10 こっちを見て

 咳が止まらない。
 病院に行く時間的余裕や金銭的余裕がないのは、肺炎になったとき何日も店を休んでしまったからだ。熱が下がってからもなかなか咳が引かず、夜も眠れない。
「クソ、身体がなまってやがんな……」
 現役の潜水士だったころ、真冬の海にダイブしていたのに風邪なんて滅多に引かなかった。基礎体力が今とはケタ違いだった。毎日ランニングや筋トレは欠かさないようにしているが、実戦の緊張感と必要性がなければ、身体は楽な方へ流れてしまう。
「大丈夫?ねえ、病院行きなよ、ついていくから」
 マスクをして、なるべく店の奥に引っ込んでから咳をするようにしていたが、常連のルカに心配されてしまった。カウンターの向こうで心配そうな目がこちらをじっと見つめている。
「そんな時間も金もねえしなあ。あ、ありがとうございましたー」
 ルカの隣に座っていた老夫婦の会計を終えると、店内には彼女ひとりだけになった。
 ドアの向こうに見える緑は、初夏の色から新緑へと色を変えつつある。もう夏か。時間が経つのは早い。
 先代の店主が亡くなったのもこの季節だった。そのせいか、妙に気分が沈む。酒の量が増える。タバコが吸えないから余計に。
「病院代くらい貸してあげるから。ね、いこ。今すぐいこ」
 ルカが立ち上がって焦った顔でおれを急かしたてた。眉が下がる。心配してくれる人間がいることのありがたさをかみしめた。
「いいって」
 しんとしてしまった店内に何か音を流そうと、CDプレイヤ―の前に立つ。CDやレコードはすべて捨ててしまったので、今店に置いてあるのは『カフェBGM』と銘打たれたボサノヴァやジャズだ。心がひとつも動かされない、耳に心地のいいメロディ。それをよくルカが「逃避の音楽」と言って皮肉ってくるのを思い出し、かけようとしてやめた。
 ルカはため息をついて、もういちど席に座った。それから携帯端末を触って、宇多田ヒカルの歌を流し始めた。曲名は分からないのに、自然と歌詞が頭に入ってくる。心に水を与えられるような歌声。
「……やめろよ」
 ルカはおれの制止など聞こえないフリをしてタバコをくわえた。火を点けようとしてから、「あ、ダメだ。店長咳してるもんね」と言ってやめた。
 ふたりで休日にコーヒーを飲んでいるとき。ドライブしているとき。朝起きて朝食の用意をしているとき。いつも音楽が流れていた。洋楽も邦楽も、ジャンルに関係なく。その中のひとつに宇多田ヒカルも含まれていた。
 ああ、ダメだ。思いだすまいと努力していたのに。曲ひとつで台無しだ。
 成一の穏やかな甘い声と、変わらない優しげなまなざしが脳裏によぎる。未練がましい自分が本当に嫌だった。
「じゃあ、バイトならする?」
 ルカがため息交じりに言った言葉に「バイト?どんな」と食いついた。
「夜の。お酒作れるなら、わたしが週に一度占いに行ってるバーが、人を募集してたから……給料も結構いいはずだよ。でも、どちらにせよ咳を治さないといけないから…」
「やる!ああくそ、わかったよ。病院に行きゃあいいんだろ」
 ルカが満面の笑みを浮かべた。
「決まり!店長イケメンだしお酒もコーヒーも作れるし、絶対採用だよ。さ、病院行こうね~」
「店閉めてからにしてくれよ」
 顔をしかめてなんとか逃げようとしたが、ルカは騙されなかった。
「あと1時間じゃん。閉まるまでいるからね。安心して、洗い物はわたしが引き受ける」
 そういって胸をそらして拳で叩く。うんざりしながらも少し嬉しかった。
「うわっこいつ疑ってる」
 コーヒーのおかわりを入れてやると、ルカはこちらをじっと見つめてから目をそらした。
「前の店長もそうだったんだよ。元気そうだったのに、ある時から風邪が治らないって言って。忙しいから病院行けないって、放置してた。それで、ガンだった」
 何も言えなくなって、おれは黙った。
「それが、今頃の季節だったんだよね」
 ルカは先代のころからの常連だ。おれが先代を看護していた頃、何度か病院への送り迎えを手伝ってもらったこともある。
