23 ピース オブ ケイク (三嶋 顕の過去Ⅵ)

「もう、一緒に行かんでええよ」
 夏休みの前日だった。朝、夏の匂いとアスファルトの照り返しにうんざりしながら、それでもちゃんと言った。
「何が」
 振り返った摂の顔は、変わらず不機嫌だった。アキの言葉の意味を分かっていて、あえて聞き返している。それでも決して声を荒げたりはしないところが、彼らしい。
「高校。もう子供やないんやし一人で行ける。彼女と一緒に登下校してあげたら?」
 ひがんでいるような響きにならないように気を付けながら、笑顔で言う。クラスメイトやすれ違う教師の挨拶に答えながら、少し後ろを歩いている摂に重ねて言った。
「二学期からそうする」
 低い声で、吐きだすように言ってそのまま教室の中へ先に入ってしまう。声をかけられるのを拒絶しているような後ろ姿に、それ以上何も言えず、自席についた。
 高校生活になじんでいくと、摂は剣道部の級友と話していることが増えた。
(中学までは、いつも二人で一人のように一緒にいたのに、もう遠い昔のように感じる)
 廊下側の摂の席と、窓際のアキの席は、一番遠い位置にあって、近頃では登下校以外でほとんど話もしなくなっていた。アキは、摂と親しくなる前と同じ、一人に戻っていたが、元々一人でいることが苦痛ではないので気にならなかった。誰からも理解されない、名前を呼ばれなかったあの頃とは違う。一度は深いところまで入ってくれた摂や聡の存在がアキを支えていた。
(一人にはなったけど、元通りになったわけじゃない。少なくとも、一度は他人がはいってきたし、おれも他人の中に入ったと思う。それだけでも、支えになる。この先一人でやっていける。摂が、幸せならそれでいい)
 少し人と話したくなったときやチームを組まなければいけないときは、白石とつるんだ。彼は率直で面白くて、無邪気で達観しているという、複雑な性質を実に魅力的にあわせもっていた。
「みーしま。今日もムトベと帰んの?」
「いや、摂は部活。ひとりで帰るよ。なんで」
「バイト決まったじゃん、下見に行かないかなと思ってさ。スパイしにいこうぜ、可愛い子はいるか、店長はどんな奴か、AVの充実具合はいかなるものか」
「最後の一つが目的なんやろ」
「正解!あとさ、河川敷に秘密基地があってね、見ないかなと思って」
「小学生やあるまいし。連れ込み小屋の間違いとちゃうの」
 辛辣なアキの言葉に、白石が溜息をつく。
「やだなあ、三嶋までそんな噂信じちゃってんの。あそこはねえ、寺子屋なんだよ、寺子屋」
 何故か誇らしげに胸を張りながら反論してくる。
「寺子屋?」
「そ。おれらの学校の、河挟んで向こう側にある高校知ってる?」
「あー…うん」
「じゃあ、説明するからさ、一緒にバイト先見に行って、そのまま寄り道しよう。なんならおれんちで飯食っていきなよー、美味いぞお」
 午前中だけで終わった学校を、二人で後にする。途中で彼女と連れ添って歩いている摂を見かけて、軽く手を上げたが、眉を寄せて無視され軽く落ち込んだ。
「で、あの学校のことなんだけど」
 そこは別名『無法地帯動物園』と呼ばれている高校で、一年生のうち一割が二年に上がる前に退学し、無事卒業するまでに三割の生徒が減っているという。
「いわゆる底辺校やろ?校門ところでいつも上級生が立ってて、跳べー言われて、小銭の音したら取り上げられるという噂の」
「そういう言い方は良くない。誰だって好きで底辺でいるわけじゃないんだよ、好きで童貞でいる男子がいないのと同じでさ」
「例えが悪い」
「まあとにかく。そこにいる子らでさ、勉強はしたいんだけど、お金がないとか家庭環境に問題があって家では無理だとか、そもそも分数の段階でつまづいてるとか、そういう子を集めてさ、ちょこちょこ教えたりしてるんだよ」
「え、何を?」
「この話の流れで勉強以外なにがあんの。三嶋って案外バカなの?」
「何のために?」
「うーん、自分の将来のためでもあるし、彼らのためでもあるし、社会のためでもあるかな」
 そうこうしている間に、レンタルビデオショップに到着してしまった。二人で挨拶をして、夏休みからよろしくお願いします、と店主に声をかけると、今時珍しい礼儀正しさだと大喜びされた。
「いや~君ら店におってくれたら、女の子のお客サン増えそうで、助かるわあ~」
 君なんか、特に。こんな店じゃなくて、モデルとかそういうのやったらええのに。笑いながらアキの肩を叩き、店主は上機嫌にそう言った。外のうだるような暑さが嘘のように、店内は肌寒いほどに冷房が効いていて、アキは無意識に腕をさすった。
「ごめんやで、寒いやろ?お客さん外から入ってきたときに涼しいように、温度低めに設定してあるんよ。二人とも、バイトするときは長袖着てくるとか脱げるような羽織もってきいや」
「はい、わかりました」
「いや、ほんま…三嶋くんやった?うちの店にはもったいないぐらいやで…白石君も背ェ高あて男前やけどなあ。髪の毛はナニ、染めてんの?あ、大丈夫やでうちの店、金髪以外はOKやから」
「あ、これ地毛なんですよーほら、根本みてください」
「ほんまや!そらしゃあない」
 十五分ほど、店の事務所で三人、話をした。アルバイトをする上での注意点や、ちょっとした裏話、それに店員限定の割引のことなど、店主はいつ呼吸をしているのか、疑うほどの早口で一気にまくし立て、せわしなく汗を拭いては取り繕うように笑った。
 これ持っていき。
 店を出る直前に、店主はガラスの瓶に入ったラムネを持たせてくれた。キンキンに冷えたラムネを持ってアキと白石は炎天下の空の下に戻る。
「はー、なんか疲れた」
「何言ってんだよ、まだ働いてもないのに。三嶋って案外、ヘタレてるなあ」
「働いたことないもんなあ、考えてみたら。あんなワーワーうるさいオッサンとも話したことないし。人付き合い苦手やし続けられるかな」
「笑顔だよ、スマイル。わらってりゃ、お前はどこいったって大丈夫。困ったら、腹が立ったら笑えばいい。みんな飛んできて味方してくれるよ、もちろんおれもさ」
