6 ふたつの邂逅

 日本人で唯一踊ることを許されたという、村田波留の「ボレロ」を観終わったとき、総立ちになった会場の中でひとり、座ったままぼんやりしてしまった。隣の人が促してきて初めて、自分が魂ごと持っていかれたことに気付き、猛然と拍手した。
 美しい衣装もきらびやかなセットも何ない、ただ躍動する肉体があるだけなのに、どうしてあんなにも美しく、鮮烈で、圧倒的なんだろう。才能なんて言葉じゃ括れないダンサーとしての「村田波留」の凄さを目の当たりにして、全く観たことがなかったコンテンポラリーというジャンルの垣根はあっとういう間に吹き飛んだ。

「普段着でいいよ」と言われたものの、ドレスコードを気にしないほど子どもでもないので、数年ぶりにジャケットを着た。
 最前列という最高の席を用意してもらったこともあって、楽屋見舞いにはいくつもりだった。特別なパスを前もって渡されていたし、ただ純粋に、彼の踊りを称えたいと思った。
 手土産は高級なチョコレートにした。おれは甘いものを食べないが、村田は好きで、「信頼できる人からの手土産なら、チョコが一番嬉しい」と言っていたのを覚えていた。
 楽屋の前に立ち、ノックをすると、すぐに「どうぞ」と声がきこえた。
  白い部屋の中にはたくさんの花があって、おそらくこれら全てが楽屋見舞いなんだろう。椅子に座っていた彼と目が合うとにっこり微笑まれて、思わずおれも笑ってしまった。
「素晴らしかったよ。今まで馴れ馴れしく村田なんて呼んでたけど……本当にすごいダンサーだったんだな。次からは村田さんって呼ぶよ」
「やだな、波留でいいよ」
 彼は立ち上がっておれの肩を抱き、椅子に座らせようとした。首を振って、手土産を押し付ける。
「じゃあ波留。このあいだの返事だけど」
 早く伝えてしまいたくて、早口になったおれの唇に、波留の人差し指があてられた。
「まだ返事はしないで。やっと一歩進んだところなんだから。それに……」
 彼はチラッとドアの方を見た。するとその後すぐに、ノックの音が鳴った。
「どうぞ、入って」
 波留の後に聞こえた声に、絶句した。
「失礼します」
 違う、まさか、でも。
 混乱してドアに背を向けた。さっきの男の声とは違う、はしゃいだ女の声が「村田さん!素晴らしかったです!」といった。
 20代後半ぐらいの女が、波留の元へ駆け寄って山ほど賛辞を送っている間、おれは後ろから、痛いほどの視線を感じていた。ドアのところで立ち止まったまま、一言も発さない男の緊張と驚きが伝わってくる。
「一保さん?」
 のどがカラカラに乾いている。このままこの場から消えられたら、瞬間移動ができたら、と強く思ったけれど、できないから、振り返るしかなかった。
「ああ。久しぶり」
 声は変じゃなかっただろうか。感情をうまく殺せたか、顔はどうだ、いまおれは、どんな顔をしているんだ?
