第7話

 その男に「逃げたいなら手を貸すぞ」、と言われたとき、
 はじめて「逃げる」ということを考え始めた。

※※※

 枝が折れる音に身をすくめる。音を鳴らすな、と厳格な顔で父が振り返った。また失敗してしまった、と落ち込みかけたとき、母が地面にしゃがみ込んで土を触った。
「足跡がある」
 当然だ、という顔で父が周囲を見回す。罠を仕掛けた場所が近いため、父、母、それに弟とおれの四人は、足音を立てないようにそっと近づいていく。
 荒い息が聞こえる。成功したらしいと気づいた弟は嬉しそうに拳を握りしめていた(今回は弟が仕掛けた)が、おれは憂鬱になった。このあたりでは農作物の被害もないし、捕まえることに正当性が感じられない。
 くくり罠で捉えられた鹿は、その場から逃れようともがいていた。潤んだ黒い目がおれを見ている。先に歩いていた父が、おれの動揺と嫌悪感を敏感に察知してナイフを渡してきた。
「お前がとどめを刺せ」
 嫌だ。心の中で拒絶したが、父に逆らう勇気はなかった。黙っていると、父がおれの手を無理矢理開いてナイフを握らせた。

「岳斗、お前がやるんだ」
 

 物心ついた頃から定住せずに森の中を放浪していたが、理由は定かではなかった。父は元々勤め人だったらしいし、母は専業主婦だったときいている。何か強いストレスがあったのか、逃げたい理由でもできたのか、ある日を境に父母は家を持たない暮らしを決意してそこに子どもを巻き込んだ。
 日本は「居所不明児童」の調査が義務づけられている国だと、成人してから知った。だとすれば、おれたちに対する行政の対応はずさんそのものだったんじゃないか。おれも弟も、住民票は東京都のN市においたまま両親に連れられて失踪しており、真剣に捜索してくれれば、もっと早く就学できたのではないか、と悔やまれる。
「自然は何よりも強く信頼できる神だ」というのが父の口癖だった。自給自足と狩りで生活をさせられたおれや弟はたまったものじゃなかったが、およそ7歳ごろに宗教団代が運営している施設に入ることができたのは、まだ不幸中の幸いだと感じた。――入ってしばらくの間は。
 その施設は山の中にあった。ある種の新興宗教であることは、子どものおれにさえ分かったのだが、両親はあっという間にその教祖と教えに心酔してしまい、世界各地にある教団の施設を自由に利用する権利と引き換えに、もっていた財産や土地家屋、すべて教団に投げ渡してしまった。
 おれと弟は、教団内にある施設で生活をしながら、近隣の小学校へ通うことになった。山の中にある教団施設からもっとも近い学校まで、毎日1時間半も歩いて通学した。自転車通勤が許されない学校だった。
「また北くん遅刻!早く席に座りなさい」
 たびたび遅刻する上に、まるで欠食児のように給食をがっつくおれたちは、常に問題児扱いだった。
 自分達以外にも、教団から通っているこどもたちは数十人存在していた。教団内ではさまざまな規律があり、それを守らなければ罰が与えられた。そのもっとも多い罰が朝食抜きだったため、おれたち教団の子どもは常に腹を空かせていた。