 晴れた日の太陽のように、白石は深緑色の眼を細めてカラリと笑った。
「こうね、こう」
「面白くもないのに笑いたない」
「ばかだなあ。大人になるってのは、そういうことだよ。まあ、まだならなくていいけど。さて、飲みながらでいいから、学校の方向に戻ろう。暑い中悪いけど、終わったらおれんちでご飯出すからさ。あ、でもたぶん冷やしそうめんだと思う、何せ暑いだろ、うちの母君は夏が暑いと料理の手を抜きそうめんばかり茹で、冬が寒いと鍋ばかり作る。白菜が夢の中で襲いかかってくるんだぜ、怖いだろ」
 アキが笑うと、白石が嬉しそうに続けた。
「一か月に一回は階段から落ちるし、ご飯は手抜きだしよく分かんないことで怒るんだけど、子供と夫だけは深く愛してるんだよ。おれは断ってるけどさ、未だに親父とは毎日いってらっしゃいのキスしてるもんな」
「うわー、そんな家ほんまにあるんや。白石の家って何やってるの?転校多いってことは……国家公務員とか?」
「あたり!だよ。お蔭さまで全国津々浦々、僕らは旅の人生さ」
「エリートやん、ええなあ、そういう家憧れる」
「うーん。そうなのかなあ、まあ、お金に困ったことはないけど、労働時間と収入が見合ってない、これなら夫をもっと早く家に帰してくれって、母さんは毎日怒ってるけどね」
 刺すような日差しのせいで、右手に持ったラムネはあっと今にぬるくなった。空っぽの瓶にビー玉が当たって、からん、ころんと涼しげな音がする。この音だけでも、ラムネを飲んでよかったなと思うような、美しい音色だ。
 河川敷に向かう途中、長い信号があったので、アキは瓶ごとビー玉を太陽に透かして仰ぎみたり、わざと音を鳴らしたりして遊んだ。隣にいる白石が、不思議そうに覗き込んでから、やさしい顔で「アキてさ、」と切り出す。
「絶対、モデルとか芸能界とか向いてないよね」
「そんなん分かってるから、いちいち言わんでええよ」
 ラムネの瓶の曲線を、数式で表現したらどうなるだろう、とアキは考えていた。この世界の工業製品は全て数式で表現することが出来るのだと、本で読んだことがあった。それは日本の工業デザインの父と言われる男が書いた本で、本の中を彩る彼の作品は、どれも洗練されていて使いやすく、美しかった。
「いや、見た目がどうとかじゃなくて。ちょっとこっち向いてよ」
 上背のある白石が、アキの手から瓶を取り上げる。あ、と不満げな声を出して視線を上げると、緑がかった白石の、真っ直ぐで少し不躾な視線が、アキを射抜く。
「……なに、」
「三嶋はさ、きれいだよ。ちょっと近寄りがたいぐらいに。でも、全然柔らかい美しさじゃない。女の子みたいな美しさでもない。そうだな…」
 青になった信号を渡って河川敷に着くと、突然、白石は手に持っていたアキのラムネの瓶をアスファルトに叩きつけた。ぱりんと音を立て、簡単に割れた破片の中から、大きくて尖った破片をとりだし、アキに見せる。
「これ、ここみたいなかんじ。ここのさ、尖ってて、触ると今にも切れそうで、でも目が離せなくなる、ああ触ってみたいなあ…ってなる、破片の角のところあるだろ。そういう感じのきれいなんだよ」
「おまえ、びっくりするやんか。何すんのいきなり」
「ごめんごめん。分かりやすいかなあって」
「全然分からん」
「そういうキレイっていうのは、メディア向けじゃないよね。なんとなく不幸で薄暗い感じがするから、茶の間に向いてないもの」
 鋭い白石の指摘に、アキは黙ってポケットからハンカチをとりだし、汗をぬぐった。早足で歩くアキの後ろを、待ってよ、と嬉しそうについてくる。
「暑いから、早くその寺子屋とやらに連れていけ」
「それだよ。ほら、河川敷に見えてるだろ」
 思っていたよりも、しっかりした木造の家屋だった。
 周囲には、つぼみを閉じている朝顔や、ヘチマ、プチトマトが植えられていて、想像していたような、みすぼらしく不潔な掘っ建て小屋とはまるで違った。
 七月の、爽やかさを残した熱風が、周囲一面に生えた雑草をさわさわと揺らして通り過ぎていく。
「鍵はこれ。といっても南京錠だし、入り放題だけど」
 秘密基地を嫌いな男はいない。感じた事のない高揚と、わずかな不安が胸をよぎる。
 アキの逡巡になど気づかず、白石は扉を開けて中に入っていく。中は板張りになっていて、大きい丸いちゃぶ台と、座布団が四つ。壁には、四角い小さな黒板が立てかけてある。
「ここで、希望する川向うの高校の子に、勉強教えてるんだよ。きっかけはなんだったか忘れたけど。元々は、この辺で畑やってる人が作ったみたい。河川敷だから、まあ不法占用だよね。耕作放棄されてから、最初はアキが言ったみたいに、ならずもののたまり場になってたんだよね」
 白石が靴を脱ぎ、ちゃぶ台の前に座った。
 手招きされて、正面に座る。
「タバコで停学になったのは、ここでいろんな子と話すうちにさ、彼らのこと知りたくなって。酒もタバコもやったことなかったから、やってみたら分かるかなあって思って。ほら、家庭環境も親は仲良いしそこそこ金はあるし、想像には限界があるだろ?で、やってみたら速攻チクられて停学だよ。母さんは泣くし父さんは怒るし姉さんはわざわざ嫁入り先から帰ってきて殴るし、散々だった」
 わざとらしく肩を竦める白石健斗の姿に、アキはくすりと笑った。
「何、将来は貧困を考えるNPOでも立ち上げるわけ?」
「そうだね……近いかな。その皮肉っぽい言い方、気に入らない?」
「あんまり。貧困も低収入も、結局なんとかできるのは自分だけやろ。自分を大事にせず、努力を怠って堕ちた人間のことをなんで救ったらなあかんのさ」
「厳しいねえ。でも皆が三嶋みたいに頭が良くて、強いわけじゃないから」
「強いとか、頭がいいとか、そんなん全部逃げ口上や」
 静かな物言いだったが、滲み出る怒りに白石が眉を下げる。
「そんな怒らないでよ、どうしたんだよ」
