世界の終わりに見る夢は

 亡くなった両親は研究機関に勤める学者だったときいている。
 何を研究していたのか定かではないが、両親の死と同時にほとんどすべての資料が警察に押収され、何も残らなかったと兄は言った。
「どうしてなんだ、至。親に……虐待でもされていたのか。おれの知らないところで?」
 至は薄く笑ったままおれのネクタイを引き抜いた。喉の骨を舌先で舐めてから、「塩辛い」と低い声でつぶやく。
「まさか。お前と同様、大切に育てられたさ」
 それなら何故。叫ぼうとする声が、至の唇の中に吸い込まれる。下唇を甘く噛んだあとで、呼吸ごと飲み込むみたいに深く口づけられて頭の中がくらくらした。
「遺伝行動学者。それが両親の肩書きだった。双子を用いる実験やデータの検証をしていたんだ」
「その、実験や研究が、原因なのか」
 両親への不信。いや、憎しみに近い感情を至から感じる。普段感情をあらわにしない至が、唯一顔をしかめ、不快を示す話題。それが両親の話だった。
 気づいていた。だがそれを追求するには、おれと兄の間にはあまりにも距離があった。心理的にも肉体的にも。
「自分で調べるんだろう、啓」
「情報をくれるんじゃなかったのか」
 至が笑みを浮かべていたのはここまでだった。突然真顔になった至は、視線でおれを深く刺してきた。
「お前の部下の澤村、あいつには気をつけた方が良い」
 驚いて力を抜いた瞬間、両手でシャツを掴まれて強引に開かれる。ちぎれたボタンが転がる音がして、おれは呆然と兄を見た。兄は、至は獣のような目を細めておれを見返してきた。空腹の獣が獲物の前で浮かべるような、ぎらぎらとした飢えた眼差し。本能的な恐怖を感じて身体を起こそうとしても、押さえつけられ、腰の上に乗り上げられて全く身動きできない。いくら身体を鍛えていても、体格で歯が立たないのだ。
「あいつの経歴には不自然なところがある。警察学校の教官を勤めた男に知り合いがいるが、澤村は特に体幹、体術が異常だといっていた」
 口を開こうとすると手のひらで押さえ込まれ、息をするのがやっとだった。痛くされたくないなら静かにしろ、と耳元で恫喝され、膝で反撃するもまるでダメージを与えられない。
「異常……?」
「見たことのない格闘術を使うと。座学の成績はギリギリだったのに、射撃、逮捕術、体力測定などの実技は、」
 言葉を切った兄を睨みつける。息苦しさで目の前がにじんだ。
「学校始まって以来の才能の持ち主だったそうだ」
 澤村の書く不器用な文字を思い出す。目が笑っていない、感情が感じられないと仲間内で敬遠されることもあるが、おれはそうは思わなかった。めったに表出させないだけで、澤村にも喜怒哀楽はあった。他人に期待しない、シンプルな優しさも。
「弟にこんなことをする兄貴のほうが、よほど異常だろ。……う、」
 無表情な兄の目をみるたびに、あの頃を思い出してしまう。河川敷で、迷子になってしまった日のこと。赤い空が次第に暗くなっていく不安の中で、差し伸べられた傷だらけになった手。逆光で、表情は分からなかった。手を引き、歩けなくなったおれを背負っていた至は、どんな顔をしていたんだろう。
 愛されていると思っていた。弟として、何よりも大切にされていると。
「お前がはじめておれの指を握った日から、他に何もいらなかったんだ」
 啓、お前以外のすべてが余分だ、と至は言って、おれに覆い被さってきた。


 ***

 