※※

「相変わらずすごい勢いで食べるね、飯は逃げやしないよ。ちゃんと噛んで食べな」
 カン、とキセルから灰を落とした祖母が、嫌そうな顔で指図する。おれは背筋を伸ばして、くせになっている早食いを改めた。ゆっくりとって、ゆっくり食べる。大丈夫だ、誰も盗らないし、取り上げられたりしない。食うのが遅いからといって、懲罰房に放り込まれたりもしないのだ、と自分を説得する。
「ケガは」
 祖母の言葉はいつも簡潔でわかりやすい。口の中のものを飲み込んでから、目の前の祖母をじっと見た。個室になっている豪華な料亭の食事は確かに美味いはずなのに、なぜか汀と一緒に食べたピザが恋しくなった。庭でつんで適当に切ってのせただけの野菜、それを面倒そうに焼いた、汀のピザが。
「もう良くなった。……下りが上手く乗れないだけで」
「怖くなったか」
 からかうような声に俯く。そうなんだろう、たぶん。
「そうかもしれない」
 祖母はふたたびキセルから煙をすいこみ、ふわふわと天井に向かって吐いた。相変わらず、全身オシャレの着道楽だ。高そうなネックレスが、控えめな照明を反射して鈍く光った。
「おおかた、落車自体が味方の嫌がらせなんだろう。アジア人の活躍が目障りなんだろうね」
 身体が揺れた。誰にもいっていないし、誰も知らないはずなのに、なぜ祖母はそれを。
 おれの顔をみた祖母は、掠れた声で言った。
「そりゃあ嫌がらせされるさ。自転車競技なんて白人の世界なんだから。アジア人のアシスト風情が調子に乗るなってね」
 練習中に、それも下りに落車したのは、ブレーキに細工が施されていたからだ。バイクに小細工なんて出来るのは味方以外にいない。つまり、チームメイトかメカニックの誰かがやったということだ。
 おれはそれを誰にも言わなかった。言えば、犯人捜しが始まって大問題になっただろう。実力で認められてからは差別らしきものはなくなったと油断していたが、結局おれはよそ者で、イギリスのチームにはイギリス人のエースとその活躍しか求められていないのだ。
 有色人種なら、それこそカラパスやベルナルぐらいの実力がないと、誰も認めてくれない。『古き良き』白人の世界、それがロードレースだった。
 自分で選んで飛び込んだのだから、傷つきはしない。ただ落胆した。気に入らないなら、正々堂々と勝負を挑んでくれば良い。山でも平地でも、実力で勝負してやったのに、こういう手段をとることしかできないなんていっそ哀れだと思った。
 それに――もっと痛いことや苦しいことは、これまでの人生でいくらでもあった。破傷風になって死にかけたときよりもずっとマシだし、熊と距離数メートルでにらみ合った山の生活よりも、ずっと安全だった。自転車の死は一瞬だ。生きたまま熊に食われるよりもずっといい。
 そうだ。それなのにどうしておれは、下りが怖いんだ?
「精神的な恐怖は、どう克服すればいいんだろう」
 もっと痛いこと苦しいことを知っている。実の親から何度も「愛の教えだ」と叫びながらベルトで殴られる、食事を抜かれる、真っ暗な懲罰房に何日も閉じ込められることのほうが、もっと苦しいはずだろう?
「肉体の痛みを脳が記憶して怯えているんだ。あんた以外にどうしようもないさ」
 身も蓋もないことをいってから、ひとつあるね、と突然祖母が笑った。
「恋でもしたらどうだい。気分転換になる。あんたは誰か愛することを覚えたほうがいいだろうね」
 恋。どう考えても自分には難しすぎる。他人とまともに話すこともできないのに。
 広い和室から、中庭の紅葉が見える。色が変わりつつある整えられた日本庭園の池に、激高した汀の顔が映って消えた。

