6 (成一)

 優しいひとがすきだ、と言う人がよくいる。
 でもおれは、「やさしいひとがすきだ」というひとが、きらいだ。
 だってその優しさって、「自分に優しくしてくれる、自分にとって都合のいい人」ってことじゃないか。
 実際、おれはよくつき合った女の子から「やさしい」といわれたけれど、そうやって喜んでくれるのははじめのうちだけで、次第に当たり前になり、もっと優しくしてよ、わたしのことを見てよ、かまってよ、と要求が際限なくエスカレートしていく。そしてほかのひとに優しくしたら、「どうしてみんなに優しくするの」「わたしにだけもっと優しくして」と強請る。それはもはや、「やさしいひと」が好きなんじゃなくて自分にとって都合のいい人がすきだと、言ってしまっているようなものだった。

「ねえ、兄貴はさ、順番守らなかったことってある?」
「なんの話だ」
「たとえば、恋愛において」
 結婚式場のパンフレットを真剣な眼差しで読んでいる兄。なんだかおかしい。このひとが、本当に結婚するなんて信じられないし、結婚式場の花がいっぱい印刷されたパンフレットもぜんぜん似合ってない。
「……どうして、そんなことを聞く」
 即座に返事があるとおもいこんでいたので、不思議におもって顔をあげた。
「順番を守らないと、やっぱり不誠実だと思われるのかな」
「全くわからないな、順を追って説明しろ」
 その堂々とした返答、これでこそ星野祥一である。さきほどの自信なさげな電話の様子をおもいだして、おれはばれないようにこっそりと笑いをかみしめた。
 指輪を買いにいくから、ついてきてほしい。
 そう頼んだ兄の声は、ぼそぼそとしていて恥ずかしそうで、いつもの傲慢なまでに堂々とした話し方はどうしたんだよ、とあきれてしまった。
 ぱらり、とパンフレットをめくる音がする。セールスアソシエイトが指輪を持ってくるまでの間、別室にとおされて飲みものを出され、そのわずかな時間にも兄はパンフレットみて、まじめな顔でフセンをはったりしていた。
「ええと、……つき合って、とか好きだよ、とか言う前に、その、寝ちゃったことある?」
 ないだろうなあ、と思いながら問いかけたのだけれど、兄の反応は思っていたのと違った。眉をよせ、なぜか口元に微苦笑を浮かべてからパンフレットをテーブルに置き、こちらをまっすぐ見た。
 高級感あふれる店内は、世界トップブランドの名に恥じない清潔感と緊張感に包まれている。客層も明らかに上流階級と思しき人々で、ささやくような小さい声で販売員と会話をしていた。
「そのうち分かるだろうから言っておく。実は、彼女は妊娠している」
 ……ひと呼吸置けたのはこの場所だからだ。ここが居酒屋や家なら、大声で叫んでいた。
「ーーそれって、できちゃったから結婚するってこと?」
 兄はいつも冷静沈着で、言い方は悪いが、計算高いところがある。女性とのつきあいでも、なんとなくつき合っているわりには別れるときもめずに精算して、何事もなかったような顔で、次の女性が現れるといった具合に。避妊をしないとは考えがたい。
「少し違う。結婚してほしいと、人生をともに過ごしてほしいと思ったけれど、言い出せなかった。だから、行為に及んだ」
「それって」
「わざとだった。ミスじゃない」
 ドン、と重い音が鳴った。おれが机を叩いた音だった。
「……女性ひとりの人生をなんだと思ってるんだよ。いくらなんでも傲慢すぎるんじゃないの?」
 おれの押し殺した声に、兄は黙って目をそらす。その様子に、自分のことでもないのに一発殴りたくなって、その衝動をこらえるのに苦労した。
「おれが市岡さんのお父さんだったら、絶対今殴ってたね」
「彼女はおれを殴らないから、成一が殴ってちょうどいい」
 おれたちの前に座った販売員が、深いため息をついたおれをちらりと見やる。それから、兄貴の方へと指輪をいくつか見せて、さらさらと説明をはじめた。このブランドのダイヤモンドの基準は、非常に厳格なものとなっております。完璧な化粧をほどこした白い顔が、4Cといわれるダイヤモンドの鑑定基準について、言いよどむことなくつむいでいく。
 頭の中が熱くなったあとで、急速に冷えていく。信じられなかった。もしおれが市岡さんのお父さんだったら、まず間違いなく兄貴に殴りかかってボコボコにしている。冗談ではなくて。それぐらい、傲慢なことのように思えた。
 同意の上ならいい。お互いの考え方にまで口を出すつもりはない。たとえば、いつ子どもができてもいい、というお互いの同意の上でコンドームなしのセックスをしていた、というなら分かる。
 でも、兄のやり方はあまりにも、相手の意志を無視している。
「出来上がりは一ヶ月後になります」
 丁寧にお辞儀をされて店を出た。下調べをしてあったのか、意外にも兄は決断に迷わなかった。給料三ヶ月分のエンゲージリング(最高ランクのダイヤがついたやつ)と、合わせてつけることのできる、カーブを描いたマリッジリングを注文していた。いまどき、よくあそこまで高いものを、マスコミのいいなりになって買えるものだな、と感心する。給料三ヶ月分って。バブル期じゃないんだから。あの赤い箱のブランドじゃなければ、もっと安くていいものが買えたんじゃないの?まあ、女性の憧れといえばあの赤い箱か、こまどりの卵のようなブルーのアレか、二種類といったところなんだろうけど。(ほかにも色々あるけど、しがない地方公務員の手が届きそうなものは上のふたつがせいぜいじゃないだろうか)