「あれ、ふたりは知り合いなの。星野くん、先生も来てる?」
 波留は無邪気に笑った。
「母は多分来てると思いますが、会っていないのでわからないです……すみません」
 成一は左手で口元を覆い、おれを凝視しながら言った。おれはその言葉の内容よりも、薬指に視線が吸い寄せられ、呼吸が止まった。――いや、一度死んだ、といってもいい。
「星野くんのお母さんはバレエスタジオをやっていてね。僕のはじめの師匠が彼女なんだ」
 彼は左手の薬指に指輪をしていた。
 おれに送ってくれたものではない。もっと細い、シンプルなマリッジリングだった。
「じゃあ、おれはこれで」
 手渡した紙袋をちらりとみて、そっと呼吸を整えた。
 チョコレートの入っている袋に、先日プレゼンされたサファイアのピアスもいれてある。おれはもう、誰からも何ももらいたくないのだ。気持ちはもちろん、プレゼントもいらない。
「一保」
 ドアを開ける直前、波留が笑いながら言った。
「もう覚えたよ。またお店にあいにいくね」
 返事の代わりに軽く肩をすくめて、部屋から出る。ドアを閉める直前まで背中に成一の視線を感じて、振り払うように早足で駅に向かった。心を冷凍して冷凍庫の奥深くに封印する方法ならあの日習得したから、おれは融けなかったし、泣かなかった。

 一睡もできないまま身体を起こす。窓から眼底を刺した光に舌打ちした。
 いつもどおり店を開ける気にはどうしてもなれなくて、臨時休業にして家から出た。普段は買い物に行くか近所を走るぐらいなのに外出したくなったのは、村田波留のおかげかもしれない。波留の踊るボレロはたしかに何かを変えてしまった。ただうずくまって時間が過ぎるのを待つ、ということが、もはやできない。体を動かしたくてたまらなくなった。
 近所のジムは、主婦やサラリーマンでいっぱいだった。そういえば今日は土曜日だ。土日が休みの仕事じゃないので、どうしても曜日感覚がずれてしまう。
入会し、ランニングマシンでがむしゃらに走ったあと、久しぶりに泳いだ。プールの塩素臭は、あの頃の思い出を否応なしに呼び覚ましてくる。千葉との過去はすでに遠い過去のことのようにぼんやりしているが、その分、一緒に泳いだ記憶、救助した記憶だけが純化して残っていた。何も言わなくても息が合う、あの感覚。恋愛を抜きにすれば、千葉は素晴らしい相棒で、友人だった。
千葉は怒っているだろうか。連絡先も告げずに突然仕事をやめて消えたおれのことを。それとも、とっくに忘れてあいつのように――結婚でもして、幸福に暮らしているだろうか。
「その方がいいな」 
 プールから出て、ジムの外にある喫煙所で煙を吐き出す。
また禁煙に失敗してしまった。
「そうやって何かに縋ってるってことは、村山、お前は孤独に勝ててないんだよ」
 あの言葉を思いだして苦笑した。まったく、おっしゃるとおり。
 先代が生きていたころ、酒に依存しないかわりに増えたタバコの量をたびたび注意されていた。彼はカフェの2階ではなく別の場所に家を持っていて、おれは今とおなじように、2階のあの場所を借りて暮らしていた。たびたび部屋の中を煙で真っ白にするほどのヘビースモーカーと化したおれに、彼は何度もそういった。みっともねえなあ、ひとりで生きるんだろ、自分の足だけで立って見せろ、と。
「クソジジイ。そのうち追いかけてって、顔に煙を吐いてやるからな」
 けっこうな嫌煙家だった先代には、どれだけ感謝してもし足りないぐらいなのに、おれの口からは悪態ばかりがついて出てくる。
 残りの人生を消費し終わったら、必ずあの男に再会して、そうしてやろうと決めていた。あの世なんてものが本当にあるのかどうか、知らないけど。
「あれ、店長」
 聞き覚えのある声に振り返ると、今まさにタバコに火を点けようとしている樹が手をあげてへらりと笑った。おれは急いでライターを取り上げ、大声を上げた。
「何やってんだお前、未成年だろ!!」
「ええー、硬いこと言わないでよ。いま地獄のジムメニュー、やっと終わったとこなんだから」