 祖母と松山で別れ、自走して世話になっている「オーベルジュ ソワレ」に戻ると、オーナーシェフの伊里(いざと)さんが困った顔でおれを待ち構えていた。
「岳斗くん、参ったことになったよ」
 まだバイクの整備や収納も終えていない入り口のところで、彼女はそう言って首を振る。
 彼女の「参ったことになったよ」は面倒なお願いの前によく使われる常套句だ。自身も学生時代は自転車部に所属し、おれの熱狂的なファンだという伊里シェフは、何かにつけて頼み事をしてくる。
 とはいえ、彼女の厚意によってほとんど無料で泊めてもらっている以上、「お願い」も無碍にはできない。
「どうしました」
 またがっていたバイクから降りてヘルメットを取る。サイクルジャージの背中にいれていたミニタオルで顔をふいている間も、じっと見つめられていて落ち着かない。
「知人が地元のタウン誌でライターをやってるんだけどね、」
 先が読めてしまった。
 ため息をつきたい気持ちをおさえて、淡々と声を出す。
「伊里さん。今は休んでいますが、おれはまだルアフに所属しているんですよ。テレビや雑誌などの露出は全部エージェントを通してチームの許可がいるんです」
 ジビエになる野性動物の猟ならいくらでも手伝うが(彼女自身もかなりの腕の持ち主だ)、自転車に関することなら話は別だ。
「そうだよね、うん、分かってるんだけど。いや、そうじゃなくてね。一度話してみてもらえない?」
 おれがじっと目を見ると、彼女は視線をふらつかせ、落ち着きをなくし、頬を紅潮させてしまう。はじめのころは何かおれに問題があるのかと思ったが、「推しと話すときは、みんなこうだよ」と目をそらしたまま言われたので、よく分からないがそうなのか、と気にしないことにした。
「何をでしょう」
 コックコートの裾で何度もごしごしと手をふいてから、ようやく彼女は顔を上げておれを見た。
「しまなみでレースがあるんだよね、今度。それに出てもらえないかな?」
 さっきの話をきいていなかったんだろうか?おれはこめかみを押さえたまま声を絞り出した。
「伊里さん……」
「わかってるよ、無理かもって!でも交渉だけでもしてみてもらえないかな?だって間近で岳斗くんのレースを観られるなんて、それも日本でなんて、今後一生ないかもしれないから。きっと日本の自転車競技界にとって、相当大きい影響を与えることができると思うんだ」
 おれには女性の顔の良し悪しがいまいち分からないし、女性として彼女を意識したことはないのだが、一生懸命に自分のファンだと伝えてくれるのはとても嬉しいことだった。
「谷治さんのところの汀くんも出るって。本人は嫌そうだったけど……仲いいよね?」
 突然汀の名前が出てきてうろたえてしまった。汀とは、あの日からずっと会っていない。
「別に仲良くはないです」
 バイクを押して入り口に入ると、後ろから伊里さんがついてきた。
「けんかしちゃった?汀くん少し軽薄なところあるけど、優しくて面白くて、良い子だよ」
 ――軽薄で尻軽だけど、優しい人間。それは良い人間だとは言えない。マイルドなクズじゃないのか。
 内心でそんな風に汀を蔑みながらも、汀のことを常に考えている。頭のどこか隅に居座っていて、何をしていても頭をよぎる。
「ごめん、余計な口出しだったね」
 豪華なオーベルジュを成功させている名うてのシェフだというのに、伊里さんは小柄でふわふわとした外見をしていて、今もこんな風に腰が低い。柔和で上品な人なので、汀とよく分からない関係になった挙げ句にもめた話など、とてもきかせることはできない。
 建物の中はふわりと白檀のような香りがただよっていて、モダンなデザインの内装を間接照明が薄く照らしている。普通に泊まるととても高い宿なので、今のようにずっと厚意に甘えるのは申し訳ない。何度も料金を支払おうとしたが、そのたびに断られて今にいたる。そろそろここも出るべきかもしれなかった。
「エージェントに話してみます。自転車の宣伝ができれば可能かもしれないですが……休養中ですし、ポイントのつかないレースなのでチームにメリットが少ない。あまり期待はしないでください」
 部屋に入る直前にそう伝えると、彼女は花が咲いたように笑った。
「ありがとう!」
 ドアをしめる直前まで彼女は頭を下げていたが、そこまでしてもらえる理由が不明で困惑が降り積もった。やっぱり早くここを出なければいけない。