「生まれつき強いヤツなんかおるわけない。傷ついて嫌な思い惨めな思いいっぱいして、そうやって這い上がってきた人間だっておるのに、そういうところは一切見ようとせん。――お前のしようとしてることは、偽善や。にこにこ笑いながら自分より不幸で劣った人間を見て、ちょっとだけ助けて手を離す。そんなん、何もせえへんより残酷やわ」
 瞬間、白石の両手が伸びてきて、強く引っ張られた。殴られる、と身構えたアキはそのまま、白石の胸にぶつかって、制服の白いシャツがくしゃりと鼻に当たる。
 顔を上げた。掴まれた腕を離せ、と抗議するつもりが、白石の両手がアキの顔を掴んで引き寄せたので叶わなかった。
「三嶋を今まで助けてくれた人を、そんな風に思うのか?」
「…え…?」
「誰かいるんだろ、親がクズでも、三嶋を見守って助けてくれた人が。だからこうして、今生きてるんだろ。そういうのを全部、偽善だって、何もいらないって言うのか?」
「そんなことない!」
 聡の顔、それに摂の顔がよぎる。今まで自分が受け取った、返しきれないほどの愛情と親切と、少しの憐憫を思い出す。たとえ、同情だったとしても。それが自分を助けてくれたという事実に、変わりはないはずだ。
「勉強だってそうだろ。そりゃ、全員には無理だよ。やる気のあるヤツ数人に教えるのが精いっぱいだし、それだって、本当に身になるのかって言われたらわかんないよ。でもさ、何もしなかったら誰も救えない。誰も助からない。そんなの、手も足も動かさずに海でおぼれるのと同じじゃないか。手を動かして、足をばたつかせて、下手くそでも、そしたらちょっとずつ前に進むだろ。少なくとも、ただ浮かんで死を待つよりもずっといい」
 他人の憐憫は利用したらいいけど、自分を憐れむのはやめたほうがいい。何も生まないし、醜いだけだから。
「ごめん」
 ショックだった。いつの間にか、自分に同情しているのは自分自身だったのだと気づいて、穴があったら入りたいほどに猛烈に恥を感じた。
「んーん、おれこそひどいこといってごめんね。野心を持つのはいいことだよ。豊かな暮らしをしたいとか、いい仕事に就きたいとか、そういうハングリー精神って大切だと思う」
 白石が笑って手を離す。ほっとして、白石の足の間から抜け出そうとすると、今度は強く抱きしめられた。両手で、身動きが出来ないほどに強い抱擁だった。
「いたいって、白石」
「健斗でいいって。いや、健斗って呼んでくれなきゃ離さない」
「暑い!」
「ほら、早く」
「さっさと離せ、白石のアホ」
「好きだよ」
 唇がアキの耳を掠め、囁く。
「三嶋のことが好きだ。つめたくて皮肉っぽくて、優しくてひとりぼっちで、たまらなく好きだ」
「…悪口かよ…」
「そう聞こえた?告白なのに」
「されても困る」
「だと思った。あ、そうだ。おれのなりたいものは、正確に言うと『国連職員』だよ」
「お前停学なるぐらいアホやのに、そんなんなれるかなあ」
 腕をやんわりと拒みながら、アキが言った。すると彼はにんまりと笑って、「三嶋は、全国模試って受けた事ある?」と尋ねてくる。
「あるよ。悔しいことに、二位止まりやったけど」
 中学のときの担任、松浦の言葉が頭をよぎる。全国模試で三位だと告げた時、確か彼はこう言った。「上には上がいるんだなあ」、と。
(あれから何回か受けたけど、一位にはどうしてもなられへんかった)
「それな、一位、おれだよ」
「え?うそやろ!」
「ほんとほんと。だから、多分頭脳の方はこれからも磨きつづければ問題ないと思う。語学も小学生から英会話習ってるし。おれはね、ほんの少しでいいから、世界を変えたいんだ。良い方に。本当にわずかでいいから。そうしたら、生まれてきた意味があるんだと思う」
 細い線、という詩を知ってる?
 唐突に、白石はそう言ってひたりと視線を合わせてきた。
「言葉を信じず、涙をみせず、長いあいだ心を殺して生きてきた、お前にぴったりの詩だよ」
「…なんで…なんで、そう思うの」
「だから、見てれば分かるんだって。好きな人のことは、ものすごく見るだろう?」
「もしかして、調べた?誰かに何か聞いたんか」
「何かって?何のことを言ってるのか知らないし、知りたいとも思わないけど。今見えてる三嶋だけでいいんだよ。別に過去を洗いざらい知りたいなんて思わない」
 真摯に見つめる白石の表情に、嘘は見当たらない。
「あー…やばい。興奮してきた。三嶋近いんだもん」
「離せっつーの」
「すきだよ」
「さっき聞いた」
「美しいのに荒涼としたその眼も、毛先がはねた髪も、結構高い身長も、いい年をして上履きのかかとを踏むところも、全部すきだよ」
「途中から変なん混ざってるし」
「返事は?」
「気持ちは嬉しいです、ありがとう、好きな人がいるので、ごめんなさい」
「わー…断り慣れてる感じしてすごいヤダ!」
 アキが笑うと、白石も笑った。座り込んでいる白石の両足が、アキを逃すまいと挟み込んでくる。そこから逃れようと押したり身をよじったりしているうちにバランスを崩して、床に倒れ込んでしまった。
「ごめんごめん。なあ、月に二回でいいからさ、おれと一緒に勉強教えてみないか?」
 床に倒れたアキに手を差し伸べながら、白石が言った。だがその返事をきく前に、差し伸べたはずの腕を仰向けになったアキの顔の横について、険しい顔で黙ってしまった。
「勉強って人に教えてもらうものやなくて、自分でするものやと思う」
「うん」
「……白石?」
 深緑の目が爛々としていた。顔の横にある手がアキの髪に触れて、眼を覆い隠す。
「なに、ちょっとはなして。どいて!」
 突然の暗闇に驚いて声を上げると、耳に白石の唇が触れ、そのまま首筋を辿って、なだらかな曲線を描く顎に甘く噛みつかれた。驚きで体をよじっても、一九〇センチ近い白石の体がのしかかっているせいで、びくともしない。唇は耳の下へと戻り、舌で舐めたあと、強く吸いつかれた。
「やめろ!」
 大声で叫び、突き飛ばす。壁にぶつかって頭を打った白石は、まるで悪い夢から覚めたように驚いた顔をしていた。
「ご、ごめん…」
 狼狽え、泣き出しそうな顔でアキが言った。そしてそのまま小屋を飛び出し、自分の家へと走った。

