21 ピース オブ ケイク (あなたがわたしを嫌いでも)

「三嶋、お前えらいくたびれてねえか」
「…今日の夜勤はアポとザー、トリプルエーと、血管障害のオンパレードだったので」
「ひゃー!トリプルエー(腹部大動脈瘤)はともかく、アポとザーは専門じゃねえだろ、首尾は?」
「脳外の先生に助けてもらいましたが、全員救命しましたよ」
 佐々木がヒュウ!と口笛を吹いた。これは、どんなほめ言葉よりも相手を認めている証拠だ。
「さすがおれが見込んだ男だ。頼むから、一生うちの病院にいてくれよ」
「約束はできませんけどね」
 アポは脳血管障害、一般人のいうところの「脳卒中」全般を指す。ザーというのは「くも膜下出血」で、脳血管障害の中では死亡率がもっとも高い。
「トリプルエーの患者は、DMもあって…かなり手術に気を使ったのでくたくたなんです、帰っていいですかほんまに」
 DMは糖尿病患者のことだ。既往歴があればあるほど、手術や投薬には様々な制限が発生して難易度があがる。
「ひと眠りしたら、夜は暇か?約束のうなぎ食わせてやるぞ」
「精を付けないといけないですしね。起きたら電話します」
「気をつけて帰れよ~お前のためでなく、すべての患者のために」
「へーへー、やさしいお言葉ありがとうございます~」
 夜勤明けのアキと、これから勤務時間に入る佐々木が軽口をたたき合って更衣室でわかれる。白衣とスクラブをランドリーボックスに放り投げて、眠気と疲れで今にも閉じてしまいそうな目を叱咤激励しながら、アキはなんとか歩いて家にたどり着いた。
「…シャワー…起きてからにしよ…歯、歯だけでも磨きたい」
 電動歯ブラシでがしがしと歯を磨いてから、ベッドに飛び込む。泥のように眠って、起きたのは昼の12時過ぎだった。

 

 

 顔を洗ってぼんやりする頭をたたき起こすと、部屋の中が寒いことに気づく。ガスファンヒーターと加湿器をつけてから、ベッドの隅で光っている携帯電話をおそるおそる眺める。
『この写真、どうですか?カメラ持っていってなかったので、携帯だからイマイチですかね』
 メールは星野祥一の弟、成一からだった。添付ファイルは夜の浅草寺と仲見世通りの写真で、携帯で撮った割にはきれいだった。
 アキは思わず頬がゆるんだ。兄と違って、屈強さや緊張感は足りていないが、その分、一緒にいるとほっとするような優しさが成一にはある。
「なかなかいいんじゃないの」
 短い文章だが、めずらしくきちんと返事をした。
『六人部隊長がここのところ、毎日しょんぼりしています。許してあげてください』
 成一のメールに、アキは眉を寄せ、あの日のことを思い返す。
「許して欲しいのは、こっちの方やねんけど」

 

 

 ちょうど一週間前、約束の日。待ち合わせ場所には既に、摂がいた。
 由記駅前のコーヒーショップ、二人掛けのテーブル席だ。午後7時半を少し過ぎた時間だったため、同じような待ち合わせのサラリーマンやOLで、店はいっぱいだった。
(摂、何の本読んでるんやろう)
 中学生の担任だった松浦にすすめられるまでは、摂はほとんど読書というものをしたことがなかった。アキも専門書や興味のある本以外、手を伸ばしたことがなかったが、松浦にすすめられて、文芸書も少しずつ読むようになった。
 すぐに店に入れず、ガラスの外から、自分を待っている摂を眺めた。学生のころ、毎日一緒にいたころと顔立ちは変わっていないのに、体つきや、発散している雰囲気がずいぶん違ってみえる。
(祥一君ほどではないけど、すごく筋肉ついたな)
 肩幅も、背中も。知っているものとはまるで違う、大人の男のそれだ。文庫本を持っている指の繊細さだけが、昔の面影をわずかに残している。
「なに読んでるの」
 緊張して声がふるえていないか、心配だった。
 目の前に座ると、摂がゆっくりと本から視線を上げる。
 視線の強さとひとみの澄んだ美しさは全く変わっていない。
 久しぶりに正面から見つめられて、アキは背筋がぞくぞくした。
「こころ」
「夏目漱石か。なつかしいな、聡さんも好きだった」
「ああ。…こないだ、父の遺品を整理していたら見つけたんだ。ほかにも田村隆一の詩集とか、萩原朔太郎の詩集が出てきたよ。詩はほとんど読んだことなかったんだが、気分を変えたいときや、少し文章に触れたいときにはいいよ」
「摂が詩って…。そりゃあおれも、年をとるよね」
「時間は流れる、誰に対しても平等に」
 その言葉には裏の意味があるような気がして、アキは黙った。
 注文を取りに来た店員にコーヒーを頼んで、今日はどこにいく?と問いかける。摂は文庫本にしおりを挟んで大事そうに鞄の中にしまい込み、コーヒーをひとくち飲んだ。
「少し歩いてもいいか。駅から少し離れたところに、美味い魚介の炉端焼きが食える店があるんだ」
 アキは思わず笑った。
「もしかして、それってせいちゃんに教えてもらった?」
「どうしてわかったんだ」
「なんとなく。あの兄弟、ここらが地元なんだろ」
「最近、時間ができたら少しずつ、街を案内してもらってるんだ」
「いい街だよね。人は親切だし、緑は多いしごはんはおいしい。高所得者層が集まってくるっていうのも、わかる気がする。都心にもすぐ出れるし」
 運ばれてきたコーヒーを飲んだ。視線を落としてカップに口をつけると、忙しさにかまけて奔放に伸びた髪がひとふさ、さらりと頬に落ちてくる。
 仕事の疲れが滲んだアキの横顔の、匂い立つような色気と美しさに、運び終えた店員は足を止めて眺めた。
「相変わらず、アキといると人に見られるな」
「慣れると気にならないよ。それにおれも、三十四だ。そろそろ若者じゃなくなってきてるから」
「ぜんぜん老けてなくて、驚いた」
「摂は大人になったね。男の色気がでてきた、というのかな」
「それを言うならアキも、昔とくらべたら……」
 何かをいいかけて、やめてしまう。アキがコーヒーを飲み終わったのを確認すると、摂は伝票をもって立ち上がり、さっさと会計を済ませてしまった。
「いこう」
「ちょっとまった、さっきの話、気になるんだけど」
 財布を出そうとすると、「いい」と一言で片づけられる。黙って先を歩く広い背中の早足を、アキは一歩後ろから追いかけた。

