22 Ambulance! (成一と、ふたりの傷ついたこども)

「今から病院にいきますから、どなたかご同行願えますか」
 六人部の問いかけに、千鳥足の男がはいはーい!と勢いよく手を挙げて、冷ややかな視線におずおずと手を下げる。傷病者のバイスタンダーまで、傷病者になってしまってはかなわない。できるだけ酔いの少なそうな人間を、と思った成一に、気恥ずかしそうに、申し訳なさそうにしている若い男性が「わたしがいきます……飲み会の幹事なので」と申し出た。
「ありがとうございます。それでは、搬送しますので同乗してください」
「ご迷惑おかけして、すみません」
「いえいえ。では、発車しますのでみなさん、少しどいていただけますかー!」
「発車します。搬送先、才生回病院!」
 大友の声を合図に、成一がバックドアを閉める。飲み過ぎによって昏睡状態となった傷病者と、恥ずかしそうな同乗者、それに六人部隊の三人を乗せて、今日も由記市を救急車が走り抜けていく。

 

 

「いや~~今日だけで四件かあ。さすが忘年会シーズンだよお」
 二件目の指令で膝に嘔吐された成一は、中央署に戻ってからなれた様子で着替えをすませ、水洗いしたあとの制服を備え付けの洗濯機につっこんだ。血や嘔吐物などで汚れることのある救急隊の制服は、クリーニングに出すと「作業着」となるため、結構な値段がする。普段はできる限り署内か自宅で洗濯をして、月に二、三度クリーニングに出している。
「まあ、替えは常に二着用意してあるんで問題ないんですが…うう、やっぱりちょっとブルーにはなりますね」
 大友の声に、成一がため息混じりに返答する。隣の席の六人部が、わずかに笑ったのが空気越しに伝わってきて、成一は上司の顔をのぞき込んだ。
「おれいま、変なこといいました?」
「いや。お前ってよく吐かれてるなあと思って。夏祭りのときは頭からかぶってただろ」
「やめてくださいせっかく忘れてたのに!」
 着替えをすませた成一が、やきそばパンをかじりながら憤然とするのを、六人部はおもしろそうに眺めている。
「まあでも、食欲はあるみたいで安心した」
「どんな現場にいったあとでも、食うときは食う、寝れるときに寝る、でないと体がもたないって、隊長が言ってたんですよ」
「ああ。お前もタフになった。最近では安心して任せられるよ」
「確かに。ほしのっち、すごく成長したよねえ。技術面でもそうだけどさ、精神面が。むかし、もっと短気だったじゃない。最近は全然、いらいらしてるの見せないからすごいなあって」
 確かに、大友の言うとおりだった。
 四月、異動してきてすぐのころは、傷病者本人や、バイスタンダーの身勝手さ、モラルの無さにたびたびイライラした。署に戻ったらこっそりゴミ箱を蹴ったり、食べられなかったごはんをゴミ箱にたたき捨てたりしていたものだ。
「仕事に対する考え方や、向き合い方を変えたからかもしれません」
「へえ、どんな風に?」
 デスクで顎に手を当てて考える。簡単にいえば、より「六人部に近い」考え方を心がけるようになったのだけれど、それをわかりやすく言うには、どうすればいいだろうか。
 横目に隣の上司を見る。彼は報告書をまとめているところだった。失禁された救急車の中を、さきほど三人で掃除し終えたばかりだというのに、相変わらず涼しい顔だった。
 飲み会も終わりを迎えて久しい時間。終電が終わると、ようやく「忘年会がらみ」の出動はナリを潜めた。
「変えるより、変われ、ですかね」
「ああ、相手に変化を望むよりも、ほしのっちが変わったほうが早い、ってこと?」
 大友がにこにこしながらコーヒーを差し出す。六人部も成一も、恐縮しながらそれを受け取る。
「ありがとうございます——そうですね、市民の人に、急に救急業務に対して理解を深めてくれ、っていうのは無理だよなあと思って。自分が病気したり、たくさんの人を運んだりしているうちに、病気をしている人やその家族がどれだけ怖い思いをしているか、想像できるようになってきたのかもしれません」
「状況を、俯瞰して見ることのできる能力。それはこの仕事で一番必要なものだ」
 六人部が椅子を回転させ、成一に向き直って言った。
「バイスタンダーから正確な情報を聞き取るには、彼らに落ち着いてもらうこと、安心してもらうことも重要だ。動揺している彼らを落ち着けるのは、話術でも経験でもない、彼らの立場に立って考え、思いやり、真摯に説明できる「誠意」が一番大切なんだ。でもそれは、俯瞰して現場を見る能力がなければ不可能だ。」
「僕思ったんですけど、ほしのっちは、観察力に優れていますよね」
 え!と声をあげてしまう。すっかり早食いが板についた成一は、すでに夜食の焼きそばパンとヨーグルトも食べ終え、コーヒーにフレッシュをいれてかき混ぜているところだった。
「星野最大の武器だと、おれも思っていたところです」
 六人部が頷く。涼やかで切れ長の目が、成一をとらえてわずかにほほえむ。
「普通なら見落とすような小さな変化、細かいサインを星野は見落とさない。技術力や精神的な落ち着きは経験で身につけることができるが、観察力、つまり「よく見る力」というのは、才能だ。…星野、お前本当は今日傷病者が嘔吐する時、分かっていただろう?」
 驚いて声がでなかった。成一が目を丸くしたのを見て、六人部と大友は目を合わせて「信じられない」と呟く。
「なぜ、よけなかった?」
「…救急車が汚れたほうが大変だと思ったので…」
 そうなのだ。本当は彼が吐きそうになったとき、よけることは容易にできた。だがそれを受け止めて処理したほうが、救急車全体に吐き散らかされたときよりも、業務的にもチーム的にも衛生的にも、楽だと判断した為ドジを装って感染防止衣で受け止めたのだった。
「結果的には匂いが蔓延しちゃって、あんまり意味なかったですけどね」
 苦笑する。六人部が「まったくお前は」とあきれた声で、それでも腕をのばして、成一の頭を撫でた。
「助かったよ。救急車を消毒し直すのは、大変だからな。ほかの出動指令に対応ができなくなるところだった」
「え、ほめられてます?いまおれ、ほめられてます??」
「これからも頼む」
「いやいやいや、なるべくイヤですけど!今後は無い方向で行きたいですよ!?」
 まじめくさった六人部と成一のやりとりがおもしろかったのか、大友が机に突っ伏して笑いを堪えている。