 

 

 

 

 あまりに強い日差しのせいで、くらくらする。
 走ってきたせいで息が上がった。膝に手をついたまま、団地の側にある木の下で休んでいると、遠くから見慣れた顔が近づいてきた。
「どうした、大丈夫か」
 てっきり彼女と一緒に帰宅していると思っていたが、摂は一人だった。部活帰りなのか、背中には大きな荷物と竹刀が見えた。
「ちょっと……急に走ったから。今日は、一人なん?」
「ああ。毎日一緒は疲れるやろ」
「疲れるって、お前。おれとも毎日一緒におったやんか」
 アキの言葉に返事をするかわりに、摂は「隣、ええかな」と言ってきた。
「どうぞ。別におれの土地やないし」
「そうか。厳密にゆうたら……市の土地やな」
「別に真面目に答えんでええから」
 笑ってしまう。一事が万事こんな調子で、決してふざけているわけではないところが、摂の面白いところだとアキは思う。
(面白くて好きなところ。他にもいっぱいあるけど)
「毎日か。そうやな。アキとも毎日一緒におったけど、疲れるとか、嫌やとか、おもったことなかった」
「嘘つけ。散々迷惑かけてるやん、聡さんにも」
「迷惑と思った事もない。それは親父も同じやと思う」
 正午を過ぎた日差しに、汗が首筋から滴り落ちていく。隣で話す摂をちらりとみれば、彼はほとんど汗もかかずに涼しい顔をしていた。
 手探りでハンカチを探して、なくしたことに気付く。さっき慌てて走ってきたときに落としたらしかった。
「これ、使ってないから」
 差し出された真っ白なタオルを、遠慮なく借りることにした。顔を拭うと、摂の着ている洗濯物や、彼らの家の風呂場と同じ匂いがする。
「ありがとう。洗って持っていくわ」
「ええよ。あげるし」
 さっきの話やけど、と摂が続きを切り出す。俯いていた顔を上げれば、久しぶりに至近距離で目があった。相変わらず真っ直ぐに、迷いなく人を見る目に、アキの鼓動は自然と早くなる。
「ちょっと嘘ついた、ごめん」
「え、どの部分」
「迷惑と思った事もないどころか、毎日楽しかった。アキと毎日一緒におるの、楽しかった。最初は親父取られたとか…アキとおったらみんなアキしかみーへんとか、なんかようわからん嫉妬もしたけど。でもおれ、お前のいいところ、一番知ってる自信あるから」
 訥々と話す言葉に、アキは涙がこみ上げてきた。
 嬉しかった。
 同時に、ものすごく切なかった。
(大切な友人って思ってくれて嬉しい。でも、おれの気持ちとは違う)
「あかんとこも、全部好きやなあって思う」
「ありがとう、なんか今、久しぶりに摂と話したなあって思った」
 行き帰りを共にしていても、心が離れていくだけだった。さびしくて、なんとかしたくて、でもできなかったのは、摂がそうしたいなら仕方がないと覚悟したからだ。彼女が、大切な人がほかにできたら、そうなるのは当然なのだと市岡も白石も口をそろえて言った。むしろ、一向に彼女や友達を作らないアキのほうがどうかしているのだと二人は笑った。
「毎日、朝一緒に行ってたやろ。話してるやんか」
「でも最近摂、機嫌悪かったし…。邪魔なんかな、って思って」
「そんなわけないやろ。おれは、ただ…」
 何かを言いかけて、口をつぐむ。摂がそのようにすると、そこから先を口にすることは無いので、アキは「言いたくなければいわんでええよ」と助け舟を出した。
 首の回りの汗をぬぐう。耳の下に痛みを感じて、白石にされたことを思い出す。爛々とした目にははっきりと欲情の痕があって、触れた唇は見た目よりも熱くてかさついていた。
「アキは、彼女つくらへんの」
「おれ女の人が無理かもしれん」
 上の空だったせいで、ぽろりとこぼしてしまった。驚いて目を丸くし、固まってしまった摂に、アキは続ける。
「母親があの男に暴力振るわれてるって、言ってたやろ」
「ほづみさん、ほんまに気の毒やった。あのカスが刑務所入ってほっとした」
「うん。あれな、性的な暴力も日常でさ。嫌がってるのに、首絞めたり、殴ったりしながら、無理やり」
 当時のことを話そうとすると、吐き気がした。白石の言葉を思い出す。『こころを殺して生きてきた』という言葉だ。まさに、そのとおりだった。あの頃の自分は、自分自身を悲壮だ、悲惨だと思いたくなかった。傷ついているのに傷ついていないのだと思おうとした。母は望んでああしているのだ、逃げられるのに逃げないのだと、被害者であるはずのほづみのことさえ憎んだ。
 だが今になってみれば分かる。力で叶わず、反抗すれば殴られて、逃げたところでどうしようもないと思っていたのだろう。子どもだったとはいえ、愚かだったと心から当時の自分を悔いていた。無理にでも連れ出せばよかった。そうすれば、母は傷付かなかった。摂や聡に迷惑をかけ続けることもなかった。
「あの男が、馬乗りになって、逃げられへんようにするねん。泣き声とか、物が壊れる音とかずっと聞こえて、おれは、最初こそ止めたり、役所に言うたり警察に言うたりした。けど、途中からは何もせえへんかった。もうどうでもええやって思った、いや、思いたかった。自分に関係ないことなんや、あれは知らん人なんやって」
 隣にいたはずの摂は、いつの間にかしゃがみこんでアキを見上げていた。その眼は、まるで自分がアキになったように傷つき、痛んで、哀しみに涙さえ浮かべていた。まるで泣けないアキの代わりに自分が泣くのだ、と言わんばかりに。
「怖いねん。あのときの、苦痛と屈辱に歪む顔がわすれられへん。押し倒された女の人が、ひどい虐待を受けているように見えて。だから、おれ…」
「もう、何も言わんでええから」
 目の前が暗くなったのは、何も突然曇ってきた空のせいばかりではなかった。摂は、アキをかばうように抱きしめていた。背中を何度もさすりながら、耳元で「ごめん、変な事きいて。ごめんな」と鼻声で囁く。
 さきほどまであれほど晴れていた空は、真っ暗になり、雷が鳴り始めた。ぽつ、ぽつと、団地の荒れたインターロッキングに雨が落ちてくる。
 さっき借りたタオルと同じ匂いのするブレザーと、摂の硬くて短いえりあしの髪が、アキの鼻に当たる。おそるおそる背中に腕を回せば、摂は、さらに強く抱きしめてきた。強くなった雨が、木々の間からも降り注いで、二人とも頭から濡れそぼる。
 髪を濡らした雨がアキの顔にも流れて、涙と交じり合って顎先からおちた。
(摂が、おれのことを好きじゃなくてもいい)
 雷が鳴った。あたりが見えなくなるほどの光に、落ちた場所が近いことを知る。
(いま、このまま、死んでしまいたい)
 うれしくて零れた涙を、アキは変わりやすい夏の天気のせいにした。