 

 

 

 ダウンベストにグレイのパーカー、ブルーのチェックシャツにスエードのスニーカーという出で立ちは、服装に無頓着だった昔の摂からは想像できないぐらいに、あか抜けていた。コンバースの古いスニーカーも、使い込まれているが清潔感がある。
「摂がおしゃれに気を使うとか、やっぱり年月は流れてるなあ」
 二人でビールを頼んだ。瓶ビールしかないと言われたので、グラスに注ぎあって乾杯する。
 駅から一五分ほど歩き、山の手にいくつか並んでいる古い長屋の一つが炉端焼きと日本酒を売りにしている「藍の」だ。西陣織の暖簾をくぐると、たっぷりと脂肪を蓄えた、髭面の男が元気よく「いらっしゃい!」と声をかけてきた。
「星野に、たまにつきあってもらってる」
「あーせいちゃんね。あの子、何かとセンスあるよな。派手さはないけど、きちんとしたもの、質のいいものをちゃんと選んでる。食べるところも、服装も、選ぶ言葉も」
 カウンターしかない店だった。予約してくれていたのか、端の一番広くくスペースのある席に、並んで座った。
 カタカナの「ロ」の字型のカウンターの中にはところ狭しと魚介や野菜が並んでいて、注文すると目の前で焼いてから長いしゃもじに乗せて目の前に運んでくれる。
「焼きなす、ししとう、あとほっけかな」
「はいよ!」
 苦くて甘いビールを飲みながら、アキは隣の摂を盗み見た。店内は狭いが空調が行き届いていて、上着を脱いでもまだ暑いぐらいだ。
「そういうアキこそ、ずいぶんいいもの着てるじゃないか」
 アキが着ていたのは、シンプルなグレイのセーターに黒い、細身のコットンパンツだ。カシミアでできているから、肌触りや光沢がとても良く、よく見ると上質なものだということがわかる。
「これはほら、おしゃれ番長市岡がさ」
「はは、おしゃれ番長。あいつ、元気か」
「元気元気。月に一回、買い物に連れて行かれる。あいつと店員さんが全部選んで、おれは着せかえ人形よろしく着替えるだけ。あー、あとは金払う役目」
「まだ、好きなんじゃないのか。アキのこと」
「それはない。お互いもう大人もいいところだから」
 掘返べら、と呼ばれるおおきなしゃもじにのって、注文したホッケが出てきた。炭火で丁寧に焼かれた炉端焼きは、どれも美味しくて夢中で食べた。
 途中で飲み物を日本酒に変えた。寒いので、熱燗にあうものを、とアキが頼むと、店主が勝手に選んで出してくれる。
「美味い。酒もご飯も。まったく、何者なんだよ星野兄弟」
「あいつの兄を知ってるのか?」
「うん。まあ、知人というか友人というか…ちょっとね。兄の方は祥一君っていうんだよ。彼も美味しいお店をよく知ってる。こないだ蕎麦屋に連れて行ってもらったけど、そこがまた、美味いんだ。店全体に、気取ってないけど品があって…ああいうのって、やっぱり育ちなのかなあ」
「星野も、いや、成一のほうも確かにそうだな。いい店をよく知ってる。あいつと商店街を歩いていると、知らない人から絶えず声をかけられる。せいちゃんよってきなよ、美味い魚やすくしとくよ、とかな」
 二人で目を合わせ、笑い合った。
「ハンカチとかいつもちゃんと持ってそうだよね」
「持ってるぞ。家事が得意で、万事そういった点には抜かりがない。仕事ではまだ甘さが残ってるけどな。本も読まないから知識量もこれからの課題だが、それを上回るセンスと、熱意があるよ」
 成一の話をしている摂は、いままでアキが見たことのない表情を浮かべていた。うれしそうな、それでいて心配そうな、不思議な表情だ。
(親が、かわいくてたまんない子供を見てる、みたいな)
「地元に長く住む、ってそういうことなのかな。いや、もちろんみんながせいちゃんみたいに地域密着型じゃないとしてもさ。ちょっと、うらやましいときもあるよ」
 残り少なくなったアキのぐい飲みに、摂が酒を注ぐ。店内は、ほかにも男同士の二人連れや、恋人とおぼしき二人ぐみで満席だった。たばこの煙と、話し声の喧噪が酔った耳に心地良い。
「おれたちは二人とも、地元を捨てたからな」
「そうだね。まあ、そういう人もたくさんいるだろうけど」
 酒を飲み、注ぎ、食べる。タバコを吸わないのか?と問われて、アキは首を横に振った。
(たばこが嫌いな男の前では吸わないとか、乙女かっつーの)
 自分でもおかしいと思う。わかっている。だが嫌われたくないのだから仕方がない。
「仕事はどうだった?」
「大動脈解離、野良妊婦の緊急カイザー、MG(胃潰瘍)で穿孔からの腹膜炎、高所落下の多発外傷。他科の先生に助けては貰いつつ、全員救命した」
 公務員とはいえ医療関係者でもある摂は、アキの専門用語も難なく理解して頷く。
「すごいな」
「今日はね。たまたま」
 熱燗のお代わりを注文してから、アキは隣の摂をみつめて目を細めた。
「医師は神様じゃない。人間だ。だから助けられることも、助けられないこともある。今日は、運やスタッフの実力が上回っただけ」
「何を?」
「こういう抽象的な言い方は好みじゃないけど…運命とか、死神とかそういうものを」
 お待ち、と前に置かれた日本酒を摂のぐい飲みに注いでから、言った。
「ずっと救命の医師やってるだろ。患者さんがなくなることも多くてね。医者になりたてのころは、毎日こっそり泣いてたんだ。助けられないことが悔しくて、亡くなってしまうことが哀しくて」
――でも、涙の量には限界があるし、どうやら精神もそうらしい。
 見返してくる、摂の目がきれいだな、と思いながらアキは続けた。
「毎日毎日患者が死んで、涙なんて追いつかない。かなしみも悔しさも、なくならない。そうこうしているうちに泣かなくなっていった。悲しみや悔しさは同じだけど、泣いてる暇があったら医師としてより高みへ行くしかない。技術力をあげて知識を蓄えて、少しずつ新しい世界へすすんでいくしかない」
「新しい世界」
「そう。助けられる世界。救命できる医師の世界へ、おれ自身がすすんでいかなきゃいけない。患者をその世界でくい止めなきゃいけないんだ」
「それは、死の世界と隣り合わせの」
「まさに境界線上にある。だからこそ、そこへ行ければ救える命が増えるんだ。そう思ってずっと、必死でやってきた。今ね、少しみえてきたかなってところだよ。まだ扉に手をかけたぐらいだけど」
 医者として成熟していけばいくほど、死の世界へ近づいている気がした。死と生は、元々隣り合わせだ。だがそこには大きな隔たりがある。その隔たりの隙間にある、薄い線――死線の上にある世界へ、技術的に到達することができれば――既に死に奪われつつあった命を、生の世界へと引き戻せるのではないか。
 そんな思いで、勉強し、臨床し、研究する。
「医療は一人じゃできない。看護士、技師、医師があつまってようやく一つの力になる。おれたちはチームで救命する、技術者でもあるんだ」
「チームで救命する、技術者か。いい言葉だな」
「あ、なんか熱く語ってもーたわハズカシー…。おまえも何か話せや、摂」
 いつの間にか自分ばかり話していたことに気づいて、赤面しながら摂を肘でつつく。
「会えてうれしい」
「え?」
「医師になったアキに、また会えて…うれしいよ」
 落ち着いた低い声でそういって、摂は、大人びた笑みを浮かべた。