 

 

「それにしても」
 六人部が席をはずしたことを確認してから、成一はちらりと隣の消防隊を盗み見る。相変わらず出動がなく、暇そうだった。
「はーあ。こんなこと思っちゃだめなんですけどやっぱりヒマそうって感じるおれはだめなやつでしょうか」
「わかるよお。僕の家、そばに東消防署があるんだけどさ、救急車三台とポンプ車二台、はしご車一台車庫にならんでてね。救急車は三台そろってるところなんて、ほとんど見たことないもんね。常に一台は出動してて。でも、赤い車はいつもぴかぴかのまま、車庫にどーんと並んでるもんね」
「ですよねですよね、いつお前等出動してんだよ!って」
 大友がちらりと周囲を確認して、小声で言った。
「僕、もともと消防隊で機関員してたから。あっちの大変さだってわかってるつもりなんだよ。でもね、救急隊で車運転するほうが、ずっと気を使うことが多いし、難易度も高い。正直、同じ給料なら消防隊のほうが楽だったなって思ったりしたことも……なにせ、あっちは仮眠しっかりとれるしね。こっちみたいに、出動出動で一睡もできず、なんてなかったもの」
 六人部がいないことを二人でチラチラ確認しつつ、ひそかに陰口をたたく。高潔な六人部は、こういった下世話な話題が嫌いで、叱られることを分かっているからだった。
「でもさー、そのほうが良くない?」
「え?」
「出動ないほうがさ、いいじゃん。火事がないってことなんだもん。火事てさ、哀しいよ。ほしのっちは火災現場、救急の出動でしか知らないでしょう?」
「そうですね」
「あれはさー…ほんと、かなしいよ。炎はすべてを奪い去るからね。命だけじゃなくて、思い出も、財産も、全部あっというまに灰になる。生き残っても、周囲の家からは冷たい視線にさらされて、住み続けられなくなっちゃうし。全部失って、それなのにあんまり同情もしてもらえない」
「日本は木造家屋が多いからな。建物内部に入って消火活動や救助活動をする海外の消防隊に比べると、日本の消防隊は外から放水することしかできない。できることが限られていて、現場で悔しい思いをかみしめていることなんて、山ほどあると思うぞ」
 いつの間にか戻ってきた六人部の声に、二人とも「ひゃっ」と声を上げてしまった。おもわず椅子から転げ落ちそうになっている大友と成一に、六人部が意地悪な笑みを浮かべている。
「おれだって、聖人じゃないんだ。星野や大友さんがおっしゃっていることぐらい分かりますし、考えたこともありますよ」
「びっくりするじゃないですかあ~、もー、隊長人が悪いですよお」
「消防隊と救急隊。どっちが上も下もない。できることが違うだけだ。ただ」
 見上げている成一と大友に、六人部がはっきりとした声で言った。
「救急隊のほうが沢山の人を助けることができると、おれは思っている」
 コンパでモテなくても、夜眠れなくても、ごはんを食べ損ねても。医療知識や薬剤や手技や、勉強することが多くても。それを勝るよろこびが、やりがいが手応えが、確かにあるのだといって、六人部が笑った。
「コンパでもてないとか、隊長が言うのすっごい意外です」
 成一が笑いながら言うと、六人部がいつもの無表情で言い返す。
「おれだって男だからな。若いころはコンパに行くこともあったが、「消防士なの?」ってきかれたときに「救急隊だ」って答えてあからさまにがっかりされたりするのは、それなりに傷ついたぞ」
 大友が情けない顔をしている。また笑いを堪えているな、と成一は気付いて、ますます我慢できずに声を上げて笑ってしまった。
「大友さんのいうとおり、おれたちだって暇に越したことないですよね」
「そうだな。一度ぐらいは言ってみたいものだ、「暇でしかたない」と」
「んふふ、ですねえ~。いやー今日はひまだなあ~トランプでもしようかな~とか言ってみたいですねえ」
「麺類をゆっくり楽しんでみたりね」
「のびるのを気にせずにそばの出前を頼んでみたい」
「ううっ、隊長の願いがささやかすぎて泣きそうになってきました」
「隊長、そば好きですもんねえ~」
「てんぷらがサクサクなままのそばを、一度ぐらい食してみたいものだ」
 しみじみと頷き合っていると、指令が入った。車庫へと走る三人は、すっかりなじみの「名チーム」だ。

「六人部、ちょっと来い」
 中央署の署長に六人部が呼び出されたのは、翌々日、勤務時間が始まってすぐのことだった。
 顔の傷跡について、周囲は驚き様々な噂が飛び交ったものの、相手が六人部ということもあって、誰も本人に追求することができないまま三日が過ぎていた。成一自身も、「今度の休みに説明する」という言葉に黙るしかなかった。
「やっぱり、きたね」
 大友のつぶやきに、成一は署長室にむかって心配そうな視線を投げる。当の六人部は淡々としたもので、傷跡を隠すために昨日までつけていたマスクすら、その顔にはない。
「業務中はマスクしてるから市民対応には影響ないとしても、まあやっぱり目立つよね」
「ですねえ」
「ほしのっちは、何があったのかきいてないのー?」
「教えてくれませんでした。私闘だから気にするなと」
「ええ~!?なにそれ、気にするなって方が無理じゃん」
「男には戦わなきゃいけないときがある(キリッ)とか言ってました」
「ひゃーかっこいい、ほしのっちがやるとおもしろい。もう一回やってよ」
 大友が丸い頬を紅潮させて笑う。
「しかたないですね…男にはた…」
「おい」
 地をはうような低い声にふたりとも固まる。署長との話が終わったらしい六人部が、眉を寄せて後ろに立っていた。
「わっわっ…」
「ぶふーーっ、ほしのっち焦りすぎィ!」
「悪かったな、心配させたみたいで」
 時計を見る。署長との話は十五分もかからずに終わったらしい。
「やっぱり、それのことですか?」
 咳払いしたあと、成一が自分の頬を指さして問えば、六人部は「まあな」とだけ言って書類に向かってしまう。
 話しかけられることを拒絶しているような横顔に、成一は仕方なく自分のデスクに山積みになっている報告書を、ファイリングすることにした。
「救急、指令。○○町二、男性一名路上で血を流して倒れているとのこと。追加情報あり」
 昼下がりまでに二件、軽症患者を一次選定病院に搬送したものの、比較的平和な一日だった。このまま夜間の指令集中時間を乗り切ることができれば、無事翌々日は公休日だ。
ーーそう思って少し油断したのが悪かったか。
 日付が変わり、うつらうつらし始めた成一だったが、指令の放送に覚醒する。車庫に降りて感染防止衣を身にまとい、靴を履き替えたところで、六人部が走り込んできて助手席に乗り込む。
「中央署、救急隊より本部。追加情報を」
「本部より中央署。救急通報前に銃声のような音をきいたという証言により、警察が現場に先着しています。念のため、防刃ベストを装着してください」
 後部座席にいる成一、それに運転席の大友に隊長の六人部が、一斉に顔を見合わせる。だがそれも一瞬で、感染防止衣をぬいであっという間に防刃ベストを装着し、出動へと頭を切り替えた。
「警察が現着しているなら危険はないと考えていいが、油断はするな。妙な緊張も必要ない。おれたちの仕事はあくまで傷病者の保護と適切な搬送だ、いいな」
「了解!」
 サイレンと共に、発車する。
 異常な雰囲気につつまれた六人部隊は、沈黙のまま現場へと急行した。

