったそうです。世界で活躍するプリマを育てるのが夢だったらしくて。だからおれが生まれて、男で、ちょっとがっかりしちゃったそうで」
 女性にとってどれだけ辛い事か、特にこの仕事に就いてからは成一にも想像はできた。だがどれだけ頑張っても否定されたあげく、そもそも女の子が欲しかったと言われて、それまで必死で繋いできた糸が、ぷつんと切れてしまったのは事実だった。
「高二の、コンクールの後だったかな。結果が芳しくなかったことに激昂した母が、直接それを、おれに言ったもんだから。控室に遊びに来てた兄がキレてしまって」
 気遣いに満ちた六人部の眼差しが、成一の背中を押す。
「ここまで言われて、この女の顔色窺って生きるのはもうやめろって。まあ、そうだよなって気が抜けちゃって、踊れなくなって。でも祖母が、泣きながら頼み込んできたんですよ。あの子にはバレエしかないから、切らないでやってくれって。踊りを通じてしか、コミュニケーションできないからって。で、しばらくやって、祖母が亡くなってからやめました。怒られどおしだったし、本当に踊りを通じてコミュニケーションなんかできてたのか謎ですけど」
「辛かったな」
 深い、いたわりのある声だった。成一は眉を下げて笑った。
「兄貴は昔から、両親と正面からぶつかっていくタイプでね、内心バカだなーと思ってたんです。もっと上手くやれよ、表面だけ従っとけば、もっとやりたいことやらせてもらえるじゃん、って。ただ、最終的にはおれだって逃げ出したんですよね。兄貴が言ったとおり、ずっと顔色窺って、我慢してるのに疲れちゃった。――そういうわけで、険悪とかそこまではいかないですけど、わりと疎遠で距離のある一家なんです。隊長の話をきいてると羨ましい。お父さんはすごく面白くて優しくて、兄弟のかわりに三嶋先生がいて……。お母さんは、亡くなられて随分経つんですか?」
 六人部の眼に暗い色合いが浮かんで、成一は失敗した、と思った。
「母はおれが生まれたとき、死んだ」
「そうだったんですか。ごめんなさい」
「構わないよ」
 濡れた髪を乱暴に拭きながら、六人部は安心させるように微笑んだ。
「駆け落ちまでして結ばれた母を奪ってしまった。だから、父を幸せにするためなら何でもしよう、そのために生きようと思っていた」
 視線が、成一を通り過ぎてテレビボードへと移る。上から二番目の引き出しを見つめながら、静かな声で六人部が言った。
「でもアキが目の前に現れて……何故だろう。わからないけど…おれは、アキと出会うために生まれてきたんじゃないかって、頭じゃなくてもっと深いところで感じた。同じ傷を、二つにわけて、別々に持って生まれてきたような感じだった」
 ああ、と成一は内心深い溜息をつく。
(惹かれあうのも無理はないよ、だって、)
 ふたりが抱えている問題は、根本的なところがよく似ている。
 三嶋は、親に十分に愛されなかったという悲しみと怒りがあった。
 六人部は、自分が生まれてきたせいで母親を殺してしまった、という負い目があった。
 どちらも、自分が親を不幸にしてしまったのではないか、という強い自責の念に繋がっていて、二人の心を深く傷つけ、今に至るまで自分自身を許せない原因になっている。

「アキが無意識に、父親や母親を求めているのは分かっていた。でも、おれはアキを、本当は、身内のように思ったことなんて、一度もなかった。兄弟のようで羨ましいと星野は言ったけれど、……出会ったころからずっと、欲望的な意味で好きだった。いけないと思うのに、そういう目でしかみられなかった」
 予想はついていた。ただの友人でないことぐらい、成一にも分かっていた。
 それでも、直接六人部の口から聞かされると、重みが違う。喉が渇いて、うまく相槌も打てなくなった成一に気付かずに、六人部は続けた。
「出会ったころから、アキの美しさは女のものと全然違っていた。明るさだとか、華やかさといったものはまるでなくて、ただひたすらに鋭利で、暗くて、深い眼をしていた。すべてを見ているようなのに、何もかもに興味がないような顔をしていた。それなのにどんな女よりも目が離せなくて、時間があればずっと見ていた。小学生ぐらいの年だと、ときどきクラスの誰それがかわいいとか、気になるとか、そういう話になるだろう?」
 質問のニュアンスは薄かったが、成一は掠れた声で「確かに」と相槌をうつ。六人部は暗い目で、自嘲気味に笑った。
「そういう話題になったとき、おれはいつも答えることができなかった。自分の周りにいる女を、見た事がなかったから。自分はおかしいのではないかと、その頃からうすうす感じていたし、他に目を向けようとしたこともある。でもアキの前では全てが無意味だった。着飾った可愛い子も、やさしくて大人びた子も、視界の端にも映らなかった。おれの世界にはアキと父しかいなかったし、他には誰も入れたくなかった。アキは誰とでも合わせることができたんだ。それなのにあいつは、おれがいたらそれでいいと言って、他に目を向けようとしなかった。自分が仕向けたことなのに、それがたまらなく嬉しくて、きもちがよくて……。だから、おれは自分勝手にアキの世界を閉じた。誰もみないように、自分だけをみるように、優しくして根回しをして、閉じ込めたんだ」