 そういえば昔、元カノ数名にそれぞれ違うティファニーの指輪を買ったことがあったな、懐かしいな~たぶん捨てるか売るかされてるんだろうな~などと考えて黙っていたおれに「ちょっと歩こう」と声をかけて、デパートの前、歩道を兄があるいていく。
 おれは、憮然とした表情でその後を追った。
「何か食うか。ついてきてくれたお礼に何でも食わせてやる」
「うな重」
「分かった」
「一番いいやつ食べるから」
「すきにしろ」
 困らせてやろうと思ったのに、全く動じていない背中にがっかりする。なんでそんなに余裕があるんだよ、と考えた後で、そういえば、この人も祖母がなくなったとき遺産を受け取ったんだっけ、と思い出す。実家の家や土地だけじゃなくて、ほかにいくつか祖母は資産を持っていて、兄はなんの未練もなく売り飛ばしていたのだった。所有していても管理できないというのは分かるけれども。
 おれはといえば、一人暮らしするときに渡された貯金も、相続した遺産も、ほとんど手をつけていない。ばあちゃんの思い出が減る気がしていやだ、と言ったおれに、「金なんて使わなければ意味がない。あの世には持っていけない」と言い放った兄の顔を思い出すと、なんだか笑えてしまう。兄弟なのに、こうまで違うものかと。とはいっても、兄は登山以外の趣味を持たないので、浪費する場所もないのだが。車は好きだからいいのに乗ってるけれど、長く大事に乗るタイプで、ころころと買い換えたり乗り換えたりしない。
「好きになってしまった。でも、自信がなかった。彼女の心はおれにはないと思っていたから」
 店がみえてきたところで、兄が言った。その視線は、ぼんやりと秋空をとらえている。自信がない、という言葉が、これほど似合わない男もいないだろうとおれは思ったけれど、恋はそういうものなのだと知っている。
「どんな手段を使っても、手に入れたかった」
 それは、おれも同じだ。
 やり方が間違っていると分かっていても、止められない。言葉で、態度で、愛していると伝えたかったけれど、彼の心に誰かがいると知っていて、思いを伝えることはできなかった。
 好きな人がいる、と言った彼。
 どうしてもあきらめられないと、泣いた彼。
 拒否されて、傷つきたくなかった。だからおれは、彼の隙につけ込んだのだ。
 おれに兄を責める権利なんてなかった。同類だ。性格は全くにていないのに、こういうところはそっくりなんだから笑えてしまう。
「おれは昔から、本当に欲しいものに対してはこういう性質だ。でも成一、お前は違うだろう」
 たしかに、こんなのおれらしくない。いつも相手のことを優先してきた
。でも本当のところ、何かに執着して、他人をけ落としてでも、手に入れたいとおもったことなんていままでなかった。好きな人には幸せになってほしいと願っていたけれど、その実、みっともなく追いかけることができなかっただけなのかもしれない。
 おれよりもよっぽど兄のほうが末っ子みたいな性質をしているな、と思う。無口で、頑固で、自分でこうときめたら絶対に譲らず、欲しいと決めたら必死で追いかける。いつも周囲の顔色を伺い、波風を立てまいと優等生的人生を過ごしてきたおれのほうが、長男に向いていた気がする。
「やっぱり、だめだね。順番は大事だ」
 あのとき、彼は拒否しなかった。
 けれど終わったあとで、とても悲しそうな顔をしていた。おれが傷つけたんだ、とおもうと胸が塞いだ。
 抱きしめたかった。ただ、彼に触れたかった。
「まだ決めるのは早いだろう。よく分からないが、今のお前の状況が仮に9回裏2アウト3ボールでも、満塁かもしれない。それなら一発逆転ホームランがある」
 唐突な野球のたとえはなんなんだよ。思わず笑ってしまいそうになって、おれは慌てて顔をしかめた。
「まだ3回裏ぐらいだよ。うん、これからだね、がんばる」
 着いたぞ、と兄が言う。 
 古い日本家屋の暖簾をくぐって、甘いタレの匂いにうっとりする。悩んでいても、やっぱりおなかは空くし、おいしいものを食べたいと思う。
「まってろ~、うな重、特上」
 ふるびた家屋ののれんをくぐって腕まくりするおれをみて、兄がわずかに笑った。この店に来たのは初めてだ。美味しかったら、一保さんにごちそうしてあげよう、と思った。

 

***

 かっこよくて、堂々としているようにみえるあのひとが泣いたとき。
 あの猫みたいな魅力的な眼が涙でうるみ、小麦色の頬にこぼれ落ちたとき、どれほど心を鷲掴みにされたか。
 あの瞬間、「もう当分はごめんだ」と心にきめていた恋に、あっけなく転がり落ちてしまった。
 たしかに、予感はあった。彼がヘリから降下してきた瞬間から。
 あったけれども、まさかあんなにあらがえずに真っ逆さまだとは。

 

 

