9 カフェラテ

 成一が頼んだのはカフェラテだったので、おれはひどく動揺した。ほとんど恐慌状態と言ってもいい程度には。
 だから、かぜをひいていて本当に良かった。みっともない顔を見られなくて済む。
 接客業だし、マスクをすることの是非はあると思うのだが、何日も休むと生活がたちゆかなくなるので苦渋の選択だった。ある意味、運がよかったとも言える。合田さんが海外へ旅立つのを見送ったと同時にタチの悪いかぜをひいてしまって、まだ咳だけが治らないままだった。
 決まった手順でカフェラテを、そしてブレンドコーヒーを淹れてカウンター越しに手渡すと、成一はまっすぐおれの目をみて「ありがとう」とつぶやいた。おれは黙って頷いた、と思う。曖昧なのは、あまりにも感情がたかぶっていて、行動を制御した自信が持てなかったからだ。
「村田さん、飲み終わったらちょっと奥へ来てくれますか」
 低い声だったので、成一には聞き取れなかったと思う。彼はぼんやりとした顔でカフェラテに描かれた絵を見ていた。うさぎの絵だ。特別サービスというわけではなく、今週のラテアートがうさぎなだけだ。
「怖いな。了解」
 波留は眉をあげ、それから成一にひそひそと何か話しかけた。おれはそれ以上彼らをみていることが――いや、厳密には、成一を見ていることが――できなかったので、背中を向けて食器をみがくフリをした。
「どういう知り合いなんですか」
 硬い声で、成一が言った。ああ、この声は怒っている声だ。そんな風に思った自分を笑いたくなった。もう2年も経つのに、声だけで感情を読み取ることができる。必要のない能力がまだ生きたままだ。
 おれはリーデルのグラスを磨きながら、波留がどうこたえるのか、ひそかに耳をすませた。
「ここは僕の故郷だからね。偶然この店で彼を見初めたんだ」
 耐えがたくなって、おれは店の冷蔵庫にいれてある(店では出さない)ミラーの瓶ビールを取り出し、マスクをごみ箱に捨ててからツイストキャップをひねって、ぐいと呷った。アメリカでは定番のジェニュインドラフトは、するすると喉を通っていやなことからおれを遠ざけてくれる。
「見初めた……」
 どこか腑に落ちない、といった声でつぶやいた成一が、どんな顔をしているのか見たいと思った。見たくてたまらなかった。でも勇気がなかった。どうでもいい、興味がない、そんな顔をされていたら、大げさでもなんでもなく死んでしまいたいと思っただろう。だからおれはミラーを飲むのに集中した。あっという間に瓶は空になったから、今度はブルームーンを取り出してぐいぐい飲んだ。どちらもアメリカのビールだが、味わいはまるで違う。ミラーはさっぱりしたラガーで、ブルームーンは味わい深いペールエールだ。
「一目ぼれだった。まるで相手にされてなかったけどね。あ、でも舞台を見に来てくれたから一歩前進ってところかな?」
 まだ何かしゃべっている波留と、何も言わない成一。この空間をいますぐ抜け出したいと思うのに、つい振り返って、成一を盗み見てしまった。
あわい色をした瞳とやさしい顔立ちはそのままだった。ただ知っていたころよりもすこし表情が暗くなった気がする。つまり、彼も大人になったのだ。歳をとり、自分の所帯を持ち、そうして人は少しずつかわっていくのだろう。もうおれが知っている成一はどこにもいないし、彼の知っているおれも同じだ。
「そう、なんですね」
 寂しさがこみあげてきた。泣きそうだった。
 ブルームーンも飲み切ってしまったので、レンジフードの下でたばこをくわえた。彼らからはちょうど死角になっているし、なんだか話をしているみたいなので、おれがたばこを吸おうがどうでもいいだろう。
 合田さんにもらったイギリス産の高いタバコは、吸いなれたアメリカのものと違って、ずいぶん気取った味がした。
 それにしたってずいぶん堕落した。仕事中の酒にたばことくれば、あとは『男』に狂えば、おれは立派な社会不適合者というわけだ。人はおちると早いものだ、と思ったあとでこれ以上底はないだろうし、落ちるもへったくれもないなと考えを改めた。
 咳が出た。まだタバコの刺激に喉の粘膜が耐えられなかったらしい。
 乾いたしつこい咳が一段落したころ、成一が突然、おれの名前を呼んだ。
「一保さん。風邪、長引いてるの?」