 受験が終わって気が緩んでいたのだと思う、と六人部は細い声で言った。
 高校受験が終わった日、聡はねぎらいの意味で寿司の出前を取ってくれた。三嶋をいつものように部屋に招き入れ、「合格前祝いや」といってふるまった。
「よし、今日は無礼講やからひとくちだけ飲んでもええぞ」
「父が飲んでいたビールを、ひとくちずつ分けてもらった。苦い、まずいと舌を出しながら飲んで、借りてきた趣味の悪いホラー映画を三人で観た。あの人は怖い映画を借りてきては、怖がっておれやアキが抱きついてくるのを面白がっていた。おれもアキもある程度デカくなってからは、意地を張って抱きついたりしなくなったから、今度は我慢しているのを見て楽しんだりしてな。…そういう人だった」
 黙ってみつめることで、先を促す。六人部は大きく息を吐いて、空になったグラスをテーブルに置いた。
「よほど楽しくて仕方がなかったのか、アキもめずらしくはしゃいだ様子だった。生まれて初めて酒を飲んだせいもあったかもしれない。居間で眠ってしまったから、父と二人で布団を敷いて寝かせた。父が風呂に入ってくるといって姿を消して、おれもアキの隣で横になった。仰向けで眠っていたアキが寝返りをうって、寝息がかかるぐらい顔が近くなって…」
 三角座りをした六人部が、膝の上に顔を伏せる。
「いまでも、あの日のことは手に取るように思い出せるよ。眠っていたから、特徴的な眼は見えなかったけれど。端正な鼻梁、影ができるほど長い睫毛、桜色の、口角の上がったくちびる…」
 どうしても触れたくなった。
 六人部の声が震えていた。成一は息苦しくなって、その苦しさが嫉妬からくるものなのか、六人部の切なさが乗り移ったのか、測りかねていた。
「いつでも触れることができたのに、怖くて。今おもえば、止められなくなりそうな、自分自身が怖かったんだ」
 自分が怖かったという言葉の意味が分からず気になったが、成一は黙って続きを待つ。
「少しだけ。頬に触るぐらいなら許されるだろう。きれいな猫をみたときになでたくなるような気持ちと同じだ。そうやって必死で言い訳しながら、眠っているアキの頬に指をすべらせた。父は普段から長風呂で、まだ出てくる気配はなかったけれど、胸が破裂しそうなぐらいドキドキしていた。好奇心もあったと思う。――指が、アキの頬にふれる瞬間までは」
 一時停止ボタンを押されたように、六人部が突然押し黙る。成一は立ち上がり、「コーヒーでも淹れます」と声をかけた。言葉少なに場所を伝えてくれた六人部に礼を言い、やかんを火にかける。ガスが燃える匂いと、さっきまで飲んでいたシャンパンの香りが部屋に漂っていて、無意識のうちに眉を寄せてしまう。
 衝撃は小さくなかった。面白くない気持ちも、成一が嫌っている、ドロッとした嫉妬心も心のうちに澱んでいた。過去の記憶は消すことも変えることもできない。六人部の中の三嶋は、永遠にそのポジションをキープし続けるに違いなかった。
 だが不思議なことに、話をきく前よりも一層強く、「ふたりともまとめて抱きしめたい」と思うようになっていた。
 六人部の事が好きだ。
 星を想うように、ひたすらに憧れ、さわりたいと思う。
 でも、三嶋のこともすきだ。
 六人部に対する気持ちとは違うけれど、放っておけない。もうあんな顔で、泣かないでほしい。
 それならば、ふたりの想いを繋げる手伝いをすればいいはずだが、そこまでは割り切れていない。六人部を盗られたくはなかった。
(とられるって。別におれのものじゃないのに)
 ガスコンロの前で腕組みをしている成一を、六人部が心配そうに見ているのがわかる。横顔に視線を感じながら、いつものように感じよく微笑んで「すぐ持っていきますね」ということができなくて、成一はやかんを親の仇のように睨み続ける。
「ミルクと砂糖は、無しで良かったですよね」
「ああ。ありがとう」
 ラグの上に並んで座る。お互いに体育会系育ちで手際がいいので、何も言わなくても飲みながら部屋を片付けたり、分別したりして、六人部の部屋は案外散らからずに済んでいる。
 いつものようにミルクだけを入れてのもうとすると、六人部が笑った気配がした。
 涼しげな眼差しは微笑みでほそめられていて、成一の心臓がにわかにうるさくなる。
「な、なんですか」
「お前って、いつもミルクだけいれるだろう」
「そうですね。だって苦いから、コーヒー」
「あと、猫舌だ。いつもしつこいぐらい、冷ましてから飲んでる」