 

 

 河岸を変えよう、という話になり、店を出て由記駅近くまで戻ってきたとき、アキのポケットで携帯電話が震えた。
「はい、三嶋です」
「アキちゃーん、わたしわたし」
 市岡だった。アキはマイクの部分を手でおさえて、小声で「まさかの市岡からやわ」と摂に伝えた。
「おれおれ詐欺は間に合ってるぞ。切るで」
「待って待って!今な、実は由記駅におるねん、飲みにいこっ」
「今日はあかんわ、一人じゃないねん」
「ええ~~せっかく近いのにー。そんなん、急患入った!とかいって断ってこっちくればええやんか」
「市岡…おまえすごいこと言うなあ」
 適当にいって切ろうとしたところで、タイミング悪く駅に着いてしまう。既に酔っているらしい市岡が、「ああーーーーッ!?む、むとべくん?」と大声を上げて走ってきたのが見えて、アキは額を手のひらでおさえたまましゃがみ込んでしまった。

「六人部君久しぶり…えっ…六人部君やんな、幽霊?」
 市岡の言葉に、摂が吹き出す。
「幽霊に見えるか?本物だよ」
「うわっ、言葉がすっかりこっちの人間や」
「人生の半分近く、こっちだからな」
「そっかあ…わー…アキちゃん、良かったねえ」
「なにが」
「ちゃんと喋れてるやん、六人部くんと。感慨深いわ私」
「口ついてるからな、おれも摂も」
「そういう意味ちゃうわ!ほんま、アキちゃん意地悪」
 電車に揺られながら、ひそひそと話をした。市岡が行きつけのバーがあるのだと有無を言わさず電車に乗せられ、夜九時を過ぎてから東京へと向かう。
「市岡も、あまり変わってないな」
「…どう反応すればええの?ほめてるのけなしてるの?」
「言い方を間違えた。綺麗になったぞ」
「そうそう、それでええねん。大人になったやん六人部くんも」
「おまえは何様や。摂、こいつにそんな気ィ使ったらんでええから」
 電車を乗り継いで、到着したのは浅草だった。もしかして、とまさか、を繰り返しながら、アキは市岡の後ろを摂と共について歩く。
 頬が熱かったのは、酔いのせいだけではなかった。
 さきほど摂に言われた、「会えてうれしい」という言葉と、熱のこもった視線にすっかり舞い上がっていた。
 そのため、扉の前に立つまで、そこが「千早のバー」だと気付かなかった。
「まって、この店?」
「うん。ここのバーテンダーが結構いい男でさー、そういや六人部君にちょっと似てるわ。あ、ごめんやけどここから私も標準語でいくね」
「なんで」
「こういうお店で方言丸出しって、なんか下品でしょ」
 唐突に話し方を変えた市岡に、摂が驚きとあきれを足して二で割ったような顔をしている。
「どうしてもこの店?ほら、ほかにもあっちにいろいろと」
「何いってんの。入るよ」
 腕をひかれて入店して、いらっしゃいませの「せ」の字に口を開いたまま固まっている千早と目が合う。満席ならいいのに、という願いもむなしく、きれいに三席だけ、それも千早の前だけがあいていて、アキは自分の運をのろいながら座るしかなかった。

 

 