「面食いですよね、星野さんは」
 野中さんがそう言って、散歩を待っている犬のように小首を傾げる。
「そうかなあ」
「だって、あの男の人もきれいな顔をしていましたよ」
 先日一保さんを誘って行った千早のライブに、なんと野中さんも来ていたらしい。
 紅葉した楓の木にカメラを向けながら「一緒にいらしたのはお友達ですか?」とさっき訪ねられたとき、とっさに答えに詰まってしまったのがいけなかった。友達じゃない。おれは、友達とセックスしたりしない。
 野中さんは何かを察したような顔で深く頷き、「なるほど」と低い声で相づちを打った。
 いったい何がなるほどだったのか、聞くのが怖かったので聞かないことにする。 
「あ、星野さん。もう少しアオリで撮った方がきれいに撮れますよ。露光も……これぐらいのほうがいいかも」
「なるほど、ありがとう」
 写真が得意な野中さんに一眼レフを貸してもらったことをきっかけに、季節ごとに花や風景を撮りに行くようになり、今日は、秋の紅葉がテーマだった。お互いに一眼レフとお昼ご飯を持ち寄り、朝から公園の中で好きなものを撮っていく。彼女はそばに男性がいるから安心して夜まで撮影できるし、おれはおれで、カメラの知識を教えてもらえてありがたい。
 昼ごはんの時間になって、公園の中のベンチで昼食をとろうと呼びかける。手を洗い、持ってきたサンドイッチやおにぎりを食べつつ、おれと野中さんは話の続きをした。
「きれいというか、かっこいい顔の人でしたね。ちらっとしかみてませんが、身振り手振りが外国のひとみたいで」
「あはは。帰国子女だからね」
「わあ。わたし苦手かもしれません。職場にひとりいるんですが、選民意識というか……エリート意識の強い人で、すぐ「アメリカではこうだった」ばっかりいってきて、うっとうしいんです」
 平素、人の悪口をほとんど言わない野中さんが眉をしかめて言い放ったので、そいつはよほど鼻持ちならないんだろうなあ、と思いながら言った。
「一保さんは、そういうところ全くないなあ。率直に自己主張するけど、愛嬌があっておもしろいし、素直なひとだよ」
 名前を声に出すと、どうしてもあの日のことを思い出して顔がゆるみそうになり、意識して顔をひきしめた。
「あのひと、実はわたしも初めて見た気がしなくて、驚いたんです。知らない人のはずなのに」
 そう言って、彼女は手のひらの中のペットボトルを、なにか大事なもののようにそっと両手で包んだ。
「会ってみる?今度三人でごはん行こうか」
 顔をあげた野中さんは、こどものような無邪気な笑みを浮かべてうなづいた。
「ぜひ」
 色よい返事が得られたのを幸いとばかりに、おれはその場で一保さんにメッセージを送った。
「会わせたい友達がいるので、来週おれの家に来ませんか」
 短く、用件だけを書いたメッセージは5分後に既読がついて、「いく」と率直な返事が帰ってきて微笑む。
 その場で日時を決めてから、野中さんと別れた。あと一週間か、と思うと、とてつもなく長い気がする。なにしろ、前に好きだった人は同じ職場の上司だったから、毎日会えたのだ。一保さんに会おうと思ったら、メールや電話で連絡をとり、都合を合わせて会うしかなく、お互いに夜勤のある仕事だからシフトがずれてしまうとかなり長い間会うことができない。
 携帯電話の連絡先だけでつながっているこの関係は、少し心許ない。だからこそ、必死でつなぎ止めようと思うのかもしれなかった。

 

 