「なんで知ってるんすか」
 からかわれている。成一が少し憮然として言い返すと、六人部が笑みを深めた。
「お前らしくてかわいいなと思っていたから」
「ちょっと、こんなときにからかわないでくださいよっ」
「からかってない」
 手のひらが伸びてきて、成一の髪をなでた。日に焼けた乾いた手と、ひきしまった手首、その向こうに見える六人部の笑顔に、成一は胸がいっぱいになった。
「隊長はかっこいいですよね」
「それは買いかぶりだ。部下にこんな話をして、まるで慰めてくれと言わんばかりだろう。情けない男だなと自分でも思う。でも、ほかならぬ星野にきいてほしかった」
「どうしておれなんですか」
「星野はかわいいから」
「まだいいますか、それ」
「普段は素直で犬みたいにかわいいけど、いざってときは逃げない。ひとの弱いところやカッコ悪いところから決して目を背けない。ちゃんと足を踏ん張って、真っ直ぐ相手の眼を見る。
…沼田さんに写真を送ったり、野中さんにトレーニングをしたり、はじめは八方美人の格好つけかと思ったりもした。でも、違う。おれにも、大友さんにも、仕事で出会ったどの傷病者にも、お前はいつも誠実だった。愚痴を言うこともあるが、手技は丁寧でいつも傷病者のことを最優先で考えていた。大げさかもしれないが、お前と一緒にいると、自分の知らないところを知ることができた。ダメなところも、いいところも見えてきて、自分が少しずつ変化していくような感じがした。
 だから、きいてほしい。聞き苦しいかもしれない、興味がないかもしれない。でも、こんなのは初めてなんだ。自分のことを星野に知ってほしいし、星野のことをもっと知りたい」
 成一の目の前がにじむ。
 おそらく、涙だった。
「アキの頬にふれたとき、」
 苦しそうな声で、絞り出すように六人部が話しはじめる。
「指で、ほんとうに薄く撫でただけなのに。温度を感じただけで、自分の中に閉じ込めていた気持ちが全部あふれてきて、止められなくなった。そのまま髪に、耳にさわった。額を合わせて、鼻にキスしたら、視界が急にブレて」
 …父に殴られたのは、後にも先にもその一回だけだった。
「お前まで、アキをそういう目で見るんか」
  見下ろしてきた聡は、厳しく冷たい声で、明確に六人部を咎めていた。
「あいつが今まで、どれだけそういう視線や欲望に苦しんできたか。一番知ってるお前までそんな事をするんか。愛情を求める気持ちを利用して、付け込んで、閉じ込めようとしてる。そんなもん、おまえのエゴや。愛やない。アキを不幸にするだけや!」
「お前だけは、アキをそういう眼で見るな」
――その言葉でおれは身動きできなくなった。アキを好きになるということは罪深く、許されないことなのだと悟った。
「助け合ってふたりとも幸せになるんや。嫁さんもらって、子供つくって、家庭のあたたかさをしってほしい」
――無理だった。毎日考えていた。アキを抱きたいと想像していた。他の人間には興味すら持ったことがなかった。
 内容の激しさと対照的な落ち着いた声で、六人部が言った。胸が詰まって、目の奥が熱くなって、嫉妬や苛立ちなどを超えた共感で、息が苦しい。
「高校に入ってからは、距離を置くようになった。好きだといってくれる人がでてきて、付き合った。少しずつその人に心を寄せて行く、つもりだった」
 でも、ダメだった。
「他の奴がアキに触っているのを見ただけで、体が中から燃えてるんじゃないかっておもうぐらい腹が立って、許せなくて…。父が死んだとき、もうダメだと思った。精神的に不安定だったし、心に留め金がなくなって、何をするのか分からない状態だった。だから、行先も告げずに消えることしたんだ。あのまま一緒にいたら、多分」
 言葉が途切れて、ふたたび視線がテレビボードの引き出しに移る。
(そこまで好きな人に想いも告げずに消えるのは、どれだけ辛かったんだろう。それが相手の幸せなんだって割り切るのは、体が裂かれるみたいに哀しかったんじゃないか)
 成一の心を読んだように、六人部が激しく首を振った。
「相手のためにやったことじゃない。そんな綺麗な人間じゃないんだ。父のことを思い出すあの街がつらかった。父の死を誰かのせいにしたかった。アキを嫌いになれたら、いっそ楽になれると思った。自分の事ばかり考えた末に、裏切った」
 違う。絶対に違う、そうじゃない。
 喉元まで出かかった声が出ない。成一には、六人部を慰める言葉がなにもない。