 啓はブラコンこじらせてるね、と何度か月子さんに言われたことがある。はじめに言われたのは中学のころ。兄がいなくなって、その悲しみを彼女と慰めあっているとき、蔑むような口調で耳元に吹き込まれた。初めてセックスした日に、なんとも言えない自己嫌悪の中で。
「月子さんだってそうだろ。別におれが好きなわけじゃないくせに」
 拗ねたような口調だったと思う。月子さんは哀れみと愛しさを足したような視線でおれをみつめ、頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「置いてかれたのが悲しくて拗ねてんのはあんたでしょ」
 彼女はおれよりも少し年上で、至よりは年下だった。制服のシャツだけを着てタバコに火をつけた彼女は、部屋の窓をあけて思い切り煙を吐き出した。


「ねえ啓。至とシたら、どんなだったか教えてね。約束だよ」


****



 指はとことん丁寧におれを嬲った。口に噛まされたシャツのせいで、声を出すこともままならないおれを、至は手加減なしに好き放題した。うつぶせにされ、頭皮を撫で回され、うなじに歯を立てられる。熱い息が耳に当たって、背中が揺れた。
 ひどく汗をかいていた。それなのに嫌悪感がないことが衝撃だった。
 視界には古びた畳と、そこに爪をたてる自分の指が見える。畳に点々と落ちる汗のしみが、自分のものなのか、覆い被さっている兄のものなのか分からない。
「知っていたんだろ、啓」
 うつぶせのまま足を開かされ、荒い息を吐きながら至がはいってきた。
「おれたちは血がつながっていない、赤の他人だってことも、」
 丁寧にひらかれたはずのそこは、それでも、侵入を拒んでかたく閉じていた。少しずつさしこまれるたびに、およそ感じたことのない痛みと悲しみが頭を殴った。痛い、苦しい、悲しい。
――それなのに、嫌いになれない。
「おれがずっとお前を求めていたことも」
 そうだとして、何が出来ただろう?想いに応えろとでもいうのだろうか。狭く閉じた輪のような兄との関係の中で、それでもいいと、目を閉じ耳を塞いで生きていけばよかったのか。
「い、っ……てえ…、もう、やめろよ、やめてくれ!」
 声が切れ切れになる。哀願する声にも、兄は少し笑ってつむじにキスを落としてくるだけだった。
「あの日からずっとしてないのか?……いいな。最高だ。お前はおれしか知らない、そのままでいろ」
 はじめてこの行為をされたのは、出て行った兄が帰ってきたとき、高校の頃だった。それを我慢すれば、また兄は戻ってくるのだと思っていたのに、そのまま捨てられた。子どものころと同じように。
「なんなんだよ」
 苦しい。至のことが分からなかった。『求める』って一体何なんだろう。恋愛感情ということなのか。なぜ自分がその対象になるのかわからない。
「お前の肉体的な苦しみが、おれの心の苦しみと同程度ならいいのに」
 低い声がそうささやいて、貫かれる痛みよりもつらくなった。
 シャツで後ろ手に縛られた腕を引きながら、次第に奥深く、執拗に中を犯される。満足げなため息と、肌のぶつかる音が遠く聞こえる。生々しかった。これまでにしてきたどんなセックスよりも。
「啓、おれを愛さないなら、そのままでいい」
 良くないんだろう、と喉元まで声が出そうになる。それじゃだめだったから、おれを捨てたんだろう?
「そのまま一生、誰のことも愛さないままでいてほしい」
 深い息と一緒に、至が達した気配がした。気を失うことができたらいいのに、と思ったけれど、頑丈な身体はそれを許さなかった。