「悪い、遅れる。先入って飲んでて」
 話したいことがあるから、おまえの家にいくまえに少し飲まないか、と誘われ、指定されたのがこの店だった。由記駅前にある雑居ビルの中にあるこの店は、一見するとふつうのバーだ。けれど何か違うな、と思ったのは、入った瞬間から複数の男性から品定めするような視線を受けた点と、店の中にはスタッフも含めて男性しかいないということだった。
 奇妙な感じはうけつつも、ここに一保さんが来るというなら待つしかない。カウンター12席とテーブル2席の、縦長の店の中で空いたカウンターに座り、顔に傷のあるバーテンダーに生ビールを注文した。種類がいくつかありますが、とそっけない口調で彼は言って、おれはサッポロ黒ラベルを頼んだ。
 薄暗い、こじゃれた店でビールかよ、と自分でも思ったが、本腰をいれて飲むのは一保さんが来てからでいい。
「待ち合わせ?」
 さっきから視線を感じていた、アイドルのような顔をした小柄な青年がにこにこしながら話しかけてきた。
「そうです。遅れるらしいけど」
「じゃあその人がくるまで隣で飲んでていい?」
「いいですけど、あなたは待ち合わせじゃないんですか?」
 おれの質問に、青年がぷっとふきだす。
「まあ、ある意味では待ち合わせだけど。出会いにきてるしね」
「出会い?」
 バーでコンパでもやるんだろうか。だとしたら、一保さんと合流したら早めに店を出たい。騒がしいのは苦手だ。
 首を傾げたおれに、青年が大げさに眉を上げて言った。
「あんたまさか、この店がどういう店か知らずに来てんの?」
「どういう店って……バーでしょ?」
 青年がげらげらと笑って、バーテンに声をかける。
「なんか、何もしらないノンケが紛れ込んでいるよ、マスター」
 六人部隊長も真っ青なぐらい愛想の悪いマスターが、こちらをちらりとみて眼を細め、
「ここはゲイとレズビアンに出会いを提供している店なんですが」と冷ややかな声で言った。
「ええっ、そうなんですか。知らなかった……ここで待ってろって言われて、来ただけだったので。ご迷惑でなければ、友人がくるまでいてもいいですか?」
 おれの言葉にマスターはじっとこちらを見た。リスのような青年が、明るい声でフォローしてくれる。
「いいじゃーん、彼スタイルいいしそこそこかっこいいし!おれこの人……名前なんていうの?」
「星野です、星野成一」
「星野くんともっとお話したいよ~~!!」
 腕にしなだれかかってこられても困る。
 おれはさりげなく彼を押し返して、生ビールのおかわりを頼んだ。マスターはこちらの注文を受けて静かにビールを注ぎ、音をたてずにカウンターに置いた。
「今日はそうちゃん来ないのかなあ。おれ、星野くんに乗り換えちゃおっかな!ね、おれどう?顔悪くないし、抱けそうじゃない?」
 突然言い寄られて眼を白黒させていると、マスターが淡々とした声で助け船を出してきた。
「また希望のない恋愛ですか。泣くだけですし、やめておいたら」
「それってそうちゃんのこと言ってる?確かに相手にされてないけどさ~……この店に何度も来るってことは、可能性はゼロじゃないと思うんだよね、おれは」
 青年(子リスのようなので、心の中でリスくんとあだ名をつけた)が言い終わる前に、マスターはドアのほうを見た。おれもつられてそちらをみると、背の高い、体格のいい男性がひとり、ドアを開けて入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 マスターの冷ややかな声に、短い焦げ茶色の髪をした男が軽く頷く。背が高く、体格のいい彼は堂々とした歩き方でおれのふたつ隣に座った。
 ……どこかでみたような気がする。
 最近そんなのばっかだ。
 息苦しさを感じて店を見渡すと、男性の視線が彼に集まっていて、店内の温度が上がったようだった。たしかに、地味な顔立ちなのに男性的な魅力にあふれた人だ。歩き方や立ち居振る舞いのひとつひとつが少し傲慢で、ひとを引きつける力がある。
 おれも背は高いほうだが、彼のようにまんべんなく筋肉がつかない。広い肩や、どこか人を食ったような表情といい、もてそうだ。たとえるなら、女の子の頭をなんの遠慮もなくぽんぽんしたり、髪にさわったり、そういうことが当たり前にできそうな雰囲気をもっている。
「そうちゃん!もう来ないかと思ったよ~~」
 リスくんが、おれをぽいっと放り投げる勢いで席をたち、彼の隣に走り寄った。彼はそれには答えず、マスターに「ジンバック」と注文をしてから、こちらをじっとみた。
「どっかで会ったような気がするんだけど」
 カウンターに肘をつき、顎を上げて話すさまは、なかなか偉そうだ。しかし隣で無視されてしゅんとしているリスくんのすがるようなまなざしにたえきれず、おれは仕方なく返事をした。
「今同じ事を考えてました。どこでしたっけ」
「仕事絡みな気がすんな。何やってんの」
「公安系です」
「へえ、一緒だな。マッポ?」
「違いますけど」
 やってきた生ビールに口をつけて、「うまいな」とつぶやく。その横顔をみていると、少し彼にたいして抱いた警戒心が解けた。
「ビール好きなんですか?」
 おれの質問に、男は自嘲するような笑みを浮かべた。
「ほんとはそうでもなかったんだけどな。連れが好きだから、つき合って飲んでるうちにまあこれもアリだなって思うようになった。本当は焼酎とかハイボールのほうが好きだ」
 リスくんが眼をうるませてうんうんと相づちを打っている。
「それって、好きな子が好きだから合わせてる、ってことですか?」