 

 

 

 

「アキちゃんおはよーさん」
「おはよう。あれ、今日は市岡と二人なんや」
「そうやで。もっと嬉しそうな顔してよ」
 夏休みも中盤に差し掛かった八月半ば、アルバイト先のビデオショップ。効きすぎる冷房に体を冷やさないため、アキも市岡も、薄手のカーディガンの上から制服替わりの黒エプロンを身に着ける。
 返却ボックスに溜まったDVDを所定の位置に戻してから、レジに戻ると、市岡はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべて、アキを肘でつついた。
「最近、六人部くんと仲直りした?」
「ゲスなワイドショーのレポーターみたいやなお前」
「ひっど!心配してたんやん、私もケント君も!アキちゃんただでさえ友達おらんねんから、意地はらんとアカンときはちゃんと自分から謝らな」
 白石の名前を聞いて、アキは思い出し笑いをしてしまった。
「仲直りっていうか、摂はずうっと摂なんやな。おれが勝手にさびしがってただけで。彼女ができてもちゃんと、おれの場所はあったんや」
「なにそれ。意味わからん」
「わからんでもええ。あ、そこのポップ貼っといてって店長が」
「はーい」

 タオルを借りた日、久しぶりに摂の家に泊めてもらった。
 風呂上りに頭にタオルを巻いてテレビを見ていると、入れ代わりで風呂に入ろうと立ち上がった摂の眼が、アキの顔、首の近くにとまり、凝視した。
「なに、じろじろみて」
「……それ、どうした」
 指でその場所を撫でられてようやく、昼間の出来事を思い出してアキは真っ赤になった。
「あ…いや、これは…白石がふざけて」
「白石?」
 その瞬間の、摂の顔は見ものだった。
「どういうことか説明しろ。納得できなければ」
「できなければ?」
「あいつを成敗する」
 摂は立ち上がって、リビングの隅にある竹刀を手に取り、血走った目でそう言った。まるで手塩にかけて育てた娘を手込めにされた父親のように、髪を逆立てて怒っている。
 自分のために逆上している幼なじみをみていると、その時のことが笑い話のように思えてきた。
「成敗って。武士じゃないんやから」
 どうしても笑い声が混じってしまう。真剣味が足りないように見えたのか、摂は声を荒らげた。
「だから気をつけろっていったやろ。なんでそんなにアキは隙だらけなんや。反省しろ。だいたいなんで二人きりになった。市岡はどうした。あいつがいるから安心してたのに」
(あ、こっちにお鉢が回ってきた)
「ええと。ほら、前に河川敷に小屋があるっていってたやん、……」
「あんなとこにノコノコついていったんか、ヤラレに行くようなもんやろ!」
 今度こそ怒り心頭だ。アキは首をすくめて眉を下げた。
「白石をどういう奴やと思ってんのかしらんけど、あそこはそういうところと違うよ」
 ちょっと落ち着いて。そう言って、摂が手に持っている竹刀を取り上げ、隣に座らせる。あれは寺子屋なのだという一連の説明をして、一緒に勉強を教えないかと誘われた話をすると、摂は腕を組み、険しい顔をして黙り込んでしまった。
 夕方のニュース番組が、明日の天気を伝えている。「明日ははれ、時々くもりでしょう」、穏やかな声に、アキの意識はそちらに傾いた。
「もうちょっと自覚したほうがええと思う」
 重い声で、摂が言った。
「自覚?何を」
「自分のこととか、周囲が自分をどうみてるかとかそういうの」
 わかっている、と言おうとして、口を閉ざす。
 「他人が自分をどう思っているか」なんてわかる必要があるのだろうか。これまでに経験した様々な事象で、自分の容姿や頭脳が他人よりも優れているということは知っていた。だがそれがなんだというのだろう。そんなことで解決しないことを、アキはすでに一つ知ってしまっている。どれだけ容姿が良くても、頭がよくても、手に入らないものがあることを、知っている。
「どうでもええ、そんなこと」
 心のそこから言った言葉だった。
「九十九持ってたって、一が手に入らんかったらゼロと同じや」
 アキのつぶやきに、摂は首を傾げる。
「とにかく。アキが他人に勉強を教えるのはいい経験やからありやと思うけど、白石には気をつけろよ。二人きりにはならへんように」

