第8話

 正直にいって、レースは楽しかった。いや、正確にいえばレースではなくファンライドなのだが。
 やっぱり、自転車に乗るのが好きだ。おれにとって、あれ以上に気持ちがいいことはない。酒よりもセックスよりも最高だ。分かってはいたけど。
 けれど、その余韻に浸っている暇はなかった。
 レースが終わって、家に帰ったら姉が消えていたのだ。

「やじ温泉のことは、適任者に頼んであります」
とだけ書き置きを残して。

 適任者が誰なのか分からないまま3日が過ぎた。臨時休業でなんとかしのいだがそれも限界だった。
 姉の行方は杳として知れない。電話をしても使われていないという無機質な音声が流れるだけで、そもそも姉の交友関係を全く知らなかった。知っているのは婚約者だったセルジュぐらいだ。彼が生きていれば、姉の行き先はすぐに分かっただろう。
 だがもういない。おれのせいで。
 おれは頭をかかえた。

「まだ見つからないのか。もう三日だろう」
 警察に届け出たほうがいいのでは、と北は心配そうな顔をしたが、置き手紙があると警察は相手にしてくれない。成人している人間が、自分の意志で家を出たのだから、それは「行方不明」ではないのだ。
「親戚関係とか思い当たるところは全部当たったけどハズレ。パスポートがなくなってるから、日本にいないかもしれない」
 声が掠れる。これからどうすればいいのか、さっぱり分からなかった。途方にくれてばかりいられない。生活がある。自転車店を開けながら銭湯も経営するなんて絶対に無理だ。
 先日のファンライドのおかげで、店の知名度が上がって客が増えた。それはありがたいことだが、目が回るほど忙しい。出張修理、車体の納車、ライドイベント、とひとりではとても無理なので、最近アルバイトを雇うことを考えはじめたぐらいだ。
「しめるしかないかもしれない」
 よく晴れた空の下、銭湯の前の雑草をむしりながら、地面に向かってつぶやく。何も頼んでいないのに、同じように雑草をむしってくれている北が、こちらに視線を向けた。
「おれだけじゃ無理だ」
 情けなかった。あの親父が、包丁をもっておれを追い回した挙げ句勘当だと叫んでいた親父が、帰国して生活に行き詰まったときのために残してくれていた銭湯。おれのせいでしめるなんて。どこまで役立たずなんだ、と心の中で自分をあしざまに罵った。

「決めるのはまだ早いのでは?」

 俯いていた顔に影が差す。おっくうに顔を上げると、そこにいたのは――
「僕がここを頼まれたんだけど、ごめんね。来るの遅くなっちゃって。いやあ、サシバの観察がはかどっちゃってね、つい」
 元彼のひとり、『片桐先生』だった。