 さすがに背を向けたままでは答えづらかった。おれはカウンターの方へと近づき、新しいマスクをつけた。
「歳のせいかもしれないな。治りが悪くなった。そもそも風邪なんかめったに引かなかったってのに」
 ぼそぼそとした声でそう返すと、成一は目を細め、苦しそうな顔をした。
「あまりに続くようなら、病院にいったほうがいいよ。今年はマイコプラズマ肺炎が流行っているから。風邪と間違えやすいんだ」
 波留が隣で意地悪な笑みを浮かべている。こいつが何を言いたいのかは分からないが、おれの反応をみて楽しんでいるのだ。おそらく、気づいている。いや、知っていて呼んだのかもしれない。
「ご心配どうも」
 なんて冷たい言葉だろう。成一と一緒にいたころ、こんな感情のない言葉を彼に投げたことは一度もなかった。でもそれ以上何が言える?おれと成一はもう、友人でもなければ恋人でもない。彼は結婚していて、もうおれの手が届かない場所へいってしまった。
「飲み終わったら帰ってくれ。代金はいらないから」
 横を向き、ドアの外を眺める。もう暗くなった外は、寒々しい冬の色をしていた。
「……わかった」
 成一が静かに立ち上がって店を出ていく。その優雅な後ろ姿がみえなくなるまでみつめてから、長いためいきをついた。
 とてつもなくひどいことをしてしまった、という罪悪感で、おれは疲労困憊になっていたが、そのまま終わりにはできなかった。ちょうど閉店時間になったので店を閉め、波留の隣で腕を組んで立つと、彼は「なにかな?」と小首をかしげてこちらを見上げた。
「下手な演技だな」
「何の話?」
 おれは椅子を蹴ってからストーブを指さした。
「うちのストーブは石油じゃなくてガスだ。何も補給する必要なんてねえんだよ!」
 彼はゆっくりまばたきをしてから、うすく笑った。
「つまり、君はこう思ってる。僕がわざと、星野くんと君を引き合わせた、と」
 そもそも始まりからおかしかった。波留は一目ぼれした、と言っていたけれど、こんな小さな店に彼が通うようになるなんておかしい。東京を行き来しているならなおさらだ。向こうならカフェなんてごまんとある。
「違うなら説明しろよ。おれの勘違いなら謝ってやる」
 カウンターに手をつき、至近距離で睨みつけると、波留が指でおれの頬を撫でた。
「怒った顔も素敵だね」
「ふざけんな」
 振り払って距離を置くと、彼は立ち上がっておれと対峙し、目を細めた。
「君のように勘も頭も悪くない人間が、こんな風になるなんて。恋愛っておそろしいものだね。そういうところが癖になるんだけど」
 まるでおれを観察して楽しんでいるような言いぶりに、思わず声が荒くなった。
「一体何が目的でおれに近づいたんだ」
 彼が一歩近づいてきた。気圧されているとは認めたくなかったが、思わず後ずさってしまった。本気でやり合えば絶対に自分が勝てるはずなのに。
「君と星野くんが一緒にいるところを、何度か見かけたことがあったんだ」
 由記駅の近くで、幸せそうで羨ましかった、と波留は言った。
「同性同士の恋愛なんて絶対に長続きしないし、うまくいかない。僕は経験上そう知っていたから、君達の様子はとても微笑ましかった。星野くんと一緒にいるときの一保は、本当に素敵だった。怖いものなんてないように見えたね。輝いていたよ、胸が苦しくなるぐらい」
 でも、と波留が残念そうに言った。
「君を偶然この店で見かけたときは、おどろいたよ。まるで別人のようだった。君の美しさは変わらなかったけれど、まるで曇りガラスの向こう側にいるみたいに、ひどくぼんやりしていて、抜け殻だった。僕が心惹かれた君はどこにもいなかった。だから――」
 彼を連れてきてあげたんだ、と波留は笑った。
「君達がもう一度よりを戻して、それを壊して奪ったら、きっと楽しいだろうと思った」
 気が付いたときには、もう波留を一発殴った後だった。おれの本気の一撃を食らった波留は、椅子ごと床に倒れ込んだ。
「哀れなやつだな」
 自分がこんなに冷たい声を出せるなんて知らなかった。成一と別れてから、おれはどんどんひどい人間になっていく。
 しゃがみこみ、波留の顔のすぐそばで、おれは言った。
「人の心を弄んで傷めつけて自分の幸福にしているつもりなら、お前は何ひとつわかっちゃいないし、得られてもいない。誰にも愛されることはないし、愛することもできない」