「ちょっとアキちゃん、聞いてる?」
「ごめん聞いてなかった」
「もーっ」
「それにしても暑いな。いうとくけど、そこほんまにクーラーとか扇風機とかなにもないで。ついてから、暑いとか言うなよ」
「それ聞いたらくじけそうになるわあ。まあでも大丈夫、熱中症ならへんようにポカリめっちゃ買ってきたし」

 アルバイトが終わった帰り道、ことの成り行きを説明された市岡に「そのカテキョみたいなやつ、私もやりたい!」と強引に押し切られ、一緒に「寺子屋」に連れて行くことになってしまった。
 盆をすぎてからの暑さは、夕方になっても湿り気を帯びていて重い。
 ぬるい風が河川敷を歩く二人の間を通り過ぎていく。
「みしまっちーこんにちは!」
「こんにちは。白石は?」
 金髪にピアスだらけの同い年に、一瞬、市岡が怯む。おそらく彼女のこれまでの生活圏には、こういう人物は一人もいなかったのだろう。
「ケントくんは中でゆりしーに説教してる。なんかまたやっちゃったんやって」
「またか。ほんまあいつアホやな」
「その人は?」
 こほん、と咳払いをしてから、市岡は自己紹介した。
「市岡侑季、十六歳、どっちかって言うと文系科目が得意。よろしく」
「おおーっ、みしまっちと同じ高校ってことはめっちゃ賢いんやんなこの人も。よろしくよろしくー、おれ三井」
 人なつっこく手を差し出した三井と、市岡は握手を交わした。
「で、さっきのゆりしーって?」
「みしまっちとケント君が勉強教えてるもう一人の奴。女やけどめっちゃ股ゆるくてすぐ誰とでもセックスするねん。ゆるしー→ゆりしーってのがあだ名の由来」
 三井が歯を見せて笑う。細い眉やいかにもグレてますといった容貌に似合わず、その笑顔は無邪気で年相応だ。
「へえー」
 ちらりと見上げてきた市岡の目にはいわれのない非難が込められていて、アキは眉間にしわをよせた。
「おれはやってへん。何のために勉強教えてると思ってんの」
「やんな。アキちゃんは疑ってへんけど、ケント君はどうかなあ」
 寺子屋の前でぼそぼそとはなしていると、中から白石の制止する声と共に、ゆりしーらしき女が飛び出してきた。
「もういい!あたしのことは放っといて!!誰とやろうが、あたしの自由やろっ、どうせあんたなんかあたしのこと見下して喜んでるだけやろ」
 ドアの前に立っていたアキの胸にぶつかり、顔をあげて赤面する。
「仁木さん、どこいくの」
「み、三嶋くん…、!」
 先ほどまでの勢いが嘘のようにおとなしくなりかけた仁木だったが、アキのとなりにいる市岡をみると顔色が変わった。
「なに、あんた」
「あ……私はアキちゃんの友達で、市岡ゆ…」
「三嶋君、こういう女が好みなん?がっかり!こんな処女くさい野暮ったい女!」
 突然罵られて呆然としている市岡を突き飛ばして、仁木が走り去る。後ろで三井が「女って怖いわー!」とはやし立てて喜んでいて、アキに頭をはたかれる。のそのそと寺子屋から出てきた白石は、顔にひっかき傷を作っていて、疲れ切った表情をしていた。