 そうか、サシバの「わたり」があるから来たんだな、と閃いたときにはすでにやじ温泉の中に入り込み、勝手に湯を沸かしてお茶をいれていた。いやあ喉がかわいたなあ、と朗らかな声で言いながら台所をごそごそと探し回り、茶を淹れ、ダイニングテーブルに座った片桐先生を見たまま、おれも北も呆然と立ち尽くしていた。
「誰なんだ」
「鳥類学者の片桐尊。本も出してる。……イタリアコンチ時代の知り合いというか、そんな感じ」
 おれのぼそぼそとした声がきこえたのか、片桐先生が立ち上がって大げさな身振り手振りで嘆いてみせる。
「……知り合い?冷たいな!あんなに深く愛し合ったじゃないか!僕の家で毎日のように貪りあったあの日々をもう忘れてしまったのかい?なんて薄情なんだ」
 いつの間に近づいてきたのか、両手でおれの右手を握り込んで顔を近づけてくる。
「薄情はどっちだよ、研究でどっかの島に行くから別れよう、じゃあさようなら、いますぐ出て行ってくれって言ったのはそっちの方だろ。いきなり言われて住むところにも困ったんだからな」
 のけ反りながらおれが言うと、片桐先生はひとさし指でおれの顎をひょいと持ち上げてにっこり笑った。
「相変わらず君はとてもきれいだ。あの蜜さんも、『おなじような顔なのになぜか弟の方がモテる』って嘆いていただけある」
 黙って見ていた北が、おれの先生の間に割って入ってきた。
「お姉さんの居場所を知ってるのか?」
 片桐先生は大げさに肩をすくめた。
「知るわけないじゃないか。人間に興味なんてないよ。頼まれたから来ただけだ、僕はこうみえてそこそこ忙しいからね」
 おれはたまった息を吐きだすように溜息をつき、北は苛立ったように唇を歪めた。
「そう、誰にだって興味を持たない。人間は疲れるから。僕はいつだってそうやって身軽に生きてきた。その生き方に疑問を持ったことなど一度もなかったさ。けれど、君ときたら。そんな僕を変えてしまった」
 芝居がかった物言いは片桐先生が人をからかっているときのクセだった。
「よく言う。おれのことなんか忘れてたくせに」
 へらへらしていた片桐先生が、突然真剣な顔をした。
「忘れてほしかったのは君だろう?君は僕のことなんか、これっぽっちも愛しちゃいなかったんだから。僕は、出来る限りのことをしたつもりだよ。けれども、何をしたって君からセルジュの影を追い払うことができなかった。だから――」
 机をたたく、激しい音がこだました。
 もういいから、とおれが叫ぶと、ようやく片桐先生は黙った。
「こんなところで油売ってる暇ないだろ。また嫁に烈火のごとく怒られますよ」
 おれの精一杯の棘に、片桐先生は余裕の笑みを浮かべた。
 彼に怒鳴るなんて行為は無効だと分かってはいたが、本当にまるできいていなくて笑うしかない。
「とっくに離婚したさ。これで僕はバツ2ってわけだね、ハハハ」
 君に頼まれたんじゃない。ほかならぬ君のお姉さんの頼みだから、僕はここにいる。
 帰るつもりはないよ、と片桐先生は言った。もはやおれは――がっくりと肩を落とすことしかできなかった。

 事前にマニュアルをもらっているから安心したまえ、と言って不安をかきたてた片桐先生は、意外にもよく働いた。売上から報酬は支払われるとしても、これは意外だった。