 いままで、嫌いになりたいと思うほど誰かを好きになったことなんて、一度もなかった。
 だからこそ、成一には何の言葉もなく、ただ黙って立ち尽くすことしかできない。

「おれも、星野みたいな人間に生まれたかった」
 涙が落ちる。六人部ではなく、成一の目からぼたぼたと流れ落ちる。
「好きな人を傷つけるんじゃなくて、大切にできるような人間になりたかった」
 すべてが腑に落ちて、成一は泣いた。
 忘れようとするために誰かに六人部を重ねた三嶋と、遠ざけることで気持ちを封印しようとした六人部。傷つけあい、それでも相手のことを求め、意に沿わないと直截な言葉を投げつけてしまう。
「きいてくれてありがとう。暗い話でごめんな」
 首を振る。涙を拭いながら、僅かな違和感が成一の頭をよぎった。
(あの二段目の引き出し。三嶋先生のことを話すとき、時々みてたけど。あそこに一体、何があるんだろう)
 悪い予感めいたものはあった。知らないほうがいいことは沢山ある。
 けれど、成一はみてしまった。
 テレビボードの二段目、引き出しに隠された、三嶋と六人部の秘密を。

 妙だと思っていた。
 六人部の話をきいても、三嶋の話をきいても、肝心な部分がぼかされ、隠されているような気がしていた。
(過去のことは分かったけど、今ふたりが歩み寄れない理由が、わからない)
 酔っていたこともあって、早々に眠ってしまった六人部の寝室で、成一はまだ眠れずにいた。
 時計を見ると夜中の三時を過ぎている。ベッドのよこに敷いた客用の布団の上で、六人部から聞いた話を反芻し、考え込んでいた。
(好きだった、のは、分かった。三嶋先生の前から消えた理由も。でも、今どう思っているのか、どうしたいのかは聞けなかった)
 六人部もまだ、三嶋のことが好きなのかもしれない。三嶋が今も変わらず六人部のことを想いつづけているように。
 成一は、それを知るのが怖かった。臆病だ、と思う。気持ちを確認せずに、すれ違っている二人の間に入ろうだなんて、とても卑怯だという自覚もある。
「水でも飲も」
 六人部を起こさないように、静かに寝室を出る。コップを拝借して、水道の水を二杯、一気飲みした。
 何気なくリビングを眺めたとき、さきほど気になったテレビボードの棚が、わずかに開いているのが見えた。気になって近くに寄ってみると、何かが引き出しに挟まっている。
 二人で話しているときは、キチンと締まっていた。気にしていたから間違いない。今物が挟まっているということは、寝るまでの間に六人部が開けたということだ。かなり酔っていたから、上手く仕舞えていなかったのかもしれない。
「なんだこれ。ジップロックか何かかな」
 成一が料理の保存によく使う、ビニール袋によく似ていた。隅の部分が挟まり、外側へ露出している。
 引き出しを開けると、袋のふたが開いていたのか、中身が引き出しの中に落ちた。慌てて拾い上げ、つるりとした感触を手のひらに感じながら、リビングの電気をつける。
「…名札…?」
 白いプラスチックのプレートに、ポケットに挟むためのクリップがついている。よく見るとクリップの側にシールを剥がした痕があり、その紙の部分だけが、赤黒く染まっている。
(まてよ。これ、もしかして…血痕じゃないのか)
 何年も仕事で目にしてきているから、見間違えようがない。
 プラスチックについた血液は水で洗い流せばきれいに落ちるが、紙や布についたものは、ひとたび乾いてしまうとなかなかとれない。色や金属の傷み具合から、かなり昔の物であることは成一にも想像できた。
 紙の部分についた血痕をとりたかったのだろう、よほど執拗に擦ったのか、シール痕の周囲には、傷がついている。
 心臓が徐々に大きな音を立てはじめ、背中にじっとりと汗が浮かぶ。どうして、という言葉が頭の中に何度も上ってきて、振り払うように頭を振った。
 震える手で裏返して、息を飲む。

『三嶋』

――表に彫られていたのは、成一もよく知る人物の、名字だった。