 現場には、すでに警察によって規制テープがひかれていた。
「救急隊です、通してください!」
 いつものごとく、六人部が隊長バッグを抱えて現場へ真っ先に飛び出していく。メインストレッチャーを押して成一が後を追い、黄色いテープの中へ入ろうと制服警官に声をかけた。
「中央署救急隊の星野です。入ります」
「どうぞ」
 夜中の一時を過ぎているというのに、大通り沿いの繁華街ということもあって、既に野次馬がずいぶん集まってきている。中には携帯電話で写真を撮ろうとするものもちらほらいて、一体何を考えているんだ、と成一は静かに怒りをかみしめた。
(救急車が来るような事態だぞ。何がおもしろいんだ)
 由記市の繁華街から川沿いにかけて、ちらほらとラブホテルが並んでいる場所がある。とはいえ由記市は高級住宅地を売りにしており、景観を損ねないよう地味な作りをした建物ばかりだ。一見すると、ビジネスホテルのように見えるその建物の間を、ストレッチャーを押している成一と、救急車を止め終わった大友が六人部の後を追って走る。
「こっちだ!」
 現場について、息を飲んだ。救急救命士として配属されてから四年になるが、初めてみる銃創に、目を奪われてしまう。
「日本じゃ珍しいかもしれないが、まれにある。大体は暴力団絡みだ」
 六人部の声に頷く。
「銃弾は……三発だ。全て貫通、出血量が多い。車内収容最優先、ロードアンドゴー!」
「了解、ロードアンドゴー!ストレッチャーに乗せます」
「自分も同乗してかまいませんか。今身元確認している時間はないでしょうから。意識を取り戻したらすぐに事情を聴きたいんです」
「助かります。一名でよろしいですか」
 簡潔な六人部の返答に、男がほほえむ。
「結構です。私は由記中央署、刑事課暴力係の東です」
 私服の男が警察手帳を開いてから簡潔に自己紹介した。この間もストレッチャーを押しながらのやりとりだ。時間は一分一秒でも惜しい。
「大丈夫ですかー、私がわかりますか!」
 車内収容後、高濃度酸素を投与しながらの成一の呼びかけにも、返答はない。
「意識なし。顔面蒼白、…バイタル、モニターします」
「腹部に銃創一、大腿部一、上腕部一の計三カ所。腹部以外は貫通。顔面蒼白、血圧はまだ低下していないがこれからだな…。出血多量によるショックが疑われる。第三次選定、可能であれば救急救命センターへ受け入れ要請を!」
「了解」
 救急車の狭い空間の中が、むせかせるような血のにおいでいっぱいになる。だが六人部をはじめとする隊員も、刑事の東も、落ち着いていた。
 素早い六人部の全身観察に舌を巻きながら、成一は圧迫止血を行い、滅菌ガーゼで被膜した。
「ショックパンツはどうしますか?」
「不要だ。病着するまでできるだけ動かさないほうがいい。SpO2は常に九五%以上を維持。…星野、何か気付いたことは?」
 サイレンが鳴る。救命センターへの受け入れが決まったようだ。腹部外傷に強い三嶋がいてくれますように、と成一は内心強く祈った。
(三嶋先生なら、MSFの経験もあるから銃創にもあかるいはずだ)
「コンパートメント症候群の疑いがあります」
「同じ考えだ。腹部のみ貫通していないから腹腔内に相当量の血液が溜まっているな。心拍出量も低下傾向にある。――三嶋先生がいてくれるといいんだが」
「同じことを考えていました。外国での医療従事経験がある先生なら、銃創は珍しくないですよね」
 コンパートメント症候群とは、腹腔内での大量出血により、腹部内圧が高くなり、血流が阻害されることによって発生するさまざまな症状の総称だ。一般的に、開腹手術でしか治療することができないため、今回のケースでは輸血をしながら銃創の止血を行い、血管の損傷があれば縫い合わせ、腹腔内の血液を吸引して傷口を閉じるという大手術になる。
 傷口や顔色の観察しかしていなかったが、あらためて男を見ると、彼はまだ若く、やくざというわりには身なりもきちんとしていた。高そうなスーツに身を固め、目につく場所には入れ墨もなければ、小指の欠損も見あたらない。
 眉を寄せた蒼白な顔は、迫力のある男前だ。異国の血でも入っているのか、髪や睫毛は赤味がかっており、そばかすの散らばった鼻筋は高い。
「まだ、若いように見えるのに。銃創か」
 成一のつぶやきに、東がここだけの話ですが、と小さな声で打ち明ける。
「彼は神奈川県一帯をとりしきっている広域指定暴力団の、若頭ですよ。いいスーツを着ているでしょう?グッチのセミオーダーです。全く、こっちはツーパンツつき、吊しのスーツだってのにね」
「わかがしら…って、なんですか?」
 東が目をぱちぱちさせてから、ふっとほほえんで説明を加える。
「簡単にいうと、NO2ですね。次期組長ってやつです。これが実に頭のいいやつで、これまでに少なくとも十件以上の詐欺、五件以上の暴力恐喝事件に関わっているはずなのに、全く証拠が残っていません」
 六人部も声をあげた。確かに、目を閉じている今の彼は、とてもそんな凶悪な人物には見えない。
「到着しました、救命センターです!」
 ストレッチャーを押していくと、銀色の扉の前から三嶋を先頭に救急科スタッフが走ってきた。
 緊張の浮かんだうつくしい顔が成一と目が合い、安心させるように頷く。
「銃創だね。それにコンパートメント症候群、いい選定だ」
 ガラガラという音が病院の廊下に鳴り響く。早足に、ストレッチャーを押しながら成一がバイタルを告げると、六人部が早口で申し送りを済ませる。
「よし、後は任せて。――せーの、一、二、三!海野、バイタル!」
 流れるような作業で初療室の診察台に移され、ものすごい早さで処置が行われていく。バイタルをとる速度、指示の的確さ。うなるほどの手腕が空気越しに伝わってきて、成一ら六人部隊は安心して現場を後にした。