 今は、洗い場をデッキブラシでごしごし擦りながら、柄の部分をマイクがわりに『デンジャー・ゾーン』を熱唱している。おれがケニー・ロギンスのこの曲を知ったのは、最近続編が出た映画で話題になったからで、片桐先生がこの曲を知っているのは当時6歳のときに両親が映画館に連れて行ったから。つまり、片桐先生はおれよりかなり年上である。たぶん40を過ぎているはずだ。童顔なのでそうは見えないけど。
 そろそろ朝晩は肌寒くなってきた。ハシバの渡りはとうに終わり、もうここにいる理由も意味もないだろうに、先生は一か月経ってもここにいる。地の利だけでサイクリストに生かされている「やじ温泉」に。
 その横で、相変わらずの無表情で浴槽を掃除しているのが北だった。口数が少ないのは今に始まったことではないが、片桐先生がここに寝泊まりするようになってから、とくに無口に拍車がかかった気がする。挨拶以外はとくに言葉を発しない日もあるのになぜか手伝いにくるので、最近では賃金代わりに晩飯を食わせてやることが多い。
「今日は何か食いたいものある?予定ではそこの庭にバーベキューセットを出して、適当な野菜と今日安い魚をホイル焼きにする予定なんだけど」
 おれの料理は常に適当だ。それでもそこそこ美味いのは、素材の質によるものである。とれたての野菜と魚、美味い空気。それだけで、適当な料理も美味くなる。
「決まってるならそれでいい。とくに好き嫌いはないから」
 無言で浴槽をこすっている北は、汗をぬぐうように額を手の甲でこすった。
「岳斗ってさあ……暇なの?クビになったのか、チームを」
 朝のまだよごれていない光が、浴場内に差し込む。まぶしくて眼を細めながらそう問いかけると、片眉をしかめて北が顔を上げた。
「一週間後、チームと今の状況と今後について話し合うことになってる」
 洗っていた風呂桶を落としてしまった。湯気が上がる浴場に、間抜けな音が鳴り響く。
「こんなことしてる場合か!?早く、いや一分でも長く、バイクに乗れよ!」
「リハビリはやっているし、ちゃんとトレーニングも続けてる。慌てたって仕方ない。おれをチームに復帰させるかどうか、決めるのはおれじゃないし」
「それはそうだけど。……他人事みたいにいうね」
 北は、例のごとくあの狼みたいな目でちらりとおれを見た。
「汀はなぜ、他人事なのに他人事じゃないみたいに言うんだ」
 おれは言葉につまった。隣でケニー・ロギンスを歌っていた片桐先生も、唐突に歌うのをやめてしまったので、浴場内は突然しんとした。
「もしかすると、北くんもサイクリストなの?」
 ああ、と天井を仰ぐ。一か月の間、無口なこいつのおかげで先生に無駄な詮索をされずに済んだのに。おれの迂闊な軽口のせいで、全部台無しだ。
「チームルアフでアシストをしています」
 北はいつもどおり、淡々とした声で言った。
「驚いた。イギリスの名門チームじゃないか、たしか」
 からかうように、先生がおれを流し見る。ああそうだよ、とやけになって叫びたくなった。イタリアのコンチネンタルチームですら追い出されてしまったおれとは大違いだよ、と。
「名門中の名門だ。UCIワールドチームで、ツール・ド・フランスの出場権もある。おまけに北は、日本人ではじめてツールでステージを獲った」
 ひがみっぽくならないように気をつけて話したつもりだったが、先生はおれを推し量るような目で見た。それから、映画で悪役がよくするような、鷹揚な拍手をした。
「すごいじゃないか。大切な自転車すら置いて逃げ帰った、どこかの誰かさんとは大違いだ」
 