 自分が席を外している間に何が起こったのか、アキにはよくわからなかった。楽しげに談笑していたはずだ。少なくとも、店にきてしばらくの間は、和やかに時が過ぎた。千早と市岡が楽しそうに仕事の話をしていて、アキは摂と最近読んだ本の話をした。医療の本もあれば、全く関係のない本もあったが、アキにとって本のタイトルや内容はどうでもよかった。
 ただ、摂が読んだ本や行った場所を知りたかっただけだ。低い落ち着いた声で話す、摂の唇をずっと見ていたかっただけだった。
「あんなのひどいよ。アキちゃん、すごい荒れて……かわいそうで見てられなかったよ」
 きっかけは、市岡の言葉だった。
 千早と話していたはずの市岡が突然、「どうして、突然消えちゃったの?」と絡んできたのだ。
 彼女の声は決して大きくも、あらっぽくもなかった。囁くような静かな声だったけれど、はっきりと聞こえたし、その声には明確な怒りがあった。
「本当は、私、あなたを一発殴りたいぐらいだよ」
「市岡、」
「アキちゃんは黙って」
 千早と目があった。その瞬間、「六人部摂=ずっと千早に重ねていた幼なじみ」ということが、ばれてしまったのだと確信した。
「……」
 沈黙の後、摂はまっすぐに市岡を見て頭を垂れ、「ごめん」と呟いた。
「謝ってほしいわけじゃないよ。理由が知りたいの」
 こうなったら絶対に市岡は引かない。アキはどうやってこの場を納めようか、と頭をフル回転させた。言葉で止めてもだめだ。論理的に、質問の答えが得られるまで、市岡は質問をやめない。長いつきあいで、そのことは身にしみて分かっている。
 千早の暢気な声が割って入ったのは、そのときだった。
「ねえ、侑季さん。電話鳴ってるよ」
 カウンターに置いてあった市岡の携帯電話が振動している。画面をのぞき込んだ市岡は一瞬、眉を寄せていやそうな顔をしたが、すぐに電話をつかんで店の外へ出た。
「どういう魔法?」
「侑季さんの上司も、この店の常連さんなんだ。LINEで『ちょっと市岡さんが飲み過ぎちゃってるみたいです』って送って……あとは想像にお任せするよ」
 お礼はいいから、何か飲んで。そういって、千早が微笑む。
「迷惑かけて、すまない」
「別にあなたのためにした訳じゃない。ええと、摂さん、だね」
「なぜ、下の名前を?」
「むしろ、下の名前しか知らないんだよ。ね、アキ」
 千早がアキを見て意地の悪い笑みを浮かべた。
「今日はタバコを吸わないの?せっかくライターもマッチも用意してあるのに、残念だな」
 口を開こうとしたところで、市岡が店の中に戻ってきた。あわただしく財布から紙幣を取り出し、アキに押しつける。
「最悪。上司に呼び出されたからまた今度ね。…ねえ、次はちゃんと答え、聞かせてよ」
 手を振って店を後にした市岡の後ろ姿を見送る。アキと摂以外の客がチェックを終えて出て行くと、千早が指を鳴らして子供のような笑顔を見せた。
「今日は、もう終わりにしちゃおうかな。せっかくだから、三人で飲み直そう。――藤堂さん、あとやっとくから、先にあがってください」
「…わかりました」
 顔に傷のあるもう一人のバーテンダーが、店の奥へと消える。
 止める間もなく、千早が店の外に出て「CLOSED」という札をひっかけ、カウンターの中へと入っていく。
「さ、ご注文はいかがいたしましょう?」
「じゃあ…ギムレットを」
 アキの注文に、千早がなつかしいな、と呟く。
「初めてアキと会ったときも、それを頼んでいたよね。摂さんは?」
「トムコリンズ、ください」
「かしこまりました」
 千早がカクテルを作る音だけが、店の中に響く。いつも流れているジャズも止まっていて、一秒も迷ったり止まったりしない千早の動きが、音だけで伝わってくる。
「お待たせいたしました」
 グラスの下に指をかけ、静かに置かれたグラスを、アキは見つめた。千早は何を考えているのだろう、と探ろうとしたが、彼は相変わらず読めない笑みを浮かべたままだ。
「おれはジントニックにしたよ、作るのが簡単だから。では、乾杯」
 三人でグラスを軽く持ち上げた。様々な色をしたグラスが、店の照明に照らされて、鈍く光って見えた。

「摂さんは、アキと寝たことがないの?」
 アキが席をはずした途端に、千早は摂の隣に座り、問いかけた。
「…あるわけ、ないだろう」
「そうなんだ。もったいないね、あんなきれいな人がずっと側にいたのに、何もしなかったんだ?すごい自制心」
 眉を寄せた摂が、千早をにらみつけた。
「そっちこそ、さっきから妙に突っかかってくるが、一体どういう関係なんだ」
「お互いに気が向いた時に寝る関係だよ。目的はそれぞれ違うけどね」
 目を細め、笑った。摂に似た、摂よりももっと酷薄で軽率な笑顔で、千早は歌うように続ける。
「アキはね、きっと摂さんが思っているような人間じゃないよ。好きじゃない人間に平気で足を開けるんだ。あの、人を跪かせる綺麗な顔が、ベッドの上ではどれ程はしたないか、事細かに教えてあげようか」
 カウンターの前にアキが戻ってきたとき、摂は千早の襟首を掴んで持ち上げていた。
「もう一度言ってみろ」
「何度でもいってやるよ、本当のことだから」
 それ以上の言葉が千早の口からでることはなかった。摂が、思い切り右ストレートをたたき込んで、殴られた千早は床に倒れ込んだのだ。
「何やってんだ、やめろ!」
 後ろから羽交い締めにして止めようとすると、今度は立ち上がった千早が摂の左頬を強かに殴った。殴られた勢いで、止めようとしていたアキも一緒にスツールごと倒れてしまう。
「ただ殴られるだけってのは、性に合わないんでね」
「いい加減にしろ、なんだってんだ一体、いい大人が!」
 さらに殴り返そうとした摂の前に、アキは立ちはだかった。二人が殴り合っている理由は分からなかったが、もしも店の外に騒ぎが聞こえて警察でも呼ばれたりすれば、公務員である摂の身分はひとたまりもない。
「嘘だと思うなら、アキの左肩を見てみなよ」
 血の気が下がった。どうしてこんな話になっているのだろう。
 摂が苦しそうな表情で、アキの腕を掴んで引き寄せる。手のひらが、セーターの首回りをずらして左肩の傷跡をあらわにした。
「その傷をつけられたとき、涙を流して喜んでた。ね、アキ」
 言葉が何も出てこなかった。
 黒い澄んだ目が、少しずつ失望と嫌悪に染まっていくのが見えて、アキは膝から崩れ落ちそうになった。
「どうして、いつも自分を大切にしないんだ」
「摂、」
「失望した」
 シツボウシタ。
 その言葉が胸に深く突き刺さって、傷に変わるまで、時間はかからなかった。
「おれも殴ったから、両成敗で示談でいいよ、摂さん」
「帰る」
 ドアを開いて出て行く後ろ姿に、アキは、かける言葉もなかった。