 男が眉をしかめ、こちらを見た。それから肘をつき、もう一度じっとおれを見つめた。
「まあな。もう終わったけど」
 男はいつの間にかおかわりのビールを頼み、半分ほど飲み終えていた。飲むペースがとても早くて、確かに「同業者」らしき雰囲気を感じさせるものがある。
「そうちゃん、お試しでいいからおれとつき合ってみなよ。失恋なんか忘れさせてあげるからさ」
 リスくんが必死に言い募る。するとずっと無視していた男がとうとう「うるさい。おまえに興味ないって何度も言ってるだろ、消えろホモ」と低い声で恫喝した。恐ろしいほどの迫力に、リスくんは涙目になって退散していく。かわいそうに。
「あんな言い方ないでしょう」
 拳を握りしめてにらみつけたおれを、男がせせら笑った。
「なんだよ。おまえのタイプなのか」
「ふざけるな」
 一触即発の雰囲気になったところで、おれの携帯が鳴った。相手は一保さんで、いま店の前に着いた、というメッセージだった。
 立ち上がりかけた腰をふたたびスツールに戻して、「早くきてくれないとケンカしちゃいそう」と返信する。なんて感じの悪い男だ、もう無視しよう。そう決めて、バーテンダーにビールのおかわりを頼んだ。バーテンダーは男に冷たい視線を投げかけ、「ほかのお客様に絡むなら、今後出入り禁止にしますよ」と淡々と言い放つ。
「はいはい、申し訳ありませんでした」と男が揶揄を含んだ声で言った。
 メッセージに既読がついてすぐに、店のドアが開いた。颯爽と歩いてきた一保さんは少し息が切れていて、急いできてくれたのだと分かって嬉しくなる。
「悪い、遅れ、て………」
 スツールに座ろうとした彼は、隣の男をみてその場に立ち尽くす。男はうるさそうに顔を上げて振り返り、一保さんを見た。そして同様にその場で固まった。
「千葉、おまえなんでここにいんの」
 掠れた声に動揺が露わで、おれは固唾をのんで見守る。千葉と呼ばれた感じの悪い男は、さきほどまでの余裕なんてまったく見られない焦った顔で、何度もおれと一保さんを交互に見た。それから、「あ」と叫んだ。
「おまえ、合同訓練のときの。星野弟か」
 その言葉でやっとおれは彼を思い出した。合同訓練の打ち上げで、終始ひょうひょうと酒を運んでいた男。ひとことふたこと、言葉もかわした気がする。
「海保でその呼び方流行ってるんですか?やめてください。おれには成一っていう立派な名前があるんです」
 千葉と呼ばれた男の表情が、ほんの一瞬、悲しみともいらだちともつかない複雑な様子をみせて、すぐに元の無表情にもどる。悔しいけど、きっとこの男は仕事ができるんだろうな、と思った。感情を殺す能力は、仕事の能力値に正比例すると、尊敬する上司がよく言っていたからだ。
「マスター、帰るわ」
 ふっと眼を伏せたあとで、彼は立ち上がった。お勘定をすませたあとで、店をでる寸前に一度こちらを振り返り、今度はまっすぐおれを見て言った。
「おれは、お前みたいな人間が一番嫌いだ。苦労知らずのボンボンめ、そのうちお前を地獄に落としてやるよ」
 薄笑いを浮かべながら言い放たれた言葉は、冗談のようにも聞こえそうな軽い口調だったが、おれにはそれが本気だと分かった。けれど、反論する前に彼は店から出て行ってしまった。
「何を飲まれますか、村山さん」
 眉をしかめたままドアをにらみつけていた一保さんが、はっとしたような顔でマスターをみた。顔に傷のある強面のマスターは、今の出来事なんて何もなかったかのように、BGMをフランク・シナトラの「ニューヨークニューヨークのテーマ」に変え、あのビールを飲みたくなる独特のイントロに、一保さんは頬をゆるめて「ハープを」と注文して隣に座った。
「ハープって、ビールのなまえ?」
 本当は、聞きたいことが山ほどあったけれど、あえて聞かないことにした。
 一保さんは、ほんの少し暗い眼をしてうつむき、目の前に差し出されたグラスを手に取った。
「ごめんな。千葉がひどいこと言って」
「あなたが謝る必要ないよ、一保さんが千葉さんのお母さんなら話は別だけど。でも、どうしておれ、あんなに」
 嫌われているんだろう。
 問いかけようとして、やめた。そんなの理由はひとつだ。
 一保さんの首筋に痕をのこした、「同僚の男」が彼なのだ。
「……」
 気がついてすぐ、反射的に立ち上がって後を追おうとした。でも一保さんが強くおれの腕をつかんで、ぐいと引き寄せたから、心がくじけてしまった。
「お詫びにおごるから、忘れてくれ」
 目を合わせようとしない一保さんの横顔は、反論を許さない頑なな様子があった。
「……じゃあ、おれもハープをください」
 ひとまず落ち着こうと、ばれないようにそっと深呼吸をしてビールを飲んだ。はじめて飲むハープラガーは、飲み慣れているビールよりも軽くて、あっさりしている。
 となりの一保さんを時折盗み見る。さっきのやりとりのせいだろうか、視線がこちらに集まっているのを感じた。
 彼がいると、三嶋先生とは違った意味でひとから注目される。ころころと変わる表情は整った容姿に隙と愛嬌を添えて、おもわず微笑んでしまうような力と、光に満ちている。
 妖艶な魅力をもつ三嶋先生が月なら、一保さんは太陽だ。
 彼がはじけるように笑えば、みんなつられて笑ってしまう。
「あんまり飲んだらよくないなあ」
 野中さんは酒に弱いのだ。匂いで酔ってしまうかもしれない。
 独りごとのつもりだったけれど、一保さんはこちらを振り返って嬉しそうな顔をした。野中さんのことは何も知らないはずなのに、旧知の友のように。
「おれに会わせたいって子、女の子だろ。そんで、お酒苦手なんだろ」