***

 海と空の境目がわからないほど晴れている。
 久しぶりのサイクルレースだった。いや、正確にはレースではない。ファンライドイベントなので、アマチュアがメインのイベントだ。
 初心者も楽しめるよう、いくつかコースが分かれていたが、一番距離の長い140キロの往復コースにした。これでもプロなので、惨めなレースをするわけにはいかない。
 強い風が吹いて、ぎっしりと並んでいるサイクリストたちを揺らす。高速道路を走ることができるサイクリングレースなんて日本中さがしてもここぐらいだ。参加者たちは、まだかまだかと出発の合図を待ちわびている。参加費が2万近くするので決して安くはないのに満員なのは、このコースが魅力的だからに他ならない。

「うわっ、北選手だ。マジかよ」
「いまこのあたりにいるって本当だったんですね」

 近くにいたファンにさっそく声をかけられた。ペコリと頭を下げる。彼らの顔には、「アマチュアレースにプロが参加するのはありなのか?」という疑問が見て取れた。それは自分でも思う。だが恩人の頼み事は断れない。
「お手柔らかにお願いします」
 おれの言葉に、彼らは目を見合わせてから大声で笑った。
「こっちの台詞でしょ、それ」

 今治インターチェンジを出発地点として、因島までは一般道ではなく高速道路を走る。それがこのイベントのすごいところだ。大規模な交通規制をし、サイクリストたちを気持ちよく走らせる。
 出発の合図がきこえた。つづいて先導車がクラクションを鳴らす。
 せめてものハンデに、とかなり後方に位置しているので、おれはまだ出発できない。ぎっしり並んだロードバイクが橋の上を進んでいく様子をぼんやり眺めていると、その中に見知った背中を見つけてしまった。
 バヂッ、とクリートがペダルにはまった音がした。頭よりも先に身体が動いて、驚きながらペダルを漕ぐ。目の前に見える、細身の、だが無駄のない筋肉で引き締まった背中を追いかけ、あっという間に隣につけた。
「……プロがアマチュアレースに出るんじゃないよ、マナー違反だろ、みろよ周り」
 汀の声だ。
 嫌そうな声は柔らかく穏やかだった。不思議なことに、二週間ぶりの雨を待っていた植物のような心地がした。
 彼はおれや他のサイクリストと同様に、サングラスをしていた。したがって、あの魅力的な目をのぞき見ることができなかったが、薄くひらいた唇はいつものように皮肉めいた笑みを浮かべていた。
「パトロンのような人に頼み込まれて、断れなかった」
 舌打ちがきこえた。サングラスをしているのをいいことに、白い歯の隙間から見えた赤い舌を、ついじっと見つめてしまう。
 スマホを向けられた気配がして、周囲を見渡す。幾人ものサイクリストが、ハンドルを握ったままスマホでおれの写真を撮ろうとしていた。
「危ないのでやめてください。ゴールしてからいくらでも一緒に撮りましょう」
 少し大きい声を出すと、皆バツが悪そうに携帯端末を仕舞う。
「お先に」
 その隙を狙ったかのように、汀がスピードを上げてみるみるうちに集団を抜けていく。おれは大きく息を吸い込み、その後を追った。

 

 すでに何度かしまなみは往復したことがあったが、さすがに高速道路を走ったことはなかった。ロードバイクで走行するには最高に快適だ――あくまで日本においては――、とかみしめながらペダルを踏む。日本は、ほとんど自転車専用道が整備されていないため、こういったレースは貴重だ。欧州ではたくさんの自転車専用道があって、坂道も少ないのでもっとロードバイクが一般的なのだが、あくまで日本においては。しまなみは「すすんでいる」場所だ。
 潮風はひんやりとしはじめており、秋から冬へ移り変わる準備をしていた。橋を渡る場所以外は基本平坦な道なので、眠っていても前に進む。
「いつまでついてくるんだよ、このストーカー野郎ときたら」
「ついていってるワケじゃない。おれが行く道にお前がいるだけだ」
 汀は心底嫌そうにため息をついた。
「全く息も上がっちゃいないね。嫌味か?ああ神様!どうか鋭い釘を踏んで岳斗の嫌みったらしいルアフの最新バイクがパンクしますように」
 横から眺める汀の表情は、さきほどよりも穏やかだった。
「併走するな。危ないだろ」
「なら抜いていこうか?」
「やってみろよ」
「お先に」
 さっき言われた台詞をそのまま返して、ペダルを強く踏み込む。突然上がった速度。真後ろで汀が殺気を放つのがわかって、おれは久々に楽しい気持ちになってしまった。

