8 雨の日、赤い傘(成一)

 彼女は傘を忘れたみたいだった。

「良かったら、これ。使ってください」
 一体いつから待っているんだろう。
 少なくとも、おれがこのカフェに入るより前から彼女はあの窓際の席に座って外を見ていた。明らかに誰かを心待ちにしている、そんな顔で。
 あの席は駅やロータリーを見渡すことができる席で、かつておれもよく座っていた。彼が向こうから歩いて来る様子を、のぞいているのが好きだった。颯爽とした、自信に溢れた歩き方でバス停からやってきて、おれを見つけるとそれは嬉しそうにに笑うのだ–
「もう閉店みたいですよ」
 不審者だと思われるのが怖くて、それだけ言ってから傘を手渡そうとすると、彼女は「あなたが濡れてしまうから」といって固辞した。
 それ以上言いようがなくて、おれは先に店を出た。出てからも気になって、駅のホームへ上る階段から、彼女の様子を眺めた。店から出た彼女はしばらく店の軒先で雨をしのいでいたが、やがて諦めたように雨の中を歩き始め、あのベンチに座った。
「体が冷えます」
 人を待っているとしても、どうして傘を買ったり他の店に入ったりしないんだろう。少し苛立ちを覚えながら、彼女のもとへ歩いていって傘をさし向ける。既視感にめまいがした。こんなことが前にもあったような気がする。赤い傘を差し向けた……ぼんやりとした、夢のような記憶が頭によぎる。
「さっき結婚式に出てきたんです」
 白い顔だった。幸薄そうな、というよりは、幸福になることを諦めているような顔だった。
「10年付き合って、これから先も一緒にいるものだと思っていたのに。可愛がっていた後輩にとられてしまって……」
 どこかできいたような話だった。
 恋人と10年付き合ったことも、誰かにとられたことも……雨の中で濡れて、途方にくれていることも。
全てに既視感があって、思い出せそうで思い出せない、子供の頃の記憶のようだった。
「もう疲れました。でも死ぬ勇気もないんです」
 おれはとっさに彼女の手をとっていた。いや、正確には……彼女の向こうに見える、誰かの手を。
 おれが本当に愛し、共にいたいと願い、夢のような幸福を与えてくれた人。その面影を、彼女に求め、重ねてしまった。

『星野くん、今時間いいかな』
 彼――ハルさんから電話があったのは、あの日から一週間後、仕事が終わった朝のことだった。
 他ならぬあの日だ。ずっと行方が分からなかった、一保さんと偶然再会した日。 
あの日の彼を思い出すと、身体の柔らかいところに爪を立てられているように、心の傷が生々しく痛んだ。
「はい、大丈夫です」
『できたら会って話したいんだ。少し遠いけど……今日の午後、いまから言う場所に来てもらえるかな?』
「わかりました」
 電話を切り、ベランダからリビングに戻ると、知可がトマトを冷蔵庫から取り出して、こちらを向いて笑った。
「今日はマルゲリータを焼こうと思うの。成一くん、好きだよね」
「ありがとう。美味しそうだね」
 彼女は料理があまり得意ではないので、おれが作ることのほうが多いのだけれど、休日は一生懸命手料理をふるまってくれる。
 妻の知可はデザイナーとして化粧品会社に勤めている。カレンダー通りの勤務だ。おれは相変わらず勤務が不規則なので、無理をせずに一緒に食べられるときだけ食事を共にしている。
 白を基調にしたダイニングセットも、ほこりひとつ落ちていない、物の少ないリビングも、すべて彼女の趣味だ。家具を選びに行ったとき、おれはひとことも口を出さなかった。
――彼は変わっていなかった。
 思い出してはいけない、もう忘れなくてはいけないと思えば思うほど、彼の姿かたちや、声や、気配を思い出してしまう。
あの猫のような目も、高くつんとした鼻梁も、薄くて生意気そうな唇も、なにひとつかわっていなかった。
「……くん、成一くん、大丈夫?」
 気が付くと立ったままぼんやりしていた。知可が心配そうにのぞきこんでくる。
「ごめん、ちょっと疲れてるのかな」
「最近忙しかったもんね。今日はゆっくりできそうなの?」
 妻と休日が一致することがほとんどないから、たまにそうなったときはできるだけ一緒に時間を過ごしたい、と言われている。だから少し言い出しにくかったけれど、どうしても早急にハルさんに会う必要があった。
「実は今日、知り合いのバレエダンサーに会いにいきたくて。兄弟子にあたる人なんだけど……、いいかな?」
 ダイニングのテーブルセットに腰かけて、目の前の知可をじっと見つめる。彼女は少しさびしそうに目を細めたけれど、「仕方ないね。いってらっしゃい」と言って許してくれた。