「そう、そのXにさっき出した数字を入れてみて」
「…お?おおおお、すげーっ解けた!」
「な。問題解けたとき、めっちゃ気持ちいいやろ。だから数学ってたまらんねん。答えも決まってるし、作者の気持ち考えるアホみたいな科目と違って」
「こらこら。読書も大切だよ。三井、貸した本読んだ?」
「あーーーごめん三秒で寝た」
「アハハ、わかるわかる。おれも文芸書読んだら同じかんじ」
 ちゃぶ台で和気藹々と勉強を教えたり雑談したりしているアキと白石を、市岡は憮然とした表情で眺めていた。
「なんかよう分からん」
 三井と河川敷で別れた頃には、すっかり日が暮れていた。門限が夜の八時だという市岡を家まで送る道すがら、険しい顔で彼女は言った。
「なんのためにこんなことしてんのか、ぜんぜん分からん。ボランティア精神?それとも下をみて優越感にでも浸ってんの。偽善者っぽくてすごいイヤ。だいたいあの仁木さんって人、全然求めてなさそうやったし」
 アキは白石と顔を見合わせた。白石が、ごめんね、と謝罪する。
「侑季ちゃんにイヤな思いさせてごめん。でもさ、仁木さんも理由があってああなったんだ。ちょっとおれの口からは説明できないけど、いろいろ。三井もね。みんな違う地獄を抱えてて、そこから脱出するには勉強しかないっておれは思って、その手助けがしたいだけなんだ」
「ケント君は将来国連で人を助ける仕事がしたいねやんな。動機としては理解できるけど、なんでアキちゃんまでそこに入ってんの」
「おれもはじめは同じように思ってたよ」
 暗い夜道を照らす街路灯の下で、立ち止まってアキは言った。
「偽善やとか、くだらんとか、そんなんでなにが変わるんやと思ってた。でもな、ちょっとずつ分かってきた。三井が、分数の計算もようせんかったのに数Aの問題を解けたときに、解けるようになったときに、あーこういうことかって。昔松浦先生がいうてた言葉、こういうことやってんなあって」
「松浦先生って、中学のときの?」
「うん。大変な時にすごく助けてもらった先生で、今でも大好きやねんけど。先生がいうてはってん。「人は、助けているつもりで助けられていることがたくさんある」って。もともとは、山本周五郎のさぶっていう本に出てくるセリフの一部のことなんやけど」
「助けているつもりで、助けられてる」
 アキの言葉をつぶやきながら、市岡が白石を振り返る。力強くうなづいてから、彼は笑った。
「数学ってこんなに奥が深くて、おもしろかったんやなあとか、自分が分かってても人に教えるのって難しいんやなあとか。自分のためじゃなくて、誰かのために何かできたときの喜びって、めっちゃ大きい。充実感が違う」
「なにそれ。急に聖人君子みたいなこと言い出して。なんかアキちゃんらしくないよ、アキちゃんはもっと、他人に無関心で、つめたくて、超然としてて」
 声が小さくなっていく市岡に、アキは困ったように笑いかける。
「たぶん、なに不自由なく育った市岡には、分からんと思うよ」
 いってすぐに、まちがえた、と思ったが遅かった。
 傷ついたことを隠さない顔で青ざめて、市岡は走っていってしまう。
「あーあ。最後のはだめだよ、余計だしどことなく僻みっぽくて三嶋らしくないぞ」
「うるさい。おれらしいとかそんなもんあらへんわ。勝手な思いこみを押しつけられても困る」
「まあ、侑季ちゃんはお嬢さんだからなあ。明日になったら何もなかったような顔して、ごめんねって謝ってくるんだろうな」
「あいつのそういう物わかりのええとこ、時々無性に腹立つねん」
「嫉妬だよ、それは」
「あ?」
「育ちのいい人間への、醜い嫉妬さ」
「フン、育ちのいい人間は、相手の意志関係なく押し倒して犯そうとしたりするらしいからな。育ちが悪くて結構や」
「それを今言うか。相変わらずいい性格してるよ」
 二人で帰り道を急ぐ。
「誰でも押し倒すわけじゃないよ。三嶋だからだよ」
 アキにとことん罵られ、結局あれから「やっぱり一発殴っとく」といって走っていった摂にも殴られたというのに、懲りない白石は切なそうに言った。
「二度とすんなよな、変態」
「約束はできない」
「おまえさあ」
 嘘をつけないところは、白石の美点だった。アキはついつい笑ってしまって、暗闇の中でも生き生きとした彼の目をのぞき込む。深緑色の目が、おもしろそうに弓形になる。
「六人部って、おもしろいよね」
「何が。おまえ、なんか変なこと言うてないやろうな」
「言ってないって。あいつさ、おれを殴った後でなんていったと思う?」
「知らん」
 興味はあったが、聞くのが怖い気もして、アキは問い返さずにどんどん歩いた。後ろから白石が追いかけてきて、笑い混じりに言う。
「順番は守れ!って言ったんだよ」
「なにそれ、どういうこと?」
「うん。つまり、すきならちゃんと好きっていって、三嶋の同意を得て、手をつないで、キスをして、そういう順番をまもれって。そうするのが、大事にするってことで、相手を尊重するってことなんだって」
 摂らしい。
(そこに恋愛感情がなくても、あいつらしいからうれしくなる)
「相手を尊重しない感情は、暴力と同じだって言われた。ほんと、そうだよね。ごめんね、約束はできないけど気をつけるから」
 大きい体を小さくして、白石が謝る。
「いいよ、だから二度とすんなよ」
「約束はでき」「いい加減約束しろ!アホ!」
「それより、三嶋こそ明日侑季ちゃんに謝れよ。そっちを約束しろよ」
「わーってる」
 家に向かって走る。待ってよ、と後ろから追いかけてくる白石は、とても楽しそうに笑っていた。

 

 

 

 