 ――立て。立ち上がっておれの前から失せろ。二度と来るな。
 おれの言葉に、波留はガラス玉のような眼でじっと視線を向けてから、ゆっくり立ち上がった。
「愛なんてものを信じてまともに傷ついている君のほうが、よっぽど哀れだよ」
 波留はそう言ってにっこり笑った。それからおれの肩をつかんで、耳元で囁いた。
「一保、きみは近いうちに星野くんと寝るよ。そして死にたくなるほど後悔する。何故なら彼は、根本的に異性愛者だから。異性愛者は必ず、最後に異性を選ぶ。――僕にはわかるんだ。君がまた傷ついて、ボロボロになった姿がみたい。いまよりもっと虚ろになった、君のそばにいてあげたいよ」
 おれにもう一度殴られる前に、波留は店から逃げて行った。賢明な判断だ。
 持て余した苛立ちを拳にのせて、思いきりカウンターを殴った。その威力で、ワイングラスが一本倒れて割れてしまい、クソが、と叫ぶ羽目になった。

 窓の外はすっかり春になったが、おれの生活は変わらない。
 波留はさすがにしばらく姿を見ていないが、樹はいつもどおりだった。品物をもってくるとき必ず未熟な口説き文句を口にしてはおれにやり込められ、しょんぼりとして帰っていく。その後ろ姿を見ていると、なんだか元気が出た。
「お前には計算高さだとか、狡猾さがないからいいよな」
 ホットミルクを出してやると、カウンターに座っている樹が唇を尖らせた。
「どうせガキだって言いたいんだろ」
 肩にのっている桜の花びらを取り除いてやると、拗ねた顔のままうつむいた。本当に大きい犬のようだ。犬なら飼ってやれたのに、とおれは少し残念に思った。
「大学から、陸上やめようと思ってんだ」
 唐突な話に、おれはランチの準備をしていた手をとめて樹を見た。樹はなんでもないことのように、肘をついたままドアの外を眺めながらいった。
「あんなの、どんだけやってたって食ってけねえし」
「…何かあったのか?」
 他人に深入りしない。そう決めていたのに、つい訪ねてしまった。
 樹は注意しないと聞き逃してしまうぐらい小さい声で、「天才には勝てないってわかった」と吐き捨てた。
「天才か」
「あんなやつ初めて見た。それで、おれは無理だって悟った」
 スポーツ推薦で大学に行くのだ、と言っていた樹が、それほどまでに打ちのめされた相手が少し気になったが、何も聞かないことにした。
「店を継ぐのか?」
 おれの問いかけに、樹は嫌そうに眉間にしわをよせた。
「そうなるかも。でもとりあえず、普通の大学にいって学生生活満喫するかな」
「そうしろ。今のうちだけだぞ、気楽でいられるのは」
 もう一組の客であるカップルの会計を済ませてから、樹に手作りの焼き菓子を食べさせてやった。美味い、すごいと喜んでいる男子高校生は、正直にいって可愛かった。ついつい甘やかしてしまうのも仕方がない。
 一保くんはー、と語尾を伸ばして樹が上目遣いにカウンターの向こうにいるおれを見た。
「身近に天才っていた?」
「いたぞ。海保の伝説みたいな人が上司で、その後継って言われてる男が元彼だった」
 目を丸くした樹が「うわー、それきついなあ!」といって笑ったので、おれもつられて破顔した。確かに、何度も比べられて嫌な思いをした。今となってはいい思い出だけれど。
「天才には天才の苦悩があると思うけどな」
 実感を込めて言えば、樹が生意気にも肩をすくめてみせた。
「ふうん。で、その天才のどっちかが一保くんが久々に寝た男ってこと?」
 急な話題の転換に、おれは固まった。
「あのさ、おれが気づかないと思った?あれいつだっけ、冬だよね。配達もっていったときめちゃくちゃ疲れたエロい顔してたことあったじゃん。一週間ぐらいの間だけど。うわ、エロ……って思ってじろじろ見てたの、わかんなかった?」
 何もいえずに黙っていると、樹が溜息をついた。
「耳の下にキスマークつけてさ。あーこれ男できたんだ、ってめちゃくちゃ腹立ったんだけど、同じぐらいムラムラして、怒りながら射精したわ~」
 口をぱくぱくさせているおれに、樹がにこっと笑って言い放った。
「そのうちおれにもさせてよね」
 立ち上がった樹にカウンター越しにキスをされそうになって、持ち前の反射神経でなんとか避けた。動揺していてもおれの運動神経は死んでいなくて、心底安心した。