「どうしてわかったの」
「だから、何度も言わせんな。おれは未来人で超能力者でイケメンバリスタだ」
「増えてるし。設定に無理がありすぎるよ、そんな映画はヒットしないよ」
「なんならアクションシーンも追加するか?」
「二丁拳銃ぶっ放したりして?設定盛りすぎだね、ハリウッド映画でもみたことない」
 ふふん、と笑って顎を上げた一保さんの小生意気な笑み。ちくしょう、かっこいいのにたまらなくかわいいからくやしい。天使か。天使な小生意気か。余談だけどあのマンガの主人公は本当に可愛かった。
 さっきまでの重い不快なきもちを忘れておれが笑うと、一保さんもにこにこした。ここは人前だからできないけど、今すぐ抱きしめたい。
「あんたがカズホ?ふ~~~~~ん……」
 気分良く話しはじめたところで、さっきのリスくんがやってきて一保さんの前に立ち、じろじろと品定めしてきた。なんだか今日はいろんなところで火がついたり消えたりしているけど厄日かなにかだろうか。
「思ってたよりフツーだな」
「なんだよ、誰だよ」
 一保さんが片眉を上げ、不満そうに応じる。
「リスくん、つらいからって人に絡むのはよくないです」
「誰がリスくんだよ、変なあだ名つけんな!」
 足でフロアをふみつけて、一保さんに挑発的な視線を向けた。
「最近そうちゃんが店に来るようになったけど、その原因ってあんただろ」
 一保さんは不機嫌そうな顔でグラスを置き、リスくんのほうへとイスを回転させて向き合った。
「どういうことだ」
「だから、あんたのことが好きだったんだろ、そうちゃんは」
「なんでそんなことを初対面の奴に言わなくちゃいけないんだよ」
「悩んでたよ。ずっと好きで、あきらめられないって。ほかの男でも抱けるかと思って、店にきたって。でもあんた以外の男には全く興味がないんだって言ってた」
「…………」
 苦しそうにうつむいた一保さんの横顔に、足元がざわざわした。その顔には、「本意ではない相手に思われて迷惑している」という感情は見あたらなかった。むしろ、少し心が動いているようにみえた。
「そうちゃん、泣いてた」
 リスくんはそう言って、お勘定をして店を出て行った。
 マスターが軽くため息をついた気がしたが、カウンターの中をのぞいたときには元の無表情に戻っていた。
 しばらくの間、一保さんは黙ってグラスを傾けていた。おれは音楽に耳をすませた。外はまだ明るいのに、店内は薄暗くて、時間が止まったような感じがした。
 野中さんが家にくるまで、まだ2時間はある。
 ふたりで話したいことを、いまのうちに聞いてしまおうと思った。
「あのさ……前に、あなたのここに、痕を残した人って、彼だよね」
 自分の首を指さして、一保さんに問いかける。彼は指先をじっと見つめ、目をそらす。
「答えたくないなら、いいんだ。でもずっと気になってることがあって。おれと、一保さんは、最近会ったばかりだよね。なのに、どうしておれはあなたのことを前から知っているような気がするんだろう」
 それに、と言葉を切って、ビールを飲みきる。バーテンダーが反対側へと離れたタイミングを見計らって、おれは小さい声で言った。
「どうして、あの日……、好きな人がいるって、言っていたのに」
 誘ったのも、引きずり込んだのもおれだ。
 分かっている。
 でも彼が拒否しなかった理由が気になって仕方がない。
 おれの質問に、一保さんが顔をあげておれをみた。その眼はどこか怒っているように見えて、息をのむ。
「じゃあ聴けよ。今日はその話をするつもりだったんだ」
 空になったグラスをぐいと押しやり、目を合わせてくる。
「……おれがお前に会ったのは、最近じゃない。おれには特殊な力があった。いわゆるタイムリープってやつだ。過去を何度かやり直して、その中で星野成一と出会った。でもおれはどうしても変えなきゃいけない過去があったから、お前と出会った未来を捨てて、過去に戻った。いまここにいるのは、4度目の「やりなおし」を経た、5回目のおれだ」
 信じるか?
 そう言って挑発的に笑った一保さんに対して、おれは眉を寄せて反論した。
「なんで冗談でごまかそうとするの、おれは真剣に言ってるんだよ」
「おれだって真剣に言ってる」
「そんなの、信じられるわけないよ」
 おれがきっぱりと言い切った声に、彼はーーとても傷ついた顔をした。そして、言いづらそうにぎくしゃくと吐き捨てた。
「じゃあ、何を言ったって同じだろ」
 一保さんが投げやりな言葉と一緒に立ち上がって、お勘定をすませてしまう。背を向けて店を出て行く背中を慌てて追いかけたが、エレベーターは先に1階へと降りてしまって、走って階段で駆け下りた。駅前のロータリーを歩いている一保さんをみつけて、後ろから腕をつかんで引き寄せる。
「待って、どこいくの、最後まで話をきかせて」
「お前んちに行くんだろ。話すことはもう何もない。おれは嘘をついてないから、成一、お前が信じるか信じないか、それだけのことだ」
 腕を振り払い、こちらをにらみつけてくる一保さんの目は、怒りでまなじりがつり上がっていた。うっすらと目尻に赤みが差しているのは、きっと憤りを押し殺しているからだろう、と分かるのに、おれは少し興奮してしまった。彼の、怒っている顔がとてもきれいだと思った。
 歩くと15分以上かかるおれの家に向かって、一保さんはずんずんと、前のめりで歩いていく。一度しか来たことがない(それも、彼はバイクの後ろに乗っていた)のに、よく覚えているな、と思ったけれど、どうして彼がおぼえているのか、そこまで考えがいたらなかった。