 服を脱がされても、目隠しをされても、何も言わなかった。涙は出なかったし、泣き言も言わなかった。千早の手が乱暴に腰を掴み、カウンターに手をつかされて立ったまま犯されても、かすれたあえぎ声以外何も出てこない。
「いま、摂さんが戻ってきたら、おもしろいのにね」
 想像しただけで恐ろしくて、アキは震えた。中で締め付けられた千早が、アキの耳を舐めながらささやく。
「興奮したの?相変わらず、変態だな」
 片足を持ち上げられて、激しく後ろから突かれる。
「あ、ああっ…や、ちが、う」
「失望したんだって。重ねるだけで赤の他人とセックスできるほど好きな人に、アキ、失望されちゃったんだよ」
 かわいそう、とうれしそうな声で言って、千早がアキの局部を後ろから擦った。すでにぬれそぼっている性器から、ぽたぽたと精液が流れて床に落ちる。湿った音をたてて出入りしている千早のペニスが、興奮で一層固くなって、アキの中をぐちゃぐちゃにかき混ぜていく。
「ど、して…あんな、こと」
「傷つけたかったからだよ。前に言ったろ、」
 もしも今、店に誰か入ってきたら。そう考えると気が気でないのに、後ろから乱暴に腰をたたきつけられて、アキはこの上なく興奮していた。気持ち良かった。絶望しているのに昂揚していた。
(たぶん、この興奮は、逃避だ)
「おれ、アキの泣いている顔が、一番好きなんだって。でも次に好きなのはさ……傷ついているときの顔だよ」
「あ、千早…っ、千早」
「もっと傷ついて、もう治らないぐらい、ズタズタになってよ」
「いく、から…っ、はな、はなして」
「沢山の人が、アキの美しさと賢さに跪く。あなたはそれに、見向きもしない、だって多すぎていちいち構ってられないから。なのに、好きな人にだけはどうしても愛されなくて、失望されて、憂さ晴らしに好きでもない男にめちゃくちゃにされて喜んでる。最低だね」
 中に千早が射精して、あっという間にその縁からあふれ出し、床に水たまりをつくった。唇がアキのうなじを舐めて、「今度はここ」とつぶやき、甘く噛む。噛んで、舐めて、吸われる。白い首に、赤い痕がいやらしく浮かび上がって存在を主張する。
「やめて、痕、のこさないで」
「う…っ、今、中がぎゅって締まったよ。本当は、見てほしいんだろ。この赤い痕をみて、いやらしい目で見られるのが、アキは好きなんだ。自分が求められてるって、安心できるから」
「違う、そんな…、ああーーっ」
 絶頂を迎えて、崩れ落ちる。床にへたりこんだアキに、千早が暗く笑った。
「最低で、最高に可哀想だ」

 

 

 

 一週間前の出来事を思い返しているうちに、二度寝していた。
 シャワーを浴びて、服を着替える。午後一時をすぎたところで、佐々木との約束までにかなりの時間があった。
 いつも電源をオンにしてあるコーヒーメーカーのスイッチを押す。デロンギのコーヒーメーカーは、ミルから抽出まですべて自動でやってくれるので、大きめのカップを抽出口に置くだけでいい。できあがったコーヒーを飲みながら冷蔵庫を開け、ハウスキーパーが作り置いてくれている、野菜たっぷりのサンドイッチをダイニングに持って行って食べた。
 PCを開き、読まなければいけない論文に目を通しながら、頂き物のガトーショコラとサンドイッチを交互に咀嚼する。むちゃくちゃな組み合わせだが、脳を働かせるには、どうしても甘いものが必要だった。
 英文を翻訳しながら理解し、思考の海に沈み込む。臨床での生かし方を、注意点を考え、具体的な方法を模索する。
(仕事はいい、よけいなことが何もない)
 考えていれば、考えなくてすむ。感情やプライドや思い出、全部が煩わしくてたまらないのに、何もしないでいると思いだしてしまう。自分の傷を眺めて過ごしてしまう。あのときの摂の眼を、千早の言葉を、十六年前のことを。
(そんな時間ない)
 画面をスクロールして、次の論文に取りかかる。理解できない部分は、書斎にあふれかえった文献を取りに行って一からすべて調べ、完全に理解するようにつとめる。気付いたことや、自分が臨床で考えたことを、同時に打ち込んで文章に変えていく。
 三時になり、時計のアラームが音をたてた。データを保存して電源を切り、出かける用意をして家を出た。オートロックのタワーマンションには芸能人や富裕層が住んでいるらしいが、アキの生活時間はバラバラなのでほとんど住人と会うことがない。
 佐々木が連れて行ってくれるという店は、鰻と会席料理を出している料亭で、東京の江戸川橋にある。神奈川にも美味い鰻の店はあるぞ、といくつか提案されたが、その店を選んだのは訳があった。

 

 

 