「今日はもう、閉店の準備するか」
 そう言って表のプレートを『CLOSE』に裏返してから戻ってくると、ルカが上機嫌で宇多田ヒカルの『光』英語バージョンを歌いながら皿を洗っていた。

 ルカに紹介してもらった店は少し変わっていて、バーテンダーに対して『指名』という制度がある。『指名』されると指名料が時給とは別にもらえるし、指名した上でボトルを入れてもらったり、売上に貢献すると別途「お手当」がもらえる。
 これだけ書くと怪しい風俗店ぽさがあるのだが、実際にはとても金払いが良く、会計も明瞭だ。質のいい酒を落ち着いた空間でゆっくりと味わうことができる上、スタッフは店長が選んだ容姿のいい人間しかいない。風俗店ではないので隣に座らせる等といったことはできないが、『店員のレベルが高い』とうわさになって、店は相当繁盛していた。
「一保くんお疲れさま。今日ちょっとだけ仕事終わったら残ってくれる?」
「はい」
 グラスを拭き終えて返事をすると、笑顔が返ってきた。
 オーナー店長はもともと東京のホストクラブでナンバーワンに君臨していた経歴を持っており、客足らいが抜群に上手く、スタッフ全員をとても大切にしてくれる。 
「いやあ、一保くん来てくれてから売上うなぎのぼりだよ!助かるなあ。はい、これ今週のお手当ね」
「ありがとうございます!」
 営業が終わった控室で、榊店長がおれを呼びだして封筒を手渡してくれた。ほかのバーテンダーとの争いを避けるため、繁忙な金曜夜以外はひとりずつの交代制勤務になっており、指名数やお手当金額について、お互い知ることができないシステムになっている。これも、店員同士で殺伐としなくて済むので助かっていた。
 両手で封筒を受け取り鞄に入れる。
「…あの、何か?」
 じっと見つめられていることに気づいて問いかけると、真剣な顔で店長が言った。
「痩せたんじゃない?」
「いやいや、この店来てまだ2週間ですよ!痩せるも何もわかんないでしょ」
 焦った。確かに肺炎の後、咳がひどくて食欲も睡眠欲も落ちており、体重が4キロ減ったのだ。まさか見抜かれるとは思わなかったが。
「あのねえ、僕を舐めてもらっちゃ困る。ホストだったんだからね。お客さんの容姿の変化にはめちゃくちゃ敏感だよ、ある種の特殊能力ってぐらいわかるんだから」
 髪を5ミリ切ったとか、500グラム体重が減ったとか、そういうの全部わかる、と胸を張られて、おれは少し笑った。
「こないだまで風邪をこじらせていたんです。ルカが病院に連れて行ってくれたので、だいぶ良くなったんですが」
 おれの言葉に店長は何度もうんうんと頷いた。
「ルカちゃんはやさしくて才能のある占い師だから。言うこと聞いて正解だよ」
 才能のある占い師、のくだりは半信半疑だが、やさしいことは確かだ。わざわざ注射嫌いのカフェ店長を病院に連れて行ってくれるのだから。
 働きすぎないようにね、と心配そうな声をかけてもらいながら、店の裏出口を出る。もう夜中の1時を過ぎているのに、街中には人影があって、みんな楽しそうな顔で酔っぱらっていた。
 このバイトのために自転車を買った。店までロードバイクをとばしても30分はかかるけど、真夜中の車道で思いきりペダルを踏み込むのはなかなかに楽しかった。大通りを避けて人通りの少ない住宅街の中の道を中心に家路を急ぎ、家についたらシャワーを浴びて、2時半に眠る。
 

 成一がひとりで店を訪ねてきたのは、ダブルワークをはじめてからおよそ3週間後のことだった。
 夜中に眠るようになってから、走る時間を30分に減らして、起きる時間も1時間遅くした。それでもやはり睡眠は足りていなくて、客足が途切れた途端に眠気が襲ってくる。
 彼がドアを開いて静かにカウンターに座ったとき、ちょうどおれは眠気のピークで、クーラーが一番当たる涼しい場所に丸椅子を置いて腰かけ、舟をこいでいた。ちょうど客が誰もいなかったので、一服をしようと唇にたばこをくわえたままうつらうつらしていたとき、「危ない」と声をかけられて目がさめた。