 

 

 冷たい風に、お酒を飲んで火照った頬があっという間に冷えていく。
 自宅についた頃には、ほとんどアルコールは抜けていた。彼を部屋に招き入れ、縁側へと続く窓を開けて、空気を通してから閉じた。
 傾きはじめた日差しに、冬の足音がすぐそこまで迫っていることに気づく。黄色みを帯びた光が、縁側のガラス戸を通り抜けて、居間に座っている一保さんの髪を縁取る。
 ステレオの電源をつけると、入れっぱなしになっていたCDが再生されて流れはじめる。あぐらをかき、うつむいていた一保さんが、そのメロディに顔を上げ、小さく「shine……すきなのか」とつぶやいた。「うん、この歌を聴くと、なんかこのあたりがざわざわするんだ」とおれは答えて、彼の前にあたたかいコーヒーを置いて、隣に座った。
「このあたりって」
「胸のあたり。息が苦しくなる…」
 言い終わる前に、胸を押されて仰向けに倒れ込む。あぶないよ、と言い掛けた口は、彼がのしかかってきて塞がれてしまった。彼のくちびるから、コーヒーの味がする苦い舌が差し込まれ、押し返そうとした腕はすぐに自分の意志を裏切って、彼の背中にまわり、髪をなでて、強く抱き寄せてしまう。閉じたまぶたと苦しそうに寄せられた眉を、指でそっと撫でる。そのまま、頬をなぞり、耳のかたちを確かめた。
「一保さん」
 名前を呼び、制止しようとしたおれをみながら、彼は上半身を起こして電気を消した。それから、着ていた服を脱ぎはじめ、あっという間に裸になった。自然光にさらされた彼の身体は、鍛えられていて無駄がなく、とても美しかった。
「いま、言葉なんか意味がない」