「こんにちは」
 倉之助は返事をせず、首だけをこちらに向けた後、驚いた顔をした。
 今日はもともと、東京の中央区にある、倉之助の病院へ見舞いにいく予定だった。そのために鰻の店は東京にしてくれ、と佐々木に頼んだのだ。
「もう、オメエは多分来ないって聞いてたけどな」
「千早から?…フフン、あいつはヘタレやから、自分で火をつけといてすぐに後悔するんやな」
 鉄砲百合の花束を、許可も得ずに勝手に生けて、パイプイスにどっかりと座った。アキが歯を見せて笑うと、倉之助はため息をついて肩を竦める。
「おれは、遠ざけよう、遠ざけようとされるほど、燃える質でね」
「難儀な奴だぜ、まったく」
「難儀さでは、じいさんほどでもあらへんけどな」
「勝手にぬかしてろ、バカ野郎」
 一度は窓の外へと顔を背けた倉之助が、百合の花に目を留めた。
「きれいなもんだな」
「やろ。おれに似てるってよく言われるから、この花を見るたんびに思い出してくれてかまわへんで」
 どんな罵詈雑言が返ってくるかな、とアキが楽しみにしていると、倉之助は力ない声で「確かに、似てんな」と同意してしまい肩すかしを食らった。
「調子狂うわ。元気ないなあ、じいさん」
「誰がじいさんだ。倉之助さんと呼べ、若造が」
「へえへえ、えらいすんませんなあ、倉之助さん」
 ふざけた物言いに、倉之助は笑いそうになりながら怒った。
「ほんっとてめえはふざけた野郎だな」
「いちいちまじめに生きてたら、この世は辛いことだらけやし」
「そりゃまあ、ちげえねえ」
 とうとう倉之助がくつくつと笑った。アキもつられて肩を揺らす。
「千早が来たんだよ。週明け、すぐだったかな。公証役場で前もって作ってもらってる遺言書があってよ、そういう手続きのことなんかを話したんだが、死ぬみたいなこと言うんじゃねえって、あいつ癇癪おこしやがってさ。いい年してんのに、いつまでたってもガキだから、あんたにも嫌な思いさせてんじゃねえか?」
 言葉には不似合いな優しい眼差しで、倉之助が言った。
「うーん、情緒不安定なんかなあ。セックスが激しい、とかそういうのはあるかな。結構乱暴にされて痛いし、精神的にもクルもんはある」
「誰がそこまで赤裸々に話せっつった!?バカか、おめえは!」
「じゃあ聞くなっつーの」
 悪びれないアキの様子に、倉之助が深いため息をつく。
「まあ…何やら複雑な気持ちではあるが…迷惑かけちまって、悪いな。あいつ、おれのこと唯一の家族みてえに思ってやがるから」
「良かったやん、嫌われ者の元やくざが、孫にだけは好いてもらえて」
「やかましいっ」
 興奮したせいか、咳をし始めたので、アキは立ち上がって倉之助の体位を変え、優しく背中をさすった。
「あんまり興奮したら、体にさわる」
「誰のせいだ、誰の。……それにしてもおめえ、あれだな。慣れてんな、病院だとか病人だとか、そういうのによ」
「母親も長いこと入院してるからかな」
「へえ、一体なんの病気だよ?」
「子宮ガンと、メンタルと両方」
「そうか。大変だな」
 アキは黙って首を振った。
「もう、捨ててきたから。必要な経費は払ってるけど世話は他の人に頼んでるし、次にあうときは死んだ時やと思う。ひどい息子やろ」
 否定してほしくて言っているわけではなかった。ただ、ありのままを伝えただけだ。
 倉之助はそれを分かっているのか、何も言わずにアキを見つめた。切れ長の目は、千早にそっくりだな、とアキは好ましくおもった。
「おれ、千早がうらやましい。そこまで守りたい家族がおって。なあ、何をしてでも生かせたいって思ってもらえて、倉之助さんは幸せものやで」
 父親は知らない。母親はいるが愛したことも、愛されたこともない。母が愛していたのは、会ったことのないアキの本当の父親だけだった。
 目を伏せたアキをじっと眺めていた倉之助が、唐突に「あっ!」と声を上げた。
「…なに」
「おめえをはじめて見たときから、ずっと気になってたんだ。どっかでみたような気がするなあ、ってよ」
「古いナンパみたいやな、それ」
 意にも介さなかったのは、一瞬だった。倉之助がアキを知っていても、可笑しくないのだということに気付いたからだ。
「そういえば、おれの母は吉原出身やけど、浅草は近いよな。でもまさか、はは」
 驚きと衝撃に、倉之助の目が丸くなる。
「ほづみ…おめえの母親はひょっとして、三嶋ほづみか」
 突然触れられた核心に、アキは息をのんだ。
「なんで。なんで知ってんの…母を」
「てことは、おめえの父親は…。だから、あの人が千早に近づいたのか」
「ちょっと待って、何の話?」
「おい、どこで千早と知り合った」
「京都やけど……。バーテンダーの修行で、倉之助さんの紹介やって」
 最後まで問いかけなくても、倉之助の表情ですべて分かってしまった。
「嘘なんやな?あそこで千早と会ったのは、偶然じゃないってことか」
 漠然とした不安が、はっきりとしたものに形をかえていく。
「倉之助さん、おれの父親を知ってるんか」
「……これ以上は、おれの口からは何もいえん。ただ、もう千早には関わるな。あいつはおめえを利用しようとしてるんだ」
「そんなん、知ってる。お互い様や」
「違う。おめえ自身を利用しようってわけじゃねえ。おめえの過去、出生、そういったものをほしがってる奴がいるんだよ」
 あの大馬鹿野郎!そう叫んで、倉之助は手で顔を覆ってしまう。
「金だな。おれのせいだ、すまねえ。どうか千早を許してやってくれ。まさか、こんなことをするなんて」
 震える声で、倉之助が言った。その背中を撫でながら、アキは首を振る。
「千早はおれを遠ざけようとしてるよ。乱暴なことをするとき、いつもおれより苦しそうな顔してる、嫌われよう、遠ざけようと必死や」
 多分、まだ迷っているんだろう。
 金のために、誰かを利用する。それが当たり前になってしまったとき、人は、人ではなくなってしまう。誰かを傷つけ、利用し、陥れても何も感じないのは、人ではなく化け物だ。人の皮をかぶったけだものだ。
「なあ、倉之助さん。千早に、一度でいいから愛してるって、大切やって言うてあげてくれへん?」
「…なんだと?」
「千早は、愛されたことないって言ってた。本当は、ケモをいやがってる倉之助さんに強要してることも、間違いやって分かってる。ただ、一言ありがとうって、愛してるって言われたいだけなんやと思う」
 愛されていない自分を知ったとき。どうしようもない渇きを抱えて生きていくのだと、千早は言った。そうして人は落ちぶれていくのだと、目が、必死でその荒廃に抗いながら、化け物になるまいと戦っていた。
「いちいちそんなしゃらくせえこと、言ってられるかよ!あんな馬鹿野郎に!」
「いわなわからんことだってある。減るわけちゃうねんから、いっぺんぐらいええやろうが、このケチジジイ!」
 病室にあるまじき怒鳴り声に、驚いた看護師が飛んで入ってきた。静かにして下さいという厳しい叱責に平謝りしてから、アキはまっすぐに倉之助を見据えた。
「愛だの家族だの絆だの…寒気がすらぁ。勘弁しろや、ったくよ」
 沈黙が続いた。アキは何も言わずに、ひたすら倉之助を睨み続けた。
 やがて根負けした倉之助が、ふっと視線をはずし、背中を向けてしまう。
「あの店…」
「え?ああ、バーのことか」
「Bar the Autumnってのは、千早と同い年なんだよ。千早が生まれて、あいつの両親がすぐ離婚して別の家庭作っちまって。まだ小さかったあいつを引き取ることに決めたとき、あのあたりの土地をやすく譲ってくれる人がいてな。バーでもやれよって、いろいろ用立ててくれてよ。まあ、実際に千博…息子から千早を引き取るまで、調停だなんだって、なげえ時間かかっちまったけど」
 そういえば、千早から聞いたことがあった。やくざをやめてすぐに、小さな食堂をやっていた倉之助は、浅草で食うにも困っている芸人やミュージシャンに、しょっちゅうタダでご飯を食べさせていたのだという。
「出世払いでいいぜって言ってたけどよ、まさか本当に出世して、あんないい土地くれる奴が出てくるとは、思いもしなかったけどな」
 ぽつぽつと語る倉之助の言葉を、アキは黙ってきいていた。
「あの店は、おれのすべてだった。そう千早に伝えてくれねえか。愛してるとか、大切だとか、そんなうわっつらの言葉じゃなくてよ」