 大方の掃除が終わり、脱衣所で身体を拭いているときにふと思い出した。先生は自転車レースに興味なんてなかった(彼の人生は、興味のないことがほとんどだった)し、おれの出ているレースを見に来たのも一度だけだ。その一度で飽きて二度と来なかったし、自転車にも乗らなかった。
「先生もずいぶん詳しくなったよね。自転車レースのファンにでもなった?」
 言われっぱなしが悔しかったので、嘲るように笑いながら言ってやった。ダメージは少ないだろうことは分かっていたが、何も言わずにいれば認めたのと同義になる――たとえ、それが真実だとしても。
 片桐先生は一瞬だけ目を瞠ったあとで、「それぐらい、本に書いてあるから」とだけ言った。そしてそれ以上の話を避けるように、背を向けて店の奥へ消えた。
「岳斗、飯にしよっか。手伝ってくれてありがとな」
 北は探るような目をおれに向けた。何か疑われている。大体の内容は想像がつく。
「お前の疑念は食いながらきくよ、おおよそ想像はつくけど」
 庭に出る。先にバーベキューセットは用意しておいたが、炭をおこすのは北にも手伝わせた。幸い外は晴れていて、先生が好きななんとかという小鳥のさえずりも聞こえた。木々のしゃらしゃらという梢の合間にきこえる、ひんかららら、ひんからららら、という鳴き声にみみをすませた。なんだったかな、この鳥。
 そうだ、コマドリ、と思い出した瞬間に、ものすごい速度で、それでいて静かな動きで先生が森へ突入していくのが見えた。おれは俯いて笑いつつも手を動かす。相変わらず鳥狂いだ。そういうところは全く変わっていない。
「ああ、うまい」
「飯が美味いって大事なことだよ。精神が健全な証拠」
 焼き上がったキノコと白身魚のホイル焼きに舌鼓を打つ。食い物が美味いのは、田舎の数少ない美点だ。たとえあることないこと年中噂されようが、それとなく行動を監視されていようが、おれが気にしなければ住みやすい場所であることには変わりない。
「おにぎりだけ持ってきた。食うか?」
「へ?」
「今泊まっているところのオーナーシェフが、鯛飯のおにぎりを持たせてくれたから」
 あのオーベルジュのオーナーシェフが作ったおにぎりなんて、相当うまいに決まっている。おれは元気いっぱいに「もちろん!」と返事をした。
「いつもご飯をご馳走になってたら悪いっていって、持たせてくれたんだ」
「母ちゃんみたいだな、20代女子じゃなかったっけか」
 笑いながらそう返したものの、おれには母親の記憶がないので、世間のイメージである。北も同じような環境だったのか、母親ってそういうものなのか?と首をかしげている。
「すっげえ美味い。なんだこれ、香ばしい!」
 きちんと焼き目をつけて香ばしく焼いた鯛を炊いたんだろう、しょうがの効いた鯛飯のおにぎりは絶叫したくなるぐらい美味だった。さすがプロの仕事。おれの手抜き料理とは格が違う。
「この家で一緒に住んでたんだな、あの男と」
 真面目な顔でそう言われて、ふぬけた声が出た。
「なわけないだろ。イタリアで知り合ったって言わなかったっけ?」
 先生は結構な資産家のひとり息子だ。だから好き勝手に鳥の研究者なんかやっている。
「じゃあどうしてこの家の間取りを?どう考えてもおかしかった」
「おれがイタリアに行く数ヶ月前、姉貴がいきだおれてる先生を助けて、ひと月ほどここにすんでたらしいよ。詳しいことは知らないけど」
 だから先生は姉のこともセルジュのことも知っている。おれとの同居を申し出てくれたのも、借りを返したいと申し出た先生に姉が弟を頼む、と言ったかららしい。日本に帰ってから知った。
 先生はおれと同じバイセクシャルなので、正直姉との仲も怪しいものだが、少なくともセルジュと時期はかぶっていないはずだ。
「岳斗さあ、おれ本当は女の子のほうが好きなんだよ。オーベルジュ・ソワレのオーナー結構かわいいよね。実はいい仲だったりしないの」
 話を変えたくて持ち出した話題だったが、北は暗い目をこちらに向けただけで、きれいさっぱり黙殺した。雑談のつもりで持ちかけた話題に後悔したおれは、残りの昼食を勢いよく腹におさめてから、「本当にありがとうな!それじゃ!」と自宅に逃げ帰ろうとした。
「逃げるなよ。別に彼のことは追求しないから」
「追求も何も、何もないんだって。いや、ナニは何回かしゃぶったことあるけど……アハハ」
「そうか。面白くない」
「結構傷つくんだよなあ。面白くないって、関西人なら自害するぐらい傷つく言葉だからね。おれは関西人じゃないからいいけどさ」
 面倒になってきたので、欲求不満ならお前もしゃぶってやろうか、と下品な仕草をしてみせる。岳斗は大げさなため息をついて首を振った。
「セルジュはすばらしい選手だった」
 深くて優しい声だった。不意打ちに、おれの呼吸は止まった。
 長い時間、沈黙がながれた。言うべき言葉も、聞きたい言葉もわからなかった。ただ、まだ好きなままだと自覚した。セルジュ。その名前をきいただけで、まだ胸の奥がぎゅうと苦しくなり、息がつまる。


 ――――だったら走ってみせてくれよ。
 やめろ。
 ――――本当に彼が偽物のエースじゃないなら、セルジュがひいて、彼を勝たせて見せろよ。

 どうしておれは、あんなことを……。

 
「次の休み、松山に出ないか」
 はっとした。すっかり意識が過去に飛んでいた。なんてことだ、他人の前で。
「……ポタリング?」
 少し背の高い北を見上げると、彼はめずらしく眉を下げて、狼の目をやさしく細めた。
「たまにはいいだろ。買い物いったり、カフェにいったり」
「カフェ」
 北の口から出る「カフェ」という言葉が面白くてわらってしまった。するとなぜか、北は恥ずかしそうに目をそらした。
「わかった。いいよ」
 そのときの北の、なんともいえないかわいい顔は、心の無防備な部分をするりと撫でたような心地がした。