「さすが三嶋先生。銃創にも顔色一つ変えなかったね」
「なれてる様子でしたね。ファーストコールで状況を伝えていたからかもしれませんけど」
 帰署する途中、大友と成一は改めて三嶋のすごさを知った思いでたたえ合った。
「それにしても刑事の東さんのさあ、三嶋先生みたときの顔!ぽかーんて口開けて見入っててさ、あのときだけちょっと僕、笑いそうになっちゃったよ」
「気持ちはわかりますけどね。おれらはもう、三嶋先生に見慣れたというか、ファーストインパクトが去ってますけど。みんな初見だとあんな感じなんでしょうね、たぶん」
 六人部は会話に入ってこようとはせず、窓の外をぼんやりと眺めていた。幹線道路を行き交う車は、終電後ということもあって、ほとんどがタクシーで、赤いテールランプがちらちらと六人部の顔を照らし、過ぎていく。
「腹部外傷で、重篤か。助かるといいんだけど」
「ええ。あんなに若いのに、夜中に銃で撃たれて死ぬなんてあんまりです」
(あの出血量だと、意識が戻るには時間がかかりそうだ。しばらくICUで過ごすことになるだろう。三嶋先生はICU管理にも特化してるから、きっと助かる!)
「……遠い」
 小さな声だったが、聞き逃さなかった。
 成一が「え?」と問い返すと、六人部は首を振り、黙り込んでしまった。

 久しぶりに、東京に遊びに来た。
 酔っていたため曖昧な記憶を掘り起こし、三嶋から聞いた店名を頼りに、なんとか「Bar the Autumn」にたどり着く。
 前回この店にきたときは、泥酔したあげくCDをもらい、ろくにお礼も言わないまま立ち去るという失態をさらした為、今回はお礼をかねてとっておきの洋菓子を持参した。甘いものが苦手な成一でも、ついつい手が伸びてしまう甘さ控えめのパウンドケーキだ。
(しまった。詰めが甘かった……営業時間何時からだろ)
 重厚なドアは、入る者を少し気後れさせる高級感がある。よほど酔っていなければ、気後れしてこんなバーに入ることはできなかっただろう。
 扉には「coming soon!」とかかれた木の札がひっかけられている。
 バーなんだから六時ぐらいにあくだろう、と考え、新宿で服や靴を買った足でそのまま浅草に出てきたが、やはり前もって調べておくべきだったと後悔した。
 ダメ元で携帯電話を取り出し、食べログで名前を入れてみると、幸運なことに店が出てきた。営業時間は午後七時~深夜、と書いてある。定休日は月曜日で、今日は日曜日だから時間になれば営業するはずだ。
(どっかで時間つぶすかなー…とはいえ浅草ってあんまり土地勘ないんだよな)
 昼食を自宅でとってからは、何も食べていない。小腹が減ったためか、ひもじくて寂しい気持ちになってくる。
「せいちゃん?……そっくりさんじゃないよな」
 聞き慣れた柔らかい声に、顔を上げる。
「なんでこんなとこにおんの」
「え、…えーー三嶋先生!?なんでですか、何してんですかこんなところで」
「こんなところで悪かったなー」
 三嶋の後ろに立っている、先日迷惑をかけた年下のバーテンダーが言った。
「いやいやいやそういう意味じゃなくてさ…ごめん」
「くくっ、おもしろいなー相変わらず。なに、アキも知ってんの?」
「いやちょっと待って。千早、なんでせいちゃんしってんのさ」
「お客様だよ。酔っぱらってCD強奪していった強盗でもある」
「そうそう、っておい!おれのほうが年上なんだからちょっと気を使えよ!そもそも強奪はしてねえよ、話つくんな」
「ごめんごめん。許して星野さん」
「まあこっちも迷惑かけたから仕方ねーけどさ」
 千早と成一が楽しげにやりとりするのを、三嶋が不思議そうに眺めている。年が近いせいで、お互いに遠慮がない。
「これ。先日の詫びにと思ってさ、持ってきたんだよ」
 この際だから渡してしまおう。自分より数センチ身長が低い千早の胸元に、丁寧に包装された洋菓子を押しつけた。
「ここの洋菓子おいしいよね、たまに由記市の常連さんがくれるんだよ。サンキュー星野さん」
「なんか軽いわー…1ミリもありがとうとか思ってなさそうだな」
「思ってる思ってる」
 三嶋が笑った。細められた目がきれいに弓なりになる。
「あのー三嶋先生はなぜここに?」
 成一の質問に、三嶋はうーん、どう答えようかな、と頬をかく。千早はにやにやと、人の悪い笑みを浮かべていた。その顔にはよく見るといくつか殴られたような痕があって、涼やかな男前が台無しだ。
「てゆーか千早さ。なんでそんな怪我してんの。なんか六人部隊長みたいだな」
 その瞬間、雷に撃たれたような、という表現がぴったりの表情を、千早と三嶋が同時に浮かべた。
「え、なになに、なんですかその鳩が水鉄砲食らったみたいな」
「うん、豆鉄砲な」
 心なしか疲れた声で、三嶋が訂正する。
「豆でも水でもいいですけど」
「六人部隊長って、星野さんがおれににてるって言ってた人だよね。下の名前は?」
「千早、」
 三嶋が咎めるのを手で制して、千早が先を促す。
「いいから。教えてよ」
「なんなんだよ一体。摂だよ、せつ」
 合点がいった、というように、千早が長いため息をついた。三嶋の表情が暗くなって、何かいけないことを言ってしまったのだと成一は青ざめた。
「立ち話もなんだからさ、入って」
 店のドアを押して、千早が入店を促す。突如漂いはじめた不穏な空気におびえながらも、まだ薄暗い店内に足を踏み入れた。