 陸上の特待生として今の高校に入学した樹は、部活動のみではなく、ジムで専属トレーナーをつけたトレーニングをしている。おれは樹のことをよく知らないが、噂で聞く限り、相当期待されている陸上選手らしい。
「肺活量に影響が出るんだぞ?スポーツやってんだろ、タバコなんか吸うんじゃねえ」
「詳しいね。自分もプロだったからわかるんだ?」
 樹は首をかしげて目を細め、ポケットからマッチを取り出して火を点け、吸い始めた。今度はタバコ自体をぶんどって地面にたたきつけ、足で踏みつけた。樹はうわっと叫んで嬉しそうな顔で怒った。
「もう、乱暴だなあ」
「おれが何のプロだったんだよ」
「海保にいたんでしょ?特殊部隊みたいなとこに」
 眉を寄せる。こいつに過去を話した覚えはない。
「話題になってるよ。だって店長、目立つからさ。あの店に入り浸ってる奥様連中のネットワークを舐めちゃいけないよ」
 いろいろな言葉を飲み込んでタバコの火を消した。吸い殻は燻ってから「ぷしゅり」と情けない音を立てて静かになった。
「店長があの店で働き出したとき、かなり噂になってたんだ。なにせ目立つし。この街にはこれといって産業もないし、あんたは名前も言いたがらないし。前の店長の親戚とか、隠し子とか、……愛人とか言われてたよ」
 樹は挑発的な眼でおれを見てから、ポケットに手を突っ込んだままこちらへ向き直った。
「前の店長とヤった?」
 右手のひらを握りしめたものの、息を吐き出してなんとかおさえた。捕まるわけにはいかない。
「次、くだらない質問してみろ。外を歩けない顔にしてやる」
 その場を立ち去ろうと背を向けると、腕を掴まれて後ろから抱きしめられた。
「ごめん。――彼女とは別れた。おれと付き合って」
 今時の高校生は進んでるな、と他人事のように考えながら、その腕を振り払った。
「今すぐ元彼女のところへ行って、やっぱり君しかいないって泣きついたら間に合うんじゃないか?」
「おれが好きなのはあんたなんだよ。気づいたからこうしてんだ。そうやって茶化してごまかすのはやめろよ」
 目を伏せて考えた。たしかにおれの分が悪い。
「ごめん。お前とは付き合えない、ありがとう」
 真剣に答えたつもりだったが、樹は取り合わなかった。
「なんで。未成年だから?それとも若くてかっこいいから将来が心配?収入もまだないし」
 そのあまりにポジティブな返答にうっかり笑ってしまったのがいけなかった。樹は勢いを得て一歩おれに近づき、拳で自分の胸を叩いた。
「安心してよ。将来性は抜群だ。そりゃあ今は力も金もないけど、将来性と若さは折り紙つきだし。信じて賭けてみなよ、うさんくさいバレエダンサーよりよっぽど現実的だし、信じていいから」
 波留といい樹といい、なぜおれが好きだと思い込めるんだろう。お互いのことを何もしらないのに。恋は思い込み、は名言だと思うが、本当に思い込みだけでここまで他人に近づくことができるのが純粋にすごいし、尊敬する。
「おれのことを何も知らないのに、どうして好きだと思えるのか意味がわかんねえな」
 ため息交じりに言うと、樹が呆れたように首を振った。
「店長はねえ、顔がかっこよくて、メシつくるの美味くて、笑うとかわいいよ。十分知ってるじゃん、ピース」
 謎のピースサインを手のひらで叩き落す。懲りずに笑いかけてくる、まだ何も後ろ暗いことがない若い男。おれのことを何もしらない、無邪気な高校生。残念ながら未成年は恋愛の範疇に入らないが、あと5年もすればいい男になりそうで、残念だ。
「そんなの何も知らないのと同じだろ。おれがどこからきて、何をしてて、どうしてここにいるのか、知らないくせに」
「過去なんかどうでもいい。いまがすべて。今から未来が大切なんだよ、案外頭かてえなあ」
 喫煙所から出て勝手に家に向かって歩き出す。樹は後ろからついてきた。帰る方向が同じなので仕方がないのだが、面倒くさい。早足で歩き、次第に速度を上げて、走り出した。ジムの敷地を抜けて、細い路地を抜け、住宅街の中を走りつづける。道路は次第に坂道になり、小高い丘のてっぺんまで駆け上る途中、不摂生かそれともタバコの吸いすぎか、息が上がってきた。