 だってお前は信じないんだから。

 そういって、彼はおれの足の間に顔を埋め、すでに反応をしはじめているものを指で撫でた。ボタンを外し、下着からそれを取り出し、ためらいなく顔を寄せる。
「ちょっと、一保さんっ……、う、」
 高い鼻梁のつめたい感覚が、竿の根本、敏感なところに触れてふるえてしまう。指はゆるゆると幹をこすりあげ、舌とくちびるが何度かそこにキスをしてから、深く口の中へとおれのものを飲み込んでいく。
「…なんで…?」
 伏せたまつげが長い。猫みたいな形の目は、こちらをみようとはせず、うつむいたままだ。
 舌が先を押し開くように、ぐりぐりと当てられてのけぞる。気持ちよかった。両手を後ろにつき、足を開いたまま、おれは彼が奉仕する姿を呆然と眺めていた。黙ったまま、息だけが興奮で上がっていく。
「成一」
 声と一緒に、彼がこちらを見上げた。その眼に、興奮と一緒に這い上がってきたのは、わずかな苛立ちだった。
 経験がない、と言っていたはずなのに、どうしてこんなことができるんだろう。彼のくちびるも舌も、確実に男の身体を知っている。だからこそ巧みにおれを追い上げ、そのことに苛立ちを覚えてしまう。
 経験があることを嫌悪しているわけじゃない。そんなの、おれだって女性とは少なくない人数と寝ている。
 でも、彼のことなら何でも知りたい。嘘をつかないでほしい。
 嘘をつくような人じゃない、と分かっているけど、彼が本当のことをすべては言っていないことは明らかだ。そのことが、とても哀しい。
「もう、いいから……、でちゃうから、はなして」
 肩を押して突き放そうとしたけれど、彼はいっそう強く、硬くなったおれのものを吸った。苦しそうな顔で、のどの奥までおれのものを飲み込む。
「う、……」
 目の前が真っ白になる。息が止まって、上り詰めたあとで急降下した。
 自分の荒い息がひとごとのようだった。けだるい身体は、膝を開いて座り込んだまま動かない。
 一保さんが唾液でぬらぬらと光るおれのものから顔をあげて膝立ちになり、見下すような強い視線のまま、ごくりと飲み込んだ。――たぶん、おれの精液を。
「飲んだの!?そんな、なんで」
 慌ててティッシュを掴んで彼の口を拭うがもう遅い。「苦っ、」とつぶやいてから眉を寄せた一保さんの視線が、舌なめずりしてからおれを射抜く。
 背筋がゾクリとした。見に覚えのない欲情だった。
 これまで生きてきて、こんなにも乱暴で、一方的な欲情を経験したことがない。もともと、フェラチオされるのは苦手だった。気持ちがいいのは知っているけど、「そんなところ舐めさせるなんて…申し訳ない」という気持ちのほうが強かったのだ。本気で好きな子であればあるほど、させられないと思っていた。
「気持ちよかっただろ?ならいいじゃん」
 冷たく、低い声でそう言って、彼はおれの胸ぐらをつかみ、引き寄せた。下半身が半分露出している間抜けな格好のまま、おれは彼を床に組み伏せる。仕組まれたのは確かだけれど、今となってはもう、どちらが始点か分からない。
 裸の太腿をなで上げ、そのまま伸び上がってキスをした。自分の精液の味を感じても、止めることができない。舌を差し入れると、彼の熱い舌が間髪をいれずに絡まってくる。
 呼吸すらままならないキスにふたたび息が上がっていく。すでにCDは止まって音のない部屋の中で、お互いの吐息と、みだりがましい水音だけが響く。
 理性がかすんでいく頭の中でも、このまま畳の上で抱いたら彼に怪我をさせるな、ということだけは頭のすみに引っかかった。だから、彼を両手で抱き上げてソファにのせた。自分は服を着たままだ。裸の一保さんをソファの上に四つん這いにさせ、後ろから覆い被さった。
「…なんで、なにも言ってくれないの?」
 自分でもびっくりするぐらい、頼りない声が出てしまって、ごまかすために一保さんのうなじに顔を埋めた。前におれがつけた痕は、もうすっかり消えている。忘れて欲しくなくて、自分のものだと言いたくて、今度は同じ場所に歯を立てた。
 一保さんはびくりと震えて、微かな声をあげた。吐息混じりの、哀しげな声だった。
「だって信じないんだろ」
 かすれた声で、彼は言った。
「ずっと探して、やっと会えたのに、お前はやっぱり、」
 日なたの匂いがする彼の身体。背中にキスを落として、耳朶を甘く噛んだ。
「おれの知ってる、成一じゃない」
「……やめてよ、おれはここにいるだろ!」
 頭に血が上って、声を荒げるのを必死でこらえた。けれど手のひらはやさしくできなくて、興奮を伝えてくる彼のものを、強く擦った。
「誰みてんの?ねえ、一保さんの心にいるのは、本当にあなたを初めて抱いたのは、誰なの?」
 すぐに濡れて反応を返してくる身体と、どこか冷たく覚めたままの彼の眼、そのギャップに、胸が引き裂かれそうだった。
「おれは、なんのために…もどったんだろ。…ちばを、助けて…、でもそれだけじゃ、つらい…ほんと、は」
 聞こえてきたのは、途切れ途切れの声だ。泣いているかと思ったけれど、顎を引き寄せてキスをした彼の眼は、濡れていなかったし、赤くもなかった。ただ傷ついていて、おれも同じぐらい痛みを感じた。
「成一がちがうんじゃ、ないんだ。おれが、異邦人なんだ。この世界にいることが、間違いなのはきっと、……おれだけなんだ」
 どうして、セックスしているのにこんなに遠いんだろう。心が乾いていくんだろう。苦しそうな顔や快楽を我慢する顔にたまらないほど興奮しているのは確かなのに、ひどく空しかった。
 指の動きを早くすると、一保さんは身体をぶるりとふるわせて声を上げた。腰にくる、甘い声だった。
「うあっ、あ、……いく…」
 彼が達している最中に、おれは自分の指を舐めて濡らし、後ろへと差し込んだ。指を性急に二本に増やして、奥の気持ちのいい場所をぐりぐりと押す。くにゃりとソファの上に崩れてしまった一保さんの腰を持ち上げ、立ち上がってゴムを取りに行き手早くかぶせてから、一気に根本まで挿入した。両腕を持って後ろに引きながら乱暴に腰を押しつければ、こらえきれない嬌声がくちびるからこぼれ落ちた。
「ああっ!せいいち、…いってるのに、ひどい、あ、ああ」
 汗がぽたりと彼の背中に落ちる。涙が出そうで、首を振って紛らわせた。額から汗が飛び散る。彼の腕も汗ばみ、掴んでいるとすべって上手く力が入らない。手を離して腰を抱え直し、音がなるほど激しく抜き差しした。肌のぶつかる浅ましい音。一保さんが無意識のうちにその場を逃れようとするのを、何度も腰を抱いて引き寄せ、執拗に穿つ。
 赤くなった背中と、閉じられたまま、こちらをみようとしない彼の眼。
 本当はやさしく抱きたい。
――違う。その前に、もっとあなたのことが知りたい。
 言えないのは、彼が見ているのがおれじゃないから。それなら好きになってもらうように頑張ればよかったのに、はじまりを間違えてしまったばかりに後戻りできなくなった。
「一保さん、……こっち、みて」
 いく直前、彼の頬を撫でながら請う。
 涙か汗か、分からないもので濡れている彼のまぶたがうっすら開き、ソファに押しつけられていた顔が、こちらを向いた。猫のような眼が、おれの心を深く深く差すようににらみ返してくる。美しい眼だった。怒りに満ちているようにみえた眼は、「成一」と名前を呼んでからほんの一瞬、やわらかく微笑んだようにみえた。
「……!」
 強く腰を押しつけてから、脱力する。どすん、と音をたててソファにねそべってしまった一保さんの背中に折り重なって、そのままつむじにキスをした。
 お互いの身体が汗で濡れ、途方もなく熱かったのはほんのつかの間で、彼はおれの下からぬけだし、「シャワー借りる」と言って浴室へと消えてしまう。
 ソファに仰向けになって、縛ったコンドームをしばらく眺めた。
「どこで間違えたんだろう」
 殴り合いみたいなセックスに、身も心も疲れ切っていた。こんなことがしたいわけじゃないのに。
「くそっ」
 ティッシュでくるんで、使用済みコンドームをゴミ箱に投げた。あと30分もしたら野中さんが家に来るから、それまでにゴミをゴミ捨て場に持って行って、部屋の空気を入れ替えなければいけない。分かっているのに、身体が動かなかった。
 1回目もそうだった。彼とのセックスは、しびれるほど気持ちがいいのに、反動でひどく落ち込み何もしたくなくなる。
「一保さんに、優しくしたいのに」
 ほかのひとはどうでもいい。あなたにだけは、誰よりも優しくしたいと願っているのに。どうしてそうさせてくれないんだろう。
 シャワーの音が聞こえる。
 頭痛がしてきて、ひとまず何もかも放棄して眼を閉じることにした。10分だけ眠ろう。そう決めてまもなく、鉛のように重い眠気が頭の奥からやってきて、意識をプツリと閉ざしてしまった。
 だから、気付けなかった。彼が置手紙を残して帰ってしまったことや、それが深い後悔のはじまりだということにも。