 

 

 

 

「何か飲む?」
 千早が、黒とグレーのボーダーセーターにウォッシュデニムというラフな出で立ちで、カウンターの中から声をかけてくる。けだるげに腰掛けている三嶋の隣に所在なく座ると、ほどよく暖められたお手拭きが差し出された。
「まだ営業時間じゃないんだろ」
「その方が都合がいいでしょ、話をするのには」
 千早が肩をすくめる。三嶋が、観念したようにため息をついた。
「生ビールください」
「かしこまりました。星野さんは?」
「じゃあ、おれもそれで」
「かしこまり。せっかくバーにきてるのに、君らの注文は色気がないねー!」
 おもしろそうに笑ってから、千早が十分に冷やされたグラスを二つ取り出し、ビールサーバーの下に並べた。まずまっすぐに注いで泡を立て、そこからは斜めにして静かに注ぎ、きれいな泡の蓋がしめられる。かたちの上品なグラスに注がれた黄金色のビールは、普段成一が飲むそれよりも、ずっと美味しそうに見えてのどが鳴った。
「さーて、おれもビールにするかな」
「ここの会計は全部おれにつけといて、せいちゃんの分も」
「さすが、男前!では遠慮なく」
 慌てて口を挟もうとしたが、千早のんきで間延びした乾杯の音頭でかき消される。目があった三嶋はなぜか、とても申し訳なさそうな顔をしていた。

 

 

 

 今時の人は、あまりビールを飲まないらしい。
 特に「かけつけいっぱい」だとか、「とりあえずビール」という文化は絶滅危惧種と化しているようで、各々にサワーを飲んだり、カクテルを飲んだり、一杯目からウーロン茶だったりと多様化しているようだ。
「っかー、おいしい!やっぱ一杯目はビールですよねえ!」
 そんな中、成一は昔からビールが好きだった。体育会系の勤務先なので、有無をいわさずビールを飲まされた、という事情もあったが、それだけではない。苦くて、のどの奥をじゅわりと焼いていくビールは、味だけじゃなくてその見た目も成一の好みだった。
 なんといっても、色がきれいだ。明るい気持ちになる色をしている。
「相変わらず美味そうに飲むなあ、せいちゃんは」
 三嶋が眉を下げて笑った。たばこ吸っていい?と仕草で問われて、どうぞどうぞと頷く。
 ポケットから、くしゃくしゃになったたばこを取り出し、一本口にくわえる。そのあと胸ポケットを探ってから、「またライターなくしたわ」と呟く。右手で頭をかく様子も、くしゃくしゃになっているたばこのソフトケースも、大ざっぱでがさつともとれるのだが、そういった動作が三嶋の美しすぎる顔を程良く中和して親しみやすさを出している。
「ほら」
 あきれた様子で千早が火を差し出す。何の遠慮も戸惑いもなく、三嶋はくわえたたばこを無防備に差しだし、美味そうに吸い込んだ。
「三嶋先生って、O型ですか?」
「不正解」
「……あれ、正解は?」
「正しい答えがいつでも与えられるとおもったら大間違いや」
 珍しく意地の悪い物言いで、三嶋がフンと鼻をならす。千早がナッツの盛り合わせを成一の前に、チョコレートの盛り合わせを三嶋の前に置いた。
 一時間ほど、さしさわりのない話をして酒を飲んだ。
 ほどよく酔いが回ってきた頃合いを見計らって、成一は気になっていたことを思い切って訪ねた。
「あのー、さっきの反応と千早の顔から察するに、隊長の顔の怪我って…」
「そうそう、相手おれだよ、おれ」
 軽い調子で、千早が自分を指さして笑った。だいぶ薄くはなっているが、彼の頬にも殴られた痕が残っている。
「なんでまたそんなことに?」
「六人部さん、なんて言ってた?」
 質問を質問で返されて、成一はだまりこむ。千早は頭の回転が早く、下手をすればこちらがしゃべるだけしゃべらされてなにも得られない可能性もある。
「質問に答えてくれたら教える」
「星野さんもなかなか、老獪なところあるんだなあ」
 三嶋が黙ってたばこの煙を吐き出す。柔らかい雰囲気はなりをひそめて、変わりに発散されているのはあからさまな「不機嫌」。他人の空気に敏感な成一は、困り果ててそちらをみれない。
「こないだ、六人部さんとアキが飲みに行ったわけだよ。それで、なにを思ったのか最後にこの店に寄ってくれてね」
「?それのなにが悪いんだよ、まるでいけないことみたいな言いぶりじゃん、へんなの」
「うん、まあ順を追って説明するとさ、おれはアキと特殊な関係にあるんだよね」
「特殊」
「そう。利用しあう関係、っていうのかな」
「なにを?」
「その鈍さは育ちの良さからくるの?体とか金しかないでしょ、大人なんだから。今風にいえばセフレだね」
「せ…!?」
 驚いて思わず立ち上がった成一を、三嶋が流し目に見た。視線だけが動くその様子は、だからこそこの上なくセクシーで、性的な目で彼をみたことがない成一ですら、へなへなと椅子の上に座らせる威力が十分にあった。
「千早の物言いはいつも即物的だな」
 三嶋が咎めても、千早は一向に頓着しない。
「わかりやすい方がいいじゃん、何事も」
 不機嫌を深めた三嶋が、たばこを灰皿に押しつけて、カウンターに肘をつく。そんな様子がおもしろいのか、千早はほほえみを浮かべながら三嶋と、成一を交互に眺めた。
「ケンカというか、殴られた理由もまさに今の言葉のせいなんだよね。アキと六人部さんがこの店に来る、しばらくしてアキがトイレに立つ、六人部さんがおれとアキの関係を怪しむ、どういう関係なのかと問われる、セフレと答える、殴られた、まあ言い方が悪かったおれも悪いよなと反省してその場で示談にする、で、いまココ」
「なんだそりゃ…なんなんですか、おれにはぜんぜんわかんないです、どうしてそんな誠意のかけらもないようなことが出来るんですか。好きでもないのに、なんでそういうことが出来るんですか。隊長が怒ったのだって、そういうことじゃないんですか。三嶋先生のことを大事に思ってるから、千早に怒ったんでしょ?」
 六人部の言葉を思い出す。「個人的な私闘だ」と彼は言った。「男には戦わなければいけないときもある」とも。
 たとえ仕事や現在の地位を失ってでも、許せない、殴らないと気が済まないと思うほどに、大切にされておいて。特別な位置をしめておいて、どうしてそんなことが出来るんだろう。どうしてこんな風に、軽いノリで、ひどい言葉で、相手を傷つけることができるんだろう。
「信じられない。三嶋先生には、失望しました」
 言い過ぎだと、すぐに後悔した。いくら頭に血が上っていたといっても、言っていいことと悪いことがある。
「あーあ。アキ、六人部さんと同じこといわれちゃったね。可哀想」
 深い絶望と苦悩の表情が三嶋の顔を覆う。成一は口を抑え、慌てて謝罪した。
「ごめんなさい、…おれ関係ないのにひどいこと…ごめんなさい」
 紙幣をカウンターに置いて、店から飛び出す。買ってきた荷物がじゃまで煩わしくて、思うように走ることもできなかった。