 二年生になって、部活動が忙しくなった摂と登下校を共にしなくなっても、摂や父親の聡との交流は続いた。聡は忙しい中でもアキを気にかけることを忘れなかったし、二年生の夏休みには、約束していた釣りに、泊まりがけで連れて行ってくれた。
 一年の夏休みから始めたアルバイトも、家庭教師のまねごとも、相変わらずアキは続けていた。
「摂、全国大会にでるんやって?」
「そうやねん。個人の部やけどな。アキも応援に行くやろ?なんやったら、ほづみさんも乗せていくで」
 ファミリーカーに乗り換えた聡は、仕事は順調そうではあったものの、疲れのせいか見るからに体重が減っていた。若々しかった以前と比べると、やや顔色も悪い。ときおりせき込むこともあったが、たいしたことはないと手を振るだけだった。
「最近は母も仕事が忙しいみたいで」
 これは本当だった。事務の仕事に転職したほづみは、容姿の美しさもあってあっという間に職場にとけ込み、楽しげに働いている。はじめは短期契約だったが、正社員として採用されてからはますます仕事に打ち込んでいて、これまでみたことがないほどに毎日生き生きとしている。
「そうか。それは何よりやな。どうせやから、摂のカノジョも誘ってみるかな」
 それはイヤだ、とはいえずに黙り込むと、ククッと聡が笑った。
「嘘や。アキーおまえそんな目に見えてイヤそうにすんなって。大丈夫や、そんだけきれいな顔してんねんから、すぐカノジョぐらいできるて!な!拗ねてんとガンバらなあかんで」
「拗ねてるんと違うし」
「分かってる。…寂しいんやろ?」
 顔をあげる。やさしくほほえみながら、聡が頷く。
「兄弟みたいなもんやったもんなあ、摂とアキは。寂しいのんも、よう分かる。でもなあ、ずうっと一緒にはいられへんのやで。アキは、賢い。将来はたくさんの人を救うような、立派な仕事に就かなあかん。うちの摂もそこそこ文武両道やと、親バカながらもおもてるけど……残念ながら、アキほどではないからな」
「聡さん、おれは大学も、摂と一緒がいい」
「それは、摂のためにもならんから、やめたほうがええ」
 大学の学費も、特待生をとれば無料だ。アキには自信があった。たいがいの大学でとれると思っていた。あとは摂のいる大学に行けばいいだけだ。
 釣りにつれてきてくれた小豆島のキャンプ場は、夜中、静まりかえっている。テントの中では、摂はそうそうに寝入ってしまったので、アキと聡はランタンを持って、散歩しながら話をしていた。
「虫の鳴き声がするなあ。おいおい、そんな顔せんと」
「いやや…ずっと一緒がいい。ずっと摂と一緒にいたい」
 勘の鋭い聡に、ひょっとすると、自分の想いがばれてしまうかもしれない。分かってはいたが、止めることができなかった。吐き出すように言った言葉に、聡は驚いて足を止めた。
「アキ、おまえひょっとして、」
 言いかけて、やめる。涙がでそうだと思った。続いた沈黙に、足が固まってしまったように動かない。
 隣に立っている聡の手が延びてきて、アキの頭をぽんぽんと叩く。
「なあ、去年から悪ガキに勉強教えてるんやて?」
「悪ガキではないけど、うん」
「どうや?やってみて」
「どうって……人に教えるのは難しいけどやりがいあるなあ、とか、知らんかったこと、いっぱいあったなあって」
 勉強ができないのも、ドロップアウトしてしまうのも、すべて本人が悪いのだとおもっていた。実際、そういう部分もある。だが彼らと接してみて分かったのは、人は誰しも墜ちたくて墜ちるわけではないのだ、ということだ。環境やチャンスや、支えてくれる人さえいれば、彼らだって変わることができる。変わり方やぬけ出し方が分からないだけだ。
「クズは大体、自分の頭で考えようとせえへん。だから落ちていくんやと思ってた。でも人は誰しも、落ちぶれたくて落ちぶれるんやない」
 聡の笑い声で、顔をあげる。後ろには、数え切れないほど無数の星が瞬いていて目を奪われた。
「うん。そうやな。ほづみさんもアキのおとうさんも、そうやとおもうよ。それに気づけたのは、大きい」
 ええか、アキ、よう覚えとくんやで。聡が肩に手をおいて、柔らかい声で言った。
「世界は広いし、人生は長い。狭い場所で、同じ人間とばかり接してたら、アキはそれに気付かれへんかったはずや。気付けたのは、今までと違う人と出会って、話して、ぶつかったから。違うか?」
「それは、そうやけど」
 何を言おうとしているのか、アキにはよく分かっていた。摂のことを好きなのは、一時的な感情だと聡は言っているのだ。狭い世界で生きてきたせいで、何か間違った思いこみをしているのだと。
「言うとくけどな、おまえの想いを否定してるわけとちゃうからな」
(違ったんか、てっきりあきらめろって意味かとおもった)
「好きって言葉を、感情を免罪符にして、自分の将来を適当に扱うな。アキが誰かを好きなことと、将来のために本当に学ぶべきことを真剣に考えるのと、全然関係ないはずや」
 目からうろこだった。
「それはそう、かもしれへん」
「アキ、一緒におるだけが、愛やないぞ。離れてても、違う場所でそれぞれ違うことをしてても、人は人を好きでいられる。愛することができる。むしろ、別々に違うことを全力でやってこそ、違う考えが生まれて支え合うことができる。
 だから、本当に自分がやるべき道を見つけて、向かっていけ。沢山の人と出会って、話して、もしかしたら他の人を好きになることがあるかもしれん、そういうことをいっぱい経験して、それでも好きやったらもう、どんなことをしてでも一緒におったらええ」
 涙がでそうになるのを必死で堪えて、アキは聡を見上げる。
「ありがとう、聡さん」
「まだまだ、これからやぞ。スタートラインにも立ってへん。許すかどうかも、そのときに決めるからな。大体あいつ自身の気持ちもあるしな」
「うん、見てて」
 あ、流れ星。
 聡がそう言って空を指さす。アキは慌てて願い事を唱えたが、とうに流れ落ちて消えている。
「あーあ、摂のカノジョ、かわいらしいのに可哀想やなあ」
 無神経なことを言ってから、舌を出す。
「それでも、好きなんやったらしゃあないわ」
 天の川が流れる空の下、二人で歩く。
「認めてもらえるように、おれ、頑張る」
「アキはアキの道を行けばええ。おれはずっと見てるよ」
 星明かりの下、聡の眼がうるんでいるように見える。
「だから、迷ったらいつでも話しにおいで。二人で話したいときは、摂追っ払ったらええからな」
「ふふっ、摂かわいそう、あいつ聡さん大好きやのに」
「そおかあ!?」
「うん、だって聡さんがおればっか気にかけるって、子供の頃嫉妬したってこないだ言ってたよ」
「なんや、あいつ。かいらしいとこあるやんけ、いつもぶすっとしてんのに」
 本当は自慢の息子のくせに、とアキが言えば、まあな、と歯をみせて聡が笑った。
「よし、もっとあいつを嫉妬で悶々とさせたろ。わざと内緒バナシしたりしてな」
 星が、何度も落ちる。数えきれないほど落ちていく。
(摂、時々でいいから、聡さんを貸して。いつもじゃなくていいから、お願い)

 だがその日、美しい夜空の下で交わした会話が、聡と二人で話す最後の日になった。