「タバコ、太腿に落としそうになってたよ」
 目の前数センチに成一の心配そうな顔があって、おれはてっきり夢をみているのだと思った。夢に彼が現れるのは日常茶飯事だったし、まさか現実だとは思わなかったのだ。
「ああ……、ごめ、んんっ!?」
 驚いて立ち上がったときには、すでにタバコの火はキッチンで消されていた。後にほんのりと残った成一の整髪料のかおりが、これは夢ではないと告げている。
「さっき若い男の子が野菜を持ってきたよ。なんか、わけあり品だからタダでいいって。起きたら連絡くれって言われたけど……一保さん?」
 立ち上がったまま固まってしまったおれを、成一が高い背をかがめてのぞき込んでくる。
「……ゲホゲホ!」
 治ったはずの咳がこみあげてきてむせてしまったおれの背中を、成一が一瞬ためらった後でゆっくりと撫でた。ひとしきり咳込んだあと、「悪い、大丈夫だから」と腕を振り払ったものの、てのひらの大きさやぬくもりを忘れていない自分に涙が出そうだった。
「びっくりした。なんでお前がここにいるんだよ」
 成一は以前見せたことのない、大人びた笑みを浮かべて言った。
「昇任したんだ。それで消防大学校に入校してるんだけど、ここのすぐ近くだから」
 道理で、日焼けしている。きっときつい訓練をしているんだろう。
 こんな夏の暑い時期に、鬼のような訓練をさせられるなんて気の毒だな、そう思ったものの口にするのはやめた。おれはもう、彼のことを心配したり思いやったりする立場にない。
「いきなりきて、ごめんなさい」
 殊勝な態度でそうつぶやかれてしまって、おれは二の句が継げなくなり、とりあえずそこに座れよ、とカウンターに案内してから、水はセルフだぜ、と伝える。
「ありがとう。注文してもいいですか?」
 この声をどれほど聴きたいと思っただろう。きっと成一には分からない。
 おれは成一に背を向けて、樹が持ってきたらしい野菜の類を箱から取り出して冷蔵庫にいれるべきものを放り込んだ。あとでお礼の電話をかけなければいけない。
「カフェラテでいいのか。ホット、アイス?」
 おれがそう問いかけると、一瞬、成一は声を詰まらせた。
「…、ホットでお願いします」
 そんな、何かを思い出してるみたいな間をあけるのはやめろ。そう思ったけれどもやはり口に出せない。おれだって、この声や手のひらに逐一何かを思い出さずにはいられないのだから。
「かしこまりました」
 おれの返事に、成一が目尻を下げて微笑んだ。
 呼吸を整え、自分に言い聞かせる。血色が良くなりそうな顔とか、血液を送りすぎてしまいそうな心臓とかそのあたりに、しつこく言い聞かせる。成一とはもう赤の他人だ。何の関係もない。だから心が切なくなるとか苦しくなるとか、そういう反応はやめろ。全くの無駄だから。
 カウンター越しにカフェラテを手渡したとき、偶然成一の指が当たって、危うくソーサーごと落としそうになった。いやこの反応はおかしいだろ。こいつとはキスもセックスも数えきれないぐらいしたのに、なんなんだこの過剰反応は。
「お、待たせいたしまし、た」
 とぎれとぎれになってしまった。
 おれはすぐに視線を落として何ものっていないまな板を眺めた。成一の視線を感じる。それは長い時間だった。5分か10分か―――それぐらい、ただ黙って成一はおれを見つめ、おれはまな板を、まるで恋焦がれた恋人をみつけたときのように、熱心に見つめ続けた。
 成一が、小声で「こっちを見て」とささやいた。
――見たくない。目が合ったら、絶対に心の中があふれてしまう。
 そう思っていたのに、この甘い声に逆らえない。成一の眼を側でみたい、その欲望に勝てなくて視線を上げてしまった。
 美しい琥珀色をした、目尻の下がった双眸がうるんでいる。心臓がせり上がってきて口から出てしまうんじゃないか、そんな息苦しさに呼吸が止まった。

「嘘だ。消防大学校なんか関係ない。ただ、あなたに会いたかった」