 目が覚めると朝だった。
 部屋の中には不当なほどにまぶしい光が差し込んでいて、見覚えのないTシャツと下着を着ていた。
「あー、痛え」
 尻と腰の痛みだけが真実だった。寝て起きたらすべて夢だった、という都合のいい展開は待っていなかったにも関わらず、おれはどこかすっきりしていた。
 仰向けに寝転がったまま携帯端末をたぐり寄せると、澤村から電話がかかってきた。休日に連絡をしてくるのは稀なことで、まるで狙ったようなタイミングだと少し笑ってしまった。
『榮倉先輩、大丈夫です?』
 ぎくりとした。何も分かるはずがないのに、タイミングが悪い。
『おれんち先輩んちのすぐ前じゃないすか。昨日の夜遅くに女の家から帰ってきたんすけど。でかい男が先輩の家から飛び出してくるのとぶつかったんで』
 レイパーだったらこええなって思って、まあないっすよね。一緒に飯でもいきません?と笑い混じりに澤村がいうので、おれは身体の力が抜けた。
「近いものがあるな」
『えっ!?ヤラレちゃったんです?』
 説明するから家に来い、と命令すると、澤村は可笑しそうに『了解っす』と返事をして電話を切った。おれは何をやっているんだろう、と思わないでもなかったが、澤村には不思議と、どんな話も「そうなんすか」で聞き流しそうなところがある。
 5分もしないうちに澤村がやってきて、ドアフォンも鳴らさず中に入ってきた。入ってすぐに片眉をしかめ、「うわ、マジじゃないすか。マジでついさっきまでヤッてた匂いする」と言ってから何がおかしいのかゲラゲラと笑った。その様子をみて、おれは完全に開き直った。
「警察呼びます?っておれら警察だった」
 ひとしきり事情を説明し終えてはじめに放たれた言葉がこれだった。確かに澤村の精神構造は他の人間と大分異なっているが、おれにとってはそれが楽だった。何を話しても(たとえば今回のように、兄弟の、それも男同士の痴情がもつれた話など)のれんに腕押しというか、まるで深刻に受け止められる様子がないのだ。その割に、話を聞いていないとか、茶化しているわけでもない。たいしたことじゃない、という捉え方が一番近い。
 澤村が買ってきた安っぽいコンビニのサンドイッチを口に入れる。酸味が強いからコンビニのパンは苦手だったが、持ってきてくれたものに文句は言えない。コーヒーぐらいいれましょうかね、と勝手にペーパードリップしたコーヒーをいれてくれた澤村が、「まとめていいすか」と問いかけてからおれの隣に座る。おれはまだ、ふとんから起き上がることができないでいた。
「ええと、榮倉先輩の両親は子どもの頃ふたりとも殺された、先輩はその犯人を見た。犯人は同い年ぐらいの子どもだった、とここまでは合ってます?」
 苦いコーヒーでサンドイッチを喉奥に押し込んでから頷く。澤村は「ふうん」とだけ言って続けた。
「その事件には『にじのこ』『いのちのこ』が絡んでて、それを調べるために警察官になった、と」
「そのとおり」
 ははあ。間抜けな相づちに思わず足が出た。寝たままのおれに蹴られた澤村は、まったくこたえた様子なく言う。
「で、サイドストーリーとして、榮倉先輩の自慢のお兄ちゃんは、実は先輩のことが超好きで、超好きだったからこりゃダメだと思って自分から一度離れたけど諦められなくて、戻ってきて流れでやっちゃった……うわー、すげえダメな人じゃん」
 驚くほど軽い話にまとめられて、自分でも笑いそうになった。我に返ってもう一度澤村を蹴ったが。
「流されたわけじゃないんだ。ただ……」
 気づいていたんだろう、と至は言った。
 そうなのだろうか。愛されているとは思っていた。自分を守るために、育てるために、どれほどの傷を受けたのだろう。時間を、金を、将来を無駄にしたのだろう。考えると胸をかきむしりたくなる。だから考えないようにしていた。
 頭をかきむしりながら言うと、澤村はぽんと手のひらを打った。
「あーつまり、身体でバランス取ったってことでしょ」
「バランス?」