 ハルさんが母のスタジオにきてから彼女の手におえなくなるまで、それほど時間はかからなかった。
 おれはあまり「天才」という言葉が好きじゃない。世間で言われている「天才バレエダンサー」のひとたちが、どれほど努力し、必死に這い上がってきたか、少しだけ知っているからだと思う。けれど彼には、「天才」という言葉がぴったり似合った。ほんの10分、姉のバレエ教室についてきたついでに踊った彼をみただけで、母はその才能を見抜いた。
「星野くん、遠いところまでありがとう」
「いえ。でもはじめてきました、この街」
 相変わらず端整な顔だ。身体はひとまわり大きくなったような気がするけれど、元が細くて背が高い人なので、外国の人みたいにみえる。歩いているだけで優雅だ。
 そこは東京からも神奈川からも遠い、電車で1時間半以上かかる地方都市だった。駅前こそそれなりに発展しているけれど、山も海も川もない、これといって特徴のない街だといって、ハルさんが笑った。
「僕の生まれ故郷なんだ。地味すぎて取材されることもファンに見つかることもないから、日本にいる間は公演がなければ実家にいるんだよ」
「意外です。ハルさんモテモテだから、女性の家にいるのだとばかり」
 彼の遊びが派手なことは、この業界に近い人間ならだれでも知っていることだった。恋人は男のこともあれば女のこともあった。
「モテモテだなんて、ずいぶん俗っぽい言葉を使うんだね。星野くんらしくない」
 幾分気分を害しながら、おれは拗ねたふりをしていった。
「おれらしいってなんですか」
「王子様みたいでしょう、君は。誰にでもやさしくて、背が高くて、かっこよくて、品があって……」
 きこえてくるのは全部すてきな褒めことばなのに、どこかバカにされているようにきこえる。ハルさんの話し方はいつもこうだった。本人に悪気はないのだけれど。
「それはハルさんのほうでしょ。学生のころからいつもファンに囲まれていたし」
 寒さに自分の腕をさすりながらおれが言うと、彼は何か含むところがあるような笑みを浮かべて言った。
「最近気になる人ができて、今は真面目に暮らしてるよ」
「そうなんですか。とうとう年貢を納めるんですね」
「自分が結婚したからって、余裕じゃないか。愛されてる余裕?」
 結婚の話を持ち出されると違和感に眉根が寄ってしまった。結婚。異性となら、誰にも奇異な目で見られることなく祝福される、他人と他人をつがわせ、繁殖を促すシステム。
「結婚と愛は関係ないでしょう。結婚はシステムで、愛は感情なんだから」
 言ってから慌てて口をおさえたけれど、ハルさんは眉をすこし上げただけで、聴かなかったフリをしてくれた。追及しない大人の対応に感謝しつつ、おれは黙って、ハルさんの後ろを歩いた。

 狭い店の入り口には蔦が這っていて、ちいさな白い傘立てが置いてあった。そこがカフェだと分かったのも入口に小さな看板が立てかけられていたせいで、それがなければ、廃屋に間違えたかもしれない。古い、蔦におおわれた木造家屋。なぜこんなところに、と思ったのもつかの間、店の扉を開くと中はとてもきれいで、洗練された作りをしていた。
「あれ、店主が留守だ。ひとりでやっているから、よくあるんだよね。カウンターでいいよね。水はセルフサービスなんだ」
 まるで自分の家のようにくつろいだ声で、ハルさんが言った。そしておれのところへ水をいれたグラスを持ってきて、キッチンの横の階段に向かって「こんにちわあ」と声をかけた。
 カウンターの上は、はがきサイズぐらいの和紙にタイプライターで打ったような文字が並んでいた。中途半端な時間だからランチは終わっていて、日替わりコーヒーとスペシャリティコーヒー、それにいくつかの洋菓子しかない。カフェラテがなくて困惑しかけたころ、メニューの下部に小さく「ラテもできます ¥550」と書かれていてホッとした。ブラックも飲めるようになったものの、やっぱりミルクが入っているほうがおいしくて好きだ。
「寒いな。暖房いれよう……うわ、灯油がきれてる。ちょっと入れてくるから、星野くんはゆっくりしてて」
「え、ハルさんもしかしてお店の人ですか。副業してたなんて知りませんでした」
 おれの冗談にハルさんは軽く笑って、店の奥、勝手口のところに消えて行った。
 階段の軋む音がしたけれど、おれは俯いたままグラスの中を眺めていた。店主のことは知らないし、知らない人に愛想よくすることが、ここのところ面倒になってしまったのだ。誰とでも仲良くする、人が大好きな恋人と違って、今の妻は人見知りで、知らない人間や人の多い場所を嫌がる。いつの間にか自分も影響されているのかもしれない。
「いらっしゃい、ま……」
 せ。せが足りない。
 くぐもった声にそう心の中で突っ込みをいれながら顔を上げると、そこに、大きなマスクをしている一保さんが、眼を見開いて立っていた。

 目があったとき、改めて自覚した。彼はやはり特別だった。きっと死ぬまでそうだろう。
「なんでお前がここにいるんだ」
 掠れた声だった。咳をしているところをみると、風邪をひいたのかもしれない。顔色が少し悪くみえたのは、それとは関係ないのかもしれないけど。
「違うんだ。あの、連れが……」
 しどろもどろになってしまったおれは、それでも、彼の目を見つめずにはいられなかった。大きなマスクに唯一隠されていない、彼の大好きだったところ。まっすぐできりりとした眉の下にある、目尻の切れ上がった、猫のような黒い眼が、まばたきもせずにおれを見ている。
「僕がつれてきたんだけど。いけなかった?このお店にはなにかパスポートみたいなものや、紹介状が必要だったりするのかな」

 ハルさんが、灯油がきれていたよ、と言ってにこりと笑い、おれの隣に座った。