 

 

 病院から出た後、江戸川橋の駅前で待ち合わせして、佐々木と合流した。
 連れて行かれた料亭の鰻は、確かに美味かったが、倉之助の話で頭がいっぱいだったアキは、どこか上の空で佐々木の話に相づちをうっていた。
「三嶋、…三嶋!」
「――あ、はい、すいません」
「おいおい。今日はずっと上の空じゃねえか」
「ごめんなさい。鰻、とても美味しかったです、ごちそうさまでした」
「げーっ、しおらしいおまえとか気持ちわりいなあ。なんかあったのかよ?」
 二軒目は、神楽坂のカウンターしかない、やきとん屋だった。生ビールを片手に串にかじりつきながら、心配そうな佐々木に微笑んでみせる。
「ちょっと失恋しちゃったんですよ」
「あ?なんだ、好きだって言ってみたのか」
「いやー言うまでもなく、軽蔑されちゃいました」
 ぼんやりしていた本当の理由ではないが、嘘はついていない。
「どういうことだ?」
「悪さしてたのがバレちゃって。自分を大事にできないのか、失望した!みたいな感じでつめたーい目でみられて、終わりです」
「だから言ったじゃねえか。そういうことは、もっと大事にとっとけってよお」
 佐々木が大げさにため息をついて首を振る。
「でもねえ、「自分を大事にする」ってなんですかね」
「あ?」
「よくわかんないですね、その自分を大事にするっていう、抽象的な言葉の意味が。他人と感情無しに寝ることが、自分を大事にしていないってことに、果たしてなるんでしょうか。好きじゃない人とやっちゃいけないって、多くの人は言いますけど…。おれは、そうしないと、セックスしないと、どうしようもないときがあるんですよね。他の人はどうか、わかんないですけど」
 なくなったジョッキを見て、アキが手をあげて追加した。煙たい店内で、タバコを口にくわえると、佐々木が黙って火をつけてくれた。
「分からなくもねえけどよ。それで、何か得られたか?救われる心でもあったのか?」
「何も。一時的に自分に罰を与えた気になって、少しすっきりする。ごまかしているだけです」
 マイルドセブンを懐から取り出し、佐々木も同じようにくわえ、煙を吸い込んだ。あたりはますます煙たくなり、お互いに煙でいぶしあっているようだった。
「六人部隊長は…至誠、高潔、そのものといった人物だからなあ。おれは、どっちかっていうとおまえよりの人間だよ。一時的でも快感に逃げたいときがある、ってのはさ、理解できるよ。でもあの人には、多分そういうのは分からないだろうな」
「だからこそ、そういうところがたまらなく眩しいんですけどね」
「救われねえなあ、三嶋」
「ほんとに。あーあ、どうせ嫌われるなら、一回ぐらいセックスしたかったなあ。ほんと、一回だけでいいんですけど」
「男の常套句だな。一回だけ!先っぽだけ!つって」
「本当に先っぽだけで済むわけないのにね」
「まったくだ。確実に根本まで挿れるくせにな」
 目をあわせ、声を上げて笑う。
「おまえが本気で誘惑したら、男でも女でもよ、たいがいの人間はころっといくだろうけど。六人部隊長だけはなあ…いけるぜ、って言えないもんなあ」
「ほんとに、横になってくれるだけでいいんですけど。あとはおれが全部やるのになあ」
「具体的な話はヤメロ。なんかこええし」
「天国見せてあげるから、一回だけセックスしよ!って明るく誘っても、多分無理でしょうねえ、摂は」
「他の男なら涎たらして喜ぶだろうけどな、うちなら研修医の乾とか他科のドクターとか、相当数の人間が」
「他の人間はいらないんです。摂じゃないと意味がない」
「なんか開き直ってねえか?ま、グダグダ悩んでるより三嶋らしいけどよ」
「世の中、うまくいきませんねえ」
 軽口をたたき合いながら、考えた。
 何故、千早と関係を続けているのだろう。
 はじめは、摂と似ていると思った。彼を重ねて疑似恋愛しているつもりだった。だが逢瀬を重ねれば重ねるほど、千早は摂と、似ていないことに気付いた。考え方も、生き方も、千早はまるで燃えながら走る馬車のようだった。行き着く先は破滅しかないのに、それでも千早は止まらない。止めることはできない。祖父の、倉之助の治療費のためなら、言葉のとおり何でもする。利用できるものは利用し、嘘をつき、傷つけて、それでも前に向かって走り続ける。
 恋愛感情とは違う。それは確かだった。だがアキは、千早になら利用されても良かった。体が必要なら使えばいい。金がいるならいくらでも出してやる。心を傷つけて溜飲が下がるなら、いいたいことを言えばいい。
「もう、おれのことは放っておいてよ」
 千早はそう言った。元々、赤の他人だろう、と。その言葉をきいたとき、何かが心に引っかかった。
(そうだ、ずいぶん昔、同じことを言ったことがある。あれは確か…聡さんに。聡さんは…なんて返してくれたんやっけ)
 思い出の中で、聡が摂と一緒に笑いあい、頭を撫でる。
 そして確か、こう言った。