 

 

 

 人混みの中で肩をつかまれ、振り返る。
「せいちゃん、待ってって…はあ、もー、足早いなあ」
 いつの間にか浅草寺の方まで歩いてきていた。そのまま帰る気にもなれずフラついていると、後を追ってきたらしい三嶋に捕まってしまった。
「三嶋先生…」
 膝に手をついていた三嶋が、顔を上げてにっこりと笑った。
「ちょっと一緒にあるかへん?」

 すっかり暗くなったせいか、昼間は身動きすら難しいほどのひとだかりがずいぶん落ち着いていた。ライトアップされた雷門から浅草寺にかけての風景は、なじみのある昼間の風景とはまるで異なる場所のように幻想的で、趣があり、うつくしい。
 隣を歩いている三嶋の頬が、光をうつしてさまざまな色に彩られている。憂いを帯びた表情と、いつもの刺激的な視線が成一を遠慮がちに眺めて、目があうとそらされてしまう。
「ごめん、さっきは」
「いえ、こっちのほうこそ失礼なことを言ってごめんなさい。三嶋先生と千早がどういう関係であろうと、おれに口出す権利ないのに」
 立ち止まって頭を下げる。やめてよ、と三嶋が手を振って顔を上げさせた。
「せいちゃんの言うことは正しい。だから謝る必要なんかない」
「でも」
「浅草寺のほうまで歩こう。浅草ってな、夜は別の街みたいに静かで、おれはこっちのほうが好きやねん」
 石畳を並んで歩く。冷たい風が三嶋の髪を揺らして、うつむき加減の無表情なかおだちを、冬空の下に晒す。道行く人々が、三嶋に視線を奪われては通り過ぎていく。
「テレビでうつる浅草って、いつも人がぎっしりですよね。昼間きたら、待ち合わせ合流するのも困難ってかんじで」
「ほとんど観光客やと思うけどな。仲見世通りもにぎわってて、外国人がさ、わけわからんもんを熱に浮かされたみたいに買ってるよな。絶対家かえって我に返ったら、こんなんいらんわ!って思いそうなもんを喜々として買うてるから、たまにみかけたら笑ってまうねん」
「三嶋先生って、案外性格悪いんですね」
「そお?人間、皆ふたあけてみたらこんなもんやで」
「めちゃくちゃ訛ってるし」
「なまる?あー、方言な。あはは、たしかに君らからしたらなまってることになるか。酔っぱらってくるとどうしても出るわー」
「皆三嶋先生を見ていて、おれちょっとつらいんですけど」
「そんなことないよ、せいちゃんもマアマアかっこいいから」
「まあまあっすか」
「スタイルもいいし。顔小さくて手足長い、姿勢がきれーい!っておれの友人の女が騒いでた」
「はあ…」
 息が白い。ポケットから小銭を取り出した三嶋が、そのうち何枚かを成一に押しつけた。
「さ、せっかくきたからお参りして帰ろ」
「え、十円ですよこれ、おれ百円ありますからそれ使いましょうよ」
「ええって。ここなー、昼間どんだけ人来てると思う?」
「そりゃもう、前が人しか見えないぐらいですよね」
「そうそう。おれが浅草寺にはじめてきたときの感想はこうやった…(うわあ、めちゃくちゃ………儲かってそう)」
「うわはは!!そんなこというひと初めて見ましたよ!」
「みんな思てるて。言わんだけやて」
「いやー三嶋先生ぐらいですって絶対」
 そんなやりとりをしたあと、三嶋は急にしょんぼりして、「やっぱり千円ぐらい入れとこうかな…大阪人はみんなケチやと思われたら申し訳ないし」とつぶやき、千円札と間違えて一万円札を投げ込んでしまった。
「大胆すぎ!三嶋先生の間違い大胆かつ男らしすぎですよ!」
「うわあああ…たばこ一ヶ月分の経費があ…」
 言葉の割に対して落ち込んでいない様子で、三嶋が笑った。
(三嶋先生って、こんな人だったのか。いつもきれいでミステリアスで、ちょっとつかめない人だと思ってた。こんなあけすけな、無防備なところがあるなんて)
 お参りを済ませてから、三嶋に「もんじゃ焼きって食べたことある?」と問われ、お互いに腹が減っていたため、近所の店に食べにいくことにした。関東にきてしばらく経つが、いまだにもんじゃ焼きだけは手をだしていないのだと、真剣な顔で三嶋が言った。
 炭酸のきいた、レモンサワーで乾杯する。作り方がわからない三嶋のかわりに、成一が鉄板の上で器用に土手をつくり、平たくのべた。
「やっぱりこっちの人って、よう食べる?」
「案外食べないですよ、友人と飲むときとか、それこそ関西の知人を案内するときとかぐらいですね。まあおれは神奈川ですから、東京の人はどうだかわからないですけど。同じ感じじゃないかなあ」
「へえー…もんじゃやきってほら、見た目が正直げ」
「言わなくていいです!大体わかりますから言いたいことは!」
「まあ言われてみれば、お好み焼きもそんな食べへんかったな。焼けるまで時間かかるし、カロリー高いし。京都にもおいしいお好みの店あったけど、おれ酒飲むときそんな食べへんしなあ」
 たばこをくわえ、煙を吐き出しながら、成一の作業を興味深そうに眺めている。
「そんなにたばこを吸ってたら、体壊しますよ」
「蒸気機関車みたいなもんやから、しゃあない」
 石炭のかわりにたばこを吸うのだ、といけしゃあしゃあとのたまい、三嶋が灰皿に灰を落とす。
「よし、できました。この小さい「はがし」を使って、こう…鉄板に押しつけてね、焦げ目をつけて食べるんです」
「なるほど。やってみるわ」
 一度やって見せただけなのに、三嶋は指先が器用ですぐに使い方をマスターしてしまった。餅とチーズの入ったもんじゃ焼き独特の感触に、はじめは不思議な顔をしていたが、「おいしいな!」とまぶしい笑顔を成一に向ける。
「酒飲みには、おこのみやきよりこっちの方がええわー!あてにぴったりやん」
「ここのは食べやすくてうまいんですよね。あ、すいませんレモンサワーおかわりください」
「おれはビールください。あつっ、あついけどうまっ」