「対価を払ったってことですよ。ずっと一方的に向けられる愛情だの時間だの金銭的支援だの、そういったものに、榮倉先輩はずっと罪悪感感じてたんでしょ。同じ感情を返せないことに苦しんで。相手は勝手に、やりたくてやってんのにね。だから身体を差し出した。自分を犠牲にして事なきを得ようとしたってことです。あはは、クズですね」
 顔が熱くなった。――恥で。
「ま、おれもひとのこと言えませんけど。ねえ榮倉先輩。あんたは人を愛したことないんでしょ……恋愛的な意味で」
 図星だった。何を言えばいいのか分からなくなるほど混乱した。それはひどく罪深いことだと思っていた。誰に愛されても、同じ感情を返せない。誰に求められても、おれにはその気持ちが理解できない。だから身体を差し出す。これしか渡せるものがないから。
 おれの同様を軽く笑って受け流した澤村が言った。
「おれも同じ。だから安心してください。だっておかしいでしょ。誰かを愛したり恋したりすることが、なんでそんなに素晴らしい扱いをされるんです?恋愛感情なんて身勝手な性欲の発露にきれいな名前をつけて、何の意味があるんでしょうか。勝手につがって、勝手に増えて、おれにはそういう人間の営みっつうかね、すべてが阿呆くさく思えるんすよ。くだらないでしょ、実際。本当の苦しみの前で、何の役にも立たないんですよ」
 本当の苦しみ、という言葉を口にした瞬間、澤村は、ひやりとするほど虚ろな目をしていた。
「自分がおかしいのだと……、どうすればいいのか分からなかった。男でも女でも、恋愛感情がわかない」
「性欲はある?」
「ああ。クソだと罵りたければ好きにしろよ」
 澤村は笑った。さっきまでの暗い眼差しは見る影もない。
「だからおれも一緒だって。いつか分かる日がくるのかな~と思って、今もいろんな女と寝てるんだけど、全然ダメっすね。満足するのはちんぽばかりで心は全く動きません!」
 おれも笑ってしまった。こんな状況で。信じられないことに。
「いいっすね、榮倉先輩のそういうとこ」
 澤村がおれの隣で横になって目を閉じる。どこがだよ、としわがれた声で返すと、澤村は、半分寝たような声で言った。
「自分を不幸だと思ってない。自分に同情してないところ、おれは好きですね」
 先輩まあまあ不幸な方なのにねー、と澤村がのんびりと言うので、寝たまま平手で澤村の頭をはたいた。
「いってえ。で、どうするんです?」
「協力してくれないか」
 え、と大きい声を出して澤村が起き上がった。
「男と寝るのはちょっと」
「そっちじゃない、バカが!」
 分かってますよ、と澤村がつぶやく。にじのこの方ですね、と気が進まない様子で首をかしげた。
「おれなりにあたってみて、分かったことがあったら榮倉先輩に流します」
「助かる。ありがとう」
「おれに対価はないんですか」
 横目ににらみつけると、澤村がおどける。
「身体がほしけりゃくれてやろうか?処女じゃなくて申し訳ないけど」
 おれの言葉に、澤村は乾いた笑いを浮かべた。
「いやー、なんか榮倉先輩は沼っぽいからやめときます……。週一ラーメンおごりでどうっすか」
 沼ってなんだよ、と反論するのはやめておいた。ラーメンな。わかった。そう了承すると、澤村は無邪気にわらって「やった」と喜んだ。
「さっきの話だけど、ひとつだけいいか」
「どの部分すか」
「本当の苦しみの前で、愛だの恋だの何の役にも立たない、ってやつ」
 ああ、と澤村がこちらを向く。狼のような目が、おれを探るようにじっとみつめてくる。
「あれは逆だ。すごく苦しいとき、たった一度でも愛された思い出があれば、なんとか耐えられたりする」
 らしくねえ発言、と澤村が小馬鹿にしたけれど、本音だ。
 同じ形じゃなくても、おれは確かに至を、兄のことを愛していた。だから生きてこられた。
「おれにもいつか分かるかな」
 自分に問いかけるように澤村がいった。おれは誰にも愛されたことないからなあ、と。
 それは自分が気づいていなかっただけだろう、とは言えなかった。
 澤村の目にいつもある渇望が、まるで真昼の砂漠のような熱さと切実さをもって、その言葉が真実だと示していた。