「店長、なまってんじゃねえのー」
 後ろからかろやかにおれを抜き去った樹が、そのまま丘の上まで一気に登ってあっという間に姿が見えなくなった。マジかよ、とつぶやいてすぐに、遠くなって久しい闘争心に火が点いた。悲鳴を上げる身体に鞭打って、樹の後ろを追い上げる。
 走りながら、はじめて街の中をきちんと見た気がする。桜並木道を駆け下りていく樹の小さくなった後ろ姿を追いかけながら、春は美しい場所なんだろうな、と想像した。
「なめんなよ、ガキ。おれは、特殊救難隊卒、タイムリーパー、イケメンバイリンガルの村山一保様だ!!」
 そう、何度も時間をさかのぼった。千葉を助けたくて、成一に会いたくて、自然の摂理に逆らった。だからおれは天国になんていけないかもしれない。先代にも会えないかもしれない。
 残っている体力を全部振り絞って、猛然と樹を追いかけた。油断していた樹はのほほんと走っているところをおれに追い抜かれ、慌てて後ろから「待ってよ!」と声をかけてくる。
 後悔はしていない。
その時に一番ベストだと思うことを、精一杯やってきたつもりだ。そりゃあもっと頭が良ければ、こんなことになっちゃいないのかもしれないが、これがおれなのだ。信じていた恋人に裏切られ、2年たっても引きずって、その男が結婚していると知って夜も眠れない。情けないの極み。でもこれがおれ。30年以上付き合ってきた自分なのだから仕方がない。
「ねえ、店長!」
「カズホだ、ムラヤマカズホ、カズホさんって呼べ!」
 名前を隠すなんて馬鹿げている。どこからかあいつに伝わって探しに来られるかもしれない、などと、とんでもない自意識過剰だった。自分のアホさ加減に笑えてくるが、走っているからうまく笑い声は出なかった。
「カズホさん?……変な名前!」
「うるせえ、お前なんか木じゃねえか。燃やすぞ」
 ふたりで笑いながら走った。街の端っこまで走って、クタクタになって歩いて帰った。バカみたいだし年齢にそぐわしくなくてびっくりする。でも相手が男子高校生だから、まあたまには青春のおすそ分けってことで、許されるだろう。
「朝はしってるんでしょ、おれも一緒に走っていい?」
「やだよ。ランニングのペース、他人に合わせんの嫌いなんだ」
「ケチ」
 あいつとだって一緒に走ることはめったになかった。たまに一緒に走って、そのまま風呂に入って、セックスして眠る。ただそれだけのことなのに、嬉しくて仕方がないみたいに笑っていた。自分も同じ顔をしていただろう。あの頃は、何をしていても楽しかった。一緒にいるだけで、なんでもできると思っていた。
「じゃあな」
 まだ何か言いたげな樹を店の手前で追い返した。迫りくる思い出のフタが外れそうになっているのは、成一に会ったせいだろうか。変わっていなかった。髪が少し伸びて、服装が落ち着いていただけで――ダメだ、考えるな。これまでずっと泣かずにやってきたのに、今泣いたら全部台無しだ。
 唇を噛み、俯いて歩いた。出てくるな。思い出も涙も、地球からはるか遠くの木星あたりまで飛んでいけ。
「村山」
 顔を上げる。店の前に立っていたのは、心配そうな顔をした、かつての上司だった。
「……合田隊長、どうして」
「もう隊長じゃないぞ」
 やさしく笑って頭を撫でられたとき、おれはもう、自分で立っていられなかった。
「ごめんなさい」
 おれが抱き着いたのと、合田隊長が抱きしめてくれたのと、どちらが先だったのか分からない。でも店の中に引きずり込んだのはおれだった。後ろ手に鍵をかけ、壁伝いに奥へ奥へと転がり込む。
 こらえきれなくなった涙がどんどん、顎を伝って落ちていった。
「おれ、つらくて、」
 襟首をつかまれ、乱暴に引き寄せられた。
 唇が重なる。
「何も言わなくていい」
 唇の隙間を埋めた彼の舌は、見た目よりもずっと熱くて、雄弁だった。