※※※

 意外にも、汀はしつこく食い下がってきた。
 他のサイクリストは早い段階でちぎれてしまったので、実質的に汀とおれの一騎打ちとなった。
 島と島をむすぶ橋がくるたびに坂を駆け上がり、気持ちよく橋の上を走るのだがそれは一瞬で、すぐにまた下りがきて、しばらく平坦が続いてまた登る。その繰り返しを、ずっと汀と走り続けた。
 時々順位が変わったけれど、ほとんどおれが前を走った。つまり風の抵抗は一手におれが引き受けているわけで、本来なら先頭は一時間おきぐらいで交代してほしいのだが(ロードレースでも、プロトンを飛び出したグループは敵チーム同士であっても先頭を定期的に交代しながら進む暗黙のルールがある)
汀にそれを求めるのは酷な気がして言い出せなかった。
 いや、言い出さなかった。おれは別に、疲れてもかまわなかった。汀がちぎれてしまってひとりで走るぐらいなら、自分が風の抵抗を全部受けてもいいと考えていた。
 吹き出す汗が顎先から落ちる。涼しくなったはずなのに、正午近くなると日差しが強い。鼻先がヒリヒリした。日焼け止めを塗っても、汗で落ちてしまう。そこに潮風が、しみるように痛い。
「クソが。化け物じゃあるまいし。下りが苦手なんじゃなかったのかよ」
 汀が罵倒するのがきこえた。化け物。おれのことだろうか。そういえば、チームメイトからもよく「体力が化け物じみている」と言われた。それは多分、疲れないわけではなくて疲れに鈍感なだけだった。疲れた顔をすることもそうだが、ネガティブな感情を表に出せば、「あなたに愛をもって修正を加えなければ」といってベルトで叩かれるからだ。常に何食わぬ顔をしていなければならなかった。その癖だ。
「本当のところ、化け物じゃないから疲れてるよ」
 そう言って少し速度をゆるめると、汀が前に出た。すれ違いざまに「先頭交代しなくて悪かったな」と謝られる。こういうところは育ちが良いというか、悪ぶっていても人格の甘さが出ている。
「疲れてるようには見えない。さすが、本物のプロは違うな」
 嫌味だろうか、と表情を伺ったが、サングラスのせいでよく分からない。口元は淡く笑っている。
「下りはまだ怖い。前のようにはいかない」
「マジで。あれで?相当怖いけどお前の下り方。命惜しくないのかって思ってたけどな」
「前までは本当に何も考えずに下ってた。ノーブレーキで」
 下りが苦手な選手は多い。おれはそこが強かったので差をつけることができたのだ。
 人間である限り、本能的な恐怖感を克服するのは難しい。おれは「死を恐れない奴」だと言われていた。実際にはたった一度のケガで下りが苦手になってしまったが。
「ヤバい奴だな」
 斜め後ろから、汀のところせましと並んだピアスホールを眺めた。自分を痛めつけるみたいに、耳中にあけられているそれを観ていると、ベッドであれをひとつずつ舐めたいな、と想像して欲情しそうになり危なかった。
「疲れたとか、痛いとか、嫌だとか。感情を表に出すと殴られる環境だった」
 言ってからすぐに後悔した。こんな話をされても困るだけだろう。何も考えずに発言してしまった。
「え、なにそれ。チームの話……じゃないよな。カルトにいた頃?」
「そう」
 汀はしばらくの間、何も言わなかった。息づかいだけが聞こえてきた。それに、チェーンの音。小気味良い音だ。強い日差しの合間に、鳥の鳴き声がきこえる。あれは確か、「サシバ」だったか。