「よかったー、口に合わなかったらどうしようかと思いましたよ」
「ふふ、そういうところもお兄さんに似てる」
「そういうところって?」
「品があって誰にでも優しくて、長いことやってる美味しいお店をちゃんと知ってるところ」
 日曜にも関わらず、店の中は客で一杯だ。この店は親友に教えてもらった店で、高校生のころからたまに訪れている。テーブル席はすべて簡単な壁で仕切られているため、半個室のようになっており、ほどよくプライバシーが守られている。
「母親が、このあたりの出身でな、」
 成一がねらっていた、焦げた部分をさらりと奪い去りながら、三嶋が言った。
「台東区千束。なにがあったとこか、知ってる?」
 レモンサワーで口を湿らせ、言葉を選んでいると、三嶋が眉を下げて笑った。
「遠慮せんでええよ、知ってるままでいい」
「かつての吉原ですよね」
「そう。今は首都圏最大のソープ街。ここからもそう離れてない。母は物心ついたころから、そこで高級ソープ嬢として働いてた。人気もあったみたいやで。店の客との間に、子供が、……おれができるまでは」
 鉄板の上で、もんじゃ焼きが焦げる音だけがきこえた。
 成一は言葉もなく、目の前の三嶋を見つめる。
「その男は、母にこう言った。「必ず迎えにいく。君と子供、二人とも幸せにしてみせる。待っていてくれ」と。こんなん、普通信じへんよなあ。ちょっと考えたらわかるやん、逃げてるだけやって…」
 ビールを呷る。白い喉が上下した。ぷは、と美味そうに飲み干したビールジョッキをテーブルに置いてから、「すいません、ビールおかわり」と店員に声をかけた。
「でも母は信じた。世間知らずやったし、生まれて初めての恋に浮かれてたんやろうなあ。店のボーイやってた男に相談して、二人で逃避行、何の縁もゆかりもない、土地勘もない大阪に住み着いた。人が多いところのほうが、ひと目につきにくいとか考えたんちゃうかな」
 頬杖をつき、やってきたビールのおかわりを口に運ぶ三嶋は、自暴自棄のようにも、懺悔しているようにもみえて、成一は口を噤む。
「母は父を待ってた。ずーっと。普通気づくやろ、って思うねんけど…そんだけ好きやったんやろうな。時々相手の男からは手紙とか、送金もあったみたいやし、忘れることはできへんかった。でも誤算が一つあって、一緒に逃げ出してきた男はずっと、母のことが好きやってんな。やっと想いがかなうとおもってたのに、いつまでたっても自分のほうは向いてくれん。やがて暴力をふるうようになった。殴る蹴るだけじゃなくて、性的にも。おれの目の前でも関係なかった」
 次第に挑むような色が宿ってきた三嶋の目と、おそろしい言葉をつむぐ唇から、成一は視線がはずせなくなった。
 まさか、と思う。
 子供の前で、そんなことが起こるはずはない。
(でも、おれがこれまで仕事で見てきた現場は、どうだった?)
 嘘のような本当の地獄を、数多く見てきたはずだ。真冬にベランダで放置されて凍死したこども、胃の中には段ボールしか入っていなかった幼児、中央署に来てからは――風呂場で溺死させられた女の子。
 全部、本当のことだった。
 自分には関係ないと、遠い世界のことだと心のどこかで線をひいていただけで、それらはすべて本当に起こったことだ。同じ世界で。同じ時間軸の中で。同じ国で同じ地域で、本当にあったことだ。
 悲劇という言葉にしてしまえば、よそ事にできる。悲劇という言葉の前には、見えない色で(自分とは関係のない)という文字がかいてある。だがこれらのことは、悲劇ではなく、現実だ。
「不快な話してごめんな。別に不幸自慢したいわけ違うから。そういうの、どっちかっていう虫酸が走る方やし」
「そんな!そんな…そんな言い方、しないでください」
 泣きそうだった。でもここで泣いたら、軽蔑されると思った。不意に、三嶋は自分のことを憎んでいるのではないか、と怖くなる。多少の確執はあっても、お金にも、家族にも困ることなく平穏に生きてきた。愛することも愛されることも、特別だと思わずに過ごしてきた。だがそれが普通のことではないのだと、三嶋は言っているのだ。愛されること、経済的に満たされること、愛すること。すべて恵まれた者にしか許されていない特権なのだと。
「地獄って、天国をしらんかったらわからへんやろ。だから特に地獄やと思ったわけじゃなくて…こんなもんなんや、って思ってた。生きるとか、食べていくって、こんなに苦しいんやって。誰かに愛されることも、大事にされることも、一生ないんやろうな、それってどんなものなんやろうってな。それを教えてくれたのが、摂と聡さん…摂のお父さんやった。あの二人は、どんなときでもおれから目をそらさへんかった。いつも笑顔で、ときどき一緒に泣いて、抱きしめてくれた。まるごと受け止めて、それやのに何も、要求せえへんかった」
 あの二人はおれを、まるごと愛してくれたと思う。
 そう呟いて、三嶋は白い頬に涙を流した。
 その泣き顔のうつくしさに、これまでの生き様をうつした顔に、成一は言葉もなくみとれた。
「おれは、摂のことが好き。ちいさいときから、他の人を見たことも、好きになったこともない。自分でもどうかしてると思うけど、どんなにがんばっても、忘れようとしても、他の人を好きになることができへんかった」
 心臓が痛かった。
 痛いほどに苦しい。
 これを言うために、三嶋は自分を追いかけてきたのだろうか。そう考えると、ますます苦しくなった。
(こんなふうに、人を好きになったことがあっただろうか)
 六人部のことが好きだ。
 それは三嶋の告白を受けても同じだ。その想いが揺らいだり変化したりすることはない。
(でも、想いの強さはどうだろう?)
 わからない。三嶋が六人部を必要としている、その理由と同じぐらい切実なのか、と問われると、頭を抱えてしまう。