「         」

 そうだった。
 それこそが、アキが千早を嫌いになれない、目を離すことができない理由だったのだ。
「三嶋。おまえに、ずっとききたかったことがあるんだけどよ」
「…はい、なんでしょう」
「はじめに言っとくが、おれはあんな噂信じちゃいねえ。馬鹿げた話だと思っている。きくまでもねえってことも、分かっちゃいる。だけどな、おまえの口からはっきり否定してほしいんだ」
 背筋がヒヤリとした。アキが沈黙していたことを、佐々木はひょっとすると「あのこと」を考えていると勘違いしたのだろうか。
「前の病院、京都の、塚本センター部長が言ってた話は、本当なのか」
 頭は冷静なのに、心臓だけが激しく脈打っている。「あのこと」を、笑顔でごまかすのは得意なはずだ。これまでも、ずっとそうやってやり過ごしてきた。
 だが、相手は佐々木だ。返しきれない恩があり、今もこうして、心の底から心配してくれている、大切な先輩だった。
「どんな話でしたっけ」
「…とぼけんな。医局に怪文書回されて、出世の道も転職の道も絶たれて、途方に暮れてたんだろうが」
「………」
 知られているだろうとは思っていたが、何故今この話を持ち出すのかわからず、アキは佐々木に悟られないように、緊張で身を固くした。
「おまえの義理の父親は、十六年前に不審死しているな。近所でも有名なジャンキーで、暴力もふるっていたそうだな。それが、大学進学前に団地から転落死した。直前に誰かと言い争っていた声を、住人がきいていたんだって?」
「すごい。まるで火曜サスペンスですね!」
 あくまでおどけて答えようとしないアキに、ポケットを探っていた佐々木が、A4のコピー用紙を広げて置いた。ワードで打たれたその文書は、短いが、アキを黙らせるには十分な威力があった。

『三嶋 顕は 私生児で 継父をころした 人殺しだ』

 めまいがした。確かにそれは、半年前に医局で回され、アキの立場を突然悪いものに変えた、本物の怪文書だった。裏面には、ご丁寧に十六年前当時の新聞記事まで張り付けられている。
「府営住宅で男性が転落し、死亡。事故現場から走り去る人影があった、という目撃情報もあり、現在警察は事件と事故の両面から捜査をしている」
 紙面は小さく取り上げられているだけだったが、新聞記事が本物であったため、次期部長として有力視されていたアキの立場は、奈落の底へと突き落とされた。
「嘘だよな?こんなもん、うそっぱちだよな?おまえは毎日必死で人を助けてる。命を救ってる。そんな人間が、たとえどんな事情があったって、人なんか殺したり、してねえよな?」
 喉がカラカラで、声が上手く出てこない。
 違う、と否定すれば佐々木の気が済むのは分かっている。
 だが、それはできない。
 否定してしまえば、その疑惑と罪が、別の人間へと向けられてしまう可能性があるからだ。絶対に、疑われてはならない人間へその疑惑が向けられることを避けるために、アキはその話題を出されたとき、否定も肯定もしなかった。
「もし、…もし、おれがその男を殺していたとしたら、佐々木先輩はおれを、軽蔑しますか?」
 佐々木が目を瞠る。すぐに険しい顔をして、アキの頭をはたいた。
「――前も言ったろ。おまえが嘘ついても、おれには分かるんだって」
 泣きそうな顔、してんじゃねえよ。そういって、佐々木はその怪文書をふたたびしまい込む。
「へんなこときいて、悪かったな。忘れてくれ」
 もう二度と、この話を持ちかけられることはないだろう。
 それはありがたかったが、同時に、本当のことをはなせないことが申し訳なくて苦しかった。

 血走った目が、錯乱した様子でアキをみている。
 六階の踊り場の柵に押しつけられている男は、口の端に泡がたまっていた。声が出ないように、口の中にはタオルをつっこんでいたが、手や足をばたつかせるので、首を締めるのに邪魔で仕方がない。
 親指に力を込めると、男がぐるんと白目を剥いた。
 もう少しだ。もう少しで、この男を消せる。おれの目の前から、聡さんや摂の前から、母さんの前から消せる。暴力も、売春の強要も、金銭の恐喝もされずに、自由に生きていける。
 気を失ったら、自殺に見せかけて踊り場の手すりから吊せば終わりだった。男はいつも薬物でラリっていたし、バッドトリップしたときは、たびたび口から涎を垂らしながら殺してくれ、死にたいと叫んでいた。団地のほかの住人は、何度もそれを目撃していた。

(おまえが死んだって、誰も悲しまない)
(だから、殺したっていいはずだ)
 殺そうと思っていた、殺すつもりだった。

―――あのとき、摂の父親が…聡が、飛び出してこなければ。