「お前を殴りたくなる気持ちは多少理解できるけど、感情出したぐらいで殴られちゃたまんないね」
 言葉の割には真摯な声で、汀が言った。おれは笑った。我ながら嫌な感じの笑みだっただろう。
「汀のように、楽しくなくても笑う才能があればなんとかなる。『修正』されるのはネガティブな感情を表に出したときだけだし」
 前から腕がのびてきて、ヘルメット越しに頭を殴られた。ぽこんと間抜けな音がする。
「話をきいてほしいときは、素直に「きいてくれ」って言えよな、ガキが」
 その言葉に驚いてから、すとんと腑に落ちた。
 ――そうか、おれは話をしたかったんだ。きいてほしかったんだ。
 他ならぬ、汀に。
 優しくもない、友達でもない、きっと好意なんてかけらももたれていない。自分のこの感情も好意かどうか分からない。
 それでも、|谷治汀《やじなぎさ》に聴いてほしかった。自分の話を。もっと話してほしかった。彼の話を。
 黙ったまま波の音に耳を澄ませる。引いては寄せる波が、同じリズムで音を鳴らし続けた。
 身体をかがめ、ボトルホルダーからボトルを引き抜いて、汀はゆっくり水を飲んだ。もちろん自転車に乗ったままだ。競技時間の長いロードレースは、補給もトイレもすべて自転車の上で完結させる。
 岳斗、と名前を呼ばれて、耳を澄ませた。
「あの日は悪かった。本当のことを言われて腹を立てるなんて、ガキはおれだな」
 汀はいつも歌うように話すので、その言葉が本心なのか、それともこの場をおさめるためのものなのか分からなかった。でも嬉しくて、おれは声がつまった。
「こっちこそ、知ったようなこといって悪かった。ごめん。嫌だっただけなんだ」
「嫌?」
「汀が誰とでも寝るのが不快だった」
 少し間があいてから、お前が謝るなよ、と汀はふてくされた声を出した。
「罪滅ぼしってわけじゃないけど、話してすっきりするならいつでも、聴くだけ聴いてやるよ」と小さい声で言った。
「ただし、アドバイスとか優しい言葉は期待するなよな。そんな心の余裕も経験も技術も持ち合わせてないから。地面に掘った穴ぐらいにはなってやるよ」
 汀が薄く笑ったので、そのくちびるの形に見蕩れてしまった。汀は、見た目だけは疑う余地なく魅力的なのだ。美しいのにどこか危うさともろさがある。まるで弦楽器の弓みたいに。
「おれもききたい」
 ペダルに力をこめる。坂がみえてきた。坂を上り、また橋を渡るのだ。
「セックスばかりするんじゃなくて、汀のことが知りたい」
 身体の中が燃えて、力にかわって前にすすむ。自転車の、シンプルなところが好きだ。知ったばかりだけど、セックスと似ている。
 けど、それだけじゃ嫌だった。
「汀の言葉で知りたいんだ」
 上手く答えたり、相づちをうったりできないけど。そう言うと、汀は「それは期待してない」と笑い混じりに言って隣に並んできた。
 橋の下に広がる海が、太陽の光に照らされて地球のかたちと同じように丸く縁取られている。
「変な奴だな、お前は」
 強い風。潮の匂い。秋の気配が背中を押す。
「変かな」
 何も知らないままセックスするほうが変では、とおれは思ったが、何しろ初めてが汀なので比較対象がない。
「変だよ。何も考えずに気持ちよくなって、それで、すっきりしたらおれのことなんか忘れちゃえばいいのに」
 抜かされそうになって、スピードを上げた。ち、と舌打ちした汀が、おれを抜こうと後ろから迫ってくる。
 チェーンがまわる、きりきりとした音がした。