 尊敬している。とても深く。
 だから、ともに成長したい。
 同じ道を歩きたい。
 できれば、一番側で支え、必要とされる存在でありたい。

(そうだよ。そんなの、比べる必要ないじゃないか)

「よくわからないのは、そこまで好きなのにどうして、ほかの人と寝ちゃうんですか」
 成一の踏み込んだ質問に、三嶋が目を丸くする。こういう不意にあらわれる無防備な顔が、おそらく男を引き寄せるんだろうなと成一は内心苦笑した。
「どうしてもさびしいときって、あるやん。普段は一人が好きでもさ」
「そういうのがだめなんです!もっと自分を大事にしなさい!せっかく、神様に選ばれて生まれてきたんだから」
「でも、やりたくなるときだってあるやろ?」
「じゃあ、やりたくなったら誰とでもやるんですか?」
「そういうわけじゃないけど」
 千早の顔を思い浮かべて、合点がいった。
「…もしかして、あいつが隊長に似てるから、ですか」
「ばれた?」
「そういうの、自分のためにもよくないし、千早にもめちゃくちゃ失礼だとおもいます」
「耳が痛いです」
「絶対、きいてないでしょ」
「いちおう、同意の上やしあいつにもメリットが…」
「そういうこと言ってんじゃないんですよ、誠意ってもんがあるでしょ、誠意ってもんが!」
「誠意、誠意とあんたは言うが。誠意って何かね?」
「え!誰が北の国からの物まねしろって言いました!?」
「よく知ってるねー、世代違うのに!」
「菅原文太さんの名台詞を、こんなところで使うなっ」
 さきほどのまでのシリアスな空気が嘘のように、三嶋と成一は肩をたたきあって笑った。笑いすぎたせいなのか、それとも、笑いすぎたせいにしているだけなのかわからないけれど、三嶋が涙をぽろぽろこぼすので、成一はポケットからハンカチを取り出してそっと手渡した。きれいにアイロン掛けのされた、せっけんの香りのする白いハンカチで顔を拭いながら、三嶋は泣きながら笑い、「女子力高すぎ……」と肩をふるわせる。
「三嶋先生は、見た目とギャップありすぎですよ。あんなくっしゃくしゃのタバコ、中年のオッサンですか」
「おっさんと言われればおっさんのような」
「まだ早いでしょ。せっかくきれいに生まれたんだから、もうちょっと大事にしましょう、全部を」
「全部て。途方もないな」
「まずは体を大事にするところからはじめますか。男も女も同じです、気持ちのないセックスは心が消耗するだけですよ。…うーん、でも言いながらおもったんですけど、おれ相当長い間セックスしてないっすわ。だからあんまり偉そうなこと言えないなって…」
「そうなんや、もったいない。試してみる?……おれで」
 唐突に三嶋が、「何いってるんですか」という突っ込みを一瞬飲み込んでしまうほどに、妖艶な笑みを浮かべた。三日月のように細められた黒い、濡れた瞳が、成一の中から性欲を引きずり出して暴こうとする。
「た、…試すわけないでしょ、よく今の話の流れからそんなこと言えますね、このろくでなし!」
「今ちょっと間ぁあったなー。まんざらでもなかってんやろ」
 すぐに元の顔に戻り、三嶋が笑う。こんな話してる側から!と怒り心頭で説教をしようとする成一に、当のろくでなしは、会計に行くフリをして、逃げ出してしまった。

 

 

 

 帰りの電車は三嶋と一緒だった。泣いたせいで疲れたのか、三嶋は成一の肩にもたれ掛かって、深い眠りについていた。
 その寝顔は繊細であどけなく、どことなく六人部と似ていた。
(ふたりとも、心のどこか一部分が、昔に置いてきたまんまなんだな)
 小説でも映画でも、主人公には何らかの「過去」があって、それが原因でトラウマを抱えていたり苦しみを抱えていたりする。ドラマには苦しみが必要だからだ。だが成一は、そうやって「もって歩く」ことが正しいとは思えなかった。お前がもって歩くほどの過去がないだけだろう、と言われればそれまでだが、忘れても忘れなくても、日々は過ぎていく。ごはんをたべ、仕事をして、時々人を好きになったりしながら、時間は過ぎていく。
 それなら、前を向いて歩いたほうが得だ。わざわざ荷物なんて持たずに、手ぶらで歩いたほうが身軽で、どこまででも行ける。
「あら、きれいな人。ずいぶん疲れてるのね」
 途中で乗ってきた貴婦人が、三嶋の寝顔を見てやわらかく微笑んだ。席を譲ろうとした成一に、「次で降りるから。それにあなたが動いたら、その人が起きてしまってかわいそうよ」と言われ、重くなってきた三嶋の頭を甘んじて受け続ける。
「おもい荷物を、長い間運んでいたみたいなんです」
 成一の言葉に、貴婦人がまあ、と上品な声を上げる。
「大変ねえ。そんなの人に頼めばいいのに」
 盲点だった。そうか、荷物を捨てるという発想以外にも、それがあった。すべてうちあけて、楽になるという選択肢が。
「おれなら、捨てちゃうけどなあ、そんな面倒な荷物…」
「それはきっと、あなたはそこまで大切な荷物を背負ったことがないから言えるのね。彼は、誰にも渡したくなかったんでしょうね。その荷物の重さも運ぶ苦しさも、彼だけのものだから。もしかすると、それすら喜びなのかもしれないわね」
 駅の名前を告げるアナウンスが流れて、貴婦人が颯爽と降りていく。
 酔いを覚ます、師走の冷気が車内に入ってきた。ぬくもりを求めるように、眠ったフリをして成一も三嶋の頭に頬を寄せた。
(どうかいま、三嶋先生がさびしくありませんように)
 心の底から祈った。声に出さなくても、その祈りが伝わるようにと、成一は何度も何度も、心の中で祈った。
 鈍行電車が由記市に向かっていく。心地よい揺れと走行音の中、三嶋が小さな声で「ありがとう」と囁いたのがきこえた。